本日は男の隠れ家の蔵から引っ張り出してきた作品です。だいぶくたびれた額に納まり、雰囲気も暗いので捨てようと思いましたが、義妹が「いい絵ね~。捨てるなら戴いていく!」と言うので、こちらも色気を出しちょっと調べてみようという気になった作品です。
先日投稿しましたシャルル・カムワンの作品と一緒にあった作品です。
庭に腰掛ける婦人 エルネスト・ローラン画
左下サイン Ernest Laurent
画サイズ:縦*横
くたびれた額は宅急便で配達中にガラスが破損、幸い絵そのものは損傷はありませんでした。後日新調した額の代金は宅急便の方で負担してくれました。
サインは左下にありますが、だいぶ見づらい・・。
額の裏には下記の印やサインがあります。
パリで描かれ日本に輸入された・・?? 古くからあった作品ですが来歴が全く不明で、今の縁側にずっと飾られていた作品です。キャンバスの周囲は絵の具で汚れもあり、複製画ということでもなさそうです。
シャルル・カムワンに続いての掘り出しもの? 「柳の下の鰌」は二匹はいない??? というのは小生の常套句ですがともかく根念入りに調べてみました。。
調べてみたたところどうもサインの右の部分は「Laurent」と読めます。そうすると画風から察すると「Ernest Laurent」という画家に辿りつくことになりました。
Ernest Laurent [Paris, 1859 - Bièvres, 1929]・・・エルネスト・ローランのことでしょうか? この画家を知っている人は少ないかもしれませんね。
エルネスト・ローランは最後の印象派と称され、国立西洋美術館蔵に収められている松方コレクションの作品が有名です。スーラの点描とはまた少し違ったタッチの点描でも有名です。インターネット上には下記の作品と記事が掲載されています。
参考作品
美しい肩 Beautiful Shoulders
国立西洋美術館蔵
制作年:1920年 材質・技法・形状 油彩、カンヴァス 寸法(cm):65 x 54.7
署名・年記 左下に署名、右下に年記: Ernest Laurent / Paris 1920
所蔵経緯:松方コレクション
作品解説:《美しい肩》は、ローランの晩年の画風を良く表す作品である。ローランは点描技法を象徴主義に結び付けた画家の一人であったが、ここで用いられている点描技法は、夭折した友人スーラが主張したような純粋な色彩の並置による厳格なものではなく、中産階級好みの穏やかで上品な雰囲気を作り出すための手段となっている。西洋近代美術館の常設展の作品として展示されている。静謐の中の官能、そして美しい顔まで想像させる画力はさすがです。
国立西洋美術館蔵に収められている松方コレクションの作品では他にも下記の作品らが知られています。
本作品と同じような構図でローランの晩年の女性の後ろ姿を描いた作品には下記の作品が知られています。
本作品の真贋は解りませんが、少なくても捨てるくらいなら「頂戴!」と言った義妹の鑑賞眼は侮れないようです。まだ同様な状態でいくつかの作品がありますが、そちらの作品の調査は難航中・・。
*日本にあった松方コレクションは十五銀行、藤木ビル等の担保となり、1930年以降に売立てにより散逸していますが、入手時期からすると本作品はその作品のひとつの可能性がある?
