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Channel: 夜噺骨董談義
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氏素性の解らぬ作品 紙雛 鏑木清方筆

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休日には家内と息子は夏のお茶会に浴衣姿で出かけました。



小生は久方ぶりにのびのびできると喜び、駅まで送った後は理髪店へ・・。この時とばかりブログの原稿作成に精を出すことにしました。

さて男の隠れ家には陶磁器の箱以外に額や掛け軸の箱に収納された日本画のまだあります。郷里の収納棚の額の作品を漁っていたら本日の作品が出てきました。鏑木清方? このような大家の作品は当方にあろうはずもないのですが、痛んでいた掛け軸から外して額装にした覚えがあります。

氏素性の解らぬ作品 紙雛 鏑木清方筆
絹本着色額装 
画サイズ:縦340*横295



当時は額装にそれほど資金は当てられず、近所の額装店から手配した額でたいしたいい額ではありません。懐かしなり展示室に持ち帰って飾ってみました。



赴任先はお雛様を飾るスペースのない住まいだったので、部屋に飾るためにこのように額装にした記憶があります。



筋のよい作品など買う余力がなかった当時、この作品だけでずいぶんとリッチになった気分に浸ったものです。



お雛様は気品と愛想が命ですね。



気分が明るくなるような作品が良いのでしょう。



夫婦二人で狭いアパート暮らし・・、これもまた幸せなものです。



思文閣の作品資料に下記の作品がありました。



画家は節句にはお雛様や鐘馗様を依頼されては数多く描いたのでしょう。



お値段はあくまでも参考まで・・・。本作品の真贋は? 小生の預かり知らぬところ・・・。


忘れ去られた画家 八郎潟の憩い(仮題) 舘岡栗山筆

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あまりに暑いこともあり、帰宅の早い日の夕刻から近所の子供ら庭で花火をしました。



最近の花火は安全性考慮からかねずみ花火などの面白い花火がなくなったようです。最後はたくさんの線香花火に皆で興じました。



本日はまたまた郷里出身の画家での作品すが、とても大きな作品で、このような力作は舘岡栗山には珍しい作品です。

八郎潟の憩い 舘岡栗山筆
紙本水彩額装 紙タトウ
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦



舘岡栗山は秋田県馬川村高崎(後の秋田県五城目町高崎)の生まれ。本名は豊治。小学校を卒業後、1911年に秋田師範学校講習科に進学したものの肋膜炎のため1年で中退、以後独学で絵を描き続け、秋田県五城目町の落合病院で事務員として就職してからも折りをみては季節の風物をスケッチしていたそうです。

1919年、22歳のときに家出同然に上京し、絵の修行をしようとしたものの、病を得て半年ほどで帰郷。健康を回復して25歳のときに改めて上京、アルバイトをして生活費を稼ぎながら絵の修行に励んみました。その頃、画号を長春から栗山に改めています。郷里の五城目町のシンボル的な里山である森山が、栗のような形にも見えたのが号の由来だそうです。

栗山は郷里秋田への思い入れが強く、のちには秋田の風物を主要な題材としました。1925年1月からは48回にわたって秋田の県内紙秋田魁新報に「秋田百景」を連載しています。



1926年、日本画の世界でさらに研鑽を積むため京都に移り住んでします。1928年、日本美術院の近藤浩一路に師事し、1933年、36歳で「台温泉」という作品で院展に初入選を果たしました。1936年に近藤浩一路は日本美術院を脱退しましたが、栗山は師と行動を共にせず、美術院研究会員となって院展に出品を続け、入選を繰り返しました。

翌年の研究会展作品『雨後』が大観賞を獲得、それを契機に安田靫彦に師事、昭和14年には院友に推されています。院展には初入選以来、連続入選30回を数え、1968年には特待・無鑑査となっています。



1945年4月に48歳で京都から郷里五城目町に疎開、翌年には隣町である一日市町(後の八郎潟町)に移り住んでいます。ここにアトリエを構え、秋田の風景や行事、伝承芸能などを好んで描き、地方色豊かなマニエリスム風の微細な描写が特徴の作風の作品を描いています。

この時に八郎潟において本作品を描いたと推測されます。

俳句や短歌にも親しみ、若いころには同郷の俳人北嶋南五や草皆五沼などとも親交があり、大正期には俳誌『山彦』を主宰しています。五城目町の雀館公園には栗山の句碑があり、短歌では同郷の歌人中村徳也とともに学び、夫人とともに短歌会「歌瀬歌会」をつくっています。



1951年には地域新聞「湖畔時報」を創刊し社主になり、日本画研究グループ「新樹社」を1958年に設立、秋田の代表的展覧会である「県展」の審査員も務めました。1962年に秋田県文化功労者、1970年に勲五等双光旭日章を受章。著書に『銀婚』、『栗山画談』があります。

母の実家が同郷の五城目町であり、母の実家にはなまはげを描いた作品など多くの作品がありました。また亡くなった家内の実家にも舘岡栗山の作品が遺されています。ただ今では郷里の人でさえ、舘岡栗山を知る人は少なくなっています。

郷土玩具 伊勢正義画 その10

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なにごとも息子には体験が大切・・、ちまちましたおもちゃよりデカイものがいい! おっと!ヘルメット着用を忘れています。



小生の職業柄、これらは小生には身近な機械です。高所作業者で上まで! もろんヘルメットに安全帯を着用させております。高いところは意外に大丈夫なようです。



大きなおもちゃの次は本日の作品は郷土玩具を描いた作品です。郷土出身の画家、伊勢正義が描いた作品です。

郷土玩具 伊勢正義画 その10
油彩額装 左下サイン
画サイズF4号:横*縦 全体サイズ:横*縦



1941年(昭和16年)12月13日、34歳の時の作品。



昭和16年12月13日というとその5日前の12月8日に日本軍のマレー半島上陸および真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦しています。

日本、対米英宣戦布告であり、なおアメリカでは12月7日を開戦日としています。12月12日 には日本政府は「支那事変(日中戦争)」も含めて戦争名称を『大東亜戦争』と決定しています。このような時期に郷土玩具の「馬」を伊勢正義が描いているのは、なにか意味があるのでしょうか?



我が家にもこの玩具類は母が集めてものなどが「男の隠れ家」に飾られています。実家が木材業であったこともあり、母の時代は馬橇を引く馬を大切にしていたようです。



現代はトミカで販売されているプラスチックの玩具が主流ですが、昔の玩具には手作り感が溢れていますね。



昔の玩具の中に大人たちの願いが込めらえています。



戦争が始まる最中、伊勢正義はどのような思いでこの作品を描いたのだろうかと改めて思いを馳せています。



郷里出身の伊勢正義の作品ですので、東北地方の郷里の玩具だろうと考えて描かれている玩具について調べてみました。

八幡駒(日本三駒):青森県八戸市郊外の櫛引八幡宮の例大祭で売られてきた木馬。例祭では一騎一射の掟で流鏑馬が奉納されたがこのときの姿にちなんで一鉋一鑿(いちかんないちのみ)の木馬を作ったのが始まりとされ、馬市で売られていく愛馬の無事を祈って木馬を買って帰ったといわれています。



木下駒(日本三駒):宮城県仙台市。黒地に赤・緑・白で彩色した木馬この地方は馬の産地として知られ、国分寺木下薬師の境内で馬市があり良馬を選び朝廷に献上する慣わしがあった。その献上馬が京都に上がる時に胸に下げた馬形から考えられたといわれる。それを真似て作られた木馬が木下薬師や竹駒神社の祭礼や初午祭りの露天で売られる様になったそうです。



三春駒(日本三駒):福島県郡山市西田町高柴産。馬の産地として知られた三春産の馬のことでそれを模った木馬。直線を生かした形の飾り馬で花模様の胸掛とシュロのたてがみと尾をつけたくましい状態を表現しています。



弘前馬コ:弘前市和徳。子供の木馬のルーツといわれかつては大きな馬を車のついた台車に載せて馬に子供を乗せひいたといわれる。平成6年廃絶しています。



チャグチャグ馬コ:岩手県盛岡市。チャグチャグ馬コ祭りにちなんだ馬玩具。藩主南部利直が馬産を奨励し優良馬を産出した。端午の節句の安息日が将軍家の馬揃えともかさなり、愛馬に鈴や美装を施し蒼前神社に参詣し、馬の息災延命を祈念したものから始まっています。馬の首に付けた鈴がチャグチャグと鳴る事にちなみ馬の晴れ姿を玩具化した作品です。



馬を神聖なる象徴、馬の息災を願っての作品が多いようです。戦争が始まり、せわしい時勢に逆らうかのようなのんびりした作品ですが、ここになんらかの画家の願いがあったのかもしれません。

ま~、人形など玩具を良く描く画家ですからたいした意味がないかもしれませんが・・・



展示室では明治の頃の柱時計と一緒に展示しています。



古き良き時代まで時間がスリップしているような錯覚に陥ります。子供にはいろんなもので遊ばせたい・・・。




備前の近代作品

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*昨夜は猛暑対策?にて取引相手や仲間らと銀座でステーキ会食、痛飲し本日の投稿は今朝方となりました。

休日には家内と息子でコンサートを聴きに出かけてきました。ジャズバージョンも多く盛り込まれ、息子と小生はノリノリ・・。年少の子らに本格的なコンサートを聞かせてくれるので非常にいい機会でした。

コンサートにしろ、美術展にしろもっと子供やお年寄り、さらにはまともな大人が参加できる企画がこれからは必要です。きっちり勤務時間中に開催の美術館、子供厳禁の美術展やコンサート、誰が見聞きしにいくのか? 今までの大人の常識はこれからは非常識にしなくてないけません。



このコンサートの奏者は腕は超一級品・・。なにかの常識を変えるには一流の人が行動を起こすと有力ですね。



さて、本日は二流の話。もとい中堅作家の紹介です。

男の隠れ家には今まで本ブログで紹介した作品以外の備前焼の作品がごろごろしています。



そんな作品を幾つか帰京に際して持ち込んだ作品や男の隠れ家に放置されている作品を撮影してきました。まだ郷里には備前焼の作品がたくさんありますが、本日はその中からとりあえず2作品を紹介します。

