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瀧登鯉 石井百畝筆 その1

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端午の節句にむけて展示室の飾りを準備していますが、鯉、鐘馗様がメインになるのでしょう。

鯉の作品の中でまだ本ブログで紹介していない作品がいくつかありますが、下記の作品もそのひとつです。わが郷里の画家ですが、もはや地元でも忘れ去られた画家と言えるのでしょう。

瀧登鯉 石井百畝筆
絹本着色軸装箱入 
全体サイズ:横642*縦2025 画サイズ:横517*縦1291



描かれた画題や構図は多くの画家が描いているものと変わりありませんが、よく描かれています。胡粉の名手と言われていたのがよく解る作品ですね。

 

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石井百畝:明治36年2月16日生まれ、昭和18年10月2日没。秋田県能代市出身。比内町扇田で死去。本名岩太郎、晩年の号は柏峰。父母とともに20歳から扇田の市川に住み独学で画筆をふるった。花鳥、山水、仏画と画域が広く、扇田、大館市、鷹巣町、二ツ井町などに多くの作品が残っている。



胡粉の使用がうまく、福田豊四郎に比肩しうるものと評価されている。



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よく見かける鯉の滝登りの構図の作品ですが、よく見かける構図の作品こそ、良い作品、地元に縁のある作品という飾る意義のある作品を見出すことが良いでしょう。



端午の節句には鯉の滝登り、鐘馗様という作品のひとつやふたつは手元に欲しいものです。



本作品は地元新聞で出版された「北秋(北秋田)の画家」の画集に掲載されています。晩年の作と思われ「柏峰」の号が使われています。



残存している石井百畝の佳作のひとつと言えるのでしょう。秋田出身の画家の中で忘れ去られた画家の中で、藤盛江岸、舘岡栗山とともに再評価されるべき画家の一人といえるのでしょう。



ほかに「雪中帰家之図」という作品があると小生のリストに記録がありますが、さてどこにしまったかな?

今までに扱った掛け軸は優に1000作品を超え、陶磁器、漆器もそれと同数くらいありますが、そのほぼ全数がどこに収納されているかは覚えています。「どこにしまったかな?」とは記述していますが、だいたい見当はついています。作品がどこに収納されているか解らないようでは蒐集する者として失格です。きちんとして整理場所を持つことが必要です。

 

本作品は箱書き(書家の友人によるもの)、栞は小生が作ったものです。後世のものがよくわかるようにしておくことも必要です。

掛け軸などで大家の作品に夢中になると真贋の森を彷徨うことになりかねません。大枚をはたいていいなら信頼できる骨董店で購入すればいいでしょうが、それよりも地元の画家の作品を蒐集することをお勧めします。マイナーが画家にはまず贋作はありませんので、地元の画家の佳作を中心に蒐集するのが掛け軸の一番良い楽しみ方だと思います。



彩色山水図 藤井達吉筆 その19

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家内が下記のパスネットのカードを持ってきて「私のコレクションもブログに載せてよ!」だと・・。パスネットに印刷されている作品はなんと本ブログでなんども投稿している源内焼の作品でした。何枚も遺っていない貴重な源内焼の地図を描いた鉢の作品です。この地図の作品を描いた源内焼の作品が当方で所蔵できるとコレクションとして成り立つものですが・・。



その家内が展示室に本作品を飾っておいたら、「誰の作品?」と尋ねてきました。「藤井達吉だよ。」と答えたら「嫌いじゃないね。」だと・・。家内も小生の蒐集に染って観る眼ができてきたらしい

彩色山水図 藤井達吉筆 その19
紙本水墨淡彩軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1350*横657 画サイズ:縦380*横530

民芸作品や地方色豊かな?作品を展示室に飾ってあります。



藤井達吉の作品としては大きな作品の部類になるでしょう。



藤井達吉とする明らかな印章や落款は一切ありませんが、当方では藤井達吉の作品であると判断しています。



この掠れた水墨の筆致は現代の浦上玉堂と言ってもいいと思います。



藤井は独学であり、転居を繰り返したため住まいはしばしば変わり、また大きな展覧会に作品を出品することもほとんどなく、画商に作品を売り込みもしませんでしたので、その点では浦上玉堂と大いに共通するところです。



工芸家でありながら画家でもある藤井達吉、もっと評価があってしかるべき画家の一人でしょう。



本ブログにて「その19」となり、本ブログをお読みいただいている方にはお馴染みの画家です。藤井達吉の山水画は水墨だけによるものや淡彩なものが多いのですが、本作品は彩色による非常に出来の良い作品です。



写実というより心景でしょう。藤井達吉にしか描けない世界です。



近代的な南画の世界ですが、古い南画の作品をよく見ていないと味わえない世界でもあります。



工芸デザインにて著名な藤井達吉ですが、後半生の藤井の作品には文人画的性格が強まります。そのような文人画的な面がうかがえる貴重な作品です。



押印されている「太都岐?」はどういう意味かは残念ながら当方では解っていません。

 

表具は藤井達吉らしいいい表具です。



「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた。」というようなエピソードがあるなど、水墨画は多作ですので今なら廉価で水墨画が入手できます。興味ある方は、今一度文人画としての藤井達吉を買い求め、鑑賞してみたらいいと思います。

白藤之図 渡辺省亭筆 その19

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先週末は本ブログに出品されている木島桜谷の作品が、東京・泉屋博古館分館にて、生誕140年記念特別展『木島櫻谷』が、2018年2月より開催されているので家内と息子の三人で観に出かけてきました。息子の目的は途中の食事とお菓子、そしてお目当てのおもちゃ・・。久々に都会のムードを愉しんできました。



展覧会そのものはいい作品ばかりで堪能できるものでしたが、蒐集する側にはあまり大作ばかりでは意外につまらないものでした。ただその中には思文閣のカタログにて販売されてた作品がありました。「もう美術館で展示されているの?」という驚きもありました。「りすを描いた作品」ですが、説明文も当時の販売目録のまま・・・? おそらく美術館で購入したものと推察してきました。



「2013年に開催された回顧展をきっかけに、その後知られざる作品が続々と見出され、再評価の気運が高まっている。」という説明・・
「画業のなかで、最も高く評価されたのが動物画です。」という説明ですが、どうも動物画は竹内栖鳳のコピーをみているようでした。

本ブログで紹介した木島桜谷の動物画の作品には下記の作品があります。

狗 木島桜谷筆
絹本着色絹装軸 共箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横268*縦1110

 

寝ている子犬がとても可愛らしい作品です。



早々に観るのは息子と共に止めて図録を購入しました。役に立つのは図録くらい・・。竹内栖鳳、橋本関雪、山元春挙、京都画壇の成り行きのようなところがあります。やがて京都画壇は行きづまりましたが・・・。

蒐集対象側から観ると木島桜谷の真髄は風景画でしょう。再評価されるべき画家には相違ありませんが、美術館の説明はビジネスワークですので鵜呑みにしてはいけません。展示作品ではなく、画家全体像を観なくてはいけませんね。

本ブログで紹介した木島桜谷の風景画の作品には下記の作品があります

急灘 木島桜谷筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横560*縦2070 画サイズ:横420 *縦1280



さて本日紹介する作品は、同じく近年見直そうという機運のある渡辺省亭の作品の紹介です。この画家の真髄は間違いなく花鳥画です。

白藤之図 渡辺省亭筆 その19
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1695*横805 画サイズ:縦670*横655



渡辺省亭の作品の中では大きめの作品となりますが、実に品の良い作品です。これほどの大きな画面に藤の花だけの単品を描いた作品は渡辺省亭の作品では稀有です。

*床の壺は室町期の古備前壷です。



実に品の良い作品に仕上がっています。渡辺省亭は最近の再評価の機運のある前からの当方の蒐集対象の画家ですが、出来不出来の作品も多くあり、選択しつつようやく20作品近くの作品数になりました。それでも当方で気に入っている作品は3作ほどです。



箱書きなどはありませんが、渡辺省亭の真作と判断しています。作品中の落款は「四季の花鳥 十二幅」の箱(印章のみ)に押印されたもの、当方の所蔵作品「三日月ニ木菟図」、「菖蒲白鷺図」、「梢上双禽図」らの朱文白楕円印(二重印)と同一のようです。



春には各所で藤の花が見どころになっています。



花言葉は「優しさ」「歓迎」「決して離れない」「恋に酔う」だそうです。日本では古くから、フジを女性に、マツを男性にたとえ、これらを近くに植える習慣があります。そうまるで振袖のようで外国人にも人気の花です。



渡辺省亭が藤の花を描いた作品では下記の作品が代表作品でしょう。

「四季花鳥図」4幅対のうち「夏(藤・鯉・金魚)」( クラクフ国立美術館所蔵 明治24年 1891年)。



迎賓館赤坂離宮の花鳥の間 「駒鳥に藤」(無線七宝)。



和洋を合わせた色彩が豊かで、新鮮、洒脱な作風を切り開いた画家と評されています。



春めいた花の季節、少しの間床の間に飾って愉しんでいます。このような愉しみ方は雑踏のような美術館では絶対にできない贅沢なひとときです。美術館では本来の絵の楽しみ方はできないと改めて痛感しました

*子供が展示ガラスに触ると注意するのはいいのですが、拭けばいいので、そのくらいはいう気持ちです。当方の展示室はガラスなどありませんので、なぜという気持ちだったのでしょう。二度と子供は美術館には行きたがらないでしょう、寝ている子犬のような子供のナイーブさが分かっていませんね 

日本の美術館は気取りすぎで、泉屋博古館、二度と行きたくない、行くべきではない美術館のひとつになりました。

初夏 奥村厚一筆 その11

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庭にはいつもの年より早めに牡丹の花が咲きだしました。



あまりにも早いので今年は戸惑ってしまいますね。



牡丹の花はすぐに散り始めるので撮影するタイミングも難しい。



なんとも大味な花・・。



やはり絶滅指定種のクマガイソウも早い!



見事な咲き具合です。



木の下に合ったクマガイソウも、木が枯れても覆いすることでなんとか咲き始めました。



楓の花も・・。



こんなに早いので郷里への帰省の時には花が皆、散っているのではないかと心配です。

さて本日紹介する作品は、福田豊四郎とともに独特の風景画を描く画家として、小生の蒐集対象となっている画家の一人である奥村厚一の作品の紹介です。

初夏(仮題) 奥村厚一筆 その11
絹本着色額装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1400*横635 画サイズ:縦435*横510



子供の頃、川で馬を洗う風景はよく見かけた光景です。小生のような北国では木材の切り出しなどで、馬というと冬にそりを使ったので馬というと冬の馬橇というイメージですが・・。



「初夏」というのは、当方での仮題です。



最近は馬を川で洗っている風景はありませんが、衛生上の問題でしょうか?



