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Channel: 夜噺骨董談義
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源内焼 その101 三彩獅子香炉文角皿 

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本日は源内焼で同型の図柄の多い「獅子香炉文」の作品についての考察です。

源内焼 その101 三彩獅子香炉文角皿 
合箱入
作品サイズ:幅190*奥行190*高さ30



同型の作品は下記にもあるように所蔵作品の「その4」(角皿)、「その38」、「その87」(角鉢)がありますが、いずれも獅子は鉢では右向きです。



「その57」は硯屏であるが本作品と同じく左向きとなっています。



右向きだろう左向きであろうとあまり作品の評価には違いはなく、蒐集する側にとっては色合いのほうが好みがありますね。



屏風の作品は裏には山水画があり、こちらはまたその面白みが味わいとなっています。



五島美術館発刊の「平賀源内のまなざし 源内焼」には作品「NO45」、「NO83」、「NO106」、「NO107」が同型の作品が掲載されています。掲載されている作品も鉢は獅子は右向き、皿と硯屏は左向きの図柄になっています。



香気が立ち上る香炉を覗く獅子の構図を額縁の意匠となっており、額縁の籠目がキリッと全体を引き締めています。



源内焼を代表する図柄といえます。香炉から立ち上がる香気を覗き込む獅子の図柄の謂れの詳細は現在不明です。



源内焼は多色を使った作品の評価が高いのですが、一部には多色を使うことによって、型の甘さを補っている作品もありますので、一概に多色を使った作品が優品とは限りません。



本作品はそういう点はなく、またこれほど無傷な作品はあまりないので貴重な作品と思われます。鉢に比べると皿はサイズが一回り小さくなります。



揃い物として使用品として売られたのか、飾りとして売られてたのかは不明ですが、釉薬の色のバリエーションが豊富なことからやはり飾り皿として売られたのではないかと推察されます。

「平賀源内先生遺作館企画展 さぬきの源内焼」 作品NO67・68



「平賀源内先生遺作館企画展 さぬきの源内焼」 作品NO18



これらの数少ない資料の作品から読み取れるのは

「三彩獅子香炉を図柄とした源内焼は鉢は    獅子が右向き
                皿と硯は  獅子が左向き
鉢には「(志度)舜民」、「民」などの印銘があることが多いが、皿や硯屏には印銘はない」

ということであり、

以上から鉢と皿や硯屏の作品では作者か窯元が違うか、製作年代が違うのではないかと推察されます。

*なお本日紹介した作品と同型の作品に「手持付」の作品がありますが、当方では未だ蒐集されていません。

琵琶童女 杉本健吉筆 その6

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本日紹介します杉本健吉については、先日「カサブランカ」という作品を紹介しています。

琵琶童女 杉本健吉筆 その6
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1280*横440 画サイズ:縦390*横300

 

いつごろ描かれた作品かは不明ですがが、晩年に「大須観音の鐘楼堂の華精の鐘(女人梵鐘)のデザイン(四面の池の間に、四季の花、梅、牡丹、蓮、菊、その中心に、華の精の姿を描く)」という作品が紹介されており、その作品と同時期ではないかと推察されます。



市場の出回る「杉本健吉」の作品はほとんどがリトグラフ、もしくは木版画に手彩色の作品ですが、本作品は珍しい肉筆画です。当方では20年かけて出来の良い肉筆画を入手できたのは小点の3点のみです。



木版画に手彩色の作品は肉筆と見分けが難しくなっています。





最終的には共箱になっていることが望ましいと思います。

  

当方の他の所蔵作品に下記の作品がありますが、一応は木版画に手彩色と考えています。

観音様 杉本健吉筆
紙本水墨淡彩 軸先練
全体サイズ:縦1400*横394 画サイズ:縦304*横244



このような上記と同様の愛らしく天女や観音様を描いた作品は、版画に手彩色でたくさん出回っており、肉筆の作品は非常に少ないのでその点は注意が必要です。

最近も色紙の作品を肉筆と思い入手寸前まで至りましたが、当方の指摘で売られるほうで版画に手彩色と認め撤回された方がおりました。

杉本健吉の詳細な来歴については他の作品の投稿を参考にして下さい。

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杉本健吉:1923年に旧制愛知県立工業高校を卒業後、加藤静児のアドバイスにより図案家、今でいうグラフィックデザイナーとして鉄道会社を中心としたポスターや商業デザインの仕事を手がける。

1925年に京都に出向き岸田劉生の門下に入る。その後、吉川英治作の『新・平家物語』・『私本太平記』等の挿絵を担当し絶賛を得る。

1949年(昭和24年)奈良 東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、奈良の風物を描く。奈良では志賀直哉、入江泰吉らと交流する。

1987年名古屋鉄道により、愛知県知多郡美浜町美浜緑苑に杉本美術館が開館し、売らずにいた絵画が収蔵された。

晩年まで毎週、同美術館に足を運び、美術館内に設けられたアトリエで、デッサンや来館者との歓談を楽しんでいたが、2004年肺炎のため死去(98歳)。

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84歳のときに利き手である右手を骨折し、左手による作品づくりを余儀なくされた時がありました。画伯はその状況すらも楽しみ、 "杉本左吉""左甚娯郎"などと名乗ったそうです。絵はもちろんのこと、そこに書き添えられたひとことがどれも味わい深く、『左手誕生』という作品では、お釈迦様が左手挙げてます。ほかの作品も、落款が「左吉」になっていたり、蛇年生まれなので、ときに作品サインをL吉にして(LEFTのL)そのLを蛇っぽく描いてみたりと、遊び心をいつも忘れていかったそうです。



上記のほかに岸田劉生の門下であったこと(油絵の制作)、吉川英治との交流(挿絵の制作)、奈良での制作などを覚えておくと彼の作品がより理解できると思います。



藤井達吉や杉本健吉は現代のデザイナーの先駆けとなった工芸家です。単なるデザイン力だけではなく、陶芸、画家としての実力は抜きん出たものがあります。

陶芸もしたこともなく、日本画や油絵の修行もない現代のデザイナーと称する人はこの二人を見習うべきかと思います。何よりも信念と祈り、そして遊び心が充満している二人です。

良寛 伝安田靭彦筆 その1

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先日は帰宅すると縁側でお月見の段取りをしていました。幼稚園ですでにお月見会を経験した息子はお餅が菓子鉢に乗せられているが気に入らず、「高いの!」と言って「三方」を義母に出させてきたようです。それでも「もっと高いの!」と言っていたとか・・。雲に見え隠れする月を皆で鑑賞・・。



さて男の隠れ家からいくつかの掛け軸の作品を持ち出して、要るものと要らないものを仕分けしていますが、なにやらどちらにしていいか迷うものが数点出てきてきましたが、本日紹介する作品もその一つです。

良寛之図 伝安田靭彦筆 その1
絹本水墨軸装 共箱 軸先本象牙 
全体サイズ:縦1455*横335 画サイズ:縦580*横337



安田靭彦は「良寛の遺墨集」の監修を行うなど良寛研究の一人です。むろん、骨董愛好家でも知られていますね。



安田靭彦と良寛との出会いは大正元年(1912年)のことで、揮毛依頼者が持ち込んだ1巻の書を偶然見にしたことに始まるそうです。



これを契機に古筆に興味をそそられ、作歌を試み東洋画の線への開眼に向けて多くの示唆を得たそうです。

  

また良寛の生き方にも共感し、やや理知的で端正な良寛像を好んで描いています。



本作品は小生がまだ若い頃に入手した作品ですので、むろん「伝」の作品です。



下のほうになにやら文字らしきものが書かれていますが、当方では判読不能です。



表具も面白く、真贋抜きにして愉しめる作品です。

お月見か? 展示室の作品をお月見に似合うものに替えるのをすっかり失念していました。

花枝 川端龍子筆 その4

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三連休の体育の日は息子の運動会。



なにやら行儀のいい子で・・。



さて本日は川端龍子の作品の紹介です。「その4」となりましたので、詳細の説明は割愛させていただきます。

花枝 川端龍子筆 その4
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦2180*横720  画サイズ:縦1390*横510



 

題名は「花枝」? 辞書ではこれは「シキミ」の別称らしいのですのが、本作品は「梅」でしょうか。

  

本作品は真作と当方では判断しております。ちなみに真贋の判断時点で「落款など字が下手」という方がよくいますが、それは若いときなどのことも加味して判断したほうがよいと思う時があります。









週末には日中に写真撮影をして、夜にブログ掲載用に加工して、一週間分の文章を修正するのですが、そろそろ整理段階も終末となり、連日の投稿は難しくなってきました。週末は子どもの相手で時間がない?

