Quantcast
Channel: 夜噺骨董談義
Viewing all 2938 articles
Browse latest View live

山水図 貫名海屋筆 二点

$
0
0
郷里から送られてきた「きりたんぽ」を家族皆でいただきました。むろん息子は野菜を含めて大好きです。



そうそう、十三湖で買ってきた蜆と子持ちの鰰も美味しそうにに平らげました。「ママも食べて!」だと。本日から「ママ」、「パパ」から「お父さん」、「お母さん」と呼ぶようになりました。



さて本日は男の隠れ家から持ち込んだ貫名海屋の二点の山水画の紹介です。

山水画 伝貫名海屋筆 その1
絹本水墨軸装 軸先塗 合箱入 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横503*縦1330



本作品は号から判断して70歳以降の作品と判断されます。

 

賛には「人為観烟遊牧攸帷外間 結伴砕杯觴暮天客散 諌鐘動松葉源逕多夕陽 菘翁墨戯清題」と記され、意味は「遠くの景色を見ればもやがたちこめ、とばりがおり、うれえる所自然界はすばらしい。それにひきかえ、人間のすることといえば時間を忘れ、杯をくみかわし夢中になり仲良くなる者、争う者様々。時を告げる鐘の緒とに諌められて皆帰り散る。何と他愛のないことか。夕陽は松の一本一本すみずみまでまっすぐ日を照らしているというのに」という意味かと思われます。



賛の読みは現場で働いていたバックホーのオペレータの方によるものです。



なかなか良き出来で賛も気に入っています。



山水画においてその賛で社会風刺がされています。



「うれえる所自然界はすばらしい。それにひきかえ、人間のすることといえば時間を忘れ、杯をくみかわし夢中になり仲良くなる者、争う者様々。時を告げる鐘の緒とに諌められて皆帰り散る。何と他愛のないことか。」・・。



「夕陽は松の一本一本すみずみまでまっすぐ日を照らしているというのに」・・・・。



*******************************************

貫名海屋の生没年は、安永7年から文久3年(1778年~1863年)であり、享年86歳。70歳以降菘翁と号した。京都第一流の詩書画三絶の人と言われた。家は代々蜂須賀家に弓術師範として仕えたが、海屋は文筆に志して京都に出て、須静塾を開いて儒を講じた。南画の山水画とともに、書に優れ中国の古法帖を研究し、自らも壮年、中年、晩年と幾度か書風も変化している。特に晩年は、形にとらわれることなく、滋味に富んだ風韻の高い作品を遺している。

*******************************************

もうひとつの作品は青緑山水画です。

菘叟遽篤新黄魚肥山水之図 貫名海屋筆 その2
絹本着色軸装 軸先 梨霞山人鑑定箱入 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横330*縦1215

 

箱書きの題名は「菘叟遽篤新黄魚肥山水之図」と記されており、鑑定は「大正丁巳(大正6年 1917年)小春題於品誉々拝客居 梨霞山人」とあります。残念ながら梨霞山人についての詳細は不明です。

 

賛は「山色空濛恵脚飛半篤新瀧黄魚肥 菘翁遽」とあり、その読みは「山色空濛飛脚に恵まれ篤く新たなる滝に黄魚は肥ゆる」であろうと思われます。



上記の作品と同じ方に解読していただきました。



意味は「山肌に小雨がしとしと雨につつまれ沢は程よい水かさに恵まれ、半ば飛び跳ねる 小さな新しい瀧も出来て稚魚もよく育つことであろう。」という大意でしょう。



これもまた出来が良く、お気に入りの一副です。



山水画の掛け軸・・、気に入ったもののひとつは欲しいものですね。



当方は直観が一番の見極めですが、真贋を気にする方はどうぞ真贋を見極めてください。



「山色空濛飛脚に恵まれ篤く新たなる滝に黄魚は肥ゆる」・・・、少子高齢化はなぜ起きたかを問うているようにも思います。



人は自然の中で育つもの・・。



「人為観烟遊牧攸帷外間 結伴砕杯觴暮天客散 諌鐘動松葉源逕多夕陽 菘翁墨戯清題」・・・・・、もはや六十歳を過ぎたなら、金銭欲、出世欲などから離れた自然を愉しむ境地にありたいものです。


幕末古伊万里 鶴文様大皿

$
0
0
今週は名古屋の後は高松へ、そして車で瀬戸内海の島へフェリーで渡りました。



当日は広島へ泊り。



その夜は同僚らと市内の「八雲」というお店へ・・。



なんと飾ってあるのは浜田庄司、バーナードリーチ、河井寛次郎、島岡達三、芹沢圭介らの作品。



いいものを美味しい料理とともに堪能してきました。



さて本日の作品は幕末から明治にかけての伊万里の大皿です。骨董市などで大していいものがないときには古伊万里の器を購入したりして楽しんでいました。



今現在、身近にある大きな皿の作品を飾っています。

幕末古伊万里 鶴文様大皿
合箱
口径460*高さ55*高台径













幕末期から明治初期にかけてのちょっと下卑た他愛のない器ですが、そのうちに評価が上がるかもしれませんね。





翌日の昼食は広島市内のお蕎麦屋さんへ・・。



なかなか美味しいお蕎麦屋さんでした。



昼食後は大阪へ・・、そしてその日のうちに帰京しました。

明末呉須赤絵龍鳥牡丹文大皿

$
0
0
先週は九州へも・・、博多から北九州へ赴き、日帰りで羽田に帰ってきました。これで本年の飛行機での移動は終了となり、ほっとしています。

さて本日は本ブログでたびたび紹介してきた呉須赤絵の作品の紹介です。

明末呉須赤絵の作品はその言葉通り、明末から清初にかけて、官窯の衰退に伴って中国の南部,福建や広東方面の民窯で大量に生産され、各地に輸出された赤を主体として黄,緑,青の釉色の文様の皿や鉢をメインとした磁器群の器です。

当方では同時期の赤絵の作品をいくつか本ブログにて紹介してきましたが、その一部と並べて撮影してみました。この時期の赤絵の作品だけで数十点になりましたし、大きめの皿が多くなりました。



