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深山乃夏 山元春挙筆 その6

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昨日は郷里の「鶏めし」を紹介しましたが、実はこの「鶏めし」は郷里の著名な?「比内鶏」ではありません。花膳では別に比内鶏を使った駅弁も売っていますが、味は比内鶏を使っていない「鶏めし」が一番です。郷里で比内鶏を堪能しようと思ったら、「きりたんぽ」が一番ですが、市内には比内鶏を使った「親子丼」の美味しいいお店があります。



なんどか紹介しているお店ですが、秋田市内などにあるお店とは違います。郷里においでの際にはこちらも食べてみてください。

さて山元春挙の作品は「四条派の伝統を受け継ぎつつも西洋の刺激を受け、四条派の画風に墨彩や色彩表現を加えて豊麗さへと徹底的に純化した表現に山元春挙の画風は特色があろう。」と評されています。山元春挙は児玉希望に似通った点もあり、ともに私の好きな画家です。

そこで本日は「深山の春」という作品を紹介します。

深山乃夏 山元春挙筆 その6
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 二重箱共箱
全体サイズ:横550*縦2150 画サイズ:横410*縦1270

 

山元春挙は大画面の山水画にこそ魅力があります。花鳥画には魅力はないといって過言ではありません。

 

本作品と比較して愉しめ作品は他の所蔵作品から選ぶと下記の作品でしょう。

深山春雪之図 山元春挙筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先 二重箱共箱入
全体サイズ:横730*縦2030 画サイズ:横*縦

 

かたや「春」、かたや「夏」の深い山・・。同時期の作品でしょうか? 

ところで本日の作品の共箱は出来が良い。おそらく京都のきちんとした表具店で誂えたものでしょう。指物師の腕がよいことが箱からも解ります。

  

改めてじっくり鑑賞してみましょう。



徹底した写生を基にした風景画で名を馳せた山元春挙であり、明治後期の京都画壇で竹内栖鳳と人気を二分しながら、残念ながら今では忘れられた画家の一人となっています。

*手前の壺は室町期の古備前の壺です。

 

壮大でスケールの大きい風景画を得意としていた山元春挙は、その風景を描くためにカメラを持参するという方法を初めて試みた画家として知られています。



山元春挙の作品は深山幽谷の色濃い作品にこそ魅力があります。小作品はあまりいいものがなく、小作品はやはり竹内栖鳳の一歩譲るところがあります。

*山元春挙は作品を購入するなら大画面の山水画でしょうね。花鳥画のような作品の購入は差し控えたほうが無難です。やがて飽きがきますから・・。



ここで特筆すべきは小禽の表現です。透けて背景が見えるという通常はこのような描き方はしない、贋作まがい?のような表現をしています。空気の清浄さを表現した意図かもしれません。



深山を描いた山元春挙は都会に住む現代人からもっと評価を受けてよい画家でしょう。



山元春挙はむろん本ブログに投稿されている作品より、他に素晴らしい作品が数多くあります。是非インターネットで検索してみたらいかかでしょうか? 再評価されるべき画家の一人です、



繰り返しになりますが、明治天皇は春挙のファンで、亡くなる際、床の間に掛かっていたのは春挙の作品だったことは有名です。

リメイク 虎図双幅 佐伯岸駒筆

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小学校から高校までの同級生の友人は今まで名古屋で働いていたのですが、仕事の一線から退いたのか時間が出来たからと郷里に戻ってきています。その友人が母の法事に参列してくれて、その際に息子に火おこしの道具を持ってきてくれました。



どうも友人は縄文時代の遺跡に触発されているらしい。小生は青森の三内丸山遺跡の発掘に際して工事の関係で常駐していたので興味を持つ気持ちが解ります。

さて郷里にて保管してる作品は整理のため持ち帰り、再度写真撮影して、資料を補足していますが、今回もその作品のひとつですが、三内丸山遺跡に居た頃に入手した作品かどうかは忘れましたが、いずれ近い時期に入手した作品です。

