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静岡富士山世界遺産センター 「富士山絵画の正統」展覧会

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先週の3連休には富士宮にある静岡富士山世界遺産センターに出向いてきました。三保の松原に一泊し、修善寺温泉の新井旅館に一泊してきました。



静岡富士山世界遺産センターに当方の所蔵品が展示されているので、その作品を観るのが主目的です。



担当の松島学芸員にお会いし、館長の遠山敦子氏に紹介していただきました。

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遠山 敦子(とおやま あつこ、1938年12月10日 - ):日本の文部官僚。財団法人新国立劇場運営財団顧問。公益財団法人トヨタ財団理事長。公益財団法人パナソニック教育財団理事長。財団法人日本いけばな芸術協会会長。日本・トルコ協会副会長。2007年6月に株式会社NHKエンタープライズの社外取締役、2008年6月には株式会社電通の監査役にも就任している。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会評議員。

文化庁長官、在トルコ共和国特命全権大使、国立西洋美術館館長、独立行政法人国立美術館理事長、文部科学大臣(第2代)、財団法人新国立劇場運営財団理事長などを歴任した。2013年4月旭日大綬章を受章した。

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当方の所蔵作品は第一部の展示のみとなります。



図録には見開きで取り上げていただいていました。



当方で注目したのは狩野伊川院栄信が描いた襖絵「竹林の七賢人」です。

屏風の作品として以前に紹介した秋田佐竹藩のお抱え絵師の狩野秀水が描いた「竹林の七賢人」を思い起こしたからです。



静岡臨済寺の所蔵で、今回外部での公開は初めてだそうです。狩野派ではこの構図が「竹林の七賢人」として定型の構図だったのでしょう。構図や描き方もそっくりなのには驚きました。



当方の「竹林の七賢人」のほうが二曲一双なので迫力があります。ちょっと贔屓目の評価かな?

さてあいにくの気候で富士山は見えず・・。



近くの「白糸の滝」まで・・・。



やはり富士山はすごい!

忘れ去られた画家 桔梗と童女図 星野(岡本)更園筆

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星野(岡本)更園という女流画家をご存知の方はかなりの日本画通、もしくは美人画通、さらには大正ロマン通なのでしょう。本ブログで二度ほど紹介している岡本大更は義兄となり、岡本大更の更彩画塾で学んだ女流画家ですが、小生も初めて本作品の入手で知った画家です。

桔梗と童女図 星野(岡本)更園筆
絹本着色軸装 軸先木製 合箱 
全体サイズ:縦1940*横555 画サイズ:縦1145*横410

 

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岡本更園(おかもと こうえん):日本画家。明治28年(1895)兵庫県生。本名は延子。姓は岡本の他に星野・大江。最初は義兄・岡本大更の更彩画塾で学び、後に鏑木清方や西山翠嶂に師事する。新聞・雑誌の挿絵も担当した。大阪女流画壇の中心人物として美人画を得意とした。島成園や生田花朝女らと親交があった。歿年未詳。
大正14年(1925年)1月に木谷千種、星野更園、三露千鈴らを会員、日本画家北野恒富、菊池契月らを顧問とする「向日会」を結成。

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大正時代の女流画家を撮影した写真で下記の写真が良くみかけます。「女四人の会」という大正時代当時の女流画家の展覧会で、作品を前に撮影された写真です。「大正5年5月撮影」とされ、全員この時二十歳すぎ位だったようです。



左から岡本更園、吉岡(木谷)千種、島成園、松本華羊(「女性画家の大家展」より)

本日紹介する一番左側の岡本更園には少し影がある印象を受け、木谷千種はシアトルにて洋画を学び後年画塾を開き門弟50人を育てたという陽性な気質が表れています。

島成園は画壇の男権主義に反抗する傲岸不遜さがあり、松本華羊は「何不自由ないお嬢さん育ちで性質も温和で…」と評されたようなほんわかさな印象を受けます。4人女流画家の交流、画家としての成長、恋愛、そしてスキャンダル、幾重にも絡めた大正ロマンを代表するような時代を代表する女流画家達です。

本作品はどこかバランスの不安定な耽美的な印象を受けますが、これが当時の大正ロマンの画風なのでしょう。これを軌道修正し正当な美人画として育てたのが鏑木清方・上村松園・伊東深水らと言えるのでしょう。



左側が本作品の落款と印章です。中央と右側が参考作品の落款と印章です。

  

いずれ限界のあった大正ロマンの女流画家たちだと思いますが、今となっては懐かしい貴重な作品群です。現代では幾度となくこの種の展覧会は催されておりますが、作品の数は少なく、多くの作品を集めての展覧会の開催は難しくなっていくでしょう。



星野(岡本)更園という画家は現在は非常にマイナーで、忘れ去られているのでしょう。忘れされている画家の作品はネットオークションにときおり出品され、おどろくほどの廉価で捌かれています。



せめて小生のようなもの好きが入手しながら、後世に伝えるべくブログで紹介したり、展示室で飾りながら楽しんであげましょう それが時代を繋ぐ者の役目かな? 美人に関わるのは御免ですが、美人画は嫌いではありません。おっと本日の作品は美人画?

 

一緒に撮影されている作品は餅花手の大皿と徳化窯の細工筆立てです。

錐呉器茶碗 銘東雲

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錐呉器茶碗 銘東雲
松永耳庵書付箱
最大口径135*高さ90*高台径53



呉器茶碗については何度か本ブログで説明していますので、詳しい説明は省かせて頂きますが、簡単に言うと「呉器は御器・五器とも書き、御器にはお供えの器の意があり、これが本来の役割とも言われている。また、御器とは元来飲食用の木椀のこと。これに似た形をしたものを指し、概ね丈が高くて見込みが深く、高台は高くかつ開いている。大振りで形・釉色とも素朴なところが我が国の茶人に好まれた。」ということです。



このような茶碗の発色を「御本手」といいますが、これも本ブログで何度も説明していますが、簡単に言うと「桃山時代から江戸初期に、日本から手本を朝鮮に送り、釜山などの窯で焼かせた陶器。陶土の質によって生じる赤みのある斑紋が特色。」ということですが、要はお手本があって作られたということが名前の由来です。



箱内には下記の書付があります。

「東雲」 
「本夕、家元庵主を訪れ 紅葉御器之名器 にて賜茶(しちゃ)請ハレル 相客耕圃氏ト談尽合 戦捷(戦争に勝つこと)之黎明ニ因テ(ちなみて) 「志のの免(しののめ)」の名を銘ぜり 皇代二千六百弐年十二月十九日 松永耳庵」と概略は読めますが、詳しくはなかなか解りません。



皇代二千六百弐年十二月十九日は1942年(昭和17年)頃に相当し、松永耳庵(松永安左エ門)が67歳の頃にあたる。この年は東邦電力の解散(1942年)を期に松永耳庵は実業界を引退し、以後は所沢の柳瀬荘で茶道三昧の日を過ごしている。



茶の湯は「耳順」と呼ばれた60歳より本格的に始めた事から「耳庵」と号しています。昭和4年(1929)には有楽井戸を益田鈍翁と競り合った末に法外な値段で購入し名を挙げていることは有名ですね。戦時中から戦後にかけ、政治家・学者・芸術家を招いてしばしば茶会を催していますが、茶道は自己流というのが通説らしい?



さて本茶碗がその「紅葉茶碗の名器?」なのか、その所蔵は松本耳庵なのか、家元?なのか、想像すると面白いものです。

*家元については解りません。松永耳庵は茶道においては特定の師にはついていない自己流のはず?
*松永耳庵の茶友に丸岡という人物がいます。耕圃という号の如く植木屋の出身。松本耳庵の日記を調べると解りかもしれませんが後学としておきます。
推定:本書付に関しては「丸岡耕圃」などのあまり知られていない人物の記述があるなど信憑性は高いと思われます。



書付の茶碗を本茶碗とするか否かが疑う余地はあります。ただ本茶碗を時代はどうあれ「呉器茶碗」に分類するのは差し付かえないでしょう。「紅葉茶碗」とするか「錐茶碗」とするかが難しいところです。



「紅葉茶碗」は「胴の窯変が赤味の窯変を見せている事でその名があり、呉器茶碗中の最上手とされる。高台が高く、撥状に外に開いている。その高台はたいていが切り込まれている。」というのが分類の基準です。



「錐茶碗」は「見込みが錐でえぐったように深く掘られている。高台の中にも反対に錐の先のように尖った兜巾が見られるのでこの名がある。口辺につまみ出しや、つまみ込みがそれぞれ向かい合っていることが多い。肌は一様に青みがかって、赤の窯変や雨漏り染みなどの見られるものは少ない。総体にやや細身で、高台は高く、切り込まれている場合が多く、見込みに渦状の筋がみられるものもある 。」というのが通説です。



書付は「紅葉茶碗」、箱書からは「錐茶碗」に分類しているようです。書付の後になってこれは「錐茶碗」と判断したのかもしれませんね。



問題は分類よりも箱の書付に惑わされずに作品自体の時代考証でしょうね。 



稽古に使うなら実に使いやすそうな茶碗でまったく問題ありません。



さ~、これからまた調べもの。小生と家内はこの茶碗を気に入っています。「そろそろ内輪でお茶でも飲もうか?」と家内と意見が一致。これで呉茶碗は本ブログで3作品目ですが、それなりにいい作品が入手できました。

後日、母の葬儀でお世話になった菩提寺の茶事で差し出された茶碗が呉器の茶碗がふたつ・・、これも何かの縁。

この時に見せて頂いたのが遠州流の宗慶氏の書付のある「在中庵」の茶入れ、そして津田宗久と江月宗玩の揃いの茶杓 少なくても茶入れの書付は本物でした。いいものがあるとところにはあるもの。

庭に腰掛ける婦人 エルネスト・ローラン画

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本日は男の隠れ家の蔵から引っ張り出してきた作品です。だいぶくたびれた額に納まり、雰囲気も暗いので捨てようと思いましたが、義妹が「いい絵ね~。捨てるなら戴いていく!」と言うので、こちらも色気を出しちょっと調べてみようという気になった作品です。

先日投稿しましたシャルル・カムワンの作品と一緒にあった作品です。

庭に腰掛ける婦人 エルネスト・ローラン画
左下サイン Ernest Laurent
画サイズ:縦*横



くたびれた額は宅急便で配達中にガラスが破損、幸い絵そのものは損傷はありませんでした。後日新調した額の代金は宅急便の方で負担してくれました。

サインは左下にありますが、だいぶ見づらい・・。



額の裏には下記の印やサインがあります。



パリで描かれ日本に輸入された・・?? 古くからあった作品ですが来歴が全く不明で、今の縁側にずっと飾られていた作品です。キャンバスの周囲は絵の具で汚れもあり、複製画ということでもなさそうです。



シャルル・カムワンに続いての掘り出しもの? 「柳の下の鰌」は二匹はいない??? というのは小生の常套句ですがともかく根念入りに調べてみました。。

調べてみたたところどうもサインの右の部分は「Laurent」と読めます。そうすると画風から察すると「Ernest Laurent」という画家に辿りつくことになりました。

Ernest Laurent [Paris, 1859 - Bièvres, 1929]・・・エルネスト・ローランのことでしょうか? この画家を知っている人は少ないかもしれませんね。