今までとは文様がちょっと違う大皿です。

明末呉須赤絵龍鳥牡丹文大皿
合箱入
全体サイズ:口径390*高台径*高さ80

<

この器群は明末と清初では評価が大きく異なります。時代が下がるにつれて、口縁の釉薬が剥がれる虫喰と呼ばれる個所が少なくなり、高台周りの砂付きも徐々にきれいになり、要は全体に完品に近くなります。



*本作品も虫喰部分を朱の漆で埋めています。このようなことをしないほうがよいのですが・・。





日本人が好んだ奔放さがなくなっていくことで、絵自体にも面白味が少なくなるために、作品の評価も大幅に下がります。これは日本特有の評価で、不完全さゆえの味を大きく評価する観点です。



絵の奔放さと器の焼成の不完全さがマッチした作品こそが呉須赤絵の真骨頂なのでしょう。ところが、最近その良さを理解せずに完品のほうを重宝がる御仁がいます。とくに女性に多いと思うのですが、不完全さや奔放さよりきれいな作品を求める傾向があるのは、とても残念なことです。



絵が奔放で作りが豪放な作品の完品は非常に数が少なく、あったとしてもとても高いので、当方は補修の跡のある作品が多い中からの作品を蒐集の対象としています。



本作品の中央の見込みには奥田潁川などがよく描いた麒麟のような想像上の奇獣が描かれています。



周囲には鳳凰のような鳥の文様。



大きなボタンが印象的ですね。



大きく割れていますが、このような割れは評価には大きく影響しないというのが当方の意見です。



本作品の高台はきれいなほうです。もっと豪放な高台の作品が時代が古いかもしれません。



高台周りの砂はこの程度は薄汚くついているのがいい作品の条件のようです。



形は歪んだものを良しとしています。



このような捻った評価をできてきた日本人の感性は凄いと思いますね。それが茶の文化となり、民芸運動の根底まで根付いているように思います。



この感性を失いつつある日本はどうなるのでしょうか?

柿釉面取抜繪花瓶 浜田庄司作 その27(花瓶 その7)

$
0
0
先週はタケノコ芋の収穫・・、会社にて同僚らに配りました。



広島で浜田庄司らの作品を観てきたので、刺激を受けて本日は浜田庄司の作品の紹介です。

柿釉面取抜繪花瓶 浜田庄司作 その27(花瓶 その7)
杉共箱入
高さ305*胴径150~125*口径90*高台径102



浜田氏のトレードマークともいえるサトウキビをモチーフにした唐黍(きび)文が蝋抜きで描かれた花瓶です。



高さが30cmを超える作品は浜田庄司の花瓶には珍しく、それゆえ大きくなると評価は高くなりますが、その中でも作行きが良いものといえます。



浜田庄司と称する作品には贋作が多いので、注意を要する作品が多いのですが、本ブログで紹介する作品は「伝」とない限りすべて真作と判断しています。



浜田庄司の作品はそのフォルムと釉薬が真骨頂です。



赤絵ばかりが注目される浜田庄司の作ですが、本来はその釉薬にあります。本作品は特に蝋抜きの周囲の釉薬に抜群の出来栄えがあります。



むろん本作品は共箱が付いています。共箱のない作品は売買の対象では評価が低くなりますが、見極めることのできる人には大した問題ではありません。



陶磁器の作品は箱から作品を取り出さなくても作品が解るようにしておくことが大切です。



作品の出し入れで作品を壊すことが多いからです。



釉薬の魅力を引き継いだ陶芸家は金城次郎ですが、銘のある作品、人間国宝になってからの作品にはその魅力が失せてしまっています。



タケノコ芋のごとく力強く大地から生えてきたような浜田庄司の作品・・、作品はその鑑賞眼にて判断することが大切です。

李朝民画 冊架図

$
0
0
先週末は自宅にてすき焼きを食べることになりましたが、野菜は自家にて供給することとなり、義父が肺炎の恐れがあることから、一週間畑に出ていないので、家内は息子と畑で野菜を採ってくることにしたようです。



息子は一輪車の扱いも慣れてきたようで頑張っています。



肉の下拵えもお手伝い・・・。詳しくは家内のブログへ・・・。



本日紹介する作品は、李朝独特の文房静物画です。

李朝民画 冊架図
紙本着色裏打まくり
画サイズ:縦1100*横500



逆遠近法で描かれた李朝民画です。棚に放置されていたので、額装にしてみました。



非常にモダンな作風となっていますが、野菜や魚が文房具と一緒になぜ描かているのか不思議ですね。



柳宗悦によって、民芸運動の一環にて見直されましたが、こういう絵を高く評価するのが日本人の感性のようです。

松絵紋二彩唐津大徳利 古武雄焼(二川焼)

$
0
0
案の定、日本のサッカーは弱かった。韓国に大敗した試合はひどかったですね。完全な実力の差、戦略のミスがあり、日本のサッカーの弱点をすべてさらけ出したかのようです。

まずはJリーグの日本人の実力が露見しましたね。組織力が売り物の日本人が、付け刃的なチームで勝てるはずもないように思います。海外に多くの選手が出ている状況のチームでは組織力を生かせず、ワールドカップではきっと惨敗するだろし、日頃のJリーグも応援する気持ちになれません。要は野球やラグビーと違ってトップの指導・強化の見識がないのが日本のサッカー界の状況と言えるかもしれません。マスコミに踊らされて見るに値しない試合に時間を費やすのはいい加減やめたくなります。

そういえば幼稚な女性の集まりの歌手グループに夢中になったり、スマホでゲームに夢中になったり、現代の若者たちよ、貴重な時間を無駄にするな!と言いたくなります。地道に王道を歩む時間こそ若い人には大切であろうと思います。

本日紹介する作品は本ブログで幾度か紹介している弓野焼と同類に分類されている古武雄焼の二川窯の作品と推察される作品です。

松絵紋二彩唐津大徳利 古武雄焼(二川焼)
「小さな蕾」(2001年4月号 「骨董と偲ぶ」)掲載作品 合箱
口径*胴径135*高台径*高さ240



白刷毛目の上に鉄釉と銅緑釉で松絵を描いたもので弓野よりも時代が若くなる二川窯のものではないかと推察されます。



弓野焼は再興されており、江戸期の作品と昭和期の作品が混同されていることが多いので要注意です。なお本作品は江戸期の弓野焼より釉薬のてかりが多くあり、少し時代の下がった二川窯と思われます。「小さな蕾」(2001年4月号 「骨董と偲ぶ」)掲載されている作品と同一のようです。