印章は以前に本ブログで紹介された「その9」と同一印章と推定されますが、下記の写真のように若干違うようです。ただし下記の検討により真作に相違なしと判断しています。

早春 奥村厚一筆 その9
紙本着色額装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1450*横 画サイズ:縦438*横520



作品によって印章の若干の違いはあるもので、これは印章の摩耗、絹本による朱肉への影響によるものと当方では判断しています。印章は確実に一致するとは限らない例は多々あります。ただ本日の作品は今少し検証してみる必要があろうかと思い、他の作品すべてを比較したところ、「早春」は紙本、本作品「初夏」は絹本による違いと判断しました。「早春」の真贋についても検討しましたが、問題はありませんでしが。



共箱はありませんので落款以外の字体の比較はできませんでした。なお表具はきちんとしています。



印章からの疑問はともかくしばし展示室に飾っています。



奥村厚一の作品の特徴は、変なことですがシミが入りやすい作品が多いというところです。その点からも本作品には疑問はありません。

このような地についた検討はある程度の作品数による蒐集がベースとなりますが、一番大切なのは第一印章を重んじて作品の入手を判断することと、蒐集する作品、さらには手元に置く作品を吟味すること、それにはよく勉強することと感じました。

*不躾なコメントが投稿されたためコメントに制限をかけましたのでご了解願います。「UNKNOWN」の方のコメントは読まれずにすべて削除されますが、普通ののコメントなら通常に公開していますのでご安心ください。

弔意

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弔意によりしばらくの間、休稿とさせていただきます。

端午の節句の飾り

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同僚というか、同志というか、そういう存在の身近な人を亡くし、しばしブログを休稿させていただきました。通夜と告別式には出席して参りましたが、告別式までは午前中時間があったので、徳川美術館や名古屋城を観てきました。仕事ではいつも慌ただしく日帰りが多く、当時一緒に営業先を回っていた亡くなった同僚に「いつも名古屋市内を見学する暇もないね。徳川美術館や名古屋城くらい観たいものだね。」と言うと「じゃ、車でぐるっと回りますか?」と徳川美術館と名古屋城の外だけを回ったことがありました。今回は徳川美術館や名古屋城をある程度ゆっくり観ることができましたが、亡くなった同僚がようやくゆっくり観せてくれたような気がしました。いつもにこやかで優しく、仕事熱心で家族思いの同僚であり、今はただただ冥福を祈りばかりですが、後を引き継ぐ残された我々が彼の思いを遂げることが一番の弔いです。

なお休稿してきた割には閲覧数や訪問者数が減るどころか増えていることにはちょっと驚いています。拙い内容の本ブログを閲覧していただいている方々にはあらためて感謝申し上げます。

さて端午の節句が近づき例年どおり、家では飾りの鎧のミニチュアを飾ろうということになりました。



飾りの鎧の後ろの掛け軸は福田豊四郎の鯉の作品です。

鯉 福田豊四郎筆
絹本着色軸装共箱二重箱軸先象牙 
全体サイズ:横725*縦1600 画サイズ:横564*縦486



福田豊四郎の「鯉」を描いた作品は2作品を蒐集していますが、本作品は祖父の代からある作品です。



母からの話では祖父が福田豊四郎氏に依頼して描いたもらった作品だそうです。祖父が福田豊四郎氏の依頼して描いてもらった作品は幾つか当方にて所蔵していますが、その中でも小生が気に入っている作品のひとつです。



表具は祖父が仕立てを依頼したものかもしれません。波に見立てた一文字を使ったいい表具です。「掛け軸の表具はこうありたい。」と思います。



床の間は例年通りの飾りつけとなりました。家内の鎧の飾りつけを手伝った息子が、「見てよ!」と手を引っ張り、私や義父母を床の前に連れ出して自慢そうにしていました。飾り棚には明末の色絵や染付を飾っています。



展示室には「五彩天下一」の皿を飾りました。



「天下一」、「登り鯉」の端午の節句にふさわしい吉祥文ですね。この作品の紹介は後日・・・。

**コメントは引き続き、事前承認と禁止ワードも含めて制限をかけていますのでご了解願います。不快な思いや悪意のない通常のコメントは公開していますのでご安心ください。このことにより出品の依頼など個人情報を含めたコメントが投稿されましたが、個人情報は基本的に公開しませんし、本ブログの趣旨の沿うこのような好意のあるコメントは歓迎しております。





リメイク 輪島塗 会席吸物膳鮎文様木地塗

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休日は義母と息子は畑まで・・。作付けの確認が目的のようですが、どうも犬に餌を盛り付ける飯茶碗を種入れに義父が使い、畑に忘れてきたのでついでに捜索に行くらしい



届け先に人気のある落花生の作付け面積を増やした?  落花生の収穫は手間がかかりますのであまり収穫する量は増やしていないようです。落花生は収穫して炒るまで大変な手間がかかっています。選別、天日干し、また選別、皮むき、またまた選別、炒る、そして最後の選別・・・、息子も手伝って一か月もかかります。



ブルーベリーの花が咲き始めました。こちらはジャム以外にするのもそうですが、そのまま食べると美味しいものです。ただこちらも手作業での収穫そのものがたいへんです。



息子は今はのんびりとたんぽぽで遊んでいますが・・。



藤の花も咲いていました。畑は畑で色とりどりになってきます。



本日取り上げる作品は、以前に紹介した母の実家にあった古くからある膳です。ひさかたぶりに漆器の話題です。

木目を漆で川の流れのように表現し、川の中の鮎を表現した粋な作りの膳です。このような膳は幾揃かの作品が男の化隠れ家に転がっていますが、本作品は多少痛んでいるので修理できないか検討していました。

10客揃いの中に若干の割れ、欠け、そして表面の溜塗の変色がある作品でしたので、修理を出来ないかと輪島塗の方々に相談したのですが、複数の職人の方々の意見は、結局「今のままの状態を維持するのが最善の策」という一致した結論のようです。

輪島塗 会席吸物膳鮎文様木地塗 10客揃
杉箱入
幅285*奥行285*高さ35



整理するための古くからある漆器の作品の中からいくつかの作品を帰省するたびに男の隠れ家より持ち帰り、本ブログにて記述したように、整理しながら補修の必要のあるものは補修可能な範囲で補修しています。

今回の上記の作品は出来が良いので、揃いの中から少し状態の悪い幾つかを修理しようとしましたが、輪島塗の職人の方々の意見は現状維持が良いとのことでした。



2件の修理を専門とするお店から漆職人に問い合わせてもらいましたが、双方とも同じ結論でしたので、最終的に当方でも修理は諦めて、なるべくこれ以上の劣化を防ぐ保管方法にて、男の隠れ家に戻すことにしました。



なんとも粋な膳だということと先祖から伝わる作品でありますが、扱い、保管が粗雑だとダメになるのも早いのが掛け軸や漆器の保管の難しいところです。とくに今回の作品は木目上に透明な漆が塗られており、色が変わるというのが難点のようです。



なんでもかんでも補修できるものとは限りませんし、過去の趣をなくすような修理はしないほうがいいという判断もあります。とくにこのような漆器、蒔絵などは修理が難しいようです。



以下の下記の事項が輪島塗の方々の見解です。

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輪島工房長屋からの返答

「先日の商品の写真を 職人にみせ確認しました。以前に 同じような 商品を呂色をかけて修理したところ色が出なくてあまり綺麗にならなかったそうです。工房長屋で 依頼している職人ではこの写真の商品はさらに時間がたっていて古いものなので修理は難しくお受けすることが出来かねます。折角のご依頼ですが大変申し分けありません。」

美器穂留都からの返答

「大変お待たせ致しまして、申し訳ございません。御膳の修理ですが、輪島の呂色職人と塗りの職人(塗師)に見てもらいましたが、「磨き直し」はしないほうが無難とのことです。以下、詳細のご案内になります。」

詳細は下記のとおりです。

《目次》
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■ 1.御膳の表面(鮎の絵のある面)について
■ 2.御膳の裏について
■ 3.修理についてのまとめ
■ 4.返却について
■ 5.紙袋と布について
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■ 1.御膳の表面(鮎の絵のある面)について

亀裂について



御膳の鮎の絵のある表(おもて)につきましては、亀裂がある場合「磨き直し」は、やはり不可能です。「磨き直し」は朱合漆(生漆を精製したもの)をかけて、白い磨き粉で磨くのですが、 割れた箇所が大きくなったり、磨き粉が割れた箇所に入って白くなることもあります。



表に亀裂がなく表面が良好な状態でも色ムラがあり、御膳を磨き直しした場合ですが、朱合漆は半透明の飴色をしていますので、御膳の表面が多少黒くなるとのことです。さらに亀裂の箇所の修理(修繕)ということになりますと、修理の跡が残ります。

■ 2.御膳の裏について

お送り頂いた御膳では、表の亀裂が裏にもさしかかっているとのことです。裏の曇りやシミですが、年数が経っているので「磨き直し」をしても効果はないとのことです。綺麗にするには、現在の塗りを研ぎ剥がして塗り直すことになります。 しかし、表を触らないままで、裏だけ塗り直しの修理というのもいかがなものかと思案する次第です。



*漆器は使用した後にきちんと拭いておかないとこのようなシミのような跡になります。手垢なども禁物です。

■ 3.修理についてのまとめ

大切なお品ですので、触らないほうが無難なのではという考えです。 磨き直しではなく、例えば亀裂の本格的な修理=修繕となりますと、修理箇所の塗り直しの跡が残ります。表の塗りが、通常の塗りとは異なる「木目塗」ですので、修理後の塗りも、通常の無地の塗り直しと同様の作業にはなりません。修理が複雑化する割には修理の跡が残るなど、視覚的には現状の姿が損なわれることになります。
 
お役に立てず、誠に申し訳ございませんが、このような考えから「触らない方が無難なのでは」という結論に到った次第です。

大変遅くなりましたが、以上がご案内となります。御膳が届き次第、ご返却致します。ご不明な点がございましたら、何なりとお問い合わせくださいませ。

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上記の既述のように修理について丁寧な検討をしていただきましたが、上記の理由により残念ながら修理はしないことにしました。幸いなことに健全な作品も五客ほどありますし、残りの他のものも使えないことはありません。

さてそのまま保存となりましたので、用意していただいた紙袋に梱包し収納することとしました。



上下には足で表面が傷まないようにクッションを挟みます。



膳は紙にて包みます。扱う時には手跡が付いたりしないようにしないといけませんが、使用した後は十分に乾いた布(しつこい汚れは少し濡らした布で)で拭き取り、仕舞いこみ前に十分に乾かすことが肝要です。なお漆器は水洗いは厳禁です。知らない人は漆器を水につけたままにすることを平気で行いますが・・。



蒔絵の鮎の部分はすべて健全である作品です。本作品の見どころにひとつです。



鮎の目の部分が光線の具合で青く光るのが魅力的な作品です。螺鈿のようなものが組み込まれているかもしれません。



これ以上痛まないように慎重に保管することが重要ですが、使うことも考えていますが、収納スペースが少なくなり、5月連休で修理・整理の完了した作品は整理する予定です。

下記の事項は自分で処置しておきました。

*亀裂は自分で「浄法寺塗」にて使う共色になる褐色の漆を流し込んでおきました。これにより共色の補修となり亀裂の進行や漆の剥がれを少しでも防止できるかもしれません。

*一か所の欠けは黒漆で補修しておきました。


古信楽壺花入 その2

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「日本人は信楽と李朝で死ねる。」という言葉が骨董マニアの間にあるそうです。これは死ねるほど日本人の骨董マニアは信楽と李朝を愛するということの例えのようですが、むろん当方には信楽と李朝にそれほどの執着心は備わっていませんので、李朝と信楽の蒐集はメインではありません。