備前花入 武用真作
共箱
口径75*最大胴径120*底径約100*高さ217



昭和51年10月開催の東京日本橋高島屋の「武田真 作陶展」にて購入した作品。



家人の「陶磁器は磁器より陶器、行き着くところは備前」、「現代作家から優品を見出すことが必要」という言葉が思い起こされます。



武用真:昭和10年備前市生まれ。岡山県無形文化財藤原楽山に師事後窯を築いて独立。昭和44年に藤原楽山、藤原健の指導により香々登釜を築窯。



近代備前焼というと金重陶陽、藤原建、藤原啓、藤原雄らが代表格ですが、こられの作品は本ブログでも紹介されています。



ただ備前焼は陶工の技術よりも火の偶然によって数多くの名品が生まれます。



現在では数千円程度で取引されてる作品ですが、この作品は私は好きですね。



備前四方花入 高原邦彦作
底掻銘 共布 共箱
幅85*奥行85*高さ227



高原邦彦:昭和21年岡山県生まれ。備前焼作家高原昌治の弟。兄に師事後平成2年に窯を築いて独立。日本伝統工芸展他入賞多数。花入は大振りで雰囲気のある作りに、焼けは良く焼き締まった地肌に黄・青・焦げ茶のゴマがたっぷりと掛かり緋襷と相まって良い雰囲気の作品が多い。







鑑定として名高い桂又三郎の栞もあります。





作品中にある栞は必ずとっておくことが大切です。これがないと購入時期、場所が解ららなくなります。



この作品に同封されれたいた資料から本作品は昭和51年1月に日本橋高島屋で開催された「備前陶心会展」から購入した作品だと断定されます。



出品者はそうそうたるメンバーですね。人間国宝の藤原啓、伊勢崎淳、藤原雄らが名を連ねています。金重陶陽(昭和31年)、藤原 啓(昭和45年)、山本陶秀(昭和62年)、藤原 雄(平成8年)、伊勢崎 淳(平成16年)の五名が現在の備前焼の人間国宝です。また金重素山、金重道明、森陶山らも名を成しています。



高島屋では備前焼を後押ししていたようです。高原邦彦は平成19年に大阪の高島屋でも個展を開いています。



家人らは郷里から上京して銀座の高島屋や三越で買い物をすることがひとつのステータスになっていたのでしょう。観る眼があったのか、なかったのか・・・、いずれなんらかの遺伝子で小生に伝わっているのかもしれません。

夏の帰郷にはさらに備前焼を中心に男の隠れ家を漁ってみようと思います。

贋作考 虎之図 平福穂庵筆 

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この作品はもともとは母方の縁者が所蔵していた作品でしたが、近日、知り合いからの紹介で縁あって譲り受けた作品です。真作なら平福穂庵の大幅で初期の作品と言えますが・・。

贋作考 虎之図 平福穂庵筆 
紙本水墨軸装 軸先 合箱
全体サイズ:横1140*縦1840 画サイズ:横1000*縦920



落款には「明治乙亥二月 穂庵□順 押印」とあります。1875年(明治8年)。平福穂庵が31歳の作となります。

当方の所蔵する作品では下記の「双鶴図」(真作)の作品が近い時期の作品であり、この作品の画中の賛には「甲戌春三月」から1874年(明治7年)、落款からは穂庵の初期の頃、30歳頃の作と推定となります。

双鶴図 平福穂庵筆 その16(真作整理NO)
紙本水墨軸装 軸先鹿角 合箱 庄司氏旧蔵
全体サイズ:縦2063*横615 画サイズ:縦1078*横451

両作品の落款を比較してみましょう。左が本作品(「虎之図)、右が「双鶴図」(真作)であり、一年の製作時期の違いがありますが、見紛うことなきがごとく、ほぼ同一人のよるものと推察されますが・・。

 

問題は印章です。印章は朱文白長方印「穂庵」で、上記作品「双鶴図」に押印されている印(真印)とは違います。

そこで印章の確認は当方の他の真作の所蔵作品である「瀑布図」、「雪中鴛鴦図」(慶応3年 1867年 明治元年前年)に同一印章が押印されていますので、そちらと比較してみました。

 

この印章との比較において、本日紹介している「虎之図」と微妙に違います。このことにより、売買では真作とは断定されない可能性があります。「雪中鴛鴦図」から8年後の作ですので、印が多少変わっている可能性は否定できませんが厳密な判断が必要です。

これ以上制作年代が近いと判断される年号入りの平福穂庵の資料が手元にないので判断資料はありませんが、印章が微妙に違うという現象は明治以前の印章にはよくあることです。一概にここで贋作とは断定できないものがあります。



初期の頃の平福穂庵は、16歳で京都に遊学し、故郷にあてた手紙に「予は自然を師として独往(どくおう)の決心」と書き記したように、特定の師につかずに古画の模写や風景写生に励んで画技の研鑽を積みました。この頃から穂庵の雅号を用いています。



帰郷後も、幕末から明治にかけての大きな社会的変革の中にあって画業に励み、対象に迫る眼や実物写生による迫真性にさらに磨きをかけ、形式にとらわれた作品が多いこの時期に、自由奔放で才気あふれる自在な筆勢をみせています。この時期(初期の頃)の作品を高く評価する人も多いようですが、真作ならまさしく本作品はこの頃の佳作と言えます。

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平福穂庵:弘化元年生まれ、明治23年没(1844年~1890年)。秋田県角館出身。名は芸、俗称順蔵。当初は文池と号し、後に穂庵と改めた。画を武村文海に学び、筆力敏捷にして、ついに一格の妙趣をなし、動物画に長ず。百穂はその子。「乳虎図」(河原家蔵)は代表作。17歳で京都に上り修業、元治元年に帰る。明治23年秋田勧業博覧会で「乞食図」が一等。明治19年に東京に出て、各種展覧会に出品、大活躍する。系統は四条派で、門下に寺崎廣業ほか10人以上に及ぶ。

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平福穂庵の虎の作品というと有名な「乳虎図」がありますが、この作品は明治23(1890)年の第三回内国勧業博覧会で妙技二等賞を受賞しており、平福穂庵の最晩年における代表作です。



この作品は、日比谷公園で展示されていた虎を一週間通い詰めて描いた入念な写生図をもとに、明治22(1889)年に病気のため帰郷した角館で構想を練り、制作されたものです。

「乳虎図」は円山四条派の流れをくむ写生体で、模索の末に打ち立てた独自の画風の円熟をみることができます。精緻な筆遣いで描かれた表情や金泥(きんでい)を施した毛並みの柔らかい質感など、細部まで余すことなく描き込まれた「乳虎図」は、鋭い観察と磨かれた画技に支えられ、平福穂庵の精神性までもが表現された、格調高い作品となっています。平福穂庵の晩年の最高傑作でしょう。

本日の作品が真作なら、この代表作より14年前に描かかれた虎を画題とした作品となり、資料的にも価値のある作品となります。



本作品は興味深い作品であることには相違ありませんし、落款の出来から当時の家人らは真作と判断したのでしょう、母の実家では杉の材木業を営んでいたことから分厚い杉板材を使用した立派な箱が誂えられています。

*明治以前の上等な杉箱に収めらえた作品には良品がありという言い伝えが骨董にはあります



印章の違い、絵の出来では虎の左足のあいまいな表現などから、真作とは断定できないと当方では判断されますが、この作品は小生の先祖に関わる歴史のひとつですので、大切に保管しておきましょう。

*先人である家人の弁護のため:母の実家の家人は目利きでしたので真作と断定できないと理解していた可能性があります。母の実家で所蔵していたほとんどの作品を小生に見せてくれていましたが、この作品については見せてくれていませんでしたので・・・。



当方のような骨董をビジネスとしていない素人に迂闊な判断は禁物です。他の作品らと良く見比べて慎重に判断しています。

素人が「贋作を真作ととらえるのはそれほど罪ではありません。」が、「真作を贋作と断定するのは大きな罪」です。本作品は微妙な作品であり、現段階では「真作とは断定できない、」という表現にととまります。



資料から推察すると元々本作品を母の実家の縁者が所蔵する前に所蔵していた家が解り。その家と同郷の家(共に地元では名家)で所蔵していた刀剣を手前に飾りました。骨董には地元での先祖の歴史があります。そしてそれは小生に関わる歴史のひとつであることも事実です。

河童の三平 西瓜神輿 伝水木しげる筆

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今年の夏は暑い! 息子と家内は川へ・・。



我らが子供の頃は夏は川へ泳ぎに行き、沼へ魚釣りに出かけたものですが、よく大人から「河童が出るぞ!」と脅かされたものです。これは「危険な水場にはいくな!」という警告もあったのでしょう。

そこで本日は河童を題材にした作品の紹介です。

子供の頃によく読んだ漫画に水木しげるの作品がありますが、その難解さ、おどろおどろした内容には「大人の漫画的な内容」もありました。水木しげるの代表作である「ゲゲゲの鬼太郎」が一番馴染みやすい漫画であったかもしれませんが、そのほかの水木しげる自身の戦争体験というものを背景にした作品、さらに妖怪の研究内容を作品にしたものが現在では高く評価されています。

河童の三平 西瓜神輿 水木しげる筆
紙本金地水彩額装 F8号 タトウ
額サイズ:縦558*横632 画サイズ:縦379*横455



この西瓜神輿は水木しげるの作品には、色紙をはじめとした数多く描かれています。河童が桃や南瓜を神輿として担ぐ姿を描いている作品も多くあります。



多くの作品が本作品の共シールに押印されている印章と同一印章(朱文白方印の「水木」)であるのに対して、本作品そのものへの印章は「水木茂之印章」の白文朱二重方印が押印されています。この印章については最終的な確認が未了ですので、あくまでも作品については「伝」とさせていただきます。

 