江戸期の弓野焼よりも成型が整っています。



文様もユニークながら刷毛目も見どころとなっています。



徳利というよりも一輪挿しにうってつけの器です。



他の弓野焼系統の作品は以下の二つが本ブログにて投稿されています。

松絵紋二彩唐津水指 古弓野焼(古武雄)
漆蓋 合箱
口径115*胴径165*底径88*高さ145



松絵紋二彩唐津水甕 古弓野焼
合箱
口径320*胴径355*高台径130*高さ295



同型に作品はなんでも鑑定団に二作品出品されていますが、その評価は下記のとおりです。

「佐賀県武雄市の郊外、弓野の地を中心に作られたもので、昔から「弓野の松絵の壺」と呼ばれた。依頼品は江戸時代前期の作品と思われる。全体に化粧掛けを施して、鉄絵と緑の釉薬で松を一気呵成に描いている。そのためこれだけの躍動感と迫力が生まれた。現在では作られなくなったため、「古武雄」と呼ばれる。」(2014年5月13日放送 「IN 山形県河北町」 評価金額120万円・・??)

「江戸時代前期に作られた古武雄の水甕に間違いない。かつては民藝陶器の分野に入れられていたものだが、当地の陶芸家で人間国宝の中島宏氏がこれを収集・研究して肥前陶磁史上に古武雄として確立した。鉄分を含んだ赤い土をろくろの上で立ち上げ、回して形を作る。そして回しながら水に溶かした白泥を刷毛目で塗っていくため、白い部分に濃淡が出て、絵が浮き上がる。鉄絵具で一気呵成に松を描き、裏には岩を描いている。この力強さに棟方志功も感動して半日口をきかなかったという。またピカソはこれこそ本物の芸術だとうなったといわれる。」(2016年2月16日放送 「IN佐賀県 嬉野市」 評価金額は60万円・・??)



上記の作品はなかなかいい出来です。雑器としてあまり評価されることがなかった作品群ですが、評価金額はさておき、近年は高く評価されつつあるようです。

柳燕図 福田豊四郎筆 その3

$
0
0
週末には近所の神社で「やきいも大会」、畑で採れたサツマイモを持参。



だんだんとひとつひとつの仕草が少年になってきた。



今までのように「かわいい」という感覚からおかしく思うかもしれないが徐々に「友達」感覚になってきたように思う。父親として伝えるものを伝える時期が近付いているような感覚・・。自ずと躾が厳しくなっていくのだろう。伝えるべきものも準備・・、蒐集作品もそのひとつなのかな?

そこで我が家に代々伝わる作品の一つを改めて紹介します。

リメイク 柳燕図 福田豊四郎筆 その3
絹本(絖本)淡彩軸装 軸先陶製 合箱入
全体サイズ:縦1338*466 画サイズ:縦506*横350



本作品は福田豊四郎氏が当家本家にて、祖母の依頼に応じて羽織の裏地の絹地に描いたものです。よって絹でも高級な生地に描かれているようです。



その後にそのままの状態で別家の我家が所蔵することになりました。どのような経緯で所蔵となったかは不明ですが、数多くの作品を祖母は豊四郎氏に頼んでいたとのことです。



祖母の生前には多くの作品が手元にありましたが、病床に就いた際に、まわりの面倒を看てくれた人に分け与えたようです。



姉が嫁ぐ際にに母が幾つか分け与えた美術品のひとつでした。その後に縁あって私が譲り受け、掛け軸に表具しました。



初期の作風でみずみずしくていい作品だと思っています。本家、別家、嫁ぎ先、また当家へと変遷した作品のため、大事にしたい一品です。いずれ息子に伝わるものの一つです。代々遺るように説明書きや表具の状態をきちんとしておきます。このような掛け軸の維持管理の方法を覚えている方はどんどん少なくなっているのでしょうね。



作風は師であった土田麦僊の作品に似ており影響が窺えます。

Wsuresarareta Gaka 春景山水 寺崎廣業筆 その61

$
0
0
我が郷土出身の画家である寺崎廣業の作品ですが、本ブログで紹介された作品数が60を超えました。多作で贋作が多く存在する画家ですので、幾つかの贋作にも惑わされながらの蒐集でしたが、経験を積むうちに徐々に惑わされずに蒐集できるようになりました。

本ブログにおいて多少贋作に惑わされた作品については、売買目的ではないので、真贋ばかりにこだわるよりも作品そのものを愉しむという観点での作品紹介ですので、その点は寛容にブログを鑑賞していただけると幸いです。

本日紹介する着色の山水画は明治末から大正初期にかけての寺崎廣業の得意とする作品群です。私の蒐集作品の良き評価者である家内からも「この絵は好き!」という評価でした。

春景山水 寺崎廣業筆 その61
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1260*横505



同時代の横山大観や菱田春草らが朦朧体という手法を編み出して、空間描写に新しい工夫を加えたのに対し、寺崎廣業は南画の筆致を加えた独自の画境を生み出しています。



やや高い位置から俯瞰する構図の取り方、木々や川の流れの描写、遠景の山々の描き方などに色濃く南画の画面構成がうかがえる作品です。



寺崎廣業の明治末に描かれた彩色の山水画は寺崎廣業の作品の中でも注目されてよい作品だと思います。本ブログにも多くの作品が紹介されていますので、他の作品も参考にしてください。



この時期の落款、印章、箱書などはほぼ同一のものです。白文朱方印「騰龍軒主」、朱文白方印「天籟」が押印されています。箱の印章は「廣業」の丸重ね(だるま)印です。

 

当時はかなり評価が高かったのでしょう。軸先が象牙で、二重箱にてきちんと保管されているのはうれしいものです。



この時期の寺崎廣業の作品が、おかげさまで春夏秋冬、各季節ごとに揃ってきました。現在では見抜きもされていにない寺崎廣業の作品ですが、郷土出身の画家ですので、大切に保管していきたいと思っています。