エルネスト・ローランは最後の印象派と称され、国立西洋美術館蔵に収められている松方コレクションの作品が有名です。スーラの点描とはまた少し違ったタッチの点描でも有名です。インターネット上には下記の作品と記事が掲載されています。

参考作品
美しい肩 Beautiful Shoulders
国立西洋美術館蔵
制作年:1920年 材質・技法・形状 油彩、カンヴァス 寸法(cm):65 x 54.7
署名・年記 左下に署名、右下に年記: Ernest Laurent / Paris 1920
所蔵経緯:松方コレクション



作品解説:《美しい肩》は、ローランの晩年の画風を良く表す作品である。ローランは点描技法を象徴主義に結び付けた画家の一人であったが、ここで用いられている点描技法は、夭折した友人スーラが主張したような純粋な色彩の並置による厳格なものではなく、中産階級好みの穏やかで上品な雰囲気を作り出すための手段となっている。西洋近代美術館の常設展の作品として展示されている。静謐の中の官能、そして美しい顔まで想像させる画力はさすがです。

国立西洋美術館蔵に収められている松方コレクションの作品では他にも下記の作品らが知られています。





本作品と同じような構図でローランの晩年の女性の後ろ姿を描いた作品には下記の作品が知られています。





本作品の真贋は解りませんが、少なくても捨てるくらいなら「頂戴!」と言った義妹の鑑賞眼は侮れないようです。まだ同様な状態でいくつかの作品がありますが、そちらの作品の調査は難航中・・。

*日本にあった松方コレクションは十五銀行、藤木ビル等の担保となり、1930年以降に売立てにより散逸していますが、入手時期からすると本作品はその作品のひとつの可能性がある?

松方コレクションの概略は下記のとおりです。

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松方コレクション:実業家の松方幸次郎が大正初期から昭和初期(1910年代から1920年代)にかけて築いた美術品コレクション。多くが散逸・焼失しており「幻のコレクション」と称されていますが、浮世絵が約8000点、西洋美術が約3000点で総数は1万点を超えていた。

川崎造船所(川崎重工業の前身)社長を務めた実業家の松方幸次郎 (1865 - 1950) がイギリス、フランス、ドイツ等で収集した美術コレクションで、西洋近代の絵画・彫刻と日本の浮世絵が主体である。このうち、近代フランスの絵画・彫刻等約370点は、東京・上野の国立西洋美術館に収蔵・公開されているが、散逸・焼失した作品も多い。なお、約8,000点の浮世絵コレクションは、美術商の山中定次郎を通じて、フランスの宝石細工師で日本美術コレクターのアンリ・ヴェヴェールから買い戻したものが中心で、一括して東京国立博物館の所蔵となっている。国立西洋美術館の所蔵品では、特にモネの絵画、ロダンの彫刻がまとまって収集されている。東京国立博物館所蔵の浮世絵も喜多川歌麿、東洲斎写楽らの名品を含む、一級のコレクションである。

松方本人や関係者がコレクションについてまとまった著作・記録をまとめることもないまま、後述のように、松方が経営していた事業の破綻で、コレクションのうち西洋美術については多くを手放すこととなった。保管場所も日欧に分かれ、コレクション全体が一堂に集められたこともない。このため「幻のコレクション」とも呼ばれてきた。 第二次世界大戦後、フランス政府が敵国財産として没収していた松方コレクションを日本に返還したほか、国立西洋美術館がコレクションの調査や買戻しを現在まで続けている。特に近年は各国の美術館や画商が保有する作品リストと過去のアーカイブがインターネットで閲覧・入手できるようになり、散逸・現存作品の所在確認が大きく進んだ。越智裕二郎、湊典子らも研究を進めた。

松方コレクションの全体像を紹介した資料としては、1990年に神戸市立博物館が『松方コレクション西洋美術総目録』を編纂している。その後の調査で明らかになった約1000点の情報を加えた『松方コレクション 西洋美術全作品』(平凡社)が、第1巻(絵画・1207点)と第2巻(彫刻・素描など約1800点)に分けて2018年7月から刊行が始まっている。

こうした調査・研究の一環として2016年9月、松方コレクション953点分の作品リスト(絵画255点、版画554点、彫刻17点等)がロンドンで見つかったと国立西洋美術館が発表した。リストは、松方と取引のあったロンドンの画商が遺したもので、2010年、テート美術館に寄贈された文書に含まれていた。国立西洋美術館ではリストの発見により、コレクションの全容がほぼ明らかになるとしている。

松方は、内閣総理大臣を務めた松方正義の子である。大学予備門(後の東京大学)に進学するが、校内紛争に関わったかどで放校処分となる。その後、1884年(明治17年)にアメリカ合衆国へ留学。ラトガーズ大学を経て、エール大学で法学の博士号を取得し、1890年に帰国した。帰国後は首相となった父・松方正義の秘書を務めた後、川崎造船所創業者の川崎正蔵に見込まれ、1896年、株式会社へ改組した同造船所の初代社長に就任した。川崎正蔵と松方正義は同郷(薩摩藩)の旧友であり、幸次郎の留学費用も川崎が用立てていた。

第一次世界大戦に伴う船舶需要の高まりを受け、松方は積極経営で業績を拡大していった。松方が美術品収集を開始したのは、1916年(大正5年)3月から1918年にかけての欧州滞在時のことである。松方はアメリカ経由でイギリスの首都ロンドンへ向かった。この渡航は、川崎造船所のために貨物船の売り込みや鉄などの資材の買付をすることが主目的であった。

美術品収集を始めた経緯については諸説あるが、ロンドンの画廊で、興味本位で絵画を購入したことがきっかけであったという。1916年、松方はベルギー出身のイギリスの画家フランク・ブラングィン(Frank William Brangwyn)と知り合った。同世代の2人は親しい友人となり、ブラングィンは松方の美術コレクションのアドバイザーも務めた。松方は1918年までのロンドン滞在中に、イギリス絵画を中心とする1,000点以上の作品を収集した。この他、1918年にはフランスの宝石商アンリ・ヴェヴェールが持っていた浮世絵約8,000点を一括購入。同じ年、リュクサンブール美術館館長(後にロダン美術館館長となる)のレオンス・ベネディットの仲介で、ロダンの代表作を一括購入している。

上記の1916年から1918年にかけての欧州滞在を第1回目の収集旅行とすると、2回目の収集旅行は1921年(大正10年)4月から1922年2月にかけてで、この時はロンドンのほか、パリ、ベルリンに渡った。この時の渡航は、日本海軍の依頼で、第一次世界大戦で猛威を振るったドイツ帝国海軍の潜水艦(Uボート)の設計図を入手するのが密かな目的だったという。

松方の名は既にコレクターとして知られており、パリのベルネーム・ジューヌやディラン・リュエル等の画商めぐりには、1921年3月からパリに留学中でフランス語が堪能な成瀬正一が屡々同行した。成瀬の松岡譲宛書簡(1921・9・5付)には、「此頃松方さんが 来て方々絵を買ひに歩いてゐる。ゴオガン十五六枚、セザンヌ四十八枚、クウルベ十枚を筆頭に沢山買つた。矢代君も一緒だ。日本で展覧したら立派なものだらう。世界の大抵の美術館には劣るまい。八百枚以上の名画があるんだから」とある。

矢代幸雄が後年『芸術新潮』に書いた「松方幸次郎」には「当時、私と共に松方さんについて歩いたのは、私と東大以来親しくしていた成瀬正一であった。成瀬は十五銀行の頭取の息子で、菊池や芥川の仲間であった。彼の当時新婚の奥さんは、川崎造船所の川崎家より来ており、従って松方さんはこの新婚の夫婦をパリで子供のように可愛がり、また成瀬は絵が好きなので、松方さんの画商めぐりにはよく私と一緒について歩き、また二人で松方さんの顔をきかせて方々の蒐集家を訪問して、いろいろ見せてもらつた。それで自然に成瀬は松方さんに画の選択について言うことになっていたが、もともと非常に金持ちの坊っちゃんで臆面なしであり、殊に、松方さんには何でも言える間柄であったから、成瀬の意見は松方さんに通りがよく、それで私は屡々松方さんに何か言う時、成瀬に応援を頼んだ。...彼は殊に二人の画家を推奨して已まなかった。一人はギュスターブ・モローであり、これは確かに彼の文学趣味から来ていた。...もう一つ成瀬が好きだったのはクールベーであった。...松方さんと一緒に歩くと、頻りにクールベーを求めるので、しまいには画商の方も承知して何時行っても何かよいクールベーを見せてくれるようになった。その中には随分いいクールベーもあったが、どの程度松方さんが買われたか、よく知らない。しかし日本に割合に多くクールベーの佳品から、以下いろいろの程度のクールベー風の作品が入っているのは、成瀬と共に歩く松方さんが自然に多くクールベーを買われ、その結果、敏感なるパリの美術市場は日本人のお客とみれば、クールベーを出して見せたためではなかろうか。お陰で私はよいクールベーの勉強が出来、松方コレクションにもよい作品が入っているようである。」とある。

松方は当時健在であった印象派の巨匠モネとも直接に交渉し、作品を購入した。画商などから購入する時も剛胆で、ステッキで「ここからここまで」と指して購入したとの逸話も伝えられる。パリ近郊ジヴェルニーにあったモネ邸を訪問した際の様子は、矢代の著書『芸術のパトロン』に描写されている。それによると、松方はモネの自邸に飾ってある自作の中から18点を選び、所望した。モネは「自宅に飾ってあるのは自分のお気に入りの作品だが」と言いつつ、「君はそんなに私の作品が好きなのか」と言って快く譲渡してくれたという。

同じく矢代の伝えるところによれば、画商ポール・ローザンベールのところで見かけたゴッホの『ファンゴッホの寝室』とルノワールの『アルジェリア風のパリの女たち』の2作は希代の傑作なので、ぜひ購入するよう、矢代は松方に熱心に勧めたという。矢代があまりしつこく勧めるので、松方は買わずに店を出てしまった。「あの傑作の価値がわからないのか」と憤っていた矢代が、しばらくしてから松方の所を訪れると、『ファンゴッホの寝室』『アルジェリア風のパリの女たち』の2作とも買ってあったという。これは、画商に手の内をみせて、絵の値段を吊り上げられないようにという、松方の計算もあったのではないかと言われている。

当時、松方は「私が自由に使える金が三千万円できた」と矢代に語ったということであり、これは現在の通貨価値に換算すれば300億円程度と推定される。 松方は1926年(大正15年)4月から1927年(昭和2年)4月にかけてもヨーロッパに滞在し、コレクションを増やした。

コレクションの行方

松方は共楽美術館という美術館を設立する構想を持っており、ブラングィンが設計図を作成していた。しかし、1927年に世界恐慌の影響で川崎造船所の経営が破綻し、負債整理のため松方も私財を提供せざるを得なくなった。そのため、日本にあったコレクションは十五銀行、藤木ビル等の担保となり、売立てにより散逸してしまった(その一部が現在ブリヂストン美術館、大原美術館に収蔵されている)。浮世絵のコレクション約8,000点は、昭和13年(1938年)に皇室へ献上され、昭和18年(1943年)に帝室博物館(現在の東京国立博物館)へ移管された。

