Quantcast
Channel: 夜噺骨董談義
Viewing all 3054 articles
Browse latest View live

松下瀧鯉登り図 大幅 蓑虫山人筆 その14

$
0
0
帰省したら早速近所に挨拶回り、息子は雪が愉しくてしょうがないらしく、雪かき・・。



朝食はむろん、「鰰!」



初詣も楽しそう。おみくじは小生と息子は「大吉!」



義妹からいただいリュックにご満悦で帰京。



郷里の馴染みの骨董店で福田豊四郎を中心に数多くの作品を見せていただきましたが、今回は郷里の画家でこれぞという作品はなく、下記の蓑虫山人の作品を購入しました。

松下瀧鯉登り図 大幅 蓑虫山人筆 その14 
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横946*縦1760



今年の大河ドラマは「西郷どん」・・、入水自殺を図った西郷隆盛を助けたのは蓑虫山人・・・。1858年 安政5年 蓑虫山人が23歳の時に「投身自殺を企てた西郷隆盛を助けたという。」という記述がありますが、信憑性は解りません。




**********************************

放浪の画人として知られる蓑虫山人は、天保7年(1836)美濃国(岐阜県)安八郡結村に生まれました。本名は土岐源吾、ほかに「蓑虫仙人」「三府七十六県庵主」「六十六庵主」とも称しました。 嘉永2年(1849)14歳のときに郷里を出て以来、48年間にわたって諸国を放浪し、その足跡は全国各地に残されています。

生活用具一式を背負い、時には折りたたみ自在の寝幌に一夜を過ごす山人の旅は、九州地方を手はじめに、中国・近畿・東海・関東を経て、明治10年(1877)北奥羽地方へ及びました。山人にとって、北奥羽の風土は居心地の良いものであったらしく、放浪の旅を終える明治29年(1896)まで毎年のように来遊し、佐藤蔀・広沢安任ほか多くの地元人々と交流を結びました。

山人は、青森県をはじめとする北奥羽各地へ長期にわたって逗留する傍ら、名勝や文化財あるいは寄留先の様子などを詳細に記録しました。近代の北奥羽地方の雰囲気を如実に伝えるそれらの作品群は、民俗学研究の一級資料として評価されています。

また考古学に対してはとくに深い関心を抱き、多くの遺物を収集しつつ、明治20年(1887)には木造町亀ヶ岡遺跡の発掘調査を手がけています。この調査の模様を記す書簡は、「人類学雑誌」に掲載され、同遺跡の名を全国に広げる役割を果たしました。

諸国歴遊の旅を終えた後は、名古屋市長母寺に寄寓する傍ら、自らが収集した資料を展示する「六十六庵」建設を構想しましたが、果たせないまま明治33年(1900)鬼籍に入りました。享年65歳。

**********************************

NHKの日曜美術館でも紹介された蓑虫山人ですが、知っている方はごくわずか・・。



**********************************

1836年 天保7年  0歳 美濃国(岐阜県)安八郡結村に生まれる。本名土岐源吾。
1843年 天保14年 8歳 結村受徳寺の小僧となる。
1849年 嘉永2年 14歳 生母「なか」死亡。郷里を出奔して放浪の旅に出る。
1852年 嘉永5年 17歳 父武平司64歳の時、結村を引き払い、名古屋へ移住。
1856年 安政3年 21歳 この年から蓑虫の号を用いる。
1858年 安政5年 23歳 投身自殺を企てた西郷隆盛を助けたという。
1860年 万延元年 25歳 長崎で画像祖門鉄翁に南宗画を学ぶ。
1863年 文久3年 28歳 熊本県下を漫遊する。
1869年 明治2年 34歳 父武平司死亡、洞仙寺に葬る。岐阜博覧会古器物取調係となる。
1872年 明治5年 37歳 4月京都に滞在。岐阜へも立ち寄る。
1877年 明治10年 42歳 東北地方への旅にでる。岩手県水沢滞在。
1878年 明治11年 43歳 秋田・岩手・青森への旅に出る。田名部の徳玄寺、佐井の箭の根八幡宮・長福
寺に滞在。
1879年 明治12年 44歳 青森に滞在する。
1880年 明治13年 45歳 下北半島に滞在する。
1881年 明治14年 46歳 深浦の白崎家・広田家、追良瀬の今家・黒滝家、秋田小池村千田家などに滞在す
る。
1882年 明治15年 47歳 1月舞戸の一戸家に滞在。
2月鰺ヶ沢の戸沼家に滞在。
4月鰺ヶ沢の高沢寺に滞在。
             5月相野(現森田村)の盛家に滞在。
6月宮川(現中里町)の古川家、筒木坂現木造町)の三橋家に滞在。この月、浪岡
で書画会開催。
7月弘前で侫武多を観る。
8月宮川の古川家に滞在。
9月五所川原の石井家に滞在。佐々木嘉太郎と会う。油川の西田家・津幡家に滞
在。
10月小泊の秋元家に滞在(~翌年5月)。
1884年 明治17年 49歳 枝川(現田舎館村)の工藤家に滞在。秋大鰐の加賀助旅館滞留、中野(現黒石
市)中野神社に遊ぶ。十和田湖を経て三沢に至り広沢安任と会う。
1885年 明治18年 50歳 青森に滞在する。
1886年 明治19年 51歳 8月弘前で佐藤蔀と会う。
             9月浪岡町の平野家・木村家に滞在。日本考古学の先駆者神田孝平氏と会う。
1887年 明治20年 52歳 4月青森県に滞在。亀ヶ岡遺跡の発掘調査をおこなう。
5月青森で奥村準作と書画会を開く。
6月三沢で古代器物展覧会を開く。会記を広沢安任が記す。
8月上京し、文部技官・神田孝平と会う。
10月秋田へ行く。
1888年 明治21年 53歳 秋田に滞在。神田氏に長者屋敷石器採集の状況を報告
1890年 明治23年 55歳 3月まで横手に滞在。
6月宮城県仙台に滞在。
1891年 明治24年 56歳 濃尾大地震起こる。宮城県から岩手県へ移る
1892年 明治25年 57歳 岩手県に滞在
1893年 明治26年 58歳 2月岩手県から結村役場に濃尾震災による郷里の被害状況を問い合せている
1894年 明治27年 59歳 1月岩手県に滞在
1895年 明治28年 60歳 1月秋田に滞在。
4月秋田扇田で肖像写真をとる。
5月青森の村本家に滞在。
7月弘前、碇ヶ関に滞在。
1896年 明治29年 61歳 1月秋田県扇田の麓家を最後に東北地方における長年の旅を終わり、名古屋の嫡
兄左金吾宅を訪ねる。
4月羽島郡下羽栗村円城寺に滞在する。美濃地方に大洪水起こる。
1897年 明治30年 62歳 1月円城寺に滞在。
10月円城寺地区の人々の援助を受けて「篭庵」なるものを作る。
1899年 明治32年 64歳 7月丹羽郡北小渕村の大慈寺(姉の寺)に招かれ、聴衆に国体の趣旨を説く。長
母寺に蒐集した古器物出土品等を運びこむ。
1900年 明治33年 65歳 2月名古屋市東区矢田町長母寺にて永眠する。法号蓑虫庵遍照源吾居士。

      *[出典]青森県立郷土館 1984 青森県立郷土館特別展図録 蓑虫山人ほか

**********************************

小生の郷里や東北での勤務地に近かったとこともあり、身近な小生のとっては身近な存在です。



自由闊達な筆遣いは独特なものがあります。



これほどの大幅の作品は非常に珍しいものです。



表具は痛んでいますので、改装することにしますし、保存箱も誂えることにしました。家内もこの作品は一目でお気に入り・・。



誰かが保存していかないときっと埋もれていく作品群なのでしょうね。



「六庵主人」という落款もめずらしいように思います。

 

「西郷どん」のドラマに「蓑虫山人」は出ないかな?

凱旋門 伝呉冠中筆 その2

$
0
0
今年の冬も大雪にもめげずに男の隠れ家は健在です。



昨年には裏側の更地になった隣地を購入し、今年の三月には家が立っている表側の隣地を購入予定です。増築計画の夢は膨らむ・・。目標500坪、まだ260坪・・・。

消滅していく地方都市になぜ投資するかだって? 高級マンションなどと称する猫の額ほどの空間にあくせくする都会の生活に何の魅力があるだろうか? 今に人が100年を生きる時代になったら価値観が全く変わるだろう。都会の人生の期間と自然と触れ合う人生の期間を半々ずつ持つような過ごし方が本当のリッチな人生となるのかもしれない。なにしろ広い高層マンションを購入するつもりなら、田舎では豪邸が複数入手できます。

最近、坂本龍一が最終居住地を京都にしたいので準備に入ったというニュースを聞きました。意外と古風というか既成概念・・。京都のどこがおもしろいというのだろう。



忘れてならないのは男の隠れ家は郷里の近隣に方々やメンテナンスをしてれる方々によって、低コストで維持管理できているということです。

除雪をしてくれる人、水抜きなど設備のメンテをしてくる人、空気の入れ替えを定期的にしてくれる人、近所との情報交換を伝えてくる人、そして温かく迎えてくれる同級生や幼馴染・・。



こちらは近所の方からの紹介で昨年に塗り替えた屋根、そののおかげで屋根の落雪が今年は早い! 男の隠れ家は低コストできちんと維持管理されています。

さて、本日は近代中国絵画の紹介です。

中国近代画家の作品は手を出さぬが賢明であろうというのは衆目に一致するとこと。多いのは贋作、模写、版画などの工芸品だと聞いています。

ただその中で栄宝斎出版の木版水印画の作品は適切な値段で取引される限りにおいてはリーズナブルな作品群ですので、本日はその作品について紹介します。

凱旋門 伝呉冠中筆
紙本水墨淡彩軸装 
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1940*横800

 
***************************************

呉冠中:1919年生まれ、1936年国立杭州美術大学にて林風眠の指導の下で西洋美術を学ぶ。1942年卒業後フランスに渡り、4年間油画を学ぶ。1950年中国帰国後、清華美術大学および中央工藝美術学院で教鞭を取る現在、中央工藝美術学院教授。1989年6月中国文化基金会財団主催"呉冠中 現代中国画家展"。1992年3月~5月、"呉冠中20世紀の中国画家展" ロンドン大英博物館(大英博物館によって主催される最初の中国芸術家の展示会 英国放送協会が開催)。



呉冠中は中国と西洋の芸術に精通し、現代中国で優れた業績をあげている芸術・文学の巨匠。油絵や水墨画、彩墨画、スケッチのほか、芸術理論や文学創作の面でも造詣が深く、海外にもその名を馳せている。これまでに英国やフランス、米国、日本、香港、台湾、東南アジア諸国などで大規模な個展を開催。大英博物館は1992年、慣例を破って初めて世界の画家・呉冠中氏の個展を開いている。 2004年から3~4年かけて世界を巡回。フランス文化省の最高勲章やパリ市のゴールド勲章などを受賞。

呉冠中の原画が競売にかけられ、水墨画としては過去最高額となる3,000万元(約4億4,000万円)で落札されたことでも知られる。



***************************************

呉冠中の肉筆の真作はかなり高価で入手不可能と思っていたほうがいいでしょう。本作品のように肉筆と識別しがたい精巧な工芸作品で楽しむのが得策ですが、時として肉筆として売買されることがあるようです。



「木板水印画」についての記述は下記のような説明を紹介します。

***************************************

木板水印画:栄宝斎特有のもので古い歴史を持っている。全て手作業で行われる印刷技術で、この方法で印刷された画は原作(肉筆)に酷似しており、本物との区別がつかないほどである。栄宝斎が確立した木版水印画技法は斉白石自身も、「自分の作品でも肉筆か木版水印画かの区別がつかなかったほどである」と最高の褒め言葉を挙げた。

栄宝斎が手掛けた斉白石作品の木版水印画は、数百種類に及ぶ。斉白石は、栄宝斎取扱い作家の中で、最も作品数が多い作家である。後に業界内では、栄宝斎が「斉白石出版社」と言う皮肉めいたあだ名が付けられた。
※栄宝斎の店名の由来は「文を以て友と会し、栄名を宝と為す」の意味である。