リメイク 虎図双幅 佐伯岸駒筆
絹装軸 双幅絹本 着色箱入
全体サイズ:縦*横 画サイズ:横304*縦930



本作品は時代経過から考慮して傷んだ状態の双幅を補修して再表具したものと思われます。

佐伯岸駒の得意とする虎の絵ですが、高評価の力作とは言えませんが、岸駒の得意とする虎の絵の特徴を備えた佳作だと判断しています。

 

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佐伯岸駒:宝暦6年生まれ、天保9年没(1756年~1838年)。享年90歳。

本姓は佐伯であったが、岸氏に改め名を駒といったので、音読が通用している。字は賁然。号は同功館、可観堂。

金沢に生まれ、京都に出て有栖川宮の侍臣となって、天保7年に蔵人所衆、従五位下、越前守に任官する。

定まった師はないが沈南蘋派や円山、四条派を学んで折衷的な画体を創り、特に筆法に鋭い覇気があって個性的である。その長男の岱、養子の良、義子の連山をはじめ望月玉川、白井華陽、河村文鳳、森鳳州などの高弟や多くの門人を出して、高名な四条派に対応して一派をなしたので、これを岸派という。

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佐伯岸駒の虎の作品は有名であり、生前から高値での取引があったらしく、贋作や模作が非常に多いようです。本日紹介している作品はずいぶんと前の入手で真贋についてしばらく留保していましたが、最終的に真作と判断しました。



岸駒の虎を題材とした作品は一般的には席画に近い少々筆の荒いものが多いようです。そのためにこの手の作品は真似しやすく贋作が非常に多いのも事実です。



かたや作品の数は非常に少ないですが、丁寧な描写で着色されてものがあり、リアルな縞文様と繊細な毛の描き方はこのような作品は明らかに円山応挙の影響と思われます。この手の作品は非常に高価で百万を超える金額の作品もあります。



最初は円山応挙のごとく人懐っこい猫のような虎(本作品の頃)ですが、寛政11年に清人から虎の標本を手に入れたことから画風が、野生的な迫力に溢れ、応挙よりも虎らしくなると評されています。子の岸岱も同じような虎の作品を描いています。



虎を描いた作品と言えば、江戸期の虎の作品は佐伯岸駒、近代では大橋翠石といっていいでしょう。



落款と印章は下の写真の通りです。

 

ひと月ほど展示室に飾り愉しんでいました。



佐伯岸駒の虎の作品は所望される方も多かったのでしょう。高価な極彩色の作品以外に手頃な値段の作品が数多く遺っています。むろん前述のように贋作も多いので注意が必要ですし、贋作以外に岸派の模作も数多くあります。きちんとした筆力のものであれが現在は真作と判断しているようです。ただ一応、印章や落款の確認は前提としてあります。



羅漢図 その2(小点) 倉田松涛筆 その24

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今年は友人の死去、母の死去や七七忌、同級会などで幾度となく帰郷しました。



通常は正月、五月の連休、命日の墓参り、年末年始の帰郷であり、庭の手入れをゆっくりしている時間がありません。隣人が親切な方でいろいろと面倒をみてくれています。



むろん花など植えて愉しむこともできないので、毎年思いっきり伐採しています。新規に購入した裏の隣地の立ち木はそのままにしております。



隣地に建物と共に購入した境界は除雪に備えて邪魔になった大きくなった樹木は今年は思い切って伐採しました。



さて本日は郷里出身の画家の倉田松涛の小点の作品の紹介です。

雪深い地元で今は知っている人の少ない倉田松涛であり、地元の骨董店では出来の良い作品でも数万円という手頃な値段で売られている画家です。ただその筆力は一角ならぬ画力であり、一時期は中央でもかなりの人気があり、贋作が出回ったほどです。今では人気がなくなったので気安く出来の良い作品を購入できるのは当方にとっては魅力です。

羅漢図 その2(小点) 倉田松涛筆 その24
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:横365*縦1345 画サイズ:横180*縦205