ただ陶磁器ファンはいろんな分野に興味が分かれていますが、伊万里や鍋島のような華麗で精密な磁器の世界より、陶器の世界が日本人の感覚にはあっているのは事実でしょう。信楽、備前、李朝が最終的に陶磁器ファンが行き付く分野だろうとたしかに小生も思います。

*ちなみに「磁器」と「陶器」の製造的な根本的違いを知らない御仁が意外に多いようです

本日紹介するのは、本ブログでは数少ない信楽の作品です。

古信楽壺花入 その2
杉古箱入
口径104*胴径215*底径*高さ268



信楽焼きの始まりは諸説ありますが8世紀頃の須恵器と同じ古さを持つとも、また平安後期に常滑の陶工が来て始まったともされていますが、決定的なところはまだわかっていないようです。

ただ鎌倉時代後期ころから特徴あるすぐれた作品が多く見られることから、このころから本格的に焼かれ始めたのではと考えられているそうです。瀬戸・備前と並び日本六古窯のひとつです。



山の斜面を利用した穴窯で作られた信楽焼は、主に壺や甕などの日用雑器です。これらはひも状にした土を巻き上げて作るため、形はいびつですが荒い土肌は通気性に優れ、種や茶葉の保存に適していました。

一言で「古信楽」と言っても、古信楽の特徴は主に下記の事項が挙げられるそうです。

1.長石が全面に出ている。

これは信楽のもっとも代表的な鑑定ポイントです。つぶつぶの大きな白い長石 が肌から全面に吹き出ているように出ています。この特徴を備えた壷ならかなりの確率で信楽ですし、花入れ、水差しなどの茶道具でしたら伊賀を思い浮かべるべきのようです。



2.ウニ(石ハゼ)

信楽の土は荒めの風化花崗岩で、この粘土の中に風化しきってない木の節が混ざっているものがあります。これを木節粘土(きぶしねんど)といいます。この節が粘土の中に入りますと、燃焼したときに高温で燃えてしまいます。するとその節があったところは空洞になります。このことによって保存に適した器になるようです。

これを語源はわかりませんが「ウニ」と いいます。大きな「ウニ」になりますと中から外へと穴が抜けてしまっているものがあります。 壷ですと穴があいていては、役に立たないので破棄されてきました。多くの信楽のやきものにはこのウニが表面や裏側に見ることができます。この木節粘土が高温で焼かれた跡は、マニアの間で「ビスケット肌」とも称して愛玩されます。あたかも割れたビスケットの肌を見たような感じになります。



3.美しいビードロ釉と火色

信楽の大きな魅力の一つに、美しく薄いグリーン色のビードロ釉があります。 独特の白い木節粘土に薄い透明感の強い独特の釉薬が流れ、胎土とのコントラストはとても美しい魅力があります。これは古信楽の鑑賞のポイントで、ビードロ釉が薄れていたり、発生が少なかったりするとたとえ室町期の作品でも評価が格段に落ちます。



また胎土そのものの最大の魅力は変化に富んだ肌合いにあるといえ、鉄分の少ない白い土は焼き上げると火色と呼ばれる赤褐色に変わります。

*火があたる正面と裏面では信楽の表情が一変しますが、それが魅力となります。

4.「檜垣文」

古信楽の特徴は「檜垣文」です。これはすべての作品に入るわけではありませんが、室町の信楽作品に数多く入った物をみます。多くは二重線の間に×印が連続した文様です。通常は肩に近いところに入りますが、少し古いものでは壷の腰からやや下のあたりに檜垣文が入る場合があります。この檜垣文は陰陽道などによる魔よけの×印とも考えられています。

*残念ながら本作品には「桧垣文」はありません。「桧垣文」があるのとないのでは大きく評価が違いますが評価の決定打ではありません。



補足:「桧垣文」は信楽焼きの特徴の一つですが、14~15世紀前半の作品に集中して付けられている文様で、小壷には必ずと言って良い程付けられています。檜垣文は前述のように室町時代の作に多くみられますが、その後は次第になくなっていった文様です。ただ現代作品にはよく見られる装飾ともなり、信楽の1つの特徴的な文様といえるでしょう。

檜(ひのき)で作った垣根の形にちなんで「桧垣文」と呼ばれます。なお、檜は香りもよく高級木材として知られます。また檜を神聖視する習慣もありますし、垣根は居住空間を外敵から守るものです。よって檜垣文は当時の人々の神聖なお守りであり、無病息災や魔除け、安全・豊作祈願の思いが込められていたのかもしれません。

下記の室町期の参考作品(松永コレクション)には「桧垣文」と珍しい「窯印」があります。



5.造形

信楽の作品の大きな魅力に形の力強さがあります。横から見ますと胴が幾つかに分けて継がれながら出来ている痕跡を見る事ができます。胴が側面で段をなしているように継ぎ目の角度が違っている造形は遠くから見ると非常に力強い形を楽しませてくれます。



6.口造り

口造りも大きく外に反った形から、口頚部が直立し口縁部が外に反る形となり、室町時代末期になると、玉縁状(丸くなっている)の口造りになります。小壷などには、二重口のものもあります。

小壷の「蹲る」などは基本的に荒縄で縛って軒にぶら下げるので、口から縄が抜けないようにがっちりしているものが真作で、縄が抜けそうなものは贋作と判断するポイントになります。

*本作品は大ぶりな作品ですので、軒にぶら下げるような用途ではないと思われます。



7.「下駄印」

「下駄印」は底面に残った「ニ」の凹みで、下駄の歯の様な形からこう呼ばれています。これは回転代に付けられた二本(又は一本)の凸状の棒の痕で、粘土が回転台に密着させる為の物です。室町後期から桃山時代の作品に多く、信楽独特の物としていましたが近年類似の物が、古丹波や古備前焼などでも、確認されています。

補足:凹んだものを「入り下駄」、凸のものを「出下駄」といいます。これは作品をロクロ引きするさいに、中心がずれないよう固定した跡といわれます。こうするとロクロからの離れもよく、焼成しても底に隙間ができるのでくっつきにくくなります。

下駄印というのはろくろの上に土を置いたときにホゾの穴の中に土がめり込んで、くっきりしているものでわざとらしい弱弱しいものは贋作と判断されますということが、ときとして真贋のポイントになります。




8.「窯印」

「窯印」のある古信楽はは非常に珍しく、一般的には窯印は壷の肩には見当たらないとも言われています。

備前のように他の窯場で見られる、壷の肩に箆などで彫る印などの「窯印」が描かれている場合は少なくなっています。ただ「信楽には窯印は比較的少ない」と言われますが、「あるものもある」ので一概に窯印があるから贋作と判断するのは早計です。



9.「ユミ痕」

「ユミ痕」とは、成形した作品を回転台から降ろす場合に使う道具です。藤蔓(ふじつる)を曲げて底を挟む様に巻きつけ、取り上げますが、その際「ユミ痕」が付きます。ほとんどの壷や甕の底にその痕が付いています。



このような信楽の特徴をまとめて記載している資料は意外にすくないものです。信楽には茶道の「侘び・寂び」の雰囲気があります。飛び出ている長石、木節によって穴のあいた地肌、ビスケット肌。淡いグリーンの自然釉。その素朴でいて力強い造形を持つ信楽は、これからも日本人を魅了して止まないやきものでしょう。



本作品「その2」は古い箱に収められている作品です。

 

さて、本作品の真贋については読者の皆様にお任せしますが、長石による表面のブツブツ、景色となっているビードロ釉、胴が段をなす力強い造形、底の「出下駄印」、そして肩にある珍しい窯印らしきもの、以上から当方では室町期の古信楽の作と期待しています。

投稿についでに同じくらいの大きさの壺(中くらいの大きさ)を屋根裏に整理してあるので比較してみました。下記の写真の左が以前に本ブログにて紹介した「古信楽壺花入 その1」の作品です。



底には明確な「下駄印」は見当たらず、あるような、ないようなという感じです。「ユミ跡」はあるようです。



「その1」にはその他の特徴は備わっていますが、ただ「窯印」や「桧垣文」はありません。



「古信楽壺花入 その1」は入手経緯からはしっかりとした古信楽の壷と断定できますが、時代は不詳です。「古信楽壺花入 その1」は古信楽焼でも上出来の部類に入る出来だと当方では判断しています。

*桧垣文、下駄印、窯印あるとかないとかの定石よりも、全体の趣が重要だと思います。



上記のような約束事の有無では真贋は判断できないのが骨董の常です。あくまでも鑑賞に耐え得る作品か否かが究極のポイントですね。



「古信楽壺花入 その1」の作品はいくら見ていても飽きない作行です。



杉の箱に収められていますが、当時、蒐集された方が誂えています。



ついでに備前も引っ張りっ出してきました。



備前は端正な姿をしており、明らかに信楽とは見どころが違いますね。詳細はいずれ・・・。



当方の手頃大きさの壺達、たいした作品ではありませんが、子供の頃に訪問先などの玄関先によく並んでいた壺たちを思い出せます。あまり並べすぎると嫌味になるのも壺の共通事項のようですが・・。


明末呉須赤絵 天下一大皿 その2

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庭のボタンが真っ盛りですが、何とはなしに今年は開花が早いような気がします。



陰になっていた樹木が枯れ、心配されていたクマガイソウは今年も咲きました。



さて本日は明末呉須赤絵の作品群から紹介です。

行政側の指導の下で製作された中国の官窯の陶磁器群は精緻さや綺麗さでは群を抜いているものですが、そもそもの生命力ある力強さという点では民窯に及ばないと評価されています。官窯では中国の清朝、日本では鍋島焼などが代表例で挙げられますが、小生の好むところではありません。政治体制の崩れた時代に優れた芸術は生まれるもので、中国陶磁器もまた明末にまさしくそのような陶磁器が生まれたと言えるでしょう。

官窯の作品はその時代の評価されるように作れられますが、民窯はその時代背景で実用性、汎用性を主としてモノ作りは行われるので、美術的価値は後世によって評価されることになります。

骨董の世界でも「ミネルバの梟(ふくろう)は黄昏に飛び立つ」と言えるのでしょうか。これを捩って小生は「政治の終わりに(混乱期に)優れたものは作られると・・」

中国では明末にかけて呉須赤絵、古染付、天啓・南京赤絵という優れた陶磁器群が生まれています。共産体制の現代の中国では評価されていませんし、当時から日本で評価され、日本が注文し、日本に輸出された作品群です。現在の中国には皆無といっていいほど作品は遺っていません。現代中国の評価の限界というより、中国の歴史的限界かもしれませんね。これらの陶磁器群(他に古染付、明末赤絵、天啓赤絵、南京赤絵のなど)を高く評価したのは日本人の優れた感性だと思います。