松方コレクションの概略は下記のとおりです。
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松方コレクション:実業家の松方幸次郎が大正初期から昭和初期(1910年代から1920年代)にかけて築いた美術品コレクション。多くが散逸・焼失しており「幻のコレクション」と称されていますが、浮世絵が約8000点、西洋美術が約3000点で総数は1万点を超えていた。
川崎造船所(川崎重工業の前身)社長を務めた実業家の松方幸次郎 (1865 - 1950) がイギリス、フランス、ドイツ等で収集した美術コレクションで、西洋近代の絵画・彫刻と日本の浮世絵が主体である。このうち、近代フランスの絵画・彫刻等約370点は、東京・上野の国立西洋美術館に収蔵・公開されているが、散逸・焼失した作品も多い。なお、約8,000点の浮世絵コレクションは、美術商の山中定次郎を通じて、フランスの宝石細工師で日本美術コレクターのアンリ・ヴェヴェールから買い戻したものが中心で、一括して東京国立博物館の所蔵となっている。国立西洋美術館の所蔵品では、特にモネの絵画、ロダンの彫刻がまとまって収集されている。東京国立博物館所蔵の浮世絵も喜多川歌麿、東洲斎写楽らの名品を含む、一級のコレクションである。
松方本人や関係者がコレクションについてまとまった著作・記録をまとめることもないまま、後述のように、松方が経営していた事業の破綻で、コレクションのうち西洋美術については多くを手放すこととなった。保管場所も日欧に分かれ、コレクション全体が一堂に集められたこともない。このため「幻のコレクション」とも呼ばれてきた。 第二次世界大戦後、フランス政府が敵国財産として没収していた松方コレクションを日本に返還したほか、国立西洋美術館がコレクションの調査や買戻しを現在まで続けている。特に近年は各国の美術館や画商が保有する作品リストと過去のアーカイブがインターネットで閲覧・入手できるようになり、散逸・現存作品の所在確認が大きく進んだ。越智裕二郎、湊典子らも研究を進めた。
松方コレクションの全体像を紹介した資料としては、1990年に神戸市立博物館が『松方コレクション西洋美術総目録』を編纂している。その後の調査で明らかになった約1000点の情報を加えた『松方コレクション 西洋美術全作品』(平凡社)が、第1巻(絵画・1207点)と第2巻(彫刻・素描など約1800点)に分けて2018年7月から刊行が始まっている。
こうした調査・研究の一環として2016年9月、松方コレクション953点分の作品リスト(絵画255点、版画554点、彫刻17点等)がロンドンで見つかったと国立西洋美術館が発表した。リストは、松方と取引のあったロンドンの画商が遺したもので、2010年、テート美術館に寄贈された文書に含まれていた。国立西洋美術館ではリストの発見により、コレクションの全容がほぼ明らかになるとしている。
松方は、内閣総理大臣を務めた松方正義の子である。大学予備門(後の東京大学)に進学するが、校内紛争に関わったかどで放校処分となる。その後、1884年(明治17年)にアメリカ合衆国へ留学。ラトガーズ大学を経て、エール大学で法学の博士号を取得し、1890年に帰国した。帰国後は首相となった父・松方正義の秘書を務めた後、川崎造船所創業者の川崎正蔵に見込まれ、1896年、株式会社へ改組した同造船所の初代社長に就任した。川崎正蔵と松方正義は同郷(薩摩藩)の旧友であり、幸次郎の留学費用も川崎が用立てていた。
第一次世界大戦に伴う船舶需要の高まりを受け、松方は積極経営で業績を拡大していった。松方が美術品収集を開始したのは、1916年(大正5年)3月から1918年にかけての欧州滞在時のことである。松方はアメリカ経由でイギリスの首都ロンドンへ向かった。この渡航は、川崎造船所のために貨物船の売り込みや鉄などの資材の買付をすることが主目的であった。
美術品収集を始めた経緯については諸説あるが、ロンドンの画廊で、興味本位で絵画を購入したことがきっかけであったという。1916年、松方はベルギー出身のイギリスの画家フランク・ブラングィン(Frank William Brangwyn)と知り合った。同世代の2人は親しい友人となり、ブラングィンは松方の美術コレクションのアドバイザーも務めた。松方は1918年までのロンドン滞在中に、イギリス絵画を中心とする1,000点以上の作品を収集した。この他、1918年にはフランスの宝石商アンリ・ヴェヴェールが持っていた浮世絵約8,000点を一括購入。同じ年、リュクサンブール美術館館長(後にロダン美術館館長となる)のレオンス・ベネディットの仲介で、ロダンの代表作を一括購入している。