天才肌の画家ではなく、地道に努力して画力を積み上げた画家ですが、晩年は多作に陥ったことによって、没後の人気は落ち込んでいます。



ただ美人画から近代南画による風景画へと変遷し、近代画壇に多大な影響を与えています。



横山大観、上村松園らの表具は格別なもので、これらの画家の表具などの誂えも掛け軸の愉しみのひとつですが、特に近代画の表具は古画とはまた違った豪華さがあります。



いい作品の表具は軸先の重さ、表具の乱れのなさが違い、こういう感覚は扱う者にしか解らないでしょうが、こういうことも掛け軸の愉しみのひとつです。


氏素性の解らぬ作品 花咲く富士 伝片岡球子筆 その2

$
0
0
昨日は赤坂見附で会食。昨年に続き同僚らとの忘年会です。玄関には魯山人の透かし壺や宴席には棟方志功の書などがあり、またまた愉しいひと時でありました。先代のおかみさんが蒐集した作品だそうです。



さて、本日はそのような高尚な蒐集作品とは違う作品の紹介です。

良くて来ている?ので購入。蒐集というのはすべて真作でも困る時があるものです。「本物ですか?」と聞かれて、「さてね。」とすべての作品について答えることにしていますが、煙草を吸うところや簡単に盗まれる可能性のあるところに大切なお気に入りの真作は飾って置けないものですが、といって下手な贋作やリトグラフなどの肉筆でないものも面白くありませんので、前述のように本心から「どうでしょうね~。」とお答えできる作品があると便利?です。



本日はそういう作品のひとつを投稿します。

花咲く富士 片岡球子筆
紙着色額装 共シール 
全体サイズ:横460*縦415 画サイズ:横560*縦320



前回は上村松園の作品を紹介しましたが、真贋の瀬戸際にある気に入った作品は真作よりも入手がなかなか難しいものです。橋本関雪などの作品ではあまりにも稚拙な贋作でつまらなかったこともあります。

共シールに落款、ここまでの努力は称賛に価する。

 

さすがの家内も「いいんじゃないの。」だと・・、これは小倉遊亀の時と同じ反応・・。家内を騙せる?作品はかなりの出来・・



多少気になるのは絵の具の染み込み・・・。



本ブログには「私の探し物」として下記の作品が投稿されています。下記の作品はむろん真作です。

参考作品

紅の富士 片岡球子筆 その1
本着色額装 共シール  
画サイズ592*485



このように実際に真作が手元にあったことが、見極めの大きな拠り所になりますが、小生のように懲りずに物覚えが悪く、鑑賞眼にセンスの悪いものには長い年月が必要のようです。

 

いつかはきちんとした真作を・・。小倉遊亀に片岡珠子・・、我が展示室がリッチに見えますね。



「これは贋作?」ですって、「さてね、野暮な質問はお答えしかねるもので・・。」

片岡球子には同題の作品は数多くありますが、ちなみに下記の作品はリトグラフです。

花咲く富士
技法:リトグラフ 画寸:35.0 × 45.0 cm  制作年:2010年
限定部数:240 承認:片岡雍子監



構図はほぼ同じ、本作品をコピーと見做すは商売人。大きさもあり、肉筆であり、リトグラフよりよほどいいと見做すのが趣味人。

リメイク 仙女白兎(嫦娥)図 立原杏所筆 その1

$
0
0
施設を移った母を訪問。息子がお薄を点てました。



ちょっと風邪気味で声が出ない母を心配し、無事に新年が迎えることを祈るばかりです。



92歳の母の長寿を願い、下記の作品をリメイクして投稿します。

リメイク 仙女白兎(嫦娥)図 立原杏所筆
紙本絹装水墨淡彩 西村南岳極箱 
画サイズ:620*1320



************************************

立原杏所:天明5年生まれ、天保11年没(1785年~1840年)、享年56歳。名は任、字は子遠。号は杏所、東軒、玉琤舎。水戸藩彰考館総裁の翠軒の子で、父より学問を受け、画を谷文晁に学んで一家を成したが、南画的画体である。

***********************************



***********************************

極め書きをしている西村南岳は早稲田大学卒業後、大日本茶道会の田中仙樵の秘書となり、その後貴族議員佐々木嘉太郎の秘書をし、その間に古書画の勉強をした人。

***********************************

本作品は昭和30年頃に締め直ししてものと考えらています。傷補修等を行い、大事にされていたことが窺えます。立原杏所は知名度が低いわりには評価が高く、贋作が多い画家の一人であります。



出来・印章・落款から真筆判していますが、このような大作、作行は珍しくまさに「妙蹟」といえるのでしょう。



「嫦娥」は下記の言い伝えによります。実は盗み人で蝦蟇・・・

***********************************

嫦娥(恒娥または常娥とも書く):ゲイという弓の名手がいました。ある日、いっぺんに10個の太陽が昇ってきて、世界を焼け焦がした時、ゲイは得意の弓で太陽を余分な太陽を射落として世界を救いました。 この時の褒美として、ゲイは西王母という女神から不老不死の妙薬をもらったのですが、ゲイの妻である嫦娥が薬を盗んで逃げてしまいました。 嫦娥は薬を飲み、仙人になると、蝦蟇に姿を変えて月に昇りました。月の表面に見える蝦蟇のような斑点は嫦娥の姿なのです。嫦娥は月の女神とも言われ、兎とともに描かれることが多い。

***********************************

不老不死はいつの世でも、万人の願い事のようで・・。



雨後 川村漫舟筆 その2

$
0
0
週末はクリスマスイブを兼ねて息子の4歳の誕生会を催しました。まずは乾杯!



何年も使っている小さめのクリスマスツリーを飾りました。



クリスマスプレゼント、誕生祝、お年玉・・・、すべてを兼ねているから親は楽?