本日紹介する作品は「五彩天下一魚文盤」とも称される作品で日本からの注文品です。

明末呉須赤絵 天下一大皿 その2
合箱入
口径370*高台径*高さ85



以前に紹介した「その1」は破損の跡などはありませんが、残念ながら見込み中央の文字が不鮮明になっています。中央の文字が不鮮明になっていることはこの系統の作品にはよくある事象で、作品を重ねて船で運搬されたり、保存したことによる擦れによるものでしょう。また中央周辺の文字は簡略化されて記号のようになっています。

明末呉須赤絵 天下一大皿 その1
合箱入 
口径350*高台径180*高さ75



両方の作品を並べてみました。大きさに若干の違いがあり、本日紹介する「その2」の方が大きくなっています。この頃の大きな作品には決まった大きさはなく、各種の作品で微妙に異なるようです。



裏側の高台などの比較は下記の写真のとおりです。



「その2」では「天下一」の文字、周囲の文字も鮮明で貴重な作品となっていますが、残念ながら割れた破損の跡があります。



魚の描き方などは「その1」、「その2」ともにのびのびと描かれ、秀逸な作品となっています。「登り鯉(登竜門)」が表現され吉祥の図柄です。

砂高台、口縁などの釉薬の剥離(虫喰)の特徴を備えています。「天下一」は桃山時代以降の和製語ですので日本からの注文品であったことにまず間違いはないでしょう。

現在ではこの図柄の作品は非常に少なくなっており、見込みの字が明確である本作品は貴重かもしれません。



明末赤絵と赤絵を主体として作品に比した全体が青みを帯びた釉薬が施されていることから安南焼と勘違いされている場合もあるようですが、一連の明末呉須赤絵と同じく明時代の漳州窯(漳州地域 福建省南端部)で焼成された作品に相違ないでしょう。



この手の作品と同様な作品が「平凡社陶磁大系45 P45」に所載されていますが、天下一とは明らかに和語(安土桃山時代の流行した)で有り、前述のように日本向けに制作された事は疑いがありません。



民窯の豪放な絵付等、江戸時代より日本人の感覚にマッチし珍重された事もうなずけます。



歪んだ作り、虫喰いの味わいある自由な作り、これこそ自然のままであり芸術そのものなの根源と評価されるのでしょう。



本作品は割れた補修の跡をものともしない雰囲気があります。



砂付き高台、高台内に砂や釉薬が通常あるものですが、きちんとしていることから注文品であることがうかがえます。



この高台もまた魅力的なのです。人によってはただの汚らしい皿や鉢と言われそうですね。



高台は内側に反り返っているのも特徴です。



金繕いも丁寧に施されています。



赤く焼けた胎土に当時の陶工の生き生きとした様子が思い浮かびます。



参考作品
呉州手赤絵天下一大皿(明末時代、AD1621~1661)
高さ8cm、口径36cm、底径18cm



上記の作品の説明には「代表的な呉州赤絵の大皿である。中央見込みの文字は全くかせているが、「天下一」の文字が有った事は明白である。本品は紅彩と青釉とで構成されているが、残念にも一カ所青釉の入れ忘れ(画像下部)が有る。」とあります。

呉須赤絵の作品は人気が高いですが、作品は数多くあるようですが、五彩天下一魚文盤」とも称される本作品は非常に数が少ないと思います。



本作品は端午の節句に向けて展示しておくことにしました。



天下一に鯉の絵柄・・・、端午の節句の吉祥文の作品です。



どちらかというと下手な作品と思われがちな作品群ですが、吉祥文ですので端午の節句を迎えるにあたって飾ってみたい方と思いませんか?

**コメントは引き続き、事前承認と禁止ワードも含めて制限をかけていますのでご了解願います。不快な思いや悪意のない通常のコメントは公開していますのでご安心ください。このことにより出品の依頼など個人情報を含めたコメントが投稿されましたが、個人情報は基本的に公開しませんのでこの点もご安心ください。本ブログの趣旨の沿うこのような好意のあるコメントを歓迎しております。

蓮花文紅安南茶碗

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新入社員が仕事を始め、新たな新入社員の面接が始まりました。高齢化しているのは企業の年齢構成も同じであり、若い力を新たにしていかないと企業は活性化しません。さて今年の新卒採用はどのようになろうか?

経営者が学ぶべきひとりに後藤新平がいますが、後藤新平の名言のひとつに下記のものがあります。

金銭を残して死ぬ者は下だ。
仕事を残して死ぬ者は中だ。
人を残して死ぬ者は上だ。

企業も家もどこにおいても人を育てぬと滅ぶものです。家では息子を、会社では後継を・・・。察するに骨董のようなものを遺すものは下の下といったところか・・

さて本ブログでは以前の安南の染付についていくつかの作品が紹介されていますが、本日は色絵の安南の作品の紹介です。

蓮花文紅安南茶碗
合箱
口径125~135*高さ78*高台径



写真ではわかりにくいですが、茶碗としては大きい部類になり、形には品格があります。使えるものなら茶碗として使いたいものです。

打ち捨てられていたかのような状況での買い物でしたが、購入時は下手な用心箱に収められており、どこにどのようにして保存されていたのかは不明です。傷み具合から発掘品かもしれないとも推察しましたが、この手の作品は非常に脆いので通常の経年による痛みと判断しています。



安南焼と赤絵の安南焼(紅安南)について書かれた記事には下記のものがあります。

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安南焼とは、現在のベトナムで作られた焼物の総称である。その名は679年に中国の唐王朝がベトナム統治の為に、現在のハノイに置いた軍事期間・安南都御符に由来する。その為常に中国の影響を受けてきたが、大きな発展を遂げたのは12世紀頃のベトナム李王朝の時代であった。その形は唐や宋の陶磁器を模しており、白磁と青磁を中心に褐釉、鉄絵、緑釉などが幅広く作られ、東南アジアでは圧倒的な規模を誇った。



その後14世紀後半になると、中国の景徳鎮に倣い青花磁器が作られるようになった。しかしその色は景徳鎮に比べるとやや暗くくすんでいる。これは中国がイスラム圏から輸入した質の高い呉須を使っていたのに対し、安南は国産の質の低い呉須を使っていたからである。また絵付けの線は土と釉薬のせいでそのほとんどが滲んでいる。ベトナムでは良質のカオリンが取れず、これでは青花の色が映えないために、生地に白土を化粧がけしていたのである。しかしその白土は粒子が粗く、いくら繊細な絵付けを施しても呉須がすぐに白土に吸収されてしまう。また釉薬は不純物を多く含んでいるため、透明度が低く結果的に絵付けがぼやけてしまう。



絵柄は蓮の花びらを簡略化したものがほとんどで、これが安南焼の青花かどうかを見極める決め手のひとつとなっている。



15世紀になると、赤や緑や黄色の顔料を用いた赤絵が作られるようになったが、中国に比べ低い温度で焼き付けるために釉薬が剥がれやすく、すぐに色が褪せてしまう。

しかし室町時代の茶人たちは、その素朴さの中に詫び茶に通じる簡素な美を見出した。なかでも呉須が滲んで流れるような景色になった青花は、藍染の絞りに似ていることから絞手と呼ばれ珍重されている。

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色絵については上記の記述にあるように「15世紀になると、赤や緑や黄色の顔料を用いた赤絵が作られるようになったが、中国に比べ低い温度で焼き付けるために釉薬が剥がれやすく、すぐに色が褪せてしまう。」という特徴があり、赤絵の安南焼(紅安南)は非常に釉薬が剥離しやすい焼き物のようです。



安南焼の特徴はまず内部は見込に大きく蛇の目をつくり、重ね焼きのための見込み内の円形跡であることです。



また安南焼は高台内に渋釉があるのが約束事になっています。高台が大きく高いのは諸説がありますが、丸い竹敷きの上でも転がらないように安定した大きさ、取りやすい大きさになっていると云わっています。

ただ茶人に重宝された赤絵の安南茶碗は後にたくさんの陶工によって模倣され、数多く約束事を備えた作品が出回っています。しかしながら「素朴さの中に詫び茶に通じる簡素な美」までは再現できていません。残念ながら後世の紅赤絵茶碗にはいいものは皆無と言っていいでしょう。それは染杖安南茶碗も同じです。これはやはり「その脆さゆえの危うさ」が表現できず、真新しさが全面に出てしまうからかと思います。



当時は日本と異なり箱に入れて保存する風習がなく、現在では赤い部分が剥落してほとんど残っていないそうで、後世になって絵をなぞって赤を乗せる、いわゆる“後絵”が多いため400年前の赤が残っているのは非常に貴重らしいです。たしかにネットオークションに出品されている作品には後絵の作品が出回っています。後絵の作品でも非常に珍しいのですが、これはいやらしさがあり贋作の分類されますので入手は控えたほうがいいと思います。

本ブログで紹介された染付の安南茶碗には下記のものがあります。

安南染付鳥草花文様茶碗
合箱杉製
口径110*高さ78*高台径60



本日紹介する作品と並べてみました。大きさの違いが思いのほかあることをお分かりいただけると思います。



高台内の渋釉などの特徴は同じですが、安南の約束事などは後世作品でも模倣していますので、約束事=時代とはならないことは忘れてはいけません。



見込みは下記の写真のとおりです。香合、皿など安南には数々の面白い作品がありますし、廉価で入手できますが、残念ながら東南アジアの陶磁器は、現代作のものもあり、時代の見極めは非常に難しいようです。



さらに参考として、紅安南茶碗としての参考作品は代表的な作品として下記の作品が挙げられます。「へうげもの 20巻」にも登場している重要美術品として指定されている作品です。

草花文紅安南茶碗
「へうげもの 20巻」に登場 財団法人徳川黎明会 徳川美術館蔵
16-17世紀 高8.9 口径13.3 重美



完品は非常に数が少なく茶碗は希少価値が高いでしょう。



他には下記の作例があります。

紅安南茶碗  
(磐城平 安藤家所蔵)



皿などの生活雑器には色絵がしっかりした作品は数多くあります。

なんでも鑑定団出品作
安南赤絵の皿



「現存する安南赤絵で、色が残っているものは極めて珍しい。数も少なく同時に焼かれた安南染付が100枚あると、絵の具が高価なため赤絵はその内の1枚。」と「なんでも鑑定団」においての説明がありましたが、相変わらず250万は法外な価格だと思います。



色絵がここまでの残っていればかなり上等な方です。推察するに皿や鉢には赤絵が残っている作品は多いのですが、茶碗では残っており数が極端に少ないように思います。

それでもやはり紅安南の真骨頂はやはり茶碗です。皿や鉢の作品は品格が格段に落ちます。そのために茶碗には後絵の作品が多く、また後世の陶工が挑戦して作っていますが、上記で述べたように時代のある紅安南には遠く足元にも及びません。



