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楊柳観音図 その2 寺崎廣業筆 その64

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蒐集における望郷とは何なのでしょうか? 

当方では故郷出身の画家の作品を多々蒐集し、本ブログで紹介してきましたが、改めて立ち止まって考えると星の数ほどある蒐集対象を絞り込む動機づけのひとつになっているだけなのかしれないと危惧することがあります。たしかに郷里では話題になることもありますが、思いのほか知識のある方は少なく、話題は年々薄れていきます。

祖父や両親、叔父などの所蔵品であった作品にも縁があって馴染みのある画家や陶芸家という面もあり、当方の蒐集対象となっている作品群がありますが、これでいいのかという疑念を最近拭いきれません。今少し立ち止まって考えたいところですが、ついつい作品を観ると入手したくなるものです。

さらに寺崎廣業の作品を一度系統的に整理したいと思っているのですが、子育てと仕事で時間がなくなかなか手が回りません。落款の系統別、印章の時代別、画題の区分けなどやりたいことがたくさんありますが、いずれ仕事から手が離れたらと思っています。

蒐集した寺崎廣業の作品の数は本日の作品で「その64」となり60作を超えましたが、いずれも力作とは言えずコレクションと称せるものではありません。もともと寺崎廣業の作品については家に伝来していた真作の作品は皆無です。親戚の蒐集作品には出来のよい真作が幾つかあったのですが、相続に際してすべて処分されてしまいました。また男の隠れ家に大作の屏風があったのですが、現在は贋作と判断しています。資金をかけてこの屏風は修復したのですが、無駄銭だとは思っていません。祖先が大切にしてきたものは、贋作だろうと大切にすべきものもあると考えています。

今誰かが蒐集しないと離散や保存状態の悪化していく故郷の作品、このような代々の作品への思いや望郷の念からの蒐集と自分の好きな作品と混同しないよう立ち止まりながらの故郷に縁のある画家の蒐集を考えていきたいと思います。作品数が多くなると、少なくても絵筋のよいものに絞っての蒐集を現在は心がけています。

楊柳観音図 その2 寺崎廣業筆 その64
絹本水墨着色軸装 軸先 鳥谷幡山鑑定箱
全体サイズ:縦2185*横560 画サイズ:縦1250*横415

 

落款や印章から推定すると大正初期頃の作と推定されます。鳥谷幡山による鑑定書もきちんとしています。鳥谷幡山の鑑定にも贋作がありますのできちんと見抜く必要があります。

  

「騰龍□軒」(白文朱長方印)本ブログで投稿されている「五柳先生図」(その26)や「墨竹」(その28)らと同一印章です。鳥谷幡山の鑑定についは「舞子之帰帆図」らと同一です。これらから絵筋の良さもあり、本作品は真作と判断されます。

*鳥谷幡山の鑑定だけでは真作と判断できませんので、よく作品そのものを判断することをお勧めします。



寺崎廣業の「観音様」を描いた作品は出来の良い作品は少ないのですが、当方で評価するの憚れますが本作品は出来の良い作品だと思います。



寺崎廣業の観音を描いた作品は多数あり、本ブログにても他の作品(楊柳観音図 その1 寺崎廣業筆 その37)も紹介しています。ふっくらした顔立ちが寺崎廣業の観音図の特徴です。

*「楊柳観音」については他の作品で何度も説明していますので、本記事では説明を省略します。




寺崎廣業の作品は水墨のみの作品が市場に出回る作品のほとんどですが、やはり淡彩でも着色のある作品に出来のよい作品があるようです。



郷里の画家、寺崎廣業・・・、席画を含めたら膨大な数の作品が出回り、加えて贋作が多いので、市場での評価はかなり低くなっています。しかしながらいつか再評価されてよい画家でしょう。代表作のような大作の展覧会は近年でも何度か開催されていますが、一般の愛好家が興味を持つような展覧会を希望したいものです。

郷里での個人所蔵家による作品を集めた展示会でも開催したらいいのではないかと思いますが、最近は郷里でもそのような展示会は滅多に開催したという情報はありません。情報そのものが、個人所蔵家そのものが少なくなっているのではないかと危惧しています。開催側も個人所蔵の作品を集めるのには時間を要するのだと思います。またもっとも危惧するのは望郷の念、故郷の知識を持つ方がめっきり少なくなったことです。



ところで政府の政策で美術館の作品を評価して市場に売り出し、美術品の市場を活性化させる案があると、読売新聞での記事が大きく掲載されていましたが、記事にあるように学芸員にて、ビジネス的な業務がそれが可能かどうかは大いに疑問です。失礼ながら無理だろうと考えますし、美術商、骨董商の思うままにならぬことを祈るばかりです。


忘れ去られた画家 虎渓三笑図 梶野玄山筆

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孔雀を描いた作品や青緑山水画で著名な梶野玄山ですが、どうもそちらの作品は他の画家の方がいい作品を描いており、当方では本日描いたような作品の方が好きです。

虎渓三笑図 梶野玄山筆
絹本水墨着色軸装 軸先木製 極箱 
全体サイズ:横550*縦1910 画サイズ:横420*縦1006

 

虎渓三笑:話が佳境に入り夢中で話し込んでいると、思わず時の経つのも忘れ、自分たちのいる場所もわからなくなってしまうことがあります。意気投合して、談笑するのを楽しむということわざです。出典は「盧山記」。儒、仏、道の三賢者が一同に合して話をしたところ、お互いにつきない興味を感じ、すっかり夢中になってしまったという故事です。

中国での浄土教の開祖である慧遠法師は来客を送る際、精舎の下の虎渓という谷川のところで足をとめ、そこを渡ることをしない戒律を守っていました。ところが詩人の陶淵明と動家の大家である陸修静が来訪して、三者でそれぞれの専門分野について話し合ったとき、さすがに興が乗じて、慧遠法師は思わず「安呉禁足の掟」に従わず、虎渓を越えてしまい、虎のほえる声を開いて、初めてそれに気づいて、三人とも大笑いをしたとのことです。この故事は史実として疑問とする説がありますが,三人が談笑して歩く姿と谷川の水の流れは、中国,日本の画題として好まれ,多くの作品があります。

慧遠法師?



陸修静?



陶淵明?



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梶野玄山:1868年(明治元年)、今の白山市西新町に生まれました。幼いころから祖父に絵を学び、小学校卒業後、四条派の画家垣内雲嶙や鈴木松年に師事する。垣内雲嶙に絵の基礎を学びました。伝統的写実を基本に、中国北宋画や狩野派の細密画法など幅広い画筆法を使いこなし、いろどり豊かな画風を築きました。

主に京都で活躍し、孔雀絵図、青緑山水図を得意とし、明治・大正の画壇に揺るぎない地位を築きました。各皇族からのご下命により、献上した孔雀図、青緑山水図は約30点になります。京都中学絵画科教授。孔雀の絵を得意とすることで著名。昭和14年(1939)歿、71才。

  

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「虎渓三笑図」を描いた作品は「なんでも鑑定団」の出品された作品があります。

なんでも鑑定団出品作
虎渓三笑図屏風 山田真山筆



ついでに梶野玄山が描いた「孔雀図」もまた「なんでも鑑定団」の出品された作品があります。

なんでも鑑定団出品作
孔雀図 梶野玄山筆
2014年1月16日 

大きさ:縦1.2メートル、横1.7メートルの大幅の作品です。



当方のブログにて「忘れ去られた画家」と題されるとファンの方はご不満かもしれませんが、再評価されることを期待しての投稿ということでご理解願います。

本日は大宮で三人ならぬ四人の元同僚らと一献を傾けての会があります。時を忘れると明日は帰宅してからの福島から仙台への出張に寝坊しそう・・・。

会寧焼 紅斑鉢 

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男の隠れ家にはいろんなものがありました。結婚式の引き出物を初めとした贈答品類、旅行のお土産品などもありますが、それらはほとんどが処分することとなっています。ただ、そんな中にも骨董的な価値があるものがありますのできちんと鑑識眼をもって選別しないと思わぬ失敗をします。

本日の作品はそのような作品く区分されていた作品から見つけた作品の紹介です。ないかと話題になる北朝鮮で焼成された作品のようです。

会寧焼 紅斑鉢 
来歴記した箱入
口径*高台径*高さ



一見するとただの鉢、しかも真新しい感じがするので会寧窯というものを知らないと日本の最近作られた日常品と勘違いされてしまいます。



会寧窯は北朝鮮咸鏡北道会寧で量産された陶器の窯のことです。 13世紀頃から近代まで,中国陶磁の影響を受けて雑器を焼いてきましたが,北朝鮮治下の現況は不明とのことです。現存する作品は李朝中期からのものが多いと言われています。大振りの壺,鉢,碗,片口などを焼き,あらい胎土で肉が厚く,黄褐色や黒の釉 をかけられ、民窯として名高い窯です。