プレゼントしたのは図鑑とお歌のCD。早速音楽に合わせてはしゃいでいました。



本日の作品紹介は下記の作品です。

雨後 川村漫舟筆 その2
絹装軸絹本着色共箱 
画サイズ:横418*1175



雨が上がった後の山林のなかに寺社の屋根が浮かび上がった風景を実写とも、想像ともつかぬ世界を描きあげています。




雨後を題材として中でも秀作と言え、川村漫舟の面目躍如たる作品であろうと思います。






***********************************

川村 曼舟(かわむら まんしゅう、1880年7月9日 - 1942年11月7日)は、日本画家。京都生まれ。本名は万蔵。

  

山元春挙に師事し、1902年新古美術品展で三等賞、1906年京都市立美術工芸学校助教諭、1910年教諭。1908年文展で三等賞、1916年「竹生島」で特選、翌年「日本三景」で特選、1922年京都市立絵画専門学校教授、1936年校長(兼美術工芸学校長)。春挙門下四天王の一人と言われ、師の没後早苗会を主宰。1931年帝国美術院会員、37年帝国芸術院会員。

***********************************

実写とも、想像ともつかぬ世界・・、この世はそんなもの。

兎 橋本関雪筆 その6

$
0
0
息子の4歳の誕生日にケーキ、クリスマスイブで菓子屋さんは大行列でした。



蠟燭は縁起よく7本・。



家内はチキン料理っで大忙しでした。



さて本日は仕事収めで明日から郷里に帰省します。明日からしばしブログは休稿となります。郷里ではまたいつものメンバーで同級会がありますが、久方ぶりに自宅を設計してくれた同級生が泊まりに来るのも愉しみです。

本日紹介する作品は動物画にその真骨頂のある橋本関雪の作品の紹介です。

兎 橋本関雪筆
絹本淡彩色紙 
画サイズ:縦270*横240



兎の干支にあたる年に描かれた可能性があります。





南画系統の作品と動物画に橋本関雪の作品の魅力がありますが、動物画に対する評価のほうが高いようです。



本作品は筆致から真作と判断していますが、橋本関雪には得意とする分野別に代表的な贋作者が二人いるとか・・。山水画と動物画に分かれているのかもしれませんね。橋本関雪の作品の良し悪しには十分に注意を要する必要があるようです。

 

飾るのは兎? おっと、来年の干支の作品を探さなくては・・。

それでは、皆さま本年中はご愛読、ご指導をありがとうございました。来年はそろそろ「ネタ切れ」でまだ続くかどうか分かりませんが、よろしくお願いいたします。皆様が良いお年を迎えられますように祈念しております。

soredeha mata rainen

$
0
0
本日から早朝の新幹線で帰省しますので、ブログはしばし休稿とさせていただきます。

本年中はたいへんお世話になりました。
また来年もよろしくお願いいたします。
皆様が良い年を迎えられますように。

akemasite omedetougozaimasu

$
0
0
明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。

けしの花 伝神坂雪佳筆 その2

$
0
0
*不覚にもインフルエンザ発症につき自宅にて隔離療養中。師走は忙しく体調が思わしくなかったのだが、帰省して帰京するハードさがダメ出しになったようです。予防接種も効き目なし 高熱に強烈な喉に痛み・・・、ベットでじ~っとしています。一年の計を朦朧とした頭で考えていますが、また熱が出ていきました。

日本人は独自の文化を持ち、発展し続けてきた。欧米列強の文明、文化を取り入れてきたが、ここにきて日本発展に疑問符が生まれてきている。それはなぜか? その原因を辿ると戦後の教育に思いあたることになろう。戦後の教育で育ってきた我々が後継を作っているが、脈々と続いてきた日本人の精神をきちんと受け継いで、受け繋いでいるのであろうか?

戦後の教育はGHQ支配下でアメリカによって土台が作られたといっても過言ではない。日本の精神性の高さは道徳心の高さはその前の教育によって生まれてきたが、その後の教育はアメリカに逆らわない国として作られている。日本の文化、精神性は独自性が薄れ、日本の精神性の高い文化の比重は格段に低くなった。武士道、茶の心といったものが希薄になった日本人の精神はきちんと見直すことが必要ではないのかと思う。

さて本日は画業に於いてそのような境地で描き続けた画家の紹介です。

けしの花 伝神坂雪佳筆 その1
金紙本着色 額装
作品サイズ:縦310*横270



**************************************

神坂雪佳:(かみさか せっか)慶応2年1月12日(1866年2月26日) ~ 昭和17年(1942年)1月4日)。近現代の日本の画家であり、図案家。京都に暮らし、明治から昭和にかけての時期に、絵画と工芸の分野で多岐にわたる活動をした。本名は吉隆(よしたか)。



京都御所警護の武士・神坂吉重の長男として、幕末の京都・栗田口(現・京都市栗田口)に生まれる。1881年(明治14年)、16歳で四条派の日本画家・鈴木瑞彦に師事して絵画を学び、装飾芸術への関心を高めたのちの1890年(明治23年)には図案家・岸光景に師事し、工芸意匠図案を学ぶ。琳派の研究を始めたのはこの頃であった。



1901年(明治34年)には、イギリスのグラスゴーで開催されたグラスゴー国際博覧会 (Glasgow International Exhibition) の視察を目的とし、世界各地の図案の調査を兼ねて渡欧。当時のヨーロッパではジャポニスムが流行し、日本美術の影響を受けたアール・ヌーヴォーが花開いていた。神坂もそこで日本の優れた装飾芸術を再認識したという。 琳派に傾倒し、デフォルメ、クローズアップ、トリミングを用いた大胆な構図や「たらしこみ」の技法など、琳派の影響を受けながらもモダンで明快な作風である。染織や陶芸・漆芸など暮らしを装う工芸品の図案も積極的に行った。蒔絵師の神坂祐吉は雪佳の実弟で、雪佳が図案した作品も多い。 1942年(昭和17年)1月4日、77歳で死去した。

**************************************

神坂雪佳の作品は以前に紹介した下記の作品があります。

紫陽花 神坂雪佳筆 その1
色紙 絹本着色



神坂雪佳は琳派に深く傾倒し、たらしこみなどの琳派独特の技法や構図を生かした作品を多数描いたことから、近代における琳派の継承者として位置づけられています。また、工芸分野でも幅広く活躍し、日本における近代デザインの先駆者としても評価されています。2001年には日本人として初めてフランスのファッションブランド・エルメスの雑誌の表紙を飾ったことで話題となりました。



雪佳は実はアール・ヌーヴォーは吐き気を催すほど嫌なもので、自分は参考にするつもりもない、と評価しています。雪佳は、西洋のものは素晴らしいと妄信してアール・ヌーヴォーをもてはやし、そのまま模倣してしまう風潮を強く批判しました。アール・ヌーヴォーは西洋に大量にもたらされた日本美術に影響を受け、伝統に囚われない新しい美術工芸様式を求めて生まれたものですが、雪佳はそのことを現地で感じ、西洋に新しい美術を生み出すほどの力が日本の美術にはあるのだから、根底にある古典や琳派といった日本の美術をより深く学ぶことが、新しい美術・デザインを生み出すには不可欠だ、と考えました。雪佳にとって、アール・ヌーヴォーとの出会いは琳派をはじめとした日本の美術・デザインの素晴らしさを改めて実感した出来事でしあったようです。

