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繒御本鉢「狗」 六代清水六兵衛作 安田靭彦画

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先週の日曜美術館で取り上げた画家が「木島桜谷」、本ブログでもお馴染みの画家です。放映後の本ブログへのサクセスが増えたのが、木島桜谷の「狗」という作品です。

時の経つのは早いもので、そろそろ年賀状の作成時期が迫ってきました。家内が「犬の作品でなにかいい作品はない?」と聞いてきました。木島桜谷の作品? 安田靭彦の作品?と小生のブログを見て尋ねてきたので、久方ぶりに本日の作品を見てみました。

繒御本鉢「狗」 六代清水六兵衛作 安田靭彦画
清水六兵衛作・共箱・共布
口径219*高さ97*高台径100



義母が帯の生地で刀剣の保存袋を作ってくれましたが、その端材で袱紗を作ってくれました。早速本日の作品をその上に乗せて写真撮影



清水六兵衛の窯で安田靭彦は絵付けの作品を作っていたようです。友人が同じような作品で梅を描いた作品を思文閣に売却したことがあり、そのお値段は10万円・・。
その時の作品が下記の写真です。

絵御鉢 清水六兵衛作 安田靭彦画
共箱共布
口径190*高さ80*高台径90



当時は当方で買い取るだけの資金の余裕がなかったので、安値で手放すのを脇で見ていてとても残念な思いをしました。



おそらく本作品と同時期の作られた作品と推察されます。



その時の悔しさが本作品の入手に繋がっています。

 

安田靭彦の絵付の作品の中でも本作品は佳作の部類ということで入手した作品です。

*平櫛田中の観音像にも安田靭彦が彩色しています。

 

同じ代の清水六兵衛の作品は以前に家内が買った鶏の絵の作品を本ブログで紹介しています。



犬に蝶・・・、さてどんな年賀状になるやら。しばし展示室に飾っておくことにしました。



高村光雲、加藤唐九郎、浜田庄司、河井寛次郎、横山大観、上村松園、片岡球子らの作品が目の前を通り過ぎて安値で買い取られていくのを目の当たりにした悔しさが現在の小生の蒐集欲になっているかもしれません。

この世で非常なのは足元をみた骨董屋の買取と銀行の債権回収です。会社運営なら健全経営、個人では倹約を心しておく必要があります。

*結局はこの作品の図柄を年賀状の採用するのは見送りになりました・・。

*日曜美術館では木島桜谷の動物画ばかりに注目していましたが、この画家の真骨頂は風景画です。

天女 富田渓仙筆 その4

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義父が畑で採った「サツマイモ」が多くなったので、会社に持ってきて皆さんにおすそ分け・・。あっという間になくなりましたが、仕事の需要もこれくらいになると心強いのですが・・。

さて本日はひさかたぶりに富田渓仙の作品の紹介です。

天女 富田渓仙筆 その4
絹本着色色紙軸装 軸先象牙 富田芳子鑑題 二重箱入 
全体サイズ:横650*縦1420 画サイズ:横230*縦260



手前の花入は浜田庄司の花瓶です。

柿釉面取抜繪花瓶 浜田庄司作
杉共箱入
高さ305*胴径150~125*口径90*高台径102



初め狩野派、四条派に学んでいますが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた本作品のような作風が富田渓仙の真骨頂のように思います。



福岡藩御用絵師だった衣笠守正(探谷)に狩野派を学んだ後、京都に出て四条派の都路華香に師事しています。のち仙厓義梵、富岡鉄斎に傾倒。各地を旅し幅広い研鑽を積み、横山大観にみとめられて、大正4年日本美術院同人。昭和10年帝国美術院会員となっています。



本ブログでもお馴染みの都路華香に師事しており、そういえば画風に共通点の多い両画家のように思います。



駐日フランス大使であった詩人のポール・クローデルや俳人河東碧梧桐との交遊も知られています。



画題の天女は、天部に住むとされる女性のことで、天帝などに仕えているとされる女官の総称です。人間界においては容姿端麗であることを除けば人と大きく変わるところはなく、羽衣と呼ばれる衣服で空を飛ぶとされていますが、この羽衣を奪われたばかりに空に帰れなくなり、地上の男性と婚姻する話(羽衣伝説)などが伝えられています。



鑑定箱は新たな箱に書付部分が組み込まれた納まりになっていますが、このようなことは改装した際に元の箱に納まらなくなった場合によくあります。



似たような作品を以前に本ブログに投稿しております。ずいぶん前に「男の隠れ家」にて撮影したもので、画像は鮮明ではありません。

吉祥天 富田渓仙筆 その1
紙本軸装水彩着色絹装古径鑑題二重箱入 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横231*縦560



上記の作品は富田渓仙には珍しく小林古径による箱書きとなっています。また当時の鑑定の手紙も遺っています。印章は本日の作品と同一印章です。



吉祥天とは、もと印度神話に毘沙門天の妃として愛欲複祥を司る神として説かれていたもので、仏教では、この神を金銭珍宝米穀など一切の福徳を得せしめる吉祥の天女としています。像は天衣を着け瓔珞を飾り、容姿端麗にして、左手に蓮華または如意宝珠を捧けています。本作品はわりと強い色合いですばやく描かれた渓仙の佳作でしょう。

優しさと美しさを兼ね備えた女性を天女と例えることもありますが、ただこれは女神などと形容する場合と同様に、崇拝に値するという意味です。それ自体は美貌を唯一基準とする個人崇拝の一種ですが、ただし美貌と優しさは意外に兼ね備えた女性は非常に少ない。まして賢さもとなると稀有・・・。ま~、もてない男のひがみか、はたまた男性も同じことというのは女性側の論理か。

*ちなみに小生の連れ合いは優しさと美しさと賢さの三拍子が揃っています

贋作考 富士山 伝竹内栖鳳筆

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スーツは気に入りの仕立て、腕時計は手巻きの50年以上前の中古品、ワイシャツはちょうど着易くなった生地に襟と袖を取り替えたもの、ネクタイは妻からの贈り物、ネクタイピンはアメリカのアンテークのブリッジ、靴は10年以上は手入れを尽くした革靴・・・、晩年の男は基本的にブランドを表に出さない骨董趣味が理想としたい。

そういう晩年を迎えると持っているものを処分することから始まるようです。スーツ、ジャケット、ズボン、セーター、シャツ・・・、骨董と同じく少しずつ処分しています。いいものだけをどれだけ残せるか、思い出がどれだけ意味があるのか、それが問われる。

さて本日は「まくり」の作品を面白半分で入手し、真贋の考察にて愉しんだ作品です。

贋作考 富士山 伝竹内栖鳳筆
絹本着色軸装 軸先 共箱 
まくり(未表装の状態)画サイズ:縦1290*横460



そもそもこのような富士山の描き方は初期の竹内栖鳳ならともかく、昭和期前後の竹内栖鳳は描いたのだろうか?



小室翠雲の作風に似ているが、描写はそれなりにうまいとは思います。



竹内栖鳳ならもっと筆数が少ない描写をすると思いますが・・・。



竹内栖鳳の共箱付というのが面白い。



作品中と共箱に落款と印章は下記のとおりです。まずは落款はほぼ合格。

 

参考となる落款資料は下記のものかな? 印章は違うものです。



印章は「霞中庵主」という非常に印種の多いものを使用しています。

 

資料の候補となり印譜は下記のものでしょうか? NO32はちょっと違いますね。NO31の周囲がとれた状態? 可能性はなきにしも非ず???