この印章が押印されていることが確認できる作品は下記の作品があります。

「田舎の河童(かっぱ)たち」という題名の作品で、江戸東京博物館の学芸員が夏休みに訪れた福島・奥会津の温泉旅館で偶然発見したものです。「河童の湯」と名付けられた風呂場の前に飾ってある作品ですが、その経緯は、旅館の改装にあたり何度か宿泊したことのある水木しげるに作品の製作を依頼し、地元に伝わるカッパの話をもとにこの力作を描き上げてもらい飾ったところ温泉客からも喜ばれたそうです。



この作品は2004年11月6日から2005年1月10日まで東京・両国の江戸東京博物館で開催した「大(Oh!)水木しげる展」に展示されました。この印章が力作のみに押印されるとかの特別の意味を持つ印章なのかは不確定です。

「河童の三平」はオールドファンには懐かしい作品です。小生の息子の口元がときおり河童に似ていることが本作品を購入した一番の理由です。



「ゲゲの鬼太郎」は多くの方が知っていますが、河童の三平は知っている人は少ないでしょう。

 

水木しげるの生涯は本ブログには書ききれないものであり、簡略に下記に記しますが、詳細はインターネットの記事にて参考にしていただきたいと思います。

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水木しげる:1922年3月8日 - 2015年11月30日。日本の漫画家。文化功労者、傷痍軍人。本名は武良 茂(むら しげる)。 大阪府大阪市住吉区出生、鳥取県境港市入船町出身、戦後何度かの転居の後東京都調布市に永住。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市で経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1958年に漫画家としてデビュー。代表作の『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者。

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水木しげるの経歴を簡単に記すると下記のようになりますが、過酷な戦争体験と帰還後の困窮した生活は筆舌に尽くしがたいものがあるようです。



画家を目指して大阪で働きながら学ぶ→ニューギニア戦線・ラバウルに出征→酷な戦争体験を重ね、米軍の攻撃で左腕を失う→復員後は貧窮により画家の修行を諦める→生活のために始めた紙芝居作家→貸本漫画家としてデビュー→妖怪を扱った作品により人気作家



水木しげるは戦争で片腕を失ったことに対しては「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう。」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか?」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある。」と答えています。



水木しげるは、ある日長女に「手塚治虫先生の漫画には夢がある。お父ちゃんの漫画には夢がない。」と言われ、「馬鹿野郎!俺は現実を書いているんだ!」と激昂したという逸話があります。



人一倍の苦労と辛苦を味わった水木しげるの人生、漫画そのものから窺いしれない水木しげるの反骨精神を学びたいもの・・。

夏は水遊び・・・、そして大人は原爆や終戦の意味を考える時期・・・。

孔子図 伝円山応挙筆 その3

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孔子が「論語」「己の欲せざるところは人に施すことなかれ(自分が望まないようなことは人にもしむけるな)」と記しているように、孔子がとくに強調したのは仁(思いやりの愛)と忠(対社会的な真心)でした。それを形にしたのが「礼」です。

礼とは本来、祭祀の儀礼を意味する言葉ですが、孔子はこれに道徳性を付加しました。礼に新しい精神を注入することで、国家の制度から日常の細かい規範まで、幅広い慣習を含むものへと再編しました。孔子の死後、弟子たちは孔子の言葉を主として、孔子と弟子その他の人々の問答などを集めた語録を編纂し、これが著名な『論語』です。のちにご存知のように儒教の代表的な経典となりました。

本日はその「孔子」を描いた作品の紹介です。

孔子図 伝円山応挙筆
絹本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:横545*縦1920 画サイズ:横430*縦1080



落款には「天明丁未暮春写 平安 応挙 押印」とあり、1787年(天明7年)の作と推察されます。同時の文献からの落款と印章(右側)を比較してみました。なにしろ円山応挙となると、落款と印章は贋作ではうまく真似しますので、本作品はあくまでも「伝」とご承知おきください。

 

*上記の落款は非常によく似ていいますが、出来以外での落款と印章の疑問点は下の印の切れ具合でしょうか? この程度の違いを問題にする者と問題にしない者がいるから真贋は厄介です。素人はおおらかな判定で、愉しむことを優先したほうが精神衛生上はいいと思います。

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孔子:紀元前552年9月28日~紀元前479年3月9日。春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。

中国春秋時代の思想家(紀元前551年ごろ〜前479年)。故郷で役人となり司法長官まで昇進したが、50代半ばに政争に敗れたとされ、弟子を従えて十数年間諸国を遍歴し、諸侯に徳の道を説いて回った。晩年は故郷で弟子の教育と書物の整理に専念した。

孔子が説いた仁(人間愛)や礼などを重視した考えを体系化したものが儒教。「論語」は孔子の死後にその言行を弟子らがまとめた書物で、「過(あやま)ちては則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」、「朋(とも)あり、遠方より来(きた)る、また楽しからずや」などの言葉は有名。

「温故知新」など論語に由来する四字熟語もあり、日本文化にも影響を与えています。釈迦、キリストと並んで世界の三聖人と言われる。彼が生きたのは今から2500年前の中国大陸。当時は周王朝が滅亡、人々の心が荒れすさんだ春秋戦国時代でした。「乱世に人はいかに生きるべきか?」彼はこの問いに対する答えを求め溢れんばかりの生命力でまっしぐらに人生を走り抜けたと言えるでしょう。

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孔子の身長は9尺6寸、216cmの長身(春秋時代の1尺=22.5cmとして計算)で、世に「長人」と呼ばれたそうです。容貌は上半身長く、下半身短く、背中曲がり、耳は後ろのほうについていたという。



飯は十分に精白されている米や、膾(冷肉を細く切った物)などを好み、時間が経ち蒸れや変色、悪臭がする飯や魚や肉、煮込み過ぎ型崩れした物は食べなかったという。また季節外れの物、切り口の雑な食べ物、適切な味付けがされていない物も食べなかった。祭祀で頂いた肉は当日中に食べる。自分の家に供えた肉は三日以上は持ち越さず、三日を過ぎれば食べないほか、食べる時には話さない等、飲食に関して強いこだわりを持っていたようです。食通? 頑固者?



「仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現」(論語)・・・ 孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させたとも言われています。

その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたっています。 孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかったようです。

孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方ができます。

孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返しました。それどころか、孔子の思想通りの最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えることになります。ある意味、食事に対する対等と同じく理想主義的な面が災いしたと言えます。腐ったものでも食べることも為政者には必要なのかもしれません。



孔子の子孫で著名な人物には子思(孔子の孫)、孔安国(11世孫)、孔融(20世孫)などがいます。孔子の子孫と称する者は数多く、直系でなければ現在400万人を超すという

孔子の死後すぐに、孔子の住居は魯の哀公によって廟に作り替えられた。この廟(孔廟)は歴代王朝によって維持・拡張され、巨大な建築群となっています。現代においては、北京の紫禁城に次ぎ、泰安市の岱廟とともに中国三大宮廷建築の一つと呼ばれています。

また、泗水のほとりに葬られた孔子の墓である孔林も、歴代の孔子の子孫が埋葬され続けるとともに規模も拡大され、広大な墓所となりました。この孔林に埋葬されている孔子の子孫の数は10万人以上ともされていいます。そして宋朝期からは、孔廟と孔林を維持管理するために孔家は曲阜に邸宅をもうけ、1055年に衍聖公に封じられると維持管理の役所も兼ねるようになりました。この邸宅は衍聖公府(孔府)と呼ばれ、これも後世になるにつれて拡張され立派なものになっています。この3つの建築群はあわせて、三孔と呼ばれ、これらの三孔の建築群は、1994年にユネスコによって世界遺産に指定されました。



紀元前479年に孔子は74歳で没し曲阜の城北の泗水のほとりに葬られましたが。前漢の史家司馬遷は、その功績を王に値すると評価し、「孔子世家」とその弟子たちの伝記「仲尼弟子列伝」を著し、儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。



代表的な「孔子の教え」その19

01. 人徳によって政治を行えば、星々に慕われる北極星となる。

02. 君子は器にあらず(人格者とは、何か一芸に特化した専門家ではなく広く俯瞰した知識を持っているもの)

03. 政治とは、誤りを正すこと。指導者が正しくあれば、民が間違えることはない。

04. 人格者は広く交流する。徳のない人物ほど一部に固まる。

05. 信頼のない人物には、何を任せてよいのかわからぬもの。牛車や馬車にくびきがなければ、どうやって操ることができるというのだ?

06. 考えのない学びは、無駄である。学ばずに考えてばかりいては、危険である。



07 .指導者たるもの威厳を持つこと。学問にて柔軟な知識を養い、誠実であること。自分の視座に見合わない者を友とするべきではない。過ちがあった時、改めることをためらってはならない。

08. 人に知られていないからといって心配する必要はない。人を知らないことを心配しておくべきだ。

09. 人格者が、豪勢な食や快適な家を求めることはない。行動は機敏だが、発言は慎重である。徳の高い人物に自分の行動を正してもらう。そんな人物こそ学問が好きな人だと言えるだろう。

10. 「詩経」には300以上の詩がある。しかし、書かれている内容は一言であらわせる。“誠実であれ”

11. わかっていることを「知っている」という。わかっていないことを「知らない」という。これが「知る」ということだ。

12. 民を政策で導き、刑罰で治めれば、みな法の抜け道を探し始めるだろう。徳をもって民を導き、礼をもって治めれば、みな恥を知りその身を正すことだろう。



13. 十五で学問を志し、三十にして独立した。四十で迷いが消え、五十で天命を知った。六十になると人の話に耳をかせるようになり、七十になってやっと、人の道を外れることなく自由に行動できるようになった。

14. 人は、それぞれに応じた間違いを犯す。どんな間違いを犯したかを見れば、その人を知ることができるだろう。

15. 人格者には3つの畏れがある。天命や、人格者の声、聖人の言葉だ。徳のない人物は天命を知らず、畏れも感じない。人格者に馴れ馴れしく振る舞い、聖人の言葉を侮辱する。

16. その人の善悪を知るためには、まず行動を知ることだ。もしそれが善なら、次に同機を知ること。またしてもそれが善であれば、最後に楽しんでいるのかを確かめる。この3つの視点で人を見れば、誰もその善悪を隠し通すことなどできない。



17. いくら口がうまくとも、上辺だけの愛想でごまかす人間は思いやりが足りないものだ。

18. ふるきをたずねて新しきを知る。そうすることで人を教える師となれる。

19. 信念に従って行動しない者は、臆病者だ。

湯島聖堂には孔子像が建立されていますし、孔子図は数多くの画家が描いています。

 

20世紀、1910年代の中国の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。

孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。ただ近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し、また、「孔子」がブランド名として活用されています。

どう評価が分かれようが、いつの時代になっても孔子の教えは人の心に響くものが多い。真贋はともかくしばし鑑賞しながら孔子の教えを思い起こしたいものです。

*円山応挙として伝わる作品はものすごい数になります。おそらくその9割が贋作。大半画で気が悪いもので、さらに落款と印章にておおよそ判断できるとのことですが、ほんの少しの作品が判別のつきにくい作品と言われています。題材では鯉、虎、亀はまず怪しい・・。

立美人図 伝三畠上龍筆 その2

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肉筆浮世絵の分野は正直なところ当方の蒐集においては一歩外に置いています。非常に贋作が多く、また高値であることが大きな理由ですが、美的観点からは退廃的な作品が多く、優れた作品が数が少ないというのも蒐集から一歩外にある理由のひとつです。また美人画が多く、蒐集する人には男性が多く偏執的な蒐集家が多い?というのも理由かな?