「来也□□□ 松濤寫 押印」とありますが詳細は不明です。倉田松涛の賛はともかく難解です。

 

この構図の羅漢図は倉田松濤の師である平福穂庵の所蔵作品にも2点ある非常に興味深い作品。本ブログで紹介されている平福穂庵の同図の「羅漢図」の作品は下記の作品です。

羅漢図 その1&その2 平福穂庵筆

その1:絹本水墨着色軸装軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2030*横485 画サイズ:縦1120*横380

その2:紙本水墨着色軸装軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2120*横650 画サイズ:縦1280*横440



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倉田松濤:明治~大正期の日本画家。慶応3年(1867)生~昭和3年(1928)歿。秋田県出身。巽画会・日本美術協会会員。 幼い時から平福穂庵に師事。

特異な画家といわれ、匂いたつような濃厚な筆で一種異様な宗教画(仏画)をのこした。

少年時代から各地を転々とし、大正期初の頃には東京牛込に住んだ。この頃より尾崎紅葉らと親交を深め、帝展にも数回入選し世評を高くした。宗教画の他に花鳥も得意とし、俳画にも関心が高く「俳画帳」などの著作もある。

豪放磊落な性格でしられ、酒を好み、死の床に臨んだ際にも鼻歌交じりで一句を作ったという逸話もある。落款「百三談画房」、雅号は「百三談主人」など。

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平福穂庵の作品ばかりでなく多くの画家が羅漢図にはこの構図がありますので、単に師である平福穂庵の作品に倣ったとは言い難いでしょう。



倉田松濤の作品は仏画に定評がありますが、この作風は独特の濃厚さよりもコミカルさが魅力の作品と言えるのでしょう。



現在はいい作品でも2万円程度で売買されている倉田松濤の作品ですが、廉価で買える魅力的な画家の一人でしょう。水墨だけよりも色彩のある作品のほうが倉田松濤らしさが溢れているので、作品を選ぶ場合は色彩画を選択してほうがいいでしょう。

先日も家内が郷里の骨董店で二作品を購入しました。



ところで色紙程度の小さな小点の作品は、床の間だけでなく壁飾りによさそうな作品となりますね。寺崎廣業などもそうですが、大きな掛け軸の作品よりも小点のほうが掛けていて場所もとらず、邪魔にならないので愉しくなることがあります。



「酔李白」の作品。酒を飲むときにはいいかも・・、飲み過ぎは厳禁という意味。



「黄初平」の作品。視野を広くという意味。



この作品は・・・?? 台風に注意か? 一説に牛は「悟り」を表しているとされます。牛が家から逃げて足跡を発見し捕まえ、乗りこなす。でも、その先もあるのです。牛(悟り)を童は忘れ又は無くし、新たな道で悟りを得る(悟りは一度では無いのです)という意味を示すらしい・・。
 


マンションなど床の間のない空間ではこのような作品がいいかもしれません。いかかでしょうか?

ちなみに倉田松涛の作品で本ブログで紹介した「羅漢図 その1」は下記の作品です。

羅漢図 倉田松涛筆 その14(真作整理番号)
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横370*縦2050 画サイズ:横330*縦1260



虎の表情が実にコミカルで面白い作品です。この当時の日本画には各々意味があるので面白いものです。



最近、日曜美術館で放映されたり、東京ステーションギャラリーで展覧会が催されたりと「不染鉄」の人気が高まっていますが、当方と家内は倉田松濤も同等の人気が出てもおかしくない力量の画家だと思っています。

修理完了 博多人形2点

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当方のブログの目的は作品の整理目的です。

ブログに記入することでデータ検索が楽になります。自分のパソコンのみのデータだとデータが手元にないとお手上げですが、ブログにデータがあるといつでも検索できるメリットあります。作品の資料をみるためにはこれは意外に便利です。アクセス件数やコメントは気になりますが、骨董蒐集を趣味とする人は変人?が多く、日本語になっていないコメントや真贋に顔だわるコメント、売買目的のコメントは却って煩わしいことがあります。

