Quantcast
Channel: 夜噺骨董談義
Viewing all 2940 articles
Browse latest View live

天地交換

$
0
0
本日は朝から日帰りで名古屋に出張する都合により、ブログの内容は簡単な記事といたしましたのでご了解願います。

掛け軸が痛み始める部位は掛け軸の上下に多いということをご存じでしょうか? 掛け軸の上下の部分を「天地」と称していますが、紐で巻いていることによる擦れ、表具の剥がれや破れ・浮き、そして軸先や紐などが掛け軸の「天地」では痛むことが多いようです。

その段階での天地のみ交換、もしくは締め直し(元の材料で直すこと)は掛け軸の保存上は非常に効果的です。表具師にとっては表具をやり直すよりはお金にならないし、面倒なので嫌がることもありますが、本体が痛んでいなければ、費用が圧縮できることで保存に最適な状態を保つことができます。

本ブログにていくつかの天地交換した作品を紹介しましたが、最近も三作品の交換を表具師に依頼してこのたび完了しましたので紹介します。作品そのものは天地交換前に本ブログにて説明していますので作品紹介は省略させていただきます。

深山春雪之図 山元春挙筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先 二重箱共箱入
全体サイズ:横602*縦2030 画サイズ:横505*縦1196

天地交換前が下記の写真です。天の部分が虫に喰われて穴があいています。



天地交換後が下記の写真です。



本紙(作品自体の部分)が痛んでいなければ新品同様の状態になります。鑑賞もより一層楽しくなり、なによりも扱いが楽になります。



本作品にてもうひとつ施したのは箱書きのカバーです。

この作品は共箱の表側に落款を記し、印章が押印されています。箱を二重箱に収める際に外箱に擦れてしまい、書かれた文字が薄くなる可能性がありますので、箱にカバーを付ける必要があります。

このようなことに気を使う必要性は私が子供の頃に母から教わりました。母はものを扱うに際して粗雑に扱うことを嫌っていましたが、子供心に「うるさいな~」と思っていましたが、今では自然に自分からこだわっています。

 

このカバーは自分で作るとどうもぴったりできないもので、予想以上にうまくできないものです。応急処置として紙を当てておくこともできますが、慣れていないとうまく入れられません。掛け軸の扱いを知らない御仁が意外に多く、カバーを壊したたり、当て紙をしわくちゃにする無作法者が多いようです。この作品は天地交換ついでにカバーを作ってもらいましたが、このような処置は改装よりもかなり安くできます。

こちらの作品も天地交換しておきました。

早春花美人 伝上村松園筆
絹本着色軸装 軸先塗 共箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横400*縦1210

改装前は写真ではわかりにくいですが。天の部分の両脇が痛んでいました。



こちらも天地交換した作品です。



既存の表具布をそのまま使っています。



天地のみの締め直しですね。



これだけでだいぶ掛け軸が扱いやすくなります。ちなみに手前の大皿は平野庫太郎氏作の作品です。



こちらの作品もまた天地交換の処置をした作品です。

嵐山春雨 富田渓仙筆
絹本着色軸装 軸先象牙 富田芳子鑑題 二重箱入 
全体サイズ:横555*縦1320 画サイズ:横420*縦365

改装前は。写真ではわかりにくいですが、上一文字部分と同様の染みが天の部分に発生しています。



一万円以下程度でこの処置ができます。紐を新しくしたり、とれた軸先を交換することもこの際にできます。



天地部分が破けていたり、糊が浮いた状態も改善されます。天地が痛んだ後は扱いにくくなり、掛け軸がうまく巻けなかったりして、ここからどんどん掛け軸は痛んでいきます。掛け軸を所蔵の方は所蔵の掛け軸の状態を確認して、天地交換で済むのであれば天地交換を早めにすることをお勧めします。



ただやはり本紙(作品部分)を傷めないように保管しておくことが肝要なことに変わりはありません。



息子がふざけていたずらをしないことを祈るばかり・・・。


月下葡萄に鷹図 天龍道人筆 その36

$
0
0
天龍道人の出来の良い作品がなかなか見かけなくなりました。当方でも今回の作品紹介で「その36」となり、ひと通り年代別や画題別に揃ってきたことから厳選して天龍道人の作品を蒐集する段階になってきたことと、市場の作品の手薄さと相まって出来の良い作品の入手が難しくなってきています。

そのような状況下で本作品のように興味深い、出来の良い珍しい作品が入手できたことは蒐集する側には嬉しいものです

本日紹介する天龍道人の作品には落款に「天龍道人九三王瑾画」とあり、印章には「天龍王瑾印」の白文朱方印と右下遊印に「三国一家」の朱文白方印が押印されています。

天龍道人は92歳、文政6年(1809年)脚疾を患っており、文政7年(1810年)の8月21日に亡くなっていますので、没年近い時期の貴重な作品になります。

なお晩年には自ら三国一家(三国一:日本・唐土・天竺の中で第一であること。世界中で一番であること)と呼称しており、「三国一家」の印章が晩年の作品には押印されております。さらも天龍道人には珍しい絹本に描かれており、その点でも貴重であり、もちろん出来も良く、晩年の佳作と言えると思います。

月下葡萄に鷹図 天龍道人筆 その36
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1695*横450 画サイズ:縦1020*横330



*手前には古備前の壺を置いてみました。

佐賀県立博物館の所蔵されている「葡萄図」には「鵞湖折脚仙九十一歳天龍道人王瑾」の署名があり、最晩年の91歳の作品と判明している作品です。

この作品「葡萄図」の賛文を読み下すと、「かつて葡萄を描くもの、果を描き、花を描かず。われはこれ新様を写し、千載一家をなす。」と記されています。

賛文をふまえて、この作品の葡萄をみると、点描風に描かれているのは果実ではなく、花であり、花が咲いた状態の葡萄を描いた珍しい作品といえます。葡萄を描く場合、実をつけた状態で描かれるのが一般的ですが、天龍道人は花の状態を描いており、そのことを賛で、これまでにない新しい葡萄画を描き「一家をなす」、と自負しているようです。本作品はこの作品「葡萄図」よりさらに2年後の作で、葡萄と月、鷹を描いた非常に貴重な作品といえるでしょう。

*月や葡萄にはさすがに筆遣いに壮年期のような「きれ」はありませんが、鷹の部分には創生期のような力強さがあります。

 

また鷹の絵については文献では「70歳頃の作品が綿密に描かれ、90歳頃になると平坦な描き方になっている。」と評されていますが、本作品を観る限りその評はあてはまらないようです。最晩年のもっとも枯淡の現れた作品でありますが、非常に鷹を綿密に描いた作品であると思っていいます



根津美術館発刊「天龍道人 百五十年記念展」の解説には「葡萄図は八十代、九十代に於いて独自の境に入り完成した。」とあります。



さらに93歳の葡萄図の賛に「天下無人知我者 総道只葡桃先生 看画不敢論工拙 東西各自伝虚声 我幸好以有此癖 風流一世得遯名 鵞湖折脚仙九十三歳天龍道人王瑾併題書」とあり、ほぼ上記の記述の同様の心意気がうかがえます。

老境に入ってますます旺盛にして、本作品は一代の傑作であり、初期の五十代、六十代の作とは別人の観があります。壮年期の作品を凌ぐものであることは、磨き上げた芸術の偉大な力と言えるかもしれません。



ところで天龍道人の鷹の作品は鷹の腹部の文様が縦のものと横のものがあります。若い鷹は縦の縞文様となり、成鳥になると羽が生え変わり横の縞文様となることから、天龍道人は鷹の若鳥と成長した鷹を描き分けていたと思われます。



ちなみに本作品は「横の縞文様」であることから、鷹の成鳥を描いた作品です。



もはや93歳・・・、繰り返しになりますが、その年齢でこのような作品を描いたことには驚きを感じえません。



月の光の輝く鷹の羽・・・・、月の円をきれいに描く筆遣いはもやは無理でも、それがかえって枯淡の作となり、若々しい鷹の描き方との対比が面白い作行となっています。



晩年、自ら「三国一家」と呼称し、「三国一家」の印を本作品中に押印しています。天龍道人の作品はそのほとんどが紙本の作品ですが、本作品は珍しく絹本に描かれています。鷹と葡萄と月が一緒に描かれた作品もまた非常に貴重です。

 

さて、穴があいてちょっと痛んだ表具・・・、このままか、締め直しかするか改装か・・・、迷うところですが基本的にはこのままを良しとすべきでしょう

リメイク 古備前壷 その1 

$
0
0
古くから家に転がっている備前と思われる壺がいくつかありますが、本ブログにて紹介している作品ですが、改めて再度整理していますので投稿いたします。

古備前壷 その1 
口径115*胴径240*底径160*高さ315



最近投稿した古信楽でも記述していましたので、古備前についての窯印についても調べてみました。

********************************************

備前焼は戦国の戦乱を逃れるため3つの大窯、共同窯を作って焼いた。そのため自分の作品が区別できるように窯印を入れたと言われています。それは室町中期以降ということで、それ以前に作られた作品には窯印はありませんし、窯印がないから近代の作品とも限らないようです。

備前の陶印はその大部分が共同窯に於いてその所属を明らかにするための窯印であって、その窯印には家号を用いています。

丹波では共同窯の場合には各窯の部屋のよって区別しているため窯印の必要がなく、主として作者名が彫ってあるそうです。

備前焼に、彫られた窯印が見られる様になったのは、一般的には、室町時代中期以降であると言われています。即ち、大窯を共同で焚くようになって、各自の製品がわかる様に手印を入れたのが始まりであろうと思われます。