そうですね、どうみてもただの鉢。箱の裏には下記の記事が記されており、同様の書付も同封されています。



この作品で特筆すべきは飛び辰砂と言われている赤い斑点でしょう。国宝の青磁の作品でお馴染みであり、近年は意図的に行う作品が多いようです。



「会寧焼は北朝鮮金時代に起き中国北宋汝窯特に均窯の影響を受け発達したと言われ我が国九州唐津焼はその流れを汲みものとされている。器中紅斑は窯変といって窯の天井か壁又は灰の中などに僅かに混入していた銅片が人とともに蒸発して器物に付着して偶然できたものと言われている。」
という説明書きのように本作品については意図的なことはないようですが、また会寧窯において銅の釉薬が窯中に混在するか否かが焦点となるかもしれません。

魑魅魍魎たる中国絵画

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男の隠れ家の棚にしばらく放置されている中国絵画の掛け軸。

蒐集していた一時期に集めた中国絵画の作品ですが、中国絵画は贋作、模作、版画などの工芸品の多さは日本の比ではないこと気づき、蒐集はすぐに中断し、怪しげな作品は処分したのですが、「鑑賞にはいいだろう」と手元に遺したおいた作品がまだあったようです。

長い間、新聞紙に雑に包まれていたので久方ぶりに虫干ししてみました。



まずは著名な画家である伝八大山人の水墨画です。

瓶蘭図 伝八大山人筆
紙本水墨軸装箱入 縦870*横450



こちらは肉筆には相違なさそうです。肉筆の模作や贋作、工芸品の多さは中国絵画においては日本の比ではありません。



真贋に関わらず、絵そのものの出来としてはかなりうまいものです。

 

係蔭放牧之図 伝李可染筆
紙本水墨淡彩軸装 
全体サイズ:縦2390*横810 画サイズ:横650*縦176



こちらの作品は上海からの入手。



この構図は李可染では代表的なものですので、代表的ということはまずは怪しいと疑ってかかるべき作品だったのでしょう。



それでも涼しげな郷愁溢れる作品です。



大幅の部類になり、夏に飾るには最良の作品には相違ありません。



水孔版画かな? 当方には肉筆に見えます。

 

「係蔭放牧之図 歳次己巳冬月畏興可染干□□□□」と賛があり、真作なら1989年冬、李可染が82歳の最晩年の作。賛の下には「可染」の朱方印が押印されており、右下には「師半堂」と押印されています。

 

無量寿佛(その弐) 伝王一亭筆
紙本水墨淡彩軸装 
全体サイズ:縦1775*横796 画サイズ:縦677*横660



この作品の描き方はうまい それで遺しておいた作品です。事業家の余技とされる王一亭の作品ですが、画技は年ととも大いに進み、天衣無縫、雄健渾厚の筆使いです。



その画は呉昌碩に酷似しており、世間に呉昌碩の画とされるものの中に、一亭の画に昌碩が落款したものが混っていることは事実だそうです。



呉昌碩亡きあと、齊白石と並んで彼の作を愛好する人士が頗る多いとか・・。よって贋作も同様に頗る多いようです。



本日は魑魅魍魎たる中国絵画の紹介なので画家そのものについての紹介は省略しますが、本日紹介する大家の画歴くらいは近代日本画を好みしていても基礎知識として覚えておく必要はあるのでしょう。



賛は「無量寿佛 白龍山人王震敬写」とあります。落款に「白龍山人王震」とあり、真作なら50歳以降の作品と推測されます。「王震」の朱方印(参考文献にて真印と確認)と「一亭□白」の白方印が押印されています。



仙子弾琴図 伝黄慎筆
紙本水墨淡彩軸装 
全体サイズ:縦1590*横585 画サイズ:縦800*横460



黄慎は人物画が得意ではなく本作品の画力はそれほどでもない? 文人画として鑑賞すべき画家でしょう。



本作品を遺しておいたのは、かなり修復された跡のある作品というのが理由のひとつです。



尚、黄慎は「揚州八怪」の一人です。


下記は小生の説明資料として蒐集当時の記録にあった記事です。

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揚州とは中国江蘇省の河港都市。そこは明清時代に塩の大集散地として繁栄した。十八世紀半ば、清朝の政局安定に伴い益々商業が盛んになり、塩業は特に栄えた。塩商人は大富豪となり、豊かな財力が書画の収集や芸術文化の向上に注がれる。そして、パトロンが多い揚州には各地から芸術家が雲集してきた。

その中で、画風、生き方共に「怪」と称するにふさわしい独創的感覚を持った書画家が陸続と現れ、傑出した八人はその後、「揚州八怪」と呼ばれるようになった。

学者により八人の顔ぶれは少し異なるが、金農・鄭板橋・李鱓・黄慎・羅聘・李方膺・汪士慎・高翔らが選ばれる場合が多いようです。(この他、辺寿民・高鳳翰・楊法・李べん・陳撰・華嵓・閔貞らを八怪に含める候補に挙げられることもあります。)

八怪のメンバーは鄭板橋を除いて皆、官位のない布衣(ふい)でした。役人生活を送っていた鄭板橋も、やがては揚州が恋しくなって売文売画生活へと戻る。それだけ揚州というところは、芸術家の自由な気魂を思い切りぶつけることができる懐が広い空間であった。

この個性に富んだ人たちの中にあっても一際目立ち、仲間からもリーダーと認められていた人物が、富岡鉄斎が私淑した金農(冬心)である。八怪の作品中には金農の影響を見て取れるものが多く、金農の英傑ぶりが想像できる。

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画中に「松風□翁筆山月 四弾琴黄慎写」と賛があります。

 

山水図 伝呉冠中筆
紙本水墨淡彩軸装 
全体サイズ:縦1820*横890 画サイズ:縦700*横697



本作品も上海から入手した作品です。



呉冠中の作品としてはよく見かける作風です。



こちらも水孔版画? 



呉冠中については他のブログの記事で作品を紹介していますので、ここでは詳細は省略させていただきます。



独特の描き方の画家ですね。



いずれにしてもどの作品も当方では真作とは現在も判断しておらず、気楽に飾って愉しもうかと考えて遺してある作品です。虫干し後はまた新聞紙に包んで棚に放置・・・

氏素性の解らぬ作品 萬古焼 石榴文盃洗

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陶磁器の作品の多さには枚挙のいとまがない。小生のように陶磁器蒐集をしている者でさえ未知の分野の陶磁器群はたくさんあります。そのひとつに萬古焼があります。

今回は興味本位で入手した作品をもとにほんの少し萬古焼について調べてみました。

萬古焼 石榴文盃洗
合箱入
口径*高さ*高台径



萬古焼は簡単に記述すると下記のような記事の焼き物のようです。

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萬古焼(ばんこやき、万古焼):陶磁器・焼き物の一つで、葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つ。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類される。三重県四日市市の代表的な地場産業であり、1979年(昭和54年)1月12日から伝統工芸品に指定されている。その耐熱性の特長を活かした紫泥の急須や土鍋が有名であり、特に土鍋の国内シェアは、7、8割を占めると言われている。また、豚を模った蚊遣器「蚊遣豚」でも有名である。四日市市内の橋北地区と海蔵地区で萬古焼が盛んである。四日市市指定無形文化財。

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要は急須や土瓶で有名な焼き物? 歴史は古いようです。なんでも鑑定団に最近出品された森有節の作品は再興萬古焼で「桑名萬古焼」に分類されるようです。

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桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)が、元文年間(1736年〜1740年)に朝明郡小向(あさけぐん おぶけ、現在の三重郡朝日町小向)で創始。弄山が、自身の作品に「萬古」または「萬古不易」の印を押したのが、名前の由来である。(弄山の時代の作品は、現代では古萬古と呼ばれる)

弄山の没後、一時途絶えるものの、天保年間(1830年〜1843年)に森有節(本名は与五左衛門)らによって再興された(桑名萬古焼)。また、射和村の竹川竹斎は射和萬古を、弄山の弟子の沼波瑞牙が津で安東焼(後の阿漕焼)を興した。四日市萬古焼は山中忠左衛門の尽力によって興り、阿倉川や末広に最初の窯が建った。

明治時代には山中忠左衛門らによって洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究や地域住民への製作指導、海外輸出も行われるようになった。陶土として使っていた四日市の土は赤土であり、輸出向けの白地の食器を作ることが困難であったため、日本各地から陶土・陶石を移入して対応した。

昭和に入る頃には日本国内から萬古焼の陶土に適した土がなくなってしまったが、国産振興四日市大博覧会を通して朝鮮に適した陶土があることが分かり、取引の具体化が始まった。

輸出の最盛期であった1980年(昭和55年)には出荷額が202億円に上ったが、1998年(平成10年)には85億円まで落ち込んだ。一方国内向けの出荷額はほぼ横ばいを続けている。2016年(平成28年)5月26日から5月27日にかけて開催された第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)では、萬古焼の盃が首脳陣の乾杯の際に使用された。

市内陶栄町には萬古神社が築かれ、森や山中の記念碑が建てられている。また5月第2週の土日には萬古祭りが開かれ、様々な陶器が売られている。

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歴史を詳しく調べていくと下記の記事がありました。

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室町時代に、楽市楽座の自由商業都市として栄えた桑名の有力な回船問屋沼波家[ぬなみけ]は、陶器専属の問屋で、当時茶碗として有名だった伊勢天目を扱った。その沼波家が江戸時代に作り始めたのが萬古焼である。屋号の萬古屋から命名した「萬古」「萬古不易[ばんこふえき]」の名は、何時の世までも栄える優れた焼き物という意味であり、伝統は現在に受け継がれている。特に、数の少ない萬古焼は超人気があります。