箱書きの「富士山」を他の真作らと筆致を比較してみました。

  

ちなみに参考にした作品本体は下記の写真の作品です。両方とも真作です。

 

本作品の現在の結論は「真作とは断定できない。(贋作)」ということになりますが、こういう作品を観ることを軽率だとは思いません。いろんな可能性を考慮しながら、おおいに学習になります。

真贋を己の趣向の赴くままという御仁もしますが、やはり贋作は贋作。己の品格の問題になりますので、とことん悩むべき問題です。悩んだ挙句は贋作と判断したら破棄することですね。なにごとも同じ・・・。





柳下美人図 伝川又常正筆

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最近は親離れしない子供、子ども離れしない親が多いようです。いつまでも親と同居している人は一人前とはいえませんね。外見はしっかりしているように見えても、究極のところ独り立ちできていない人が多いようです。社会人として巣立つならまずは親元から巣立つことですね。



さて本日は仙台に赴任していた頃に仙台の骨董店から買い求めた作品です。柱絵のように細長い小点の作品です。

柳下美人図 伝川又常正筆
絹装軸紙本着色箱入 
画サイズ:157*367

 

折れの補修等が丁寧になされており、大切にされていた作品であると思われます。常正の作品の真作であるかは不明ですが、画風は同一とみなしていいと思われます。



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川又常正:生没年不明。作画期は享保(1716年~1736年)から延享頃(1744年~1748年)。川又常行(一説には狩野常信の門人、新潟の人)の門人で、川又姓を名乗る。作品は肉筆画のみ。師・常行と同様の温雅な画風の肉筆美人画を数多く残している。その大半が少女のような愛くるしさを湛えており、その中性的な美人表現や風俗描写は鈴木春信と共通点が多い。川又一派の中ではもっとも遺作が多く、技量も秀でている。後に鈴木春信が、この川又常正から大きな影響を受けている。常正は、釣雪斎と号したが、署名は「常正筆」でほぼ一貫している。代表作として、「浴室脇の男女図」(東京国立博物館所蔵)、「羽根つき美人図」、(出光美術館所蔵)、古典文学や故事を題材とした見立絵を得意とし、京都の人気絵師西川祐信の絵本から図様を拝借した。常正の描く美人は、現在確認されている作品数は50点前後。門人に、川又常辰がいる。

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浮世絵の肉筆画の怖さを当時まだ知らない小生は骨董店の店主に「どうして川又常正の作品だと判断できるのですか?」という野暮な質問をしたところ、「常正という銘は川又しかいない。」という回答をいただきました 仙台では有名な骨董店の店主でしたので、それ以上は聴けません・・・。



印章・落款は後学の判断と未だにしていますが、浮世絵の肉筆画は残っている作品が少なくなり、貴重となりつつあるのは事実です。江戸以前の肉筆浮世絵はますます貴重品となっていくでしょう。

人生の行きつく先は孤独との対面です。孤独と対面したときにいかに家族が大切かを認識するでしょう。

リメイク 松渓悲居 田崎草雲筆

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蒐集してきた作品は真贋をきちんと整理し、さらに要らぬ作品と要る作品とに区分けし、作者別に整理して当方の最終整理としております。



所蔵しておく掛け軸は表具など痛んだ部分を修復し、保存箱や説明資料もきちんとしておきます。額装の作品もまた同じように整理していきます。



蒐集初期の作品もなるべく取り寄せて整理していますが、本日はその蒐集初期の作品に紹介です。

松渓悲居 田崎草雲筆
絹装軸絹本着色箱入 470*1195



本作品は草雲の山水画のなかでも優品といえる作品だと思っています。



賛の意味は友人が解釈してくれており、「緑深い渓谷はもの悲しいところを感じる」という意味で「松とは漢詩等では翡々とか節操・長寿とかに引用される」と友人が解説してくれています。



落款は「草雲匠人」、印章は白文方印「草雲氏」、および白文方印「田跂芸印」(跂はへんが危)が押印されています。他の作品の参考印と同じであることより明治26年頃の作品と推察しています。

明治11年以降に白石山房に閑居していますが、そのときの心境を画に賛にした作であろうと思います。購入時に痛みやシミがひどいためしみ抜きし、再表具しています。



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田崎草雲:1815年11月15日(文化12年10月15日)~1898年(明治31年)9月1日)。日本の南画画家。名は芸(うん)。字は草雲。弟子に小室翠雲がいる。司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」のモデル。

1815年 江戸小川町(現在の千代田区)足利藩江戸藩邸に足軽二人扶持の祐筆、田崎恒蔵の長子として生まれる。幼少より絵に長じて縁戚の金井烏洲、次いで谷文晁(1763~1840)門下となる。
1835年 家督を継母の連れ子に譲るため、足利藩を脱藩。放浪の後、江戸の加藤梅翁の門下となり号を梅渓とする。
1840年 谷文晁没す。
1843年 独立して浅草山谷堀の裏店に家を借りるが絵はまったく売れず。
南宋の盛茂燁の山水画に傾倒、研究を重ねる。
この前後、松浦武四郎、小野胡山らの紹介により玉池吟社の梁川星厳に謁し、感化されるところが多く画論の研究を進める。また尊王思想についても共感するところがあった。
1850年 この頃、禅学に傾倒、草雲の号を使う。周囲の評価も高まる。
1855年 妻の菊子が狂死。翌年、草雲は江戸を去り足利へ帰郷。藩へ絵師として復帰する。
1858年 尊王志士と交わり幕府の嫌疑を受ける。安政の大獄の難を遊歴をすることで避ける。 
1868年 藩主以下重臣に説き藩論を尊王に統一させる。藩内の百姓を徴兵した「誠心隊」差図役として足利山麗会議にも出席。藩の防衛に努めた。一方、実子の格太郎は妻と自殺する。
1876年 第1回内国勧業博覧会へ画を出品し、高評を得る。
1878年 蓮岱寺山(現足利公園内)に草庵の白石山房をたてる。足利では多く弟子をとり絵画を教えた。ただし、単に絵を欲しがるだけの人物は軽くあしらうことが多かったという。足利の酒屋は草雲から金をとらず、かわりに絵を描いてもらうことが多かった。
1890年 皇居の杉戸図を描く。同年10月2日、帝室技芸員を拝命。
1898年 死去。墓は足利の西宮長林寺。
1968年 鈴木栄太郎が私費で草雲美術館を建設し、足利市に寄付。

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前半生においては、南画の師である谷文晁や先輩の渡辺崋山亡き後、書画会における草雲の評価は低かったとされる。草雲は文晁を畏敬はしたが、真似る事を恐れておりこれが巨星なきあとの画壇の風潮と合わなかったと見る事ができる。

また、周囲の南画の技術革新も進まなかったのが不遇時代を長くさせる要因となった。しかし、この時期に写実のため本草学も学ぶという熱心さが彼のプロ意識の高さを物語っている。凧の絵や浮世絵を書いたりして世渡りをする一方で、本分においては己の節は曲げないという江戸っ子としての「意地」の部分が草雲を大成させたと言える。



大島萬世によれば、草雲が出品した展覧会で、金牌なしで銀牌2名(うち1名が草雲)となることが立て続けに起き、これを、地方在住者である自身へのあてつけと考え、以後、中央画壇と断絶した。しかし、白石山房を訪れる人物を、会わずに追い返すことは決してしなかった。(借金取りなど、一度会ったことのある人物に対し居留守を使うことはあった)

もっとも、白石山房には、常に「草雲は不在」という札が掲げられていたため、事情を知る知人や出入りの商人以外はあまり出入りしなかった。

帝室技芸員を拝命する際も、当初、地方在住者であるという理由で固辞し、担当者が必死に説得したという。これについては、帝室技芸員になると、東京に通勤しなければならないと草雲が勘違いしていたためという説もある。

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草雲という字名は、本名の芸(うん)を二字に分けたものといわれる。

幼少より絵と同様に武術も好み、6尺(約180cm)近い草雲は剣術や柔術に巧みであったという。書画会においては、己の絵を貶す相手には拳骨で殴りつけて「あばれ梅渓」のあだ名をもらったとされる。