窯印も後代になっては、その様な目的だけではなく、自己の製品の優秀性を表示する商標の如きものに変わってきたようです。窯印の書かれた場所、大きさなども多様で、室町時代後期のものは大きく、肩、胴部に彫っているが、時代が下がってくるに従って小さく、底部に彫られるようになり、押印も桃山時代から見られるようになって、江戸中期以降は押印の方が彫印より多くなります。特殊なものに古備前大瓶の肩に彫られた窯印があります。

********************************************

また、古信楽によくみられる「下駄印」については「なんでも鑑定団」の出品作の評に下記の記述があります。



********************************************

600年くらい前に作られた古備前(室町時代初期)には玉縁が多いが、この時代の玉縁が最も力がある。そして肩が張っている。これより古い物はもっとすんなりしている。高台を返すと二本の線がある。古備前で下駄印があるのは極めて珍しい。胴と底を別に作っているので、それをはめ込んだ跡が高台に残っている。この手の物は室町初期~中期の古い手。



*口縁の外側を丸くする作りを玉縁(たまぶち)と言います。

********************************************

古備前には「下駄印」は珍しいようで、作品例を調べてもあまり「下駄印」のある作例は見当たりませんので、窯印や下駄印の有無が古信楽と同様に真贋の決め手にはならないようです。



備前の壺、というよりも壺自体に当方ではあまり見識がありませんので、本作品がいつの時代の作かはよくわかりませんが、すっきりしている形、ほんのりとある中央の緋色が気に入っています。



若い頃は壺などは爺くさいと思っていましたが、今になってようやくその魅力がほんの少し解ってきたように思います。



陶磁器は伊万里などの陶磁器から興味を持つ人が多いと思いますが、日本人の行きつくところは備前、信楽といった陶器であろうと先人が述べたということに納得する次第です。

まだ箱を誂えていない手元近くにある作品を庭に据えて写真を撮ってみました。

下記の写真の壺は普段は庭に放置してある作品ですが、もともと展示室を改装する際に荷物をした際に屋根裏から出てきた作品のひとつです。瀬戸焼?



伝古伊賀焼 煎餅壺
合箱入
口径113*胴径*底径*高さ285



古信楽壺花入 その2
杉古箱入
口径104*胴径215*底径*高さ268



そして本日紹介した作品です。



これらの壺類は外に置くとよく映えます。

山水図 富田渓仙筆

$
0
0
本日紹介する作品はずいぶんと前に入手した作品ですが、なんとなく気に入っており、男の隠れ家の寝室の脇床に飾っていた作品です。

仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた富田渓仙の南画風の作品の紹介です。

山水図 富田渓仙筆
紙本水墨軸装 軸先 合箱入
画サイズ:横273*縦1145

 

共箱ではないのですが、当方の判断では真作と断定しています。このような作風は富田渓仙でないと描けないものとの判断からです。

紙本にさらりと描いた漁村の風景。人物画に遠近感の違和感を感じながらそれでいてしっかりした筆遣い。漫画チックでいながら現代南画になっている力量は評価すべきものと思います。

 

郷里の寝室で蛙の鳴き声や虫の音、蝉のなく声を聴きながら本を読み、目を床に移すとこの作品がありました。



印章もまたしっかりとしており、真作と一致しています。



墨の表現は代々の南画家が描いている墨使いに劣るもではなく、きちんと受け継いでいます。



このような作品の良さは今後も評価されいくのかは小生にはわかりませんが、少なくても今の時代では評価は高くありません。



南画の精髄を極め、自在の境地に達した富田渓仙の自由闊達な画風は、自然の姿をありのままに描写するのではなく、その外観の形状を変化させたり、大胆に省略したりした自由奔放な表現が数多く用いられており、今後今一度再評価してみてよいと思う画家の一人です。

戸を開け放ち、虫の声や蛙のなく声を愉しみながら本を読み夜を過ごす。そして本を読むのに疲れた合間にふと見ると掛け軸を観る。そんな時間を大切にしたい都会の生活です。

古武雄焼 その4 緑褐打釉櫛目文大平鉢

$
0
0
最近の「なんでも鑑定団」に出品された「古武雄」の作品。虎が描かれた図柄が珍しいこともあり、120万という高値の鑑定でした。



なんでも鑑定団に評では「名品。古武雄は佐賀県の武雄で江戸時代に焼かれたもの。表に白い土で化粧してその上に絵を描くのが特徴のひとつ。松の木をシンプルでダイナミックな筆で描いたものが数多くある。依頼品に描かれている虎というのは珍しい。鉢の縁がぎゅっと鍔縁に広げられて丁寧な作り。」とあります。それでも120万の鑑定金額は高すぎますね。

桃山期(16世紀末~17世紀初頭)に九州の肥前地方(現在の佐賀県西部及び長崎県北部)を中心に焼かれた「古唐津」は、長く日本において愛されてきました。鉄絵、朝鮮唐津など基本的にはモノトーンで表されるのびやかな装飾は、いまでも多くの人を惹きつけてやみませんが、江戸時代前期(17世紀前半)から19世紀にかけて唐津と近接する武雄地域で「古武雄」というやきものが誕生しています。「弓野焼」、「二川焼」、「二彩唐津」、「武雄唐津」を総称して「古武雄(コダケオ)」と称していますが、本ブログでの「古武雄(コダケオ)」に分類される作品紹介は四作品目となります。

古武雄焼 その4 緑褐打釉櫛目文大平鉢
古杉合箱
口径365*高台径*高さ105

「俺は生活雑器たぞ! 早々簡単には毀れないぞ!」という裏側の高台には力強さがあります。入社後にすぐ辞めてしまうような最近の若者にはない力強さのある作行です



江戸時代前期に作られた古武雄の水甕などは、かつては民藝陶器の分野に入れられていたものですが、当地の陶芸家で人間国宝の中島宏氏(本ブログにて青磁の作品を紹介しています、)がこれを収集・研究して肥前陶磁史上に古武雄として確立しました。

最近、中島宏氏が逝去され、改めて「古武雄焼」の蒐集家、研究者として評価されています。中島氏の蒐集作品をメインに展示会も催されたこともあります。



鉄分を含んだ赤い土をろくろの上で立ち上げ、回して形を作る。そして回しながら水に溶かした白泥を刷毛目で塗っていくため、白い部分に濃淡が出て、絵が浮き上がります。鉄絵具で一気呵成に絵を描き、この力強さに甕の作品を観た棟方志功も感動して半日口をきかなかったといい、またピカソはこれこそ本物の芸術だとうなったといわれています。



現在では本ブログでも紹介した松を描いた甕の作品が有名ですが、本日は刷毛目文様の大平鉢の作品の紹介です。むろん大平鉢の作品も近年評価が高くなっています。

参考作品:九州陶磁文化館蔵の中島宏氏コレクション「緑褐彩櫛目文平鉢」 武雄市重要文化財



参考作品:緑褐釉櫛目文大平鉢 江戸時代17世紀後半、口径52・3cm、高さ16・2cm(画像が不鮮明なことはご容赦願います。)



古武雄焼の大平鉢の作品においてもっと大きな作品が多々ありますが、本日紹介する作品のようにこれほど細密な櫛目文様の古武雄焼の作品は珍しいでしょう。



その櫛目文様に緑釉と褐釉が打ち釉として施されアクセントとなっています。



近代的な幾何学文様のような斬新なデザインとなっており、「江戸のモダニズム」と古武雄焼が評されるのも頷けます。



唐津、弓野、小鹿田の各々の特徴を備えており、古武雄焼の中でも最も佳作な部類に入るであろう。近年では東南アジアでも出土し、輸出されていたことが分かってきています。



さらには、豪快な筆使いの魅力と現代アートにも通じる斬新な文様にますます注目が集まり、従前の古唐津と並べて「知られざる唐津」・「江戸のモダニズム」などと称され、高い評価を得るようになっています。

この刷毛目を使った技法はどのような技によるものか実際の工程を観てみたいものです。



なおバーナードリーチは小鹿田にて数多くの作品を遺したことは知られていますが、古武雄でも代表的な様式である弓野にそっくりな大皿を製作しており、リーチがその手の作品を遺しています。1934年にリーチが来日した翌年リーチがその手の作品を遺しています。



ただバーナードリーチが製作したのは、武雄でも弓野でもなく、福岡の二川でした。西南戦争のときに武雄の陶工たちが二川に移住して、そのままそこに住み着いてしまっており、リーチはその二川を訪ねて弓野のような作品を製作しました。そのせいで武雄より二川のほうが有名になってしまいましたが、武雄焼は日陰の存在たるところがあり、茶陶の歴史からみると古唐津の陰に、民藝の観点からみるとリーチや二川の陰に、という具合の傾向があり、なかなか表舞台には登場しなかった陶磁器群でした。

*なおバーナードリーチは、1954年(昭和29年)4月、小鹿田に約3週間滞在し、作陶を行っている。当時67歳と既に陶芸家として大きな名声を得ていたバーナードリーチの小鹿田での作陶と、大手デパートでの展示会は、マスコミで大きく取り上げられ、小鹿田の知名度が高まる大きな契機となった。

小鹿田焼のおいてのバーナードリーチの参考作品(左は当方の本ブログにて紹介した作品です。右はあまりにも有名な作品ですね。) 

 