運動会で意外に子供がかけっこが遅いことが発覚、もっと遊んでやらねば!

源内焼 その102 三彩牛乗祖師図脚付六角鉢

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作品を整理していくと箱のない作品が出てきます。そのまま柔らかいもので包んで収納しておくと一番費用がかからないのですが、毀れないように、どこの作品かがわかるようにするにはやはり収納箱に保存するのがいいだろうということになります。

今回は平野庫太郎氏の一輪挿二点の収納箱を用意して保存することにしました。本作品は平野庫太郎氏から頂戴した作品なので、平野庫太郎氏としては満足がいかない箇所があるように思いますが、我々から見ると完品そのもです。

油滴耳付一輪挿



平野庫太郎氏の油滴天目は端正なフォルムと味わい深い釉薬によって良き作品となっています。



高台からもたしかなろくろ技術が窺い知れます。



均窯鶴首一輪挿



釉薬の美しい流れが景色を豊かにしています。



高台の美しさは天下逸品・・・。



秋田市内に窯を構える保戸野窯の平野庫太郎氏の作品に注目してください。

本日は保戸野窯の作品とは違った観点の魅力のある源内焼の作品の紹介です。

源内焼が古伊万里や鍋島焼ほどメジャーにならない理由はいくつかありましが、その理由にひとつに優品の数が少ないというのが挙げられるでしょう。地図皿や軍配鉢などの代表的な優品は市場で見かけることは皆無ですし、しかも個人蔵が多くなっているために美術館で見かけることはめったにありません。

しかも代表的な優品以外は駄作が多いかというと、意外に駄作の数は非常に少なく優品揃いの源内焼です。やはり知名度が低く、再興源内焼など四国の他の讃岐で焼成された下卑た作品と混同されているのが大きなマイナスなのかもしれません。

本日は地図皿や軍配鉢などの代表的な優品に勝るとも劣らない源内焼の紹介です。

源内焼 その102 三彩牛乗祖師図脚付六角鉢
合箱入
作品サイズ:最大幅333*横*高さ50



牛乗祖師図は、政黄牛図ともいい、北宋時代の僧惟政が、黄牛に乗って市中を徘徊したという故事を描いた図柄です。



本作品は牛などに黄釉、衣服と笹に緑釉、菊の花のような植物などに紫釉を施し、縁取りには緑、黄、そしてわずかに紫の三彩を施し、三彩の魅力が十分な濃厚な感覚の仕上がりとなっています。



多少の釉薬の剥離がありますので、漆で補修しておく必要はあるようです。傷のない作品、とくに絵柄に傷のある作品は極端に評価が下がることにも留意が必要です。ただ図柄の珍しい作品で無傷というものはたやすくは入手できるものではありません。



型の彫りがシャープに出ていることが源内焼の生命線でありますが、作品のよっては型を繰り返し使っているからでしょうが、型がシャープでない作品が多々ありますので、蒐集においては線が明確な作品を選ぶことが肝要です。



三彩で色が濃厚なものを施した作品には、線が甘くなった部分を修正する意図で濃厚な釉薬を使うこともあります。



本作品はそのような意図ではなく、意匠として濃厚な釉薬を使用しているようです。



大きさも30センチを超える作品は源内焼には数が少なく、三彩としての源内焼の魅力が充分に堪能できる作品であろうと思っています。



五島美術館発刊の「平賀源内のまなざし 源内焼」には作品「NO78」として同型の作品が掲載されています。掲載されている作品は脚が巻貝文の三脚ですが、本作品は脚が縁取り状になっています。



また「平賀源内先生遺作館企画展 さぬきの源内焼」には作品NO61で掲載され、同じく巻貝文の三脚です。



掲載のような巻貝の脚の作品は源内焼にはよくありますが、縁取りの脚付の作品は源内焼では高級感のある作品に多いもので、数は少ないようです。



本作品の特筆すべき魅力はその彫の精密さがあります。



まずは牛に乗った「僧惟政」の着ている衣服の文様。



牛に乗った人物像を描いた掛け軸の作品が多いのですが、「北宋時代の僧惟政が、黄牛に乗って市中を徘徊したという故事を描いた図」ということを知らない人が多いようですが・・。



ここまで緻密に文様がある源内焼は非常に珍しいものです。僧惟政の顔も鮮明になっています。



陽刻の作品でこれほど鮮明な陶器は類を見ません。



周囲の草花は菊。



もう一つの本作品の魅力は口縁に描かれた龍です。



龍が口縁を一周しています。



龍をデフォルメしたデザインは中国の殷時代の銅器のようでもあり、現代的でもあります。



釉薬の剥離や欠けの部分はそのままにしておくと範囲が拡大するかの可能性が高いので金繕いで補修しておきました。

日本が生んだ「源内焼」を再評価して欲しいものです。

贋作考 群鯉図 伝黒田稲皐筆

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衆議院選挙戦も活況にあるようですが、希望の党だけには投票したくないというのが当方の本音です。中身のない政策・候補者、当選だけを考える寄せ集め集団は前の野党政権の同じく日本を停滞させることになります。自民党に「ちょっとお灸をすえる。」という思いが大火を招きかねません。しかも都知事当選の頃から本ブログで述べているように、批判だけが得意で、根回しのできない方が党のトップであれば政策実行どころではなくなります。

今回の選挙はとくに都民がどう判断するかが焦点ですが、きちんとした考えをもって投票に臨むべきで、劇場と称して何もできない党首の党に投票する愚かな都民とならぬことが肝要です。一票たりとも投票すべき党ではありません。

さて鯉の作品では根強い人気のある画家、土方稲嶺、黒田稲皐の作品ですが、贋作も多くあり、テレビに放映されている「なんでも鑑定団」にも出品されている作品もありましたが、贋作という評価の作品でした。土方稲嶺の作品は本ブログでも紹介しましたが、本日は黒田稲皐の作品の紹介です。

群鯉図 伝黒田稲皐筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1650*横550 画サイズ:縦1205*横505



「因幡画壇」と称されている鳥取を中心に活躍した画家は土方稲嶺→黒田稲皐→小畑稲升と続き、土方稲嶺の門人は大変多く、土方稲嶺は「因幡画壇」の祖と呼ばれている。



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黒田稲皐:(くろだ とうこう、天明7年(1787年) - 弘化3年11月6日(1846年12月23日))。

江戸時代後期の絵師、鳥取藩士。本姓は林。名は文祥。通称は六之丞。字は叔奎か。号ははじめ稲葉、のち稲皐。鳥取藩士・林源三郎の弟として生まれる。

文化4年(1807年)から9年(1812年)の間に鳥取新田藩(東館藩)池田家の家臣・黒田家に養子に入る。藩主池田仲雅の近習となり、しばしば江戸へ赴き公務を勤めた。