郡司信夫の「ボクシング100年」や加来耕三「日本格闘技おもしろ史話」の記述によれば1854年、横浜に遊んだときにボクシングを使うアメリカ軍水兵と喧嘩になり体落としで相手を倒しているが、記録に残っている限りで、これが近代日本における異種格闘技戦の第1号とされる(同じ1854年に伊豆戸田でヘダ号の造船を待っていた旧ディアナ号の船員が村相撲に参加しているが異種格闘技かどうかは
不明)。

この事件は富田常雄の「姿三四郎」における柔道とボクシングの格闘場面のモデルとされているが、原典の記述は草雲の通称や柔術の流派が通説と大きく食い違うとされ、疑問を呈する研究者もいる。

また、山水画の研究のために旅行を繰り返した。国定忠治と会ったことのある人物による唯一の肖像画は、草雲のものである。ただし、この肖像画は、忠治の没後に草雲が思い出しながら描いたものであるとされる(作家の丸谷才一はこの動機を「ファン心理」と分析している)。剣客・博徒との交際も深く中山道の大親分の信濃屋喜兵衛留書によると、甲州では博徒の竹居安五郎宅に宿泊するなど「亦諸国貸元親分衆に詳しきもの」とされる。

2017年に草雲の肖像写真が見つかった。角刈りで白の着物に黒い羽織を着ている。写真には草雲の戒名「遊玄院畫仙草雲居士」と「七十七歳撮影」と書かれている。草雲の写真は2017年現在までに7枚見つかっている。

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白石山房:明治6年に蓮台寺(蓮岱寺)跡を買い求め、明治11年に完成。 母が吉兆の徴とした白の碁石に因んで『白石山房』と命名し、書生や数人の女中と暮らしていました。



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以前にリメイクして投稿した下記の作品と飾って愉しんでいます。



松に冨士 田崎草雲筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先 箱入 
全体サイズ:横*縦 画サイズ;横500*縦1275



これらの作品は蒐集を始めた同時期に入手し、痛んだ表具を直して、説明書きを添えて所蔵しています。



箱書きは友人によるもので、栞は小生の自作のものです。趣味とは手間暇のかかるものです・・。

島崎柳塢 二点

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庭の紅葉は真っ盛りで紅葉の瀧・・。



お茶会に家内と行くというので息子も着物姿になりました。



小生は留守番・・。



採れたてのサツマイモを蒸かし、落花生の残材?の炒った直後のものを義父と義母とで食しました。うまい!



さて本日の作品紹介です。最近、本ブログに島崎柳塢の作品は下記の作品を初めて紹介しましたが、この作品は40歳の時の作で、本日紹介する作品は44歳と45歳の時に描かれた作品です。

嬌羞 島崎柳塢筆 その1
絹本水墨着色軸装 軸先塗 共箱
全体サイズ:縦1917*横393 画サイズ:縦1100*横363



萩花麗人図 島崎柳塢筆 その2
紙本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1730*横550 画サイズ:縦1090*横410



上村松薗、伊藤深水、鏑木清方の三大近代美人画の大家、それに続くのは伊藤小坡、池田焦園・輝方夫妻、島成園、木谷千種・・・美人画の画家の名をあげだすときりがありませんが、あまり知られていない画家のひとりに島崎柳塢がいます。













落款には「己酉(つちのととり、きゆう 明治42年 1909年)春日於望嶽廬 柳塢筆 押印」とあり、島崎柳塢が44歳の時の作と推察されます。(同封されていた説明書には「己卯」とありましたが、これは「己酉」が正しく、誤記でしょう。)

 

瀧下大原女図 島崎柳塢筆 その3
絹本水墨着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1930*横650 画サイズ:縦1240*横510



















落款には「庚戌(かのえいぬ、こうじゅつ 明治43年 1910年)之夏 柳塢筆 押印」とあり、島崎柳塢が45歳の時の作と推察されます。



島崎柳塢・・・・、着目して欲しい画家のひとりです。留守番は展示スペースにてひとりで美人さんの着物姿を堪能して休日を過ごしました。

リメイク 紅葉小禽図 伝金島桂華筆

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休日に小生は高校の同級会に出席で銀座まで、息子と家内は義母の買い物の付き合いで新宿に・・。皆で新宿まで同行しました。



新宿でコーヒータイム後、小生は一人で同級会にて「きりたんぽ」を堪能しました。



5月に会ったメンバー8人、皆元気そうでした。



会の終了後に再び新宿で家族皆と待ち合わせ。小生と息子はお揃いの上着。



本日紹介する作品は、男の隠れ家から整理のために持ち込んだ作品を物色した中から、紅葉の季節となり、この作品が目について飾ったので、リメイクの原稿となりますが投稿することにしました。

紅葉小禽図 伝金島桂華筆
絹本着色絹装軸箱入
全体サイズ: 画サイズ:縦421*横421



金島桂華については以前い記述していますので、詳細な説明は省かさせていただきます。















金島桂華の作品は他に下記の二作品があります。

垂桜 金島桂華筆
絹本着色額装タトウ入共シール
額縦585*横585 画サイズ:縦391*横390 画径380



松茸図 金島桂華筆 
絹本着色色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240



これらの作品は「伝」でなくてもよさそうです。

「伝」は「伝」の作品としてとらえてください。さて蒐集を始めた最初の頃に蒐集した氏素性の解らぬ作品・・、いかにすべきか。

深山春雪之図 山元春挙筆 その5

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我が家の番犬、すでに14歳を過ぎています。好物は野菜、畑に連れいていくと大根でもなんでもすぐにかぶりつくので油断ができません。菜食主義?のせいか、元気そのもの



本日の作品は雄大な山岳画が真骨頂の山元春挙の代表的な作例です。

深山春雪之図 山元春挙筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先 二重箱共箱入
全体サイズ:横602*縦2030 画サイズ:横505*縦1196



明治末から大正初期に描かれたと推察される佳作。表具の天の部分が痛んでおり、天地交換の必要があります。



今まで何度かにわたって山元春挙について説明してきましたので、本日は一切の説明を省きます。

















 


 

積雪で曲がって伸びた雄大な杉、人生もこうありたい。床にこのような作品を飾ってみたいと思いませんか?

ガラクタと呼べれようが、蒐集を続けけている小生も曲がった松のようなもの。
*「がらくた」は「我楽多」とも書く

もうすぐ寒い冬です。来週には仕事で青森の十三湖付近に行く予定ですが、みちのくではすでに朝から除雪から始まっているようです。

曽禰好忠像 冷泉為恭筆 その4

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幼稚園の送迎車が通る途中にどうもハンバーガー屋さんがあるらしく、息子が行きたそうだったので連れて行きました。

あまり外食には連れていかない主義なのですが、その理由は外食は99%が体に良くないという小生の持論によります。案の定、息子は味の濃いものには「おいしい!」と大喜び!