一方、日本国外で保管していたコレクションは散逸を免れたが、1924年に実施された10割関税(関東大震災の復興資金のため、買値の10割の関税、つまり買値と同額の税金がかかった)が日本移送の障害となった。昭和初期に軍国主義、国粋主義的風潮が強まる中で、西洋美術のコレクションは軍部に悪印象を与えるのを恐れたこと等もあって、そのまま日本国外に保管されていた。

ロンドンで保管されていたコレクション(約950点と推測されている)は1939年に火災で焼失してしまった。パリにあったコレクション(428点との説がある)は、ロダン美術館に預けられていたが、第二次世界大戦のナチス・ドイツの侵攻により、元大日本帝国海軍大尉の日置釭三郎によりパリ近郊のアボンダンに疎開させられていた。ナチスの押収は免れたものの、戦後にフランス政府に押収されてしまった。このうち20点を除いて絵画・彫刻など375点が1959年に返還され、それらを基に国立西洋美術館が設立された。
行方不明になっていたクロード・モネの『睡蓮―柳の反映』が2016年9月にルーヴル美術館の収蔵庫でロールに巻かれた状態で発見され、返還された。

返還の経緯

フランス政府に押収された松方コレクションの返還交渉は1950年から始まった。交渉は難航したが、1951年のサンフランシスコ講和会議の際に、吉田茂首相がフランスの外務大臣に要求し、返還されることが決まった(日本国との平和条約によれば、フランスを含む連合国に管理されている日本の財産はそれぞれの国が没収するが、個人の財産は所有者に返還されるはずであった)。しかし、その後の交渉の中で、コレクション中、重要なゴーギャンやゴッホなどいくつかの作品についてはフランス側が譲らず、結局、絵画196点、素描80点、版画26点、彫刻63点、書籍5点の合計370点の作品が、美術館を建設して展示するという条件付きで返還された。フランス側は「寄贈だ」と主張したため、「寄贈返還」という言葉が使われた。返還交渉にあたった矢代幸雄らは特に『ファンゴッホの寝室』と『アルジェリア風のパリの女たち』を要求したが、前者の返還は認められなかった。
受入れのための美術館はル・コルビュジエにより基本設計が行われ、1959年に国立西洋美術館として開館した。

松方コレクションのエルネスト・ローラン

美しい肩:松方幸次郎氏購入; 1944年フランス政府が接収; 1959年フランス政府より寄贈返還.
*ローランの晩年の画風を良く表す作品である。ローランは点描技法を象徴主義に結び付けた画家の一人であったが、ここで用いられている点描技法は、夭折した友人スーラが主張したような純粋な色彩の並置による厳格なものではなく、中産階級好みの穏やかで上品な雰囲気を作り出すための手段となっている。西洋近代美術館の常設展の作品として展示されている。静謐の中の官能、そして美しい顔まで想像させる画力はさすがだ。

テラスの二人の婦人:松方幸次郎氏購入; 1944年フランス政府が接収; 1959年フランス政府より寄贈返還.
*高台のテラスで食卓を囲んで談笑する優雅な物腰の二人の婦人。のどかな夏の日の情景を扱ったこの作品は、晩年のローランの作風をよく伝えている。並列された細かなタッチによって画面を埋めていく手法は、言うまでもなく、画家の親しい友であったスーラが創始した新印象派の理論に基づいている。ローランは終生この技法に忠実であった。とはいえ、夭逝したスーラが、作画上の明確な意図をもって、純粋な色の並置による厳格な点描を行なったのに対して、ローランは市民生活の穏やかで親しげな雰囲気を表わすために、繊細なニュアンスを持つこの技法を用いたのであった。

しゃくやく:松方幸次郎氏購入; 1944年フランス政府が接収; 1959年フランス政府より寄贈返還.

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作品の掘り出しはロマンですが、たいがいロマンで終わるもの、現実となるほどこの世は甘くはない。でもはてさて「捨てるくらいなら頂戴!」と言った義妹にはなんと説明しようかな? 

作品については現在、額を新調中。額が出来ましたらまた本ブログにて紹介します。

*ちなみに先日投稿しましたシャルル・カムワンの作品は真作と判断しています。いい作品と評価していたので破棄するつもりではありませんでしたが、無造作に飾っておいた作品でした。



護良親王図 寺崎廣業筆 その66

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先月に3連休は展覧会ついでにあちこちへ・・。まずは息子と乳しぼり体験。



乗馬体験、途中で馬がとまり馬糞を放出するハプニング。



ついでにドローンの操縦体験。



宿に着くまえに西園寺公望の別邸訪問。



このような和風建築を体験させるのも大切なことだと思っています。小生らが育ったこのような空間を大切にして欲しい。



さらに夕食前に遊園地。



子供とのめぐるましい一日・・



さて本日は寺崎廣業の明治30年頃の佳品の紹介です。滅多に市場に出ない寺崎廣業の代表作のひとつでしょう。

本日紹介する作品はもともとは母の実家にて所蔵していた作品ですが、一度手放されることになりそうだったのですが、知り合いからの紹介で縁あって当方の所蔵となりました。本作品は寺崎廣業を語る上でなくてはならない資料的価値のある作品です。最近紹介しました「和漢諸名家筆蹟縮図 寺崎廣業筆 水墨淡彩巻物三巻 」と同時に入手した作品です。それなりの代価は支払いましたが、当方で所蔵すべき作品と思い入手しました。

護良親王図 寺崎廣業筆
水墨着色絹本軸装 幡山鑑定箱 布タトウ
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横498*縦1148



この作品は昭和24年5月26日に催された「寺崎廣業名作展出品(主催:秋田魁新報社)」に出品された作品です。「秋田魁新報社」は寺崎廣業の出身地の秋田の新聞社です。



題材となった「護良親王」とは別名「大塔宮」と呼ばれた後醍醐天皇の皇子のことです。



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護良親王:(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年)~建武2年7月23日(1335年8月12日)。鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。



延慶元年(1308年)、尊治親王(後の後醍醐天皇)の子として生まれる。6歳の頃、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入院した。大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることからである。正中2年(1325年)には門跡を継承し、門主となる。

後醍醐天皇の画策で、嘉暦2年(1327年)12月から元徳元年(1329年)2月までと、同年12月から元徳2年(1330年)4月までの2度に渡り、天台座主となる。

『太平記』によると、武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む極めて例がない座主であったという。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こすと、還俗して参戦する。

以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2年に渡り幕府軍と戦い続けた。しかし討幕が成った後、その功労者足利尊氏(高氏)と相容れず、信貴山(奈良県生駒郡平群町)を拠点にして上洛せず尊氏を牽制した。

後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛し、尊氏は鎮守府将軍となった。建武政権においても尊氏らを警戒していたとされ、縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に、義良親王(後の後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させた。



『太平記』によると、尊氏のほか、父の後醍醐天皇やその寵姫阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のために配下の僧兵を集めて辻斬りを働いたりした。このため、征夷大将軍を解任され、建武元年(1334年)冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐天皇の意を受けた名和長年、結城親光らに捕らえられる。その上で足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟足利直義の監視下に置かれたと述べられている。その一方、『梅松論』によると、兵部卿の護良親王は後醍醐天皇の密命を受けて、新田義貞、楠木正成、赤松則村とともに、尊氏を討つ計画を企てた。しかし、尊氏の実力になかなか手を出せずにいた。建武元年(1334年)夏に、状況が変わらないことに我慢がならなくなった護良親王は、令旨を発して兵を集めて尊氏討伐の軍を起こした。これを聞いた尊氏も兵を集めて、備えた。その上、尊氏は親王の令旨を証拠として、後醍醐天皇に謁見した。これを聞いた後醍醐天皇は「これは、親王の独断でやったことで、朕には預かり知らぬことである」と発言して、護良親王を捕らえて尊氏に引き渡したと述べられている。

いずれにせよ父・後醍醐天皇との不和は、元弘の乱に際し討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことに始まると言われ、皇位簒奪は濡れ衣であると考えられている。失脚の前兆として、護良親王派の赤松則村が、勢力を著しく削減されていた。



翌年、北条時行を奉じた諏訪頼重による中先代の乱が起き、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は、頼重らに奉じられる事を警戒した直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。護良親王は前征夷大将軍であり、親王が時行に擁立された場合には宮将軍・護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためであった。一方で鎌倉に置かれていた成良親王は京都に無事送り届けられていることから、直義による護良親王殺害は問題とされることはなかったと見られている。親王殺害の2日後に鎌倉は北条軍によって陥落した。



『太平記』では、東光寺の土で壁を固めた牢に閉じ込められたことになっており(土牢は鎌倉宮敷地内に復元されたものが現存)、直義の家臣・淵辺義博に殺害されて首を刎ねられた護良親王は、側室である藤原保藤の娘の南方に弔われたと伝えられている。南方と護良親王との間には鎌倉の妙法寺を開いた日叡が生まれ、後に父母の菩提を弔った。さらに護良親王の妹が後醍醐天皇の命を受けて、北鎌倉にある東慶寺の5代目の尼として入り、用堂尼と呼ばれた。

東慶寺には護良親王の幼名「尊雲法親王」が書かれた位牌が祀られている。宮内庁が管理する墓所は神奈川県鎌倉市二階堂の理智光寺跡で、妙法寺にも墓がある。

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この作品は幽閉されていた「護良親王」を描いた作品です。護良親王が実際に幽閉されたのは、下記の写真のあるようなこのような岩窟ではなく、土蔵造りの牢屋だったと考えられています。




箱書には「昭和16年晩春幡山道人鑑定」とあります。寺崎廣業の落款が「二本廣業」であることから明治30年代までに描かれた作品であると推測されます。



本作品はもともと手元に依頼されて手元に保管されていた作品ですが、故あって手元を離れ、その後に購入できた作品です。

  

箱書きなど由来はきっちりしており、元の所蔵者は県議会議長、町長を務めた方のようです。

 

歴史的に護良親王をどう評価するかは人によって千差万別・・、家内は絵が暗いと言って忌み嫌いますが、出来は非常に良い作品です。

本来は郷里の美術館で所蔵するが適切でしょうが、今は小生の所蔵がふさわしいと考えています。多作で忌み嫌われる面もある寺崎廣業の作品ですが、このような秀でた作品もあります。

色紙 茄子と胡瓜 福田豊四郎筆

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9月の3連休の二日目は水族館から・・・。サメは思いのほかデカイ



そして恐竜の博物館へ・・。



なんとも異次元の世界。こんなのに襲われたらひとたまりもない



ついでにロボット操作も・・。



手作りも体験・・???