上記の1916年から1918年にかけての欧州滞在を第1回目の収集旅行とすると、2回目の収集旅行は1921年(大正10年)4月から1922年2月にかけてで、この時はロンドンのほか、パリ、ベルリンに渡った。この時の渡航は、日本海軍の依頼で、第一次世界大戦で猛威を振るったドイツ帝国海軍の潜水艦(Uボート)の設計図を入手するのが密かな目的だったという。
松方の名は既にコレクターとして知られており、パリのベルネーム・ジューヌやディラン・リュエル等の画商めぐりには、1921年3月からパリに留学中でフランス語が堪能な成瀬正一が屡々同行した。成瀬の松岡譲宛書簡(1921・9・5付)には、「此頃松方さんが 来て方々絵を買ひに歩いてゐる。ゴオガン十五六枚、セザンヌ四十八枚、クウルベ十枚を筆頭に沢山買つた。矢代君も一緒だ。日本で展覧したら立派なものだらう。世界の大抵の美術館には劣るまい。八百枚以上の名画があるんだから」とある。
矢代幸雄が後年『芸術新潮』に書いた「松方幸次郎」には「当時、私と共に松方さんについて歩いたのは、私と東大以来親しくしていた成瀬正一であった。成瀬は十五銀行の頭取の息子で、菊池や芥川の仲間であった。彼の当時新婚の奥さんは、川崎造船所の川崎家より来ており、従って松方さんはこの新婚の夫婦をパリで子供のように可愛がり、また成瀬は絵が好きなので、松方さんの画商めぐりにはよく私と一緒について歩き、また二人で松方さんの顔をきかせて方々の蒐集家を訪問して、いろいろ見せてもらつた。それで自然に成瀬は松方さんに画の選択について言うことになっていたが、もともと非常に金持ちの坊っちゃんで臆面なしであり、殊に、松方さんには何でも言える間柄であったから、成瀬の意見は松方さんに通りがよく、それで私は屡々松方さんに何か言う時、成瀬に応援を頼んだ。...彼は殊に二人の画家を推奨して已まなかった。一人はギュスターブ・モローであり、これは確かに彼の文学趣味から来ていた。...もう一つ成瀬が好きだったのはクールベーであった。...松方さんと一緒に歩くと、頻りにクールベーを求めるので、しまいには画商の方も承知して何時行っても何かよいクールベーを見せてくれるようになった。その中には随分いいクールベーもあったが、どの程度松方さんが買われたか、よく知らない。しかし日本に割合に多くクールベーの佳品から、以下いろいろの程度のクールベー風の作品が入っているのは、成瀬と共に歩く松方さんが自然に多くクールベーを買われ、その結果、敏感なるパリの美術市場は日本人のお客とみれば、クールベーを出して見せたためではなかろうか。お陰で私はよいクールベーの勉強が出来、松方コレクションにもよい作品が入っているようである。」とある。
松方は当時健在であった印象派の巨匠モネとも直接に交渉し、作品を購入した。画商などから購入する時も剛胆で、ステッキで「ここからここまで」と指して購入したとの逸話も伝えられる。パリ近郊ジヴェルニーにあったモネ邸を訪問した際の様子は、矢代の著書『芸術のパトロン』に描写されている。それによると、松方はモネの自邸に飾ってある自作の中から18点を選び、所望した。モネは「自宅に飾ってあるのは自分のお気に入りの作品だが」と言いつつ、「君はそんなに私の作品が好きなのか」と言って快く譲渡してくれたという。
同じく矢代の伝えるところによれば、画商ポール・ローザンベールのところで見かけたゴッホの『ファンゴッホの寝室』とルノワールの『アルジェリア風のパリの女たち』の2作は希代の傑作なので、ぜひ購入するよう、矢代は松方に熱心に勧めたという。矢代があまりしつこく勧めるので、松方は買わずに店を出てしまった。「あの傑作の価値がわからないのか」と憤っていた矢代が、しばらくしてから松方の所を訪れると、『ファンゴッホの寝室』『アルジェリア風のパリの女たち』の2作とも買ってあったという。これは、画商に手の内をみせて、絵の値段を吊り上げられないようにという、松方の計算もあったのではないかと言われている。
当時、松方は「私が自由に使える金が三千万円できた」と矢代に語ったということであり、これは現在の通貨価値に換算すれば300億円程度と推定される。 松方は1926年(大正15年)4月から1927年(昭和2年)4月にかけてもヨーロッパに滞在し、コレクションを増やした。
コレクションの行方
松方は共楽美術館という美術館を設立する構想を持っており、ブラングィンが設計図を作成していた。しかし、1927年に世界恐慌の影響で川崎造船所の経営が破綻し、負債整理のため松方も私財を提供せざるを得なくなった。そのため、日本にあったコレクションは十五銀行、藤木ビル等の担保となり、売立てにより散逸してしまった(その一部が現在ブリヂストン美術館、大原美術館に収蔵されている)。浮世絵のコレクション約8,000点は、昭和13年(1938年)に皇室へ献上され、昭和18年(1943年)に帝室博物館(現在の東京国立博物館)へ移管された。
