本ブログは当方のための作品整理目的のブログとしていますが、本人にとって非常に役に立っています。基本的に最低大きめのアイパッドがないと不自由な画面構成になっていますが、手元に本人がアイパッドを持っていなくてもどこでも検索して資料が見られます。むろん骨董店や骨董市などどこでも作品の資料が検索できるのが便利です。
2000作品を超える数のデータがこのブログに詰まっています。むろんもっと詳しいデータはパソコン内にある訳ですが、持ち運びが無くても検索で何処でも見られるし、自分の蒐集品ですから後日真贋がはっきりしたという最新の情報として扱えるのは便利でですよ。蒐集している方はどうぞ本ブログのようなデータ整理をお勧めします。
さて本日は我が郷里の出身で郷里を描き続けた画家「舘岡栗山」の作品の紹介です。本ブログにて幾度か作品を紹介していますが、今年の盆の旧家にて帰郷に際して、郷里の骨董店で2作品を入手しました。そのうちのまず一点目の紹介となります。
千畳敷海岸 舘岡栗山筆 その9
紙本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦
舘岡栗山は母の実家のある秋田県五城目町の出身であり、母の実家を訪れた際には母の実家にて舘岡栗山の多くの作品を観ることができました。また亡くなった家内の実家にも一作品だけありましたので当方では蒐集開始の段階の頃から馴染みのある画家と言えます。
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舘岡栗山:秋田県馬川村高崎(後の秋田県五城目町高崎)の生まれ。本名は豊治。小学校を卒業後、1911年に秋田師範学校講習科に進学したものの肋膜炎のため1年で中退、以後独学で絵を描き続け、五城目町の落合病院で事務員として就職してからも折りをみては季節の風物をスケッチしていた。
1919年、22歳のときに家出同然に上京し、絵の修行をしようとしたものの、病を得て半年ほどで帰郷。健康を回復して25歳のときに改めて上京、アルバイトをして生活費を稼ぎながら絵の修行に励んだ。その頃、画号を長春から栗山に改めた。郷里の五城目町のシンボル的な里山である森山が、栗のような形にも見えたのが号の由来。栗山は郷里秋田への思い入れが強く、のちには秋田の風物が主要な題材となった。1925年1月からは48回にわたって秋田の県内紙秋田魁新報に「秋田百景」を連載している。
1926年、日本画の世界でさらに研鑽を積むため京都に移り住んだ。1928年、日本美術院の近藤浩一路に師事し、1933年、36歳で「台温泉」という作品で院展に初入選を果たした。1936年に近藤浩一路は日本美術院を脱退するが、栗山は師と行動を共にせず、美術院研究会員となって院展に出品を続け、入選を繰り返した。
翌年の研究会展作品『雨後』が大観賞を獲得、それを契機に安田靫彦に師事、昭和14年には院友に推された。院展には初入選以来連続入選30回を数え、1968年には特待・無鑑査となった。
1945年4月に48歳で京都から郷里五城目町に疎開、翌年には隣町である一日市町(後の八郎潟町)に移り住む。ここにアトリエを構え、秋田の風景や行事、伝承芸能などを好んで描いた。地方色豊かなマニエリスム風の微細な描写が作風。
俳句や短歌にも親しみ、若いころには同郷の俳人北嶋南五や草皆五沼などとも親交があった。大正期には俳誌『山彦』を主宰している。五城目町の雀館公園には栗山の句碑がある。短歌では同郷の歌人中村徳也とともに学び、夫人とともに短歌会「歌瀬歌会」をつくっている。
1951年には地域新聞「湖畔時報」を創刊し社主になった。日本画研究グループ「新樹社」を1958年に設立、秋田の代表的展覧会である「県展」の審査員も務めた。1962年に秋田県文化功労者、1970年に勲五等双光旭日章を受章。著書に『銀婚』、『栗山画談』がある。
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母の実家では叔父と舘岡栗山と親交があったようで、屏風に作品を張り合わた作品もありました。ただ叔父が亡くなってからほとんどの作品を手放しています。
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これは、日本画家館岡栗山(りつざん)10歳ころの話です。
「豊治、おらさ、べらぼうかいてけれ。」「うん。」