さて今年の夏の帰省で地元の骨董店を尋ねてきました。地元の画家で、父の友人、かつ母や姉の交友のあった福田豊四郎の作品を中心に取り扱っている骨董店です。

今回も?資金に余裕がなかったので、今回は見るだけと思って立ち寄ったのですが、結局福田豊四郎の掛け軸を1点、色紙を1点、舘岡栗山の掛け軸を2点、そして家内が倉田松涛の掛け軸を2点購入する羽目になってしまいました

本日はその時に購入した福田豊四郎の色紙の作品に紹介です。購入金額は安くて1万円也。しかも掛け軸との抱き合わせて値引きしていただき、ほぼただ同然の購入となりました。作品にシミがあったのでそのようなお値段になったこともあります。

福田豊四郎の「茄子」を描いた作品は実はこれで3点目となります。

色紙 茄子と胡瓜 福田豊四郎筆
紙本水墨 タトウ
画サイズ:縦270*横240



当方ですでに所蔵している福田豊四郎の「茄子」の作品のひとつは本日紹介する作品と同様に色紙の作品です。母が病気で療養中の福田豊四郎氏を見舞いに行った時に、母曰く「祖母に渡して欲しい。」と描いてくれた作品だそうです。母はこの作品が気に入り、実は祖母に渡さず、母が所蔵していて小生に譲ってくれた作品です。その由来を母は茶目っ気たっぷりに作品を観ながら話していました。



もうひとつの「茄子」の作品は画帳に描かれた作品です。多くの著名な画家らの作品が収められている画帳の中に本作品が描かれています。この画帳は我が家に伝来している作品のひとつです。



本作品の落款と印章は下記の写真の左側です。右は当方で所蔵している「ひめゆり」という色紙の作品の印章と落款です。同一時期の作であることが解ります。

 

この「ひめゆり」という作品は病気療養中の父に福田豊四郎氏が描いてくれた作品です。タトウには父に宛てた福田豊四郎氏の直筆のサインもあります。



そしてこの「ひめゆり」という作品は色紙から本格的に描いた作品があり、その作品は福田豊四郎氏と交友のあった姉が嫁いだ時に母から譲られ、そして姉から小生に譲られています。色紙の作品共々小生の所蔵となっています。



本格的に描いた「ひめゆり」の作品は下記の作品ですが、現在保存用のタトウを製作中です。



祖母と母と父とそして姉と福田豊四郎氏をつなぐ作品、母の死によってこれらの作品をさらに引き継ぐ者へ渡そうと思っています。

墨松図 伝榊原紫峰筆 その7

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9月の3連休の二日目の後半は三保の松原へ・・。



展覧会の出品作が描いたところ・・。あいにく雲がかかって富士山は稜線が少し見えただけ。素足になって砂浜を駆けました。



ということで本日の作品は松・・・。

墨松図 榊原紫峰筆 その7
紙本水墨額装 タトウ入
全体サイズ:縦680*横465 画サイズ:縦490*横280



榊原紫峰の水墨画は好きな世界です。



多くの画家が晩年には水墨画の世界に打ち込むようです。



それはある意味で健常なることのように思います。紙と水墨、日本画の基本なのでしょう。最近の画家の絵の具を厚く塗り重ねたり、スプレーで描くという邪道を許してはいけませんね。



落款と印章は下記のようになっています。昭和40年代の落款と印章に違いはないようです。

 

ところで榊原紫峰の日本画の大家です。興味深い下記の記事をみつけましたので投稿します。

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偽印章:紫峰の作品は、昭和初期から模造品があり特に現在ではそれらの作品も適度な時代感で、一見違和感なく真作に見えるものがあります。下は昭和初期頃の品物に捺印されていましたが、真印の「紫峰印信」に比べ、「糸」のバランスが違います。この印章が押印されていた作品は良く描けていましたが当時の画学生による模写品だったそうです。



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そのような詳細の内容は専門家に任せることとし、慎重を期すると本日紹介する作品も「伝」としておくのが無難でしょうが、本音では真作と判断しています。その根拠のひとつが中央の折り目です。贋作にはこのような評価の下がるスケッチ的なことはしません。

*本ブログにて写真だけみて文章を読まれない方は真贋入り混じっていると感じているかもしれませんが、当方は真作と贋作では微妙なところで表現を変えていますのでご了解ください。



話を本筋に戻すと、多くの画家がそうであったように日本画を蒐集する者も最後は墨の世界に誘導されるかもしれませんね。

白梅 福田豊四郎筆 その96

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9月の3連休の二日目の宿は修善寺の新井旅館です。なにやら旅館の庭先で家内と息子が話をしていました。



議論白昼・・??? 息子は納得していない・・、なんの話だ???



さ~、議論はさておき風呂だ~。なんとか遺産の天平風呂、ひとり占め!



そして夕食。



夜は家内と散歩に出かけると話していたら、息子が寝ない とうとう一緒に出かけることになりました。



一日目に比べたらのんびりした一日でした?



さて本日は当方の蒐集のルーツとでもいうべき福田豊四郎の作品の紹介です。最近立て続けにあちこちから福田豊四郎の作品が入手されています。

白梅 福田豊四郎筆 その96
紙本水墨着色額装 共シール 紙タトウ
全体サイズ:縦565*横470 画サイズ:縦415*横315



当方の福田豊四郎の作品に贋作はありません。浜田庄司、源内焼も同様と判断しています。



たいした作品は蒐集できていませんが、福田豊四郎の作品蒐集は当方のライフワークのようなもの。



本作品の共シールと作品中の落款と印章は下記のとおりです。

 

印章などを比較するまでもなく真作と断定できますが、念のために当方で所蔵する真作の落款と印章の実例と比較しておきます。

 

日本画の蒐集にあたっては色紙など真作の数を増やしておくと入手判断に役に立ちます。

福田豊四郎の真作はネットオークションでも数が少なくなりました。寺崎廣業、平福穂庵・百穂のこれぞという作品の出展は少なくなりましたし、数多くあった天龍道人や蓑虫山人も見かけなくなりました。いい時期に買い漁ったかもしれません。

ネットオークに贋作が多いからといって尻込みしている人はいい作品の入手手段を失っていることになります。もともと骨董店だって贋作が多かったのです。信用ある骨董店を相手にする資金豊富な御仁はさておき、地元の会主の骨董店だって半分は贋作であったと認識しています。信用ある骨董店も危ないものはありますし、確かな作品は確かな値段・・。

ネットオークションの作品は9割は贋作。のこり1割も半信半疑の作品。まずはそこまで絞り込める鑑識眼は最低必要なのでしょう。素人はそこまで絞り込めないのが通常ですが、さらにその1割にかける胆力が最後は必要のようです。著名なコレクターも蔵ひとつの贋作あったそうですから、蒐集する側はその点を弁えておく必要があり、贋作を恐れては進歩はないと言えるのでしょう。

三島唐津象嵌大鉢 

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九州の武雄で焼かれた焼き物、その作品を最初に本ブログにて紹介したのは弓野焼。「弓野の松絵」と「なんでも鑑定団」にもなんどか登場した作品群です。松絵の作品の次に本ブログで紹介したので櫛目の作品。そして今回は三島手の作品となります。

いつの時代の作かは現在調査中ですが、大きさが45センチと大きく、傷も少ないことから稀有な作品と判断しています。ただともかくデカイ、重たい・・。この点も稀有!

三島唐津象嵌大鉢 
藤谷陶軒鑑定箱入
口径445*高台径 *高さ155



生渇き状態で文様が押印される作りで、例にもれず歪みが生じています。

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三島唐津:朝鮮の陶器、三島手の技法を受け継ぎ、日本風にアレンジしたもの。象嵌の一種で、器が生乾きのうちに雲鶴や印花紋などの紋様を施し、化粧土を塗って、仕上げ作業を施し、その上に長石釉、木炭釉を掛けて焼成したもの。

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高台の作りは力強いというより、周囲が面とられ丁寧な意図が感じられます。



絵付けはない作品ですが、透明釉薬が白く垂れいい景色となっています。



象嵌は口縁に向けて五段あり丁寧な作りですね。



見込みには目跡のような跡があります。意匠的なものか重ね焼きのものか調べています。



象嵌や高台の作りが丁寧に作られており、上手手の作と思われますが・・。



箱は杉箱に収められています。



「藤谷陶軒鑑定箱入」となりますが、「藤谷陶軒」なる人物については詳細は解っていません。時代は500年前? 桃山時代となると唐津焼の創成期になりますが、それはいくらなんでも遡り過ぎであろうと思います。遡っても1600年以降・・。



この作品と比較して興味深い作品に下記の作品があります。

参考作品
三島唐津象嵌 雲鶴文大皿
2013年08月23日 なんでも鑑定団出品作



評価金額:180万円
江戸前期から中期にかけて、現在の佐賀県武雄市で焼成された三島唐津。ほとんどが発掘品か破片で無傷でみつかることは希少。土を成型し、半乾きのうちに木型で文様や鶴の一部を押す。それから乾燥を経て白泥を埋めて象嵌にする。鉄絵で鶴の足や葦を描き焼成する。



うしろの高台をみると力強い削りだしが現れる。日常品として生産されたことが見て取れる。この皿と全く同じものが佐賀県立博物館に収蔵されている。(下の写真)



これらの作品は象嵌に鉄絵が施されており、一工夫為されている作品ですが、象嵌のみの作品には下記の参考作品があります。

三島唐津象嵌大鉢
江戸中期 寸法(径)34.5cm*寸法(高)10.5cm
販売価格25万円



この作品は補修跡があり、象嵌も精巧には出来てません。



本作品よりサイズがワンサイズダウンしており評価は一桁違いますが、「なんでも鑑定団」の評価の方が高すぎるのでしょう。



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唐津焼:近世初頭から肥前国(現在の佐賀県および長崎県)に散在する諸窯で生産された陶器の総称である。唐津焼の名称は、製品が唐津の港から積み出されたことに由来するともいわれるが、定かではない。

古唐津の窯跡は、現行の唐津市域のみならず佐賀県武雄市・伊万里市・有田町、長崎県佐世保市・平戸市などを含む広範囲に分布している。唐津市南部の旧・北波多村、旧相知町の区域には初期の古唐津の窯跡が残っているが、2005年の市町村合併以前の旧・唐津市の区域には古唐津の窯跡はほとんど残っていない。

伊万里、唐津などの肥前の陶磁器は、文禄元年から慶長3年(1592年から1598年)に至る豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵,いわゆる文禄・慶長の役(壬申倭乱)の際に、朝鮮半島から同行してきた陶工たちが祖国の技術を伝え、開窯したというのが通説になっていた。しかし、窯跡の調査、堺など消費地での陶片の出土状況などから、唐津焼の創始は文禄・慶長の役よりはやや早く、1580年代に開始されたとみられている。

天正19年(1591年)に没した千利休が所持していた道具の中には奥高麗茶碗(唐津焼の一種)の「子のこ餅」(ねのこもち)があったことが知られている。また、長崎県壱岐市の聖母宮(しょうもぐう)には天正20年(1592年)銘のある黒釉四耳壺があり、これが唐津の在銘最古遺品とされている。以上のことから、唐津焼の生産開始は遅くとも1591年以前であることがわかる。

文献上は、古田織部の慶長8年(1603年)の茶会記に、「唐津足有御水指」「唐津焼すじ水指」とあるのが、唐津焼の記録上の初見とされている。寛永15年(1638年)成立の松江重頼の俳論書『毛吹草』には「唐津今利ノ焼物」という文言があり、「唐津」が土もの(陶器)、「今利」(伊万里)が石もの(磁器)を意味すると解されている。瀬戸内海沿岸や山陰、北陸などの日本海沿岸の地域では、他地方で「せともの」と呼ぶ陶器質のうつわのことを「からつもの」と呼称することがあり、「唐津」は肥前産の陶器の代名詞であった。