沼波家の跡取りとして享保三年(一七一八)に生まれた五左衛門弄山[ろうざん]は、幼いころから茶道に精進した茶人で、その茶趣味が嵩じて朝日町小向[おぶけ]に萬古焼を開窯したのは元文年間(一七三四~四〇)のことである。陶法は、京焼技法に習い、特に尾形乾山に多くを学んだ。内外の茶碗の写し物をはじめ、華麗な色絵を主体とした優美な作品を生み出した。これらの作品を古萬古と呼ぶ。

弄山によって始まった萬古焼は、陶器問屋沼波家の今川橋詰にあった江戸店で売り出された。当時の焼き物の中にあって際立った斬新さの古萬古は、有産階級や知識人の間で人気が上がり、遂に将軍家からの注文を受けることになると、江戸小梅の地に窯を設け、宝歴年間(一七五一~六三)には、弄山夫婦も江戸に移った。これを江戸萬古という。

はじめ有名茶陶の写しものから出発した古萬古は、上絵付けによる赤絵ものに特色を発揮した。当時は、八代将軍吉宗による洋書解禁の令によって、入ってきた蘭書による蘭学の広がりをみた時期があった。平賀源内を代表とする当時の知識人は、競って外国の文物に憧れていた。弄山も同様の知識人で、オランダや異国の風物を描いたり、作品の形に工夫を凝らした。

古萬古の優品は、上絵の具による赤絵ものに多い。図柄のベースは、更紗模様である。更紗とは、外国より入ってきた染物のことで、当時のファッションであった。更紗柄の中に支那風景、麒麟、飛龍などの想像の動物を描き、オランダの銅版画を写したライオン、象、オウムなどの絵やオランダ文字を配した作品もある。透明な絵具による異国情緒の世界だ。

古萬古は、「萬古[ばんこ]」「萬古不易[ばんこふえき]」の印を押したが、それは沼波家の屋号に俳聖芭蕉の「不易流行」の考えを加味したものである。萬古印は、裸のものと小判型のものの大小があって、字体が微妙に異なる。全て楷書である。他に異形の篆書体のものがあり、茶陶の写し物に多く用いている。原則として、古萬古は有印であるが、中に無印のものも存在する。



古萬古が後継者のないままに廃絶してから、三〇数年後、桑名の古物商森有節、千秋の兄弟によって、古萬古ゆかりの朝日町小向で再興された。手器用な兄弟の工芸的手腕を見込んで、弄山の子孫が勧めた為と伝えられる。兄の有節は木工を得意とし、弟の千秋は発明工夫の天才であった。兄弟の協力によって天保二年に築窯し翌年(一八三二)に開窯した。

*なんでも鑑定団に出品された森有節の作品は下記の写真です。



「なんでも鑑定団の評:初代森有節の作品に間違いない。たいへん趣があり、かつ珍しいのは楽家九代了入の黒楽を写した黒楽茶碗。了入は箆使いの名手だが、それをあえて手捏ねだけで立ち上げて写している。ふっくらとして大らか。高台の見込みに了入の晩年の隠居印が押してある。これだけだと了入と間違えるため、茶碗の中の見込みに萬古の小さい判が押してある。実に真面目で演出が巧み。真ん中は普遍的な萬古の鉢。外側を飛翔する鶴、中にひっそりと咲く蘭、動と静の対比が見事にこもっている。水指は萬古特有のふっくらとした感じに盛り上げの絵が良い。この絵付の命は葉の影にある南天の赤い実2つ。この赤い実がきゅっと締めている。それぞれ「摘山堂 萬古有節」と書いてある。おそらく明治時代の二代有節の筆。共箱に準じると考えてよい。萬古は散逸しているため、名器が3点揃うというのは珍しい。」

古萬古の時代に比べて、世情は大きく変わりつつあった。抹茶趣味に代わって煎茶が流行し、外国憧憬より国粋を尊ぶ国学が盛んとなった。それに応える為に、華麗な粉彩による大和絵の絵付けと、煎茶に必要な急須を木型で成型する法を考案して、東海道の旅人の土産物として売り出した。その特異性は大人気となり繁盛した。桑名藩主はこれを保護奨励した。

急須作りに、有節は得意な木工の技を駆使して、提灯作りの木枠からヒントを得た精巧な内型を作った。心棒と八枚に分解するこの型に、棒で伸ばした薄い土を貼り付けて成形する。型に刻まれた竜の紋様が急須の内面に現われる考案は、意表を衝くものであった。一ケ所でないと外れない蓋、ぐるぐる回る蓋の摘み、取っ手の遊環などは千秋の考案である。

尾張の画家田中訥言の提唱した復古大和絵の妙手、帆山唯念が桑名にいた。花乃舎に学んだ兄弟は、大和絵の花鳥の絵を艶やかな粉彩絵の具で描いた。この絵の具は、不透明で、重ね塗りや盛絵ができる。そのベースは、白絵土による白である。これに顔料を点じて各種の色彩をだす。中でも金を原料とする腥臙脂釉のピンク色は、艶やかだ。

几帳面な有節は、自身で銘印を刻んだと伝えられる。素人ながら印は完璧である。古萬古の印を踏襲「萬古不易」丸型篆書の「萬古」があるが、字体が優しい。普通の「萬古」印は、裸印は少なく、中型の小判印を多用し、「摘山[てきざん]」「有節]「萬古有節」があり「日本有節」の印は、海外への発展を希求したものだ。千秋には別種の印がある。

有節の考案した木型成型の急須は、よく売れた。その秘密にしていた陶法が、桑名の木型師佐藤久米造に漏れると、それを模倣追随した沢山の有節亜流の陶芸家が桑名周辺に現われて売り出した。中には有節萬古と一味違うたたみ作り、土型成型の精巧なものを作る者がいた。布山、孫三郎らである。幕末から明治初年にかけて、最も盛業であった。

古萬古の沼波家の姻戚にあたる南勢射和の経世家竹川竹斎が、安政三年(一八五六)に射和萬古を開窯した。彼は有節萬古の成功に目を付け、殖産事業にしようと、資力を注ぎ、井田吉六、奥田弥助、近藤勇、服部閑鵞らの名工を雇い入れての陶業であった。だが、製品は優れていたが、格別の特色がないために、目論見通りに捌けず、七年で廃窯となった。

古萬古の陶工良介が津の藤堂藩に招かれ、安東の地で古萬古の姉妹品に「古安東」を産み出したが、わずかで廃業した。これを惜しんだ津の油屋倉田久八が「再興安東」を始めたのは、嘉永六年(一八五三)のことである。射和萬古の職長もした信楽の陶工上島弥兵衛の協力を得た。後に「阿漕焼」と改名し、窯主が度々変わって現在に至る。

四日市には、有節萬古より前の文政一二年(一八二九年)に信楽焼風の雑器窯が東阿倉川唯福寺に始まっていた。海蔵庵窯という。後に、ここに来て焼き物の手ほどきを受けた末永の庄屋山中忠左衛門は、有節萬古に憧れていた。嘉永6年(1853)には、邸内に窯を築いて、有節萬古の研究に本腰を入れた。その20年に及ぶ苦労が四日市萬古の始まりである。

以下省略

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ともかく歴史は長い 解ったようでよく解らない分野のようです。



当方で紹介している作品がどの製作時期なのかがよくわかりません。



よってブログの題も「氏素性の解らぬ」とさせていただきました。



見込みの絵柄も桃? 石榴? と不明です。



ただこの枯淡のようなたたずまいが気に入っています。どうも萬古焼の化粧臭いような色合いの作品は正直なところ好きにはなれないところがあります。



高台の底には「萬古」の印がありますが、この印からも時代の判明は当方には資料がなくよく解っていません。



形からは盃洗と思われますが、萬古焼の盃洗は数が少ないようです。はたしてこの作品はどの時代でどのような価値があるものでのでしょうか?