さて本日は本ブログで何度か紹介している冷泉為恭の作品の紹介です。筆致ではこの画家の右に出る者なしと評されることもある画家です。

曽禰好忠像 冷泉為恭筆 その4
絹本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1320*横620 画サイズ:縦435*横460



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曽禰好忠:(そね の よしただ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。出自については未詳。中古三十六歌仙の一人。官位は六位・丹後掾。長く丹後掾を務めたことから曾丹後(そたんご)とも曾丹(そたん)とも称された。当時としては和歌の新しい形式である「百首歌」を創始し、さらに1年を360首に歌いこめた「毎月集」を作った。



当時の有力歌人であった源順・大中臣能宣・源重之らと交流があったが、偏狭な性格で自尊心が高かったことから、社交界に受け入れられず孤立した存在であった。新奇な題材や『万葉集』の古語を用いて斬新な和歌を読み、平安時代後期の革新歌人から再評価された。『拾遺和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に89首入集。家集に『曾丹集』がある。



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曽禰好忠の有名な和歌には下記の作があり、本作品の箱書にも添えられています。

 

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小倉百人一首 46番(及び『新古今和歌集』恋一1071)より。

由良の門(と)を 渡る舟人 梶(かじ)を絶え 行方も知らぬ 恋の通かな

(由良の瀬戸を漕ぎ渡る舟人が楫(かじ)をなくしてさまようようにわたしの恋のなりゆきもどのようになるかわからないよ)

*古くは『万葉集』の恋の歌に笠金村(かさのかなむら)の「舟梶(ふねかじ)をなみ」の用例がありますが、恋の不安を楫を失った舟に例えたのは好忠の新発想でした。この歌が示すように類型的な和歌表現をくつがえす清新な作風が特徴だったのですが、好忠が同時代の歌人たちに影響を及ぼすことはありませんでした。しかし好忠の勅撰入集歌は94首が没後に編纂された『拾遺集』はじめいくつもの勅撰集に入集しています。また100年ほど後の源俊頼(みなもとのとしより 七十四)は「由良の戸を」を本歌取りして好忠へのリスペクトを表明、 好忠にならった斬新な歌風を確立しました。軽んぜられた男は死後ようやく、影響力ある歌人になっていったのです。

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本作品の右上には三首の和歌が添えられています。



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かりに来(く)と恨みし人のたえにしを草葉につけてしのぶころかな
題しらず 新 古今和歌集 巻第三 夏歌 187

意味・・その時だけのいい加減な気持ちで訪ねて来る人だと恨んだものだが、草葉が茂り刈る時期になっても、今では全く来なくなって見ると、懐かしく思い出されることだ。誠意がなくて訪ねて来ていた人でも、全く来なくなって見ると懐かしく思われて来る、と詠んだ歌です。

神なびのみむろの山をけふ見れば下草かけて色づきにけり
(拾遺188)
神奈備の三室山を今日見ると、木の葉だけでなく、下草までもが色づいていたの

入日さす佐保の川辺の柞原くもらぬ雨と木の葉ふりつつ
(新古今集)

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為恭の使う顔料は高級品であり、為恭は衣や袴の描き方が実に正確で、調度品も精密に描いています。



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岡田(冷泉)為恭(れいぜい ためちか):文政6年生まれ、元治元年没(1823年~1864年)、享年41歳。幕末期の公家召抱えの復古大和絵の絵師。幼名は晋三。通称は永恭のち為恭に改める。狩野永泰の子で普三と呼び、さらに自ら冷泉三郎と称し、蔵人所衆岡田家の養子となり近江守従五位下となる。冷泉の姓は自らが冷泉家に無断で名乗ったもので、公家の出自ではないが、世に冷泉為恭とも呼ぶ。別名は岡田為恭。号は心蓮。



訥言、一恵の先輩らと共に復古大和絵派の中でも最も幅の強い画家で大樹寺の襖絵を初め多くの遺作がある。画家としての才能は優れており、障壁画や仏画に当時としては傑作といわれるほどの名画を残している。2010年、彼の手になるとされる伴大納言絵詞の模写の存在が公にされた(当時、伴大納言絵詞は酒井忠義が所有していた)。勤皇思想により政治運動に関与し、文久2年(1862年)師願海を頼って紀州粉河寺に逃げて心蓮坊光阿と称して、さらに堺に隠れたが、浪士に惨殺された。古画の研究にも優れていた。



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田中訥言、宇喜多一恵の先輩らと共に復古大和絵派に分類されているが、近代日本画において線描の評価が高い画家と言われています。

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狩野派から大和絵へ

京狩野の絵師狩野永泰と、俳人北川梅價の娘織乃の第三子として生まれる。京狩野9代目の狩野永岳は父永泰の実兄で、為恭の伯父にあたる。父方の祖父も景山洞玉(狩野永章)という絵師であり、三代にわたる絵師の家系である。



京狩野に連なる絵師の家に生まれながら、大和絵復興を志し、特定の絵師に師事せず、高山寺、神護寺、聖護院などの社寺に所蔵される古画の模写や古物の写生を重ね、国学者や有職学者を訪ねて有職故実を学んだ。12歳で既に画才に優れていたことが記され、18歳で故実家を驚かせるほどの知識を得ている。



天保14年(1843年)幕府の奥絵師で模写に情熱を燃やしていた狩野養信から、『年中行事絵巻』の模写を依頼されており、為恭は江戸の御用絵師で最高の格式を持っていた養信からも技量を認められたことを物語る。一説に、若年時に為恭が模写した絵巻は、およそ90種にもおよぶと伝えられる。

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貴族志向と円熟

嘉永3年(1850年)には蔵人所衆である岡田家の養嗣子となり、蔵人所衆の役に就く。

嘉永6年(1853年)仏書にも通じていた為恭は、天台僧大行満願海が著した『勧発菩提心文』の挿絵を描いたことが切っ掛けで願海と深く交流、彼の依頼で多くの仏画を描く。

安政2年(1855年)三条実万の斡旋により御所へ出仕し小御所北廂襖絵を描き、翌年には関白・九条尚忠の直廬預となる。この頃、社会的な身分も上昇と並行して画技も成熟し、大樹寺の障壁画を始めとして多くの作品を残している。

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落款は「式部承為恭□□」とあり、印章は「菅」の朱文白方印が押印されています。下記の説明資料のもあるように、蔵所衆であった岡田為純の養子となり、官位を得て、岡田家の本姓の「菅原」姓を名乗り、式部承に入所したばかりの頃の嘉永年間の作と推定されます。

 

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非業の最期

黒船来航により尊王論が巻き起こると、為恭も否応なく巻き込まれることになる。為恭は倒幕派から王朝擁護と見られていたにもかかわらず、佐幕派の要人宅に出入りするなど、その行動に勤王派から疑問が持たれ出していた。こうした日和見的・軽率な態度が、勤王の志士たちから「倒幕派の情報を漏らしているのではないか?」という疑心暗鬼を抱かせる事となり、命を狙われるハメになる。



当時代々の藩主により美術品を多く持っていることで知られた京都所司代・酒井忠義から『伴大納言絵巻』を観る為に接近する。願いはかなって絵巻を閲覧・模写する事は出来たが、京都所司代は、尊王攘夷派からすれば敵の出先機関であり、ここに出入りしただけで佐幕派と見做されてしまった。

文久2年(1862年)8月過激な尊攘派から命を狙われ、逃亡生活が始まる。為恭は願海のいる紀伊国粉河寺に逃れ9ヶ月潜伏、名も僧侶風に改め、寿碑(生前の墓)を立てるなど隠蔽に努めた。しかし尊攘派の追跡は厳しく、堺から大和国、大和丹波市にある石上神宮の神宮寺である内山永久寺に逃れるが、追っ手が迫り逃亡中、元治元年5月5日、丹波市郊外の鍵屋の辻で、長州藩の大楽源太郎らによって捕縛、殺害された。享年42歳。

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参考資料 思文閣墨蹟資料目録「和の美」より。



「菅」の朱文白方印は年代のよっていくつかの種類があるように思われ、本作品と上記の資料とは違いが見られますが、正確なところは今後の検証によります。



冷泉為恭は、画を極めようとしたばかりに身を滅ぼしてしまったという皮肉な結果になった画家です。

*本日は名古屋への日帰りの出張です。旅すがら寄りたいところを横目でみることはたびたび・・、小生も車中で目にするところへ心のままに寄る時間が欲しい・・。

リメイク 美人図 祇園井特筆

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週末には息子の幼稚園でのカーニバル。



自然がいっぱいの幼稚園です。



年長組と一緒に劇やら歌やら・・。眺めの良いホールで行いました。



終わってからは庭で遊んで帰りました。



園長さんのお寺が隣接しています。



庭には茶室もあります。



ちょっと茶室を覗くと椿の花が落ちていました。床には会津八一の軸・・。



息子は「おなかが空いた!」と・・、緊張が解けたようです。



本日の作品の紹介ですが、以前に紹介したことのある作品で、再整理の作品ですのでリメイクとなります。最近展示室に美人画を多く飾るのに家内が不満を漏らしています・・

リメイク 美人図 祇園井特筆
絹装軸絹本着色
画サイズ:305*960



本作品はかなり汚れた状態であったものを表具し直したものであり、鉛筆かボールペンのいたずら書きは完全には消えませんでした。仙台の骨董市からの掘り出し物・・・??。

 