古唐津の初期の窯跡は、波多氏の居城があった岸岳山麓(唐津市の旧・北波多村・相知町の区域)に点在している。岸岳古唐津の古窯群は飯洞甕窯(はんどうがめがま)系と帆柱窯系に二分され、藁灰釉を用いた「斑唐津」は後者で生産された。窯は朝鮮式の割竹形登窯で、特に飯洞甕下窯跡(佐賀県指定史跡)には窯床と窯壁の一部が残存し、貴重である。

文禄・慶長の役以降になると、肥前陶器の産地は広がり、窯の所在地によって、松浦系古唐津(佐賀県伊万里市など)、武雄系古唐津(佐賀県武雄市など)、平戸系古唐津(長崎県平戸市)などと称される。中でも藤の川内窯(佐賀県伊万里市松浦町)、市ノ瀬高麗神窯(伊万里市大川内町)、甕屋の谷窯(伊万里市大川町川原)などが、絵唐津の名品を焼いた窯として知られる。

草創期は食器や甕(大型の甕が多く肥前の大甕と呼ばれる)など日用雑器が中心であったが、この頃になると唐津焼の特徴であった質朴さと侘びの精神が相俟って茶の湯道具、皿、鉢、向付(むこうづけ)などが好まれるようになった。また、唐津の焼き物は京都、大坂などに販路を拡げたため、西日本では一般に「からつもの」と言えば、焼き物のことを指すまでになった。とりわけ桃山時代には茶の湯の名品として知られ、一井戸二楽三唐津(又は一楽二萩三唐津)などと格付けされた。

だが江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となった。それ故に鍋島藩は藩内の窯場の整理、統合を断行、それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊された。しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続した。その間の焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれる。 

明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となった。だが後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させた。現在は約50の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたり、時代の移り変わりの中で、着実な歩みを遂げている。

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ところで武雄で江戸中期以降に作られた作品は「弓野の松絵」以外の櫛目の作品では下記の作品が本ブログで紹介されています。

古武雄焼 その4 緑褐打釉櫛目文大平鉢
古杉合箱
口径365*高台径*高さ105



上記の作品と比較して興味深いのは下記の参考作品ですが、同時期の上手手の作品と思われます。

参考作品
櫛刷毛目文大皿 二彩手
佐賀県立磁器文化館蔵(九州の古陶磁 館蔵名品撰)
肥前武雄産 17世紀中葉~後半



本日紹介した作品は武雄で焼成された作品は相違ないでしょうが、二彩手と同時期(江戸後期頃)かもしれませんね。



決して上手手の作品群ではないものの民芸としての力強さが魅力です。そしてともかく重い! 

父と福田豊四郎

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9月の3連休に宿泊した修善寺の新井旅館には三代目のご主人と近代画家との交流があったようで、館内に著名な画家の作品が展示されていました。



上記は山岡米華の南画。下の作品は今村紫紅・・。



安田靭彦の富士と茄子・・。





ロビーには横山大観と川端龍子の書が飾られていました。横山大観と3代目の旅館の主人が東京美術学校の同級生であったようです。



「腰忘帯」は腰の帯を忘れるほどのんびりしたという意味か?



さて母から受け継いだ品物の中に父が描いた作品があります。母が亡くなり、改めて父の作品を整理しています。父や祖父は骨董品や絵画の作品を人に差し上げることが多く、郷里では知人や親戚の家でよくその経緯を聞かされます。父は自分で描いた作品もその場で人に差し上げることが多かったそうです。戴いてくれる人も迷惑も考えずに・・・

母の火葬場でも父に世話になったという方から「ぜひ父の作品を色紙でいいから欲しいのですが・・・・」と所望され、さらに戴きたいと自宅にまで来ました。下記の「向日葵」を描いた作品を差し上げましたが、大切にしてくれることを願っています。



父の描いた色紙の作品は下記の作品があります。ブログには素人の作品で申し訳ありませんが、母と父の鎮魂です。



日本画を友人であった福田豊四郎氏に日本画を父は習っていましたが、師というより年齢が近く、若いころから一緒にお酒を飲んでいたそうですから、友人であったようです。



「椎茸」・・小生が一番好きな作品です。







「鰈」





「鰰」





「軍鶏」





「軍鶏」は福田豊四郎氏が同時期に描いています。父の作品に福田豊四郎氏が筆を入れることもあったそうです。



「山々」





福田豊四郎氏が描いていた画題に重なります。



「秋の山」





これらの作品はタトウに入れて収納箱に保管しておきます。



額の作品もいくつかあります。「山中湖秋」・・





このほかの額の作品もありますが、後日一緒に整理しておきたいと思います。

油絵も一点・・。







母の枕元には福田豊四郎氏が描いた母と父の色紙の作品を飾っておきました。



小生は福田豊四郎が描いた下記の作品は父と母だと思っています。



私が福田豊四郎氏の作品を蒐集する原点はここにあります。本ブログに投稿しているように福田豊四郎の色紙の作品も多くなりました。



繰り返しになりますが、父と母への鎮魂・・・・、ブログ全体がそ父や母だけではなく、亡くなった妻や義父。義母、友人らへの鎮魂なのかもしれません・・。

贋作考 初期伊万里花鳥図染付七寸丸皿

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9月の3連休の最終日は修善寺へ・・。



宝物館には川端龍子の龍を描いた大作がありましたが、撮影禁止なので写真はありません。この作品は本ブログで紹介する中村左洲と同年に描かれた作品です。



道すがら柿田川の源流によってきました。



公園内の休息テーブルでは蟷螂と談笑。



食事も園内で・・。





さて当方の蒐集品には基本的に古伊万里、初期伊万里、古九谷、鍋島焼は対象外です。これらの作品には精巧な贋作が多く、決して素人の手に負える代物ではないからです。衝動的に気に入った作品は購入しますが、基本的には衝動買い以外はありません。

今回もその衝動買いのような作品ですが、「初期伊万里」に挑戦してみました。

初期伊万里花鳥図染付七寸丸皿
高台内「太□明」銘 合箱
口径203*高さ20*高台径



改めの基本的な初期伊万里の特徴を列記してみましょう。

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初期伊万里の特徴

初期伊万里とは、その名前の通り伊万里焼の最初の焼き物であり、現在有田で焼かれている物とは、趣が全然違います。その品物のほとんどが染付であり、極稀に、一部、鉄砂などを使っている珍品もあります。

技術的に言えば、初期の作品だけに、素焼きの技術はなく、生がけになっています。その為に品物を焼く時点で貫入が入ったり,途中で割れてしまう事がよくあったようです。もちろん、無傷の物もありますが、最近は特に少なくなりました。

寸法は、小皿、中皿類が多く、大皿(尺~尺五)の品物の割合は中皿に比べて、特に少ないです。そして、傷の方も無傷と言うのは、大皿に限って言えば、まず無いと考えて頂いて結構です。

品物の特徴は、高台が小さく(直径の1/3位)、大半の器には、釉薬を塗るときについた指跡が残っています。「初期伊万里は指跡の温もり」と称しています。

生がけなので、生地は、割合分厚い生地です。初期の染付は釉薬がたっぷりとのせられ厚ぼったくなっています。伊万里焼の初期の作品と言う事で、昔から評価は高く、日本の鑑賞陶器としては、随一でしょう。伊万里焼が生まれて間もない頃の染付は、数が少ないため愛好家の間で特に珍重されています。

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補足

1610年代から1630年代頃までの初期製品を陶磁史では「初期伊万里」と称する。この時期の製品は、白磁に青一色で模様を表した染付磁器が主で、絵付けの前に素焼を行わない「生掛け」技法を用いている点が特色である。

初期の磁器は、砂目積みという技法が使われている。砂目積みとは、窯焼き時に製品同士の熔着を防ぐために砂を挟む技法で、中国製の磁器にはみられない朝鮮独特の技法である。このことから、朝鮮から渡来の陶工が生産に携わったことが明らかである。

一方、当時の朝鮮半島の磁器は、器面に文様のない白磁であったので、呉須(コバルトを主原料とする絵具)で文様を描く染付の技法や意匠は中国由来(中国出身の陶工作)のものであると考えられる。

この初期伊万里は絵付けの発色が安定せず、生地も厚く歪みや押指の跡が残るなど粗雑な部分があり、次第に九谷焼や柿右衛門などに押され市場から姿を消してしまった。しかし初期伊万里は後に1960年頃より素朴な美しさや叙情美が再評価され、早々に市場から淘汰されたことによる流通量の少なさから以後は希少性が高く高値で珍重されるようになった。

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本作品は口縁に草文で縁取りされ、いはゆる額縁の効果を成しています。



花鳥図も洒脱で小禽の鳥の表情が良いですね。裏面には松の葉の文様が描かれ初期伊万里の作品の中でも優れたデザインとなっています。



高台内には中国の染付の影響であろうか「太□明」の銘が書かれています。

*初期伊万里の銘款種類は極めて少なく、 文字の書き方やその意味さえも知らない陶工達が無造作に中国磁器を模倣して描いた為、 解読できない文字や誤字脱字も見られます。



さてここで当方の衝動買いの契機となった最近の「なんでも鑑定団」の作品を観てみましょう。

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参考作品
初期伊万里花鳥図染付七寸丸皿
2018年9月11日 なんでも鑑定団出品作
評価金額 50万円



評価:370年ぐらい前、江戸時代前期に焼かれた初期伊万里の中皿。文様が良い。すーっと伸びた枝に小鳥が止まって、下の方に霞がたなびいている。周りをぐるりと如意頭文と木目文で締めている。額縁効果で中の絵を引き立てている。裏を見ると角福の銘が書いてある。ほぼ3分の1高台。これは初期伊万里の約束。

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評価が高くなったことで初期伊万里の贋作が数多くあるようです。古伊万里の贋作は近年問題になっていますが、例にもれず評価の高い初期伊万里にも贋作が横行していると聞いています。

高台の1/3、指跡などの原則に適っている贋作もあるようです。本物は高台が1/3ではなかったり、指跡のないものも多くあるので話は面倒くさくなります。釉薬に縮みのあるものなど見分けの簡単な贋作もありますが、最終的には胎土と釉薬で見極まるがいいと当方では考えています、これほど精巧な贋作が多くなるとこればかりは蒐集家は信頼のおける骨董商からの取引が無難なのでしょう。



当方は素人ゆえ、本作品の真贋に関しては後学によるとしておきましょう。

*本ブログにおいて「贋作考」と題していても、「伝」と表現されていても、取り上げる作品が贋作とは限りません。

**なお「伊羅保茶碗」、「三島暦象嵌文茶碗」、「三島海老紋様高台鉢」、「鉄絵刷毛目大徳利 OR 伝鶏...」、「李朝粉引雨漏手小徳利」らのブログは公開を中断しました。非常に参考となるコメントではありますが、一部は時代は特定していない考察記事であり、当方の意図するところでない不躾なコメントが続けてあったためですのでご了解下さい。当方でもブログ検索から除外されるので非常に残念です。

氏素性の解らぬ作品 伝マジョリカ焼 花文色絵大皿

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展示での最近のお気に入りの展示は下記の作品らです。



家に古くからあった五彩の花入れ・・。近世の模倣品であれ、作品の素性がどうあれ、思い出の詰まった作品です。

絵は寺崎廣業の「黄初平」です。黄初平の教えは「人は、見たいものしか見ようとはしない。実際見たにせよ、自分の世界の範囲でしかそれを解釈・容認しない傾向がある。」と言う教えとしてのとらえ方もできます。

骨董の真贋も然り、商売にする以外には、結局は所蔵する者には真贋などないのかもしれません。金銭や美への欲があるから真贋があるのだろうと思っています。純粋に美への探求でありたいものです。



敷き台は家内の家の庭にあったという欅の根を小生が加工(切った)もの。

さて本ブログにて紹介されている西洋陶磁器はメインとして阿蘭陀焼の作品、いわゆるデルフト焼で染付がメインでしたが、今回は色絵の作品の紹介です。

いずれにしても当方の門外漢の作品です。顰蹙を買うかもしれませんが、贋作であろうと氏素性が解るまいという作品から知識を最初に得るのが小生の特定の分野への最初の入り口です。

氏素性の解らぬ作品 伝マジョリカ焼 花文色絵大皿
合箱入 
口径395*高さ65.