***************************************



***************************************

木版水印画とは、別名水印版画とも呼ばれており、中国の伝統的な水性木版画のことです。日本の版画との最大の相違点は紙です。日本の木版画は和紙を使用するのに対し、中国の水印版画は画仙紙を使用します。日本では習字、書道で使われるような非常に薄い紙です。浸水性が高く非常にコシの柔らかい紙です。日本の木版画で使用する和紙は比較的厚いものが多く、楮が多く含まれているため非常にコシのある強い紙です。浸水性よりも保水性に優れており、その為、比較的薄い和紙でも、水性木版画を擦る3時間前には紙を湿した新聞紙に挟んでおかなければ摺ることが出来ません。しかしこのように厚く、繊維の長い強い紙だからこそバレンの強い圧にも耐えることができます。



それに対し中国の水印版画はバレンよりも柔らかいシュロを束ねたようなものを使って、弱い圧で摺ります。こちらは軽く湿した程度の弱い圧だと上手く摺れませんので、霧吹きなどを使用して紙を湿し、日本同様3時間ほどしてから実際には使用します。薄く浸水性の高い紙で同じ時間湿すので、こちらのほうがずっと、水っぽい感じになります。その為摺った時に、パッと滲んだ感じを上手く擦り取る事ができます。こうした摺りの特徴から水印版画と呼ばれるようになったそうです。



元々は北宋の時代に南京あたりで芥子園画伝など中国の山水画、花鳥画の描き方などを広く伝えるために作られたと言われております。この水印版画が日本に伝わりのちの浮世絵の浮世絵の原型になりました。浮世絵の祖先とも言える版画技法です。これは1つの版画技法なので、価値は作品によって大きく変わります。木版画、リトグラフもまたそれぞれ一つの版画技法なので作品によって価値は様々です。

***************************************

色の違う部分ごとに版木を彫り、それを独特の方法で刷ってゆくので、多いものは一枚の画で1000回近く刷るそうです。もとの画と同じ顔料や墨を使って刷り、印の部分は石でほって印泥で捺すので、2-3mも離れて見たら本物か版画か見分けがつきません。

  


ニジミは刷り師の技術で、水分量と刷る速度で見事に再現してしまいます。ただこれが出来る人は数人しかいないらしいです。刷った画を見て齊白石は自分が描いたものだと勘違いしたという逸話もあり、また数年前、日本のオークションにて数千万円で中国人が落札した画を中国に持ち帰って調べたら木版水印刷画だったという話もあるくらいであり、出来のよいものは十分に楽しめます。

今でも栄寶齋や朶雲軒にはいろいろな水印画が売っているらしいですが、やはり昔のほうが出来の良いのは、刷り師の腕の差であるそうです。画によっては、専門家でも判別の難しいものもあり、中国のあみだした素晴らしい印刷技法です。

***************************************



***************************************

見分け方:近くで見て印刷だとわかるのはカスレ部分。これはカスレを一つ一つ木版に彫っているからです。ニジミ部分は刷り師の技術が高いと殆ど肉筆と判別できません。部分拡大して、カスレ部分の不自然さとニジミの圧縮痕で判別するしかないそうです。



専門家の鑑定で10万と言われたら真筆か贋作か不明。100万と言ったら本物。木版水印画なら笑われるとか。



中国近代絵画は本物をオークションにかけたら数百万から数千万の値がつくかも知れないですが、全く同じに見える水印画が北京や上海に行けば2-3万円から買える代物です。

***************************************

本作品も肉筆として売られていましたが、数万円程度でそれほど高価ではありませんでした。

ただ斉白石などの小作品などは、よく見ると版画とすぐにわかるものが横行していますので、そのような出来の悪い近年の水印版画の作品は購入しないほうがいいでしょう。肉筆の贋作は書き込みが少なく、出来の悪さでだいたいは判別できますが、これもまた真贋の判断は難しいようです。



本作品のように肉筆と非常に判別しにくい出来の良い?「水印版画」で大きめの作品などは見ごたえがあります。気軽に飾って愉しめます。今まで敬遠していましたが、ここまで見事に再現されていると見直さざる得ませんね。



本作品については版画と肉筆の区別は私には無理です

なお作品に添付しいた下記のタグについては詳細は不明です。



読者の皆さんも判りますが? 私にはどう細かく見ても肉筆にしかみえません。

猿まわし 橋本雅邦筆 その16

$
0
0
男の隠れ家は神の宿る場・・・、元旦には古くから各方向に宿る神を祀ります。元旦は神々に感謝する日。厄を払い、感謝し、決して願い事などを頼んではいけません。



神々の宿る森、ここは白神山地の麓・・・・、水面から発生する霧は幻想的。この自然にこそ感謝しなくてはなりません。



亡くなった方々、先祖への感謝を込めて墓参りも忘れません。元旦は亡くなった家内の誕生日。



さ~、今年も宴会じゃ!



おばあちゃんらに息子は撮り貯めた写真の説明を一生懸命・・。



久方ぶりにおばあちゃんと仲良くテレビ・・・、、家族はともかく助け合って生きていく集団のこと。そのことに大いに感謝しなくてはいけませんし、この世でなにより一番大切なのは家族



義母の病後の経過も良くいい正月でした。この直後に発症した小生のインフルエンザ以外は・・。

昨年末に放映された「なんでも鑑定団」に雲谷派の作品が出品されました。当方にはなにか資料がないかと検索したところ下記の作品がありましたので紹介します。

雪景図 伝雲谷派古画(無落款)
紙本水墨淡彩 
全体サイズ:横452*縦1660 画サイズ:横333*縦810



本作品は無落款であり、雲谷派の作品という確証はありませんが、画風から「雲谷派」の作品と分類しております。ただし当方では資金調達のためにすでに売却しています

***********************************

雲谷派:山口ゆかりの雪舟の流れを汲む日本画の流派。約400年前、始祖・等顔(とうがん)が毛利輝元から雪舟の旧居雲谷庵を拝領して以来、代々毛利藩お抱え絵師として明治初期まで続き、十数家に分かれ、数多くの優れた画人を出した。西国では狩野派と並ぶ一大流派。雪舟流ともいう。



始祖である雲谷等顔は、ひっそりと静まりかえった深山に、薄明かりが山塊を照らし、すべての音を包み込んでしまう。雲谷等顔(1547‐1618)が活躍した桃山時代は、長い乱世を経て台頭してきた新興の大名たちは、自らの権威を誇示するのにふさわしい豪華な城郭を築いて障壁画を描かせ、活気あふれる桃山文化の担い手となりました。こういった豪奢趣味の一方で、室町時代以来の水墨画も変化しながら受け継がれ、等顔も水墨画の地方様式を形成するが画家として桃山時代の画壇で活躍しました。



等顔は肥前(佐賀県)の人で、本名を原直治(はらなおはる)といい、もともとは武家の出身でした。主家滅亡前後に家を出て画家となり、京都で狩野派に学んだ後、広島城主毛利輝元に仕えたといわれています。当時まだ無名だった等顔は、輝元より雪舟の「山水長巻(四季山水図)」(毛利博物館蔵・国宝)と旧居雲谷庵を賜り、これを機に、姓を雲谷、名を雪舟等楊の等の字を受け等顔と改めたと伝えられています。これにより等顔は、雪舟の正当な継承者であるというお墨付きを得て、画家としての地位を確立する。



いずれの作品にも雪舟様式の影響が見られ、特に雪舟の「山水長巻」に見られる特徴が随所に指摘されています。等顔は72歳で没しますが、その画法は子孫に保持され、江戸時代末まで存続する雲谷派が形成されました。こうして等顔は雲谷派の祖となり、近世、中国地方の画壇にその流れが生き続けた。



***********************************

本作品は前述のように無落款であり作者は不詳ですが、贋作とかではなく、いづれ幕末頃の作品ではないかと推察しています。売却していますが、出来からしていずれ当方の蒐集からは除外されていたでしょう。

さて、本題ですが、本日は年初め早々ということもあり、めでたい画題の作品の紹介です。画家は「雪舟に替えれ」と明治初期に始まる近代画壇の祖となる橋本雅邦の作品です。

*作品手前にある作品は以前に紹介した明末呉須赤絵の作品ですが、先日のなんでも鑑定団では上作のこの手の作品が出品され、300万という高額の査定金額でした。ただこれはいくらなんでも高額すぎると思うのは小生だけではありますまい。少なくても一桁違うというのが現状の相場です。このような高い評価金額は市場から作品が姿を消す原因になりかねません。中島誠之助氏は窯変天目茶碗以降、どうも信用できない点があるようです。


                          
猿まわし 橋本雅邦筆 その16
紙本水墨額装 タトウ 
全体サイズ:横455*縦900 画サイズ:横290*縦650



画題の猿回しは猿を操って、猿に様々な芸をさせる大道芸です。主として正月などのめでたい時に行われる芸です。

猿は「去る」に通じることから「魔を去る(払う)」と信じられ、神の使いと考えられていました。 その為、猿まわしは「悪しきを去って、良きことを得る」という、非常に縁起のよい芸として確立しました。 本来、正月などのめでたい時に、人家の門口で猿まわしを演じて金品を貰っていましたが、現在では、庶民の娯楽として大道芸人が劇場などで披露していますね。



猿まわしはインドで発祥し、インドから中国、シルクロードを経て日本へ伝わったと言われています。日本では鎌倉時代の初期に、当時の武家にとって戦役・物資輸送として重要視されていた馬の疫病退散・守護のために猿まわしが行われました。その後、江戸時代には、徳川幕府の専属の職業として確立しました。 しかし、江戸幕府の崩壊とともに、猿まわしという職業は衰退しました。





他の所蔵作品、参考資料との印章の比較は下記のとおりです。筆致などからも真作と当方で判断しています。

  

ただ橋本雅邦の作品は画集に掲載されていたり、川合玉堂の鑑定や東京美術倶楽部の鑑定書がないかぎり真作とは認められていませんので、当方の判断は素人の判断とご了解下さい。

「猿は「去る」に通じることから「魔を去る(払う)」と信じられ、神の使いと考えられていました。 その為、猿まわしは「悪しきを去って、良きことを得る」という・・・」、さて正月早々のインフルエンザから中耳炎。2週間経ってもまだ完治せず。作品の真贋はともかく、これが正月早々の「厄払い(魔を猿)」になることを信じています。

洛北 福田豊四郎筆 その76

$
0
0
先週末は家内の遠州流の先生宅にて初釜ということで、「パパが行かないと行かない!」と駄々をこねる息子のためにも小生も行くことにしました。三人は着物姿・・。



息子の着物は小生のおさがり、小生の着物は父のおさがり・・。息子にはまだちょっと大きいかな?