本日紹介した作品はどれほどの価値があるか分かりませんが、剥離を食い止める処置をするのは考えどころです。



剥離した部分が多いので、処置すると興ざめしそうですし、補修しても茶碗として使えるかどうかは疑問です。よほどの似合った蒔絵でも施さないと似つかわしくないと思われます。



きちんとした箱を誂えて、実用より資料的価値を重んじてこのまま保存しておくのよさそうだと思っています。修理好きの小生もさすがに手を出さないほうが賢明と思わざる得ませんね。



世話を焼かずに遺せるものは一番楽でいいのだが、ともかく遺すというのは手間のかかるものらしい。

ゆき 伊勢正義画 その5

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本日紹介する伊勢正義は小生の郷里とは同じ市で生まれ、隣の市で育ち、高校は同窓であり、小生と同郷としても差支えのない画家です。さらに郷里でのアトリエと思われる建物の解体に母が関係していたことから、縁を感じている画家でもあります。

ゆき 伊勢正義画 その5
油彩額装 左下サイン 日動画廊シール
画サイズP10号:横410*縦530 全体サイズ:縦750*横630



当方の絵画関連の蒐集は対象が日本画をメインにしていますが、上記の理由から伊勢正義の作品を数は少ないですが、何点か手元にあるようになりました。



本作品は「ゆき」という題名からも郷里を思い起こさせる画題でもあります。



郷里でも伊勢正義という画家を知っている人は少ないと思いますが、ましてや全国でも知っている方はもっと比率的には少ない画家かもしれません。本ブログで表現するところの「忘れ去られた画家」に分類されるかもしれませんが、時として「隠れた巨匠」という表現をされることもあります。



独特の趣の人物画を描き、小生にとっては親しみのある画風で好きな画家の一人です。



雪の降る寒い日の母娘を描いた作品ですが、凛としてたたずまいのある女性を描いています。



娘の視線はどこを見つめているのでしょうか?



祖父や父、母が状況の際には訪れていた銀座の日動画廊からの作品のようです。



当時の文部省当局が美術団体を改組しようとして美術界が混乱した渦中に、自由と純粋さを求めて「新制作協会」が結成されました。若き9人の青年画家、猪熊弦一郎、伊勢正義、脇田和、中西利雄、内田巌、小磯良平、佐藤敬、三田康、鈴木誠という今ではそうそうたるメンバーにより結成されました。 そして、創立3年後の昭和14年に志しをともにする本郷新、山内壮夫、吉田芳夫、舟越保武、佐藤忠良、柳原義達、明田川孝の7名の新進彫刻家の参加により、彫刻部が設けら、 戦後には建築部、池辺陽、岡田哲郎、丹下健三、吉村順三、山口文象、谷口吉郎、前川国男の7名(現:スペースデザイン部)そして日本画部(後の創画会)が合流しています。その日本画部には本ブログでおなじみの同郷の福田豊四郎氏が加わっています。同郷の志ある画家らが新しい日本画、洋画を模索していた時代であったのでしょう。

*当方にも「新制作協会」発足記念?の脇田和が描いた絵皿がありましたが、汚れていたので洗ったら絵の具が落ちたしまったという苦い経験があります。



少なからず縁のある郷里の画家、伊勢正義の作品を展示室の渡り廊下に飾ってみました。



郷里の男の隠れ家には2点ほどあるのですが、現在手元にあるのは4点のみの作品です。



すでに本ブログで紹介されている作品ですので、詳細はそちらを観て頂きたいと思います。



晩年ははアラブ、アフリカの生活を題材にした作品を描いていたようです。



現代の画家が失っている品格の高さがうかがえる作品です。

*今年も5月連休は帰郷します。29日よりブログは休稿となりますので、ご了解願います。

古染付 蓮唐子図五寸丸皿

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明日早朝より帰省しますので、ブログはしばし休稿とさせていただきます。

さて古い陶磁器を愛する人は多いですが、それを日常に使う人は残念ながら少ないかもしれませんね。そしてそれを使いこなす人はもっと少ないだろうと思います。かくいう小生とてもその例外ではありません。

確かに古い陶磁器は日常的に使用することに逡巡しがちです。用いても、花生か、酒器ぐらいのものが多いでしょう。ただ毀れることを気遺って箱に仕舞われていては、骨董や陶磁器としての使命は薄れます。価格も高い作品も多いので扱いには慎重を要しますが、それを用いることが、やきものを甦えらせることになるのでしょう。

美術館のガラスを境とした陳列ケースに並べられているときより、なにげなく棚や食卓に用いられている作品のほうが美しく、ハッと身の引き締まる思いを抱くことは多いものです。さり気なく用いられることが、古陶磁器への思いやりと飾る人の感性が感じられて嬉しいものです。

古陶磁器の魅力の原点は気どらぬ自然さにあると言えるのでしょう。

陶磁器の形が不均整であるのは自然だからであり、絵付が自由でのびのびとしているのは、作為がないからです。また初期の伊万里や、創成期の唐津が美しくて力強いのは、そのうぶ気な稚拙さの中にも、ひたむきな自然さが感じられるからだと言われています。それらは親み深く、観る人の心を把えてはなさない作品が多いです。自然であることは、いかにも美しい在り方と言えるのでしょう。

逆に言えば、人巧を弄することは自然に逆らうことであって、その度合いは美しさに反比例するものかもしれません。つまり自然であれば、ある程美しいと言えますが、このことは骨董や陶磁器に限らず、人間の在り方や生き方をも暗示していますね。

作為のない古陶磁器の代表格のひとつに本日改めて紹介する「古染付」の作品群があります。

古染付 蓮唐子図五寸丸皿
銘無
口径161*高台径*高さ32



数多くある古染付の作品の中でも絵付けが優れている作品だと思います。上部に描かれているのは太陽で陽が差しているのかもしれません。にわか雨に蓮を傘代わりにさしていた時に「もう雨が上がって日が差しているよ。」、「えっ、本当だ。」と唐子が言い合っている風景のように思える洒脱な逸品だと思いませんか。



古染付は虫喰いなどの器の作り自体が話題になることが多く、本ブログでもその点を詳しく記述してきましたが、古染付の本題はその絵付けの面白さです。



最近紹介した他の作品と並べてみました。絵付けの面白い作品を選んでいますので、状態の悪い作品が多くなります。



作品の裏側は下記の写真のとおりです。



右から順番に高台周りの拡大してみました。右側の作品は鉋で削った跡が鮮明になっています。



本日紹介する作品は鉋の削りの跡が不鮮明になっています。



左側の作品は若干、鉋の削り跡はありますが、それほど鮮明ではありません。



これらの違いは作られた時期によるものか、窯の違いによるものかは当方では詳しくは解りませんが、作品の出来不出来に影響するものではありません。



ふたつの作品は偶然ですが「唐子」を描いた作品となりました。最近蒐集した使えそうな古染付の小さめの皿がこれで4枚となりました。



もう一枚は絵柄が絵柄が趣が違うので本日は掲載しておりません。古染付は口縁が脆く、また全体の薄手なので壊れやすい磁器ですから、扱いには慎重を要しますね。



もともと煎茶に用いられていたからでしょうか、煎茶が身近でなくなり、今ではあまり貴重な作品だと思われていない古染付の皿ですから、入手も容易になってきたかもしれません。ただ本来の古染付は意外に少ないので、時代の下がった作品や贋作、中国明末の染付が古染付と称して売られていることからも、購入には十二分な注意が必要です。

陶磁器は古伊万里や鍋島といった綺麗な作品を蒐集するよりも、古信楽、備前、李朝、民芸、古染付、明末染付、明末赤絵といった均整の取れていない野性味溢れる作品が小生の蒐集対象です。気どらぬ自然さ、整った美人よりも年を経ても飽きない人間味あふれる女性の方が魅力的ですね。

さて明日からは自然の中に埋没、気取らぬ自然、熊に出会わないように祈るばかり・・・・。

**コメントは引き続き、事前承認と禁止ワードも含めて制限をかけていますのでご了解願います。不躾・非礼なコメントは固くお断りしています。不快な思いや悪意のない通常のコメントは公開していますのでご安心ください。

このことにより出品の依頼、研究の対象の方の問い合わせなど個人情報を含めたコメントが投稿され始めましたが、個人情報は基本的に公開しませんのでこの点もご安心ください。本ブログの趣旨に沿うこのようなコメントは歓迎しております。

リメイク 太公望 伝狩野融川筆

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auショップでタブレットの契約。後日やたら通信速度が遅いのでauショップで原因と思われるシステムカードを交換しましたが、またしても通信速度にトラブル。どうもau通信速度に障害がありそう・・。二度もauショップで待たされた上に、今度は最後はショップでは対応できないから、サポートセンターにそちらで連絡してくださいとの対応。安かれ良かれのauは考え物と思いながら帰宅途中に再びauショップに立ち寄り、良くチェックしてほしいと申し出るとどうもau側に設定ミスがあったとのこと 即解決しましたので、このままサポートセンターに持ち込んだら長引いたでしょうから、「言うべきことはきちんと信念を通すこと」が必要という事例?



さて本日の作品は男の隠れ家にあった作品を持ち帰って整理している作品のひとつです。二度ほど本ブログに投稿している作品です。

リメイク 太公望 伝狩野融川筆
絹本水墨軸装 軸先 合箱二重箱 
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦217*横310



本作品は太公望を描いた作品の中でもかなりの優品だと思っています。破墨山水で太公望を描いていますが、破墨山水とは定説はありませんが、山水画にて素地と白地を残して周囲に墨の地隈を施して白地そのものが物象を表現するように描くという意味であるという説がああります。その後、意味は少しずつ変化してきて、淡墨で大体を描いてその上に濃墨を加えて仕上げていく方法に解されています。

 

中国の逸話の人物を描いた作品ですので、明末呉須染付の作品を手前において飾っています。

描かれている「太公望」については以下の説明のとおりです。

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太公望:中国周時代の賢者。氏は呂、名は尚。魚を釣って沈思することを楽しみとしていた。時に西伯(文王)が猟に出ようと占うと、獲るものは動物ではなく自分を補佐する人物とでた。そして、渭水のほとりでこの呂尚と出会い、喜んで師とした。これより、太公望は西伯を援けて王者の師となった。これより、太公望は西伯を援けて天下の三分の二を領し、ついで武王を援けて紂を破って周の天下となし、百余歳でなお王の師であったという人物です。

太公望が江岸に釣糸を垂れる図は古来から好画材であった。海北友松、尾形光琳等の作品がある。

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実在の人物で、詳細は下記のとおりです。

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呂尚(りょ しょう):紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖、姓は姜。氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。

歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である。殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない。

『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、祖先は四嶽の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという。元は屠殺人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する。

また周に仕える以前は殷の帝辛 (紂王) に仕えるも帝辛は無道であるため立ち去り、諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の西伯昌 (後の文王) のもとに身を寄せたと伝わる。周の軍師として昌の子の発 (後の武王) を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる。



営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。また、斉は成王から黄河、穆棱(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は非常に長生きをし、没時に100歳を超えていたという。

しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと解される。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある。