武雄焼、弓野焼が再評価されているとはいえ、松の絵ばかりではという御仁の多いでしょうが、このような大平鉢もあります。



松の絵の甕はたしかにいい作品ですが、なんといっても数が多いので飽きがきます。



多用なデザインの作品がある大平鉢はとても面白い作品のように思います。



機会があれが入手したい作品ですが、意外に高価なのが難点ですね。

最後の古武雄焼に分類されている作品で本ブログに投稿されている作品を改めて紹介します。

松絵紋二彩唐津水指 古弓野焼(古武雄)
漆蓋 合箱
口径96*胴径175*底径*高さ145



松絵紋二彩唐津水甕 古弓野焼
合箱
口径320*胴径355*高台径130*高さ295



同上片面



松絵紋二彩唐津大徳利 古武雄焼(二川焼)
「小さな蕾」(2001年4月号 「骨董と偲ぶ」)掲載作品 合箱
口径*胴径135*高台径*高さ240



本日紹介している作品は人によっては小鹿田焼と思われる方もおられるかもしれませんが、古武雄焼に相違ありません。



見事な技法に基づいた力強さは民芸の転々とも言える作品です。



古武雄焼はもっともっと評価されて良いのでしょう。



最近亡くなられた世に武雄焼を知らしめた人間国宝の陶芸家中島宏氏の遺志を継ぐ人々がおられることを祈るばかりです。

倣李朝 白磁提灯壷

$
0
0
根強いファンをもつ李朝の陶磁器ですが、いい作品はお値段も高いようです。一時期、かなり人気があったこともあり、李朝についての書物も多いと聞いています。李朝を集めだすと李朝だけで大概の方は資金を使い果たすことになりかねないと思われます。小生としてもそうそう簡単にサラリーマンの身では手を出せないので、近代の作品や小品を入手して少しづつ知識を吸収して勉強しているというレベルです。

本日の作品は人気のある「白磁提灯壺」とありますが、李朝の作品には詳しくないので「倣」李朝としての作品の紹介ですのでご了解ください。

倣李朝 白磁提灯壷
合箱入
口径*胴径250*底径*高さ325



本作品は時代の新しい(李朝末期から近代にかけて?)提灯壺と推定しています。(詳しくありませんのでご了解願います。)



「李朝 白磁提灯壺」は提灯に似た形からこう呼ばれたらしいと記述があります。日本?では満月壷とも呼ばれ。色は真っ白というより、少々黄味や青味を帯びている作品が多いようですが、白磁に分類されています。



李朝は白磁がメインでありますが、提灯壺に限らず李朝の頃の作品は度重なる戦火により、そのほとんどが割れてしまい現存する物は極めて少ないとも言われています。思いのほか数は多いですが、厳選された景色や形の良いものは少ないとも言われています。



日本人の骨董ファンは「信楽と李朝で死ねる」と言われているほどファンが多いと言われています、小生はそれに備前を加えるべきだろうと思っていますが、現在も人気の高い分、李朝の作品は小生にとっては高嶺の花です。



「李朝 白磁提灯壺」の特徴としては、口縁は外側に立っており、高台には砂の跡があるのが多く、周囲に比して高台に中は深いということがあります。さらに胴の中央に接合した跡として上下を合わせた継ぎ目が内側に見えることのある作品もあり、釉薬は色ムラがある作品が多く、とくに粉引のような作品の肌合いの作品が高い評価を受けているとのこと。

本作品においては接合した跡は明確ではなく、釉薬に色ムラは目立ってはありません。



なお李朝の後期になると胎土や釉薬を精選しないことにより、肌はやや青みを帯びるようになり、わずかなひずみや歪みなどは全く気にしなくなってしまったそうです。



李朝の陶磁器の概念は下記の記事によります。

*************************************

李朝:1392年に李成桂が樹立した朝鮮王朝は、儒教を統治理念とし、その後500年の長きに渡り栄華を誇った。この朝鮮王朝で最も好まれた焼物が白磁である。その理由は白磁特有の気品溢れる白が、清廉潔白・質素倹約を旨とする儒教思想に相通じるからであった。

当初、主に作られたのは、国王が用いるための器でいわゆる御器であった。そのため胎土は、民間では使えぬよう厳しく管理された。まだ中国での白磁の影響を色濃く受けており、胎土の精選・形の端整さ・釉薬の美しさ・仕上げの丁寧さなど全てにおいて最高のものを目指そうとした製作態度が伺える。

しかし17世紀の中頃に儒教が一般に広く普及し、その儀式に用いられる祭器が数多く作られるようになると、それに従い美的基準も変化した。胎土や釉薬を精選しないことにより、肌はやや青みを帯びるようになり、わずかなひずみや歪みなどは全く気にしなくなってしまう。

施釉にムラがあってもそのままで、これはおそらく上辺を取り繕うことを嫌う儒教の潔癖性が影響しているからであろう。しかしこの不完全さこそがなによりの魅力で、今なお多くの日本人が朝鮮白磁を好むのもこの理由による。

*************************************

李朝の時代のよって提灯壺に特徴があるのであろうか? ちょっとなんでも鑑定団の情報局の作品の記事から抜粋してみました。下記の分類が正しいかどうかは小生には分かりませんが、本物というものは下記のような作品のようです。

************************************

李朝中期の提灯壺:16世紀後半から17世紀にかけて作られた朝鮮王朝時代中期の白磁壺の特徴に口造りがある。内側に斜めに削られてくの字形に折れている。外からみると壺の大きさに比べて口造りが低い。

*李朝中期の作品は非常に評価が高く、時代の下がった作品に比して価格が桁が違うとと聞いたことがあります。



李朝後期の提灯壺:18世紀から19世紀にかけての朝鮮王朝時代後期に、広州官窯のいずれかで焼成されています。



李朝末期以降の提灯壺(なんでも鑑定団記事以外):口縁は大きく、丸みが少ない細長い造形。数万円程度での入手が可能のようです。



*************************************

本作品は口縁の立ち上げが少し大きめになっています。



本作品は李朝の堅手のような釉調であり、趣に堅い感じがしており、見どころがあるとすれば一筋の釉薬の淡い流れたところかもしれません。



定窯の涙痕のような面白みがあると感じるのは贔屓目でしょうか? いずれにしてもまだ「李朝と信楽で死ねる」という骨董の格言のような域には達していない当方の所蔵作品のひとつです。

最後にあくまでも「倣」李朝の作品としてご理解下さい。「李朝で死ぬ。」には小生はまだこの世に未練があるようです。

少女 伊勢正義画 その6

$
0
0
本日は最近蒐集対象としている同郷の洋画家「伊勢正義」の作品の紹介です。この作品で「その6」となりました。

少女 伊勢正義画 その6
油彩額装 左下サイン
画サイズP8号:横330*縦460 全体サイズ:縦710*横580
1959年(52歳)の作?



左下のサインに年号らしきものが記されていますが判読不能です。



伊勢正義は近年再度注目されている日本の洋画家の一人と言えるでしょう。小磯良平を彷彿とさせるような品格のある女性像を描いています。まだまだ出展されている作品は少なく、下記の作品が美術館などで展示されていました。

「集ひ」1935年(秋田県立近代美術館蔵)



「漁夫たち」(大館郷土博物館)
縦約182cm、横約113cmのキャンバス2枚に描かれている。長く花岡中学校にあったが、劣化が激しく2012年修復された。現在は冬場を除き博物館で展示されている。



「赤い上衣の女」左の作品 (「洋画家たちの青春」における第Ⅱ章 「激動の時代(大正~称せ初期)」 東京ステーションギャラリーで展示)



郷里でも忘れ去られた画家といってもよい伊勢正義、現代では油絵というものがだんだん受け入れられにくくなっている趨勢の状況ですが、品格のある女性を描く伊勢正義を今一度見直してみても良いと小生は感じています。性懲りもなくこれからも「伊勢正義」の作品を蒐集していくでしょう。



最近は掛け軸に限らず、油絵の人気も低迷しているようです。というか掛け軸や油絵が身近でなくなり、観方が解らなくなったと言えるのでしょう。



奥の深い意味での「いいものはいい、悪いもは悪い。」という判断ができない現代人の傾向の表れか・・?? 