小生には父のおさがりは少し小さめ。ダイエットしなくは・・、せっかく遺されている着物、着て歩こうと思います。

着物に慣れていない小生は汚すからと、高級な着物は家内からエヌジー。そこで出されたのが村山大島紬・・・、一応羽織付。

父が戦前か戦後間もない頃に購入したと思われる着物オーバー・・。着物のタグに「日本橋白木屋」(現在はコレド日本橋)とある。父の粋な遺品

*************************************

村山大島紬(むらやまおおしまつむぎ):東京都武蔵村山市周辺で伝統的に生産されている紬、すなわち、玉繭から紡いだ絹糸を板締染色し、絣織によって文様を出す絹布、およびそれを和服に仕立てたもののブランド名。

奄美大島の特産品である大島紬が生糸を用いるようになって普及が進んだ大正時代に、それに類似したものとして「大島」の名が使われ普及が進んだが、文様の彫刻を施した木の板を用いて意匠を染める板締の技法を用いるなど、大島紬とは異なる特徴をもっている。

村山大島紬は、1967年に東京都無形文化財に指定された。1975年には、経済産業大臣指定伝統的工芸品として、この制度による最初の指定の際に、東京都で唯一指定を受けた。

************************************

とうとう着るものまで骨董品となったきました。

さて、本日は父と親友であった福田豊四郎氏の作品の紹介です。

数多く福田豊四郎の作品を所蔵してきていると、おのずとある程度の真贋の判断はできるようになるものです。本作品には珍しく印章はありませんが、真作と判断できます。

洛北 福田豊四郎筆 その76
紙本水墨淡彩軸装 軸先練 共箱
全体サイズ:縦1145*横410 画サイズ:縦310*横300



おそらく昭和10年頃に席上で描いた作品で、印章は持ち合わせていなかったのだろうと思われますが、戦後(昭和25年頃)になって後日表具されてきた作品の箱に共箱として署名したものと推察されます。「洛北」とあり、京都にて修行していたころの作と推察されます。



これを真作と断定できるのは、筆致と落款、印章の年代的な総合的な判断によります。

 

このような判断ができるようになるには、多くの作品の蒐集する経験を積まなくてはなりません。

下記の作品もまた蒐集の初期の頃に表具されていない作品を購入したものです。

 

作品の印章と落款と出来、そして巻き止めある書付から真作と判断しています。





戦前の初期の頃のたいへん出来の良い作品です。



これら表具もされていない作品を買い求めて、お金をかけた表具して保存しておく・・・、物好きとコレクターは紙一重ですが、きちんとした知識と経験に基づいたコレクションはそれなりの価値があるものと自負しています。



よく見かける行き当たりばったりの一万、二万の骨董の買い物では決して良いものは集まらないと思っています。



氏素性の良い相当な金額の作品を購入する下地があって、良き骨董が集まり、そして理解できると考えます。



ちなみに福田豊四郎の氏素性の良い作品は最適でも20万近くはします。



そのような作品の蒐集を踏まえて上で、際どい作品が解るようになるというものです。



落款や印章は比較するまでもなくなります。

 

小作品・・、こちらは古くから家にある福田豊四郎の晩年の「梅」。むろん真作。

  

正月ということで平福百穂の「梅」。これも真作。



平櫛田中の大黒天二点の上には福田豊四郎の社の作品。両脇には源内焼の蝋燭点て。



郷里の画家の好きな作品に囲まれる時は至福の時・・・、古きよきものは時代を経て人にかえってくる。現代にそのようなものはあるのだろうか? ブランド品? そのようなものは「無駄」と読む。



霧降之瀧 山元櫻月筆 その3

$
0
0
家内の初釜は女性が多い・・。息子と小生は緊張気味・・。



食事から開始・・。お茶席の会席を開くに必要なことは料理人、手伝い、そして器、大事なのは集まってくれる人。

むろん、主催者の体力も・・、最近は皆、高齢でこのようなことが難しくなっているし、自宅にはスペースが確保できない点もあろうと思う。外の会場にて催すことが多くなっているがどうも興ざめしそうである。



お茶の先生のご主人が大の料理好き・・。これはうまい! 中耳炎に罹患していなければ、大いに一献といきたかったところ・・。



最後はお濃茶・お薄でお開き・・。



本年もよろしくお願いします。

本日紹介する作品は、叔父である山元春挙、そして風景画の中でとくに富士山に名が秀でた山元桜月の作品の紹介です。この両者は「根底にある実写による風景画という点」では著しく近似ている画家でしょう。



両画家の風景画の作品を並べて展示室に展示してみました。左が本日紹介する下記の作品で、右は以前に紹介した山元春挙の「保津川}という作品です。

霧降之瀧 山元櫻月筆 その3
絹本着色軸装 軸先骨欠損 共箱(初号春汀銘)
全体サイズ:横550*縦1960 画サイズ:横420*横1290

 

霧降之瀧:古くから華厳ノ滝、裏見ノ滝とともに日光三名瀑の一つに数えられている。霧降川にかかる滝は上下2段になっていて、上段が25メートル、下段が26メートル、高さは75メートルある。下段の滝が、まるで霧を振られるかのように水が岩に当たり、飛び散って流れ落ちる。その様子からこの名がついたといわれています。



****************************************

山元桜月:山元桜月は、明治22年(1889年)に滋賀県滋賀郡膳所町(現滋賀県大津市)で山元治三郎と庄子夫妻の三男として誕生した。父治三郎は山元家の入婿で、母庄子の末弟は近代京都画壇を代表する画家の一人山元春挙である。治三郎夫妻は子宝に恵まれ、六男二女の子をもうけ、桜月は四番目三男として生まれ三郎を名付けられ、叔父である春挙は幼ない桜月の画才を見抜き、明治33年(1900年)桜月の入門を許し春汀の名を与え、以降厳しく実写の道を教えたと伝えられる。

  

桜月は才能を遺憾なく発揮し、大正3年(1914年)第8回文展において『奔流』が初入選し、以降文展・その後の帝展に連続入選を果たし、昭和3年(1928年)には帝展で推薦(無鑑査)と順調に地位を固めていった。その後、昭和8年(1933年)師であり叔父でもある春挙が亡くなると、昭和10年(1935年)には名を春汀から桜月に改め、帝展を退会し画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断った。



桜月が描く対象も一般風景から山岳画へと変わり、昭和14年(1939年)改組文展に『早春の芙蓉峰』を出品し、以降富士山を描き続け、翌15年(1940年)には山梨県の山中湖村に移住し、富士山の観察とスケッチに没頭した。



桜月が描く富士山の絵について、横山大観は「富士の真の姿を描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評し、昭和30年(1955年)東京で開かれた桜月個展において川合玉堂は、多くの期待を持って個展を楽しんだと伝えられる。



桜月は自著『神韻』の中で富士山を描くことに対して「芙蓉峰と雲の調和は他の高山に比類なき美の極地」、「先変万化の景観は、宇宙の無限大と等しく意義を示す世界無比の神秘」と称し、また後年「富士山を見ていたらその崇高な姿に魅入られ、誰も戦争など思い寄らないだろう。そして心から平和のためには力を合わすようになる。」との信念から、富士を描いた作品を世界の指導者に対して数多く寄贈した。昭和60年(1985年)に死去した。享年97才。

****************************************

本作品は著名な富士山を描いた作品ではなく、しかも前期に位置する「桜汀」の落款の時代の作品ですが、山元桜月の渾身の佳作とえるでしょう。



山元桜月時代の富士山を好むか、その前の風景画を好むかは人によって好みの分かれるところです。



猛夏に似合う涼しげない作品には相違ないでしょう。



山元春挙に山元春汀の叔父と甥との関係の作品・・。



両者並べて鑑賞するのもたしかに一興です。これはコレクターならではの贅沢。

当方では決して作品は一般公開せず、男の隠れ家における増築計画では己のためだけの展示スペースを計画中・・・・

 

山元春挙、桜月の作品を改めて作品を並べて鑑賞していますが、明治人の気骨が伝わる画家の作品群です。

息子に「またお茶会に行こうね?」と言ったら、「お庭での食事がいい!」だと・・。茶本来の風情が解っているのかも・・。

2018年 正月 保戸野窯 & 茶入考 

$
0
0
昨夜、ビデオ録画にて「科捜研の女」という番組を観ましたが、この番組は実に品がない。骨董に関する情報はデタラメであることはまだしも子供の命を無意味に危険にさらすような番組構成は企画した者の品格を疑うものでした。。良識ある者は観るのをやめるべき番組です。

さて今年も正月には帰京がてらに秋田市にある平野氏の保戸野窯を訪ねてきました。



奥様共々皆さま、元気そうなので安心して帰ってきました。



今回は新た製作したという面取りの辰砂の花入れを購入させていただきました。後ろの作品が現在、在庫のある数少ない?作品群・・。



ちなみに今回の作品のお値段は2万円なり。(共箱、送料は別)

先日の初釜で「茶入」の話題が出ましたが、「茶入」の見どころはどこでしょう?と改めて考えました。

考えるに、残念ながら「茶入」の製作に挑戦したことのある方しかその実際の見どころは実感できないと思います。

熱くもない茶を入れる器、よって薄造りの造形が主眼となります。「茶入」は轆轤の技術の一瞬の勝負です。確かな轆轤技術のない者には「茶入」は作れません。小さな器で、しかも薄造り、端正な品格の良いフォルムを保ち、口は真円となり、底は勢いのある糸切りが原則です。削りなどという工程はほとんど一切ありません。

よって釉薬の厚い青磁や民芸の茶入は皆無で、確かな轆轤技術のある者しか茶入は作れません。作家で代表的なのは野々村仁清、金重陶陽など確かな技術のある陶工のみ。

浜田庄司らの民芸陶芸家、加藤唐九郎、魯山人、荒川豊蔵ら多くの著名な陶工にさえ見るべき「茶入」の作品は皆無なのです。

下記の作品は当方の所蔵作品からの紹介です。

瀬戸写菖蒲錆絵茶入 野々村仁清作
仕覆付 金森宗和箱書 二重箱
高さ105*最大胴径55*口径31*底径34



備前茶入 金重陶陽作(「土」銘)
共箱
胴径70*高さ87*口径34



作家以外では瀬戸、唐物など名も無き陶工に優れた作品が多いのが特徴です。

薄造りの轆轤技術が見どころで、瓢型の茶入などはそういう点では、最も難しいものです。大海などフォルムの多少崩れたものにも美を見出すのが茶入の見どころとしてありますが、茶入の王道はそのフォルムに適った厚みをもった轆轤技術そのものですので、瓢形のバランスが崩れた作品には見るべき点はありません。

決して仕覆、箱などが茶入の見どころではないのです。これらは家元制度による後世の余計なもの!といって過言ではありません。

釉薬の流れさえ付属した美でしかありません。あくまで轆轤技術の冴えが見どころです。

下記の作品は小生の家の仏壇に収納されていた箱も仕覆もなかった作品。どこで入手したのやら・・・。

祖父や父は買ってきた茶入などの茶道具は奥さんに与えたようです。祖母や母は最後は仏壇に収納したようです。真贋はともかく少なくても先祖はセンスが良いものを蒐集していたようです。

古瀬戸肩衝茶入
未測定 仕覆 箱無 元は蓋もない

 



高取茶入
古高取 胴径45*口径28*高さ58 本象牙蓋 仕覆 箱無



金海のような作品は当方には下記のものしかありません。



小生が保戸野窯で「茶入」の製作に挑戦したことがあるのですが、あえなく撃沈! 見本で先生があっというまに作られましたが、まじかで見たその見事な轆轤技術は未だに忘れられません。

茶入は滅多に作る作品ではないのですが、、すぐに作れるその轆轤技術における細かな手の感触には神が宿っているのでしょう。出来上がった作品は母に献上したのですが、どこへしまったのか現在は行方不明です。母は蓋や仕覆を用意すると言っていたのですが・・。

上記の花入にも確かな轆轤技術が見られるものですが、近年の陶芸家は不確かな轆轤技術しかない人がやたら多く、陶土や釉薬、近代彫刻なような下手物作品ばかり・・・。特に備前の作品は見るべきものは皆無となっています。近年の備前は土が悪い、技術が低いのです。

我々はもっと厳しく陶芸家の作品を観るべきでしょう。よくある銀座での個展? いいものは皆無! よく展示するものと感心しきり・・。

さて話題を変えます。

掛け軸の作品の整理する段階で、出来の良い作品ながら痛んでいる作品は表具を新調しています。そのひとつが出来上がってきましたので紹介します。



渡辺省亭の「双鳩(仮題)」という作品ですが、以前に本ブログで紹介してる作品です。



保存する作品は太巻き、二重箱が基本です。このようないい作品を厳選して遺していきたいと思います。



昨年の平成29年4月2日は、渡辺省亭の100回忌にあたり、回顧展などが開催されたようですが、本作品は渡辺省亭の作品の中でもとくに優品の部類に入ろうかと思います。

茶入も掛け軸も見るべきポイントは同じかもしれません。すべて品格があるか否か・。

いいものが少ない時代、少しでも過去のいいもの、現代のいいものを先人のように遺していきたい。

ところで早速、平野先生の携帯に連絡し、近況を聞くとともの本格的なオーソドックスな茶入を注文。こういうことは思い立ったら吉日!