氏素性の解らぬ作品 三彩八咫烏図皿

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先週は福島浜通りと女川に泊りがけで出張でした。一年に一回は赴く地域ですが、確実に復興が続く半面、原発そのものの廃炉については何ならの手は打っているものの不透明なことが多いようです。

さてサッカーのワールドカップが始まりましたが、ワールドカップの日本以外の試合を見ていると一流国のサッカーは日本の試合とは異次元ですね。日本は優勝はもってのほか、予選突破という前に出場できたことに場違いではないかというのが感想です。個人技、フィジカルで劣るのは目に見えていますから、組織力で戦うしかないのに、練習量のない海外組、走れないベテラン、そして組織練習がないままの出場ではまず勝てないでしょう。応援だけ、感染するだけ無駄というものです。人生の時間はもっと有効なことに使うべきでしょう。

さて日本サッカー協会のマークとして三本足の鳥を図案化しており、サッカー日本代表のエンブレムになっているのが「八咫烏」です。本日は八咫鴉を図案化した作品の紹介です。

三彩八咫烏図皿
合箱入
口径276*高台径*高さ38



釉薬、胎土、口縁の文様から源内焼の可能性があり、現段階では源内焼と推察していますが、高台の形、高台内に釉薬が全く掛かっていないこと、中央の図柄の型が細密でないことに違和感があります。源内焼の影響を受けた後世の窯(珉平焼など)のようにも推察されます。また日本の窯以外の可能性も捨てきれませんね。



八咫烏(やたがらす、やたのからす)は日本神話において神武東征の際、高皇産霊尊(タカミムスビ)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラス(烏)のことです。

一般的に三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わっており、八咫烏は日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されています。また、太陽の化身ともされる。熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされています。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている。

*咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味のようです。



八咫烏が三本足であることが何を意味するかについては諸説あるようです。

熊野本宮大社では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしています。

また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれています。

しかしながら、『古事記』や『日本書紀』には八咫烏が三本足であるとは記述されておらず、八咫烏を三本足とする最古の文献は、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」であり、この頃に八咫烏が中国や朝鮮の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったとされます。

また、1939年(昭和14年)に「天皇の命令」の形式をとる勅令(昭和14年勅令第496号)によって制定された日中戦争の従軍記章たる支那事変従軍記章は、その章(メダル)の意匠に八咫烏を用いていますが、これは三本足ではなく二本足であったそうです。

元々賀茂氏が持っていた「神の使いとしての鳥」の信仰と中国の「太陽の霊鳥」が習合したものともされ、古来より太陽を表す数が三とされてきたことに由来するとする見方は、宇佐神宮など太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴であることと同じ意味を持っているとする説があります。中国では古代より道教と関連して奇数は陽を表すと考えられており、中国神話では太陽に棲むといわれる。陰陽五行説に基づき、二は陰で、三が陽であり、二本足より三本足の方が太陽を象徴するのに適しているとも、また、朝日、昼の光、夕日を表す足であるともいわれているそうです。



現代では、八咫烏は主に日本サッカー協会のシンボルマークおよび日本代表エンブレムの意匠として用いられている事でも知られています。このシンボルマークは、大日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)創設に尽力した漢文学者・内野台嶺らの発案を基に、彫刻家・日名子実三のデザインにより、1931年(昭和6年)に採用されたものです。

天武天皇が熊野に通って蹴鞠をよくしたことにちなみ、よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められているとも・・・。なお、蹴鞠の名人とされる藤原成通は、五十回以上も熊野詣でをして蹴鞠上達を祈願し、熊野大神に「うしろまり」を披露して奉納したとされ、現在でも、日本サッカー協会はワールドカップ等の出場前に熊野三山で必勝祈願を行っているそうです。また、このシンボルマークを基に日本代表エンブレムとしても八咫烏は採用されており、サッカー日本代表のユニフォーム等に使用されています。



なお家内の祖父はサッカーの先駆者で解説を行っていたことあるそうです。



氏素性の解らない作品ですが、図柄の面白い作品であり、作品を前にロシアワールドカップにて日本代表が活躍することを祈るばかりです。

倣五彩龍文瓶 「大明萬暦年製」銘

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当方の家に古くからある下記の作品。入手経緯などは一切不明ですが、小生は日本で作られた京焼の写しかなんかであろうと判断してしばらく箱に収納したまま放置していました。若い頃、骨董蒐集の先輩に「これは大切にしなさい。」と言われましたが、「日本の写しでは?」と返答したところ先輩は無言でした。

倣五彩龍文瓶 「大明萬暦年製」銘
底「大明万暦年製」銘 合箱
口径98*最大胴径95*底径80*高さ240



この手の五彩の作品は明末染付、明末赤絵・青絵、そして餅華手らの民窯らの作品の頂点に立つ官窯の流れの作品です。官窯の作は蒐集家の垂涎の的の作品ともいえ、お値段はうん千万を超えるものです。もちろん、本物ならば・・。

官窯の作品は龍の爪が本来なら5本、この作品は4本ですからこの点から官すでに窯の可能性はないと言えます。倣う作品は官窯の5本爪に配慮されているのでしょう。官窯の作品ははもっと絵も丁寧に描かれているはずです。もっとも民窯の作品でも近代の模倣品でなく時代さえあれば意外に希少価値のある作品として扱われているようですが・・・。



万歴年間の優品は日本にかなりの数が入ってきているようで、著名な美術館には一つくらいは必ずあるようです。



高価ゆえ贋作も多く、また日本でも京焼などでは明末赤絵と同じく模倣品が多数製作されたようです。また中国の民窯でも官窯の作品を数多く模倣したことも考察されます。



銘は二重円の中に書かれたものが上等品ですが、必ずしもそうでない銘もあるようです。



骨董蒐集家は夢とロマンを追い続けるものです。これがなくなったら骨董の愉しみは半分以上は消滅します。ただロマンを追い続けると駄作の山を築くことになりますね。



ただある程度の時代があり、出来の良さがあれが愉しむのが骨董の楽しみ方でもあるのでしょう。当方の判断では現在も京焼か民窯の作品であろうと推察しています。



万歴年間の「五彩龍文瓶」の代表格の作品のひとつに下記の作品があります。

参考作品:五彩龍文瓶 東京国立博物館蔵
景徳鎮窯 高45.2 口径22.8 底径9.5 明時代 万暦年間(1573-1620年)



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説明より:日本には俗に万暦赤絵と呼ばれる万暦官窯の五彩の名品が多く収蔵されているが,この作品もその典型作のひとつ。いわゆる尊式の花瓶であり,その祖形は古銅器の「尊」にある。丸まった胴からすらりと伸びる頸と,広がった裾からはどっしりとした量感がうかがわれる。頸から胴にかけ王室を象徴する五爪の龍と牡丹を表し,その鮮やかな赤と緑の濃彩が実に印象的な作品である。底裏には青花で「大明萬暦年製」の銘が記される。

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色合いは青味が強い作品や赤味、緑の強い作品など多種多様のようです。

当方には下記の作品もありますが、こちらは「大明嘉靖年製」の銘。

伝大明嘉靖年製 魚藻文様蓋付五彩壷
合箱 高さ250*底径112*高台径98



写しとして判断していますが、それにしても出来は良い方。普段は男の隠れ家の玄関に飾っていますが、これとても本物なら仰天の作品です。



こちらも同じく「大明嘉靖年製」の銘の作品ですが、上記の作品よりは出来は劣ります。

絵龍紋透喰籠 大明嘉靖年製在銘
合箱入 径240*高さ134



普段使いに物入れに使っていましたが、蓋が重くて使いづらい。



とにもかくにも五彩ですが、本物なら赤絵の頂点にある作品群です。繰り返しになりますが本物なら・・・。

吉野龍田蒔絵 御料紙文庫&御硯箱

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本日紹介する作品は文庫と硯箱の蒔絵のセットで代々伝わる作品です。

吉野龍田蒔絵 御料紙文庫



外観



蒔絵の作品は飾るだけで周囲が明るくなるあでやかさが必須ですね。嫁入り道具のひとつであった可能性があります。



蓋表面



金や銀の蒔絵は見る角度、明るさによって様々な表情をしてくれます。



この愉しみはガラスケース越しの展示作品では残念ながら味わえないものです。



外周



外周すべてに違う絵柄で本体と蓋と一致するように絵が描かれており、驚くべき技量と絵の腕です。



全体の技術の高さは今では追随できないものでしょう。



贅を尽くした作品というものは時として嫌味になるものですが、絵の出来、蒔絵の出来というのもはそれを一切感じさせません。これが欧州や中国とは違う日本の美の徳というものでしょうか。



内側



一級の蒔絵はどこかに侘びと寂びが備えられているものでなくてはなりません。



この作品はどこを観ても飽きのこない作品です。



その情景もその自然の豊かさを彷彿とさせ、蒔絵の作品ではないものを感じます。絵の出来が一流の南画の良さを秘めています。当時の蒔絵師が絵の修行していたという証でしょう。



次は対となっている硯箱です。

御硯箱



表蓋



文庫の作品とは絵柄を変えています。似ていますが一切同じ図柄はありません。



外周



硯箱も四方すべてに違う蒔絵が本体と蓋で絵が一致するように隈なく描かれています。



内側



実際に使われていた作品です。



母も蒔絵の硯箱を使っていたことを思い出します。



これを使ったか、墨だけ使ったかというとおそらく墨だけ使ったのでしょう。



金と銀、観る角度で全く違う表情を見せてくれます。



このような作品を保存がたいへんだからと安易に手放す方がいて、最後には海外に流出し続けているのが現状です。



格のある家の所蔵品だったのでしょう、しっかりした塗の箱に収められ、さらに外箱が誂えられています。保存の仕方もしっかりしており傷など一切ない完品です。



手袋をしながらの扱いなど扱いや保存には細心の注意が必要ですが、所蔵となったのも何かの縁、大切に所蔵して後世に伝えていきます。

狩野派の絵師たち 

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近々企画されている富士山にちなんだ狩野派の作品の展示会にて当方の作品を展示したいということで、公の施設の学芸員で教授の方が作品の当方の作品を確認のために自宅まで観に来られました。

応接室で事前の打ち合わせをする前に、応接室の書棚を見て「この画集の展示会は私が関わっていたのです。」と嬉しそうに東京国立博物館で開催された展覧会の画集を取り出して話し始めたので最初から話が盛り上がりました。初対面の方でしたがどうやら信用できそうな?人物で安心しました。