小生のように掛け軸、陶磁器、漆器、刀剣、洋画とジャンルを広げすぎているのも珍しいのかもしれませんが・・。先日展示室を訪れた学芸員で教授の方にこの作品の前で「油絵もですか?」と言われていしまいました

揃いの器たち その3

$
0
0
家内が最近買ってきた本のひとつに「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」という題の本がありました。面白そうなので机の脇に置いて興味のある章からときおり暇を見て読んでいますが、その中で面白かった項目に「エリートを犯罪から守るための「美意識」」という項目あります。

エリートは犯罪からほど遠いと考えがちですが、達成動機が強いエリートほどたとえば「粉飾決算」などの犯罪を犯すことが多いのだそうです。組織の大きな会社には「その会社の常識は他の会社(世間)では非常識」という状況が生まれやすいということも説明されています。これには思い当たることが多々ありますね。最近の話題のアメフトの問題もこのことに相当するのでしょう。

エリートほど労働力の流動性を上げていろんな立場でものごとを考える状況を経験して、「狭い世間の掟」の是非も見抜けるだけの異文化の経験が必要があるということ、そして美意識、自分のスタイル、エスプリを持つことで「自分を絶対化できる知性」を持つことだろうと本では述べています。小生が述べている美の品格というものがこれに相当するかもしれません。自分の行動に品格を持つために「美意識」を鍛えることが効果のひとつとうことには大いに共感します。立場が下の人間に嫌がることを強要することが罷り通る現代、エリートと言われる人間ほど襟を正さなくてはなりませんね。

さて本日紹介する作品は以前に紹介した「揃いの器たち」の「その3」となります。「10人揃の12代柿右衛門」、「30人揃いの平戸嘉祥の染付の器」に続く代々、小生の家にある揃いの陶磁器や器の紹介の続編です。

ちなみに「12代の柿右衛門」は下記の作品です。



そして「30人揃いの平戸嘉祥の染付」の器は下記の作品となります。



揃いではありませんが、「平戸嘉祥の染付」揃いの購入前の見本品は下記の作品です。これらの漆器をこのように並べてみるために漆器の「銀吹」の膳を修繕したといっても過言でもありません。



そういえば「12代柿右衛門」の揃いの見本品もあったように思います。揃いの器を売り込む際に見本品を見せるために一式の器を届けていたようです。

本日は冒頭の写真の作品群の紹介です。まずは酒器からです。派手さはありませんが品がある酒器だと思います。



次は漆器の器です。



どこにでもあるような朱塗の漆器ですが、木部の厚み、漆の塗厚が厚く重厚感があります。どこにでもありそうな漆器ですが、木部の厚みのある、漆の塗厚のある丁寧な作りの漆器は意外に少ないものです。

古き漆器は大事にしておいたほうがいいでしょう。日本製の漆を用いた漆器はどんどんなくなっていますから・・。

漆器を購入する際は、日本製の漆を使った木地や漆の厚みのある風格の良い作品に絞ったほうがいいのです。ただこればかりは実際に手に持ってみないと解りませんので写真ではうまく説明できません。



本作品は「胴紐文蓋付朱汁椀」とでも題するのでしょうか? 他の作品は30人揃いですが、この作品は20人揃しかありません。



次は蓋付の小さめの磁器の碗です。



こちらはやはり平戸の作品かもしれませんが、作者の詳細は不詳です。

 

こちらは「のし形 小皿」です。



12代の柿右衛門の工房作品?

 

こちらは「蓋付碗」です。



同じくこちらも12代の柿右衛門の工房作品? この手の作品は以前に骨董市で一客千円くらい?で売っていましたが、今はどうでしょうか? 大きめの碗で30人揃いで箱付きであることが貴重かもしれません。

 

こちらは色鮮やかな「台付碗」。



台?を当方で箱から取り出さずに撮影し忘れたかもしれません。

 

「12代の柿右衛門」の10客揃い(「揃いの器たち その1」 本日のブログにおける冒頭での2枚目の写真)の箱書きは下記のとおりです。

 

こちらはもしかした本人の作かもしれませんね。こちらの作品は祖父母が手配していますのでグレードが高い作品のようです。酒井田柿右衛門の作品は本人作と工房作品があって、値段が桁が違うと聞いたことがあります。揃いの器ですからどちらも工房作品かもしれません。この頃から柿右衛門の作品は商売上手に変貌していったのかもしれません。

揃いの器は代々続く古い庄屋の家の蔵に残されている作品が多く、見せて頂く機会も数多くあるのですが、大概は所蔵者の先代らが別家や近所に貸し出している器が多く、また保管が悪くシミやカビで侵されたり、ネズミなどの被害あっている作品がほとんどです。揃いできちんと遺っている作品は非常に少ないというより皆無に近いです。さらに揃いで遺っていてもいくつかはすでに手放されているのが現状です。

小生は少なくても現在、手元にある作品は残していく所存です。代々残存している作品、友人や知人から譲り受けた作品などまだ未整理の器がまだ半数以上ありますので、いつまでかかるか、果たして最後まで出来るかが不安ですが・・・ともかく体力と根気の勝負です

中野山浅絳山水図 その3 蓑虫山人筆 その15

$
0
0
家内が小生に読んでみたらと購入してきた文庫本、「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」を読んでみての所感を下記に記します。

******************************************

江戸時代の武芸家である松浦(まつら)静山の剣術書「剣談」に「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」という言葉を残しています。野村監督がよく使っていた言葉だそうですが、本来の出典は前述のようです。

負けた時や失敗した時には論理的な過ちが必ずあるが、勝った時には論理的な説明が難しいという意味をもっているようです。論理的な過ちは失敗に直結するという教えのほかに、重要なのは成功する時には論理を超えた「感性」と「直観」があるという意味を持っています。むろん論理に基づいた「感性」であり、「直観」でなくてはなりません。

松浦静山は武芸家として大成した人物ですが、大名としても政治手腕を振るい、財政難に陥っていた藩を「V字回復」させています。いろんな分野で成功も失敗もしている人物の言葉としてとらえることができます。

論理に偏りがちな現代ですが、経営に大切なのは論理と並行して「感性」と「直観」を磨くことが不可欠ということのようです。そのためには強固な美学が大切ということのようです。将来の世界を、日本を、社会を、会社を、自分をどういうものにしていきたいのかという確固たる美学を経営者は持つことが今後は必要であるということのようです。将来の世界を、日本を、社会を、会社を、自分をどういうものにしていきたいのかに答えられる経営者は少ないのかもしれません。「美学」・・・魅力的な言葉です。

*その美学に欠如しているからアメフトの問題のようなことも起きるし、品質問題、粉飾決算という経営の根幹に関わる諸問題が発生しているとのこと。

******************************************

本日は独特の美意識、美学というか美的感覚をもった人物「蓑虫山人」の作品を紹介します。

蓑虫山人は1877年(明治10年 42歳)~1896年(明治29年 61歳)まで東北を遍歴しています。入手経緯や風景、他の作品から推察すると青森県黒石市周辺にある黒森山と中野もみじ山を描いた作品ではないか推定しています。

中野山浅絳山水図 その3 蓑虫山人筆 その15
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横410*縦1300



蓑虫山人は、青森県をはじめとする北奥羽各地へ長期にわたって逗留する傍ら、名勝や文化財あるいは寄留先の様子などを詳細に記録しています。近代の北奥羽地方の雰囲気を如実に伝えるそれらの作品群は、民俗学研究の一級資料として評価されており、その関連性から蓑虫山人の絵画は絵画的な価値よりも民俗学的な資料として評価されている面があります。



しかし、蓑虫山人の絵画は絵画としても認めるべき点が多々あります。放浪に際して即興的に描く作品は南画としても観ても魅力あふれる作品です。



みずみずしい筆遣いは人を愉しくさせてくれるものがあります。



デフォルメされたような山々や木々の描き方は独特の趣があり、まるで浦上玉堂の作品のようでもあります。前にも本ブログで紹介したようにNHKの日曜美術館で絶賛されており、NHKの大河ドラマの「西郷どん」にて西郷隆盛が入水自殺を図っていましたが、西郷隆盛を救出したのは蓑虫山人という逸話もある人物ですので、近いうちにまた再評価される画家でしょう。



出所が同じところから「まくり」の状態での作品が数多く出回っている点から、本作品は屏風に描かれた作品ではかなかったのではないかと推察しています。

「1884年 明治17年 49歳 枝川(現田舎館村)の工藤家に滞在。秋、大鰐の加賀助旅館滞留、中野(現黒石市)中野神社に遊ぶ。」という記録がありますので、その頃の作品そ当方では推定しています。



現在では数万円程度で取引されていますが、一時期は人気が高かったようで、郷里にも作品を探しに東京から骨董商が買い付けに来たとも聞いています。本作品の入手の際も7万円以上の費用がかかりました。これは蓑虫山人としては現段階では高いほうのお値段になります。



今では「忘れ去られた画家」と言っても過言ではありませんが、小生が長く蒐集を対象としている画家の一人です。



蓑虫山人には贋作も多々あるので、印章の印影はきちんと確認しておく必要があります。白文朱方印の「蓑虫」については当方では印影を確認していますが、本作品の左下の遊印「松聲?」の朱文白楕円印の由縁については詳細は不明ですし、いままで見たことのない印影です。

 

本ブログのような当方の所蔵する拙い作品ばかりでは蓑虫山人の良さが伝わらないようですので、他の参考作品をご覧ください。



画像は不鮮明ですが、このような本格的な山水画の作品もあります。



遺跡の調査、発掘にも積極的に加わっており、土器類の記録画もたくさんあります。



実にユーモラスでユニークな作品を描く画家です。



さ~、皆さんも蓑虫山人を調べてみませんか?