時代では江戸後期の歌川派以降は美人画は退廃的な作品ばかりとなりました。国貞以降は菊川英山を含めて退廃的となり、観るべき作品は一部を除き皆無といっても過言ではありません。「退廃的」という表現は心外と思われる浮世絵ファンもいるでしょうが、このことはは客観的な事実です。

美人画の歴史を論じている著書でも「文化・文政期以降になると渓斎英泉や歌川国貞などが描くような嗜虐趣味や屈折した情念を表すような退廃的な美人画が広まる。これらは江戸での動きだが、京都でも源琦や山口素絢ら円山派を中心に、京阪の富裕な商人層に向けて盛んに美人画が描かれた。19世紀初期には祇園井特や三畠上龍のように独特なアクの強い表現の絵師も現れる。」と表現されています。

本日は上記記事にも記載されている上方肉筆浮世絵の代表格の三畠上龍の作品と思われる作品の紹介です。あくまでも「伝」ですのでご了解ください。

立美人図 伝三畠上龍筆
紙本着色軸装 軸先蒔絵 合箱
全体サイズ:縦1972*横548 画サイズ:縦411*横987

 

幕末の古伊万里皿を前に飾って掛けてみました。

上方浮世絵は江戸の浮世絵とは全く違う発展を遂げているようです。江戸でいう浮世絵とは一枚刷りの版画や版本などの「版画」が中心ですが、肉筆浮世絵は高級志向の一部の愛好者のため、あるいは絵師のこだわりで描かれました。

しかし上方では版画と言えば版本のみであり、鑑賞用の一枚絵には肉筆画が求められました。鑑賞するなら版画は嫌だという思い入れがあったかもしれません。つまり絵師としての活躍の場が版本と肉筆に絞られた背景のもとで発展してきました。それだけ絵師は腕を競い合って肉筆画を描いており、そこには日本画家、浮世絵師という区切られたジャンルが存在しなかったとも言えます。一枚刷りの版画とともに発達したのが肉筆画と考えるなら、上方には浮世絵が存在しないとも言えるかもしれませんね。

三畠上龍の説明資料として下記のものがあります。

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三畠上龍:(みはた じょうりゅう、生没年不詳)。江戸時代後期の天保期を中心に活躍した浮世絵師。

四条派の岡本豊彦の門人であったが、後に上方風俗画を描いた。京都に生まれ、岡本豊彦に絵を学んだのち大坂に住み、浮世風俗を写して一家を成した。

横山乗龍、上龍、乗龍、乗良、襄陵、真真と号す。「乗良」、「襄陵」の号から本来の読みは「じょうりょう」が正しいと考えられる。姓は三畠とされるが、それを証明する確実な資料はない。ただし「上龍」印を捺した作品の落款にしばしば「横山乗龍」の署名があることから、少なくとも横山姓を名乗っていたことは確認できる。

 

主に天保期に活躍し、肉筆美人画を専門とした絵師として知られる。天保15年(1844年)刊行の『近世名家書画壇』に、「今世又京師に乗龍、江戸に国貞あり」と記され、天保の頃には既に名声を得ていたことがわかる。また弘化4年(1847年)刊の『京都書画人名録』では、既に故人とされている。



四条派の洒脱な様式を受け継ぎその花鳥画を巧みに織り込みつつ、美人の着る衣装の描写において荒く勢いある粗笨な筆を使い、華麗な色調と磊落さを合わせ持つ独特な一人立ちの美人風俗画を多く残している。「明石駅立場図」は須磨明石街道を描いたもので、立場茶屋の様子を細かく写しており、その手腕を大いに発揮しているといえる。またその風景の描写も大変優れたものである。門人に吉原真龍がおり、その画風は幕末の上方美人画の基調となり、その影響は上村松園ら近代の美人画にまで及んでいる。



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この当時の上方肉筆浮世絵の大きな特徴は唇にあり、上唇の輪郭は紅色で内側は白っぽく描き、下唇は緑色で笹紅という特徴のある描き方になっています。これは上方浮世絵の一派の大きな特徴ですが、どうして統一的な描き方が主流として定着したかというと当時流行した化粧方法であったことが原因としてあるようです。18世紀後半から19世紀初期頃からこのような描き方が多くなり、本ブログでも紹介されている祇園井特の作品から顕著になります。



これをもって当時の上方浮世絵師らの作品の真贋のポイントとすることが多いようです。



あわせて眼の描き方など、どうしても美人画は顔中心にその見極めとなりますが、上方浮世絵の鑑賞のポイントは私は着物などの大胆な構成にあると思います。とくに四条派の影響を受けている三畠上龍は優しい顔立ちとその衣装構成によって理想形の美人画を生み出しました。



写真では解りにくいのですが、髪飾りや襟元を中心に銀彩が施されたおり、非常にあでやかなっています。



着物をよく見ると雑な描き方のように見えますが、桜に千鳥を中心に描かれ、金泥をあしらいながら、全体にシックで格調高い作品になっています。



着物の絵の構成が大胆なゆえに人物全体を大きく見せています。上方浮世絵は顔立ちに、小物に、しぐさにと、上方ならではの美しさがあります。



本作品は保存箱もなく、題名は解りませんので仮題として「立美人図」としましたが、三畠上龍には「扇美人図」という著名な作品がありますね。



こちらは舞扇であり、芸妓か太夫か? 内掛けを独特のまといかたをしているようです。



赤い帯の千鳥が印象的です。



よくみると銀彩がゴージャス・・。写真では胡粉のように見えますが、実際はきらきら輝いています。獅子がかわいい!



表具も作品に良く似合っています。



保存箱がないのですが、保存状態は良い方でしょう。表具は改装されている可能性があります。



三畠上龍の作風は門人の吉原真龍、如龍に受け継がれていきますが、三畠上龍には及ばないものとなっています。



絵の具が剥落し始めていますので、太巻きにして保存するのが望ましいのですが、そこまで費用を費やすべき作品か否かを見極めているところです。



軸先は定番の蒔絵のようなものとなっています。

三畠上龍の似たような作品に下記の作品があるようです。



印章は白文朱方印の「襄(乗)陵」(号のひとつ)と思われますが、作例には白文連印はありますが、この単印は当方の印歴の資料がありません。「乗龍」など他の読みかもしれませんが、確認の必要があります。

前に紹介した「清涼美人舟遊図 作者不詳(伝三畠上龍筆)」の作品の朱文白長方印も読みは不明です。これらの印の確認ができないことが「伝」の大きな理由のひとつでもあります。

下の写真が「清涼美人舟遊図」との落款・印章の比較です。「清涼美人舟遊図」は元の落款を消して上書きした?可能性もあります。



上記の右の落款と印章のある作品「清涼美人舟遊図」は、不確かな作品として本ブログにて投稿しており、むろんこちらも三畠上龍という断定はできていませんと。

清涼美人舟遊図 作者不詳(伝三畠上龍筆)
絹本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1650*横430 画サイズ:縦830*横328



三畠上龍や吉原真龍の作品の特徴は唇描き方が笹紅色という「下唇は笹紅の緑色に、上唇を輪郭は紅色で内側は白っぽく描き、笹紅を描かなかったとしても、上唇の真ん中に紅の線を入れたり、濃淡を入れて描く」という描法です。

本日紹介した「立美人図の作品に比べて「清涼美人舟遊図」の作品は唇の部分が希薄になっていますが、これはよくあることで絵の具が剥落した恐れがあります。



着物の描き方が雑になったように感じますが、このような作風は三畠上龍の晩年の作?と思われる作品にはあります。なんといっても帯の特徴的な描き方は三畠上龍の描き方そのものでしょう。一概に贋作とは決めつけないほうがいいと思っています。

贋作を真作とするのはまだ罪がありませんが、真作を贋作とするのは大きな罪です。なんども鑑賞してからの結論とするのが私流です。

ところで以前に下記の作品の吉原真龍の作品を投稿したところ、その真贋についてコメントを複数の方から戴きました。

蛍狩り美人図 伝吉原真龍筆 その2→真作



その唇の特徴や顔立ちから贋作という方と真筆という方がおられましたが、当方の判断は真筆であろうと判断しました。真作とのコメントのとおり唇部分は絵の具の剥落によって後日、後筆されたというのが正しいと思います。



実際に飾ってみるといい作品であると感じることができます。



同時にもう一作品には上記の作品にコメントを戴いた両名から出来の良くない作品と判断されました

立美人図 伝吉原真龍筆 その1→贋作

 