春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った。呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』は唐代に重要視され、731年に玄宗によって呂尚と前漢の張良を祀る太公廟が各地に建立された。760年に粛宗から武成王を追贈され、太公廟は武成王廟と呼ばれるようになり、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。また、古今の名将十人が唐代の史館により選ばれ、太公望と共に祀られた(武廟十哲)。782年、徳宗の命により唐代の史館が新たに六十四人の名将を選出し、武成王廟に合祀された(武廟六十四将)。明の時代に入ると、洪武帝は周の臣下である呂尚を王として祀るのは不適当であるとして、武成王廟の祭祀を中止させた。

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本作品を狩野融川と断定はできません。印章も狩野融川の名の「寛信」なのか、または別人物の「実信」なのか判然としませんし、狩野融川の別号に「実信」や「丁楽」の両方とも記述がありません。落款の「了楽」の判断は後学によることとしています。



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狩野寛信:安永6年生まれ、文化12年没(1777年~1815年)、享年38歳。別号を青悟齋。昆信(閑川)の子で、性格は豪爽であったという。門下には志村融晶、沖融門、関岡融山、長谷川融記、町田融女らがいる。

将軍徳川家斉の時に朝鮮王に贈り物として、近江八景を屏風に描くように依頼されたが、老中阿部豊後守にその画の金砂が薄いことを指摘された。寛信は、近景は濃くして、遠景は薄いものであり直す必要はないと主張した。それでも老中は直すように指示した。寛信は憤慨し、よき画家というものは俗世間の要求に屈服しかねるといい、城を下る途中の輿の中で、割腹して果てた。まことに豪爽としかいいようのない性格である。

本作品も寛信ぼ作品ならば、そのこのような性格を如実に表した作品と言えよう。

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波の表現された生地の表具も良い。小品ながら、大事にしたい作品のひとつであると考えています。



作者についていつか解る時がくると思いながら、入手してから30年近く経ちます。百歳までは生きられないでしょうが、いつか誰が描いた作品か解るかと思っていますが・・・。

樓臺朝陽図 野田九浦筆 その1(1/4)

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五月の連休は郷里に帰省し、のんびりと幾つかの温泉に行ったり、美味しいものを食べたり、知人らと旧交を深めたり、むろん骨董も愉しんできました。その内容についてはまた追々ブログにて報告させていただきますが、アッという間の一週間でした。息子も「お父さんの田舎ってすごいね。」だと言っていますが、どういう意味だろう?

さて本日の作品は両親から譲り受けた作品のひとつです。本作品、「野田九甫の作品」はおそらく祖父が購入したもののひとつでしょう。寺崎廣業の弟子ということもあり、郷里とは無関係ではない画家です。

樓臺朝陽図 野田九浦筆 その1(1/4)
絹本着色軸装 軸先 共箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



NHKの日曜美術館にて、(ノーベル賞の)大村智さんが初めて買った絵が野田九浦の「芭蕉」だという内容で野田九甫の掛軸の作品が紹介されていました。このことで少しは野田九甫の名が知れたかもしれませんが、それでも現在ではとてもマイナーな画家と言っても過言ではないでしょう。祖父が買い求めた頃は著名な画家の一人であったと思います。



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野田九浦:明治12年12月22日、東京下谷生れ。本名道三。「九甫」とも表記。祖父は漢文学者の野田笛浦。弟に脚本家の野田高梧がいる。

 

4歳から父が税関長をつとめた函館で過ごし、函館商業学校で学ぶ。明治28年(1895年)に寺崎広業と共に上京し師事、その画塾に学び、明治29年(1896年)に東京美術学校日本画家選科に入学するが、明治31年(1898年)美術学校騒動(岡倉天心排斥運動)により師とともに退学、創立された日本美術院の研究生となる。また町田曲江と白馬会研究所で黒田清輝に洋画を学び、渡欧をめざしてフランス語を習い、正岡子規について俳句を学ぶ。

明治40年大阪朝日新聞社に入社(大正6年退社)、夏目漱石の小説「坑夫」の挿絵を制作する。1907年第1回文展で「辻説法」が二等賞受賞など文展・帝展などで受賞多数。1912年に北野恒富と大正美術会を結成。1917年第11回文展で特選。1947年に帝国芸術院会員となり、日展に出展。画塾煌土社を設立。金沢美術工芸大学教授。狩野探幽の研究でも知られた。著書に『狩野探幽』がある。煌土社創設、日本画院同人、帝国芸術院会員、日展運営会常務理事、(社)日展顧問、金沢市立美術工芸学校教授(のち名誉教授)。

下記の右写真の作品は「天草四郎」

 

歴史人物画に秀作を残しています。

晩年は東京都武蔵野市吉祥寺に暮らし、屋敷跡が市のコミュニティセンターとなっており「九浦の家」と名付けられている。作品および遺品は武蔵野市に寄贈され、武蔵野市立吉祥寺美術館に収蔵されているほか、スケッチブックなどはコミュニティセンターでも展示されている。昭和46年11月2日、東京武蔵野で没。享年91。

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共箱の中には祖父が興し、父も務めていた会社の封筒があります。祖父から父に、父から母に、そして小生に受け継がれてきた作品です。

 

このような作品は男の隠れ家に多々ありますが、骨董蒐集も最初は画家の名前も知らず、資料を調べるところから始まりました。ようやく今になって一通りの整理ができるまで知識が得られたかと思います。



無から調べて整理するという苦労から、所蔵作品に関しての資料を将来に向けて整理しておくことの必要性を人一倍、小生は感じているのかもしれません。

さて本日から全国行脚です。手始めに早朝から四国、大阪の日帰りコースです。

揃いの器たち

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以前は自宅で法事を含む冠婚葬祭を催したので、大きな家には揃いの器があったものです。膳、碗、徳利、煙草盆、火鉢など多い家では50人揃というのもあったようですが、冠婚葬祭を自宅でやるということがなくなり、その揃いの器たちは都会ではいち早く消失し、地方でもそのほとんどは散逸していきました。



揃いの器は5人揃、ペア、単品と分けられて骨董市に並べられていましたが、今となっては良き作品のほとんど売りさばかれており、いいものはなかなか残っていないように思います。

上記の写真は祖父母が本日紹介します30客の揃いの器を依頼する前に持っきた見本品だそうです。「平戸嘉祥」というところに依頼して揃いの器を揃えたようですが、その前に単品ずつの一式の見本品をもってきたようです。「四季山水図染付」の揃いの器で、輪島塗の銀吹の漆器や膳と取り合わせてみました。この作品の詳細は本ブログにて紹介していますので省略しますが、さすがに見本品はよくできています。



男の隠れ家の食器棚にはこのような揃いの器がたくさんあり、さすがにこれだけの量を整理するのは大変な労力が要りましたが、ようやく一通り整理が完了しました。



ほとんどが呉須の山水図と梅図の片身代わりの作品です。



徳利と盃は小粋な真塗の小盆にて・・。



見本品ほど精密ではありませんが、山水画を良く描かれており、当時の南画の伊万里における影響の深さを知ることができます。



片身変わりは見事です。



「古代梅山水画」とあり、平戸の嘉祥なる陶工の作品です。

 

手に持つとその繊細さがよく伝わってきます。



このような徳利と盃はよく宴会で欠けることが多かったのですが、ほとんど本揃いの作品は欠けている作品はありません。



昔は必ず盃と盃皿がセットでした。さらに盃台、盃洗がついたものです。それらは以前に紹介しておりますので省略します。



徳利にはお通しの器が付き物?



このよう小さな器に見事に描かれた山水画は愉しくなります。



現代の陶工では製作は無理でしょう。

 

ちょっと趣を変えた作品もありますが、全体にバランスがとれています。



明治期から昭和初期にかけての作品でしょうが、江戸期の藍染の技法に負けず劣らずの出来です。



「特製」?? ま~、特別に誂えた作品なのでしょう。



一の膳に並べてみました。



皿は小皿、五寸皿、六寸皿、七寸皿がついています。







蓋付の碗もあります。

 

轆轤の技術の高さもうかがい知れます。



二の膳に並べてみました。このような揃いの器のために膳を修繕したとも言えます。



飯碗。



小丼。



汁椀。



三の膳。



蒸碗。



酒癖の良くない御仁には出せない揃いの器です。マナーの悪い客にも・・。



揃いで完品で遺っている器たち。各々色とりどりの器が料亭で出されることも多いのですが、これらの揃いの器は控え目に料理が映えるようにしていながら、自己主張をしていて「どうだ!」と問いかけてくる作品です。

 

すべての保存箱を並べてみました。柿右衛門の作品の揃いもありますが、これは好みのよるのでしょう。


菊 山口蓬春筆 その5

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本日は早朝から九州へ・・、一泊して明日は広島へ入り、その後帰宅予定です。

さて本日紹介する作品は山口蓬春の作品ですが、山口蓬春の作品は子供の頃から床に掛かっていた作品があったこともあり、小生には馴染みのある画家の一人です。「うまい!」という感想を持たざる得ない近代日本画家のひとりですね。

菊 山口蓬春筆 その5
紙本水墨着色軸装 軸先 共箱二重箱 
全体サイズ:横645*縦1565 画サイズ:横485*縦435



和紙に描かれて作品です。



山口蓬春は画家として駆け出した頃から古美術品を求め自らの芸術の糧とし、自ら培った審美眼をもって当時の文化人たちとともに茶の湯を楽しんでいました。一方、妻の春子は元・日本画家でありましたが、結婚後は蓬春を支えるため絵を描きませんでした。そして武者小路千家の茶道を心得るなど、豊かで教養に溢れた彼女は日ごろより茶の湯のこころを以て、多忙な生活を極めていた蓬春の客人を歓待していたそうです。



このような二人は葉山の邸宅に、茶の湯をたのしむための水屋や露地のある坪庭などの心地よい空間をととのえました。また二人には名だたる茶人・数寄者・目利きたちとの交流があり、そのため貴重な茶道具や資料が集まったとのことです。小生はまだ訪れたことはないのですが、現在は山口蓬春記念館となっているようです。



「テーマを絞り込んだ晩年の作品では、岩絵具の清澄な色彩はますます深みを増し、洗練された構図と共に、近代的な明るさに満ちています。それこそ画家が独自に到達した新日本画の姿と見ることができるだろう。」と晩年における山口蓬春の作品は評価されています。

「誰かが蓬春のレベルを維持しなくてはならない」と蓬春死後、美術評論家河北倫明氏はそう語ったそうです。蓬春芸術は、西洋画、日本画を超えた近代日本美術の一つの頂点ともいえるのでしょう。



洋画から出発し、松岡映丘に大和絵を師事し、洋画を吸収しながら大和絵の形式を取り払い、南国の景色を描き、戦争画を経て、戦後「蓬春モダニズム」と呼ばれる画風を確立し、晩年は「和洋の真の融和」を見事に凝結した作品を描いています。



本作品はそのような経緯を経ての晩年に描かれた作品だと思います。

幾度か本ブログにて記述していますが、山口逢春の概略の経歴は下記のとおりです。

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山口逢春:明治26年生まれ、昭和46年没、享年78歳。北海道生まれ、名は三郎。