幼少の頃から画を好み、藩絵師土方稲嶺に写生画法を学んだ。稲嶺は病の床で稲皐を枕元に呼び寄せ、「我が門流中、相当の技量ある者のみ、画号に稲字を冠せしめよ」とかたったとされ(『鳥取藩史』)、師の信頼が厚かったのを見て取れる。

*落款は「稲皐黒田文祥製」とあり、印章は「文祥」の朱文白丸印が押印されています。
下記の右の写真は参考作品の落款です。印章は一致してないように思われます。



また、弓馬、刀槍、水練などの武芸にも長じ、落款には「弓馬余興」の印をしばしば用いた。更に「因州臣」「因藩臣」と入った作もあり、これらは、自分はあくまで武士であり絵は余興にすぎないという稲皐の矜持を表している。

当主仲雅の没後は役務を退いて画業に専念した。家には鷹を飼い、池には鯉を放って、その飛翔遊泳を観察して写生した。人物、花卉、禽獣いずれも巧みであったが、特に鯉の絵にすぐれ、「鯉の稲皐」と呼ばれた。

弘化3年(1846年)11月6日死去。60歳。墓は鳥取市玄忠寺にある。跡は甥の黒田稲観が継ぎ山水画を得意としたが、稲観は33歳で亡くなった。他の弟子に小畑稲升がおり、稲皐の墓前には稲升が寄進した水盤石が置かれている。

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表具はだいぶ痛んでいますが、改装するかどうか悩むところです。



「池には鯉を放って、その飛翔遊泳を観察して写生した。」という上記の説明のように、池の中を覗き込んで描いたかのような踊るような構図も魅力があります。



ただ本作品を「伝」とせざる得ないのは、印章以外にやはり鱗の描き方がちょっと雑に感じるからです。構図はよし、鱗以外の描き方よし・・・。ま~じっくり後学とさせていただきましょう。



土方稲嶺、黒田稲皐の作品には贋作が多いとのこと、マイナーな画家と現在では思っても、少しでも有名になると贋作が出回るのは今も昔も変わらないようですが・・。



参考:なんでも鑑定に出品されたが贋作の判定の作品への評

*稲皐の描く鯉の鱗はジグソーパズルをはめこんだような描き方をするのが特徴だが、依頼品の鱗は重なり合って描かれている。また鱗の一枚一枚を見ると、根本が黒く先端が白く描かれているが、その対比がはっきりしすぎている。本来の稲皐の鱗はもっと微妙な変化をしている。



なにはともあれ、真贋にこだわりすぎると骨董の愉しみはすべてに嫌気がさすことになりかねませんのである意味で割り切りが大切です。骨董は「愉しめや愉しめや」が基本ですから・・。

政治家の真贋もまた然り、政治にかかわりすぎると人生に嫌気がさします。ただし少なくても希望の党は贋作! 都民は真実をきちんと見極めべきでしょう。今回の選挙の贋作は悪意があり、出来がひどいから・・。

女性像 伊勢正義画 その3

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週末には東京美術倶楽部へ・・。骨董を趣味とする者、このような出展を見ずには語れないが、買うべき値段では非ず、もとい買えるような値段には非ず。



tokorode仕事の愚痴・・・請負金額から瑕疵があるからと下請代金から金額を差し引くことが横行しているようですが、発注側から立場的に弱いものへの論理がまかり通る時代なったのでしょうか? 管理責任と技術者のプライドはどこへ? とにかく憤ることの多い事象が目につきます。

さて伊勢正義という洋画家をご存知の方は少ないと思いますが、一応美術年鑑に記載されている画家です。本ブログでおなじみの福田豊四郎とは同年代に同郷で過ごし活躍した画家です。

女性像 伊勢正義画 その3
油彩額装 右下サイン 
画サイズ F6号:横315*縦410 全体サイズ:縦570*横490



女性を描いた作品は人気があります。秋田美人を描いたかのような作品です。家内曰く「私のような人が秋田にもいるのね。」だと・・・。



伊勢正義は、1907(明治40)年秋田県大館市白沢に生まれました。その後転勤の 多かった父にともない各地を転々とし、少年時代を秋田県小坂町で過ごしています。



当時の小坂町は鉱山の最盛期で、秋田県で北辺の地にありながら中央から直接文化が 流入してきており、大いに刺激を受けたようです。



藤島武二に師事し、光風会展や帝展,第二部会展で受賞。昭和11年猪熊弦一郎,小磯良平らと新制作派協会(現新制作協会)を結成しました。戦後も同協会で活躍。昭和60年11月18日死去しており、享年78歳でした。

伊勢正義の作品は本ブログでも他二点紹介されています。

冬の山 伊勢正義画 その1
油彩額装 左下サイン 
画サイズ:横360*縦690

この「冬の山」は郷里のアトリエを解体する際に発見された作品で、在郷時代に描かれた珍しい作品。サインから1937年作か?(29歳頃?)と推測されますが、同時にサインのない「裸婦図」も発見されており当方で所蔵しています。



他には下記の作品を縁があって所蔵しています。この作品は「冬の山」と同じく本ブログですでに紹介されています。

人形 伊勢正義画 その2
油彩額装 右下サイン 黄袋段ボール箱 
画サイズ 6号:横318*縦410 全体サイズ:縦595*横505



初恋の女性が水戸、付き合った女性が秋田、結婚した女性が秋田・・、再婚した家内は? 小生は佐竹藩になにやら因縁がある? 秋田美人でも眺めて仕事のストレスから気を休める週末でした。

早春花美人 伝上村松園筆

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東京美術倶楽部のアートフェアは息子共々出かけましたが、さすがに息子はほとんど小生に抱かれて寝ていました。意外に若い人が多く、現代アートも数多く出展されていました。これも時代の流れかな?



お茶席でお薄を頂いても「も~帰ろうよ!」だと・・。小生もあまりこれといった興味の湧く作品もなく、2時間あまりで退散・・・。



小生の週末の日課のひとつは仏壇を拝むこと・・。



その脇に美人画の掛け軸をひとつ・・。

早春花美人 伝上村松園筆
絹本着色軸装 軸先塗 共箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横400*縦1210

 

着物に書かれた文字は「君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」 (光孝天皇(15番) 『古今集』春・21)の和歌の「春の野に若菜摘む」の文字でしょう。



「あなたにさしあげるため、春の野原に出かけて若菜を摘んでいる私の着物の袖に、雪がしきりに降りかかってくる。」、「あなたのために、まだ寒さの残る春の野原に出かけて、食べると長生きできるという春の野草を摘みました。摘んでいると、服の袖にしんしんと雪が降りかかってきましたよ。」という意味の和歌です。



古今集の詞書には「仁和(にんな)の帝(みかど)、皇子(みこ)におはしましける時、人に若菜たまひける御歌」と書かれています。光孝天皇がまだ時康親王だった若い頃、男性か女性か誰かは分からないけれど、大切な人の長寿を願って春の野草を贈った時にそれに添えた歌、という意味です。




とても細やかな心遣いを描いた歌で、「春の野」「若菜」「衣手」「雪」と柔らかなイメージを含んだ言葉が並んでおり、とても優美な歌です。野原や若菜の緑と、雪の白の対比も綺麗ですしとても清らかな感じが全体から漂ってきます。汚れを知らない純粋培養されたような心がそこには見えます。光孝天皇は即位後、藤原基経に政治をまかせていたそうで、それもむべなるかな、でしょうか。腹黒さの必要な政治の世界は、この歌の作者向きではなかったようです。



光孝天皇が若菜を摘んだ場所というのは、京都市の右京区嵯峨にあった「芹川」の周辺に広がっていた芹川野だったそうです。そこに御幸を行い、鷹狩りをして和歌を詠んだそうです。



若菜は、春の七草のように食べられたり薬にする野草の総称で新春にそれを食べると長生きする、と信じられてきました。



昭和59年(1984年)上村松園の子息「上村松篁(うえむら しょうこう)」の鑑定書がついていますが、真偽は不明です。



念入りに描かれた力作ではありませんが、丁寧に描かれています。



ところどころに効果的に金彩が施されています。



すらりとして近代美人画の多い上村松園に元禄美人をこのように描いたか? という疑問があります。




作品の落款と印章は下記のとおりです。

 

当方の「清少納言」(真作)の資料と印章の資料との比較は下記のとおりです。



印章だけの資料と比較して並べてみます。

 


箱書については下記のとおりです。真作と比して字が下手ですね。通常は上村松園は題字に「自」入れない?