この作品は落款がなく、印章がうっすらとあり、その印章が「真龍」と読めるものです。これは印章を後日押印したことでご指摘のように「真龍」の贋作となった作品でしょう。如龍の作風に似ていることからその頃に描かれた無銘の作品だったのでしょう。

*如龍からは上方浮世絵もあきらかに退廃的になりました。

肉筆の浮世絵のいい出来の作品の真作はそうは市場の出回らないものです。海外に流出した作品も多く、上方浮世絵、本日紹介した三畠上龍の作品についても数多くが海外に流出しています。ただし現在はそれほど評価は高くないのが実情のようです。

*ちょっと怪しげな作品を紹介すると「本ブログは贋作だらけ」という心外なコメントが投稿されますが、それも蒐集する者の偏執的な面の表れとして、また貴重なアドヴァイスとして受け流しています 真贋の論争は当方の望むところではありません。

そもそも本ブログはSNSとは違い、中傷するような軽薄な文章はお断りしていますのでご了解ください。それと海外からの英文での問い合わせには一切応じておりませんのでその点もご了解願います。

寺崎廣業の展示

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基本的に当方はNHKのニュース以外ではドラマの録画以外のテレビは観ないことにしています。テレビを観るのは時間の無駄、さらには害毒以外の何物でもない。

たとえば「レベルの低い政治の報道、とくに野党は地に落ちた」、「弱いスポーツの番組、世界に通用しないゴルフ、テニス、サッカーのマスコミが過剰に期待感を煽る報道はいかがなものか」、そして究極は「民放の劣悪なニュース報道、娯楽系はむろん観るに値しないが、ニュース系は害悪以外の何物でもない」。これらのテレビ放映には一個人としては、なにも物申せないが、観ないという抵抗はできるとの考えです。マスコミは少しまともな放映・報道をしてもらいたい。骨董の世界より、真贋ふくめて魑魅魍魎としているのがマスコミ報道ですが、性質が悪いのは民衆の動向を煽ることができるという点と人々の時間を食いつぶすという点。

寺崎廣業の作品で「護良親王図」、「和漢諸名家筆蹟縮図」というかねてから欲しかった二作品を縁あって同時に入手し、これを機会に展示室にて寺崎廣業の作品をいくつか展示してみました。



この二作品は寺崎廣業の系譜には欠かせない逸品であることには相違ありません。



この二作品は後日、他の記事にて記載する予定です。



寺崎廣業の作品は非常に贋作が多いので取捨択一しながらの蒐集ですが、それでもはや60作品と超える数となりました。



二階の廊下は掛け軸を掛けるには高さが足りなかったようです。



一階には小点の作品を飾りました。



順次紹介しますが、手元近くにあった作品を飾った展示ですので順不同です。まずは美人画、廣業の美人画には贋作が多い。時には横山大観の鑑定というありえない作品も出てきます





寺崎廣業は明治期は唐美人図を得意としました。郷里のお寺では「なんでも鑑定団」に印刷の作品を出品して失笑されたことがあります。





晩年の風景画です。





さらりとした作品が多い中で書き込みの多い作品は非常の数が少ないですね。





人物画・・。













まだまだ玉石混合の蒐集ですが、選別して取捨する作業に入ります。いい作品は地元出身の画家の作品ですので地元に遺しておきたいものです。

基本的にテレビなど観ている時間は小生にはない、生は限られた時間しかないので有効に使わないといけません。せめて好きな番組は録画してコマーシャルを飛ばして観るようにしています。

弔意

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本ブログでも紹介している秋田県立美術館館長で保戸野窯の平野庫太郎氏が8月7日夕方ご逝去されました。昨夜、御報告が奥様からありました。

陶芸を教えていただき、友人としてお付き合いさせていただいたこともあり、弔意によりブログをしばらく休ませていただきます。

研ぎ完了 刀 その九&十 末古刀&新々刀

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本日紹介する作品は、家にある作品を整理していた友人から譲り受けた刀剣ですが、以前に*本ブログでは研ぎに出す前の状況で投稿しております。この度、銀座にある「刀剣柴田」に依頼して研いでもらいました。

*以前に「縁のある刀剣たち」(2018-05-12 投稿)にて投稿した作品です。研ぐ前の状態や鍔や拵えなどの詳細はそちらの記事を参考にしてください。拵えのままでしたのでこの度の研ぎに際して白鞘を誂えました。

刀 その九 末古刀(室町末期) 無銘
長さ:73.8センチメートル
登録 平成29年7月10日発行
反り:2.9センチメートル 目くぎ穴1個



参考までに研ぐ前の状況は下記のとおりですが、柄の部分は錆だらけで柄を抜くのに苦労しました。研ぐ前は刀剣柴田の方は新刀ではないかとのことでしたが、研いだ結果、どうも室町末期くらいはありそうだとのことです。



分類では末古刀~新古境と称する時代に分類されるようです。末古刀の作られた戦国期には「数打ち」の粗製濫造品が多かったようですが、この作品は保存刀剣としての認定のとれるきちんとした刀剣だそうです。ただ残念ながら無銘ですが、無銘の刀剣は非常の数が多く、無銘でも専門家は出来不出来、製作者を推定できるようです。



ちなみに刀剣の時代による分類は下記のとおりです。

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刀剣には時代のよって下記のように分類されます。

上古刀:通常日本刀の分類に入らない、古刀以前の刀をさす。直刀が主であるが、大刀などにはそりが見られるものがある。

古刀:狭義の日本刀が制作されてから、慶長(1596-1615年)以前の日本刀をさす。室町中期以前は、太刀が主である。

末古刀:室町時代末期、応永以降の概ね戦国時代頃の古刀を、「末古刀」と呼び、区別することがある。「数打ち」の粗製濫造品が多い。

新古境:安土桃山時代 - 江戸最初期頃の、古刀から新刀への過渡期をこう呼んで区別することがある。慶長 - 元和の頭文字を取り、「慶元新刀」とも呼ばれる。

新刀:慶長以降の刀をさす。この時期の日本刀は、さらに「慶長新刀」「寛文新刀」「元禄新刀」に分類される。

新々刀:「水心子正秀が提唱した古刀の鍛錬法」を用い制作された刀などの諸説あるが、新刀の内でも明和年間(1764-1772年)以降の日本刀をさす。

幕末刀:新々刀の内でも幕末頃に作成されたもの。

復古刀:江戸時代後期に鎌倉時代などの古名刀を手本として製作されたもの。

現代刀:これも諸説あるが明治9年(1876年)の廃刀令以降に作刀された刀剣をさすことが多い。

昭和刀:主に軍刀向けとして作られた刀をさす。美術刀剣としての日本刀の分類から除外されることが多いが、昭和に製作された刀の全てを指すわけではない。製法は様々であるが、本鍛錬刀でないものは原則的に教育委員会の登録審査に通らず、公安委員会の所持許可が必要となる。しかしながら、必ずしも厳密なものではなく明らかに鍛錬刀とは見られない特殊刀身であっても登録が通っているものや、特例として戦後間もなくは遺品などとして登録証の交付を受けているものも数多くある。

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友人の父上が出征する際に友人の母の実家から譲りうけた刀剣で、入隊するに際して拵えを軍刀として扱えるようにしたものと推察されます。家族ぐるみでお付き合いさせていただいた同郷の友人ですので、譲りうけた上はこちらできちんと手入れすべきものと心得た上での入手です。

 

金銭的な価値で判断するなら、刀剣そのものの代価に比して研ぎなどの手入れの費用の方が大きいのですが、そこは骨董に携わる者の役目が優先します。

ビジネス的には、「刀剣柴田」ではこのような作品は廉価な研ぎを施し、居合刀として売るとのことです。本当かな? 失礼ながら買い叩く時の常套句もあり得ると考慮しておきましょう。

研ぎが完了してみたら、思いのほか良く仕上げられています。刀剣の出来不出来は研ぎ次第か?

研ぎ代金は安くはありませんが、見違えるほどきれいに研ぎ上がりました。錆びついている時には傷の有無、波紋の状態への判断が難しかったようですが、わりと良い刀剣だと感じました、刀剣柴田の方によると作は美濃系で「末古刀」か「新古境」の時代の作とのことです。



刀剣に詳しい方だと波紋がどうのこうのと説明ができるのでしょうが、当方は刀剣についてはまったくの門外漢ですので、そのような詳細の説明はできかねますのでご了解ください。



拵えと刀剣本体は離れ離れにならないように保管しておきます。鍔がついたままでは拵えなどを傷める可能性があるので、鍔は外して箱に入れて保管しておきますし、登録証は入手経緯、研ぎの経緯を記した資料と同封しておきます。



鍔はたいしたものではないのですが、下記のように虎を図柄にしたものです。



戦地に赴く者へ「虎は千里を帰る」という願いを込めて渡したのでしょう。無事帰還した友人の父上は県庁で部長までなられました。



さらにもう一振り、同時に友人から譲り受けた刀剣に短刀がありましたが、こちらも錆だらけ。おそらく友人の母が嫁入りに際して実家から譲り受け継いだ刀剣のようです。古来、嫁入りに際して短刀を所持してくる女性は多かったようです

刀 その十 新々刀 短刀 無銘
長さ:21.6センチメートル
登録 平成29年7月10日発行
反り:0.3センチメートル 目くぎ穴1個



譲り受けた当初は錆だらけで見るも無残な状態でした。



研いでみたらかなり立派になりました。大きな傷はなく、こちらも見違えるほどきれいになりました。



こちらは新々刀に分類され時代は新しく、拵えもたいしたものではありませんが、刀剣柴田の方によるとこちらも保存刀剣の認定は所得出来る作品だそうです。



思いのほかいい仕上がりです。

 

嫁入りに際して友人の母が実家から譲り受けてきた作品と推定しましたが、その実家は小生の郷里の近くで近い親戚には同級生もいます。

また最近刀剣柴田の方によると当方が現在住んでいる東京都内で当方の近所の方が嫁ぎ先に持たせる短刀を買いに来たそうです。現代でもそのような方がおられるというのは驚きですね。