放浪の旅では常に縄文の遮光土器を持ち歩いていたという記録があるそうですが、縄文の遮光土器を持ち歩く経営者は会ったことがありませんね。



伝古伊賀焼 煎餅壺

$
0
0
信楽と伊賀の壺は見分けの検証が難しいとのことです。この陶器群に入り込み始めると出口がみえなくなりそうですが、本日はほんの少しチャレンジしてみました。 

伝古伊賀焼 煎餅壺
合箱入
口径113*胴径*底径*高さ285



「煎餅壺」という壷の名の由来については定かではありませんが、下記の諸説があるそうです。

1.土肌がぷくぷくっと焼けて膨らんだような感じが煎餅が焼けたところのように見えるという説
(形については、元来は茶葉を入れる器だったが、茶葉を入れて蔵に置いたとき、ネズミが後ろ脚をかけられない、いわゆる“鼠返し”の形となっている。)

2.銭壺(せんつぼ)からだんだんと音読みから煎餅壺に変わっていったという説。銭を入れる器に使われたという説。

3.本当の煎餅を入れたという説

どうも1の「土肌がぷくぷくっと焼けて膨らんだような感じが煎餅が焼けたところのように見えるという説」が正当のように思いますが、「銭壺」の説も捨てすてきれまえんね。

土を菊練して土の空気を十分抜いてから轆轤に置くのですが、その空気抜きが十分でないために伊賀焼には膨れが多いのが特徴です。1の説はそのことを揶揄しての呼称のように思います。



信楽か伊賀焼か?:信楽焼と伊賀焼の違いを下記に記述してみました。

信楽(甲賀)と伊賀は山をはさんで隣どうし、使用する陶土は同じ系統の山地の物を使用しています。すぐ近くの窯で同じ土で焼成されますが、作品の風合いは違うと評されています。もちろん同じ系統の陶土ですから似ている部分は多くあり、現実には古信楽と古伊賀の区別は至難の業と言われる由縁です。

「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」という言葉が昔からあります。形の上で伝統的にはこの部分が大きく違います。また伊賀焼は基本的に無釉で、自然発生した釉薬、ビードロという緑色の釉薬が掛かったり、灰かぶりという、まきの灰がかかり黒っぽい釉薬となって自然発生します。まきの灰がかかり黒っぽい釉薬となって自然発生していることが伊賀焼のポイントですが、これらも絶対的な区別ではありません。

伊賀焼は全体には素朴で、無骨な感じがし、それが伊賀焼のよさだと評価されています。伊賀焼は主に日常雑器が中心で、雪平鍋、土瓶、土鍋などが生産されています。特に土鍋は伊賀焼が全国でもメインになっています。信楽焼は施釉、無釉どちらもありますが特に無釉で信楽独特の白いぶつぶつした肌合いの壺などの器があります。これは粘土に長石や石英などが多量に含まれており、これが焼成時に器の表面に吹き出しているからです。これは陶土を水で漉して細かいものだけを残す、という処理を行なわないためです。

信楽焼は食器などの生活雑器から茶の湯の器、大きいものは火鉢まで作ります。本当に小さいものから大きいものまで製作し、陶器風呂、畳1枚ぐらいの陶板などあらゆるものができます。また色見は火色と言われるオレンジ、茶色系を伝統とし、伊賀焼と同じく自然釉がかかる全体的に粗い素朴な感じがします。また赤松が多く自生し、これを薪にしていることが信楽焼の特徴にもなっています。ただ、では信楽焼がすべて火色を呈しているかというとそうでもないのでこのポイントも決め手として絶対ではなく判断として難しいようです。



参考作品を下記に記述します。

********************************

参考作品:なんでも鑑定団出品作
古信楽焼 煎餅壺(江戸期)
2016年2月23日放送 評価金額35万



評:伊賀焼での出品でしたが、伊賀焼ではなく江戸時代の信楽焼きの壺。主だった粘土は信楽も伊賀も同じものを使っている。そのため焼き上がりの肌だけでそれを見極めるのは難しい。強いて言うなら土肌にちょっとぷつぷつと白い粒が吹き出しているのが信楽の大きな特徴。なぜ煎餅壺と呼ぶかは理由がはっきりしていないが、ちょっと土肌がぷくぷくっと焼けて膨らんだような感じが煎餅が焼けたところのように見えるという説や、銭壺(せんつぼ)からだんだんと煎餅壺に変わっていったという説などがある。依頼品は大変景色のよい壺。

参考作品:なんでも鑑定団出品作
古伊賀焼 煎餅壺(江戸初期)
2013年10月1日放送 評価金額65万



評:桃山時代から江戸時代初期にかけて作られた古伊賀の煎餅壺。室町時代のものはもう少し大きい。口が円筒形に立ちあがり玉縁に作られており、平らな肩衝きになっている。口のところに緑色の自然釉が垂れ、全体に長石などの粒が浮き、焦げがあるなどなかなか見立てが良い。やや胴をへこませたりして景色を作っている。高台は、ろくろから起こすときに竹べらや藤の蔓で外す跡がついており、時代を感じさせる。

参考作品:なんでも鑑定団出品作
古伊賀焼 煎餅壺(江戸初期)
2011年12月20日放送 評価金額350万



間違いなく約400年前に作られた古伊賀の煎餅壺。伊賀の土は鉄分が少なく、耐火度が非常に高いので硬く焼ける。灰のかからない所は土味が緋色になって赤く出る。また粘土の中に含まれる長石が浮き上がって白い点になり、珪石は石はぜになる。この形の物を誰ともなく煎餅壺と呼ぶようになったが、実際の用途は茶葉を入れた壺。依頼品は形が良い。この形は茶葉を入れて蔵に置いたとき、ネズミが後ろ脚をかけられない、いわゆる“鼠返し”の形。その形の良さを茶人たちが見出して、床の間の花生けに用いた。

********************************

本作品の本作品は大きめの作品ですが、口縁は玉縁になり切れていないようです。これは初期のものの特徴なのかどうかは不明です。



伊賀焼についてはもう少し詳しい記述があります。

********************************

伊賀焼:鎌倉時代初期に伊賀地方で生まれた。 当初は主に無釉焼締めの日用雑器を作る窯にすぎなかったが、室町時代後期に千利休の侘び茶が大成されると伊賀焼の作為のない風情に注目が集まり、盛んに茶会で用いられるようになる。

天正13年(1586年)筒井定次が領主になると隆盛した。定次は千利休の高弟古田織部に茶の湯を学んだ数寄茶と知られ、織部指導の下素朴で豪快な茶器を数多く焼かせた。この作風はその後藤堂高虎・高次親子を経て高虎の娘婿小堀遠州に引き継がれた。これらを古伊賀という。

伊賀焼は別名七度焼といわれるがこれは土を高温で何度も焼成するからである。 その際わずかに鉄分を含んだ土が燃えるような赤褐色に変化する。また窯の中で降りかかった灰は萌葱色や青緑のビードロ釉となって流れだし煌くような美しい景色を作り出す。 形は歪みや膨らみが強調されており、ありきたりな調和は求めない。へら目は奔放でどれ一つとして同じものは無い。

水指や花生けは耳を持つものが多く、俗に「伊賀に耳あり信楽に耳なし」といわれている。 またひび割れや欠けは本来なら欠点だが、造形性の強い伊賀焼では再現性のない破格の美として高く評価されている。

これらの古伊賀は、その後この地で起きた大飢饉の影響を受けわずか20年あまりで姿を消してしまう。幻の焼物といわれる所以である。

*上記のように、桃山時代が終焉をむかえると伊賀焼も焼かれなくなりましたが、その後、18世紀中頃の江戸時代に藤堂藩の支援もあって、日常雑器の碗や皿、鍋、など日常雑器を中心に丸柱で再び焼かれ始め、弥助、定八といった陶工が活躍し現在の伊賀焼の基礎ができました。今は、土鍋や食器を中心に茶陶も焼かれ、古伊賀に劣らない新しい伊賀焼を目指し作陶に励む陶芸家の姿も見られるようです。

********************************

本作品は意図的な箆使いは少なく、かえって自然でいい趣だと思います。



底は高くなっておらず、べた底のようになっています。



本作品は当方では伊賀焼か信楽かもとも判別がつかず、時代が不明な作品ですが、いつかは解ってくるものと思っています。まずは初歩的な知識をまとめてみました

骨董はいつでもチャレンジですね。

少女像 伊勢正義画 その7

$
0
0
先週末から帰郷しています。帰京の予定は未定です。よって突然の休稿もありますのでご了解願います。

本日は「その7」に引き続き、同郷の画家である伊勢正義の作品の「その7」の紹介です。知名度の少ない画家ですので、数万円でインターネットオークションで入手できる画家です。

インターネットオークションには贋作が多いために敬遠される方が多いようですが、ただここは情報過多なくらい多くの作品が見られる場です。著名画家などの作品はリスクが大きいのですが、知名度が低く贋作が少ない分野、かつ真贋の見極めのある程度の知識があると骨董の宝庫となります。当方では源内焼、秋田の画家、天龍道人らの作品を数多くこの場で買い求めました。骨董市では比較にならないくらい筋の良いものが出品されています。

極度に贋作を嫌う潔癖症の方は相応のお金を払って筋の良い作品を入手すればいいと思いますが、それはそれで入手過程での知識が身につきにくい点と資金が多大に必要という課題があります。いずれにしても一部の骨董店を除き、真作、贋作は多かれ少なかれ骨董店にも混在しており、近い将来、否すでにネットオークションが骨董蒐集の第一の場になっていくことには相違ないと思います。廉価でいい作品を愉しむには出品者も入札者もネットオークションときちんと向き合うことが必要なのでしょう。

*ネットオークションでは二週間程度は返品可能とすること、「即落札」のコマンドについては入札と勘違いしてのクリックミスが多発しているので、再度確認クリックなどの改善が必要でしょう。

*ネットオークションでは贋作の割合が高いのは事実です。極端に表現すると100作品に1作品くらいしかいいものはなさそうですが、現在贋作の可能性のある作品には出品者側に「模倣品」の表示が義務付けられていますが、「真作」表示にもまだ贋作が見受けられますので、入札側の鑑識眼が必要なことに変わりはありません。