豊治は紙をひろげ、絵筆をにぎりました。きょうは、なん枚もたこ絵を仕上げましたが、たこ絵ではいいかせぎにはなりません。そう思っていたところへ、「絵馬かいてける豊治という人、あだだすか。」といって、男が近づいて来ました。うなずいた豊治へ、男はとなり村からやって来たといいます。「なんとか、すぐかいてもらいたいす。板は持って来たす。」「どんな馬こ、かけばえすか。」客の注文通りに、豊治はこれまでたくさんの絵馬を描いています。男もうわさを聞いて、たのみに来たのでしょう。絵馬はかい馬のために神様に納めるものですから、お礼がもらえるのです。たこ絵をかくより、ずっといいかせぎになります。えのぐも筆も買いたいと思っていたので、豊治は、一生けん命にかきました。小さいときから絵のうまかった栗山は、友だちのたこ絵だけでなく、村の人びとからたのまれて絵馬を描いたりして、かせいでいたといいます。そのころから、栗山は絵かきになりたいと思っていました。絵をかくことが、本当に好きだったのです。
おじいさんが村長をつとめるほどの家がらでしたが、栗山が生まれたころは、豊かなくらしぶりとはいえない状態になっていました。小学校を出て、明治44年に秋田師範学校講習科に入学し、15歳で五城目小学校の代用教員になりました。このまま学校につとめていたら、栗山は「絵の上手な先生」などといわれて一生をおわったかも知れません。しかし、「おれには、学校の先生はむかない。自由に好きな絵をかきたい。」といって、1年ばかりで先生をやめてしまったのです。それから、師匠にもつかず、ひとりで絵の勉強にはげみました。けれども、独学では上達するのは困難です。
「東京さ、行かせてけれ。おれ、なんとしても絵かきになりたいす。」
「気でもくるったのか。絵かきになるなんて夢みたいなことばかりいって……。家を継いで、田さ出てまじめに働け。」両親は、栗山のねがいを少しも聞こうとしません。
そんな家への不満から、町の落合病院の事務員になりました。ひまがあると画帳をふところから出して、季節の草花や花に寄って来る虫のようすを、ていねいにスケッチしている栗山を、落合医師はじっと見ていました。あるとき、落合さんがいいました。
「館岡くん、絵かきになりたいのかね。それとも趣味で絵をかいているのかね。」
「先生、わたしは絵が好きで、絵かきになりたいと思っています。」
「そう思っているのだったら、ちゃんと師匠について勉強しないといけないよ。」
栗山は落合さんのことばに、うなだれてしまいました。わかっていることですが、これまでどうにもならなかったからです。
「君は見こみがある。努力したら、画家になれるだろう。応援をしてあげるよ。」
落合さんのことばは、目の前に明るい道が開けてくるように、栗山の胸にひびいて来ました。栗山が家出でもするみたいにして、絵の修行のために東京に出ていったのは、大正8年(1919)22歳のときです。弟子入りして絵の勉強するには、20歳ではおそいといわれていますが、栗山はかたい決心で上京したのです。どんなにかたい決心も、病気にはかてません。半年ばかりで、帰らなければなりませんでした。でも、それにくじけず、郷里で健康を取りもどすと、栗山は25歳になっていましたが、ふたたび上京しました。父は、決意のかたい栗山にあきらめて、止めようとはしませんでしたが、「金は一文も送ってやれないからな。」といいました。
栗山は、下絵かきなどのアルバイトをして生活費をかせぎ、勉強にはげみました。そのころ、長春という号を栗山と改めています。高崎から見える森山が、クリのような形だったからだど、号の由来について話しています。きびしい修行、苦しい生活の中で、心にはいつも生まれ故郷があったのでしょう。一人前の画家になってふる里に錦(にしき)をかざる自分の姿を想像し、自らをはげますために、故郷の森山を表す栗山という号を決めたのかも知れません。のちに、栗山はふる里秋田を描く日本画家になります。大正15年(1926)、絵の勉強を深めるために、栗山は京都に移りました。洋画の勉強なら東京ですが、日本画の修行は京都の方がいいと思ったからです。京都での生活は、それまでよりずっと苦しくなりました。食うや食わずの日さえありました。