刀剣柴田で頂いた保存袋に収納しておきました。家内らは刀剣は物騒だと嫌がりますが、しばらくは今は亡き友人からの預かりものとして保管しておくつもりです。

骨董には歴史あり、人との縁あり・・・・、刀剣女子は歴史は学べても肝心の縁は学べまい。

遍路者 藤井達吉筆 その21

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本ブログで取り上げてきた藤井達吉の日本画の作品ですが、今回は幾度となく四国遍路に赴いた時に描かれた作品の紹介です。

遍路者 藤井達吉筆 その21
紙本水墨金彩軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1275*横650 画サイズ:縦385*横515



藤井卓吉は1935年(昭和10)に初めての四国遍路、さらに1936年 勝利彦、水野双鶴、近田清を伴って四国遍路という記録があります。そして昭和37年4月~5月には5回目の四国遍路したという記録があり、晩年なってからも含めて幾度となく四国遍路をしているようです。本日の作品は実際に遍路した時に描かれた作品と推察されます。



落款は「遍路者 愚翁? 押印」と推察されます。巻き止めには「足摺岬」とありますが、描いた場所は断定はできません。ただ足摺岬には38番霊場「金剛福寺」がありますので、信憑性は高いものと思われます。



落款と印章は上記のとおりです。印章は不明ですし、落款は「愚翁」の「翁」は断定できていません。これをもって真作とするかどうか疑問に思われる方もおられるでしょうが、当方では画風から真作と断定しています。



なにゆえに幾度となく四国遍路の旅に出かけたのかを記した資料は見当たりません。画家では川端龍子の四国遍路が有名ですが、川端龍子は息子を戦地で、妻を病で亡くしていたことから、供養のために四国遍路に赴いていますが、藤井達吉は生涯独身で、後継に考えていた姪を亡くしますが、それは四国遍路の後のことですので、四国遍路に赴いた明確な理由は当方では把握していません。



当方では「近代の浦上玉堂」としてとらえている藤井達吉ですが、まだまだ評価されていないように思います。

人は年齢を経ると残念ながら多かれ少なかれ、身近の大切な方を亡くすことに遭遇します。供養の目的で四国遍路をする方の気持ちがよく解りますね。

贋作考 田道間守 伝徳岡神泉筆

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徳岡神泉や小野竹喬の晩年の境地の作品は所詮高嶺の花。「若い子頃の作品なら入手できないこともない。」と思うと罠にはまる?

本日はそんな徳岡神泉の作品です。

贋作考 田道間守 伝徳岡神泉筆
絹本着色絹装軸 軸先象牙 合箱 
全体サイズ:横453*縦1760 画サイズ:横260*縦395



聞きなれない画題ですが、「田道間守」については下記の記事があります。



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田道間守(たじまもり/たぢまもり):記紀に伝わる古代日本の人物。

『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神・菓祖としても信仰される。

田道間守の生まれについて、『日本書紀』垂仁天皇3年条では天日槍(新羅からの伝承上の渡来人)の玄孫で、清彦の子とする。一方『古事記』応神天皇段では、天之日矛(天日槍)の玄孫は同じながら多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子とし、清日子(清彦)は弟とする。

『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。

『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」(同じく橘)を求めに常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため、縵4縵・矛4矛を分けて大后に献上し、もう縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだという。

そのほか、『万葉集』巻18 4063番では田道間守の派遣伝承を前提とした歌が、巻18 4111番(反歌4112番)では田道間守を題材とする歌が載せられている。

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持ち帰った橘は改良に改良を加えられ、現在のミカンとなったとのこと。昔は現在のようにおいしいお菓子がなかったので、橘の実を加工して食していたというところから、橘本神社は、「みかん」と「お菓子」の神様といわれています。



この作品は橘を抱えた田道間守を描いた作品。



お菓子の神様ゆえ甘党の義父にはうってつけ・・。お菓子を作るお店に飾ると「う~む」と「店主はただものではないと唸る?作品」、きっと飾ったお店にはご利益があるでしょうね。



作品の落款と印章は下記のとおりです。

 

資料は下記によります。

落款は時代のよって違い、真作なら初期の頃の作と思われますので、良く知られている最盛期の頃のものとは違いますが、落款からは一概に贋作とは断定できません。

印章もまた時代のよって多少印影が違いますが、本作品は微妙な違いにより厳密には残念ながら同一印章とは断定できかねます。譲って頂いた先では「真作」と判断したそうですが、それも一理ありという作品です。

 

なにはともあれ「神様」です。神様、仏様は真贋を論じてはいけません・・ 「しんせん」、もとい「しんせい」な作品です。

神、仏を題材にした贋作を作るといずれ天罰が下ります。騙される側には罰はきっとないでしょう・・・

銀河釉 菓子鉢 中尾哲彰作 その7&8

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本ブログで何度か作品を投稿してる中尾哲彰の作品ですが、中尾哲彰の作品は海外で高い評価を受け、遠州流からの支持を受けている陶芸家でもありますが、いまひとつ国内では人気が出ないようです。

作品がインターネットオークションに出品されているようですが、落札されることも少ないようです。当方は家内も好きな陶芸家ですので、気に入った作品は個展で購入したりしていましす。今回はネットオークションで入手しました。

下記の作品は2000円?で落札。菓子鉢が欲しかったので入手しました。

銀河釉 菓子鉢 中尾哲彰作 その7
共箱
口径208~212*高台径74*高さ61



この釉薬はおそらく他の陶工では成しえない発色でしょうね。



大きな花瓶などが欲しいのですが、さすがに高嶺の花です。



普段使いの作品は手頃な価格で販売されています。



最近は電気窯やガス窯の性能がよくなり、また釉薬の開発も進み、いろんな釉薬が出回っていますが、この手の発色は他の存在しません。



窯変天目のような作品もそのうち大量に出回るかもしれませんが、この発色はできるようになるのかな?



家内も同時期に下記に作品を入手しました。同じく菓子鉢です。

銀河釉 菓子鉢 中尾哲彰作 その8
共箱
幅213*奥行191*高台径77*高さ74



こちらは形がユニークです。



高台の造りはほぼ同等・・。



釉薬の発色も似通っています。



この発色はどうやって出すのか不思議です。



当然ながら共箱があります。



ついでに今までの作品を整理してみました。

その1
銀河釉茶碗
共箱



その2
銀河釉 歴史の深層 中尾哲彰作 
共箱
口径65*胴径210*高台径60*高さ143



その3
(冬)銀河天目茶碗 
共箱 
口径123*高台径40*高さ60



その4
銀河釉掛合茶碗
共箱 
口径125*高台径53*高さ78



その5
夏銀河 錐形瓶 
共箱
口径15*最大胴径150*高台径57*高さ220



その6
銀河釉 茶碗 
銘「繁栄」 共箱 共布
口径144*高台径52*高さ85



中尾哲彰に作品に興味のある方は入手してみたらいかがでしょうか?



「なんでも鑑定団」に出品された窯変天目茶碗が世を騒がせましたが、窯変天目だけが釉薬の変幻ではありませんね。



陶磁器の釉薬はマクロで見るより、ミクロで見る方が神秘的ですね。


忘れ去られた作品と画家 硯蓋 & 二美人図 三木翆山筆 その5

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男の隠れ家を漁っていたら出てきた作品に下記のものがあります。郷里から宅急便で送ったままににしてしばらく放置しておいたのですが、あまりに暑いので外に出ないようにしていた休日に梱包を開けてみることにしました。

忘れ去られた作品 牡丹蒔絵 硯婦多
塗古箱
幅451*奥行320*高さ46



牡丹が蒔絵で描かれた作品で実際に使用していたのでしょう、使った跡の傷がありますが総じて大きな欠点はありません。



保存箱には「硯婦多」と記されていますが、「硯の蓋?」、そう「硯蓋」という道具らしいです。ご存知の方は少ないと思いますが、硯に蓋をする?・・・いいえ違います。

さて調べてみたら下記の記事がインターネット上にありました。

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硯蓋:酒のさかななどを盛るのに用いた器で,江戸時代に使われた。すずり箱の蓋に薄様(うすよう)などの紙を敷いて,菓子,木の実,果物,ときには雪のようなものさえ盛って供することは,平安期以降しばしば見られたことであるが,そのすずり箱の蓋を独立した食器として作るようになったのが「すずり蓋」である。

山東京伝は《骨董(こつとう)集》の中で,〈重箱に肴(さかな)を盛(もる)ことは元禄の末にすたれ,硯蓋に盛ことは宝永年中に始りしとおもはる〉といい,喜多村節信(ときのぶ)も《嬉遊笑覧》にほぼ同じ見解を示している。

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上記の記事は世界大百科事典からの抜粋です。記事の内容から本作品の製作時期は江戸期と推定されます。「硯婦多」の「婦」と「多」はひらがなであり、この漢字はひらがなの「ふ」と「た」に普通に使われていたというのが家内からの説明です。



本日メインで紹介する作品の手前に飾ってみました。

家内と二人で調べましたが「骨董を調べるといろんなことが解るね~」と二人で話しました。この「硯蓋」も今となっては貴重な作品かもしれませんね。



説明書を添えてきちんした保存方法にしておき、男の隠れ家にまた収めておきます。

さて本日はその作品と一緒に展示室に展示された作品の紹介です。三木翠山の美人画はあまり知られていることがないのか手頃な値段で入手でき、本作品で5作品目の紹介となります。

忘れ去られた画家 二美人図 三木翆山筆 その5
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1750*横570 画サイズ:縦1095*横435

 

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三木翆山:(みき すいざん)明治16年〈1883年〉7月20日~昭和32年〈1957年)3月25日〉。大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家。竹内栖鳳の門人。本名三木斎一郎。

兵庫県社町(現加東市)で、服部寿七と母やすの4男として生まれる。幼少より絵を好み、紺屋を営んでいた三木利兵衛(号南石)から画を習う。明治33年(1900年)前後に竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積む。なお、翠山の紹介で栖鳳に入門した森月城は従弟にあたる。明治35年(1902年)利兵衛の養嗣子だった又蔵の養子となり、同時に同家のじんと結婚する。大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。以降、文展や帝展といった官展で活躍した。