葡萄図 その22 三幅 天龍道人筆 その34

$
0
0
そろそろいつまでも会社勤めということもあるまいと思って迷っているのが背広の新調。

背広というのはサラリーマンでなくなると極端に使わなくなるようです。人によっては2~3着のいいものだけを残してあとは処分するか、カジュアルに作り直しているのが一般的のようです。背広は痛んでくると使いようがありません。英国屋仕立てのようなものは遺しておいてもいいのでしょうが、「今後は吊るしは一切いらないでしょう。」と思っていたら多くの背広にガタがきてしまい、さすがに新規に購入しようかと・・。

ワイシャツは新規に仕立てる必要は一切ありません。襟や裾が痛んだ段階でワイシャツは最も着心地がよいものだそうです。襟や裾をだけ新調するのが、本当のワイシャツの粋な着方らしいです。

ちなみに着るものなど身に着けるものは、品格をアップするものは「必需品」、高価であるが人の品格をアップしないものを「贅沢品」と呼ぶらしい。世の中にはこの「贅沢品」に溢れているようです。

それに絡んで、ちなみによく見かける国内空港便の前のほうの特別席、新幹線のグリーン車もよほど身体的な問題がない限り「贅沢品」のひとつらしい。田舎者、成金ほど喜ぶらしい。要は無駄のないお金の使い道が品格のある人ができることらしい。いい大人がゲーム機に金を使うなどムダ金もいいところ!

スーツの新調でもいろいろと考えますね。お金の使い道はとても大切なこと。ちなみに小生の骨董蒐集には預金が目減りしてまでは使っていません。趣味では貯蓄を減らさず、資金を貯めて用立てること、これはとても大切なこと。退職金やら貯金を使い崩すような骨董蒐集は止めたほうが良いと思います。

さて、つい最近まで面白いように入手できていた天龍道人の作品が、ネットオークションをはじめとして全く市場に姿を見せなくなりました。もともとそれほど高価な作品群ではなかったのですが、屏風外しなど面白い作品がインターネットオークションなどにたくさんあったのですが・・。これまでになんとか当方では30作品を超える作品が蒐集できました。

この作品は最近の入手ですが、おそらく屏風に貼られていた作品を剥がして売りに出された作品でしょう。俗にいう「屏風剥がし」と言われるものです。非常に状態が悪く、作品の下部、全体の1/5は作品が和から何状態です。

葡萄図三幅 葡萄図 その22 天龍道人筆 その34
紙本水墨軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1440*横545 縦1270*横590







この痛みの激しいまくりの状態での購入。左右はおそらく同時期の作。



中央部に見立てようとしてる作品が別幅。描かれた歳と若干大きさが違うように思われます。中央が69歳の作、左右が76歳の作。

ところで天龍道人は1818 年 が生誕の年なので、2018年は生誕 300 年に当たります。

賛には「葉結翠梼葉 密緑□濃最 □多□迎葉 六起清風 天龍湖老人七十有六年筆」 左幅
   「六十九才鵞湖乙翁(王?)寫也 押印」                 中央幅

 

*他の所蔵作品である「鷹図 その2 天龍道人筆 その13」(70歳作)と中央作品は同一印章です。

右幅印章



左幅印章

 

中央幅印章



*「鵞湖王瑾筆」の鵞湖というのは「諏訪」の別称で、天龍道人が 61 歳で下諏訪に家屋敷を購入したと年譜にあり、それ以降の作品に姓の「王」と名の「瑾」を合わせて。「鵞湖王瑾」という組み合わせの署名がみられます。

晩年には「天龍道人」と署名されています。「天龍道人」を名乗るのは、安永7 年(1778)61 歳にして下諏訪に家屋敷を購入して住みはじめてから約10 年後のことになる。

天龍道人は姓が王で、名が瑾、字が公瑜と自ら名乗っており、署名に「王瑾」をはじめ、「王乙翁」、「乙翁王瑾」、「王瑾公瑜」、「王公瑜」などの署名がみられます。また、初期に先ほどの「虚庵」、「虚庵道人」のほか「草龍子」や「源義教」という署名もみられます。

名の「瑾」については、「固くて美しい玉」という意味で「瑾瑜」も同じような意味で使われているようです。「王瑾」というのは、ひっくり返すと「瑾王」で、勤王思想の「勤王」と音通するところから、天皇親政を理想としていた道人が自らの名前にしたと推察されています。


ボストン美術館には与謝蕪村の『柳提渡水』屏風や、尾形光琳の『松島図』屏風と共に天龍道人の作品が展示されており、高名な画家たちの作品の中にあっても独特な世界を醸し出しています。

さて、この痛みの激しい作品をどう蘇らせるか?



中央が葡萄が成っている図、左が葡萄が小さく、左が花?状態。もともと左右の幅は屏風仕立てだったのでしょう。



もはや通常なら打ち捨てられていてもおかしくない作品ですね。売る側で屏風仕立てのいい作品だけは残している可能性は高いでしょう。




あくまでも3幅対とするか? 中央を別作品とし、他を二幅対とするか、痛みの激しい部分を切り取るか? この作品を所蔵した者のセンス次第です。

投資的にはせいぜい数万円での取引価格の作品にどこまでお金をかけるかですが、状態が良ければ秀作の評価があろう、天龍道人の葡萄図の作品です。迷うところですね。

似ている三幅なので改めて写真で整理してみます。

右幅







左幅







中央幅







作品の下部はダメな点があり切り取りましたが、花、小実、そして完実というのがおもしろく鑑賞できる三幅になればと思います。軸を詰めることは邪道ですが、これはこれで致し方あるまい、要はお金の使い道・・・、背広の新調はまた少し先になりそう。



壺屋焼 白化粧地鉄絵唐草文花瓶 金城次郎作

$
0
0
子供は絵本好き・・・、何冊も持ってきては「これ読んで!」



そんな本の中に大人顔負けに図録まで入ってくることがたびたび。「お父さんの耳はどこが悪いの?」、ともかく子供の成長は早い

金城次郎の作品は銘のないもの、掻銘のあるものでも共箱のない初期のもの、しかも皿なら40センチ、壺なら30センチを超えるものでないとみるべき作品はない、というのが小生の実感です。



本日はその金城次郎がまだ作品を画一していない、葛藤に時代に作られた作品の紹介です。これが金城次郎氏の作品かどうか疑問視する方があろうかと思いますが、当方では間違いないと判断しています。

壺屋焼 白化粧地鉄絵唐草文花瓶 金城次郎作
口径*最大胴径160*高台径*高さ325



金城次郎の1972年に読谷に移転する以前、壺屋で作陶に取り組んでいた頃の初期作品と思われます。印銘はありませんが、高台内の特徴から金城次郎の作と断定しています。これは経験則のようなものによる判断です。



金城次郎は主に呉須の点描による唐草文の作品を製作していますが、本作品のように蛸唐草のような描き方の唐草文様の作品は珍しいと思います。



金城次郎氏の有名な作品といえば、複数の曲線や渦巻き模様を組み合わせてつるが絡み合う様子を表した唐草模様や、魚を描いた魚文があげられます。



特に名高い「魚文線彫り」と呼ばれる魚が泳ぐ様を描いた模様は沖縄に伝わる定番の柄で、子孫繁栄を意味するめでたい柄です。一方で唐草文は金城次郎氏が朝鮮陶磁器の影響を受けた上下のS宇状唐草文(と中間部の牡丹唐草文)という加飾構成の作品は、数は少ないものの金城次郎作品に取り込まれています。まさに「自分の個性で描く」ようなっていくことを確立した頃の葛藤時代の図柄の作品と言っていいでしょう。



金城次郎といえば魚文という評価があるのは事実ですが、読谷村時代の作に比して、その文様を確立する頃の壺屋時代にこそ次郎の多様さや美しさの到達点を見ることができるいう評価も一方であります。習熟した壺屋の技を駆使し、作陶のための 伝統の要点を頑固に守りながら、壺屋時代には自然で作為を感じさせない、それでいて見紛うことなく金城次郎でしかない美しい品物が淡々と生み出されています。



壺屋時代(那覇市壺屋での作陶時期、1972年に読谷村へ窯を移た)の作品、この頃の作品の多くは、基本的に「次」の掻き銘がありません。
*金城次郎は1975年以降に自作品に「次」の線刻署名を入れるようになりますが、それ以前でわずかではあるが、出来の良いものなど注文主の求めに応じて「金次」などの線刻署妬を行っていたどうです。



ただやみくもに壺屋時代の作品がいいかというとそれは大いに疑問です。主に日用雑貨の作品を製作していましたが、それらに見るべきものは残念ながらありません。ただ40センチを超える大皿や高さ30センチを超える大柄な壺にこそ金城次郎の魅力がいっぱいです。脳梗塞を患った以降にはこのような大作の優品はなく、己の作品を生み出そうと葛藤していた時代のこの時の大作にこそ金城次郎の魅力が詰まっているように思います。



金城次郎氏のこのような銘のない大作の作品群を評価する人は稀かもしれません。骨董商は共箱、銘の偏重傾向ありますから、こういう作品群をあまり評価しません。しかし、共箱・銘のある金城次郎の作品のなんとつまらないことか・・。口に出す人は少ないですが、万人が認めるところでしょう。手元にある共箱のある、銘のある作品は見るべき点はないと見直す必要があります。



上記左の壺が壺屋時代頃、右が読谷村時代入った頃の掻銘のある作品。全体にてかりもなくなっており、釉薬や造形が安定しています。



大皿も同じですね。極端に大きな作品は少なくなり、作品がすとんとまとまってしまってきています。この傾向は晩年まで続きますが、壺屋時代の豪放さは影を潜めてしましまいます。

こういう傾向は作家の作品に多々あり、浜田庄司は逆に晩年の作に魅力がいっぱいあります。一部の赤絵を除き、晩年前の作品には魅力が乏しいものです。ただ、やはり浜田庄司の作品も大作にこそ魅力があるという点では金城次郎と共通しています。

下記の赤絵の作品は三越の展示会に出品された作品。赤絵についても数は少ないがやはり晩年の作が優れていますね。釉薬やフォルムに落ち着きがあります。

柿釉赤絵角皿 浜田庄司作
共箱
縦272*横275*高さ64*高台径約155



下記の作品は当方で所蔵してる浜田庄司の最大の大きさの作品で、出来、大きさでこれに勝る作品は見たことがありません。

茶鐵砂大壺 浜田庄司作
共箱 花押サイン入
高さ570*口径340*胴径520*底径215



民芸の作品はともかくでかいものがいい。お茶碗にいいものもありますが、数茶碗としての趣向以外は茶席では使いようがない。濃茶ではむろん、お薄でも主茶碗に民芸作はありえません。このところをわきまえていない方が多いようです。浜田庄司にしろ、河井寛次郎にしろ、金城次郎にしろ、茶器には向いていませんね。会席の飯茶碗・食器碗にはもってこいですが・・。

その作家の作品ならなんでもいいという鑑識眼のない愛好家が多いようですが、何ごとも自分の好みというものは明確にしておくべきものです。これは趣味も仕事も同じですが、子供は好みを明確に持っている


山水図 田能村直入筆 その1

$
0
0
週末には一年で恵比寿様に感謝する日。大きな鯛を買ってきて祀ります、ところで下記の写真、大黒様は右、恵比寿様は左!「おじいちゃん、間違えてるよ!」



我が家の正月の掛け軸・・。床の間は祖父愛用の木村武山の「旭日波」。祖父が正月には自分の部屋の床によく飾っていたそうです。



祖父と父が蒐集したものには贋作は一切ありません。「さすがだね。」

 

正月飾りから柴田是真の「恵比寿大黒」にこの日を境に変わります。手前は平野富山の作による「桃太郎侍?」。



離れの正月の掛け軸は狩野芳崖の「鶴図」。手前は江戸後期の古伊万里「鶴図大皿」。



こちらも河鍋暁斎の「恵比寿大黒図」の替えます。手前は弓野焼大甕、右はデルフト焼。



こういう作品はきちんと真作でなくては先祖に顔が立ちませんね。



壁掛けも替えます。この作品は色彩を直す必要があります。

恵比寿大黒面・吉祥額 加納鉄哉作



さて本日の紹介する作品は、田能村直入の作品です。多作で贋作が多いので、意外に毛嫌いされる傾向のある画家ですが、いまだにファンの多い画家でもあります。

山水図 田能村直入筆
紙本水墨 軸先骨 軸装二重箱 
全体サイズ:横444*1920 画サイズ:横323*縦1450



本作品は郷里の骨董店より厄0年ほど前に購入した作品。購入当時はまだ直入の評価も高く、売主も贋作が多い画家故に真作とは思っていなかったようです。当時(平成2年頃)で5万にて購入し、安く入手できたと喜んだ。