 

当方の「清少納言」(真作)の資料と印章の資料との比較は下記のとおりです。

  

箱書の印章だけを比較してみます。

 

画風は池田焦園といったほうがぴったりくる風情です。大正期の大家の作品?、印章が酷似していますが、「伝」しておくのが無難でしょう。

参考作品
紅葉かり図
思文閣 墨蹟資料目録 第459号 作品NO17 掲載



「新しいものが流行で、だんだん旧いものが廃れていきます。これは絵のことばかりではありません。何も彼も旧いものは廃れていく時代なのでから、なおさら心して古いものを保存したい気にもなります。これは何も時代に反抗するという心という烈しいものではなくて、自分を守るという気持ちからです。」という上村松園の言葉は解説に書かれています。



当方の骨董に関する姿勢と同じようなことを述べておられますが・・。



表具もそれなりに立派・・・。



こういう作品はいい勉強になり、めげるものではなく次の励みとなりますが、アートフェアに出店されているお店で、きちんとした作品を購入しているとこういうこともないのでしょうが・・。

斑猫 中村岳陵筆 その4

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家に昭和20年代頃からあった津軽塗の着物盆ですが、このたび修理が仕上がってきました。

津軽塗 伝来着物盆
秋田杉保存箱
サイズ:幅576*奥行425*高さ75



青森県の津軽塗を修理してくれる小林漆器さんへの依頼で、保存箱も作ってくれました。



割れていた角の部分もきれいになり、全体に艶がでてまるで新品のような仕上りです。



小林漆器さん曰く「津軽塗は何度も塗り重ねているので、旧いものでも新品同様に蘇る。」と言っていました。



亡くなった父の枕元にあり、普段から使っていたと思います。輪島塗もあったように思いますが、まだ見つかっていません、基本的には大小のふたつあるはずですが・・。



今では珍しい文様の津軽塗?



保存用の箱は小林漆器さんが杉板にて作ってくれました。ちなみに修理代金はお安くしていただいて三万円、箱は一万二千円(消費税、運賃別)。



保存はまず紙で包み、その後に布で包みます。



父母が遺してくれた結城や大島の着物とともに使いたい一品です。



さて、本日の作品は中村岳陵の作品、今回で「その4」となります。中村岳陵というとご存じない方でも「72年切手趣味週間」で切手の図案となった「気球揚る」という作品を切手にてご存知かもしれませんね。



斑猫 中村岳陵筆 その4
紙本水墨画帳外し軸装 軸先象牙 子息中村渓男鑑定箱二重箱
額サイズ:縦1515*横623 画サイズ:縦314*横471



中央に折れ目がありますから、スケッチの画帳から外して掛け軸にした作品でしょうか? 



最近息子が好きだった近所の猫が高齢で亡くなったので、代わりといってはなんですが、本作品を飾ってみました。



中村岳陵の長男である中村渓男の鑑定箱に収められています。

 

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中村渓男:(なかむら たにお)1921年 ~ 2001年。美術評論家。日本画家・中村岳陵の長男。息子の中村宗弘も日本画家。 神奈川県生まれ。本名は秀男。慶應義塾大学文学部史学科卒。美術史学会・美術評論家連盟所属。宇都宮文星短期大学教授、成田山書道美術館副館長。

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本作品は「その3」で紹介した下記の作品と落款と印章が同一であり、同様に1930年(昭和5年)に描かれていたと推測され、中村岳稜が40歳頃の作品と思われます。

  

庚午図 中村岳陵筆 その3
絹本着色額装 紙タトウ 共シール
色紙



どちらの作品もシミが多いのが難点ですね。

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中村岳陵:明治23年3月10日生れ、昭和44年11月20日没(1890年~1969年)大正~昭和時代の日本画家。静岡生れ。野沢堤雨、川辺御楯に師事。東京美術学校卒。本名は恒吉。

日本美術協会展に入選を重ね、紅児会会員となる。明治44年巽画会、東京勧業博覧会でそれぞれ受賞。大正元年文展初入選。3年今村紫紅、速水御舟らの赤曜会結成に参加し、院展に出品。4年日本美術院同人。昭和2年日本美術学校日本画科主任教授。5年福田平八郎、山口蓬春らと六潮会を創立。10年多摩帝国美術学校教授、帝展参与。16年新文展審査員。戦後は日展で活躍した。

昭和36年朝日文化賞、毎日芸術大賞。37年文化勲章。日展顧問、帝国芸術院会員、文化功労者。伝統的な大和絵や琳派の描法に、明るく華やかな後期印象派の感覚が統合された、モダンで清新な画風で知られる。作品に「輪廻物語」「気球揚る」など。

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大家の作品はそうそうたやすくは入手できませんが、このような画帳外しの作品はときおり手頃な値段で入手できることがあります。シミがありますが、十分愉しめる作品です。シミは染み抜きのよってある程度きれいにはできます。

富士漆画賛 藤井達吉筆 その18

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仕事は長続きすることが成功のポイントのひとつ。ところが最近の若い社員は仕事が長続きしない。理由は忍耐と根気が希薄なことと、楽で優遇されそうなところへなびくという傾向(欲)が強いから。

このような人は組織への忠誠心が希薄なので早々に淘汰されることになります。何事も長続きしない人には成功はありえないし、忍耐のない者は残念ながら自然に去ることとなります。

さて本日の作品は藤井達吉の作品「その18」です。共箱になっている作品です。

富士漆画賛 藤井達吉筆 その18
紙本水墨淡彩軸装 軸先陶器 共箱
全体サイズ:縦1800*横490 画サイズ:縦830*横340



富士に松の図柄。なにやら歌が添えられています。



共箱ですので、表具のデザインも藤井達吉によるものでしょう。



絵の具は漆?