さて「伊勢正義」についてはすでに本ブログにて詳細は記述していますので、他の投稿を詳細は参考にしてください。

少女像 伊勢正義画 その7
油彩額装 左下サイン
画サイズF8号:横380*縦455 全体サイズ:横515*縦620



サインから所蔵作品「女性像 伊勢正義 その3」と同時期に描かれた作品と推察されます。



女性像 伊勢正義画 その3
油彩額装 右下サイン 
画サイズ F6号:横315*縦410 全体サイズ:横490*縦570



同郷、同窓の画家なので、贔屓目に評価しているかもしれませんが、実に品の良い画風の肖像画を描いています。



伊勢正義は秋田美人を多く観てきたからかもしれませんが、確かに故郷の秋田にはこのような顔立の美人は多いですね。とくに秋田県の県北タイプに多い顔立ちです。



女性を描いた画家が5作品となりましたが、同じような女性像ですが観ていて飽きることがありません。



幼さの残る目線でありながら、気品の高い横顔の女性には育ちの良さなのか惹かれるなにかがあります。



伊勢正義については郷里でも知っている人は少なくなり、「忘れ去られた画家」となりつつありますが、小生は根気よく蒐集していきたいと思っています。徐々にネットオークションへの出品作品も減っています。

*ネットオークションも品不足でしょうか、一時期のような玉石混合で掘り出し物が少なくなりました。いいものはそれなりの価格がつくようになり、これもネットオークションが時間経過とともに進化したせいかもしれません。

柳橋美人図 木谷千種筆 その4

$
0
0
本日紹介します木谷千種は、12歳の時に渡米し2年間シアトルで洋画を学び、帰国後の大阪府立清水谷高等女学校在学中より深田直城に師事して花鳥画を学んでいます。1909年(明治42年)、帰郷しますが、7月の北の大火(天満焼け)により、堂島の自宅を焼失したため女学校卒業間際に東京に移住しており、1913年(大正2年)から2年ほど日本画家の池田蕉園に師事しています。

吉岡千種の名前で1912年(明治45年・大正元年)の第6回文展に出品した「花譜」で初入選しています。1915年(大正4年)に再び関西に戻り池田室町に住む叔父の吉岡重三郎のもとに寄寓しました。この叔父は小林一三を助け、宝塚少女歌劇団の創立や阪急電鉄の発展などに尽力した人物で、千種はこういったモダンな環境のもとで、本格的な絵画活動を行っていたようで、帰阪してからの千種は野田九浦と北野恒富の指導を仰いで美人画などを学んでいます。本ブログにて作品が紹介されている池田蕉園、野田九浦、北野恒富らと縁のある画家です。

柳橋美人図 木谷千種筆 その4
絹本着色軸装 軸先練 合箱
全体サイズ:縦1930*横440 画サイズ:縦1070*横270



雨の中をひとつの傘に二人で柳のる川辺にかかる橋を歩く女性の後ろ姿を描いた抒情ある作品だと思います。

 

それほどの力作ではありませんが、品格のある作風になっています。



それと絹本に雨の降る風情がよく表現されています。





印章は「柳下涼美人図 木谷千種筆 その1」と同一印章のようですが、検証が必要のようです。

 

「女四人の会」からの写真ですが、左から岡本更園、木谷千種、島成園、松本華羊だそうです。岡本更園、木谷千種、島成園らは本ブログでもお馴染みの画家です。



下記の写真は上記の写真を拡大したのもですが、大正5年撮影の写真で、美人であったようです。というか上記四人とも美人? この頃に美人画で名をはせた画家には画家本人も美人が多かったようです。



女性の後ろ姿の作品ですが、画家が美人というのも含めて得も言われぬ色気があると感じる作品となっています。大正ロマンですね~

源内焼 その114 三彩菊花紋様陽刻長皿

$
0
0
最近とみにネットオークションや骨董商の展示会でも少なくなったのが源内焼です。欠けや釉薬の剥離のある作品はいくつかあるのですが、状態の良い出来の良い作品は皆無の状態が続いています。これは当方で蒐集している「天龍道人」の作品も同じですが、市場に出回る作品がそろそろ底を尽いてきた感があります。明末赤絵の作品もたくさん出品されいたものが数少なくなっています。骨董蒐集には入手するタイミングというものがあります。いつでもという考えは禁物なものです。

本日紹介する作品がいわゆる江戸期の「源内焼」に分類されるかどうか異論のある方がおられるかと思いますが、当方では源内焼に相違ないと判断しています。

源内焼 その114 三彩菊花紋様陽刻長皿
合箱
幅235*奥行115*高さ23



すでに紹介しました「その71 三彩菊花紋様陽刻長皿」(奥側)と似た長皿です。



本日紹介する作品は右側です。



よく似ている作品ですが、型も色釉薬の配置も違っていますね。



裏側(底)はほぼ同じです。



源内焼と判断する根拠は理屈ではありません。デザインと作りの良さがポイントとしました。



江戸期の「源内焼」に似た作品はやはり品格がありません。再興された源内焼は現代になって作られたものも含めた下手物です。



デザイン、陽刻や陰刻のきれがありませんのでこの点から明確に分類されると思います。

2018年5月 保戸野窯

$
0
0
帰省した5月の連休、帰郷の際に秋田市で途中下車し、市内で二人展を催している保戸窯の平野庫太郎氏に会ってきました。秋田県立美術館の館長も務めており、お忙しいところ家族ともどもで喫茶して互いに近況報告をしてきました。

二人展では貫入が入らなくなったという練りこみのカップを購入してきました。



コーヒーカップが欲しかったのですが、残っている作品がありませんでした。



揃いである作品もなく、各々単品で3作品を購入させていただきました。



なかなかコーヒーに似合うデザインの作品です。



保戸窯の代表的な作品のひとつでしょう。



家内は平野先生が伝統工芸展に入選した作品を購入しました。



一皿だけかと思ったらペアでの購入。小生は保戸窯にて陶芸を習っていた頃にすでにこの手の作品を入手しています。



当時入手したのは四角い皿ですが、家内は丸・・・。



白い練りこみの作品も小生は気に入っています。



この手の皿は「練り上げ手たんぽぽ文組皿」と称する作品です。



青磁の作品も気に入っている作品です。



平野先生の作品を見ているときちんとした基礎技術に基づいた品の良い作品です。下記の粉引の作品もその一つです。



前回に頼んでおいた辰砂の面取りの一輪挿しの箱書きも出来上がっていました。

 

さて皆さんも秋田市の保戸野窯の作品を気に入っていただけましたか?



最近の基礎技術のな陶芸家とは一線を画している作品です。



土捏、轆轤、削り、釉薬といった基本のない陶芸家のなんと多いことか・・。



病気療養のため箱書きはうまくいかなかったと先生は恐縮していました。。

呉州餅花手 茶褐地白花花卉文盤

$
0
0
明末の漳州窯のおける大皿の作品は、呉須染付・呉須赤絵(青絵)・餅花手と大きく3つに分かれます。呉須染付や呉須赤絵や青絵の大皿の作品は本ブログにていくつか紹介しましたので、本ブログを読まれている方にはよくご存知かと思います。本日紹介するのは餅花手と称されている作品です。

正直なところこの作品を入手する前まで「餅花手」という作品群の知識は皆無でしたが、観た瞬間に「よし、買おう。」という判断をしました。落札金額は35万ほど、高いか安いかは小生の判断では解りません。骨董蒐集は基本は直感が勝負というのが小生の信条です。胎土がどうのこうの、釉薬がどうのこうの、落款と印章がどうのこうの域では一瞬の勝負の買い時に判断ができないからです。

呉州餅花手 茶褐地白花花卉文盤
合古杉箱入
口径*高台径*高さ



「餅花手」とは中国・明時代末期の呉須手の一種。粗い胎土の上に白濁釉をかけ、さらに器全体へ瑠璃釉(藍地)あるいは茶褐釉(柿地)をかけて素地を覆い、その表面に白濁釉やコバルト顔料で絵付けをしたり、白泥で点を連ねて表現された文様が特徴で、その独特の文様が正月飾りの餅花のように見えることから日本で名付けられた呼称で、瑠璃釉(藍地)の作品が多く、その作品を総称して藍呉須とも呼ばれています。



江戸時代には多くの中国陶磁器が日本に輸入されたが、「餅花手」(もちはなて)に関しては現存するものが少ないといわれていますが、特に茶褐釉(柿地)の作品は極めて少ないように思います。

*餅花:柳の細長い若枝に小さく丸めた餅や米粉のだんごを刺したもので、五穀豊穣や繁栄を祈願して小正月に神棚に飾り付けるもの。



*****************************

呉須餅花手大皿:明末の漳州窯のおける大皿の作品は、呉須染付・呉須赤絵(青絵)・餅花手と大きく3つに分かれます。餅花手は白地、藍地、柿地に細分化され、胎土は白くありませんので、そのため失透質の白釉を、高台を除く全面に掛けて、その上に藍釉や茶褐釉をかけてあります。

高級な釉薬を大量に使用した餅花手は、まだ伊万里磁器が登場する前の陶磁器の黎明期において、日本にて大いに所望された作品です。呉須染付、赤絵ともに白地部分の白が純白に近く、赤絵、染付けの発色の良い、いわゆるあがりの良い作品の評価は現在も高い。

また、図柄では南蛮船や寿老人、獅子が描かれた作品も昔から高級品、貴重品です。

当時から精緻で上手で貴重な作品は、たいてい口縁が額縁のように立っています。口縁の立っている作品(鍔縁)は、評価が高いと言われています。桃山・江戸初期に大量に輸入された作品ですので、市場には作品の数は多いのですが、前述のような作品は評価が高くなっています。