現在は南画の需要が低く、直入にしてもあまり評価は高くはない。とはいえ本作品は品格も高く、気に入っている作品のひとつです。ながらく男の隠れ家にて鑑賞していました。



賛は「漁翁浮小艇陶陶釣眠曛可識桃源立回即容夜雲 明治十二年巳為小春 直入山樵」とあり、意味は「漁翁小艇を浮かせようようと釣をす、夕暮れに寝るも可し、桃源(漁夫が桃林中の流れをさかのぼり洞穴から入り平和な天地で遊んだという故事)立面の識 即その姿夜雲のようである。」という意味のようです。

読める?こういうのを読める努力すらしなくなった現代人は南画を愉しむ資格はないようです。恵比寿大黒の右左を間違えるように現代には素養の基本というものがまるでなくなった。

 

表具は平成12年に締め直ししています。直入についても贋作が多く、また多作のため贋作が多く入り混じっていることが考えられます。本作品は出来、落款、印章から真作と判断しており、力作ではないにしろ佳作の作品といえるでしょう。朱方印「痴」、白方印「□□」が押印され、右下、賛の左上に遊印が押印されています。

 

このような南画を愉しむ風情が日本人から消えていく・・。



「その姿夜雲のようである。」というのは愉しめる日本人の姿そのものとだぶるように思えます。



片岡球子を愉しめて、南画も楽しめる。良き時代に我々はいるのに愉しみ方を知らない・・。

この作品も見た叔父が「いいね~、さすがに直入。」と感想を漏らした姿を忘れない。ちなみに叔父の蒐集には片岡球子をはじめとしたそうそうたる蒐集品がありました。むろんすべて真作・・。祖父や父も含めて昔の蒐集家は偉かった 母によって小生に委託された父の蒐集品以外は、理解無き後継者によって雲散していますが、少しずつ手元に戻りつつあります。

越前焼 双耳お歯黒壺

$
0
0
休日は息子の自転車の練習・・、自分でペダルに足を乗せ始めました。



本日は下手物で有名な「お歯黒壺」の紹介です。

越前焼 双耳お歯黒壺
合箱
口径95~105*最大胴径130*高さ140*底径



お歯黒壺の見どころは基本的に片口であり、双耳が完全であること、釉薬や形に見どころがある点、底などから時代があることがうかがえることなどが挙げられる。また共同窯であったことから、時代の古い作品はヘラ傷などで製作元を解るようにしてある点も挙げられる。



まずは基本は上記のようにお歯黒壺は片口、双耳であり、形が完全に残っていることを良しとしましょう。欠けている景色を良しとする傾向がありますがそれは止めましょう。あくまでも下手物ですので、少しでも品の良さを重んじましょう。



あくまで釉薬らしきもののないもの素朴さを潔しとします。肌は石はぜのような景色を重んじます。



造形は荒々しきを良しとします。底周りは乱雑で勢いのあるものを良しとします。



***********************************

越前焼のお歯黒壺:越前焼きの小さな壺の総称である。江戸時代以前、結婚した女性はその印として歯を黒く染めた(公家は男性でも染めた)。小壷に古釘などを入れ、お茶を入れて反応させた。黒く酸化した鉄の液は四酸化鉄だったのかもしれない。その小壷をお歯黒壺と呼んでいた。どの家庭でも、 必需品だったお歯黒壺が越前焼の物が多く見られるのは頑丈だった証拠でしょう。



信楽では「蹲る」と呼び、人が蹲っている様子を例えたのである。越前焼は壺・甕・擂鉢(すりばち)を主とし,初期には三筋壺や水注などを焼いているが,碗・皿類はない。室町時代中~後期には古越前特有の双耳壺が数多く焼かれており,片口小壺は室町末から桃山時代にかけて肩に両耳をもつものが量産され,越前おはぐろ壺の名で親しまれている。



古越前の商圏は北海道までの日本海沿岸と近畿の一部に及んでいるが,近世に入ると瀬戸・美濃・唐津・有田のすぐれた陶磁器の流入によって,一地方窯に転落し,農村・漁村を対象とした雑器生産に低迷した。

製作は轆轤で挽く場合も多いが、たいていは轆轤の上に粘土の粉を敷き、その上に壺の底になる土を置いて、紐を積む。それを板で上に伸ばす。見た目よりも重くて、壺の内側には鉄片がこびりついて「こ汚い」というイメージが強い。

***********************************



***********************************

越前窯:越前焼は、日本六古窯の一つに数えられ、瀬戸、常滑、信楽、丹波、備前と並び、日本を代表する、歴史が古い焼物のひとつに数えられています。平安時代末期から焼かれ、現在約200基の古窯が発見されており、大規模な古窯では、かめ、つぼ、すりばち、舟徳利、おはぐろつぼなど、日用雑器が焼かれていたことが確認されており、当時の隆盛がしのばれます。

越前の土は、石英などのガラス質を多く含むため、焼き固めた際に土の粒子の間にガラス質が流れ込み隙間を埋めることで、硬く緻密に仕上がります。また、越前の土ならではの独特の成分比率により、強い粘りがあるため、繊細な成形を可能にしています。

旧宮崎村の中央をながれる天王川の西部丘陵のみに分布すると考えられていましたが、昭和40年代後半になって、平安時代後期の須恵器窯が多く分布する天王川東部丘陵に越前窯で最も古い丹生郡越前町小曽原の土屋古窯跡群・上長佐古窯跡群、越前市の奥蛇谷古窯跡群が相次いで発見され、越前焼の発生について新しい資料を提供することとなりました。これらの古窯跡群は、いずれも平安時代末期に生産を始めており、中でも上長佐3号窯跡の発掘調査中に出土した三筋壺の形態から、越前窯は東海地方の瓷器系の技術を導入して成立したことが判明しました。

越前の主な生産器種は、中世全般を通じて大型の甕と擂鉢が圧倒的に多く、三筋壺・瓶子・水注・片口小壺などそれぞれの時代の要求品を僅かながら焼成しています。

焼成は、山の斜面をトンネル状に掘った長さ約15m、幅約2.5m(鎌倉時代の場合)の穴窯(あながま)を使った還元炎焼成酸化冷却法で茶褐色に焼き締まっています。鎌倉時代中期から後期になると窯は西部丘陵へ移つり、全体の約半数がこの時代に集中しています。このように平安時代末期から鎌倉時代後期に中世窯が全国各地に発生した理由には、農業を中心とした諸産業の飛躍的進歩があげられます。

************************************



************************************

越前焼:二毛作の普及による発芽の促進と地力の回復には、種壺と肥え甕が必要でした。農業以外では、宗教用具と蓄銭容器への利用が上げられます。平安時代後期から盛んになった経塚造営に伴う経筒外容器や火葬の普及による蔵骨器として数多くの壺や甕が使われました。また、甕に銭をためることが鎌倉・室町時代に流行したらしく、一つの甕から数十万枚の銅銭が発見されることも珍しくありません。このように越前窯を始めとした中世の焼き物は、当時の人々の生活に深く根ざしたものです。

************************************

下手物のお歯黒壺ですが、その魅力に魅せられた人は多い。ただ数多く集めるものでは決してありません。一個か二個で十分、この辺をわきまえない蒐集家には閉口します。やたら数の多いお歯黒壺や油壷の蒐集は品格がないものです。

忘れ去られた画家 編み物をする女性 伊勢正義画 その4

$
0
0
今回の大雪を避けるかのように小生は名古屋出張で一泊。



息子は幼稚園から帰ると雪かき、雪だるま作り、かまくら、そしてそりとひととおり雪遊びをしたようです。



雪は冷たいというのにはまだ慣れていいないようです。長靴に雪が入り、「冷たいよ! 家に入ろう。」と大泣きしたようです。



小生が名古屋から帰って雪遊びの報告を受けたその夜に子供は熱を出しました。夜中に「お父さん、のどが渇いた。」とか「お腹空いた。」・・・、朝起きると熱は下がっており、相変わらずの早朝のお見送り。



田舎で慣れているようでともかく元気です。小生の子供の頃もそうでしたが、庭が広いのは家の庭ですべてまかなえるのが、安全で有難い。近所の子らも集まってきたようです。

後日談:熱が下がった思い、幼稚園に行くも発熱で途中帰宅。その後本日まで幼稚園はお休み。発熱、腹痛やらの看護で家内共々少し寝不足気味



本日紹介する伊勢正義は小生の郷里の近くの出身で、本ブログでお馴染みの福田豊四郎氏と同郷でもあります。



編み物をする女性 伊勢正義画 その4
油彩額装 右下サイン 
画サイズ25号弱:横598*縦787 全体サイズ:縦717*横904



伊勢正義のアトリエの跡を解体を母が依頼されて、解体工事を行ったところ絵画作品が二点出てきたそうです。母が持ち主らの承諾を得て持ち帰った作品は現在では小生が所蔵しています。

ひとつは下記の作品の冬の山、もうひとつはサインのない裸婦の作品です。



その作品が1937年(昭和12年)作。まだ郷里に住んでいた可能性があります。本作品はそれから2年後の1939年(昭和14年)の作。

父は料亭から頂いた? 交換したらしい・・、伊勢正義の薔薇を描いた作品は親戚の新築祝いに差し上げたのですが、料亭から後日、返してほしい旨の申し出があったそうです。父はすでに亡くなっており、作品も差し上げてしまったことを説明して了解していただたそうですが、当時の伊勢正義の人気の高さがうかがわれます。

伊勢正義は明治40(1907)年2月28日秋田県鹿角郡(大館市白沢)に生まれ、転勤の多かった父に伴い、各地を転々としましたが、少年時代を小坂町で過ごしています。



当時の小坂町は鉱山の最盛期で、秋田県で北辺の土地でありながら、中央から直接文化が流れ込み、近代的・都会的な雰囲気が満ち溢れていました。さらに戦後の木材業も盛んとなり、秋田の北辺は大いに栄え、演劇などの文化活動も盛んに行われ、芸術方面の関心が高い町だったと思われます。小生の祖父や父が生きた時代です。伊勢正義と同じく、父の友人の日本画家の福田豊四郎(1904年~1970年)も同郷です。

 

戦前の混乱期、また画壇の紛糾していた時代に製作活動を続けていた郷里出身の画家です。改めて見直すべき洋画家のひとりと言えるでしょう。



********************************

伊勢正義:新制作協会会員の洋画家。1985年11月18日腎不全のため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。明治40(1907)年2月28日秋田県鹿角郡に生まれる。



昭和6年東京美術学校西洋画科卒業。藤島武二に師事。同8年20回光風会展に「女性」他3点を出品しK夫人賞を受け、翌九年光風会会員となり、同年の15回帝展に「カルトン」が初入選する。同10年22回光風会展に「無花果のある静物」他2点を出品、最初の光風特賞を受賞した。同10年松田改組に伴う第二部会展に「集ひ」を出品し、特選、文化賞を受けたが、翌年同志と官展を離れ、同年猪熊弦一郎、佐藤敬らと新制作派協会を結成、第1回展に「バルコン」「キャバレー」を出品した。



同12年日動画廊で初の個展を開催。その後新制作協会の主要メンバーとして同協会展に制作発表を行い、近年はアラブ、アフリカの生活を題材にした作品で知られていた。また、日本貝類学会会員、国際教育振興会理事でもあった。


*********************************

今は打ち捨てられるようなお値段で売られていますが、本作品は伊勢正義の最上作品のひとつでしょう。飾ってみたい間違くなく思う作品です。

達磨圖 西村五雲筆 その2(整理番号)

$
0
0
下請けをしていると仕向け、要は一度請け負った金額から請負責任のある瑕疵を差っ引くことですが数多くあります。理不尽なことが多いですが、顧客を失うことを懸念して泣き寝入りする下請が多いのが実情です。もちろん立場を利用したそういう行為は法的にも禁止されていますが・・・。元同僚の行為であり、こちらも心を傷めることが多い。

そういう差っ引きをする人ほど評判がよくないのが実情です。自分の元請責任というものをどこかに放り出している感があります。

さて蒐集した作品でその人のセンスが解るというのは頷けます。骨董蒐集が趣味の方の大半は意外にセンスが悪いものです。ひとめ、もしくは数点の作品を観ただけでその趣味の悪さに背けることになりますが、本人がまったく気が付いていないので、注意しようものならとんでもない反論にあい、こちらの蒐集作品までケチをつけられることになります。意外に社会的地位の高い方にこの輩が多いので閉口しますよ。