軸先は陶芸家でもある藤井達吉によるものと推察されます。



何と読むのやら「波光・・・ 愚庵 押印」。読める方がおられるなら助かりますが・・。

 


「愚庵」は藤井達吉の号です。

 

藤井達吉は書家、画家、陶芸家であり、近代工芸の礎を築き後継者そ育てた工芸家ともいえますが、それは長い間の修練の賜物です。しかも欲のない・・。

前回の藤井達吉の投稿からの抜粋です。

「達吉の言う「人間らしさ」とは、常に向上することであると言っています。つまり、咋日より今日、今日より明日の自分の方が進歩していて、死ぬときが最高の自分であることを求めつづけるという意味でしょう。それは、人が人を、自然を愛し、慈しみ、感謝し、心豊かに生活することと言えるのでしょう。」

月下竹図 寺崎廣業筆 その60

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寺崎廣業の所蔵作品は50作品を超えてからは厳選して蒐集するようにしていますが、その中で本作品を入手したのは、この「竹」の描き方が誘因です。

月下竹図 寺崎廣業筆 その60
紙本水墨着色軸装 軸先鹿骨 共箱
全体サイズ:縦2020*横560 画サイズ:縦1090*横410



この竹の描き方から寺崎廣業と竹内栖鳳の合作による屏風の作品を思い起こせます。寺崎廣業が竹を竹内栖鳳が雀を描いたという作品が下記の作品です。



参考作品
竹梅図屏風 六曲一双 寺崎廣業・竹内栖鳳合作
思文閣墨蹟資料目録 第462号 作品NO63(P132・133)掲載



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明治43年の暮れ、中将湯本舗津村順天堂(現ツムラ)の創業者として知られる元貴族議員津村重舎の依頼によって描かれた六曲屏風二双のうちの一双に「竹梅図」があり、夫人と眺めていた津村氏が、竹と梅だけでは寂しいので、なにか小鳥でも描いて欲しいと寺崎廣業に所望すると、廣業は「それは竹内栖鳳先生にお願いするのがいい。」と答えたという。

その後十年ほどで寺崎廣業が亡くなり、津村氏が積年の願いを果たすべく、寺崎廣業逝去後14年を経た昭和7年に、津村氏が竹内栖鳳に依頼した作品。この絵をみた竹内栖鳳は「明るい気持ちの良い作品ですね。」と頷き、快諾したという。昭和7年4月18日午後、津村邸を訪れた竹内栖鳳は、4時間ばかりの後に鶺鴒一羽と雀三羽を描き添えて、四羽で4時間という時間を費やして完成した。

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このような作品があるということを覚えていると食指が動くので、かえって覚えていないほうが購入の倹約になると思うのですが・・。



本作品は上記の参考作品と同じく明治40年代の作と推察されます。



落款や印章からももっとも多くの作品が遺っている時期の作と思われます。

 


本作品は共箱というのも希少価値があります。

  

席画のようにさらりと描かれた寺崎廣業の作品には駄作が多いのですが、本作品は清々とした明るい秀作となっています。



清明とした月夜に掛ける掛け軸として眉目の一作・・。

月百物語 銀河月(織女牽牛) 月岡芳年 その3

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週末は家内がお茶席に出かけて、小生は息子と留守番です。ということで本日は気軽な作品の紹介・・。

「月百物語」という月岡芳年のシリーズものは「なんでも鑑定団」にも出品されていますので、ご存知の方は多いかもしれません。状態の良い、裏打ちのない作品がすべて揃っていましたので、評価金額は1000万でありましたが、果たしてそんなに高いのでしょうか?

月百物語 銀河月(織女牽牛) 月岡芳年作
明治時代版画
画サイズ:横245*縦350



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月岡芳年:本名吉岡米次郎、のち、画家月岡雪斎の家を継いでいます。月岡雪斎については本ブログにて他の作品紹介にて記述していますのでそちらを参考にしてください。

12歳で国芳門下になり、嘉永6年(1853年)15歳で一魁斎と号してデビューする早熟の才能を持っていました。明治5年(1872年)に強度の神経衰弱を病み、翌年快癒して大蘇と号を改めています。歴史画を得意とする菊池容斉の画風に傾倒し、これを学び独自の描法を確立しました。芳年は今もっとも人気のある浮世絵師と言われています。

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月百姿:芳年の最晩年の傑作である「月百姿」。「月百姿」はその題名の通り、全部で100点からなります。



「月百姿」は、月にちなんだ物語を題材としていますが、平安時代や戦国時代の武将たちや絶世の美女たち、あるいは幽霊や妖怪などの不可思議な存在まで、さまざまなテーマで描いています。「月百姿」は明治19~25年(1886~92)、すなわち、今から約130年以上前に制作されています。しかしながら、大胆な視点から切り取った迫力ある構図や、月夜の静けさがしみわたるような静謐感、さらには粋を極めた彫りや摺りの美しさなど、新鮮な魅力にあふれています。

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織女牽牛:中国,神話伝説の中にみえる男女一対の神のことです。

元来は牽牛が男の仕事である農耕を,織女が女の仕事である養蚕紡織を象徴し,神話的宇宙観の中で二元構造をなす一対の神格であったものが,星座にも反映されたものです。星名は,牽牛がアルタイルAltair,織女がベガVega。この2神は,後には七夕(たなばた)の行事と結びついた恋愛譚の主人公となっています。牽牛星と織女星とが並んで歌われる例はすでに《詩経》小雅・大東篇にみえますが,その背後にいかなる伝承があったのかは詳細は不明です。

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浮世絵はこの耳の部分が大切です。この耳の部分を額装などの表具に際して切ってしまったり、本作品のように捲れて痛んでいると評価に大きく影響します。 

 

月岡芳年の傑作のシリーズに縦三枚の作品があります。本ブログでは下記の作品を紹介しています。

平維茂戸隠山鬼女退治之画 月岡芳年作
版画額装710*238



本作品は額装にされており裏打ちがありますが、評価は高く「なんでも鑑定団」では裏打ちがなく状態の良い作品であれば、50万という評価らしいのです。30年近く前に骨董店で12万ほどで本作品を購入していますが、当時はそれが妥当な評価だったのでしょう。同時に他のシリーズの作品があったのですが、資金の都合でこの一作品のみの購入にせざるえなかったことが今考えるととても残念です。

他にも月岡芳年の作品は下記の作品を本ブログにて紹介しています。30年以上前には地方の骨董市ではダンボールに一杯になった浮世絵の中に下記のような作品が結構あったものです。屈んで長時間、段ボールを漁ってはめぼしい浮世絵の作品を選んだものです。

下記の作品もそのようにして購入した作品です。

和漢百物語 白藤源太 月岡芳年
明治時代版画
画サイズ:横240*縦360



このシリーズもまた百枚ものシリーズものであったようです。



浮世絵作品はそれほど当方では多くありませんが、男の隠れ家に収納しており、時折眺めては「ニヤリ」とする作品たちです。


神武天皇之図 山元春挙筆 その4

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山元春挙の若い頃の作品の紹介です。

神武天皇之図 山元春挙筆 その4
絹本着色軸装 軸先木製 所蔵箱入
全体サイズ:横630*縦2030 画サイズ:横495*縦1250



賛に「明治二十七年甲午春(三月大吉日)」とあり、1894年山元春挙22歳の頃ですから初期の作といえるのでしょう。

 

山元春挙の初期の活動状況は下記のとおりです。

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打出小学校卒業後、12.3歳で遠縁にあたる京都の日本画家野村文挙に入門、その後文挙が上京したため、明治18年(1885年)文挙の師森寛斎に学ぶ。翌年の京都青年絵画共進会に「呉孟」「菊に雀」を出品、一等褒状を受ける。

明治24年(1991年)、竹内栖鳳、菊池芳文らと青年絵画懇親会を結成。同年、京都私立日本青年絵画共進会の審査員となり「黄初平叱石図」(西宮市大谷記念美術館蔵)を出品、二等賞銀印となる。

明治27年(1994年)に師寛斎が亡くなり、同年如雲社の委員となる。明治32年(1899年)京都市立美術工芸学校の教諭となる。翌年、画塾同攻会(1909年に早苗会と改称)を組織し、展覧会を開く。明治34年(1901年)第7回新古美術品展に出品した「法塵一掃」が1等2席となり、春挙の出世作となる。



*滋賀県立近代美術館の開館25周年記念の企画展「伝統&革新 日本画の時代」出品より

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若い頃の作品でありながら、すでに威風堂々とした気概のある作風になっています。