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祇園井特:文政10年に没している上方浮世絵師。通称井筒屋徳右衛門と称する。京都祇園に住んでいたためこの名で呼ばれている。円山派の影響を受けているのが作風に見られるが、門人であったかどうかは不明である。芸妓や遊女を中心に、女性の容貌を生々しいまでに写実的に描き、独自の美人画を生み出した。その美人画は、美化された今までの美人画とは違い、醜さも、乱れも、ありのままにさらけ出している。アクが強いだけに、好き嫌いも激しく、気持ち悪いという評価もある。だが、逆に今の時代に合い高い評価を受けているのも事実である。多くの肉筆画を残しているにもかかわらず、人物についての記録がなく、その生涯は謎に包まれている。

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下唇を緑に、上唇は赤く塗っているのは、当時流行した化粧方法のようで、上方浮世絵の特徴でもあります。



洋犬を抱いた絵図は珍しく、着物や女性の描きの微細さからも井特の佳作のように思います。



賛の読みは「小姑是阿姐大姑是阿娘 但愁末嫁日不慣噢吾朗 門沢老人題」であり、意味は「下の娘はよいお姉ちゃん、上の娘はこれまたお嬢さま、二人は美人ですが、ただ心配なのは二人とも男の事となると様子を伺い、こばみいまだに嫁に行くこともなく、末が案じられる」と解釈されるらしい。「はやく嫁に行って欲しい」というニュアンス? 



この読みは同じ現場で働いていた重機を運転する書家に読んでいただいたもの・・。



当作品は「字日伯立」の白文方印と「せいとく」の朱文千鳥形印を用い。皇都(京都)井特と落款されています。「せいとく」の印の欠損が見られるのは後期の作品であるらしいです。なお賛の「門澤老人」については詳細は不明です。



良きにつけ悪しきにつけ、このような作品が骨董市にときおりあったものですが、現在は掛け軸自体が骨董市では見なくなりました。

きちんとし美術商から購入すると間違いないという御仁がいますが、それは資金が潤沢にある御仁のできること・・。常にそうするには鑑識眼を磨くにはあまりにも短絡的であり、「掘り出し物」への胸がときめかないのも事実です。



表具の状態の悪い作品やまくり(未表装)の作品には興味深い作品がよく骨董市にあったのですが・・。



浮世絵肉筆美人画もそろそろこれで打ち止めかな・・。浮世絵肉筆画はこだわりの多い御仁が多いようですが、意外に奥行きがなく、当方のメインの蒐集対象にはなっていません。



賛の読みは友人の助力によります。



骨董市で見つけたお気に入りの作品を改装したり、調べた資料を記録に遺したりしていくのは愉しいものです。

 

仕事一辺倒ではない趣味の世界は人生を豊かにしてくれます。

李朝民画 絵文字「忠」

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天気の良い日は息子は義父の落花生の皮むきのお手伝い・・。車庫から金づちやらペンチを持ち出してきます。道具を使う知恵がついてきたようです。



整理の作品のひとつに李朝民画があります。未整理の作品を引っ張り出しては処分するもの、額装や収納箱に収めるものを分けていましたら、日に焼けた李朝民画がありました。ちょっと日に焼けすぎていますが、捨てるには惜しいと思い、表面保護のために額装にしてみました。

李朝民画 絵文字「忠」
紙本着色 額装
画サイズ:縦*横



旧い作品は額装になっていても、保護用のガラスやアクリル板がない額に納まっており、出し入れに際して作品本体を傷つけることになったり、カビが発生しやすくなるためきちんとした額装に収めることが不可欠です。



李朝民画を柳宗悦は内容から文字絵,吉凶にちなむもの,伝統的絵画類,静物画,儒仏道三教にちなむものに分類しています。李朝民画の文字絵には「孝,梯,忠,信,義,礼,廉,恥」の8文字を墨で文様化し,絵画部分を彩色しています。



李朝民画は技術的には稚拙ですが、そこは民画の共通していることで、その図案の面白さを評価すべき作品群ですね。



下記の作品「禮」もありましたが、資金調達のために売却しています。



そのほかに李朝民画には「かささぎととら」を題材にしたユーモラスな絵,李朝独特の文房静物図などがあり、親しみが感じられ,素朴で楽観的な民族の特性がうかがわれますが、これらの代表的な作例は本ブログにて紹介されていますので説明は省略します。

浮世絵や大津絵と同じく骨董市で面白そうな作品があると衝動的に入手していた李朝民画ですが、最近はなにやら人気があるようです。

ほったらかしにしていた幾つかの李朝民画の作品を額装にしておこうと思っています。

リメイク 宝巳之図 松村景文筆

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蒐集の初期に仙台の骨董店から購入した作品です。

宝巳之図 松村景文筆
絹本金泥淡彩絹装軸二重箱 画サイズ:横292*縦242



景文の作品には贋作が多いのですが、その一番の理由に弟子が生活に困窮し師の作品を模倣したためであり、また、景文がみかねてそれを認めたことが理由のようです。



景文が印章を与えという弟子の五嶺は二度と贋作は制作ないと誓っという記録や弟子が墓参り時に贋作について謝罪したという記録があります。



同じ骨董店からの購入した作品へのコメントで「贋作」という指摘がありましたが、この仙台の骨董店の店主は酸いも甘いも味あわせてくれた方で、いい勉強になりました。真贋をあまり重視しては骨董の面白みがないと教えていただいたように思います。



資金があれば、いい作品をいい筋から入手できます。資金がなく掘り出し物を重視すると贋作ばかりの蒐集となります。鑑識眼を磨くにはこの間が骨董蒐集の醍醐味と考えるのが妥当のように小生は考えています。



本作品は真作。小生と息子は巳年生まれ。お気に入りの作品のひとつです。



本作品の箱に「古今書画鑑定済真本也菊池氏珍蔵印」とありますが、おそらく個人的な鑑定・所蔵印であろうと思われます。文政4年(1821年 辛巳正月とある)の作品で景文43歳の作。



宝珠と白蛇の縁起物、いい作品です。

天女 富田渓仙筆 その4

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義父が畑で採った「サツマイモ」が多くなったので、会社に持ってきて皆さんにおすそ分け・・。あっという間になくなりましたが、仕事の需要もこれくらいになると心強いのですが・・。

さて本日はひさかたぶりに富田渓仙の作品の紹介です。

天女 富田渓仙筆 その4
絹本着色色紙軸装 軸先象牙 富田芳子鑑題 二重箱入 
全体サイズ:横650*縦1420 画サイズ:横230*縦260



手前の花入は浜田庄司の花瓶です。

柿釉面取抜繪花瓶 浜田庄司作
杉共箱入
高さ305*胴径150~125*口径90*高台径102



初め狩野派、四条派に学んでいますが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた本作品のような作風が富田渓仙の真骨頂のように思います。



福岡藩御用絵師だった衣笠守正(探谷)に狩野派を学んだ後、京都に出て四条派の都路華香に師事しています。のち仙厓義梵、富岡鉄斎に傾倒。各地を旅し幅広い研鑽を積み、横山大観にみとめられて、大正4年日本美術院同人。昭和10年帝国美術院会員となっています。