*本作品はこの頃、大正6年の作と推定されます。



翠山は美人画を得意としており大正14年(1925年)から京都の佐藤章太郎商店という版元から、京都風俗を取り上げた新版画「新選京都名所」シリーズを版行、同年吉川観方と創作版画展を開催する。昭和7年(1932年)第13回帝展からは無鑑査となる。

昭和17年(1942年)に師の栖鳳が没した後は画壇を離れ、個展で作品を発表し始める。一方、昭和27年(1952年)から1年余り渡米し、美人画の個展を開催、昭和28年(1953年)メトロポリタン美術館から終世名誉会員の称号を贈られた。

晩年は、京都河原町蛸薬師の繁華街に地上7階、地下2階、総床面積1400坪もの国際的な美術サロン、インターナショナル三木アートサロン設立を計画する。ところが、悪徳不動産の詐欺にかかり、2000坪の家屋敷アトリエも手放さざるを得なくなる。老年の翠山にこの挫折は堪えたのか、2年後(昭和32年3月25日)失意のうちに急逝。享年73。美人画や風俗画を得意とし、代表作に「嫁ぐ姉」、「元禄快挙」などがある。

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「実にいろんな意味で初々しい作」という表現が適切な評の作品です。



「悪徳不動産の詐欺にかかり、2000坪の家屋敷アトリエも手放さざるを得なくなる。老年の翠山にこの挫折は堪えたのか、2年後(昭和32年3月25日)失意のうちに急逝。」ということも現在では三木翠山の作品が人気のない原因のひとつかもしれませんね。



この当時は大正ロマンと呼ばれるように多くの美人画を描く画家を輩出した時代です。



その多くの美人画家を輩出した時代に独自の画風というのが必要だったことが容易に推測できますが、偏ることのない清廉な画風を貫いた画家と言えましょう。



着物の表現もきれいです。



竹久夢二、島成園、甲斐庄楠音らの特徴ある美人画や、夢二に継ぐ多くの大正ロマンと包括される美人画には追随しなかった画家といえるのでしょう。



落款に「丁巳初秋 翠山生写 押印」と記されており、1917年(大正6年)、30歳の時の作品と推定されます。初期の頃の美人画と推定されますが、落款の書体が晩年とは大きく違い、このことが真贋の判定を難しくしています。



当方にある作品の作品と落款を改めて整理してみたのが下記の作品らです。

観桜美人図 三木翆山筆 その2
絹本着色 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1400*横540





観桜美人図 三木翆山筆
絹本着色 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1400*横540





本読む娘 三木翆山筆
絹本着色 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦2070*横545 画サイズ:縦1155*横405





美人画以外には下記の作品があります。

月下老狸図 三木翆山筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦1990*横575 画サイズ:縦1280*横425





年代とともに整理していないし、真贋も含めてきちんと整理する必要のある画家の作品のひとつです。ただ美人画は贋作が多いので狸に化かされる・・・

美人と関わらないほうが身のためというのが小生の人生訓

ただ本作品は保存箱もなく、軸先が片側がないなど粗雑にされていたようですので、きちんと保存にしておく必要がありそうです。美人と関わるとお金がかかるらしい・・。



正当な美人画としてやがて鏑木清方・上村松園・伊東深水らが美人画の路線を修正していきますが、三木翠山も忘れてはならない画家の一人だ思います。少しづつ整理を進めていきたい画家です。

本日は「忘れ去られた作品」と「忘れ去られた画家」の紹介でした。

氏素性の解らぬ作品 粉引一輪挿 Zanger作

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本日は週末ということもあり気軽な作品?の紹介です。

骨董店で順繰りに店を覗いて歩くとときおり陶磁器の中で作家ものの作品の中に目を引くものがあることがあります。名も知らぬ陶芸家なのですが、何とはなしに惹かれて値切りながら購入したりする作品です。むろん著名な陶芸家の作品ではないのでお値段は手頃な品です。

本日は土曜日でもあり、そのような惹かれる点のある、気軽な作家ものの作品の紹介です。むろんどのような方が作ったのかは当方では皆目解りません。しかも外国の方?の作品のようです。

氏素性の解らぬ作品 粉引一輪挿 Zanger作
共箱
幅110*奥行き94.0*高さ142



「Zanger}? 外国の方が日本で作った作品のように推察されます。どなただろう?



粉引釉薬かな? 侘びた絵付けにいい雰囲気が出ています。



口縁にも絵付けされている点が斬新?



絵付けされている草花はなにかな? 手作り感があっていいですね、当然手づくねでしょう。



底には銘があります。



共箱なのも嬉しいですね。ドイツ人? 本当にいったい誰の作品だろうか?

ところで骨董市である程度名の売れた陶芸家の作品を店主が知らないと思い、「これは掘り出しもの!」と思って買い込むのは危険です。ほとんどの店主は知っていて知らないふりをしているだけです。その理由はその作品が贋作の場合が多いからです。逆にリサイクルショップのほうがそういう掘り出し物がある可能性は高いかもしれません。むろんネットも危ない・・・、あくまでも感性にて作品を選ぶことが肝要のようです。




特別投稿 保戸野窯 2018年

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金足農業が甲子園で活躍する直前のお盆前、8月11日の平野庫太郎氏の告別式に出席するために仕事を終えた前夜に秋田に着きました。小雨降る夜、秋田駅前のホテルにチェックイン。

事前に手配していた帰郷のチケットをキャンセルしての急きょの新幹線の切符変更となり、休日前の切符はなかなかとれず、結局生まれて初めて新幹線こまちのグリーン席に乗車しました。

告別式の日の朝、ホテルの部屋の窓のカーテンを開けると一面の水連の池・・。



そうか、このホテルは千秋公園のお堀の真ん前か・・。



当日は告別式、法要に参列し、改めてそこで大切な友人がひとり旅立ったことを実感させられました。またひとり大切な人を失った・・・。

午後から普通電車で男の隠れ家へ帰郷、食堂にはいつものように平野庫太郎氏から戴いた器が置かれています。



印鑑入に使っている平野庫太郎氏の失敗作? 釉薬の様子見か、もしくは失敗作か? 工房に置いてあった作品を無理に頼んで戴いてきた作品です。このような作品は結構私の手元にあります。訪問するたびに失敗作らしきものを戴いてきているからです。



まるで涙のように釉薬が流れ、見込みには蝶のような文様ができている均窯の作品です。



「そうだ、男の隠れ家にある平野庫太郎氏の作品を全部出しみよう!」と思い立ち、あちこちから作品をひっぱり出して和室の棚に飾りました。



購入した作品と戴いた作品が五分五分・・。



付き合い始めて30余年の間にずいぶんと作品が増えたものです。まだ自宅の方には同等数以上あるはず・・。ひとつひとつの作品の紹介はまた改めてしたいと思います。



作品を並べ終わった頃にはとっくに日が暮れて、お隣さんから「大文字焼が始まったよ~」とお声がかかりました。



そして花火が・・。一人で大文字焼と花火を眺めながら、「このまましばらく作品は飾ったままにしておこう。」と思いました。鎮魂・・・・。



ただただご冥福を祈るばかりの一日・・、後日、帰京する日には改めて秋田市に立ち寄り、平野氏の自宅に家内と息子共々で伺い焼香してきました。

追加リメイク 輪島塗総蝋色梨地 四季山水図八寸五段重 臺付

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男の隠れ家から箱が出てきましたが、箱の中に収納されているのは前に紹介した下記の五段重箱の臺ではないかと思われ、帰京に際して持ち帰り、本体と合わせてみるとやはりぴったりでした。

あらためて重箱と合わせて本作品を鑑賞し、ブログにて紹介させていただきます。

輪島塗総蝋色梨地 
四季山水図八寸五段重 臺付
高級美術輪島塗 共箱(輪島 清義堂謹製)
個別大きさ 膳:幅243*奥行243*高さ75(個) & 臺;幅305*奥行305*高さ110
全体高さ410(五段重 臺除く) 

 

箱書きも同じですので、一体となるべきものとして製作されて、我が家人が購入したものと推察されます。おそらく戦後まもない頃、昭和30年前後の入手ではないかと思われますが、家人が当時特注した可能性もあります。

輪島塗には本家の家紋入や家人の各々の名前入りの器の各種が遺されており、その一環として重箱を特注したのかもしれませんし、または出来の良いものを見つけて購入したのかもしれません。



男の隠れ家にある箱に収納されている作品は運送時にバラバラに置かれていますので、この臺が単独で見つけていたら膳かなにかではないかと勘違いされて重箱とは別々になっていたでしょう。



こういう対や揃いの作品は離れ離れで保管しては後世の人が解らなくなります。



周囲の菊は沈金、中央の絵の部分は蝋で磨いた作品・・。



沈金の技法はそれほど珍しくないのでしょうが、絵の出来が素晴らしいと思います。写真では解りにくいでしょうが、絵が輝いており青緑山水画の掛け軸の逸品に勝るとも劣らぬ出来です。



最初の蓋には「老樹森々 山自静」・・出典は不詳です。

蓋は2種類あります。きちんとした重箱は通常蓋は二つあります。



「寂々山間 絶待情」かな? こちらも出典は不詳です。題字を読むのも家内の協力が必要です。

五段重は「四季の山水画」に「もうひとつの山水画」がありますが、この賛もまた鑑賞に価するものです。





「春水満四澤」:(春には雪解け水で四方の沢が満ちる)

芳賀幸四郎『新版一行物』には、「春になって雪解けの水が四方の沢に満ち、どの川も水が満々と溢れ悠々と流れている。(中略)水そのものは四季によって別に変りはないはずであるが、春の水というものは、どこか悠々閑々としておだやかなものである。そのおおらかでおだやかな水、大地をうるおしやがて五穀の豊穣をもたらす水が、どこの川にも満々としている姿に、天地和順・天下泰平・万民和楽の瑞兆を認めて、禅者はこれを揮毫し、茶人は珍重してこれを床に掛けるのである。悠揚せまらぬ大人(たいじん)の茶境にふさわしい五字一行である」と記されています。