杉の大木の描き方が神木の雰囲気を醸し出しています。



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神武天皇:(じんむてんのう 紀元前711年? - 紀元前585年?)古事記・日本書紀に記されている日本の初代天皇である。在位:紀元前660年2月18日~紀元前585年4月9日(建国記念日の2月11日は神武天皇即位の日)。この紀元前660年が皇紀元年として定められている。



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明治天皇が山元春挙のファンであったというのも頷けます。



表具も上々・・。



残念ながら共箱ではありません。箱書きの「西村蔵」という所有者は描いた時期を明治27年の三月に特定していますので、所望した人のように思われますが、詳細は不明です。

  

師である森寛斎が亡くなり、新たなスタートを切る年の気概に満ちた作品。

倉田松涛 特集 その2

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週末は雨・・、皆で創立記念日にいただいたカステラで三時のおやつとなりました。「もっとたくさん!」と言って厚く切ったカステラにご機嫌の息子は、上の部分だけ先に食べました



本日は倉田松涛の当方で蒐集された作品の特集「その2」です。「その1」に続いて主に部分図の写真の掲載となります。倉

倉田松涛についての詳細の説明は各々の作品の紹介で記述していますのでここでは省略させていただきますが、その画力はずば抜けていて、同郷の平福穂庵に勝るともおとらないものでしょう。もっともっと評価されて良い画家と考えています。

仏画や大黒や布袋などを描いた水墨作品より色彩を使った作品が倉田松涛の魅力と言えると思います。そんな作品を本日はまとめてみました。

韓信之股潜図 倉田松涛筆 その19
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 極箱
全体サイズ:縦2370*横660 画サイズ:縦1390*横500




漁樵問答図 倉田松涛筆 その17
絹本水墨着色紙軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横552*縦1940 画サイズ:横413*縦1265





翁の一服図 倉田松涛筆 その6
紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2020*横540 画サイズ:縦1310*横360

 





この作品にはまったく印章も落款もありませんが、掛け軸の巻きとめに下記の記述があります。大正10年の作と記述され、他の作品と幾つか纏めて購入した作品のひとつということもあり真作と断定しています。

 

分福茶釜図 倉田松涛筆 その13
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横570*縦2100 画サイズ:横350*縦1350







寒山拾得之図 倉田松涛筆 その10
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱入 
全体サイズ:横560*縦2075 画サイズ:横421*縦1263



自信作なのでしょうか、珍しく共箱に納められています。



林和靖図 倉田松涛筆 その8
紙本水墨淡彩軸装軸先 箱入 
全体サイズ:横514*縦1985 画サイズ:横390*縦1346





鹿島祭之圖 倉田松濤筆 その5
紙本水墨淡彩軸装 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:縦2020*横630 画サイズ:縦1360*横450






百鬼夜行之圖 倉田松涛筆 その4
紙本水墨淡彩軸装 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:縦2040*横720 画サイズ:縦1360*横530






五柳先生図 倉田松涛筆 その12
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横460*縦1730 画サイズ:横340*縦1090



下記の作品はうっかりしていましたが、本ブログに未投稿です。

達磨の凧揚げ圖 倉田松涛筆 その3
紙本水墨 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2020*横425 画サイズ:縦1310*横335



本作品は「翁の一服図」と同じところから入手したもので、昭和21年の記載が巻き止めにあります。おそらく同郷の方の所蔵品であったのでしょう。ちなみに昭和3年に倉田松涛は亡くなっています。「甲寅」は大正3年のことでしょう。



所蔵している方から代が変わり、多くの作品が流出することはよくあることです。



老子出関之図 倉田松涛筆
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横602*縦2230 画サイズ:横468*縦1371



雲間之龍図 倉田松涛筆
絹本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1980*横560 画サイズ:縦1280*横410



全23作品の整理もほぼ終わり、市場に倉田松涛の良い作品も見当たらくなりましたので、20年以上かけて蒐集しました当方の倉田松涛の蒐集についてそろそろ終止符を打とうと思っています。



処分する前にできれば郷里で展示会などで紹介できればよいのですが・・・。ともかく倉田松涛は中央画壇で著名な画家に画力では決してひけのとらない画家です。再評価を・・

元禄美人図 大林千萬樹筆

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今回の選挙はほぼ当方の予想したとおりの結果になりましたが、心配なのは都政です。口先だけのトップの都政はなんともこころもとない。都民はなんという愚かな選択したのかと思わざる得ない。

人を非難して、自分が自分がとしゃしゃり出て出世したがる人は、組織には往々にしてそういう人物は多くおり、会社人生では成功しても人生では孤独で成功者とは言えないものですが、政治家ではそういう人物は人望が薄く、組織を、社会を動かせず停滞した治世となり、人生というより、政治家そのものとしては落第者です。今後の都政をじっくり審判していくべきです。

本日は先日投稿しました美人画では「伝」上村松園の作品が真贋が曖昧でしたので、お口直し的な作品を紹介します。

元禄美人図 大林千萬樹筆
絹本着色軸装 軸先堆朱 合箱入
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



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大林 千萬樹:(おおばやし ちまき)1887年(明治20年)1月~1959年(昭和34年)4月26日)は大正時代から昭和時代の日本画家。

1887年1月、岡山県岡山市平野町に生まれる。名は頼憲。まず富岡永洗、川合玉堂に師事した後、鏑木清方に入門した。



1906年(明治39年)の日本絵画協会日本美術院絵画展覧会に「のべの土産」を出品、翌年、東京勧業博覧会に「歌舞」という作品を出品。その後、1913年(大正2年)の第13回巽画会展に「胡笳の声」を出品、褒状1等を獲得、また、同年4月の美術研精会第12回展に出品した「涼味」が賞状を得ている。翌1914年(大正3年)3月、東京大正博覧会には「真堤我意中の人」、「廓の宵」を出品、10月の第1回再興院展に「編笠茶屋」を出品すると、これが初入選を果たす。以降、1915年(大正4年)第2回展に「手牡丹」、1916年(大正5年)第3回展に「いねむり」、1917年(大正6年)第4回展に「口三味線」、1922年(大正11年)第9回展に「紅粧」(下記の写真の作品)と出品を続けている。



さらに1934年(昭和9年)に開催の大礼記念京都美術館美術展覧会に「新粧」を出品している。この間、1916年、第2回郷土会展に「通い廓」を、翌1917年、第3回郷土会展に作品を出品したことが知られている。

大正末期には関東大震災以後に奈良に移り、その後、名古屋へ移り、昭和10年代には京都に在住、戦後は各地に移り住んだといわれる。昭和34年4月26日、静岡県熱海市で病に倒れ、最後は京都で72年の生涯を閉じています。

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大林千萬樹は江戸期の歴史風俗に取材した美人画を多く描いていますが、しかし、その綿密な歴史考証にもとづく華麗な画風については、充分に認知されていません。



大林千萬樹の美人画は、京都を中心として日常的な作品がいくらか所在しているそうですが、判明し遺っている作品は少ないようです。



画題は「元禄美人図」(仮題)としております。品格のある美人画となっています。



表具の布に痛みがありますが、作品本体は良好に保存されています。



軸先には堆朱が使われています。



共箱はありませんので、資料などは当方では不足しておりますので断定はできませんが、落款から円熟期の作?と推察しています。

 

「元禄美人図」と巻き止めにも記されていますので、画題はそのまま使うことにしております。「小林・・・??」ん? 