もともとはデルフト焼と称して売られていた作品ですが、当方はデルフト焼とは思っておらず、作品そのものが気に入ったので購入した作品です。

おそらくマジョリカ系統の陶磁器だろうと判断しています。図柄がいいですね。

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マジョリカ焼(Maiolica):陶芸用語。マヨリカともいう。素地に錫白釉をかけ,上絵付けをした南ヨーロッパの軟質陶器。

陶器の素地に錫白釉をかける技法は,イスラム陶器に始るが,その技法がスペインに入ってイスパノ・モレスクを生み出した。これがイタリアとスペインを結ぶ地中海上の小島マヨルカ島を通じてイタリアやフランスに輸出されたために,この種の施釉陶器をマジョリカ陶器と呼ぶようになった。

また,イタリアでも各地で錫白釉がけの陶器が作られるようになり,それらも一般にマジョリカと俗称されるようになった。スペインでは 14世紀頃から,イタリアでは 14世紀末より発達して今日にいたっている。

製作地は,スペインではマラガ,アルメリア,バレンシア地方,中部のタラベラなど,イタリアでは,中部のカステルデュランテ,ウルビノ,カファジョーロ,フィレンツェ,シエナ,グッビオ,オルビエト,デルータ,シチリア島のパレルモやカルタジローネなどがあげられる。

絵付けは多彩な顔料で花,鳥,動物,人物の絵付けをしたもの,歴史的事件や神話をモチーフとしたもの,風俗を描いたものなどはなやかで装飾的。なお,白い化粧土をかけてかき落し,文様を残した上に透明釉をかけたものをメッツア・マジョリカといって区別することもある。今日でも南欧各地で盛んに作られている。



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さて、古そうな作品ですが、スペイン? イタリア? いつ、どこの作品やら? 



軟陶の胎土が使用され、この点ではオランダやスペインに近い作品かと思われますが、なんといっても図柄が面白く、また40センチ近い大皿は珍しいと思い購入しました。



購入先では阿蘭陀焼で江戸期はあろうということでしたが、こちらも定かではありませんね。



どこか伊万里風、どこか西洋風・・・。いくら集めてもどこか似かよっている作品が多い古伊万里、鍋島に比べていろんな趣のある陶磁器に触手を伸ばすのは邪道・・

ただ伊万里ばかり集めている方や壺ばかり集めている御宅に招かれたことがありますが、どうも落ち着かない。美のバランスが悪いのです。とくに壷などは部屋にひとつでいい。李朝も伊万里もひとつでいいのに・・・・。軸や絵画や活けた花が落ちる



ともかく好きな作品です。本人が好きで気に入っていれば贋作などは存在しませんが、別の価値観のある人との売買となるとそこが重要となるのでしょう。真贋とは所詮、そのような世界で論じればいいこと

*40センチを超える大皿が最近小さく見えてきます。どうも大きな皿の蒐集数が多くなったせいらしい

母の葬儀

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郷里では葬式の手配は火葬が先で一般的には翌日に告別式となります。お通夜のような定められたものはなく、火葬までの時間に随時弔問される方がいて、お通夜の役割を果たすことになります。


本日は郷里で母の七十七日の法要です。

母は父からもらった訪問着と一緒に火葬して欲しいという要望があり、練馬の姉の自宅近くの病院で亡くなりましたが、すぐにその日のうちに郷里まで運びました。手配は亡くなった家内も同様でしたので、段取りは覚えておりすぐに手配できました。



母の棺には父からの訪問着とそしてもうひとつ母の希望であった父の学生帽・・。廻りには母と父が結婚して間もない頃をスケッチした福田豊四郎氏の昭和22年に描いた作品を飾りました。



また母が父から買って貰ったという二代徳田八十吉の獅子の香炉を置いておきました。



この香炉は床の間を他の家人が掃除中に割ってしまって、母がとても残念がっていたのを母が元気な頃に小生が修理しておいた作品です。



木っ端みじんに無残であったのですが、共箱にあった破片を継いでなんとかここまで直しました。



代わりのものを購入しようかとも思いましたが、これは父と母の思い出の品・・・。



燃えないものは一緒に火葬することはできないので、共箱に収納しておきます。

 

ここまで枕経、弔問、火葬、告別式、初七日、納骨、七十七日までと無事すませましたが、「母よ 安らかに・・・」。



デルフト 染付唐草文瓢形瓶

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10月の3連休は郷里にて中学校の同級会。約半世紀ぶりに会う方も数多かったが、皆元気そうなのが嬉しいものです。家内は家内で同じ日に茶事の全国大会のお手伝いでお出かけ・・。義父と義母に預けられて出がけには心細い様子の息子・・。



さて骨董は半世紀どころではない年月を経たものばかり・・。17世紀初頭に中国製の染付の磁器がオランダに出回り、品質が高く、大変な人気を博しました。それまではイタリアの錫釉陶器のマヨルカ焼きの影響を受けていたデルフト焼は、中国製品の品質に追いつく為に努力を重ね、産業として大きく成長しました。

最盛期の作品はまるで中国の明の染付や日本の古伊万里と見違えるほどの作品を生産しましたが、本日はそのデルフト焼の作品の紹介です。

デルフト 染付唐草文瓢形瓶
合箱 
口径*胴最大幅103*底径*高さ207



18世紀に頂点に達したデルフト焼ですが、その一方でマイセン焼の発祥のきっかけとなった磁器の原料のカオリンがドイツ北部で発見され、磁器生産はドイツの他にフランスやイギリスにも広がり、19世紀半ばには、デルフト市内の焼き物工房のほとんどが姿を消してしまいました。



幸いにも、19世紀半ばにイギリスで始まった産業革命による大量生産は、手作りを基本とする焼き物の世界を終わらせることはありませんでした。作り手の生命の吹き込まれていない焼き物や、その他の工業芸術に対する反発が、奇しくも産業革命発祥の地イギリスで芽生え、「芸術運動」として始まり、1867年に行われたパリ万国博覧会に出品された日本製品のデザインからの影響も受け、手作りの美しさは甦ることとなったのです。

(この運動の影響は日本における柳宗悦、浜田庄司や、バーナード・リーチらの「民芸運動」にも及びました。)



本作品は17世紀のデルフト窯とのこと。窯印で時代が判るらしいのですが、底にある「JV」について不明です。



くびれ部分に破損した補修跡がありますが、非常に脆い作品が遺っていたことで希少価値があります。



同型のものに下記の作品がありようですが、こちらの作品は18世紀の作だそうです。

18世紀の始めに頂点に達したデルフト焼きは、ヨーロッパ中の人気を集め、デルフト焼きの筆使いは、中国の磁器の絵付けを参考にし、相当高いレベルにまで発達したまさにその頃の作品と推察します。

サントリー美術館蔵の「染付花卉文瓢形瓶」(18世紀)



当方のブログで紹介されたデルフト焼には下記の作品があります。各々生産された年代は不詳ですが、西洋風の侘びの風情があります。

デルフト 染付花鳥文壺 
合箱 
口径82*胴最大幅160*底径121*高さ223



デルフト 楼閣文牛型香炉
合箱
幅160*奥行*高さ125デルフト焼



デルフト 藍画花瓶手皿
古杉箱 
口径231*底径90*高さ40



デルフト 湖図花瓶
合箱
幅120*奥行90*口径50*53*高さ200



当方はデルフト焼は染付の資料の一環として蒐集した程度のもので、氏素性は解らぬものばかりです。ただ近代の作品よりもやはり時代を経た作品は魅力がありますね。

中学校以来の同級会、たかだか半世紀ですが、人間もそうありたい。

福田豊四郎の色紙の作品

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母の七七日の法要も終え、肩の荷がひとつ降りたような気がします。帰郷する前に故郷の馴染みの骨董店で少しばかり骨董談義もしてまいりました。その際に先日入手した福田豊四郎の25号の大きめの作品の話をしたところ、それだけの大きさの作品は展覧会への出品作品の可能性があると御主人が言い出し、二人で調べたところなんと昭和16年に発刊された画集に掲載されている作品と判明しました。骨董談義もまた有意義なものです。無事に法要を終えたご褒美かもしれません。

さて最近、地元の骨董店から福田豊四郎の色紙の作品を入手(別の本ブログの記事にて紹介)し、さらにネットオークションから2点の色紙の作品を入手しました。

その作品のひとつが下記の作品です。「橙」の色紙の作品はこれで2作品目の入手となりました。

橙 その2 色紙 福田豊四郎筆
紙本着色色紙 タトウ入
画サイズ:縦270*横240



福田豊四郎の色紙の作品だけでかなりの所蔵数になりましたので、このたび冒頭のように色紙の保存箱に整理しました。同等数を男の隠れ家に保管していますので、色紙の数はちょっと数え切れなくなりました。

資金の乏しい時には手頃な福田豊四郎の作品を中心にした色紙の作品を入手していたら、いつの間にか増えてきました。

なお「橙 その1 色紙 福田豊四郎筆」の作品はもともと下記の作品を母からというより父から小学校の頃から受け継いでいます。この作品は小生が小学校の頃に父が亡くなった際に、母が父と交友のあった人たちに福田豊四郎に依頼して色紙の作品を描いていただいて配った時に余った作品のひとつです。

橙 その1 色紙 福田豊四郎筆



さらに同時に今回入手した作品は下記の作品です。

水仙 色紙 福田豊四郎筆
紙本着色色紙 タトウ入
画サイズ:縦270*横240



絵の具の胡粉が剥落していますが、水仙を描いた福田豊四郎の作品は所蔵していなかったので入手しました。インタネットオークションで2作品で2万円ですが、かなりの格安での入手です。インターネットオークションというと贋作を警戒して二の足を踏む方も多いでしょうが、いい作品を安く入手できる点と広く供給と需要が図れる点では功罪があるでしょうが、小生はインターネットオークションは大いに利用すべきもので、骨董商の多くはネットオークションから入手して作品を揃えていると思います。