「夏雲多奇峰」:(夏には入道雲が峰のように湧きたつ)

梅雨も明け、暑さの厳しい季節、空は青々として雲の白さが一層際立ちますが、風炉の茶席にかけられる禅語にこの「夏雲奇峰多(かうんきほうおおし)」
という言葉があります。奇峰とは、めずらしい峰の形に見える夏の入道雲を指します。雲を峰にたとえ、青空と変化して行く夏雲の織り成す夏の雄大な天の光景を歌っています。

これらは中国の詩人、陶淵明による「四時詩(しいじし)」の一部と言われています。

春水満四澤(春には雪解け水で四方の沢が満ち)
夏雲多奇峰(夏には入道雲が峰のように湧きたつ)
秋月揚明暉(秋には月が澄み渡る夜空に輝き)
冬嶺秀孤松(冬には嶺に立つ一本の松のみが高くそびえている。) 

四季の特色を一句五言で表現した句となっています。





「秋月揚明暉」:秋には月が澄み渡る夜空に輝き

ただ、陶淵明による「四時詩(しいじし)」は偽作とほぼ断定されているようです。陶淵明の作とされる詩には贋作が多くあります。ただしこの詩は「陶淵明箋注」(袁行霈 中華書局)では真作として第三巻の最後に収録されています。

偽作とされる最大の根拠は,あまりにもきれいすぎるということです。各句とも陶淵明らしい表現で、逆にそれが皮肉にも疑惑の根拠だそうです。偽作説では「顧長康の詩が,陶彭沢(陶淵明のこと)の全集に紛れ込んでしまった」とか,「これは,顧凱之の神情詩である」とか,陶淵明の詩から四句をうまく摘句したものだとか,いろいろな説があるようです。(陶淵明集校箋 楊勇 上海古籍出版社)参照

*顧凱之(345?-406) (字は長康)は東晋時代の画家。

ただこの作は捨てがたく日本の「陶淵明集」に採録されてもよいものとされていますが、調べるといろいろなことが解ってきます。





「冬嶺秀孤松」:(冬には嶺に立つ一本の松のみが高くそびえている。)

「秋」と対句となり、秋の月は明るく輝き、冬の嶺には一本の松が高くそびえている。秋の月は中天高く輝き渡り人心を清澄にし冬の山頂には見事な一本の松の姿が素晴らしい。

「冬」の単独では「冬の嶺の上で、他の草木が枯れてしまったのに松が独り緑を誇っている」という意味で、禅語としては「煩悩はもちろんのこと悟りすらも綺麗さっぱり払い落した弧高の禅者を思い起こさせる。無一物のまま、寒さを楽しんでいるので有ろう。(禅語百科より)」という意味で、各々単独でも禅語として茶掛けとされています。

これら四段の字句は四季の特色を一句五言で表現した句となっています。

最後の段は・・・。



「山静日長」:(山(やま)静(しず)かにして日(ひ)長(なが)し)

書き下し文で日本では水墨画の画題や書に用いられる字句ですが、出典は下記の漢詩からです。

山静似太古  山は静にして 太古に似たり
日長如小年  日は長くして 小年の如し
餘花猶可酔  余花 猶(なお) 酔うべし
好鳥不妨眠  好鳥も 眠を妨けず
世味門常掩  世味には 門 常に掩い
時光簟已便  時光 簟(てん) 已に便なり
夢中頻得句  夢中 頻りに 句を得たり
拈筆又忘筌  筆を拈(と)れば 又 筌を忘る

北宋の詩人、唐庚(とうこう:1070~1120)の五言律詩「醉眠」(酔うて眠る)

山は大昔のように静かだ。日は小一年程もあるかのように長い。咲き残った花は酒の相手によく、鳥の声も眠りを妨げることはない。うるさい世事が入ってこないように門は常に閉めている。もう竹のベッドは気持ちよい季節。夢の中で、しきりに詩句を得たけれど、筆を執ってみると、さて何だったか?

これらの字句も茶掛けに引用されています。

なお上記の最後に出てくる「忘筌」は遠州流の有名な茶室「忘筌」とは出典が違うようです。

茶室「忘筌」:「京都・大徳寺塔頭(たっちゅう)孤篷庵の客殿(本堂)に造り込まれた座敷(茶室)。小堀遠州最晩年の作品として貴重でしたが、1793年(寛政5)に「孤篷庵」は焼失しています。しかしまもなく松平不昧や近衛家の援助を得て再興が図られ、とくに「忘筌」は、軒内の飛び石や灯籠、手水鉢が焼け残ったこともあって、遠州による創建当初の姿に忠実に復原されています。

*孤篷庵所有の国宝・大井戸茶碗「喜左衛門」があるのも有名

忘筌 〈ぼうせん〉の意味:意を得て言を忘れ、理を得て教を忘るるは猶魚を得て筌を忘れ、兎を得て蹄を忘るるが如し。

筌は「ふせご」という竹編みで作られた漁具。蹄は兎捕りに使うわなのこと。筌や蹄は魚やウサギを捕らえるにはなくてはならない大事な道具である。しかし、それらはあくまでも道具であって、目的ではないはずである。目的は魚やウサギである。だから、目的の魚やウサギを収獲してしまえば道具は不要であって、次に使うまでどこかに仕舞っておけばよいものである。

禅者は悟りを得んとして弁学修行に励むも、仏意を得、真理を会得すれば手段方便としての教説は不要であり、いつまでも理屈理論にとらわれてはならない。ことに臨済禅では古則公案を手段として悟境を高めとうとする。その公案こそ筌と蹄にあたるものである。目的はあくまでも悟りであり、悟境を磨き高めることにある。だがその公案に執われ目的を見失ってしまう学道の人が少なくない。病気治療に薬を必要とし、効能書きが大事である。だが、病気が治ればもはや効能書きは要らない。

我々の日常でも人生の大事なことを忘れ、枝葉末節にこだわり執着していることが多い。あらためて忘筌(ぼうせん)の語を味わい直したいと思いこの記事を資料に加えました。

「我が家、男の隠れ家の三家」に関わる「全ての*四家」はすべて臨済宗ですので、なんらかの関係があると思われます。
*本ブログに紹介する骨董類は四家に伝わる作品が多い。


五段重箱・・、この五段重の製作にあたっては絵は下絵があったはずであり、なおかつ字もうまい。製作に携わった人の教養の高さがうかがわれます。この重箱を味わう側にはそれ相応の教養が要るものと察せられます。つまり所持する人、使う人の教養を試されるということ。

蓋の漢詩が解らないが解りませんが、おそらく絵を描いた人が全体の雰囲気を表現した造語からもしれません。

南画としての山水画の鑑賞眼、賛を味わう禅語の知識、茶道を主とする人生の対する姿勢、すべてが問われる作品です。これらが伴わないと所有する資格がないということ、さてすべての漢詩が判明するまでしばし手元に置いておこうと思います。



山野にて食しながらこの重箱を味わうのもよし、飾りながら正月を迎えるもよし、今回は掛け軸にめでたい掛物を掛けて飾りました。

我が家の先人はこのような作品を揃えるだけの学識があったのでしょう。侮れない・・・。



さて本体と臺を一緒にして置くことにしました。以前は箱の把手部分が外れていたりしていましたので、きちんと養生しておく必要があります。



漆器類は風呂敷に包みこみ、陶磁器類とは区別して保管しています。写真を添付しておくことで収納されている作品が解るようにしておきます。風呂敷は種々の大きさがあることが必要ですが、風呂敷の適当な大きさを揃えるのは結構手間ですね。

弔意

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昨日の朝に母が亡くなり、弔意によりしばらく休稿とさせていただきます。

氏素性の解らぬ作品 波佐見青磁 その2 草文陰刻水指

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母が亡くなり慌ただしい日々を過ごしておりますので、ブログの原稿作成は本格的に再開されていませんが、今まで書き貯めていた原稿にてとりあえず復活します。

さて本日は波佐見青磁についての2回目の投稿です。

青磁はどうも日本と中国を混同しがちなので、基本として日本の青磁から・・。日本で作られた青磁で手軽なのは三田(さんた)青磁や本日紹介する波佐見青磁のようです。

波佐見青磁 その2 草文陰刻水指
合箱入
口径236~240*高台径147*高さ147



底は眼鏡底が基本のようですが、これは17世紀後半の波佐見青磁の特徴でしょうか? 



ところでこれは水指? でかい! 家内曰く「香炉じゃない?」・・・。形はそうだが、内側の釉薬が全面に掛かっているのでそうも断じきれないようです。



水甕・・かな? いずれにしろ塗蓋は後世のもの、箱も合わせで釜が入っていた杉箱のようです。水指に見立て使ったものでしょうね。でも結構重いので、作法としては置いたままの水指・・・。



存在感はある



茶事にはひとつくらいは青磁の水指が欲しいものです。



夏の茶事に青磁に映える水は涼しさを漂わせてくれます。



青磁の陰刻と青磁の発色具合は下記の写真を参考にしてください。



青磁としてはまだ未成熟の焼成と判断されます。



いつの時代の作か興味深い作品には相違ありません。



釉薬を生掛けしたような分厚さがありますね。



青磁の発色としては焼成温度不足?



白濁したような焼成の部分がありますが、これも味?



「波佐見焼 その1」で記述しましたが、チャツと呼ばれる碗型をした窯道具で持ち上げて窯の中に入れた跡があると、この技法が中国から伝わったのが17世紀半ばなのでそれ以降の作となるそうです。



この高台からはどのような判断になるのかは分かりませんが、陰刻にシャープさがない?ので17世紀半ば以降と思われます。ただ小生はこのおぼろげさが好きです。

水を入れた清楚なブルー、青磁の水指は涼しげでいい・・・・、水指は茶を点てている本人が本来愉しむもの、香水は本来香水をつけている本人が愉しむ淡い香が良いというのと同じ。欧米のように汗臭さを消す役目の強烈な香りの香水は日本人にははた迷惑、香水は本人だけ香るのを良しとするもの。
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