今回の展示対象となるのは狩野探幽以降の絵で江戸後期からの狩野派の作品の中で富士山が描かれている作品です。当方の作品でそのような対象となる作品はごくわずかですが、このたびは下記の作品に興味を持たれたとのことです。



この作品の絵師は狩野派の画家としてはマイナーな画家ですが、いろんな流派を取り入れた画家ということから展示対象になったようです。今回の展示以外に改めて来年にはこの画家ともう一人を加えていろんな流派を取り入れた狩野派の画家の特集を展示するようです。その時にもう一度この作品を展示したいとのことでした。



もう一人の画家・・?? 狩野素川?どこかで聞いたことのある狩野派の絵師なのですが、当方の所蔵品にあることを思い出しました。展示していなかったので急遽取り出してお見せしたところ、「その時にはこの作品もよろしく」という申し出がありました



狩野派の画家で富士山を描いた作品であることから下記の作品を展示していました。この画家は明治期に活躍し、最後の狩野派の絵師とも言われています。



「もしかしたらこちらの作品も今回の展示にお願いするかもしれません。」ということでしたので、当方としては作品の展示に関しての予定もないので了承しました。この作品は祖父が求めた作品ですので、展示されたら祖父も喜ぶでしょう。

*後日、展示スペースの都合でこちらの作品は展示されないとのことでした。よって今回の展示は冒頭の作品のみに展示依頼となりました。



お見えになった学芸員の方は江戸後期からの狩野派の作品が研究対象にしているということでしたので、下記の作品らを展示しておきました。



この作品らはブログですでに紹介した作品です。



ところで狩野派の双幅や三幅対の作品は数多くありますが、双幅や三幅対には贋作が非常に多いようです。武家にはひとつやふたつは狩野派の双幅や三幅対の作品を飾るのが常であったので需要があったのでしょう。そのため胡散臭い作品が横行していたようです。双幅や三幅対の少し出来の悪い作品は贋作と断定していいでしょう。真作と思って所蔵して入る方はかなりいますが・・・・。狩野探幽、狩野常信らはまず疑ってかかる必要があります。

 

当方の蒐集では、この頃の狩野派の絵師の作品に対しては筆遣いのしっかりした作品に焦点を絞って蒐集しています。来客の方も筆遣いと印章に注目していました。展示作品についてはおおよそ絵筋の良い作品と評価していただきました。



上記の作品は表具するかどうか迷っていると話したところ、このままでも十分いいでしょうとのことでした。

下記の作品も双幅ですが、この頃の狩野派の絵師の双福、三幅対は繰り返しになりますが本当に数が多い。



これらの作品は一連の流れで並べておきましたが、総じて学芸員の方は気に入っていただけたようで、すべての作品を丁寧に撮影していかれました。

*これらの作品の絵師や詳細は本ブログで紹介していますので、詳細はそちらを参考にしてください。

狩野派の絵師の作品は他に下記の作品を展示しておきました。



京狩野の作品もあり、一連の流れとは関係なくこちらからはランダムな作品展示となります。



実はこの頃の狩野派の作品は他にもあるのですが、当方の展示するスペースの関連でこの程度の展示となりました。



江戸中期から幕末にかけての狩野派の作品は再評価され、もっと注目されてもいいでしょう。



絵巻にも興味がありそうなので下記の作品を観ていただきました。「室町期から江戸初期」にかけての間違いのない作品と評されていました。



富士山の作品ということで郷里の画家の作品も展示しておきました。



寺崎廣業、伊勢正義、平福父子らの作品は郷里の横手にある県立の施設で興味があるのではないかということでした。館長さんと師弟関係とのことです。



ついでに屋根裏の展示も・・。



茶室でお薄と応接室で軽い食事をしていただきました。



ところで手手前みそながら、この茶室へのアプローチが小生は気に入っています。

最も外側の折り戸が気候に対応していますし、躙り口も高齢者にも入りやすくなっていまし、荷物も近くに置いておくことができます。縁側の利用度も高くなっています。本日は入口の土間に家内が一輪の花を活けました。



実は躙り口の扉はアコーデイオンの既成の品ではなく、特注で木製で作りたかったのですが、今の既成の金具には最適なものがないようでした。既存の茶室の模倣では創造性がないので、次回はこの茶室をアレンジして、かつ茶室からの眺めは自然そのものを取り入れ、もっと手作り感のある茶室にチャレンジしたいと思っています。



お菓子は秋田県立美術館の館長を務められている平野庫太郎氏の皿にて・・・。



昼食後に作品の引き渡しの打ち合わせと雑談をして帰られましたが、さすがに作品や絵師に詳しい  私より詳しい方に久方ぶりに出会いましたしたが、専門に研究しているので当たり前ですね。

*7月1日に作品を預けることになりました。展示になりましたら後日本ブログにて紹介したいと思います。

色紙 蛙 福田豊四郎筆 その94

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サッカーはなにが起こるか解らないものですね。日本のワールドカップのサッカーの試合は運がいいとしか言いようがない・・・。

さて田舎では田植えの終わった田は水でいっぱい、蛙の大合唱が聞こえていました。



ちょっと庭に出てみると蛙がすぐにつかまります。



息子と蛙の観察です。実際に手で触ることには抵抗がないようです。



そこで本日は蛙の作品の紹介です。

今年の5月の連休での帰省では骨董店にて数多くの福田豊四郎の作品を見せて頂いたのですが、ピンとくる作品がなく大きな買いものはしませんでした。ちょっと気になった「蛙」を描いた色紙の作品を購入したので紹介します。

色紙 蛙 福田豊四郎筆
紙本着色 色紙タトウ入 昭和25年頃
3号 画サイズ:縦270*横240



お値段は数万円。だいぶ福田豊四郎の作品は入手しやすくなってきました。印章は戦後に使われたもののようで、当方で所蔵している昭和25年頃に描かれた「鯉」などの印章と同一の印章が押印されています。

  

ついでに骨董店に飾ってあった舘岡栗山の作品を購入しました。

色紙 秋の渓谷 舘岡栗山筆
紙本淡彩色紙 タトウ
画サイズ:縦240*横270



お値段は数千円。現在では舘岡栗山の作品を購入する人は数少ないのでしょう。舘岡栗山は席画のように描いた作品はあまり小生も好きではありませんが、力作には優品がありますし、故郷を描いた作品は風俗史的資料として評価されるものがあります。



舘岡栗山・・、知っている人も郷里では非常に少なくなっています。



郷里に帰ったら郷里にちなむ作品を購入するのが一番ですね。



屏風

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郷里に帰る際は新青森から奥羽本線にて電車の旅。



岩木山、リンゴ園を眺めながらですが、この景色は仕事で赴任していた頃には見慣れていた風景です。しばらく在京していると新鮮に見えるものです。



到着した駅ではいつも通りレンタカーを借りてドライブとなります。田植えが終わった田にいる鷺を眺めながらの旅です。郷里では身近に鷲や雉も珍しくありません。



到着した男の隠れ家では座敷の片づけをしました。縁側に放置されていた屏風類もしばらくぶりに片づけました。

まずは狩野秀水の六曲一双の屏風です。



竹林の七賢人を描いた作品です。



狩野秀水・・、ご存知の方はかなり少ないと思います。



もう一つは伝寺崎廣業の楼閣図です。



これらはだいぶ痛んでいたので修復しています。残念ながらこれは現在は程度の低い贋作と判断しています。



落款も弱く、印章も未確認です。



家に代々伝わる作品なので、たとえ贋作でも大事にしています。



屏風類は収納箱に仕舞いこみます。屏風は飾るにしても、収納するにしても場所をとりますので、現在は人気がない代表的な作品群です。



上記の写真の収納箱には実は橋本雅邦の真筆の作品が収納されていました。その作品が掲載されている画集が当方には存在します。



友人が売却した際にに思文閣で収納箱は要らないと置いていった箱を戴いたものです。思文閣の方でも収納箱は要らないらしいです。置く場所がなくて不要だという購入者が多いとのこと。たとえ共箱でも置いていくそうです。



この作品は最初の査定額が40万円。小生が交渉の結果その10倍で買い取ることになりました。決め手は上記の画集の掲載写真です。素人はいかに買い叩かれるという典型的な例です。



大名家にあったという碁盤もありますが、ともかく重い。



いろんな経緯、思い出のある作品を半日かけて片づけました。



縁側も久方ぶりにきれいになりました。







義妹が窓ガラスを磨いてきれいになりました。周囲の風景を取り込んだ庭もきれいに見えます。









座敷もすっきりしました。刀剣柴田で研ぎなおしたいただいた脇差類も家内の母が作った袋に収めてここに戻してあります。



この襖も修復しています。



近江八景?



この襖の絵は逗留された方が描いた?



このような座敷に寝転がって庭を眺めて、蝉や蛙の交響曲を聞くという至福の時を過ごしてみたいと思いませんか?