一方、日本国外で保管していたコレクションは散逸を免れたが、1924年に実施された10割関税(関東大震災の復興資金のため、買値の10割の関税、つまり買値と同額の税金がかかった)が日本移送の障害となった。昭和初期に軍国主義、国粋主義的風潮が強まる中で、西洋美術のコレクションは軍部に悪印象を与えるのを恐れたこと等もあって、そのまま日本国外に保管されていた。
ロンドンで保管されていたコレクション(約950点と推測されている)は1939年に火災で焼失してしまった。パリにあったコレクション(428点との説がある)は、ロダン美術館に預けられていたが、第二次世界大戦のナチス・ドイツの侵攻により、元大日本帝国海軍大尉の日置釭三郎によりパリ近郊のアボンダンに疎開させられていた。ナチスの押収は免れたものの、戦後にフランス政府に押収されてしまった。このうち20点を除いて絵画・彫刻など375点が1959年に返還され、それらを基に国立西洋美術館が設立された。
行方不明になっていたクロード・モネの『睡蓮―柳の反映』が2016年9月にルーヴル美術館の収蔵庫でロールに巻かれた状態で発見され、返還された。
返還の経緯
フランス政府に押収された松方コレクションの返還交渉は1950年から始まった。交渉は難航したが、1951年のサンフランシスコ講和会議の際に、吉田茂首相がフランスの外務大臣に要求し、返還されることが決まった(日本国との平和条約によれば、フランスを含む連合国に管理されている日本の財産はそれぞれの国が没収するが、個人の財産は所有者に返還されるはずであった)。しかし、その後の交渉の中で、コレクション中、重要なゴーギャンやゴッホなどいくつかの作品についてはフランス側が譲らず、結局、絵画196点、素描80点、版画26点、彫刻63点、書籍5点の合計370点の作品が、美術館を建設して展示するという条件付きで返還された。フランス側は「寄贈だ」と主張したため、「寄贈返還」という言葉が使われた。返還交渉にあたった矢代幸雄らは特に『ファンゴッホの寝室』と『アルジェリア風のパリの女たち』を要求したが、前者の返還は認められなかった。
受入れのための美術館はル・コルビュジエにより基本設計が行われ、1959年に国立西洋美術館として開館した。
松方コレクションのエルネスト・ローラン
美しい肩:松方幸次郎氏購入; 1944年フランス政府が接収; 1959年フランス政府より寄贈返還.
*ローランの晩年の画風を良く表す作品である。ローランは点描技法を象徴主義に結び付けた画家の一人であったが、ここで用いられている点描技法は、夭折した友人スーラが主張したような純粋な色彩の並置による厳格なものではなく、中産階級好みの穏やかで上品な雰囲気を作り出すための手段となっている。西洋近代美術館の常設展の作品として展示されている。静謐の中の官能、そして美しい顔まで想像させる画力はさすがだ。
テラスの二人の婦人:松方幸次郎氏購入; 1944年フランス政府が接収; 1959年フランス政府より寄贈返還.
*高台のテラスで食卓を囲んで談笑する優雅な物腰の二人の婦人。のどかな夏の日の情景を扱ったこの作品は、晩年のローランの作風をよく伝えている。並列された細かなタッチによって画面を埋めていく手法は、言うまでもなく、画家の親しい友であったスーラが創始した新印象派の理論に基づいている。ローランは終生この技法に忠実であった。とはいえ、夭逝したスーラが、作画上の明確な意図をもって、純粋な色の並置による厳格な点描を行なったのに対して、ローランは市民生活の穏やかで親しげな雰囲気を表わすために、繊細なニュアンスを持つこの技法を用いたのであった。
しゃくやく:松方幸次郎氏購入; 1944年フランス政府が接収; 1959年フランス政府より寄贈返還.
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作品の掘り出しはロマンですが、たいがいロマンで終わるもの
、現実となるほどこの世は甘くはない。でもはてさて「捨てるくらいなら頂戴!」と言った義妹にはなんと説明しようかな?
作品については現在、額を新調中。額が出来ましたらまた本ブログにて紹介します。
*ちなみに先日投稿しましたシャルル・カムワンの作品は真作と判断しています。いい作品と評価していたので破棄するつもりではありませんでしたが、無造作に飾っておいた作品でした。