あまり著名な画家ではありませんが、今後再評価されるかどうか注目してよい画家だと思います。

江山之図 釧雲泉筆 その21

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本日から3連荘で飲み会ですが、飲み会でちょっと帰りが遅く帰宅すると息子が「パパ、遅いよ!」と・・、少し早めに帰ると「早く会いたいから早く帰ってきたの?」と宣う。「会いたいなら毎日早く帰っておいでよ。」と小生の頬を撫でながら・・・ 最後の日は大阪まで出張なのでかなり遅くなるが・・・・。

さて久方ぶりに釧雲泉の作品の紹介です。横になが~い大きな掛け軸です。

江山之図 釧雲泉筆 その21
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1440*横977 画サイズ:縦573*横847

 
賛には「元人林堅□? 壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)秋日於江山出堂 雲泉就写 押印(「六石居士」白文朱方印)」とあり、1802年(享和2年)、釧雲泉が42歳の作品。「享和2年(1802年)には江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住。」頃の作と推察されます。




印章は珍しく釧雲泉の別号の「六石居士」(白文朱方印)と思われます。右上の遊印?は「雲泉」?

 


「元人林堅□?」は中国の元時代の画家のことだと思われますが、当方では解りかねています。印章は未確認ですが、本作品は当方では真作と判断しております。



*(上記文章作成後、しばらくしてから)調べてみたら文献に下記の印影が掲載されていました。よく資料と線の太さが違うといって同一印章と認めない方がおられますが・・・??? 当方での真作という判断には変更はありません。



釧雲泉の作品は前期の頃が自由奔放で、後期の作品は重々しい雰囲気とされ、前期の作品のほうが評価が高いようですが、本作品は時期的には中間期でありますがどちらかというと後期の作行に近いもののように思います。



眺めていると「いいな~」と思える作品です。



本ブログで紹介した「秋渓蕭散 釧雲泉筆」(欄間額装)と同一の落款「癸亥(みずのとい)重陽写寫干波懐楼」とあった出来の良い釧雲泉の長条幅を入手し損ねて落ち込んでおりますが、本作品を入手して気を取り直しております。



家内曰く、「また釧雲泉? 違いがよくわからないな~」だと・・。



家内曰くは「贋作との違い」のことを言っているようです。正直なところ小生にもよくわからない

箱もない作品ですので、保存箱を用意しなくてはなりませんが、これくらい長~い掛け軸の保存箱は特注・・・??

源内焼 その104&105 褐釉山中楼閣文角小皿&蓋付碗 

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最近の日本代表のサッカーの試合についてですが、あまりにも日本の良さが出ていない試合なのでがっかりですね。日本の良さはフィジカル面や個人技では見劣りするのは当たり前で、組織力で勝負しなくてはいけないのに、新戦力でにわか仕込みのメンバーではやはり守備が崩壊しました。

組織力を生かすには走れない、連携ができないでは勝負になりません。その点が浮き彫りになった試合だったとも言えます。これはサッカーだけでなく、すべての組織に共通する日本の組織の特性だといえるように思えます。

走る能力に劣る選手は選考から除外していくこと、組織に忠誠心の薄い選手も同様・・。これは会社も同じです。大切なことは古臭い言葉ですが「忠誠心」・・。

さて本日は小さな作品の紹介です。



小さな角皿の源内焼の作品。補修の跡がありますので、作品としては俗にいう「参考作品」です。「参考作品」というのは、美術的な価値はさておいて、蒐集する際に参考となるものという意味でしょうか? 発掘された陶片などによく使われます。

源内焼 その104 褐釉山中楼閣文角小皿 
修理跡有 箱入
幅119*奥行95*高さ29



釉薬は褐色の釉薬のみが使われています。これは源内焼では珍しくありません。なおこのような小さな角皿は源内焼では非常に珍しいものです。文様なまるで山水画のような趣があり、源内焼の魅力が十二分にある作品です。



塗蓋など作って、爪楊枝入や名刺入などにいいかもしれませんね。



ついでに褐釉の源内焼で珍しい作品をもうひとつ・・。

伝源内焼 その105 褐釉山中楼閣文蓋付茶碗 
修理跡有 箱入
口径125*高台径*高さ88



このような蓋付の碗の源内焼の作品は図鑑にも掲載されていません。



残念ながら蓋に補修の跡がありますが、きれいに金繕いされており、明らかに源内焼の作品で、揃いで実際に使われたもののように推察しています。



蓋付の汁椀は蒔絵の作品などが身分の高い方が当時は使われていたのでしょうが、源内焼という趣向を考えたのでしょう。



見込みは褐釉・・。源内焼の職人が轆轤にも精通していた? 磁器?                                                        



ついでに小さな作品をもうひとつ・・。

藁釉祝臼蓋置 鹿児島寿蔵作
共箱
最大径57*高さ60



こちらの作品の作者である鹿児島寿蔵は人間国宝にもなっている人形作家として著名ですが、香合などの商品の茶道具などの作品もときおり見受けます。



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鹿児島寿蔵:(かごしま じゅぞう)1898年12月10日 ~1982年8月22日)は、人形作家、歌人。福岡市生まれ。有岡米次郎に博多人形製作を学ぶ。



1932年紙塑人形を創始、1933年日本紙塑藝術研究所を開き、1934年人形美術団体甲戌会を結成する。1936年帝展に入選する。1961年紙塑人形の人間国宝となる。1968年、『故郷の灯』他で第2回迢空賞受賞。勲三等瑞宝章。門下に三国玲子など。アララギ派の歌人としても知られ、島木赤彦・土屋文明に師事、歌誌「潮汐」を創刊、歌集に『魚鱗』『故郷の灯』等。昭和57年(1982)歿、83才。

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鹿児島寿蔵作の藁灰釉の陶器の他の作品は「おびや窯」で制作されたと説明ありますが、「おびや窯」についての詳細は当方ではよくわかりません。



ネットオークションで見かけ、面白そうなので購入した作品らです。このような作品、小さめの作品は場所もとらず、蒐集対象には愉しい作品群ですね。

「小粒ながら山椒はぴりりと辛い」そういう作品は、陶磁器だけではなく人材としても日本の組織では大切・・。

鉄絵茶碗 その5 浜田庄司作 茶碗のうち14

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小生の骨董に師とも言える知人が浜田庄司の作品を数多く所蔵しておりましたが、某会館にお薄用にと何点かの浜田庄司の作品を貸し出していた際に盗難にあったそうです。共箱は残ったそうですが、作品本体は戻ってきませんでしたとか・・・。

「浜田庄司の作品は共箱がないと価値がなくなるのではありませんか?」と知人に尋ねると「浜田庄司の作品には銘はないが、見る人が見ると解るよ!」と・・。蒐集の達人は作品を見抜けていたのでしょう。

鉄絵茶碗 その5 浜田庄司作
杉共箱
口径約142*高さ87*高台径約



なんでも鑑定団で著名な中島誠之助が若い頃に浜田庄司の作品と思われる作品を先輩にみてもらったら「このような作品は浜田庄司は作らない!」と言われたことがあったそうです。見る人が見ると解るものらしい・・。



本作品は共箱がない状態での入手でしたが、小生は浜田庄司の作と推察しています。ちょうど、共箱のみの箱ありましたので、あてがいましたが、これを邪道というかは見解が分かれるところでしょう。



別に共箱を誂えて売買しようというのでもありませんので、小生はこれで誂えておき所蔵しておき、後学にしようと考えています。

つまり家のない茶碗に、家を誂えた・・??