何も知らずに骨董というと贋作と決めつける輩(これを「無知の上塗りの輩」と称します)も困りものですが、浅知恵の天狗人は手に負えません。

とはいえ当方の趣味がいいとは限りませんが、やはり蒐集する作品は思わずニヤリとするセンスのいいものがいい。本日はそのような作品です。この作品は男の隠れ家の小生が寝泊まりする部屋に飾ってあった作品です。もう15年近く前の蒐集作品です。

達磨圖 西村五雲筆 整理番号
絹本着色軸装 軸先本象牙 川村曼舟鑑定箱入
全体サイズ:縦1230*横557 画サイズ:縦285*横423



右は壺屋焼の新垣栄三郎の作品です。ちなみに飾り棚は自宅にあったという欅の切り株部分で作られています。

西村五雲はなんども本ブログで紹介しており、著名な画家でもあるのでここでは説明を省略しますが、もっと評価されてもよい画家の一人に相違ないでしょう。



西村五雲、西山翠嶂らの竹内栖鳳に続く画家を知らない方がおられるようですが、基本的な画家くらいは覚えておくべきでしょう。



達磨を描いた洒脱な図柄と粋な表具の逸品。軽妙な筆致ではあるが軽く流れない、五雲の画技の高さを感じさせる一幅です。



川村曼舟が「達磨圖 五雲居士真蹟 川村曼舟謹識」と鑑定箱書きしている珍しい作品です。このような箱書の真贋がすぐに解るようになることも必要です。



川村曼舟と西村五雲は没年が4年しか違わないため、「居士」とある箱書きは「昭和13年から17年までの4年間」に限定されるでしょう。それ故に西村五雲作品への川村曼舟の鑑定箱書きは珍しい。



いくらなんでももはや山元春挙、川村曼舟を知らない方は本ブログの読者にはいませんよね? 知識もなくすぐに作品の真贋のみを問う輩は実に品がないものです。ものの真贋を問う人はそれなりの知識がないといけませんよ。世のコレクターには品のない御仁ばかり・・

芥子 榊原紫峰筆 その6(整理番号)

$
0
0
息子に「またお茶席に行こうね?」と尋ねたら「お庭のほうがいい!」だと・・。そこで週末には再度、庭でラーメン・・。



「おいしいね!」



茶会の本筋は愉しいこと・・。行儀はいいこと。本筋は常に外さないようにしよう。今の茶に本来の魅力はなく、仕事盛りの男女には興味ない世界になっている。



本日紹介する「芥子」の日本画の小作品は先日に神村雪佳の作品を紹介したばかりです。

芥子 榊原紫峰筆 その6(整理番号)
絹本金泥着色軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1370*横630 画サイズ:縦205*横180



実にこじゃれた表具です。猪目の表具? 小生の書斎に飾りました。



蒐集作品はセンスの良い作品・・、これもそういう作品です。

本物かって? おそらく本物! これは経験による感、所詮、真贋などは庭で食べるラーメンのようなもの、食べなくは味は解らない



芥子 神坂雪佳筆 その1(伝は解除しています。)
金紙本着色 額装
作品サイズ:縦310*横270



不定形な大きさの作品はマットによって調整して額装にします。



アフガニスタンのタリバンなど「芥子」というとアヘンが思い浮かびますが、改めて日本における「芥子」の歴史をきちんと理解する必要があろうと思います。

*********************************

日本での栽培史:日本種(一貫種、もしくは三島種)日本では、室町時代に南蛮貿易によってケシの種がインドから津軽地方(現在の青森県)にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称となったという伝承がある。その後現在の山梨県、和歌山県、大阪府付近などで少量が産出されがいずれも少量で高価であり、用途も医療用に限られていた。

明治の半ば、大阪府の農民二反長音蔵がケシ栽培を政府に建白、地元の大阪府三島郡で大規模生産に乗り出すとともに、品種改良に尽力し、モルヒネ含有量が既存種の数倍に達する一貫種と呼ばれる優良品種を作出した。

日本は台湾統治開始後、台湾においてアヘンの製造と消費が一大産業になっていることを知った。台湾総督府衛生顧問だった後藤新平は台湾のケシ栽培を課税対象とし、段階的に課税を厳格化することで、40年をかけ台湾のケシ生産を消滅させた一方で内地では二反長音蔵のケシ栽培を積極的に後援し、日本国内のアヘンの生産と台湾への輸出・販売を台湾総督府の専売制とし、莫大な利益を得た。

1935年頃には全国作付けが100haに達し、5月の開花期には広大なケシ畑に雪白の花が広がり、非常な壮観を呈した。当時のアヘン年間生産量は15tに達し、全国産額の50%は和歌山県有田郡で、40%が大阪府三島郡がそれぞれ占めた。

昭和に入ると日本は戦前朝鮮や満洲の一部(熱河省。現在の河北省、遼寧省、内モンゴル自治区の一部)でケシ栽培を奨励し、第二次大戦中は満洲国、蒙古聯合自治政府、南京国民政府などで大規模栽培を行い、生成されたアヘンに高額の税をかけ戦費を調達した。

終戦後の1946年、GHQがケシ栽培を禁止し、国内生産は途絶した。1954年あへん法が制定され、翌1955年から栽培が再開された。しかし戦前のような大規模栽培は復活することなく、現在の栽培量は実験室レベルに留まっている。

*********************************

イギリスは中国の外貨を稼ぐために、インドで栽培したアヘンを主要輸出品として、清国を疲弊させた罪は重い。清国がアヘンに制限をかけると、戦争をしかけるという暴挙に出た。戦争に圧倒的に勝利すると不平等な条約を締結させることとなる。イギリスが紳士の国などどいうのは全くの妄想である。北朝鮮にも劣る行為を平然と行っていた。

日本はアヘンの栽培を明治期には奨励したが、清のアヘン戦争の教訓から後日、国内で制限しましたが、輸出用として海外などで栽培を奨励していたようです。第二次世界大戦終了まで、栽培は続いていたようです。

ただ明治政府はオランダからの情報などのアヘン戦争の教訓から、かなり厳しく制限したようで、一部に日本での流行はあったもののひどい被害にはならなかったようです。利益を得る品目そして点は非難される点はあるものの明治政府はえらい!

一介の地方の郷士達がなぜに明治維新でこれほどの賢明な策をいくつも繰り出せたのか不思議でならないが、要は教育がきちんとしていたのであろうと思う。上級武士の傲慢さとは打って変わって、苦労して学んだものは王道を外さなかったのであろう。

今の企業にも言えること・・。苦労した学習のない傲慢な輩がやたら多い

*********************************

日本における栽培の現状:日本でもあへん法によってアヘンやモルヒネに対する規制がかけられているが、同法は戦前の満州や朝鮮で大規模に行われた戦費調達のためのアヘン生産の反省に基づき、国内での大規模栽培を例外なく禁止する意図の元に策定されている。ゆえにその内容は他国に比較して非常に厳しい。



現在日本においてあへん法に基づく栽培許可を受けるには、栽培地の周囲に二重の金網を張り巡らせ門扉には施錠する、といった非常に厳しい条件をクリアしなければならない。ゆえに実際に許可を得て栽培しているのは国や地方自治体の研究機関や、薬科大学、大学薬学部の薬草園、および北海道に国の研究機関から委託されて栽培している数軒の農家があるだけで、国内のアヘン生産量は実験室レベルに留まっている。これではとても国内需要をまかなえないため、日本は国際条約下で数少ないアヘン輸出可能国にもかかわらず、他国からアヘンを輸入している。

なお、2008年には茨城県下妻市にある小貝川ふれあい公園で行われるフラワーフェスティバルの会場では、ポピー畑に誤って栽培禁止種であるアツミゲシが種子の時点でポピーの種子に混入したために数十万本植えられていることが判明し、撤去・焼却処分した事例もある。

*********************************



なお芥子の種子には多量の油分が含まれているため、これを絞ったけし油(ポピーシードオイル)も食用や石鹸の製造、油彩画の絵の具を溶く描画油に使われている。けし油は植物油としてはかなり高価な部類に入るので、一般的には食用よりはむしろ描画油として使用されるということから、絵画には縁が深い花です。



小粋な表具、このようなものづくりにこだわる人はめっきり少なくなった。

三彩砧形花挿 北出塔次郎作 

$
0
0
風邪でダウンした子供を看護していたら、子供がポツリと「頑張るの嫌になった。幼稚園が愉しくない。」と・・・。「どうした、なにかあったかい?」と聞くと「いじわるする子がいるの。」だと。いろいろ聞くと息子なりにいろいろと悩んでいるらしいが、二人の話し合いの結果、「そんな子やっつけてしまえ!」が結論。幼稚園ではきちんと先生にも話をしているらしいし、いじわるする常連の子が何人かいるようです。今からかよという感、「息子よ、長い旅に出たね。」



九谷の色絵の近代の名工というと富本憲吉、藤本能道が挙げられますが、一方で本日紹介する北出塔次郎の評価も高い。九谷焼は小生の蒐集対象外でもあり、所蔵している作品はごくわずかですが、本日は大きな作品ではありませんが、北出塔次郎の作品を紹介します。

三彩砧形花挿 北出塔次郎作 
共箱
口径約*胴径60*底径*高さ195



*******************************

北出塔次郎 (きたで-とうじろう):1898-1968 昭和時代の陶芸家。明治31年3月8日生まれ。石川県の九谷(くたに)焼窯元の養子となり,色絵をはじめる。大阪美術学校で矢野橋村に日本画をまなんだのち,北出家に滞在した富本憲吉に師事して色絵磁器を研究する。昭和34年日展評議員。金沢美術工芸大教授をつとめた。43年芸術院賞。同年12月12日死去。70歳。兵庫県出身。旧姓は坂本。本名は藤治郎。

*******************************

現在の九谷焼もまた優品がめっきり少なくなりました。やはりその基本的な技術と感性が根本から稚拙なことが影響していいるのでしょう。




*******************************

北出塔次郎は、明治31年(1898)兵庫県に生まれ、大正5年関西大学法科を中退し、大阪美術学校で矢野喬村に学び、昭和11年富本憲吉に師事した。

その後、文展、日展に出品、しばしば特選となり、昭和21年金沢美術工芸専門学校講師、同24年教授となった。石川県の伝統工芸である九谷焼に新風を吹きこんだ陶芸作家として知られ、昭和23年には、第1回金沢文化賞、同26年には北国新聞文化賞を受賞した。

昭和34年以降、石川県文化財専門委員、同38年石川県陶芸協会会長などをつとめ、毎年東京・和光で個展を開催、昭和44年5月、日本芸術院賞をうけた。

主要作品:「色絵蓮池文磁飾皿」昭和14年3回文展、「色絵陶磁魚貝文平鉢」同15年2600年奉祝展、「悠久牛壁画パネル」同16年4回文展特選、「金魚紋盛器」同18年文展特選、「歳寒二雅瓢型花生」同21年日展特選、「水辺讃夏香炉」同27年日展、「駱駝図飾皿」同29年日展、「花鳥扇面二折屏風」同32年日展、「縞馬陶器モザイク額面」同35年日展、「陶製駱駝壁画装飾」同39年日展文部大臣賞、「陶製日本の美」同41年日展、「樹海の饗宴」同42年日展、「胡砂の旅陶製額面」同43年日展。『日本の焼物(九谷篇)』(昭和37年、淡交社刊)の著書がある。

*北出塔次郎(きたで とうじろう). 生没年 明治31年〜昭和43年 享年71歳

大正11年 九谷焼窯元北出家の養子となる。 大正14年 陶芸を板谷波山に学ぶ。 昭和11年 富本 憲吉に師事し、新しい九谷焼の色絵を確立する。

*******************************

板谷波山、宮本憲吉らそうそうたる陶芸家から学んだようです。藤本能道の作品とともに九谷焼には有能なる陶芸家が多かったのですが・・・。



絵画や轆轤技術というものを、基本的に徹底した徒弟制のようなもので教わっていないので、最近の九谷の作品に品格がありません。これがもっと顕著なのが輪島塗です。現代の輪島塗は購入する価値は全くありません。



漆は中国製、絵はへたくそ・・、これが輪島塗の事態です。JAPANNと呼称される漆器が漆を中国製を使うようになってから極悪品になりました。外国からは贋作と呼ばれています。今のままでは古い道具の修理しか生き残る道はありません。その修理も中国製の漆では世も末ですが・・。