ただ今回は義母の亡くなったことによる安置のための片づけです。複雑な心境です。









母から授かった品

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30歳前に山形にて結婚して借家ながら居を構えることになった際に、引越しが完了した家に母が持ってきた作品がいくつかあります。福田豊四郎や信太金昌などの郷里出身の画家の絵画などの作品を何点や、家紋に氏名入りの漆器、揃いの食器などもその当時に母から引き継いだ作品です。

この度の帰省で整理していたら、その作品が出てきました。懐かしい作品ですが、その中から本日紹介する最初の作品は螺鈿に蒔絵の煙草盆です。



煙草盆としての用途は最近あまり使われなくなったので、名刺入れなどには使えるかもしれませんが、痛みやすいので収納箱に入れて保管していました。



次の作品は真塗の硯箱です。最近は墨で書くこともないので、一度も使わずこちら収納箱に入れて保管しています。今思うときちんと保管していて良かったと思います。漆器は永らく手入れしていないとカビが発生したりして痛みますが、和紙にて包んでいると全く痛みがなく保管できています。



次は新制作協会の記念のプレートです。日本画家の福田豊四郎や洋画家の伊勢正義らがメンバーとなって発足した絵画をメインとした協会ですが、郷里の画家に縁のあった父母が戴いた作品でしょう。脇田和のよる絵が描かれています。一度水で洗ったら絵の具が剥落したことがあります。



袱紗類も何点かあります。



横山大観の袱紗、むろん絵は複製です。昭和二十年代?に三越から購入したようです。横山大観の直筆の作品もあったようで、なにかのついでに買ったのでしょう。



袱紗は福田豊四郎の作品(直筆)、平福百穂などの作品があります。



複製ながらよくできています。



当時は上京に際して、三越や高島屋、松坂屋で買い物するのが郷里ではステイタスであった?

  

居を構えてから徐々に実家のあった伝世品が集まってきました。そして母のために新築した郷里の「男の隠れ家」に保管されてきています。転勤を重ねて現在在京しするまでに徐々に自分でも好きな作品を蒐集し、本ブログに紹介されているような蒐集作品になりましたが、改めて帰省に際して最初に集まってきた作品を見直すと現在も蒐集の原点はあまり変わっていないことに自ら驚いています。本当に懐かしい作品です。



編み物をする婦人 伊勢正義画 その9

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最近、ブログの閲覧が増えてきていますが、嬉しい反面、どうも不気味 そもそもマイナーなブログの内容ですから・・。

しかもアクセスの多い記事には当方のとって意外な作品であることも驚きです。最近多いのが「須恵器 長頸瓶」、「古伊万里? 若双鶏牡図水指」などで家内となんでだろうと首を傾げています。その前には香合類へのアクセスが多かったなど、決して有名な作家、高価な作品だからといってアクセスが多いわけではなさそうです。

ヤフーのランキング対象のブログの総数は280万件、その1000番内に入るのは0.03%の確率・・・

さて「男の隠れ家」の階段には母から譲られた同郷の画家、伊勢正義の作品が飾っています。



母から譲られ以降はしばらく興味がなかった伊勢正義の作品ですが、親戚の家に飾られた薔薇の作品が父から譲られた作品だと聞いていたりしているうちにしだいに興味を持つようになって蒐集するようになりました。

以前に「編み物をする女性」という題名で伊勢正義の1939年(昭和14年)に描いた作品を紹介していますが、本日紹介する作品はそれから27年後の描かれた同じく「編み物をする女性」を描いた作品です。混同を避けるために題名を「婦人」としました。

編み物をする婦人 伊勢正義画 その9
油彩額装 左下サイン
画サイズF4号:横330*縦240 額サイズ:横510*縦400



1966年 昭和40年 58歳の作品と推定されます。



小磯良平を彷彿とするのか、欧州の印象派の画家の作品を彷彿とするのかはさておき私の好きな画風です。



伊勢正義と同郷の小生は伊勢正義の作品を観ると同郷の女性を思い起こします。母であったり、姉や血縁の女性であったり、この作品はとくに学生時代にセーターを編んでくれた女性であったり・・。



絵というものは記憶の中のなにかを思い起こしてくれるものがあります。それがその人の好みになるようです。



セーターを編んでくれた女性は最初に結婚を考えた女性ですが、初恋ではありませんでしたが、淡くほろ苦い思い出はなんらかは人は常に持ち続けているものです。淡い恋心と共に悔恨の両方を持つ人生の味わいのようなものです。



絵とは人生の味わいを思い起こる役目を負う側面がありますね。



冒頭で紹介したそれから27年前の作品です。

編み物をする女性 伊勢正義画 その4
油彩額装 右下サイン 
画サイズ25号弱:横598*縦787 全体サイズ:縦717*横904



小生の記憶は40年以上前のことです。若気の至り、向こう見ず・・、淡い恋心をいつまでも忘れないのはどうも男の方が諦めが悪いからという人もしますが言いえて妙です。初恋に破れた思いは登山と学業で散らし、セーターを編んでくれた女性との破局は仕事に没頭して散らしましたが、時間が一番の特効薬のようです。それでも後遺症は40年以上続くものです

桐竹唐草地紋 真形釜 二代角谷興兵衛作 

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日本のサッカーは思いのほか健闘しているようですが、やはりコミュニケーションのとりやすい日本人監督の就任が一番功を奏しているように思います。決してベテランが良いとは思いませんが、体力ある時間だけ出場させてるのは効力がありそうです。ただゴールキーパーのチョンボは相変わらずのようです。益々の健闘を期待したいのですが、難敵を抑えて予選リーグを突破してもその後の対戦相手はレベルが数段上のようです。

さて本日紹介する作品は、こちらも放置されたい作品群の中にあった作品。箱の紐は紙紐で非常に扱われていた作品です。惜しむらくは実勢に使った形跡がありません。

桐竹唐草地紋 真形釜 二代角谷興兵衛作 
共箱 高倉久田家11代宗也箱書有
口径124*最大胴径250*底径126*高さ200



どうも二代角谷興兵衛の作らしい。知っている人は知っている方でしょう。兄の角谷一圭は人間国宝です。箱底には下記の名が記されており共箱です。



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角谷興兵衛:大阪の釜師として数多くの名作を生み出していた。裏千家出入職方後に淡々斎より拝命され、美しく気品漂う作品を数多く手掛けていた。真形釜などは非常に美しい形をしていることで知られており、その造形的でありながらも自然の姿で描かれるフォルムには、評価が高い。釜師一家として角谷與兵衛は生まれており、幼少の頃から父親の仕事を見て育った。

角谷與兵衛の作品の特徴としてはその独創的な作風が挙げられます。兜釜などは茶の湯の世界においても非常に有名で、独創的なフォルムを生み出す造形的な才能に人気が集まっています。その才能は、非凡という他言葉が無く、とにかく新たな世界観を生み出していった天才肌の職人であるということが言えます。兄が重要無形文化財保持者でもある角谷一圭です。兄の角谷一圭自体、非常に鍛錬された伝統的な作品を生み出す作家であることで知られています。一方で弟である角谷與兵衛が生み出す作品はどこか実用的でありながらも、アート性の強い作風となっている。

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箱蓋裏には下記の記述があります。



浪華 興(与)兵衛
桐竹唐草地紋 真形釜 好
蓋 摘み 橘之実     宗也 花押(高倉久田家11代守一宗也 無適斎 1884年~1946年9月13日)
座  桜花
昭和12年(1937年)仲夏
皇太后陛下(大正天皇の妃)近畿地方行啓の節 御買上げし栄を得たりけれバ 之れが栄誉を分かたんとて写して作之

なかなかの出来ですが、茶釜に興味のない方にはただの鉄の塊か?



茶釜に肝要なのは品格のように思います。



人物も品格が大切ですが、どうも最近の人は品格がない方が多い。一般的には社会的に地位の高い方や骨董蒐集家はとくに・・・。



さてボヤキは別として、放って置いたものなので家内に頼んで茶釜として使えるか実際に使ってみることにしました。

種子島 南蛮花入生 小山富士夫作 

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休日には自宅で息子の散髪・・・。



さて本日は男の隠れ家に放置されていたお土産品などの作品をまとめて箱に入った作品群の中からの作品を紹介します。家人らにとっては箱を見ただけで誰のどういう作品か解らずに放置してあった作品のひとつです。

種子島 南蛮花生 小山富士夫作 
共箱 底に「古山子」掻き銘
口径*最大胴径*底径*高さ



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小山 富士夫(こやま ふじお):1900年3月24日~1975年10月7日)。日本の陶磁器研究者・陶芸家で、中国陶磁器研究の大家。岡山県浅口郡玉島(現・倉敷市玉島)出身。

小山が土を弄(いじ)りだしたのは25歳からで、きっかけは2年前に近衛歩兵第3連隊に1年志願で入隊したとき、同期生の中に陶器好きの岡部長世(岸和田藩主の子孫で国立近代美術館館長・岡部長景〈ながかげ〉子爵の弟)がおり、彼の影響を強く受けたことからである。

主に鎌倉市を拠点にして執筆。陶磁器研究では、中国北宋時代の名窯、定窯跡を発見し世界的な陶磁学者として名声を確立。晩年に至るまで実証的東洋陶磁研究をして、古陶磁研究書など多く執筆寄稿。晩年には、岐阜県土岐市泉町に「花の木窯」を開き作陶。陶芸家としても茶器を始め多様な作品を造った。

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当方では箱を見たらどなたの作品かは名のある陶芸家の作品ならすぐに解るのですが、普通なら数十万する作品も、興味のない方にはなにかのお土産品にしか見えなかったのでしょう。