地元の骨董店から新たに入手した色紙の作品は下記の作品です。

茄子と胡瓜 福田豊四郎筆
紙本水墨 タトウ
画サイズ:縦270*横240



これらの三作品の落款と印章は下記のとおりです。

  

いずれも最晩年の昭和40年以降の作品と推察されます。

手元にある貯まった色紙の作品は箱に入れて分類し整理してみました。この数と同数以上に男の隠れ家にありますから我ながらよく蒐集したものです。



色紙の作品もそのまま保存しておいてはシミなどが発生して醜くなります。



以前から保管していた「橙 その1 色紙 福田豊四郎筆」の作品の状態の良さに比べて「水仙 色紙 福田豊四郎筆」と「茄子と胡瓜 福田豊四郎筆」の状態の悪さが目立ちますね。保管の仕方がまずかったのでしょう。

色紙専用のタトウに納まっていませんでしたが、ただ色紙専用のタトウだけでは安心できませんし、額に入れて飾りっ放しはむろんNGです。湿気のないところに保存し、和紙で全体を包み込むなど湿気防止には細心の注意を払いましょう。むろん防虫香も・・。



確信を持てた高価な作品はそれなりの誂えが必要です。骨董というものは保管の仕方で中身次第でその作品の内容が解るものです。

リメイク カメをもつ女(仮題) 福沢一郎画

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伊勢正義の静物画の作品において油絵の絵の具が剥落しており、補修の依頼先を検討していますが、油絵で絵の具の剥落のある作品で補修を必要とする作品がもう一点あります。

以前に紹介した福沢一郎の作品ですが、今回、補修を検討するため男の隠れ家から持ち出し、再度写真撮影し資料を整理しており改めて投稿します。

リメイク カメをもつ女(仮題) 福沢一郎画 その2
油彩額装 右下サイン
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦(号)

本作品は作品整理を手伝ったお礼にと友人から譲り受けた作品ですが、戴いた当時の状態が悪いのでまずは額を取り替えておきました。ガラスもない額に入れたままにしておいたので痛んだのでしょう。



痛んでいるとはいえ文化勲章を受章している画家の作品であり粗末にはできません。当方には祖父の代に購入した作品があり、その関連で福沢一郎の作品には注目しています。

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群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)に生まれる。父は後に富岡町長となった。

1915年、旧制富岡中学校を卒業。第二高等学校英法科を経て、1918年、東京帝国大学文学部入学。しかし大学の講義に興味なく、彫刻家朝倉文夫に入門し、彫刻家を志す。

1922年、第4回帝展に彫刻作品「酔漢」が初入選。
1924年、渡仏。ジョルジョ・デ・キリコやマックス・エルンストに影響を受け、昭和初年にシュールレアリズムを日本に紹介した。1930年、独立美術協会に参加。
1931年、帰国。1939年、独立美術協会を脱退し、美術文化協会を結成。戦前の前衛美術運動に大きな刺激を与える。
1941年4月から10月までの間、共産主義者の嫌疑で瀧口修造とともに拘禁された。

多摩美術大学、女子美術大学教授をつとめた。
1978年、文化功労者となる。
1991年、文化勲章を受章。

代表作に『他人の恋』(1930年 群馬県立近代美術館蔵)、『科学美を盲目にする』(1930年 群馬県立近代美術館蔵)、『よき料理人』 (1930年 神奈川県立近代美術館蔵)などがある。

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一部に補修のような跡がありますが、当方で入手前に補修したものと推察されます。



洋画や日本画を額に入れて保管する場合は基本的に多少見えづらくてもガラスやアクリル板で保護することは有効であり、ガラスやアクリル板がない場合は痛みが早くなります。なおガラスやアクリル板と作品は一定以上は離しておくのが原則です。古い額にガラスやアクリル板を追加で入れる場合はスペーサーを入れておく必要がありますね。



本作品は当方で入手する前はガラスやアクリル板がない状態でしたので、痛みが進んだものと推察されまます。なおガラスやアクリル板を入れていても痛むことはありますので、温湿度管理には気を付けなくてはいけませんし、いくら油絵でも太陽光の当たる場所には飾るのは避けた方がいいでしょう。ときおりガラス面などを観察してカビの発生のある場合はそれ以上の発生を防ぐようにします。



いつ頃の作品でしょうか? 年号がないので現在調査中です。福沢一郎の作品の中でも魅力的な作品のひとつだろうと思いますので、補修については前向きに検討しようかと思っています。

福沢一郎は近代日本絵画のシュールリアリズムの先駆者ともいえます。福沢一郎の作品は東京都付近に在住の方の多くは一度は見かけているはずです。それは下記の作品です。



1972年10月、鉄道100周年記念事業として、東京駅地下丸の内中央通路から総武快速線(横須賀)地下ホームへ降りる大階段正面に設置された作品です。画家福沢一郎が原画を描き、ステンドグラス作家大伴二三弥がステンドグラスを製作、日本初の公共空間でのステンドグラスです。当時の国鉄総裁、磯崎叡(さとし)は「洋々たる国鉄の未来を象徴する感動的な絵だ」とほれ込んだそうです。



現在は東京駅丸の内赤レンガ駅舎復元工事に伴い一時撤去され、2012年11月に京葉ストリート(京葉線連絡通路)エスカレーター脇に移設されています。バックライトは以前は蛍光灯でしたが、LEDライトに変更されているそうです。

以前は多くが通る東京駅地下丸の内中央通路から総武快速線(横須賀)地下ホームへ降りる大階段正面にあり、作品の真下を通ったので嫌が要でも目につきました。上京した際はこの人の作品が我が家にもあると思い鼻が高かったのを覚えています。浪人時代は市川に、学生時代は吉祥寺に、東京に赴任して丸の内線に乗ることが多く馴染み深い作品です。



さて繰り返しになりますが、蒐集した作品はきちんと整理しておきましょう。木彫や陶磁器は衝撃防止の箱に、絵は黄袋付のタトウに(出来ればガラス面にはクッション材を入れておきましょう)、掛け軸は桐箱に・・、これは骨董蒐集の基本です。作品を裸のまま乱雑に並べておく御仁には真贋を問う前に蒐集する資格そのものがないと言えましょう。飾る時以外は収納箱に保管しましょうね。

収納箱は外から見てどのような作品が収められているか解るようにすることが基本です。どの作品が箱に入っているか解らないと何度も取り出したり、箱を出し入れした際に作品を傷める可能性を高めてしまいますから・・・。なによりも作品が見つからないとイライラしますよ。

*写真を貼り付けておくのもいいかもしれませんが、当方では絵画には写真を貼り付けていません。陶磁器の箱には似た作品が多いので外側に写真を貼り付けていますが・・。写真はどうしても古びて色褪せてきますからね。

三島唐津象嵌大鉢 その2

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日本のサッカーについてワールドカップ予選前に今後の日本サッカーについて
1.コミュニケーション不足のため日本人の監督を起用すること。
2.フィジカルで劣るのだから組織力で守備・攻撃ともに対抗すること。そのためには早いパス廻しが有効であること
3.組織練習とスピードが必要なので、走れないベテランの海外組は必要なく、活躍している若手を起用すること。
概略として以上の対策を掲げましたが、ワールドカップは中途半端な結果に終わって、現在はほぼ上記のような戦い方になっているのは皮肉な結果であろうと思います。なんとも一年遅かった、日本が伸びる貴重な場を無駄にした気がします。
*上記の課題は会社経営にも同じことが言えますね。

さて当方の蒐集している陶磁器については源内焼、近代民芸(浜田庄司を中心に琉球焼、河井寛次郎、バーナードリーチら)、が中心ですが、最近多くなっているのが九州の武雄で生産された生活雑記の器です。本日もそのひとつである武雄で生産された三島唐津の象嵌の大鉢の作品を紹介します。

三島唐津象嵌大鉢 その2
誂箱
口径474*高台径 *高さ167



これほど大きな三島唐津の作品は珍しい。大きく割れて補修跡があり、絵付けがないので評価はそれほどでもないでしょうが、もともとこの手の作品は発掘品か破片が多いので希少な作品には違いないでしょう。文様が美しいのも魅力であろう。



ともかくでかくて重い! ただこれくらいのスケールがないと面白くない



陶磁器のファンは茶陶や著名作家、李朝や信楽に最初から手を出し方がいますが、それではちょっとつまらないというのが小生の陶磁器蒐集の趣向です。



茶陶や著名作家、李朝や信楽らはともかく値段が高いし、贋作が多く、猜疑心が先走る・・。見極め方に固執しおおらかさがないのがちょっとね・・。その点源内焼、浜田庄司を初めとした民芸作品においては真贋は至って簡単。実に解りやすい蒐集対象です。



この三島手の象嵌、作ってみると解るのですが、多くの象嵌によって非常に歪みやすい。よって作品全体を厚くするのが手っ取り早いのです。



ただそのせいで陶土や薪を大量に使うので、武雄を中心に材料不足に泣くことになったと推察しています。このような推察は製作してみた人でないとできない?



先日紹介した「三島唐津象嵌大鉢 その1」は下記の作品です。



このような大皿類や壷は掛け軸と飾るのが常道・・?



意外に掛け軸と兼ね合わせた展覧会は少ないと思います。陶磁器は陶磁器の展覧会、掛け軸は掛け軸の展覧会というのが常ですが、床の間芸術としての展覧会も面白いと思いますが・・・。



どちらかに偏った趣向の方が多いからのでしょう。

床の間が茶事で小さくなったのもそのひとつの遠因かもしません。ど~んとした床の間がなくなってきています。人間も小さくなった・・・ 大幅を飾る床の間のひとつはないと骨董蒐集は始まりません。

陶芸家で人間国宝の故中島宏氏の武雄焼のコレクションは有名ですが、その図録を手配しました。当方の蒐集は図録などの知識より先にものそのものが先なのが欠点? 

図録から考察すると本作品は17世紀中頃~後半の作らしい。真贋についてとやかく言う方がいますのでとこれは真作・・・、。



ともかく一度は作品を入手し、できれば贋作と真作を並べてくるくらいでないと小生のような呑み込みの悪い人間は見識は高まらないようです。なにごとも経験がものを言う、サッカーのようなスポーツも骨董蒐集も・・。

雪渓 木島桜谷筆 その8

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東北出身の方で某会社の会長さんが亡くなり、偲ぶ会に出席した際に小生が絵画を好きである旨を同僚がその会社の方に伝えていたところ、先日その会社の方が会長(その先代からの蒐集品を含む)さんが蒐集した作品をまとめた画集が出版されたとのことで、その画集を持参されました。戴いた画集に掲載されている作品はよく美術館でみかける作品も多く驚くべきレベルの高さです。



横山大観から始まり、上村松園から平山郁夫までの日本画や松方コレクションかと思われるクールベ、モネからピカソに至るまであり、おそらく数多くの作品はなにかしら有名な美術館で開催された美術展や画集で見たことのある作品ばかり・・。この方が集めたのかと改めて感嘆した次第です。

さて動物を描いた作品の評価が高い木島桜谷ですが、当方では木島桜谷は風景画に真髄があると考えています。動物を描いた作品は数が少なくお値段も高いので入手が困難であり、なおかつ風景画には贋作が多いという状況が背景にありますが、日本人の心の奥底にある風景が木島桜谷の作品にはあるように思えます。

本日の作品には東北の雪国に育った小生には懐かしく感じられる光景が描かれています。

雪渓 木島桜谷筆 その8
紙本淡彩軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横430*縦2205 画サイズ:横300*縦1340



描かれているのは炭小屋でしょうか? それとも漁師の小屋でしょうか? 