本ブログでもお馴染みの都路華香に師事しており、そういえば画風に共通点の多い両画家のように思います。



駐日フランス大使であった詩人のポール・クローデルや俳人河東碧梧桐との交遊も知られています。



画題の天女は、天部に住むとされる女性のことで、天帝などに仕えているとされる女官の総称です。人間界においては容姿端麗であることを除けば人と大きく変わるところはなく、羽衣と呼ばれる衣服で空を飛ぶとされていますが、この羽衣を奪われたばかりに空に帰れなくなり、地上の男性と婚姻する話(羽衣伝説)などが伝えられています。



鑑定箱は新たな箱に書付部分が組み込まれた納まりになっていますが、このようなことは改装した際に元の箱に納まらなくなった場合によくあります。



似たような作品を以前に本ブログに投稿しております。ずいぶん前に「男の隠れ家」にて撮影したもので、画像は鮮明ではありません。

吉祥天 富田渓仙筆 その1
紙本軸装水彩着色絹装古径鑑題二重箱入 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横231*縦560



上記の作品は富田渓仙には珍しく小林古径による箱書きとなっています。また当時の鑑定の手紙も遺っています。印章は本日の作品と同一印章です。



吉祥天とは、もと印度神話に毘沙門天の妃として愛欲複祥を司る神として説かれていたもので、仏教では、この神を金銭珍宝米穀など一切の福徳を得せしめる吉祥の天女としています。像は天衣を着け瓔珞を飾り、容姿端麗にして、左手に蓮華または如意宝珠を捧けています。本作品はわりと強い色合いですばやく描かれた渓仙の佳作でしょう。

優しさと美しさを兼ね備えた女性を天女と例えることもありますが、ただこれは女神などと形容する場合と同様に、崇拝に値するという意味です。それ自体は美貌を唯一基準とする個人崇拝の一種ですが、ただし美貌と優しさは意外に兼ね備えた女性は非常に少ない。まして賢さもとなると稀有・・・。ま~、もてない男のひがみか、はたまた男性も同じことというのは女性側の論理か。

*ちなみに小生の連れ合いは優しさと美しさと賢さの三拍子が揃っています

源内焼 その107 三彩唐人琴奏図皿 その2

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先日赤坂で食事を共にした友人から苺が届きました。封を開けるやいなや息子はかぶりつき! 「お~い、パパの分は?」、「パパは一個だけ!」



本日から連続して源内焼の作品の投稿です。

源内焼を蒐集していると同図の色変わりの作品に必ず出会うことになります。焼成時期が違う作品はむろんでしょうが、焼成時期が同じでも、同じ型で作った作品を釉薬をかける段階で釉薬を別々にした作品が多々あるように思います。

源内焼 その107 三彩唐人琴奏図皿 その2
合箱入 
口径260*高台径183*高さ37



源内焼の「その44」で紹介した作品が同じ図柄の作品です。

源内焼 その44 三彩唐人琴奏図皿
合箱
口径260*高台径180*高さ43



「その44」は口縁部分にも三彩が施されています。本作品のように口縁部分が緑釉一色のものは文様が奇獣のようにも見えますが、三彩だと花柄のように見えるから面白いですね。



まるで鬼の面のように見えます。



中央の見込み部分も色の使い方は逆転しています。



江戸期の源内焼は人物でも緻密な型によって作られていますが、時代が下がると型が曖昧となり、源内焼の面白みが半減しています。



明治まで時代の下がった再興された源内焼と本来の江戸期の作品と明確に区分するべき理由のひとつにこの精巧な型の作りにあります。



本作品は傷のない完品ですが、ちょっとだけ歪みがあるようです。



底の作りは同じです。



釉薬の違う作品を揃えるのも源内焼蒐集のひとつの愉しみです。



源内焼は軟陶ですので、割れたり、釉薬が剥がれたりして、状態の良いものが少なくなりますので、このような完品に近いものは重宝されます。



源内焼の面白さを十二分に伝えられる作品だと思います。

源内焼 その108 三彩山水文漢詩入手持角鉢

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畑で採れた里芋・・、数が多くなり、会社で皆さんに持って帰ってもらうことにしました。里芋の次はタケノコ芋、そして落花生(ピーナッツ)となります。




年末の挨拶廻り、現場巡回で原稿の作成時間がなく、手っ取り早く本日も源内焼の作品の紹介となります。まとめて購入しましたこともあり、源内焼の作品紹介が続きます。

源内焼 その108 三彩山水文漢詩入手持角鉢
合箱入 
幅185*奥行185*高さ80



このような器を茶席の菓子皿や会席の皿に使えばいいと思うのですが、未だに茶席で香合を含めて源内焼を見たことがありません。



軟陶器なので使うのには傷めないように神経を使うからでしょうか?



口縁の文様を愉しみながら、菓子や具が減っていくと見込みの図柄が愉しめる趣向の器です。



茶席では茶碗や茶入れ、茶杓、水指が重要視されますが、意外に注目されないのが菓子皿・・。



ところで当方のブログでは源内焼の水指も紹介されていますが、意外に家内には不評・・・
これはちょっと邪道だったかな?



漢詩?の末尾に印が押印されいますが、このような印のある作品は源内焼では珍重されています。



山水画における釉薬の掛け方にも色彩効果の出るように考慮されています。この辺が源内焼の素晴らしいところです。



手前の色の濃い部分は岩??



釉薬の剥離している部分は共色で補修されています。



ところで同図の作品は「源内焼 その21」にて紹介されています。



この図柄の源内焼はどの文献にも出典されていませんが、この図柄は下記の写真にあるように絵として残されています。

その絵の賛に「張志和字舜民号煙波釣叟」という文章が見られます。「舜民」という名と源内焼を平賀源内の指導のもとで製作したと伝えられる「脇田舜民」とどう関係するのかは不明ですが、いろんな絵から紋様を製作している源内焼の奥深さを窺い知れる一品です。

「脇田舜民」という名とこの絵の賛がどういう風な関係なのかは非常に興味深いところですね。



この図と同じような構図の作品が菅井梅関の作品として、本ブログに投稿されています。



漢詩の部分は家内が読み解いてくれています。

賛の漢詩は
  雨霽頃銷雲
 枝低花落水
 維舟憇此隈
 披飯愉真子

雨晴れ雲消える頃
枝低く花は水を落す
舟を維(つな)ぎこの隈に憩う
飯をひらき真子をたのしむ



真子というのは絵の賛にある「張志和」の号をもつ玄真子のことでしょう。唐代の詩人で、粛宗の時に出仕したが、のち致仕して江湖に隠棲とし、世俗の中にありながら煙波釣徒と称して脱俗的な日を過ごした人物で、水に筵を浮かべたり釣をする絵の画題となっています。



本日紹介された手付鉢では不鮮明で読み取れない部分を同図の皿の作品では読み取れているのも蒐集したからこその結果です。



「張志和字舜民号煙波釣叟」と脇田舜民との関連は新発見かもしれません。このことは源内焼だけの蒐集では解らなかったことかもしれません。



源内焼 その106 三彩獅子香炉文手持角鉢 

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今週の初めは仕事で名古屋から中津川へ。帰りに栗きんとんを買って帰り、新幹線に乗る前には同僚らと一献・・。中津川では名物の「栗きんとん」を買ってきました。情緒のある店構えでした。



この原稿が投稿されている頃は、仕事で青森から五戸、十三湖を廻り弘前のホテルで睡眠中かと・・。

本日の作品紹介は相変わらず源内焼の釉薬変わり作品ですが、さらに同型のバリエーションの作品の紹介です。

源内焼 その106 三彩獅子香炉文手持角鉢 
合箱入
作品サイズ:幅190*奥行190*高さ111

この図柄は源内焼には数多く使われ、鉢は獅子が右向き、皿と硯屏はこの作品と同様に左向きになっていますが、本作品のように手持ちについた作品は非常に珍しいものです。



このように同じ図柄で鑑賞するのも源内焼の愉しみ方のひとつです。とくにこの図柄に多いのは人気のあった図柄であったことが推察されます。



さて、手持ちが付くと源内焼のカタログでは「鉢」になるようで、「鉢」で獅子が左向きということに・・??