*******************************

青泉窯:北出窯三代塔次郎の頃この窯に滞在され、色絵の研究に打ち込まれた富本憲吉先生により命名された。昭和十一年秋のことである。今も、その扁額により往時を偲ぶことができる。 九谷では、素地造りを専業とする窯元と絵付け専業者とが分業化されてきた。

北出窯は、初代宇与門により明治元年加賀市栄谷の地に興された窯元であり、 明治ー大正期を通じ、江沼九谷の名声を多いに高めた。二代亀吉は大正-昭和期に活躍したが早世した。

三代塔次郎の時、素地・絵付一貫作業の工房として歩み始め、塔次郎は昭和初期より帝・文・日展で活躍、又多くの後進育成した。金沢美術工芸大学教授でもあったが、芸術院賞を受賞した昭和四十三年不帰の客となった。

当代である不二雄は、塔次郎の跡を継ぎ日展中心に制作活動を進め、色絵の他、彩釉陶器を工夫し両者を併行して作陶してきた。幸い平成十一年には懸案の作陶三十年作品集を上梓することができ、感謝している。五代を継ぐべきであった昂太郎は、金沢美術工芸大学卒業後、色絵研究と制作に専念し、将来を嘱望されていたが、昭和六十一年惜しくも夭折した。

翌年此の窯で働くことになった博嗣・三枝夫妻は今日まで十数年の修行を経てきた。歴史ある青泉窯のゆくえを考え、博嗣の将来を思いを致し、後事を託するため、北出に入籍して青泉窯に継いでもらうことにした。

*******************************

脈々と受け継がれていく窯元というのは大変のご苦労があるのでしょうね。



基本は修行ですが、世の流れに流されない伝統の死守であり、あらたな芸術性の追求でしょう。輪島と九谷にはそれがない。

源内焼 その110 三彩龍花文手付皿 五枚揃 

$
0
0
名古屋に出張の際に、家内に就寝前に電話連絡したら、「雪見の茶をしようと釜に火を入れたのに誰も来ないの。」と嘆いていました。そりゃそうだろうね、寒いし・・。



雪見の茶・・、そんな風情のある愉しみができないのはとても残念 せっかく雪見障子など趣向を凝らした部分があるのに。でもさすがに今回は名古屋に一泊して正解だったかも・・。



後日、帰京してから家族皆で初釜にて雪見茶会を催しました。

さて、本ブログで紹介してる源内焼は型によって作られる陶磁器です。釉薬の違いでの同じ型の作品は多数存在し、また揃いの複数の作品も小型の作品を中心に数多く存在します。

割と大きな器でも型で同じ図柄の作品を複数揃えることも可能ですので、蒐集する側にしたら二重の愉しみとなります。

本ブログでもいくつかの揃いの源内焼の作品を紹介しましたが、本日はとても珍しい手付の可愛らしい小皿の作品の紹介です。


源内焼 その110 三彩龍花文手付皿 五枚揃 
合箱入 
幅60*長さ96*高さ



この作品を源内焼と見抜けない人も多いでしょう。



とても小さな作品です。基本的に源内焼は実用的ではありませんが、思わず使いたくなる作品です。



見込みの文様は龍、とても洒落ています。



揃いで5作品が完品なのが嬉しい。

下記の作品は前回の源内焼の作品ですが、最初は一枚から初めて3枚まで揃った作品です。

源内焼 その109 楼閣文角皿 三枚揃  
合箱入 
幅155*奥行155*高さ35



中型や大皿の作品を揃いすることも可能ですが、資金が多額となります。



全く同じ釉薬のものを揃えるか、全く違う釉薬のものを揃えるかなどマニアックになりがちになります。ただ蒐集はマニアックになったらおしまい・・。執着なく成り行きで蒐集しています。



骨董の蒐集では色が違うとか、文字違うとかそんな次元のマニアックな蒐集は止めたほういいと思います。美的感覚と次元の違う蒐集の考え方です。



骨董の蒐集とはあくまでも美の評価であり、数揃えの安易な方向の蒐集は禁物です。



小生の揃いの蒐集の目的はあくまでも家族で使うことを目的としてのもの。家族は健康でいることがいかに幸せなことか・・・。否、現代では家族がいるということだけでいかにありがたいことか、そのことを感謝する気持ちを忘れてはならない




十和田湖早春 福田豊四郎筆 その17

$
0
0
戦前、戦後間もないころ、当時の小説家から挿絵画家として高い評価を受けていた画家の一人が福田豊四郎でした。福田豊四郎は新聞挿画なども多数手がけており、井上靖、今日出海、林芙美子、三浦綾子等の作品に嗄挿絵をしています。

下記の作品はそのような挿絵の原稿の作品です。(以前に投稿済み)

茶粥の記 福田豊四郎筆
紙本額装無落款 305*335

 

本作品は秋田県五城目出身の美人作家である矢田津世子著作の「茶粥の記」の装幀画として描かれた作品であり、本は昭和16年に発行されています。



地元の骨董店で購入し、骨董店に主人が入手した地元の図書館の蔵書の表紙のコピーしかなかったのですが、インターネットオークションで本そのものをこのたび入手できました。



色合いがだいぶ違いますね。





郷里にて購入したもので実際に表紙に使われた作品とは違いますが、幾つか候補作品を描いたうちの一作品に相違ありません。清楚な感じのする小品ながら佳作だと思います。いくつかの福田豊四郎の挿絵の原稿を入手していますが、なかなかノスタルジックな点が作家から評価されていたのでしょう。

本日紹介するもうひとつの福田豊四郎の作品は、亡くなった家内の菩提寺の住職が旧蔵のしていた作品の紹介です。菩提寺には義父も眠っており、住職が生前においては小生も何度か住職にお会いしたことがあります。骨董の蒐集家としても地元では著名で、本作品じゃ住職が手放された作品を骨董商を通じて小生が入手した作品です。

十和田湖早春 福田豊四郎筆
紙本水墨淡彩絹装軸 〇〇寺〇〇〇j〇和尚箱書箱入 
画サイズ:550*415

義父が檀家総代を務めたこともある菩提寺なので懇意にさせていただき、骨董談議に訪問したこともあります。いまでは現在の住職(お孫さん)と年一回は骨董談義させていただいております。ただ、現在の住職は仏像と香合などの漆器が蒐集対象のようです。



描かれている十和田湖の秋田県側は豊四郎氏の郷里である小坂町となっており、鉱山の山を越えて徳兵衛平の五里の林道は、彼が少年の頃から幾度となく通った道です。



著書に「永遠に変わらない自然の美しさ、見る度に嘆息する様な湖色の若々しさ、少年時代から現在の頭髪の白くなった自分と対比する自然の悠々さに泌々とした感情にふけったのである。」とあります。



彼が画業で多忙であっても、年一回あわただしく帰郷して、必ず十和田湖と八幡平を訪れていました。十和田湖が現在のように観光客によって雑踏のごとくなる前のことであり、十和田湖本来の自然の美しさをいつまでも堪能できたのであろう。父や叔父らと一献を交わしたのもこの頃です。



本作品は早春の十和田湖を、淡く表現していています。北国にとって春の訪れは特別な感慨があり、厳寒の冬への恐怖から開放され、ようやく春がきたという待望の感のある作品です。

落款の字体、印章から最晩年の作と推察されます。



故郷にはそういう自然の思い出の場所が必要です。安閑と都会暮らしをするよりも、田舎にある自然の厳しさ、良さを実感して過ごすことのほうが何倍も幸せなのです。

高層マンションの暮らし、月一のゴルフが趣味という御仁、その貧しさに気が付いていますか? そのような生活は80代からでいいのです。

趣味のない方ははやく趣味をみつけたほうがいい。現在の仕事が定年を迎えたら早々に切り上げて、次の仕事なり、趣味なり己の打ち込めるものをつくらないとこの高齢化の社会を乗り切れません。なにせいずれ100歳の高齢化社会が現実化してくる。好むと好まざるとに関わらず人間は寿命を全うしなくてはいけませんから・・。



本作品は力作ではないもの表具は小粋に仕上げられています。



いつになっても郷里の思い出は懐かしいものです。単に懐かしいというより思い出がたくさん詰まっている風景とも言えます。早世した亡父との唯一の旅行の思い出、郷里の友人らとのサイクリング、学生時代の初恋のデート、赴任時の妻との旅行、そして帰郷時の家内と子供との遊び・・・。



福田豊四郎が描いた十和田湖の作品は数多くなり、里の男の隠れ家にはいくつもの十和田湖の福田豊四郎の作品が集まってきました。これが私の趣味・・・??

遊び心 白刷目魚紋茶碗 金城次郎作(無銘) 茶碗 その4 

$
0
0
骨董を扱うということは金銭以外にいかに体力、神経を使うかをご存知ない方が多いようです。例えばひとつの作品は扱う際に、箱から取り出して飾るまでの時間は思いのほかかかりますし、ひとつ飾るとひとつ収納しなくてはなりません。この扱いが雑ですと、保存用の紙がぼろぼろになったりして保存に支障をきたします。収納の仕方も常に工夫が必要です。



上記の写真は箱のない作品を収納するために箱を作ってもらい、別途に注文した真田紐をあつらえ(真田紐には子だ割が必要)、中の梱包紙(紙は湿気防止にたっぷり使う)、黄布(防虫効果がある)などで作品を保護して、収納する段取りをあらたにしているところです。現代は収納する合理的な道具がたくさんあります。古臭い綿や布を後生大事に箱にしまっておく必要は一切ない。捨てるものと遺すものをわきまえておきましょう。

*箱を作ったり、表具を直したり、真田紐なども道具類など、廉価で調達できる腕の良い職人を事前に見つけ出しておく必要があります。



中には説明書をつけ、外側からは何が収納されているか一目で解るようにしておきます。箱から取り出さないと中身が解らないという収納ではいけません。作品の出し入れが一番、リスクが高い。

蒐集する人は集めると集めっぱなし、ひとめにつくところに作品は放り出しておくという無作法は言語道断です。蒐集する資格がありません。仕事場や玄関、書斎、応接室に所狭しと置かれている時点で蒐集家失格です。



収納に手間をかけたことにない人は乱暴に作品を箱から取り出して、雑にまた仕舞いこみという無作法をします。きちんと収納するスペースも工夫する必要があります。下記は当方の掛け軸の収納用の棚です。



掛け軸もそうですが、取り出し方、収納の仕方には基本的なルールがあります。これを知らない人はすでの骨董蒐集の資格から失格です。この扱いは腕、腰、手の握力など意外に体力を使います。



額は作品を裸で収納することはまずありません。黄袋にタトウが基本です。手間をかける価値にない作品と判断したものは処分したほうがいい。無駄なスペースを使いますし、ひとつでも駄作があると蒐集品全体を汚します。

骨董蒐集は労力の半分が収納です。これをわきまえていないと繰り返しますが蒐集する資格はありません。



額、掛け軸は大きさ別に収納する工夫も必要です。



一般的な掛け軸の大きさの作品は桐箪笥に収納できます。大きい掛け軸や額はそれ専用の棚が必要です。掛け軸、刀剣は必ず別の棚にします。湿度の違い、防虫剤が刀剣に悪さする恐れがあるためなどです。陶磁器は基本的に腰より低いところに収納します。高いところは禁物です。小生は陶磁器は屋根裏部屋にしています。決して高くは積めないように・・・。

こういう工夫は何度か繰り返さないと身に付きません。小生は男の隠れ家で何度も工夫してきました、次にはもっといいものが作れそう・・・



掛け軸、陶磁器、漆器、刀などの基本的なルール、小生は「たしなみ」と称していますが、これをわきまえない人とは作品を取り出して話もしたくありませんし、作品を見せる気にもなりません。真贋、審美眼を気にするよりもまずはこの「たしなみ」を身に着けるべき御仁が多いようです。

さて、本日は金城次郎の作品の紹介です。本作品は掻銘など共箱を含めて一切の金城次郎の作品を証明するものはありませんが、小生は金城次郎の作と断定しており、また金城次郎の数多い茶碗も中でも傑作のひとつと思っています。