 

東京美術学校洋画部を卒業し、松岡映丘に師事し、大和絵の画風を修得したのみならず、各派の画風をも摂取した。「三熊野の那智の御山」、「緑庭」、「市場」等の代表作がある。

昭和初期に新興大和絵運動のホープとして一躍画壇に登場する。昭和5年、洋画家らと六潮会を結成して研鑚を積む。昭和25年日本芸術院会員となるが、戦後、逢春はシュ-ルレアリズムに近づき、西の堂本印象に対する東京側新派のリーダーといわれた。

明快な色彩で清新な自然感を構成的に表現した洋画的新傾向は、急速に戦後の日本画界を席巻していく。

昭和40年には文化勲章を受賞。昭和43年、新宮殿壁画を完成する。大和絵や宋元画、水墨画、琳派と幅広い研究をし、日本画的な「型」から離れて、自らの創意で時代の思考、感覚、美意識に適合した新しい画境を開拓し続けた。

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一作品は床に飾りたいと思う画家の一人です。

幾多の変遷を経た画家ですが、さらに下記の記事が解りやすいでしょう。

補足

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1. 新興大和絵会への参加

京美術学校西洋画科に入学した蓬春は、君の絵は日本画の材料が合うのではないか、と評され悩んだ末、日本画科に転科します。そこで蓬春の指導に当たるのが当時文展で活躍していた松岡映丘でした。この頃山口家は経済的に苦しく、蓬春は京都や奈良の名所絵を描いて生計をたてていました。生まれて初めて見る古都の風景に新鮮な感動を覚えた蓬春は《晩秋(深草) 》《秋二題 》など、叙情的な作風を打ち立てます。

大正12年、東京美術学校日本画科を首席で卒業した蓬春は、映丘率いる新興大和絵会の同人となり、その後、第5回、第6回帝展への入選を経て、第7回帝展では《三熊野の那智の御山》が特選となり、帝国美術院賞をも受賞、作品は皇室買い上げという三重の栄誉を受けた蓬春は画壇への華々しいデビューを飾ります。また、第8回帝展出品《緑庭》や第10回新興大和絵会出品《扇面流し》では、当時の大和絵が失っていた鮮烈な色調を復活させ、大和絵に近代的な命を与えました。

2. 六潮会と個展時代

「ただ大和絵の形式を、今日の感情や思想に一致させる事は困難だと思う。」と自ら述べた様に、蓬春は新興大和絵会の活動に限界を感じ始ます。

昭和5年、蓬春は六潮会に参加します。3人の日本画家と3人の洋画家、そして美術記者・批評家の8名から成り、流派を超えた自由な雰囲気の中、お互いが学び合うというこの会は、蓬春にとってはこの上ない研鑽の場となり、ここでの活動は以後10年間続くこととなります。そんな折り、蓬春は画壇の派閥の板挟みとなり、昭和10年に六潮会以外の全ての団体と訣別し、古典の模写に励みながら、昭和11年には初めての個展を開きます。

大和絵の形式を取り払った蓬春は、馥郁たる自然を描いた《竹林の図 》や、江戸琳派の研究の跡が見られる《春汀》、隙の無いまとまりのある構成と衒いのない素直な描写によって表現された《泰山木》など、生き生きとした自然観照の姿勢を見せ、「一個の自由人となり、ひたすら自己の画生活の醇化に努力」していったと述べています。蓬春は省略や強調の手法を交えた、新しい日本画を追求し、これは戦後、一気に開花する蓬春モダニズムの萌芽と評価されています。

3. 南方に使いする

昭和13年以来、蓬春は美術展の審査員として毎年のように台湾や中国、南方の各地に赴いています。初めて目にする異国風景は蓬春にとって新たな創作力の源となったようです。

《南嶋薄暮》を取材した淡水(台湾の海港)について、「その建築の持つ絵画的な美しさは、西欧のそれも南仏か伊太利あたりの感じがあるのではないでしょうか。」と蓬春は述べており、南方の各地に見られる鮮やかな色彩に、殊に感銘を受けていたようです。

一方、昭和10年代初頭の古典の学習以来、フォルムの単純化を一例とした画風の変化を見せていた蓬春が、戦後「蓬春モダニズム」と呼ばれるところの造形形成の過程を《残寒 》に見いだすことができます。省略や強調の手法を交えた、装飾的な画面は、終戦の到来を待てなかったようです。

この頃、多くの画家が戦争に協力するよう求められていました。昭和17年、陸軍省から南方に派遣され、戦争画を描くことになりますが、実際のところ、彼が心に抱いていたのは「今だ見ざる南方の新天地に対する思慕の念と憧憬」であったと回顧しています。

4. 蓬春モダニズムの展開

昭和22年、蓬春は疎開先の山形・赤湯から帰り、葉山に移ります。さらに、1年半後には現在の記念館となっている一色海岸近くに待望の新居を構えることになります。ちなみにこの画室は28年に同窓の建築家吉田五十八が設計したモダンな内装です。海に近いこの画室から夏の葉山の海岸を思わせるモチーフがたびたび登場することになります。

戦後の発表の舞台は日展が中心となり、第3回日展に出品した《山湖》が始まりでした。昭和20年代、日本画滅亡論が唱えられるころ、日本画は急速に西欧近代絵画を吸収します。そのなかで、蓬春は19世紀の以後のフランスを中心とした絵画に接近し、戦時の表現を払拭した新しい日本画を積極的にめざし、時代の思考や感覚をもとに近代の造形性を消化していきます。漫然とした概念的な自然描写を排した表現や「もっと明るく、もっと複雑な、もっと強い、もっとリズミカルな」と言う蓬春の色感は、新鮮な画面を生み出しました。

独特の造形感覚とともに、《望郷》にみられるようなしばしば卓抜した感性は、蓬春芸術のみせる大きな魅力です。こうした蓬春の作品は発表のたびに話題となり、明るく近代的な造形の追求は、"蓬春モダニズム"とよばれる世界を創り出しました。

5. 写実の時代

《山湖》から始まる実験的な風景画と、《夏の印象》などの構成的な静物画の近代的な形態と色彩による一連の作品は《望郷》が区切りとなったようです。その後の昭和30年代前半の一時期、蓬春は冷徹なリアリズムをめざす静物画を中心とした制作をおこないます。

「すべて写実が基盤になる、即ち写実主義(リアリズム)の基盤に立つのである。」と蓬春は述べています。自然観照から発想せよという蓬春の日常に向ける透徹した眼を感じさせ、なおかつそれが日本画として充分に消化されている。広がりをもたらす光の存在と、隈取りのように表現されている陰影が特徴であり、西欧的な静物画への傾斜を読みとることができます。

蓬春は画塾のような形態をとりませんでしたが、大山忠作、加藤東一、加倉井和夫、浦田正夫らが師事しており、こうした戦後の日本画壇を改革した若い原動力となった一采社の作家たちに大きな影響を与えたことも特筆されます。同時代的感覚の導入と西欧近代絵画の吸収など、蓬春は戦後の次世代の画家に日本画のひとつの指針を示しました。



6. 新日本画の創造

西洋画、古典大和絵から出発し、時代に即した日本画の創造を目指した蓬春。その画業においての最終的な課題は、和洋の真の融和であったといえます。

かつては大和絵の文学的抒情性から抜け出すために、人物や動物は画面から消し去られていました。蓬春は『新日本画の技法』の中で「構図の為に殊更に鳥を配置するようなことはせず、たとえ鳥が無くても、自然感の出るものは、強いて鳥を配する必要はない」「従来の花鳥画には、無理に不自然な鳥を配するような悪習慣がある。」と述べている。それが晩年に至り、《春》《夏》《秋》《冬》の連作を描き始めてから再び登場する小鳥の姿には、伝統的日本画の画題にあえて挑戦する蓬春の円熟した境地が窺えます。

当方の所蔵作品より

柳鷺図 山口逢春筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2180*横442 画サイズ:縦1300*横320



現代の視点によって再び捕らえ直された花鳥画。同じモチーフにより繰り返し描かれた静物画。テーマを絞り込んだ晩年の作品では、岩絵具の清澄な色彩はますます深みを増し、洗練された構図と共に、近代的な明るさに満ちている。それこそ画家が独自に到達した新日本画の姿と見ることができるのだろう。

当方の所蔵作品より

鶺鴒 山口逢春筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横395*縦1960 画サイズ:横275*縦1090



「誰かが蓬春のレベルを維持しなくてはならない」蓬春死後、美術評論家河北倫明氏はそう語った。蓬春芸術は、西洋画、日本画を超えた近代日本美術の一つの頂点ともいえるのでしょう。

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「誰かが蓬春のレベルを維持しなくてはならない。」ということですが、残念ながら彼の死後、そのレベルを維持できている画家は日本にはいません。岩絵の具を厚く塗り、またスプレーなどの道具に頼り、本来の技量とはほど遠いところに現在の日本画があるように思われます。ものづくりに技術が蓄積されていない現状が日本画にもあるようです。現代日本画より、近代日本画にファンが多いのもこのことによることが大きいのでしょう。

紅楓鳩 渡辺省亭筆 その20

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渡辺省亭の100回忌が作品にあたり、「美祭」などで渡辺省亭の作品展が催されたようですが、盛り上がりはいまひとつであったように感じました。まだ日本では残念ながら馴染みのうすい画家の一人なのでしょう。

本日紹介する渡辺省亭の作品の特筆すべきはやはり独特の色彩感覚にあろうと思います。

好みが分かれるでしょうが、渡辺省亭の作品は「対象の正確な描写を即興性高く実現する高い技術、豊かな装飾性、色彩美を特徴とし、さらに西洋風の精緻な表現をバランスよく融合させることによって、現代の眼でみてもなおそのモダンで高い気品を感じることができる。同時代において既に評価が確立している河鍋暁斎や柴田是真の次に注目すべき画家であることに疑いはない。」と評価されるに値する画家と言えるでしょう。

紅楓鳩 渡辺省亭筆 その20
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1840*横447 画サイズ:縦780*横335

 

「省亭逸人」という落款の作品は数が多く、下記の他の所蔵作品にも記されているが、本作品の朱文白二重楕円印は初めての印章となる。最晩年の作品と推察される。

本作品の印章は当方では初めての印章であり、他の作品に押印された二重楕円印はありますが、本作品に一致した作品は当方の所蔵作品にはありません。渡辺省亭の作品に押印されている印章は「省亭」という簡単な印章ながら、かなり多くの種類があるようです。共箱の作品も少なく、一部に子息の鑑定箱の作品もありますが、真贋の判断にはそれ相応の注意が必要です。

落款については、当方の所蔵作品や昨年発刊された東京美術出版「渡辺省亭(「花鳥画の孤高なる輝き」)などの作品に同一の「省亭逸人」という落款が記されています。

下記の写真がその例となりますが、本作品と比較してみました。

本作品(左)「月明秋草図 その3」(中央)「松上双鶴図 その15」(右)  

  

「春秋水禽図双幅 その9」(左)「神使 その16」(右)