小山富士夫というとまずは「永仁の壺事件」を思い越します。

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永仁の壺事件と小山富士夫

永仁の壺事件:1959年、「永仁二年」(1294年)の銘をもつ瓶子が、鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして国の重要文化財に指定されました。しかしその直後からその瓶子は贋作ではないかという疑惑がもたれていました。この瓶子は結局、2年後に重要文化財の指定を解除されることとなり、重文指定を推薦していた当時の文部技官であった小山富士夫が引責辞任をするなど、美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなりました。

瓶子は実は陶芸家の加藤唐九郎の現代の作であったということで決着しましたが、事件の真相についてはなお謎の部分が残されているとされています。指定に際しては国際的な陶磁研究の第一人者で、文部技官・文化財専門審議会委員であった小山富士夫の強力な推薦がありましたが、実は、「永仁」銘の瓶子は対で存在しており、そのうちの1つが当時行方不明になっていまいした。そのため、小山富士夫は残る「永仁の壺」の海外流出を懸念し、重要文化財指定を急いだ経緯もあるとも言われています。

また「永仁の壺」を真作とした根拠の1つに、「永仁の壺」と同様の陶片が、この作品が作られたとされる瀬戸の「松留窯」から出土していたことにありましたが、実際は「松留窯」の存在自体が加藤唐九郎の捏造であったことが後に判明しています。

加藤唐九郎は織部焼で人間国宝(国の重要無形文化財保持者)に認定されていましたが、その認定も同年解除されています。事件以後は小山富士夫等が「永仁の壺」についてその後に沈黙を守ったこともあり、その真相についてはなお不明な点があり、なお皮肉なことにこの事件ののち、重要文化財級の作品を作れる男として加藤唐九郎の名声はかえって高くなった言われています。

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皮肉なことに小山富士夫の作品は銘に「古山子」と勘弁なサインと掻き銘を入れることから、真似しやすく贋作が横行しています。



真贋は基本的に作品の出来にて判断しないと「なんでも鑑定団」にも贋作が出品されていたように箱は本物、中身は贋作という代物もあります。箱はあくまでも付属的な判断材料です。



とくに本作のような焼き締めの作品には贋作が多くあり、小山富士夫の種子島焼の作品そのものの特徴を把握していないと判断できません。

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種子島焼と小山富士夫

昭和44年、台湾の故宮博物院に招かれて、「日本にある中国陶磁」について講演することとなった小山は、その途中、沖縄那覇の「壺屋やむちん」の里に立ち寄り、初めて沖縄で作陶しています。壺屋には釉薬の掛かった上焼(ジョーヤチ)と無釉焼締の「荒焼」(アラヤチ)とがありましたが、赤い南蛮風の荒焼に惚れ込み、新垣栄用窯で作陶しました。

*新垣栄用窯は浜田庄司も焼成した窯で本ブログでもお馴染みの窯です。

その翌年、偶然にも種子島の職員から「種子島にあった能野焼の再興に協力してほしい」と要請がありました。能野焼は江戸末期から明治の中ごろまで数十年間、擂鉢や甕、片口など生活雑器を焼いていた窯です。

それらは土灰釉が施されていたが、首里での荒焼を思い出した小山は、「無釉の焼締で良かったら、やってみたい。」と返事すると、「先生にお任せします。」との返事を得たので引き受けることになったようです。

昭和46年、種子島に出向き、能野焼古窯址付近にあった12種類の土を採集して、鎌倉の永福窯で試験焼し、その中から田土を選びました。土の耐火度は低いが、きめ細かな土が気に入ったようです。丹波の窯を参考にして間仕切りのない蛇窯を西ノ表市で築窯しています。再度台湾に渡り蒋介石と会見したり、故宮博物院で講演をするなど小山自身は仕事が忙しかったので、中里無庵の五男・隆を呼んで協力させています。

昼は窯を造り、夜は轆轤を廻して、蛇窯で焼きながら、新たな「種子島焼」が誕生しました。種子島の土は水に強いので、燃えたぎる薪窯の脇に水を撒くという焼成をしています。焼締陶の硬さを嫌った小山冨士夫が考えた焼成法で焼き上がりを柔らくしています。

このような特殊な焼成をしたのは、昭和47年、カメラマンが窯焚の写真を撮りに来るというのに、「台風のため飛行機が飛ばず、船も接岸できないそのため鹿児島に戻って明日にならないと行けない。」という連絡が入り、通常ならその日の夜、火を止める予定でしたが、火を止めようか迷った末に、中里隆は来るまでもたせようと思い、窯の温度が上がらないようにするため、ビニールの袋に水を入れてから窯の中に投げ入れたり、窯に水を掛けたり、薪をくべて、また水を掛けたりして長引かせて窯の温度を1200度以下に保った結果、窯出しされた作品が柔らかい土味で窯変も今までにない面白い焼だったという偶然からによります。さらに新たに花の木窯でこれを応用して窯床に二、三十センチほど川砂を敷き、その下に針の穴ほどの穴をあけたパイプを入れて、窯の床から水が噴出すようにした築窯をしています。

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「一見備前と似てはいるが、備前の土味より柔らかくて変化が出やすい」と花の木窯では窯詰の時、赤貝を撒いたりして赤、黒、灰、黄というさまざまな変化を出しています。また「心のままに種子島の田土を操り、回転の早い轆轤で、「轆轤は弄くりだすとだらしのない作品になってしまう。」と、小山藤富士夫は決して土に逆らわず、一気加勢に挽きあげ、これらの作陶により明快な個性となった作品を生んでいます。



小山富士夫の種子島焼の作品は現在でも人気が高い作品群のひとつです。本作品は上記のような焼成の特徴を備えており、その出来についても茶味のあるいい作品であり、当方では真作と判断しています。

放置されていた作品にこのような出来の良い作品があることはままあることですが、ただし出来の悪い贋作を本物と信じている人のほうが多いのが現実です。小生もその一人かどうかの判断は読者の皆さんにお任せします。

この作品を観て思い出したのが小生が屋根裏に放置していた下記の作品です。丹波焼として売られていた作品です。



本作品もまたブログにて紹介しており、入手当時は下手物と評価しており、屋根裏に放置したのですが、処分する気になれずどうも気になっていました。茶味があるのです。前の所有者かもしれませんが、捨て難い趣のせいか、割れた後を鎹で補修しています。鎹にて補修するのはかなり難しく、それなりに評価していたのでしょう。

作品も人も良いところを評価して押し上げるのが先人の役目、目先に眩んで贋作に仕立てるなどもってのほかですね。

源内焼 その114 三彩文字文手持付角鉢 その2

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休日には小生が骨董品の整理をしている傍らで家内がなにやら幼稚園のバザーへの出品作を制作中、まだ制作途中のようですが写真を撮っておきました。



さて本日は久方ぶりに入手した源内焼の作品の紹介です。

源内焼 その115 三彩文字文手付角鉢 
合塗古箱入
幅190*奥行200*底(幅116*奥行122)*高さ140



中央の文様は「五嶽真形図」のひとつで中国の信仰上の五霊山の内、「南岳衝山」を表す記号。

この御符を持てば他人から傷害を加えられず、また火災を免れるという(「さぬきの源内焼」平賀源内先生遺品館企画展掲載:作品NO78「三彩文字文手付角鉢」より)」



この文様の源内焼の作品は「平賀源内のまなざし 源内焼」(五島美術館出版)に作品NO84、85「褐釉文字文脚付角鉢、三彩文字文脚付角鉢」として二作品が掲載されており、源内焼の典型的な作品で、大きさも25センチ角と大きめです。



また同じ型から製作された作品で釉薬が違う作品がボストン美術館のモース・コレクションにも存在するそうです。また当方の所蔵作品では「その42」に同じ文様の作品があります。



この作品と同型の作品は平賀源内先生遺品館企画展「讃岐の源内焼」(財団法人 平賀源内先生顕彰会出版)の作品NO78「三彩文字文手付角鉢」(P46)として掲載されています。



この文字文の作品は各種大きさ、角鉢、手付角鉢が存在し、釉薬にも各種あることから人気があり注文の多かった図柄であったと推察されます。



源内焼の手持ちのある作品は趣があります。



この辺の作りのセンスの良さに平賀源内がかかわったかどうかは不明ですが、日本古来の作品にエキゾチックは趣がいいですね。



「他人からの傷害」、意外にこのようなことが多いのがこの世の世界。外傷的なことに限らず、仕事では上から目線のパワハラめいたことも多く気が滅入るものですが、護符であればあやかりたいものです。



当方の所蔵品を並べてみました。



手前みそになりますが、いろんな源内焼の作品が比較のできる源内焼のコレクションとなりつつあります。



後日欠けていた箇所は金繕いしてみました。



素人によりますのでそれほどうまくできませんが、御利益がありますようにと願いを込めて金繕いしました。

鯉図 その4 蓑虫山人筆 その17

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日本のサッカーの予選リーグの第3戦。監督が替わるとサッカーとはこれほど違うチームになるのだろうか? 有能な監督とはこういう戦術を採るのかというほど一貫した戦略があることには感心した。第3戦の後半の戦い方には賛否があるだろうが、リードされて相手が引いた状態で攻め込めば反則や追加点を犯しやすくなる状況での判断は正しかったと思う。