「その1」と「その2」の落款と印章を比較してみました。

 

ヨーロッパから戻った後、雪佳は以前以上に琳派の研究に熱心に取り組むようになりました。琳派の特徴は、大和絵と呼ばれる日本の伝統的な絵画をベースにした、デザイン性や装飾性豊かな表現にあります。雪佳は琳派の代表的な技法である「たらしこみ(絵具が乾く前に別の色の絵具をたらして滲ませる技法)」をはじめ、大胆なデフォルメやトリミング、クローズアップといった構図取りを学び、同時に西洋的な抽象表現やモダンな感覚も取り入れた、近代的な琳派の作風を目指しました。伝統と革新を融合させた雪佳の作風は高い評価を受け、やがて"琳派の再来"とも呼ばれるようになります。

参考作品:代表作「金魚玉図」



雪佳は作品制作だけでなく、自ら琳派に関する研究論文を執筆・発表したり、琳派の展覧会を主催したりと、琳派の普及活動も精力的に行いました。大正2年(1914)に発足した琳派の祖・本阿弥光悦の200回忌にあわせて発足した茶会「光悦会」には発起人として参加し、企画運営にも携わりました。この「光悦会」は日本を代表する茶会のひとつとして現在まで続いており、毎年11月に光悦の屋敷跡である鷹峯・光悦寺にて開催されています。

参考作品:代表作「狗犬」



日本画には魅力ある作品がたくさんあります。古い掛け軸や陶磁器、漆器など日本文化をもって大切にしましょう。そこに学ぶのは「かわいい」という表現では語り切れない高い精神性です。

スマホにばかり夢中になったりするより本を読め! 幼稚なエロい女性グループに夢中になる時間があったら打ち込めるものを持て! 流行やマスコミに流される今の若者には何かが足りないと思うには小生だけだろうか?


源内焼 その109 楼閣文角皿 

$
0
0
未だインフルエンザは快癒せず・・・、ブログは昨年末に書き溜めたままを投稿せざる得ない状況です。ご容赦願います。

フィギュアスケートのオリンピック選考を兼ねた全日本選手権を観ていて感じたのは、真に練習に打ち込んだ選手が代表になったという思いです。「甘い」選手はミスを犯したということでしょう。「かわいいだけ」では、真に打ち込んだ選手には勝てないものですね。中学校、高校から真に打ち込めるものを持つ人は幸いです。人生は愛する人がいることとしんに打ち込めるものがあったらこれ以上の至福はありません。

さて、懲りずに紹介する源内焼は蒐集した作品が100を超えましたが、未だに入手できたいないのが代表的な「地図皿」の大皿です。非常に数が少ない作品で今までに一度だけ入手のチャンスがありましたが、とても高価で手が出ませんでした。いつかは・・・・・。

市場には興味を惹く作品が乏しくなってきましたが、ときおり本日のような蒐集にはない図柄の作品を入手しています。

源内焼 その109 楼閣文角皿 
合箱入 
幅155*奥行155*高さ35



地図大皿を入手して、蒐集に終止符を打ちたいものですが、こういう作品も魅力的であることから興味は尽きません。



秋田蘭画のように、平賀源内の指導で源内焼の図柄も決まったのでしょうが、このデザインセンスは一級品ですね。



古九谷や古伊万里、古清水とは違った魅力に溢れています。



もっともっと人気がでないものかな? 大きな展示会が開催されないものかな? と常日頃から思っているのですが、その兆候すら未だにありません。



軟陶磁器の源内焼ですので、すべて収納箱に入れて保存していますが、今後の蒐集は後継者に任せていくことになります。

諸国に稼がれていた日本、それを防止しようと国内で三彩の陶磁器を作り出した平賀源内。その気概は大いに見習うべき点です。

観音図 中谷光炎筆

$
0
0
インフルエンザの熱から解放されつつあるも今度は、耳鼻科へ・・・。中耳炎を併発して可能性があるためだが、医者からも「ご自身のお見立て通り!」と言われてしまい、飲む薬が倍増しました。やはり日帰り出張の飛行機の強行軍も影響したようだ。

さて本日は日本画で仏画というと、村上華岳、木村武山、山田真山、石川晴彦らがいますが、本日はあまり知られていない中谷光炎の作品の紹介です。

観音図 中谷光炎筆
紙本水墨着色額装
全体サイズ:横555*縦1041 画サイズ:横330*縦815



中谷光炎:日本画家。明治27年(1894)生。東京の人。野田九浦に師事。帝展・日展で活躍。昭和50年(1975)存、歿年不明。

 

しっかりした額装になっていますが、シミが発生しているが残念です。額装でもシミが発生しますので要注意ですね。



仏画などは蒐集としては難しいもので、当方はあまり蒐集対象としていません。とくに霊感などはないのですが、その作品の所蔵されてきた人の思いによっては所蔵者に悪いものが憑りつく気がするものですから・・。



入手する場合は作品から受けるイメージが清涼感のあるものを選ぶようにしています。



今回はシミが発生してるので、保存をきちんとしておくことがいいことかと思い入手に踏み切っています。



シミの発生を防ぐからと乾燥しすぎるのも漆器や彫刻、刀剣類にもよくないのでバランスが大切です。



各々保管する場所は統一して、掛け軸は掛け軸、刀剣は刀剣、漆器は漆器とするのが良いでしょう。

男の隠れ家もほっと置くと湿度の高い場所があり、今回の帰省でも何点か持ち帰ってきています。

恒例の干支作品 & 藤田東湖 二行書

$
0
0
今年は1月2日に帰郷したものの、高熱を発し、3日に緊急病院にてインフルエンザB型と断定されました。4・5日と休みと取ったのですが、中耳炎を併発、5日と8日に耳鼻科へ・・・。9日になんとか出社したものの回復が芳しくなく、早々に退社。10日に再々ド耳鼻科へ・・。少しは回復しているらしいのですが、早急な回復は難しいらしい。この症状がおさまってきてから小生の新年は来るような気配・・。いつもの干支の作品が届いて、写真撮影が完了してようやく小生の新年が明けたようです。



同僚が毎年作って送ってくれる干支の作品、今年は「戌」。ストラップにちょうど良い大きさの愛らしい作品が届きました。「米」は本ブログへのコメントのハンドルネーム?でもあります。



昨年の「酉」からジョッキが無くなったと嘆いていたら、ジョッキも届きました。ありがたいことです。新年早々、インフルエンザで最悪な状態で迎えましたが、これで厄落とし完了!