後学として簡単に放置するのではなく、推察としては轆轤による成型、鉋による削り、釉薬の掛け方、焼成というものを総合的に判断して真作と思っており、最後は理屈ではありません。根拠のないものを誂えては後世に失礼ですから・・・。



作者云々の前に、茶碗というものは実際の茶道として使うものですので、機能性を満たしていなくてはなりません。お茶が点てやすいか、持ちやすいか、熱の伝導はどうか、景色はどうか、そのあたりに隙のある作品は良いものとは言えません。茶道の経験のないものには茶碗の鑑定は無理ですね。



浜田庄司の「鉄絵」の茶碗は本作品で五点目となります。他の四点は共箱があり、むろん真作です。茶碗では真作で13作品あり、本作品で14作品目となります。



大ぶりな他の「鉄絵茶碗」の二作品と比較してみました。



箱書きの比較は下記のとおりです。

 

印章の比較は下記のとおり、朱肉はきちんと確認しておく必要があります。浜田庄司の朱肉は特注ですので、赤目の朱肉を使った箱は贋作です。

 

浜田庄司の鉄絵茶碗はお茶席では主茶碗とはいかないかもしれません。「数茶碗」として楽しむには面白いと思います。「赤絵」や「塩釉」の茶碗なら主茶碗としての趣向はあるかもしれませんが・・。

ところで堅いことは述べるつもりはありませんが、茶道はもっともっと気楽に愉しむもののように思います。このままでは今の茶道はどんどん男の手から離れていきます。

朝晴雪図 都路華香筆 その5

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義母が親戚からいただいてきた着物のなかに紬の羽織があったので、父の形見の結城紬と着合わせてみまました。



サイズはちょっと羽織が小さめですが、着れないことはなさそうです。外は雨なので今日は半日、むらやま大島の和服で過ごすことにしました。



本日の作品を紹介する「都路華香」は私の好きな画家のひとりです。

朝晴雪図 都路華香筆 その5
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2080*横496 画サイズ:縦1245*横360



最近は渡辺省亭が再評価されているようですが、都路華香ももっと評価されてよい画家のひとりでしょう。



山元春挙、竹内栖鳳、西村五雲、そして都路華香という画家が本ブログで最近紹介していますが、このような画家を輩出していた頃が京都画壇が華やかりし頃なのでしょう。



それほどの力作ではないにしろ「新技法を積極的に取り入れた華香の画風は、現代の我々から見ても新鮮な魅力に満ちています。」という説明に沿う作品で、都路華香の魅力に満ちた作品です。



日本人はこのような優れた作品をどんどん忘れてしまっている傾向があります。



現代的な技量の薄い作品、精神性の乏しい作品に好みを奪われて、貴重な作品が「掛け軸はかび臭い」とか「掛け軸は飾る場所がない」と言ってはどんどん粗末に扱われています。



この作品も胡粉が剥離してきており、本来は太巻きにして保存しておくべき作品と思います。



墨を滲ませて木を描く技法が独特の雰囲気を醸し出しています。「最近では、その画風が海外で愛され、アメリカに多くの作品が所蔵されています。」というように海外では高く評価されているようです。



本作品は都路華香の魅力のほんのほんの少ししか表現されていません。機会があったらもっと作品をみていただくといいでしょう。



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都路華香(つじ・かこう、1871-1931):竹内栖鳳、菊池芳文、谷口香嶠とともに、「幸野楳嶺門下の四天王」と並び称された日本画家です。

華香はさまざまな展覧会で活躍する一方、教育者としても近代京都画壇の隆盛を支えました。華香は京都を代表する作家の一人でありながら、今や知る人ぞ知る存在といえるでしょう。

その理由の一つには、主要な作品が散逸し各所に秘蔵されていたという事情があります。幼い頃から学んだ四条派の画風に、建仁寺の黙雷禅師に参禅して得た精神性をまじえ、新技法を積極的に取り入れた華香の画風は、現代の我々から見ても新鮮な魅力に満ちています。

最近では、その画風が海外で愛され、アメリカに多くの作品が所蔵されています。

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下記の推定から大正末の作と推察されます。



*作品の印章「某領一枝」(朱文白方印)はこの頃、累印のひとつとして使用されている作品が多い。「某領一枝」という印は幸野楳嶺の門下ということで師への尊敬の念が込められているのでしょう。

*箱に押印されている「華香」(朱文白ハート形印)は各年代にわたり数多く使用されています。

 

*落款の字体は大正10年以降の書体と推定されます。

 

表具はシンプルで作品によく似合っています。



都路華香の作品は今後について再評価に大いに期待したいものです。



掛け軸の保管に際しては、箱の小口に写真のように題名と作者をきちんと表示しておくとよいですし、小口が破損しやすいのでこのような改装の時に余った表具を貼っておくと補強にもなります。参考までに・・・。

衣服類と骨董類も同じこと、保管に手間をかけないと次世代には伝承できない・・。

墨竹叭々鳥図 榊原紫峰筆 その4

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少しづつ家に伝来してきた漆器類を整理しながら、修理するものなどは自宅に持ち帰り、予算の範囲内で直してきました。男の隠れ家に戻す段取りをして、展示室の片隅に寄せておいたら、結構がさばってきました。



漆器類は基本的に積み上げてもいいように保存箱を誂え、その保存箱を風呂敷で包み、名札に写真を付けて作品がなにであるか解るようにしておきます。

骨董類は箱を開けずに中身が解るようにしておくことが肝要です。箱をいちいち開けてみないと中身がわからないと破損する可能性が高くなります。また扱いに不慣れな人が箱を開けると仕舞い方が雑となり、作品を傷めることになりかねません。

念のために多少の乱暴な扱いでも中身が壊れないように箱の中の作品はクッション性を持たせておくことも寛容です。

このように整理した作品が貯まってくると「ガラクタの山」と称する・・・

後世に遺すべき痛んだ作品は、きちんと修理すべきですが、本日もそのような作品の紹介です。

墨竹叭々鳥図 榊原紫峰筆 その4
紙本水墨軸装 軸先木製 共箱
全体サイズ:縦1450*横455 画サイズ:縦270*横235



榊原紫峰は初期から晩年まで花鳥画一筋の生涯でしたが、最晩年には、古典的水墨画の世界に通じる、ほとんど墨一色による森厳な境地を拓いています。



インターネットオークションに出品されていましたが、5万円ほどで落札しています。買い得か否かは解りませんがね。なにしろ改装代金が加算されます。

「叭々鳥」については何度も本ブログに記載していますので、説明は省略しますが、実によく描けています。家内も「好き!」と・・・。



本作品は表具がかなり痛んでいましたし、軸先は他に転用されたのか取れて無残なことになっています。改装しなくてはいけませんが、打ち捨てておくにはもったいないと思い、購入しました、箱の作りから二重箱になっていたと思われます。どうしてこのような扱いになるのか不思議です。



下記の写真は本作品と他の所蔵作品「孟宗叭々鳥之図」の箱書との比較です。



印章の検証は下記の資料によります。

参考作品 その1
雪中柳鷺図
思文閣墨蹟資料目録 第453号 P46 作品NO22



作品中の印章は本作品と同一印章であることが解ります。

思文閣の「墨蹟資料目録 和の美」は非常の資料的に有意義な冊子ですが、500号からは資料的な役割のない編集になってしまったのはとても残念です。

 

箱書からも同一時期の作ではないかと推察されます。

 

同じような構図の作品には下記の作品があります。このような資料を記憶しておくと、真贋に対する感性の手助けになります。

参考作品 その2
竹雀図
思文閣墨蹟資料目録 第468号 P20 作品NO9



水墨画の可能性を感じ入る作品となっています。このような作品を好きだということが記憶につながりますね。



紫峰は初期から晩年まで花鳥画一筋の生涯でしたが、最晩年には、古典的水墨画の世界に通じる、ほとんど墨一色による森厳な境地を拓いています。本日の作品も色紙の大きさながら、画家の力量、精神性が高く評価される作品だと思います。

当方ではそれほど上等な表具はできませんが、改装してきちんとしておこうと思います。またまたがさばるのかな



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