第3戦の先発メンバーは完全に次戦に焦点を定めている点も逆に目先にこだわっていなし、出場機会のない選手を使うこともモチベーションアップにつながる。それゆえ予選突破にこだわったと思う。監督には久方ぶりに真の侍を見たように思う。サッカー界にこういう人物がいたことに頼もしさを感じた。

人に何と言われようが信条を変えないことがトップには求められる。もし決勝リーグに進めなくなり、その原因が選手数人が負うような結果になるより、監督が全責任を負う戦い方を選んだことは組織力を重視して経営すべき日本の企業も見習うべき点が多い。責任ないマスコミの報道には耳を傾ける必要はない。

本日は5月の連休にて帰省した際に地元の骨董店で購入した蓑虫山人の作品です。お値段は2万円弱。蓑虫山人の現在のお値段としては妥当なお値段です。

鯉図 その4 蓑虫山人筆 その17
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横420*縦1280



家内が蓑虫山人の作品が掛け軸ばかりなので額の作品もたまに欲しいという理由もあり購入しました。ただ蓑虫山人の鯉を描いた作品はこれで4作品目となりました。



印章と落款は下記の写真のとおりであり真作です。このような見極めは経験値によります。



前回の作品の説明でも記述したとおり、蓑虫山人は1877年(明治10年 42歳)~1896年(明治29年 61歳)まで東北を遍歴しています。当方の故郷の周辺では「1884年 明治17年 49歳 枝川(現田舎館村)の工藤家に滞在。秋、青森県の大鰐の加賀助旅館滞留、中野(現黒石市)中野神社に遊ぶ。」という滞在の記録がありますので、その頃に近い頃ではないかと当方では推定しています。

蓑虫山人の作品にて本ブログに紹介した作品の中で鯉を題材にした作品には下記の作品があります。

松下瀧鯉登り図 大幅 蓑虫山人筆 その14 
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横946*縦1760



蓮遊鯉之図 蓑虫山人筆 その6 
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横500*縦1920 画サイズ:横400*縦1370



鯉登り図 蓑虫山人筆 その2
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横615*縦2110 画サイズ:横488*縦1310



画法の技術的観点から見るとたいした作品ではないかもしれませんが、蓑虫山人の描く鯉の作品はユーモラスで魅力ある作品であると感じるのは小生の贔屓目でしょう。なべてこの世は贔屓目で成り立つことが多いもの・・。

2018年 6月 男の隠れ家

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雨が降り止んで天気が良くなってきたので、車を洗うことにしました。東北に赴任していた頃には車を2台所有していたので、洗車が日課で慣れていますが、今は一台分の車庫があるので最近はとんと洗車はご無沙汰していました。本日は2台、軽トラの代わりに畑仕事用に購入した軽ワゴンの新車。意外に洗車面積多いので時間がかかり、息子もお手伝い。ただすぐにホース片手に水遊びに興じていいましたが・・。

さて別荘?と化している郷里の男の隠れ家の周辺には過疎化が進んでいるのに家が建ち始めています。



裏側の隣地の一区画は購入したのですが、他の3区画には建設中となりました。



裏側には区画に伴い立派な道路ができ、裏口(勝手口)からも道路に直接出入りすることができそうです。



左隣の隣地の駐車場付きの空き家も購入しましたので、「男の隠れ家」の増築計画が構想だけ煮詰まっています。展示・収納スペースの増築?



問題は肝心の増築費用・・・。所蔵品の大量売却か? 普段は当方は留守なので、現在は近隣の車の駐車場や除雪スペースになっています。



のんびりとした郷里は現在涼しくて最高の季節です。



息子ものんびりと散髪。



男の隠れ家の玄関には緑釉の麒麟。本ブログで紹介されている作品ですが、後日のブログで再登場の予定です。



こちらの「男の隠れ家」は普段は近隣の方が管理してくれていますが、この作品は一種の魔除けです。



家には魔除けが大切です。変なものを飾ると?幸運が逃げ悪運がつきまとうようになります。思い当たる作品がひとつあるので近日中に処分しようかと思っています。悪運のつきまとう作品と判断し、今まで処分した作品は2作品ですが、その判断はあくまでも感性によるものです。

南天 福田豊四郎筆 その95

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週末には母を訪問。



しばらく行けなかったので、貯めておいた写真を息子が説明。いつものようにお薄を飲んで母は元気そうでした。



少しして姉もやってきて、にぎやかになりました。息子は母に肩たたき・・。



さて本日の作品は「南天」。「南天」は「難を転じる」ということから吉祥の題材となります。この世は難しいことが多い、「難を転じて福となす。」にあやかりたいものです。

南天 福田豊四郎筆 その95
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2240*横490 画サイズ:縦1330*横350

 

落款と印章から昭和初期~昭和10年頃の作品と推察されます。この頃の福田豊四郎の画題として「南天」にはいくつかの作品があります。



南天は音が「難転」即ち「難を転ずる」に通ずることから、縁起の良い木とされ、鬼門または裏鬼門に植えると良いなどという俗信があります。福寿草とセットで、「災い転じて福となす」ともいわれています。また、江戸の百科事典「和漢三才図会」には「南天を庭に植えれば火災を避けられる」とあり、江戸時代はどの家も「火災除け」として玄関前に植えられていました。赤い色にも縁起が良く厄除けの力があると信じられ、江戸後期から慶事に用いるようになり、またトイレの前にも「南天手水」と称し、葉で手を清めるためなどの目的で植えられました。

  

印章や落款は上記のとおりです。左側が本作品で、他の同様の印章を用いた当方の所蔵作品との比較です。共箱ではありませんが、真作と判断できます。



家に植えることのできない時には掛け軸で飾るということで多くの作品が描かれたのでしょう。



当方には福田豊四郎氏から祖父が描いてもらった何点かの袱紗がありますが、その中に「南天」を描いた作品があります。



この作品は祖父から母に、母から小生が譲り受けた袱紗の作品のひとつです。江戸後期から慶事に用いることから袱紗に描いたのでしょうね。

母がいつまでも元気であらんことを願うばかりです。

日本のサッカー代表は本当に惜しかった。監督交代という難が転じて福となしたか否か? ただリーダー如何で組織がこれだけ豹変するということは教訓に値するものだと思います。上から目線での統率ではない、武士道とも言うべき誠意や愛のある統率によっての個々の力の結集は称賛に値するものでした。

最後は勝ち抜けるだけのしたたかさのみ・・実に惜しかった、そして悔しい。悔しさをバネにしてまた難(災い)を転じて福となさねばならないのだろう。思えば人生はすべてその繰り返しのように思う。苦労の果てに喜びあるもの、楽な人生などそうそうにはない。

展示作品引き取り & 輪島塗 折足付会席膳 鮎模様木目塗 10客揃

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週末には展覧会に出品依頼のあった作品を受け取りにこれらました。



日通さんの美術運搬専門の方が掛け軸を丁寧に梱包されていきました。



作品は事前に傷などのチェックを学芸員(教授)がされていきました。ぼろぼろに痛んでいた作品でしたが、出来が良かったので購入し再表具した作品です。一般に展示されるということは作品も喜んでいるでしょうし、こちらも蒐集冥利に尽きます。



車は美術品運搬の専門の車両で運ばれました。どんな車だろうかと家内と息子とお見送り・・。

9月に開催される展覧会ですが、事前に図録の撮影のために早めの引き取りだったようです。息子と展覧会が楽しみだな~と・・・、ただし息子は近くにあるという遊園地が愉しみのようです。



帰り際に教授が「この作品は葛飾北斎の潮干狩り(国の重要文化財)と並べて展示したいですね。同時期の画家で互いに知っていた可能性があるかもしれませんから。」と仰っていました。

さて男の隠れ家にて蔵を物色・・・。なにやら古そうな杉箱を開けてみると以前に紹介した会席膳に脚が付いた膳がありました。先人は鮎好きだったのかもしれません。

輪島塗 折足付会席膳 鮎模様木目塗
十人揃
杉箱入
幅285*奥行285*高さ35



こちらの作品もまた状態のいいのは5客。



製作時期はおそらく明治頃かな?



よほど鮎に対する思い入れがったのか?



このような蒔絵は今では作れないのでしょうか?



以前に紹介した作品は脚が短い作品です。



状態の良くない作品は修理できないという結論でした。



脚の長い作品と短い作品、一の膳、二の膳という意図があったのかもしれませんが、なにか鮎の文様を使う意図があったのでしょう。川が近いので鮎の解禁日には仲間でアユ料理を愉しんだとか・・。

展覧会に所望された作品は当方の他の作品のもう一点とともに来年も展示予定だそうです。両方とも実は意外にマイナーな画家・・・

知識がないと誰も購入しない? 否、知識があっても打算が働くと入手したがらない画家でしょうね。そのような画家の作品が痛んでいたので修復し、ブログの紹介が縁で展覧会で一般公開されるという、大切なのは基本は審美眼のように思います。まだまだ当方は未熟ですが、そこを忘れないようにしたい。

実用的な膳と美術史的価値のある掛け軸?、実に骨董蒐集は面白い
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