この酉の置物をみた家内のお茶の稽古仲間の妙齢の女史らが「え!、これって手作り!」と大感激していまいした。「誰? 誰??」・・・と、知っている人もいたようですよ。



さて本日紹介するのは、小生がまだ30代であった頃に購入した書の作品です。小生の骨董蒐集の置き場所である「男の隠れ家」にはまだ未整理の作品がありそうです。パソコンでデータ整理する前の頃なので、再整理する必要がありますが、時間がかかりそうですし、それほどの労力を費やす価値のある作品であるかどうか迷うところです。

二行書 藤田東湖筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦305*横96



前所蔵者は地元のお寺の前の住職であり、箱書もその方によるものです。地元では骨董蒐集で有名な方でした。



「至大至剛気 由来塞天地 誰知方寸間 唯有一無媿 有感 東湖彪 押印」
「人生は若い時代には、剛の気にて失敗することはある。しかしこの世には誰もが身に覚えのあることで、若いうちには何一つ愧じることはない。」(若い時代の失敗を教訓とする訓示)



若い時には失敗を恐れずにチャレンジすることの大切さを説いた書のようです。安政の大地震で母を救うために命を落とした藤田東湖・・。

  

*********************************

藤田東湖(ふじた とうこ):江戸時代末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。文化3年3月16日(1806年5月4日)生まれ、 安政2年10月2日(1855年11月11日)没。改名「彪」 別名の字は「斌卿、通称:虎之助、虎之介、武次郎、誠之進、号:東湖、梅庵 」など。官位は贈正四位。

戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭(常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父)の腹心として水戸の両田と称された。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される。特に水戸学の大家として著名であり、全国の尊皇志士に大きな影響を与えた。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)といい、虎之助、武次郎、誠之進の通称を持つ。号の「東湖」は生家が千波湖を東に望むことにちなむという。東湖の他には梅庵という号も用いた。

藤田氏の遠祖は小野篁に遡るというが不明。のちに常陸国へ移り、那珂郡飯田村中島で百姓となったという。曽祖父・与左衛門の代に水戸城下に移り、商家に奉公してのれん分けを許され店を開いた。祖父・与右衛門(言徳)は水戸城下の奈良屋町で屋号「藤田屋」という古着屋を営んでいたが、学問を好んだ。その次男が東湖の父・幽谷で、幼少時より学才高く神童とうたわれ、立原翠軒の私塾に入門した。さらに彰考館の館員となって頭角を現し、水戸藩士分に列した。幽谷には2男4女があった(東湖からすると兄1人・姉1人・妹3人)。長男の熊太郎は東湖の誕生前に早世していたため、東湖は唯一の男子として育てられた。

文化3年(1806年)、水戸城下の藤田家屋敷に生まれる。父は水戸学者・藤田幽谷、母は町与力丹氏の娘・梅。次男であるが、兄の熊太郎は早世したため、嗣子として育つ。

文政10年(1827年)に家督を相続し、進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集や彰考館総裁代役などを歴任する。また、当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。文政12年(1829年)の水戸藩主継嗣問題にあたっては斉昭派に与し、同年の斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、天保11年(1840年)には側用人として藩政改革にあたるなど、藩主・斉昭の絶大な信用を得るに至った。

しかし、弘化元年(1844年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪される。翌弘化2年(1845年)2月に幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。この幽閉・蟄居中に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』など多くの著作が書かれた。理念や覚悟を述べるとともに、全体をとおして現状に対する悲憤を漂わせており、幕末の志士たちに深い影響を与えることとなった。

弘化4年(1847年)には水戸城下竹隈町の蟄居屋敷に移され、嘉永5年(1852年)にようやく処分を解かれた。藩政復帰の機会は早く、翌嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、江戸幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。安政元年(1854年)には側用人に復帰している。

安政2年10月2日(1855年)に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。当日、東湖は家老の岡田兵部宅へ藩政に関する相談をするために訪問し、中座して自宅に戻った際、地震に遭遇した。地震発生時に東湖は一度脱出するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、救出に来た兵部らの助けもあって、何とか母親を脱出させるが、自身は母親の無事を確認した後に力尽き、下敷きとなって圧死したといわれる。

藩邸跡である東京都文京区後楽には「藤田東湖護母致命の処」と記された案内板がある。藩邸跡に建立されていた記念碑は道路拡張の際に小石川後楽園へと移されている。

*********************************

幕末の動乱の時代、水戸徳川斉昭は脳梗塞で死んだとされていますが、一部には暗殺説もあり、藤田東湖もまた・・・??



小さな書の作品ですが、好きな字体です。

「至大至剛気 由来塞天地 誰知方寸間 唯有一無媿」・・、後を継ぐ者たちよ、後悔や失敗があってもチャレンジは後々の大きな糧となるのは間違いない。ただし無謀は禁物!

若い頃に蒐集した作品に心惹かれる作品が多いのも面白いことです。


湖上の岬 その2 福田豊四郎筆 その77

$
0
0
故郷での恒例の年末の高校の同級会。



今年は参加者が少ないようなので、前半だけ息子と家内も飛び入り参加となりました。



我が家に泊まった同級生は幼馴染で、男の隠れ家の設計者でもあります。息子と意気投合したようです。



我楽多揃いの当方の蒐集ですが、他に自慢できそうなコレクションにひとつに福田豊四郎の小作品の作品群があろうかと思います。本日はその中から同題の作品が揃いましたので紹介します。

湖上の岬 その2 福田豊四郎筆 その77
紙本着色額装 共シール P10号
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横530*縦410

インターネットオークションで6万円弱で購入した作品です。福田豊四郎の作品はときおりインターネットオークションに出品されますが、贋作もありますので、真贋を見極めての購入が必要です。