さらに手持ちがついたのが本日の作品ですが、作品を同時に並べてみたのが上記の写真です。手持ちのついた「獅子に香炉の作品」は源内焼ではこれが初めてあり、図鑑などにも掲載されていません。



残念ながら、入手後送られてきた作品は手持ち部分に欠損があったようで、完全にとれていました。当方で接着し、漆で補修してあります。

このような補修もまた蒐集の大きな愉しみですね。

福羊之図 大橋翠石筆 その7

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先週末は青森県の十三湖付近への出張でしたが、現地はすでに冬景色でした。



宿泊した弘前のホテルからの眺めも冬景色です。今年の雪は例年より早いようですね。



さて本日は虎の作品で有名な画家である大橋翠石の山羊を描いた作品の紹介です。

福羊之図 大橋翠石筆 その7
紙本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 玉置頼石鑑定箱 
全体サイズ:横357*縦1182 画サイズ:横237*縦265



本作品は大橋翠石の制作年代区分において、2期と称される中間期の頃(1922年(大正11年)-1940年(昭和15年))に分類され、大橋翠石が58歳~66歳の作で、昭和初期に大橋翠石が須磨様式が確立されたと言われている時期に描かれた作品です。



虎の作品の評価が高い大橋翠石ですが、他の動物画にもその力量は十二分に発揮されています。虎以外にはライオン、タヌキ、猫が著名ですが、さすがに山羊の作品は珍しいと思います。



福羊と題されていることからも、干支が羊である1917年(大正12年)の作と推察していいかもしれません。小さな作品ですが、背景は朝陽を描き、大正12年の年初めの作とも思われますね。



この頃の作品に記されている落款は「石の文字が太い」のが特徴です。なおこの作品は真作と判断されます。




大橋翠石の作品の背景の特徴は虎の作品でもほとんど竹を描かず、本作品も草(葦?)を描いた背景と推察されます。神戸時代の作品を愛好家は須磨様式と称しますが、その初期の頃の作と推察されます。



印章は白文朱丸印が押印されており、「点石翠石」という落款を記されていた頃(「石」字の第四画上部に点が付されている1910年(明治43年)夏まで翠石の字をみると石の上に点がある。 明治43年の46歳までこの点が入っている。)の作品「動物画帳」にも押印されていますので、明治末頃の作と限定されてくるかもしれません。



 

本ブログにも投稿されている玉置頼石のよる鑑定箱書があり、なんでも鑑定団に出品された虎が屏風に描かれた玉置頼石の作品と同じ印章が箱に押印されています。

箱書きには「偲翠石翁真蹟」と記されています。

  

玉置頼石(たまおき らいせき):明治32年岐阜県に生まれる。幼名武田勝之助。独学で動物画を研究し、無所属動物画家として活躍。昭和17年「光彩会」を主宰。日本動物画協会会長。動物画の発展に尽くした。昭和53年没。享年80才。

作品の手間においてあるのは下記の作品です。本ブログにてすでに紹介されている作品ですね。

南京赤絵獅子牡丹文壷
合箱
口径85*最大胴径120*底径110*高さ165



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南京赤絵:350年くらい前の中国明時代末期から清王朝初期に掛けて景徳鎮の民窯で作られた南京赤絵。

17世紀に入ると各地で農民の反乱が相次ぎ明王朝は衰退しその結果景徳鎮の官窯は消滅したが、民窯はしたたかに生き残りむしろ自由闊達な赤絵を作りはじめた。これを南京赤絵という。

南京赤絵の生地の多くは従来の青味が強い白ではなく乳白色を帯びていて、これは色彩を一層際立たせる効果があります。絵付けには基本的に染付けは用いず、色釉だけで彩色され、その色数も初期は赤、緑、黄と少なく作風はきわめて豪放です。その後、紺青、紫、黒、褐色などの色が増えるとこれらの色数を組み合わせ繊細華麗な作風へ変化しました。

当時の主要な輸出品で西欧諸国に売ったものは壷や花生けや蓋ものなど大作が多い。ところが日本に輸出したものは茶道具あるいは鉢や小皿中皿など食器が多い。デザインも日本人好みの余白を十分とった絵画的な構成になっています。これは南京赤絵の手法です。

皿では高台内は車輪高台で、砂付高台。評価は寸法によって大いに違い、大きめのものが格段に評価が高い。

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*本日は早朝より四国へフライトです。四国から広島、明日は大阪からの帰京です。宿泊の出張や帰宅が遅い出張のため、ブログの原稿もままなりませんので、休稿もありえますのでご了解願います。

Ujisujou no wakaranu sakuhin  李朝堅手 把手付満月白磁壷

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青森からの帰りは地元の空港から帰りました。秋田犬の子犬が待ち構えていてくれました。



空港もむろん冬景色・・・。



さて、本日紹介する作品ですが、知識を得るためには作品を入手することはあっても、本格的に蒐集していない作品群のひとつに李朝の陶磁器があります。人気は高いのですが、それゆえ作品の判断が難しいことが理由です。

本日の作品も李朝の作品と思わますが、家内共々「なかなかいいね~」という感想は同じですが、その製作時期は当方の知識の範囲も超えており、判断に苦慮しています。ただ

李朝堅手? 把手付満月白磁壷
合箱
径201*最大幅350*底径180~185*高さ270



オークション時の説明には「灰褐色の土に粉っぽい白釉がかけられています。釉薬は柔らかく良い感じです。低い首の返しや、胴に1本ある釘彫は李朝初期の粉青沙器に見られる特徴です。腰高のフォルムも格好良く、これも又李朝初期の作行きの特徴です。刷毛目の作品は杯、徳利、碗などが多く壺、瓶類は大変少ない上これだけの大壺は希少な物だと思います。口緑から多くのニュウが見られますがジカンニュウと言う物に汚れが入っただけで割れてはいません。1箇所、耳の下の変色している部分はニュウが抜けていて古い韓国式の共直しのような物がされています。」とあります。



「胴に1本ある釘彫・・??」とありますが、これは下部と上部を繋ぎ合わせた跡で、李朝の壺の制作ではよく見られるものです。



胴の中央に接合した跡がある作品は「李朝白磁提灯壷」、「丸壷」、「算盤壺」、韓国では「満月壷」と呼ばれています。満月壺は度重なる戦火によりそのほとんどが割れてしまい現存する物は極めて少ないそうです。



李朝の概略は下記の記述によります。

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李朝:1392年に李成桂が樹立した朝鮮王朝は、儒教を統治理念とし、その後500年の長きに渡り栄華を誇った。この朝鮮王朝で最も好まれた焼物が白磁である。その理由は白磁特有の気品溢れる白が、清廉潔白・質素倹約を旨とする儒教思想に相通じるからであった。

当初、主に作られたのは、国王が用いるための器でいわゆる御器であった。そのため胎土は、民間では使えぬよう厳しく管理された。まだ中国での白磁の影響を色濃く受けており、胎土の精選・形の端整さ・釉薬の美しさ・仕上げの丁寧さなど全てにおいて最高のものを目指そうとした製作態度が伺える。