****************************

本作品は餅花手の中でも稀有なほど精巧な作品で、無傷であり、口縁が鍔縁状の丁寧な作りであり、何よりもその文様が精緻です



日本には、16世紀から17世紀に中国・漳州で焼かれた「餅花手」が輸入されたが、製品にするまで手間もかかり、高値な呉須も大量に使用され、独特の藍色の陶磁器であったことから、まだ伊万里が登場したばかりのころに茶人や支配層の武士に大いに所望されたようです。



「餅花手」盤の高台裏は高台を除く全面に白釉をかけ、さらにその上に瑠璃釉をかけていて、高台裏の釉薬のかかっていない素地が真っ白でないのを見ると、素地全体に釉をかけ絵付けして仕上げた、塗埋手の青手古九谷の作風を連想させる。



明暦元年(1655)に、前田利常の隠居領に隣接する大聖寺藩で彩色磁器の至高の美を表現したとされる古九谷が、利常の探求心から肥前長崎で集められた「餅花手」の作風も手本にして焼かれたという可能性が十分にあるようにも思えるますね。



(追記):呉須手には、呉須染付、呉須手赤絵・呉須手青絵、餅花手などの独特な作風があり、特に日本の茶席で重宝されたこともあり、中国の民窯の大量生産された作品ですが必ずしも二級品の扱いとは言えず、むしろ後の日本の陶磁器に大きな影響を与えた陶磁器として評価されています。特に、赤絵は、京焼の奥田頴川、永楽和全、九谷焼の春日山焼等、日本の陶磁器に多大な影響を与えたとされます。



本作品の特徴は精緻な文様と茶褐の釉薬の発色の良さにあります。



特に見込みと細かい文様が施され、その周辺には白泥の発色はしていませんが、よく見ると文様が確認できそれがかえって美しさを引き立てています。



口縁が立っているから評価が高いかどうかはよくわかりませんが、確かに佳作の作品には口縁が立っている作品が多いようです。



菊なのか蒲公英なのは不明の文様ですが、唐草のように描かれた葉とのコントラストも見事です。ここまで出来の良い茶褐色の作品は例を見ません。



古そうな杉箱に収められており、あまりいい書体とは言えませんが、前の所有者の書付もあります。



なんでも鑑定団にも出品され、博物館にも展示されている作品がありますが、いずれも藍釉の作品です。

参考作品
呉州餅花手瑠璃地白花花卉文盤
2016年12月13日出品作品
評価金額:250万



評:400年くらい前の明王朝後期から末期にかけて福建省の南部で焼かれた呉州の皿に間違いない。日本には呉州の皿が大量に輸入されたが、依頼品はその中でもトップクラス。高台の内側を見るとよく判るが、まず本体を作ってそこに白い釉薬を化粧がけし、その上にコバルト釉をかけてクリーム状にした白泥を絞り出して絵を描いている。まるで鳥の羽根のように軽やかで柔らかい様子の文様が生まれ、実に気品がある。ところが裏を返すとべったり砂がついている。窯に溶着しないように、床の上に砂を一面に敷き詰めてそこに置いて焼き上げる。おそらく当時の職人たちは、皿というものは料理を乗せる上側だけきれいであれば良いだろうと考え、裏はかなり無頓着であったのだろう。そういうところが日本の茶人たちの侘び寂びを愛する気持ちに通じ、日本では人気がある。

参考作品
呉州餅花手瑠璃地白花花卉文盤 2点
2015年1月27日出品作品
評価金額:150万



評:惜しいことに2枚とも傷がある。無傷なら300万円でもよい。中国明時代の終わりから清時代のはじめにかけて作られた瑠璃呉須の大皿。これには柿釉といって鉄の釉薬をかけた茶色のものと、呉須をかけた依頼品のような瑠璃手と2種類ある。白泥で中に文様を描いており、これが日本の古正月の餅花とそっくりなので“餅花手”と呼ばれる。裏が砂高台になっており、焼いているときに窯にくっつかないように撒いた砂がざらざらとついている。それがまたこの皿の大きな味わいになっている。

参考作品
呉州餅花手瑠璃地白花花卉文盤
京都国立博物館蔵 寄贈者:原田吉蔵



説明:青や茶色の釉薬の上に、白い釉薬で文様を描いてあるものを、正月飾りの餅花に似ていることから、餅花手と呼んでいる。この盤は典型的な藍地餅花手のもので、類品が江戸の信州高遠藩四谷屋敷跡から出土している。

明末の漳州窯の作品と思われる作品が数多くなりましたが、「餅花手」が最も蒐集が難しいのかもしれません。当方では藍釉の作品を残すところとなりました。

弔意

$
0
0
昨日は郷里の義母の告別式。弔意によりしばらくブログを休投稿させていただきます。

静物画 伊勢正義画 その8

$
0
0
郷里から亡くなった家内の母が危篤状態との知らせが入り、急遽帰省しましたが、3日後に亡くなりました。享年87歳。地元の婦人会の会長なども務めましたが、非常に優しい義母でした。小生の再婚した家族も暖かく迎え入れてくれました。

義妹と家内、息子らと最後をみとることができました。家内と義妹らは歌を看護をしながら枕元で歌を歌っていましたが、非常に安らかな最後でした。息子も初めて人の死に立ち会ったことになります。

自宅の座敷での手配となりますが、欄間額は「忠孝」・・・・。



その後は葬儀の段取りです。小生は義父、家内、義母と三人目の自宅からの段取りとなります。



住職、葬儀屋を手配し、親戚・近所・知り合いに連絡し、亡くなった当日は枕経となります。遅くまで弔問客を迎えることになります。当方の田舎ではお通夜というものはなく、しかも火葬が先で、火葬の後に告別式になります。慣れていないと田舎の葬儀はいろいろと面倒です。



火葬の後にまた自宅に祭壇を設け、告別式までに弔問される方を随時迎え入れます。田舎では家族葬は基本的に行なわず皆で見送ります。安らかに眠らんことを祈るばかりです

さて本日の作品の紹介です。

郷里出身の画家、伊勢正義の女性を描いた作品ばかりを最近続けて投稿していましたが、本日は静物画の作品を投稿します。

静物画 伊勢正義画 その8
油彩額装 左下サイン
画サイズF4号:横330*縦240 額サイズ:横510*縦400
1959年 昭和34年 52歳



ガラスやアクリル板のない状態での額装でしたので、多少油彩の面に痛みがあります。郷里の骨董店でも6号程度の風景画が展示されていまいしたが、小生の好みではなかったので購入しませんでした。価格は8万円程度でした。



最近は油絵の人気がないようです。掛け軸や油絵などの洋画の人気がなくなり、現代の人は何を飾るのでしょうか?



1959年(昭和34年)、52歳の時の作品と思われます。



あくまでも当方は自分の気に入った作品だけを蒐集していきますが、やはり郷里への思いが強り蒐集作品となります。

耶麻渓 藤井達吉筆 その20

$
0
0
当方では藤井達吉の絵画の作品をメインに蒐集していますが、藤井達吉の絵画の作品については現在は意外に知られていない方が多いようです。

耶麻渓 藤井達吉筆 その20
紙本水墨金彩軸装 軸先木製 加藤滝川鑑定箱
全体サイズ:縦1550*横490 画サイズ:縦510*横370



描かれているのは箱書きから「耶麻渓」らしい。



絵の金彩と一文字の金糸の対比が趣があっていい表具だと思います。

***********************************

耶馬渓(やばけい):大分県中津市にある山国川の上・中流域及びその支流域を中心とした渓谷。日本三大奇勝として知られ、日本新三景に選定され、名勝に指定されている。耶馬日田英彦山国定公園に含まれる。

新生代第四紀の火山活動による凝灰岩や凝灰角礫岩、熔岩からなる台地の侵食によってできた奇岩の連なる絶景である。凝灰岩や凝灰角礫岩の山には風食作用や河川の洗掘作用によってできた洞窟も多い。

1818年(文政元年)に頼山陽が擲筆峰周辺(耶馬溪町柿坂地区)を訪れ、当時の「山国谷」という地名に中国風の文字を宛て、「耶馬渓天下無」と漢詩に詠んだのが、耶馬渓という名前の起こりである。頼山陽が耶馬渓と命名したのは、現在単に「耶馬渓」と呼ばれている辺りだけであるが、その後周辺の渓谷についても「耶馬渓」という名称が使われ、本耶馬渓・裏耶馬渓・深耶馬渓・奥耶馬渓などと称している。

1916年(大正5年)に日本新三景の一つに選ばれている。1923年(大正12年)には名勝に指定され、1950年(昭和25年)に一帯が耶馬日田英彦山国定公園に指定された。名勝としての指定地域は、中津市のほか、日田市、宇佐市、玖珠町、九重町を含む。また、2017年(平成29年)には「やばけい遊覧〜大地に描いた山水絵巻の道をゆく」として日本遺産に選定されている。日本三大奇勝のひとつともされる。

なお、「山国谷」に「ヤマ」と「クニ」の音が含まれること、「耶馬」は「邪馬」と字形が似ており「ヤマ」とも読めることから、邪馬台国の比定地をこの地に求める説もあるが、上述のように耶馬渓という名前は江戸時代まではなかったのであり、他の面からの研究によってもその可能性は低いと考えられている。

***********************************

箱書きしている「滝川」というのは陶芸家の加藤滝川氏のことのようです。藤井達吉との関連は資料がないので不詳ですが、いずれなんらかの影響を受けていたのでしょう。昭和55年に加藤滝川が亡くなっており、昭和39年に藤井達吉がすでに亡くなっていますので、その間の箱書と推定されます。

 

無落款の藤井達吉の作品には箱書きをしている作品をいくつか見かけたことがあり、間違いなく藤井達吉の作品です。

***********************************

加藤滝川:陶芸作家。愛知窯業学校卒。同校に奉職後、国立陶磁器試験所に勤務。日展・文展・朝日陶芸展・東海伝統工芸展等で受賞を重ね、活躍。瀬戸陶芸協会代表委員。昭和55年(1980)歿、68才。

***********************************



寂寞(静かでひっそりとしているさま)孤高の画家と秦秀雄氏が「銀花」(季刊雑誌)で紹介していますが、当方では近代の浦上玉堂と推している藤井達吉、読者の皆様の評価や如何に?