基本的に共箱のある金城次郎の作品は小生の蒐集対象外です。ろくな共箱や作品がないからですが、箱のない作品をきちんと収納する手配をするのも蒐集する者の愉しみのひとつです。

白刷目魚紋茶碗 金城次郎作(無銘) 茶碗 その4 
合箱
口径142*高さ80*高台径



魚文の作品において釉薬を流れるのを極力防ぐために、釘彫りの線を深くしたりしたそうです。本作品にもその傾向がみてとれます。



魚部分は鉄釉にて渋くまとめあげ、外側は一気に刷毛で白泥をかけています。作為のないのびのびとした作行となっています。



釘彫の彫が深いので茶を点てる際は茶筅を強く扱わないように注意しなくてはいけませんが、見込みの魚文がお茶をいただくときに意外性をもたらしてくれます。



息子がお薄を飲みながら「貝!」と言ったのは魚以外の文様のことのようです。



共箱のある頃の読谷村の窯の初期以外、人間国宝になってからの作行にここまで出来の良い作品はない。なお贋作ではこのような一気呵成の刷毛目はできない。



民芸作品としては銘のないほうが良いとも言えます。浜田庄司、河井寛次郎の作品には銘がありません。世の陶芸家、そして蒐集家とはそういう高い見識にてものごとを判断する素養が身についてなくてはならないのだろう。



息子よ、茶を愉しめ、ものを愉しめ、そして人生を愉しめ。その素養は家内と小生が教えよう。ついでにこの世の「たしなみ」についても・・。

遊び心 鉄釉茶碗 伝バーナード・リーチ作 茶碗 その2

$
0
0
骨董蒐集の基本に「自分のお金で買い、売り、そして休みなさい。」というのがあると聞いたことがあります。

「買う、売る、」はよく解ります。「買う」一方で「売る」ことをしないと資金が不足するということと、一番大切なことですが、「売る」ことで市場で自分の蒐集した作品はどういう評価を受けているということを肝に銘じておく必要があるからです。

「なんでも鑑定団」に出品しての評価は全くあてになりません。真作でもおそらく売れるのはその評価の10分の1です。それほど市場の買取価格は厳しいのです。世の蒐集家は集める一方で売ることをしている人は非常に数が少ない。おそらく一割もいないのでしょう。

次に「休みなさい」というのは、イコール「勉強する時間」と「クールアウトしなさい」という意味らしいです。熱くなると目先しか見えない、高い買い物をする、お金を使いすぎる、よって休んで勉強する時間を作りなさいということのようです。学ぶ余裕を作りなさい、学ぶことが大切という意味のようです。勉強するのに本や博物館、美術館で作品を見るのはほとんど無意味です。骨董商や蒐集家にじかに触れる作品を見て話を聴く必要があります。

さて共箱のない陶磁器は無下に扱われるのが作家ものの陶磁器・掛け軸などの作品に対する骨董業界の定め。ただ好きものはこれ幸いとこれを買い込みひとりでほくそえんで愉しんでいるもの。本日はそんな作品の紹介です。

本日もそんな一人よがり的な評価をしている作品の紹介です。

鉄釉茶碗 伝バーナード・リーチ作 茶碗 その2
合箱
口径140*高台径*高さ75



何気ない鉄釉のお茶碗。一度鉄釉を掛けてその上にさらに黒釉とでもいうような濃い鉄釉を掛けています。この釉薬の垂れが作者の狙いでしょう。



この作品はできそうでできない作行となっています。これが解るのは作陶において実際に釉薬を掛けてみたことのある人のみ。茶人は「実際の陶芸をやってみていないと作品が見れない。」という例のひとつと言えるでしょう。



ただ作為はこの点、これだけ。全体にオーソドックスな作りであり実に品がよい作行となっており、お濃茶にも使えそうです。



この作品がバーナードリーチの作品かどうかは正直なところ気になるところですが、なによりもこういう作行の作品を作れるのは天性のものと評価しています。



陶芸というものは個性の出る作品ですが、天性はなんともしようがありません。



あなたの周囲に品格のある作品が備え付けらえていますか? それが見抜けるかどうかが目利きの差異らしいのですが、本作品が贋作なら小生の鑑識眼はたいしたことがないということでしょう。いずれにしろ審美眼を試す遊び心、真贋にこだわる方には縁もゆかりもない記事・・。

好きものは氏素性の解らぬ作品を買い込みひとりでほくそえんで愉しんでいるもの、私もそうですが、本来骨董というものはそんなものと思います。休んでよく勉強した者にしか見えないものがある、それは真贋というよりは遊び心と称したほうがいいものかもしれません。

氏素性のはっきりしたものを集めるのは金持ちの道楽か、よほど品格のしっかりした方のすることですが、愉しみは意外に少ないものです。そういう蒐集は勉強す余地が少ない。ばくち的な掘り出し物の愉しみとはちと意味合いが違う次元、小生はそれを「遊び心」と称しています。人生は大半は「遊び心」、授業料が結果的に意外に高くつく代物かもしれません。

遊び心 壺屋焼 赤絵茶碗 新垣栄三郎作 その7

$
0
0
小生が名古屋出張で宿泊しているときに積もった雪、当日の夜は家内はひとりで雪見しながらお茶を点てたらしい。



今年になってから未だに茶事にない茶室なので、残っている雪を見ながら我が家の初釜と相成りました。床は正月の飾りのまま、横山大観の富士に志野織部の香炉・・・。



道具は水屋にあったもの手身近のお道具類にて・・。



息子は大はしゃぎです。

茶室内は目立ない工夫をしてあるエアコンにて事前に暖かくしておきます。お年寄りには寒い茶会など勘弁してほしいものです。これから高齢化の時代、墨を焚いて二酸化中毒? 寒くて脳梗塞?、痛い膝で正座? 茶事がどんどん現代人から離れています。



我が家の茶室のにじり口は折りたたみ式で高めの設定・・、息子はにじり口のレールの頭がぶつかるようになりました。このにじり口は家内のアイデアですが、意外に良い。私のアイデアは上下式の高さが変更できるタイプでしたが・・。

お年寄りがにじり口から出る時に着物の帯をひっかけたりするにじり口、すでに現代人の寸法にあっていない、ましてや外国の方々にはさらに・・。このにじり口の寸法を美的にいい寸法だと評価する茶人らはもっと現代にあった発想が大切。そうでないと茶事はますます敬遠されます。少なくても古い茶室はそれを評価するのはいいのですが、現代では時代遅れでそれを全く模倣して建てるのは愚の骨頂! そういう無知な輩が俗にいう茶人にはやたら多い。



息子はお薄をまとも量を飲むようになりました。



家内の分は小生が点てます。



さて本日の作品は、当日使った新垣栄三郎作の赤絵のお茶碗の紹介です。新垣栄三郎の作品は仁王こと、小橋川永昌とともに何点か蒐集してきました。



おっと、屋根裏部屋の長持ちからはこのような作品も・・。



壺屋焼 赤絵茶碗 新垣栄三郎作 その7
合箱
口径130*高台径*高さ80



沖縄で浜田庄司が作った作品はほとんど新垣窯での作です。浜田庄司の赤絵作品の人気は異常とも言え、最も人気のある作品群のひとつです。



沖縄で浜田庄司が作った作品は新垣窯の作品に酷似しています。当時の窯主は新垣栄徳氏(新垣栄三郎の父)であったそうです。民芸陶芸においてこのような基本的なことは知っておく必要があります。



決して公式の茶席では用いられない民芸での茶碗ですが、このような身内の席では使っていいでしょう。



さて家内も金城次郎の作はお好みらしいのですが、新垣栄三郎の作品については首を傾げていました。



この辺りは好みでしょう。茶碗よりも新垣栄三郎の作品も大きめの作品にその魅力がありますね。なお高台内に彫銘があります。



一般的に民芸作品は「大きいことはいいことだ!」です。

明末呉須赤絵麒麟文大皿

$
0
0
「さ~豆まきじゃ!」と言ったら、家で豆を撒く前に神社で撒くのを忘れていました。近所の八幡様と淡島神社に早速お参りしてから、家中に豆を撒きました。息子は上機嫌・・・・。あとで片づけるのたいへん



本ブログに多く投稿されている俗に称する「明末呉須赤絵」の作品群ですが、この作品群は本ブログで紹介されている民窯の作品群と共通しているものがあります。それは民窯で作られ、豪放磊落な作品群だということでしょう。この基本的な当たり前のことを認識していない蒐集家が多い。



陶磁器のファンのなかには意外に呉須赤絵の好きな方が多い。非常にわかりやすい分野ということもあるでしょう。日本人の好みに合っていて、日本人の注文に応じても現在の中国、東南アジアから日本へ輸出されてきたものです。

数は非常に多いのですが、骨董市に頻繁に出回るほどの数ではなかったようです。ただ、近年のネットオークションによって、埋もれていた作品が出回り、品不足の一時期において高価のものからは脱却したようです。通常の蒐集家の手頃なお値段の作品群になりました。



明末呉須赤絵の作品は小物類、中皿、鉢、大皿と大別できますが、意外に少ないのが茶碗でしょうか。おそらく茶事に使える茶碗は皆無・・、ほんとど茶碗は日本製? 当方は中皿、大皿、鉢をメインに蒐集しています。

本日は当方の蒐集した作品の中から大皿の作品を紹介します。大皿は最低でも30センチは越えているものを称しますが、本来40センチは欲しいところです。26センチ程度の中皿は数多くありますので、一線を画す必要があるでしょう。



本日紹介する作品は大きく破損し、補修跡がありますが注目するのはその図柄です。見込み中央の麒麟図は代表的な呉須赤絵のデザインですが、この大きさで完璧な図の大皿は非常に少ない。



明末呉須赤絵麒麟文大皿
合箱入
全体サイズ:口径400*高台径*高さ85



割れていなければという御仁が多いでしょうが、小生は全く気にしていません。よくぞ補修して遺してくらたものと先人に感謝しています。



明末赤絵は本来白の釉薬が濁っていないことが上作品と言われています。高台周りは砂付高台、口縁は虫喰いなどの基本原則があります。



ただ贋作もありますし、日本での犬山焼、京焼らの原則を模倣して作られた作品群もあります。このあたりの見極めをきちんとしておく必要があります。



見極めのポイントは細々と記述さるよりやはり釉薬でしょう。



さて他に明末から清朝にかけての「明末呉須赤絵」に大皿で本ブログで紹介されているこの手の作品には下記の作品がありました。

赤絵を主体とした作品



明末呉須赤絵の作品は30センチを超える大皿に絞って今回は掲載しています。



下記の作品は発色や状態は良好ですが、時代が下がってないかは不明です。この白を良しとする御仁もいますが、小生はどうも作品が若いと感じます。

先日もNHKの茶道のEテレの番組において、茶道の先生の後ろの棚に同様の皿が展示していました。こういう綺麗な作品は女性好みなのでしょう。本来茶人が好んだのは虫喰いがあり、釉薬が大雑把に掛けられ、絵が踊るようで、器形が歪むという不完全さのあるところだったのです。茶道が女性主流となった近年以降、茶道の器は小奇麗なものばかりとなり極端につまらなくなりましたね。



絵柄が牡丹などの花柄が主体の作品は下記の作品があります。



大皿というのが希少価値がありますが、前述のようになかなか完品は少なくなっています。それゆえ多少の補修跡は評価に影響しなくなっている作品も出始めています。



赤絵の中でも青色が主体となっている作品も数多くあります。



日本の民窯の作品と同じくやはり30センチを超える大皿が高い評価を受けています。



明末呉須赤絵の「麒麟などの図柄」は奥田潁川の作品に大きな影響を与えており、人気の図柄ですがその図柄の作品は滅多にありません。



郷里の禅宗のお寺で釉薬の分厚い灰皿?のような作品を「これは奥田潁川の作!」と住職親子共々で自慢気に見せられて閉口したことがあります。ま~、ここのお寺にはもともといいものが非常に少なく、悪いことに目利きが親子共々・・・・。

ただそれほど奥田潁川や青木木米の贋作はあちこちにあるということです。真作の洒落た文様の麒麟や珍獣の作品はかなり少ないものです。



本作品は残念ながら大きく破損し、補修跡がありますが、白濁が少なく釉薬が白く、文様も希少価値があります。意外に集めやすい作品群ですので興味のある方はどうぞ・・。
Viewing all 3054 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>