 

「雪景燈籠ニ蛙図 その10」(左)「雨中桜花つばめ図(画集より)」(右)

 

印章や落款に真贋のために固執したり、夢中になるのは骨董蒐集上は精神衛生的にはよくありませんが、このような資料は真贋以外に年代の特定ができたり、その製作背景が見えてくることがありますので、きちんと整理して覚えておく必要はあるようです。

ただ蒐集の初心者がこのような資料に夢中になるのは私はやはり不賛成です。たとえ極論からすると贋作であろうと作品をともかく愉しむことを優先した方がいいと思います。

渡辺省亭の作品の画題は花鳥画と美人画にありますが、とくに鳩を描いた作品は数多くあるようです。



その色彩が海外では高く評価されています。



日本の美そのものといっても過言ではないでしょう。



デザイン性も豊かですね。



平成29年4は明治期の日本画家である渡辺省亭の100回忌にあたりました。これを機に渡辺省亭の作品を集めた初の回顧展を開催されましたが、まだまだ現代では忘れ去られた画家という表現が適切な存在です。100回忌が過ぎたらますます忘れ去られた画家になりそうですが、ひと作品くらいは手元に所蔵したくなる作品ですね。

ちなみに京橋にある加島美術で開催された動物画の展覧会「アニマルワールド」の展示作品に下記の作品があります。双福の内の一幅です。

渡辺省亭 《紅楓鳩》



「紅楓箱」と題するには本日紹介する作品の方が適切のように思い、本作品も同題としております。

当方で本ブログにて紹介した作品にも描かれた作品がいくつかあります。

双鳩図 渡辺省亭筆 その18
絹本水墨着色軸装 軸先樹脂 合箱
全体サイズ:縦1960*横525 画サイズ:縦1130*横395



神使 渡辺省亭筆 その16
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1910*横495 画サイズ:縦1300*横375



梢上双禽図 渡辺省亭筆 その8
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1795*横545 画サイズ:縦1022*横418



これらの作品はすでに本ブログにて紹介されていますので説明は省略させていただきますが、当方ではじっくりと取り組んで厳選しながら蒐集を続けていきたい画家の一人であることには変わりありません。















縁のある刀剣たち

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陶磁器、掛け軸と譲って頂いた友人から刀剣類も譲っていただいています。

刀剣については当方にはまったく知見のないことから、また譲り受ける際のお値段のこともあり、譲っていただく前に銀座の「刀剣柴田」(店主が「なんでも鑑定団」に出演しています。)にて見て頂いています。その結果、このたびの作品は研ぎ代金のほうが高くなるとのことでしたが、友人が所有していても「物騒なので」ということもあり、小生がそれ相応のお値段にて引き取ることになりました。

刀剣は当方の専門外であり、しばらく研がずに、ただこれ以上錆が進まないような処置だけにしていたのですが、友人が罹患した病が回復しないこともあり、厄払いの意味も含めて「刀剣柴田」に研ぎを依頼しました。

譲っていただいたのは二振りでひとつは刀で、上の写真の刀剣ですが、出征に際して実家から出た刀を軍刀に誂えたと思われる作品です。

刀 その九 新刀 無銘
長さ:73.8センチメートル
反り:2.9センチメートル 目くぎ穴1個

もう一つは短刀ですが、友人のご母堂様が嫁入りに際して実家から譲り受けたものでしょう。

刀 その十 短刀 無銘
長さ:21.6センチメートル
反り:0.3センチメートル 目くぎ穴1個



友人の実家は小生もよく知っていおり、これも郷里の縁・・。研ぎ代金だけで新たな状態のよいそれなりの刀剣が入手できる金額なので、刀剣柴田の短刀の方の曰く「この値段で研いでいいですね。」と念を押されました。


 



錆が中子まで及んでいることや、白鞘の用意が新たに必要ですのでかなりの高額になります。



この程度の刀剣は通常は安い研ぎに出して、居合刀に使うのが一般的のようです。ただ当方は値段だけではないのです。骨董についてはその多くが値段でないことに突き動かされることが多いのだと思います。

研ぎが完了するには四か月以上必要だそうです。

鍔には笹に虎、鍔もたいした作ではありませんが・・



実家から出征する人に送る作品です・・、「虎は千里を帰る」・・・、そういう思いのあった作品を粗末にはしておけません。



目貫は毘沙門天・・。武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされる神です。これも出征には最適のもの。



片側はよくわかりませんね。



軍刀に誂えたことを惜しむ必要はありません。恨むのはそういう時代であったことです。そもそも登録証もなく、友人に説明して発見届、登録届の手続をしてもらいました。



短刀はもっと錆だらけ。嫁入りの際の短刀と察せられます。

「刀剣柴田」の話では小生の近隣の方が「嫁入りに持たせたい。」と最近、短刀を購入しにきたそうです。なんとも現代では珍しいことですね。それなりの覚悟で嫁に行けという心意気でしょうか?



短刀の研ぎはかえって面倒です。長さが短くても研ぎの最低料金は決まっていますのでこちらもお安くはありません。



誂えは一般的なものです。



金銭的な価値は大したことのない刀剣類ではありますが、代々伝わるものは先人たちの思いがそこにあります。それを大切にすることが骨董を趣味とする者の心得です。ちなみに友人の父上(刀剣の当時の所蔵主)は戦地から無事帰還し、地元の役所の部長まで勤めあげ長寿を全うしました。

今回の帰省に際して友人に研ぎに出したことを報告しておきました。刀については「研いだら立派になるだろうな。」と一言ありました。小生も実は期待しているところです。


男の隠れ家の伊万里の器

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帰省に際して仙台に赴任していた頃の荷物を整理していたら、いくつかの伊万里の食器が出てきました。普段使いや棚に飾っていた作品で、赴任先の骨董市や骨董店で購入した作品がほとんどです。

冒頭の作品は伊万里の印判手の作品。「波に千鳥」のデザインかな? ベロ藍と呼ばれる染付の作品に分類される作品群のひとつで印判手として下手なものと全体に評価の低い作品群ですが、時としてこのような洒落たデザインの作品に出会うことがあります。



こちらは幕末の頃の藍染付風の染付皿で「菖蒲」でしょうか。

下記の作品は5客揃いの作品。船の絵が洒脱で口縁の藍色が品があっていい作品だと思います。



これは何のデザインでしょうか? 伊万里には自由奔放でよくわからない絵柄が多いように思います。



これもまた・・・? 山水図? 窓にも描かれており図柄には元時代からの中国の染付の影響が見られます。



これはかなりの数が揃いである作品ですが、古染付の代表的な図柄に倣った伊万里の作品でしょう。



近代的なデザインでも古伊万里らしいです。まるで現代の作品のようなデザインと出来ですが古いものです。



染付だけだと食卓の色合いが寂しいので色絵も少し購入しています。



初期の色絵のような「龍田川」? 逆から見るとハート型、ペアで揃えました。



釣りの帰り? 飛脚? 本当に何を描いたのか分からない面白い図柄です。



幕末頃から明治かけての作品であり、ウサギが可愛らしい。量産し始めて図柄は手書きでも筆数が少なくなり、簡略化された図柄に優作があるようです。



恵比寿・大黒の縁起物らしい。当方の揃いである平戸嘉祥の作品。



こちらも印判手・・。男の隠れ家に揃いでたくさんありますが、鷹? 鳳凰? はたまたタガメ? ユニークなデザインです。



こちらも揃いである作品で山水画風・・。100円ショップにでもありそう?



これも揃いである作品。いったい何のデザインだろう? なにか解らないデザインですが、人を引き付ける魅力があります。



これも揃いでありますが、太湖石に松、そして蝶?  



以上は小皿ですが、大きめの作品には「富士に龍」



大きな窯傷があります。





大皿まで取り上げるときりがありません。



この作品は蛸唐草文様の下手なもの。上手と評価されるのは輪郭線も手書きできちんと細かく描かれている作品ですが、本作は線だけで描かれているのである程度の人気はありますが、下手なものと評価されています。



それでも「かすがい」で補修されていますので、それなりに大切にされてきたのでしょう。

いくつかは本ブログで紹介されている作品ですし、きりがないので今回の帰省時の伊万里関連の作品紹介はここまでにしておきます。伊万里の作品の蒐集は本当にきりがありません。当方は片手間程度で蒐集していますので、上等な作品群ではありませんのであくまで参考程度のレベルの作品とご了解願います。

源内焼 その109 楼閣文角皿 五枚揃  

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本日紹介する作品は以前に本ブログにて紹介していますが、本日改めて紹介する理由は、前回の紹介ではまだ三枚揃であったですが、本日はなんとか最低数の五枚揃いになったという理由からの紹介です。

源内焼 その109 楼閣文角皿 五枚揃  
合箱入
幅155*奥行155*高さ35



本来の源内焼の作品で、割れや欠けなどがなく、かつ表面が擦れなどで釉薬が剥がれていない作品は非常に数が少なく、ある一定の地域で探してもそれほど数のある作品群ではありませんので、ネットオークションにて広く出品されている場で作品を入手するのが一番有効な入手方法と思われます。



ところが揃いもののある程度の大きさのある源内焼は、ネットでは揃いで出品されずに、単品ずつ出品されることが多く、揃いで作品を揃えるのは意外に困難なことになります。

源内焼において実用的な作品に多い揃いものは注文品であった可能性が高く、揃いの数はなかなかないように思います。出品側も単品で売りさばいた方がトータルで高く売れるだろうと考えているので、「揃いもの」で揃えるには時間と運と費用が必要で、本日の作品も揃えるのにずいぶんと時間と労力を使いました。



考え物なのは揃いものの作品は、状態の良い作品が後で出品されてくる傾向にあるということです。

今回の作品については、最後に出品された作品にのみ、「舜民」という号のうちの「民」の印のある作品が出品されました。前にも本ブログにて記述したように源内焼の評価の高い作品群には下記の条件があるようです。

1、 地図皿
2、 大型の抜けのよいもの
3、 印のあるもの(瞬民、志度瞬民、民など)
4、 多彩釉(3~4彩、出来れば黒・藍などの色があるもの)
5、 擦れなどがなく、壊れていない完全なもの

「印」のある作品は注文品や出来の良い作品の一部に限られており、数がかなり少ないので評価が高いのでしょう。今回の作品のように最後に印のある作品が出品され、これを最後に揃いものを入手できたというのは、運が良かったということになるのでしょう。



大きめの作品に多い印がある傾向ですが、本作品のような中皿程度の小さめの作品に印のある作品はさらに珍しく、格のある注文先からの注文品であった可能性を示唆しています。



当方では源内焼において100種類を超える作品が集まりましたが、まだ蒐集されていない図柄の多々あります。しかしそろそろ同図の色違いなどのようなマニアックにならずに、厳選した作品に絞って蒐集を続けていきたいと思います。

ネットオークションに出品されている源内焼と称している作品の多くはそのほとんどが本来の源内焼ではなく、また本来の源内焼でも擦れていたり、釉薬が剥がれていたりしており、厳選しないと良い作品が入手できないようです。
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