昭和3年(1928)有名な近藤浩一路先生の画塾に入ることができました。栗山は、30歳になってはじめてりっぱな師匠についたのです。師に恵まれた栗山は、その血の出るような努力のかいもあって、8年に「日本美術院」展(略して「院展」という)に初入選しました。その作品「台温泉」は、ひなびた山峡の湯治場の風景で、秋田に帰り時間をかけてていねいなスケッチを重ねた上で、一枚の絵にまとめあげたものです。36歳になってはじめての入選でした。決して早い画壇への登場ではありません。日本画家の場合は、院展に入選して絵かきの仲間とみとめられ、作品にも値段がつくようになりますが、絵が売れるわけではありません。栗山の苦しい生活はまだまだつづきます。1回入選しただけでは、どうということはありません。連続入選すると、実力のある画家とされるのです。休むひまなく、栗山は新しい画題を決めて、次に出品する絵に取組みました。
*下記の作品は亡くなった家内の実家にあった作品です。リンゴ台風の際に吹き飛ばされた屋根を修理する際に天井裏から出てきた作品にひとつで、痛んでいた表具を当方で改装しました。
夢中で絵をかく毎日を送っている栗山に、大へんな難問がつきつきけられました。師匠の近藤先生が日本美術院をはなれるというのです。そうなれば、弟子もいっしょにはなれるのが普通です。でも、栗山は院展の画家として、ようやく第一歩をふみ出したばかりです。「苦しんで苦しんで考えたのですが、わたしは先生と行動を共にはできません。美術院に残ります。」最初の志をつらぬいて、栗山は最後まで院展に出品しつづけました。
*下記の作品は当方で骨董店で買い求めた作品です。
師匠を失った栗山は、血の出るような努力によって院展に連続入選をはたし、仲間たちをおどろかせました。そして昭和11年(1936)に、美術院研究会員となり、次の年の研究会展では「雨後」が横山大観賞となりました。それを機会に、安田靱彦の教えを受けるようになりました。さらに、14年には院友となっています。栗山は、実力のある画家となったのです。
初入選以来、連続入選30回、43年(1968)には特待・無鑑査になりました。戦争がおわる少し前の20年4月に、48歳の栗山は京都から五城目町に帰りました。よく年秋には、一日市町(今の八郎潟町)に移りました。郷里に住んだ栗山は、秋田の風景と行事と伝承芸能を、描きつづけます。わき目もふらず、秋田を日本画の筆で追いつづけ、たくさんのすばらしい作品を生み出しました。院展特待・無鑑査となったのも、連続入選だけでなく、郷里に住んで栗山でなければ出来ない絵の境地を見つけたからだともいえます。栗山は、いつも五城目市をスケッチしていましたが、市の人びとを描いた作品がたくさんあります。番楽・盆踊り・なまはげ・竿灯などの行事や芸能、森山・八郎潟・十和田湖などの風景が、栗山の絵の中で特に目を引く作品です。
*下記の作品は大作で八郎潟の生活風景を描いた作品です。舘岡栗山の傑作のひとつでしょう。民俗資料としても舘岡栗山の作品は価値があります。
栗山句碑(雀館公園) 絵のほかに力を入れたのは俳句でした。若い時に北嶋南五に教えられて俳句をはじめ、馬場目の俳人草皆五沼と句作にはげんだこともあり、俳句にそえる俳画にも筆をふるいました。雀館公園の高崎が見える広場に、栗山の句碑があります。短歌も若いころに五城目の歌人中村徳也と学んだことがあり、短歌会をつくっています。秋田県内の展覧会の審査員をつとめたり、県内の日本画家の会をつくって勉強しあったり、湖東部のニュースを集めて新聞を発行したり、栗山の活躍は絵筆だけではないひろがりを持っていました。
昭和53年10月16日、81歳で亡くなりましたが、病床にあっても、「思いっきり大きい、踊りの絵をかきたい。何百人の群衆が踊っている、大きな大きな屏風絵をかいてみたい。」といい、心は絵のことでいっぱいでした。
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舘岡栗山の作品には即興で描いた作品も多く出来不出来の多くあると評される舘岡栗山の作品ですが、現在では書き込みの少ない作品は1000円でも売れない作品があります。舘岡栗山を知ららい方がほとんどの首都圏も売ろうとするとそうなりまし、地元でも知っている人が少なくなり、年々評価は下がっているものと危惧しています。
当方で所有する作品を掲載しましたが、ただ他にもいい作品があります。多作ゆえ出来の悪いものも多いので、それで舘岡栗山を評価しないよう願いたいものです。
人知れずいい作品を遺している画家の作品を選別しながら蒐集するのが健康的な蒐集の仕方だと思っています。
一流の画家の作品は一流のお値段、むろん当方のようにチャレンジすることは否定しませんが、当たりはずれがあるのでめげないで勉強する姿勢を持ち続けることができるかどうか・・・。精神衛生上、資金の上でもタフさが必要ですから、意外に人にあまり知られていない画家の優品を蒐集するのが健康にはいいと思います。