雪の中に続く足跡の道が描かれている人の生活を表現しているように思えます。



共箱の題字と落款と印章は下記のとおりです。



いつ頃の作品でしょうか? 昭和8年(1933年)の第一四回帝展を最後に衣笠村に隠棲し、漢籍を愛し詩文に親しむ晴耕雨読の生活を送っています。木島桜谷は大正元年9月に京都近郊の田園地帯にあった衣笠村の土地を買得し、建物は翌年から大正3年にかけて順次建設されました。現在は「櫻谷文庫(おうこくぶんこ)」として遺されています。

木島桜谷が当地に転居したのが契機となり、土田麦僊、金島桂華、山口華楊、村上華岳、菊池芳文、堂本印象、西村五雲、小野竹喬、宇田荻邨、福田平八郎、徳岡神泉などの著名な日本画家が移り住み、「衣笠絵描き村」と呼ばれたそうです。他にも、洋画家の黒田重太郎、映画監督の牧野省三も近くに住んでいました。それまでは四条派という言葉通り、洛中に居を構えることが多かった画家たちが、自然環境に恵まれ眺望に恵まれた衣笠村に移り住んだ事実は、近代の日本画家が求める表現、或いは日本画家に求められた職能の変化を物語っているように思えます。

木島桜谷の作品は初期、中期、晩期でガラリと画風が変わっており、晩期は南画風の文人画が多くなっています。



四条派の伝統を受け継いだ技巧的な写生力と情趣ある画風で、「大正の呉春」「最後の四条派」と称された画家ですが、冴えた色感をもって静かに情景を表現しているのが作品の大きな特徴となっています。



作品には細やかな愛情が感じられ、観る者に安らぎや心地よさを感じさせる清らかな画風ですね。その繊細さ故か、晩年は徐々に精神を病み、昭和13年11月13日枚方近くで京阪電車に轢かれ非業の死を遂げています。享年62・・・・。

この作品とほぼ同時期に「山径春色図」という作品を入手しています。同じように樵らしき人物が春の山中を歩いている後ろ姿が画中にある作品です。家内と二人で深夜に鑑賞しながら「ふたつともいい作品ね。」と語り合いました。ちょっと照明の明るさを落としてみるといいかもしれませんね。

この作品はまた後日・・。

文化丁卯山水図 釧雲泉筆

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しばらくいい作品に巡り会えず投稿されていない釧雲泉の作品ですが、本日は久方ぶりに釧雲泉の作品の紹介となります。

文化丁卯山水図 釧雲泉筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1800*横410 画サイズ:縦1120*横300

 

賛には「丁卯秋九月寫 於北國之行会 雲泉釧就 押印」とあり、1807年(文化4年)の9月の作。釧雲泉が49歳頃で、亡くなる4年前の晩年の作品のようです。

 

記録には「文化3年4月(1806年)46歳の頃、大窪詩仏とともに信越に赴き、高崎から安中を抜け碓氷峠を越えて信濃入りし、信濃川を下って越後の柏崎に至っている。その途次各地で画の依頼を受けて制作をしており、詩仏は引き返したが、雲泉は旅を続け三条で秋を過ごした。その後一旦、江戸に帰り、妻子を連れて越後三条に移住し、南画の普及に尽している。この間越後の各地を遍歴し石川侃斎、上田坦山、倉石米山、倉石乾山、行田八海などの門弟を育てている。文化5年(1808年)には燕の素封家の神保家に滞在し画作している。」とあることから「妻子を連れて越後三条に移住し、南画の普及に尽している。」いる頃の作と推察しています。



雲泉は「中国南宗画を志向し続け、山水画に名品が多く、比較的若描きのものに評価が高い。」と評されています。本作品のような晩年の作は妙な重苦しさがあると評されていますが、この頃の釧雲泉は油の乗り切った状況と言え、やはり一角ならぬ作行だと思います。



この頃の作品は本ブログにていくつかの作品を取り上げていますが、その中で年号の入った作品には下記の作品があります。

浅絳山水図 江山肅雨 釧雲泉筆
水墨紙本緞子軸装 軸先竹製 合箱
全体サイズ:縦1980*横637 画サイズ:縦1305*横530

 

印章は「六石居士」の白方印、「仲孚」の白方印が押印されており、賛「江山肅雨 丙寅秋七月鋻 雲泉樵人写」とあり、文化4年(1806年)47歳の秋七月の作です。越後へ旅に出た直後の作品と思われ、山水に静かな雨が降る情景を描いた作品です。遊印は「就之印」と思われます。

 

右が本作品の賛ですが、本作品との描いた時期のずれはほぼ一年です。当方では両作品ともに真作と判断しました。



釧雲泉と称される作品には模写が非常に多く、真贋には議論の多い釧雲泉の作品です。まだまだですがようやく当方では一定の「識」ができつつあるように思います。

刷毛目茶碗 鶏龍山以土

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郷里への列車の旅での愉しみは駅弁・・。私の郷里には有名な?「鶏めし」があります。最寄りの駅やコンビニ、スーパーでも売っていますが、こちらは作っているお店で直に買うのが美味しいとのこと。



もともとは「まかない飯」であり、日持ちがしないので、お店以外のお弁当には防腐剤が入っているとか? ほんとうかな? 宅配便については日持ちがしないという理由でお店では受け付けません。



数多くの賞を受賞している駅弁ですが、お勧めはいたってシンプルな「鶏めし」です。他はこれに比べると味がいまいちかな・・。



やはり出来立てもあり、お店で直に購入したお弁当の味が最高です。お店の脇にレストランがあり休日には行列ができるほどですが、なぜかしら駅弁の方が美味しいように思えます。



至ってシンプルな駅弁ですが、美味しいですよ。是非、東北までおいでいただいて直に郷里の駅前にてお店で買って食べてみて下さい。

さて駅弁ではありませんが、興味本位で衝動買い的に下記の作品を購入しましたので紹介します。

刷毛目茶碗 鶏龍山以土
薮内流十一代「透月斎竹窓」書付箱
口径121*高さ93*高台径51



「朝鮮鶏龍山以土 米山造 輝翁 花押」とあり、鶏龍山の陶土で薮内流十一代「透月斎竹窓」が自ら米山窯で製作した茶碗?と推察されますが、本来は米山窯の作に箱書きしたもの・・、つまり米山窯の作品に箱書きというの一般的でしょうね。



米山窯:愛知県瀬戸で作陶され、技法に詳しい陶芸家だった米山京路翁の時代、もしくは子息の米山章臣の時代の作か? 米山窯は米山京路翁の後、加藤土師萌に師事した子息の米山章臣(明治44年生)が継いでいる。朝鮮風、伝統の志野、織部で茶陶中心に作陶。



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薮内流[十一代]_竹窓紹智透月斎:1865年(慶応元年)~1942年(昭和17年)12月28日。

十一代竹窓は“忍耐の人物”であったと伝えられています。それは近代日本の幾多の戦争、戦時下の苦難の時を耐えたというだけではなく、幼少時に父を亡くし、厳しい修行に明け暮れ、さらには自らを厳しく戒めて茶の湯に邁進した自省的な人物であったことからもそう呼ばれています。

父を亡くした10歳から17歳までの7年間は、精神修養のために奉公働きをしていました。その後、八代竹猗より皆伝を受けた禅僧・笠仙老師(枕流軒老師とも)に茶を学びます。この老師が大変な人物で、岡山曹源寺の僧でしたが、大徳寺より招聘され管長に任じられるも、何が気に入らなかったのかこれを断り、高野川畔に庵を結んで暮らしていたそうです。若き竹窓は、家から8km離れたこの庵に毎日通い、茶の修行に勤しんだそうです。

老師の修行は大変に厳しかったそうで、後に孫の青々斎が記すところによると、竹窓の腕には、この老師が火箸で打擲し、誤って引っかいてしまった傷跡が残っていたといいます。

長じてからは関西、中国地方はもとより、遠く鹿児島まで常に指導の旅に出ており、茶の湯の普及に尽力していますが、代継ぎ前の31歳の時に、鹿児島へ渡る船が事故で沈没し、数時間漂流した後に救助されるという、まさに九死に一生を得る経験もしています。

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鶏龍山窯:朝鮮の代表的な窯の1つで、15~16世紀、韓国の霊山・鶏龍山の麓で活動していました。高麗の時代末期から李氏朝鮮の時代にかけて刷毛目、三島手、絵三島、彫三島などの粉青沙器や、白磁、黒釉など多くの陶磁器を制作し、近代では韓国で初めて本格的な発掘調査が行われた窯跡としても知られています。



鶏龍山の土には鉄分が多く含まれており、素地は黒く、白泥を掛けて化粧土を施した後に装飾されるのが一般的です。白化粧に透明釉をかけた無地のものも見られますが、ユニークでのびのびとした図柄で描かれた唐草や鳥、魚などの動植物は、鶏龍山窯の作品の大きな特徴のひとつともいえるでしょう。



鶏龍山の作品が日本に伝わると、茶道の道具の1つとして『高麗物』と呼ばれ親しまれました。のびやかな図柄と温かみのある器は日本の「侘び寂び」精神に通ずる美学が感じられるとされ、また、海の向こうから来た高度な技術と芸術性を持った作品として、当時からその名は知られていました。



鶏龍山窯は李氏朝鮮の時代に廃窯したとされていますが、20世紀に本格的な発掘調査が行われ6か所の窯が発見された後は、再度ブームとなり、現在でも骨董マニアの間では非常に人気の高い作品となっています。



11代透月斎の時代は明治、大正時代の近代茶道黄金時代の一翼を担い、現在の藪内流の組織的な基盤を築いています。この百年余りは全ての文化がそうであったように藪内流も近代文化の花開いた時代といえるのでしょう。



竹窓は書と漢籍は学者の山本亡羊、絵は日本画の森寛斎に学んでおり、才も豊かで多くの作品を残しました。書は力強く粘りがあり、忍耐の人柄であったことを偲ばせます。



茶道具では、歴代宗匠の手造りの写しを好んで作っていたようです。その作風には、そうした“おもしろき”を追求する心と、ただひたすらに真面目であろうとする2つの心持ちが見えるようで、それもまた作品を味わい深く感じさせます。



野菜を買う際には一度吟味して信用した農家のものを何十年も買い続けたというエピソードがあります。

花押の検証は下記の写真によりますが、まだ確実なものではありません。これくらいの書体は贋作では真似できますからね。ただ贋作ではわざわざマイナーな「米山造」とはしないように思います。

 

普段使うお茶碗としては問題はありません。

*人前に出すお茶碗にはそれなりの確信が、さらに美的信念に基づいた茶碗でなくはなりません。

ちなみに骨董は「身銭で買うべし、資金調達に売るべし、勉強のため休むべし」が基本原則だそうですが、現在は「勉強のため休むべし」が必要な時期・・。ちょっと勉強(調査)が追い付かない状態。繰り返しの失敗が多く反省中です。
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