しかし17世紀の中頃に儒教が一般に広く普及し、その儀式に用いられる祭器が数多く作られるようになると、それに従い美的基準も変化した。胎土や釉薬を精選しないことにより、肌はやや青みを帯びるようになり、わずかなひずみや歪みなどは全く気にしなくなってしまう。施釉にムラがあってもそのままで、これはおそらく上辺を取り繕うことを嫌う儒教の潔癖性が影響しているからであろう。しかしこの不完全さこそがなによりの魅力で、今なお多くの日本人が朝鮮白磁を好むのもこの理由による。

その後18世紀に入り、広州に官窯の分院が設立されると、主に文房具などが作られるようになった。これらは実用具であるため、その造りは堅牢で肌はさらに青みを増した。美的価値の基準としては、趣味性に重きを置いた技巧主義が流行り、透かし彫り・陽刻・陰刻などが施された。しかしその文様はいたって簡素で、あくまで白磁の美しさを際立たせている。

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李朝初期に関しては下記の記述があります。

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李朝初期:初期の白磁は二系統あって、高麗白磁の釉胎を受け継ぎ軟質の胎土を用い、薄作りで、器形、分様ともに精緻なもので肌は半光沢で微細な貫入をともなう。

もう一方は硬質胎土を用いたもので粗雑な場合が多い。ただ前者は15世紀末以降には跡を絶ってしまうが、後者は象嵌施文のない白磁に形を変えて生き残る。昔、学んだ本に李朝初期白磁は石のように重くないと駄目だと書かれている。また硬質官窯の最上級品は、冷めた白色で、まれに高台内に天や上の字を伴なう物もあり、凛とした美しさがありたいへんに稀少だが、市場に出回っている李朝初期白磁の多くは、初期民窯の白磁の小壺類ばかりを散見する。李朝の初期作品は数が少なく、文献などでも限界がある。まして手に触れられる物は非常に少ない。

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上記の記述で「李朝初期」とする根拠は不明確に思われます。底には明確な高台はなく、粗削りされ釉薬は掛かっています。



珍しいのは把手があることです。たしかに把手の下部には共色での補修跡があります。



全体の感じから「堅手」という分類は間違いないでしょう。石はぜの後もあります。



口縁は共蓋が合いそうな作りになっています。



堅手の割には釉薬の変化に味があります。



意図的な贋作ではないと思われ、李朝の形に把手部分があることがそのフォルムに変化を与えています。なかなかの出来の作品と評価しています。



どこに鑑賞のポイントを見つけ出すかは蒐集するもの鑑識眼、もとい鑑賞眼によるものでしょう。日本での民芸陶磁器と通じるものがあり、李朝というフィルターだけでは掴み切れないもののようです。



陶磁器は真贋やどの系統の陶磁器に属するかを論じるよりも、その作品の良しあしを見抜ける鑑賞眼が大切だと思います。茶席などでどこどこの作や作者を論じるよりもその作行を論じることが大切ですが、なかなかそこまでたどり着くのたいへんな見識が必要となります。

掛け軸も陶磁器もそのことがとても大切で、その鑑賞眼を置き去りにして、鑑識眼にて真贋だけ問うのはどうも品がないように思います。



さて李朝民画「家具図」の前に飾ってみました。



飾り方ひとつで作品の雰囲気が違って見えるようです。李朝には李朝民画が良く似合うようです。これも鑑賞眼のひとつかもしれません。

蟷螂 郷倉千靭筆

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休日は天気が良かったので、久方ぶりに息子と洗車しました。車庫に入れておくとだいぶ汚れ方が違うようで、洗車が楽々です。当方は洗車のプロ?、息子は見習い中・・・。



さて、本日は男の隠れ家から整理のために持ち込んだ蒐集開始早々の頃の作品からの紹介です。

蟷螂 郷倉千靭筆
紙本淡彩軸装軸先木製 郷倉和子鑑定箱入
全体サイズ:横487*縦1655 画サイズ:横234*縦263



郷倉和子の鑑定箱入りの珍しい作品だと思います。



箱書は下記のとおりです。

 

「蟷螂の □□□□□ 山」の賛があり、おそらく色紙を軸装に改装したものでしょう。蟷螂を題材とした郷倉千靭の作品はいくつか存在してるようです。



賛は「蟷螂の 背に夕陽や 山霽るゝ(カマキリの 背にセキヨウや 山はるる)でしょう。(家内解)」。意味は「カマキリの背中は赤い(茶色い)ので、それを夕日にみたてている、あるいはイメージのつながりから気象に言葉がつながっているのでしょう。」との家内の説明です。



ついでに男の隠れ家から持ち込んだ作品をもうひとつ。こちらは以前、ブログに投稿されています。

松梅図 望月玉渓筆
絖本水墨淡彩緞子装軸 軸先陶製杉古箱
全体サイズ:縦1295*横665 画サイズ:縦633*横525



本作品は望月玉成の作品としてインターネットに出品されていたものです。玉成は玉渓の子息にあたります。望月玉渓は望月派の五代目です。



帝室技芸員の父・玉泉に学び、品格の良い作品を多く世に出し、伝統的な大和絵の最期の人といわれています。



驕らず謙虚で奥ゆかしく、高雅なる品位を保ち、その崇高な人柄の玉渓をその作品とともに敬愛する人たちは多いとのことです。



資料を探すと思文閣に掲載の「燕子花小魚図」は(画サイズ:520*350 着色)参考までに65万の値がつくなど評価が高いようです。本作品は梅と松、そして朝陽(朱のみ)をさらりとした淡彩で描いている伝統的な図柄です。



本作品は絖本に描かれた品格高い作品ですね。こういう作品の崇高さの解る御仁は少なくなった・・。

リメイク 宝巳之図 松村景文筆

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真の趣味人は仕事場に趣味を持ち込まないものです。骨董類の真の趣味人は蒐集した作品を仕事場に飾ったり、並べておくことはまずありません。



蒐集した作品はきちんと整理し、自宅でも目につくところにはおかないのが基本です。当方では例えば掛け軸は桐箪笥にきちんと収納しております。



額類や掛け軸も大きさ別に収納しています。



エアコンは必須ですね。



長さのある大きな掛け軸は専用に収納棚を設けています。



刀剣は乾燥しすぎてもいけないし、湿気も厳禁です。



蒐集したものを所狭しと放置しておくことは、蒐集するものとして失格でしょう。

さて本日紹介する作品は蒐集の初期に仙台の骨董店から購入した作品です。

宝巳之図 松村景文筆
絹本金泥淡彩絹装軸二重箱 画サイズ:横292*縦242



景文の作品には贋作が多いのですが、その一番の理由に弟子が生活に困窮し師の作品を模倣したためであり、また、景文がみかねてそれを認めたことが理由のようです。



景文が印章を与えという弟子の前川五嶺は二度と贋作は制作しないと誓っという記録や、弟子が墓参り時に贋作について謝罪したという記録があります。



同じ骨董店からの購入した作品への読者からのコメントで「贋作」という指摘がありましたが、この仙台の骨董店の店主は酸いも甘いも味あわせてくれた方で、いい勉強になりました。真贋をあまり重視しては骨董の面白みがないと教えていただいたように思います。



資金があれば、いい作品をいい筋から入手できます。資金がなく掘り出し物を重視すると贋作ばかりの蒐集となります。鑑識眼を磨くにはこの間が骨董蒐集の醍醐味と考えるのが妥当のように小生は考えています。



本作品は真作。小生と息子は巳年生まれ。お気に入りの作品のひとつです。



本作品の箱に「古今書画鑑定済真本也菊池氏珍蔵印」とありますが、おそらく個人的な鑑定・所蔵印であろうと思われます。文政4年(1821年 辛巳正月とある)の作品で景文43歳の作。



宝珠と白蛇の縁起物、いい作品です。



掛け軸の裏面などには湿気によってシミが出ていますが、うぶな表具のままなのでこのままとします。あまり神経質のなって、このような状態を黴臭いと表現される御仁がいますが、そのような方には骨董蒐集は不向きですね。

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