ちなみに展示作品の手前に置かれた作品は源内焼です。



デザイン性に優れた両作品と考えて展示しています。

休日のくつろぎ

$
0
0
最近本ブログの閲覧数や訪問者数が増えているようですが、当方にとっては外国の方からの質問などが増えたり、あまり喜んではいられない状況もあります。少し投稿回数を減らしてクールダウンかなとも考えるのですが、貯まっている作品数を考えるとそうのんびりもしていられない状況です。

さてこのブログが投稿される3週間前には庭に君子ランが咲いていました。(三週分の原稿が貯まっているということ・・



その庭に陣取っているのは我が家の畑用に新規購入した軽ワゴンの新車。小生はNBOXが好みでしたが、山の神(家内)には値段が高いこととなにより畑用ではないと却下されました。たしかにNBOXの作りは軽自動車の常識を覆すほどいい作りになっていますが、たしかに値段は高いですね。NBOXは広い、豪華、車体が軽い、安全装備が充実という利点があり、こぞって節操なく他の軽自動車メーカーは模倣タイプを販売し始めましたね。我が家は頑固なまでの実用タイプ



先日帰省先の男の隠れ家の伊万里焼の幾点かを紹介しましたが、まだ投稿していない写真がありました。その中で下記の作品は数多く揃いである伊万里焼です。江戸末期から明治期の作品ですが、古伊万里に分類する人もいるようです。めでたい図柄ですので、葬祭には使えませんね



こちらは平戸焼の作品。こちらも揃いであります。蝋抜きの藍染付の出来の良い作品は最近の作品はあるのでしょうか? まるで最近出来上がったかのような新鮮な魅力があります。



こちらは揃いの盃台ですが、学燈と呼ばれる蓋置に使えそうですね。



アヤメ揃いの作品を並べてみまいした。中村岳陵の色紙絵、古伊万里の仏器、古伊万里の藍染付・・。仏器は対であったのでしょうが、ひとつしかありませんが、耳付は珍しいでしょう。



冒頭の写真にあるように外側は何気ない朱塗の蓋付碗です。内側が見事です。



もともと蔵や納戸の奥に置かれたいた作品ですが、こうしてひとつひとつ紐解いて中身を確認しいくことは、骨董を趣味とする人には何よりの愉しいひとときです。ただ、もともとはネズミの糞や虫の死骸、蜘蛛の巣、埃にまみれた中から取り出すことが多いので、そういうことが嫌いでないことが素養として必要です。

そしてそういう品のほとんどがガラクタですので、その中からいいものを見つける眼が必要です。漆器の良し悪し、陶磁器の時代の判断や良し悪し、掛け軸の評価が解らないと逆にガラクタに遊ばれます。ガラクタに埋もれている骨董趣味の御仁がいかに多いことか。ガラクタと読んで我楽多と書く世界です。









芭蕉下家鴨図 蓑虫山人筆 その16

$
0
0
今日は小生の65歳の誕生日。本日紹介する作品はまくりの状態での入手であり、屏風や襖から剥がされた作品のひとつかもしれません。表具してみるのが愉しみな作品のひとつです。

芭蕉下家鴨図 蓑虫山人筆 その16
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横420*縦1280



8作品ほど続けてインターネットオークションにて出品された青森の南部美術(八戸)からの入手。こちらの作品はまくりの状態で14万円にて入手。蓑虫山人としては破格の高い落札金額となりした。



「青森に8年余り長逗留し、某家の襖・戸板等々に描いた家より譲り受けた作品」という説明でしたが、落款や印章から真作と判断されます。実際に蓑虫山人が青森と関わってのは下記の年表に記されています。



***************************************

1877年 明治10年 42歳 東北地方への旅にでる。岩手県水沢滞在。
1878年 明治11年 43歳 秋田・岩手・青森への旅に出る。田名部の徳玄寺、佐井の箭の根八幡宮・長福寺に滞在。
1879年 明治12年 44歳 青森に滞在する。
1880年 明治13年 45歳下北半島に滞在する。
1881年 明治14年 46歳 深浦の白崎家・広田家、追良瀬の今家・黒滝家、秋田小池村千田家などに滞在する。
1882年 明治15年 47歳 1月舞戸の一戸家に滞在。 2月鰺ヶ沢の戸沼家に滞在。4月鰺ヶ沢の高沢寺に滞在。5月相野(現森田村)の盛家に滞在。6月宮川(現中里町)の古川家、筒木坂(現木造町)の三橋家に滞在。この月、浪岡で書画会開催。7月弘前で侫武多を観る。8月宮川の古川家に滞在。9月五所川原の石井家に滞在。佐々木嘉太郎と会う。油川の西田家・津幡家に滞在。10月小泊の秋元家に滞在(~翌年5月)。
1884年 明治17年 49歳 枝川(現田舎館村)の工藤家に滞在。秋大鰐の加賀助旅館滞留、中野(現黒石市)中野神社に遊ぶ。十和田湖を経て三沢に至り広沢安任と会う。
1885年 明治18年 50歳 青森に滞在する。
1886年 明治19年 51歳 8月弘前で佐藤蔀と会う。9月浪岡町の平野家・木村家に滞在。日本考古学の先駆者神田孝平氏と会う。
1887年 明治20年 52歳 4月青森県に滞在。亀ヶ岡遺跡の発掘調査をおこなう。5月青森で奥村準作と書画会を開く。6月三沢で古代器物展覧会を開く。会記を広沢安任が記す。
8月上京し、文部技官・神田孝平と会う。10月秋田へ行く。
1888年 明治21年 53歳 秋田に滞在。神田氏に長者屋敷石器採集の状況を報告
1890年 明治23年 55歳 3月まで横手に滞在。6月宮城県仙台に滞在。
1891年 明治24年 56歳 濃尾大地震起こる。宮城県から岩手県へ移る
1892年 明治25年 57歳 岩手県に滞在
1893年 明治26年 58歳 2月岩手県から結村役場に濃尾震災による郷里の被害状況を問い合せている
1894年 明治27年 59歳 1月岩手県に滞在
1895年 明治28年 60歳 1月秋田に滞在。4月秋田扇田で肖像写真をとる。5月青森の村本家に滞在。7月弘前、碇ヶ関に滞在。
1896年 明治29年 61歳 1月秋田県扇田の麓家を最後に東北地方における長年の旅を終わり、名古屋の嫡兄左金吾宅を訪ねる。

***************************************

1879年~1887年の8年間を青森県内を旅しています。断言はできませんが、他の山水画の作品が中野山あたりの風景と推定されることから1884年頃の作品と思われます。



少し時代が後になりますが、ユニークな作品を描く倉田松涛を本ブログにてクローズアップしていますが、山水画などは蓑虫山人、人物画は倉田松涛が優れていると思っています。



落款と印章は下記のとおりです。左下の印章(朱文白楕円印)については残念ながらよくわかっていません。

 

蓑虫山人の特筆べき筆法は墨と水分をたっぷり蓄えた絵筆で一気に描くみずみずしさでしょう。



画家というよりも風俗史を記録する絵師という評価でしたが、その絵の魅力は尽きることがありません。



蒐集する方が一昔前まではたくさんおられていたそうですが、そのせいで贋作が出回り、人気は下火になったと言われています。このよいうなことで評価を下げた画家は数多くいますが、繰り返しになりますが、今一度再評価されてもよい画家だと思います。

そういう観点から「日曜美術館特別編 井浦新が追う!蓑虫山人」が放映されたのは嬉しい限りです。出浦新氏が訪れたのは青森郷土記念館がある津軽、残念ながら私の郷里には蓑虫山人に関する資料を展示しているスぺースも、きっと展示する資料も少ないのでしょう。

我が郷里は当て外れな刀剣愛好家は多く、ええかっこしいが多いのですが、文化的レベルは非常に低くまともな展示館が無いに等しい。福田豊四郎を展示している小坂では役所的で休日は閉館、平福記念館のある角館は作品に面白みがない作品ばかり、寺崎廣業の作品のある横手は交通の便が悪い・・・

なにか方策を考えるべきで、たとえば東京に郷土展示館のような・・、奇抜な企画で人を呼び込むような・・・。

先週には賛同して広告を掲載したので届いた郷里の新聞、「**の問題」という特集ですが、まさしく過疎地の代表的な郷里です。小生は徹底して過疎化が進んだ方がいいと考えており、逆に男の隠れ家の拡張を画策しています。こういうへそ曲がりが多い方がいい。行政による企業誘致、若者確保のための就労活動、道路の整備、医療の充実などという流れを再考した方がいい時期に来ています。

Viewing all 2940 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>