もうひとつの作品は以前に紹介しました下記の作品ですが、岬の向きが反対になっています。

湖上の岬 その1 福田豊四郎筆 その49
紙本着色額装 共シール F12号
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横606*縦500



上記の作品は2015年9月に郷里の骨董店より40万円で購入したものです。ひとつ目の作品がP10号、こちらの作品がF12号ですから、大きさに違いがあり、多少のお値段に相違はあるでしょうが、真贋さえ見極められるとインターネットオークションがお買い得です。ただ福田豊四郎の作品もそうですが、天龍道人、寺崎廣業などのマイナーな画家の佳作が多く出品されていた頃に比べると品不足が顕著になってきました。

 

埋もれていた作品が公の場に出てくる機会としては、大いにインターネットオークションを評価すべきでしょう。

ふたつの作品の落款、印章や共シールの落款、印章を比較すると、同一時期の作品であることに相違ないようです。

 

金彩をふんだんに使った作品と、緑青をふんだんに使った作品。どちらも福田豊四郎の魅力がいっぱいです。



福田豊四郎の郷里に近い十和田湖を描いた作品ですが、故郷をこよなく愛した福田豊四郎の作品はノスタルジアに満ちています。



当方のブログには福田豊四郎が描いた十和田湖の作品がいくつか投稿されており、また他の画家の作品もあります。



小生が中学校に上がるとすぐに亡くなった病気がちの父と小学校の低学年の頃に訪れた十和田湖、学生時代に初のデートをした十和田湖、亡くなった家内との奥入瀬渓流の散策、そして家内と息子との十和田湖。今回の帰省は休みが少なく、冬の十和田湖を訪れることは適いませんでしたが、十和田湖の季節の中で冬はダントツに美しいです。

今年は顔馴染みの骨董店で福田豊四郎の作品をたくさん見せていただきました。今回はこれぞといった気に入った作品がなく、購入は見送りましたが、蓑虫山人の大幅の「鯉登り図」を購入しました。

いずれにしても父の友人で家族ぐるみで付き合いのあった福田豊四郎の作品の蒐集は小生のライフワークのひとつです。

昨日は赤坂の日枝神社の祭壇にて安全祈願・・、仕事始めの参拝ができなかったので、終わったあとの青空を見上げて「ようやく新年が来たな!」と実感。「ゆっくり休めということだったのだろう、あのまま正月を迎えてはいけなかったのだろう。」と改めて痛感しました。「突っ走りすぎたらいけない、体とうまく付き合え!」ということ。

李朝民画 青龍・玄武双福

$
0
0
帰省早々に息子は毎年恒例となりつつあります家内と雪だるま作り・・・。



雪は豊富ゆえあっという間に出来上がりました。眼と鼻、口に石を使いましたが、これは失敗しました。石は陽が当たると熱をもち、重いためにすぐに落ちます。やはり墨が最適のようです。雪で手が冷たくなるという感覚に慣れていいない子供は、素手で雪をいじり家に入ってきてから「手が冷たい!」と大泣き!



小生は神棚作りから・・。



玄関は大黒様。



奥は寿老人。



すべての民族は信仰から成り立っている・・・。人は信仰を大切にしなくてはいけません。

本日は李朝民画の「青龍」と「玄武」の天の方向を司る神を描いた双福の作品です。

李朝民画 青龍・玄武双福
紙本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1410*横660 画サイズ:縦760*横534



******************************

李朝民画:朝鮮,李朝時代の民画。民画は水墨画などの鑑賞画とは異なる価値基準をもち,民族の特性が種々の絵画形態に表わされたもので,李朝庶民の生活とともに発展してきた実用的絵画をいう。作品数は鑑賞画をはるかにこえる。



柳宗悦は内容から李朝民画を文字絵,吉凶にちなむもの,伝統的絵画類,静物画,儒仏道三教にちなむものに分類している。具体的には「孝,梯,忠,信,義,礼,廉,恥」の8文字を墨で文様化し,絵画部分を彩色した文字絵や,かささぎと,とらを題材にしたユーモラスな絵,李朝独特の文房静物図などに親しみが感じられ,素朴で楽観的な民族の特性がうかがわれる。

 



朝鮮民画の種類は多いが、大きく分ければ、道教系、仏教系、儒教系、装飾系に分けられる。虎の絵は、朝鮮民画の最も代表的なものである。鵲と虎を一緒に描いた鵲虎図や、山神が虎を従えた山神図などがある。長生図は、長寿の象徴である、鶴、亀、鹿、松、竹、などを描いたものである。青竜、白虎、朱雀、玄武などの方位神や、十二支神、竜、鳳凰、麒麟などを描いた物もある。山水画、動物画、植物画なども多いが、独特の物として、文字を絵にした文字図や、本などを乗せた棚を描いた冊架図がある。

******************************





******************************

四神:(ししん、しじん)中国の神話、天の四方の方角を司る霊獣である。四獣(しじゅう)、四象(ししょう)ともいう。四象と四神・四獣は同義であり、実体のない概念である四象に実体を持たせたものが四神・四獣とされる。東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武である。五行説に照らし合わせて中央に麒麟や黄竜を加え数を合わせた上で取り入れられている。
淮南子などによると、方角には四獣と共に季節神として五帝を補佐する五佐のうち四佐が割り当てられている。これらの四佐のほうを四神と呼ぶこともある。また、瑞獣の四霊(応竜・麒麟・霊亀・鳳凰)を四神と呼ぶこともある。

******************************



******************************

青竜:中国の伝説上の神獣、四神(四象)の1つ。東方青竜。蒼竜(そうりゅう)ともいう。福建省では青虎(せいこ)に置き換わっている。現代日本語では青は英語で言うブルーを意味することが多いが、「青」の原義は青山(せいざん)・青林(せいりん)のように緑色植物の色であり、本来は緑色をしているとされる。東方を守護する。長い舌を出した竜の形とされる。青は五行説では東方の色とされる。また、青竜の季節は春とされている。



玄武:中国の神、四象の「太陰(老陰)」、四神の一つ、霊獣。北の星宿の神格化。玄天上帝ともいう。宋代には避諱のため、真武と改名されている。清代には北極佑聖真君に封じられている。上帝翁、上帝公などとも呼ばれる。福建省では黒虎(こっこ)に置き換られる。

******************************





家には方位を守る神々を祀ることも大切です。

Viewing all 2938 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>