あくまでもデータ整理での投稿ですので、対象の整理するデータがなくなるとブログは継続を中断することになります。無くなりそうでなくならないのが当方のコレクション・・・・、こちらの根気のほうが最近心配になってきました。

さて博多人形などの人形系は当方の蒐集範囲外であり、衝動買いとした言いようがない経緯で購入した作品で以前に本ブログで投稿していた博多人形二点があります。入手時から彩色に欠点があったり、飾っていて一部破損したこともあって、木彫彩色の補修を依頼していた京都の人形店で補修をしていただき、この度補修が完了したので投稿いたします。

*作品の詳細は以前に本ブログで紹介していますので詳細は一部割愛させていただきます。

葵ノ上 博多人形 宗田源造作
作品サイズ:横幅約155*奥行き約16*0高さ約390



作者の宗田源造については下記の記事以外の詳細は残念ながら当方では不明です。作品については箱などもなく資料がありませんでしたので、作品の底に下記の銘があるので題は「葵上」、作者は「宗田源造」であろうと判断しています。



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宗田源造:無形文化財の保持者、卓越技能保持者。戦後から人形作りに従事し、内閣総理大臣賞などの数々の賞を受賞。博多を代表する人形作家。

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無形文化財の保持者ということは人間国宝のことでしょうか? 「葵上」は言わずと知れた源氏物語の「葵の上」のことでしょう。



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葵の上(あおいのうえ):紫式部の物語『源氏物語』に登場する架空の人物。光源氏の最初の正妻。源氏との間に一粒種(夕霧)をもうける。この名は後世の読者がつけた便宜上の名前で、彼女が主役級の扱いを受ける「葵」帖から取られている。父は桐壺帝時代の左大臣、母は桐壺帝の妹の大宮。頭中将という同腹の兄弟がいる(どちらが年上なのかは作中では不明)。光源氏の従姉にあたる。

当初東宮(のちの朱雀帝)妃にと希望されていたが、左大臣の思惑で元服した源氏の北の方に納まる(「桐壺」)。だが密かに藤壺を恋い慕う源氏には、后がね(皇后候補)として大切に育てられた深窓の姫とはいえ物足りない心地がし、葵の上も他の女君にうつつを抜かす4歳下の夫にうちとけず、よそよそしい態度をとっていた。源氏との夫婦仲の冷淡さは、葵の上が詠んだ和歌が一首も登場しないことにも象徴されている(「帚木」~「花宴」)。

10年後(源氏22歳)にようやく懐妊、周囲は喜びに沸き、源氏も悪阻の苦しさに心細そうな葵の上の様子に珍しく愛しさを感じた。折りしも時は賀茂祭(葵祭、4月 (旧暦))、周囲に勧められるままに賀茂斎院の御禊の見物に行ったところ、図らずも家来が源氏の愛人の六条御息所の家来と車争いし、御息所の牛車を壊して恥をかかせてしまう。

この頃から葵の上は物の怪に悩まされて臥せるようになり、床を見舞った源氏の前で彼女に取りついた御息所の生霊が姿を見せるという事件が起きた。8月の中ごろに難産の末夕霧を産み、ようやく源氏とも夫婦の情愛が通い合ったと思うもつかの間、秋の司召の夜に急に苦しんで呆気なく他界。火葬と葬儀は8月20日過ぎに行われ、源氏はそれまで妻に冷たくあたってきたことを後悔しつつ、左大臣邸にこもって喪に服した(「葵」)。

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能の場面を扱うことの多い博多人形ですので、この人形は能の「葵上」の場面と源氏物語の「葵上」をマッチングさせた作品ではないかと推察しています。



能のおける「葵上」の説明は下記のとおりです。

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『葵上』(あおいのうえ):『源氏物語』の「葵」巻に取材した能楽作品。世阿弥改作か。 シテは六条御息所の生霊であり、題にもなっている葵の上は一切登場せず、生霊に祟られ寝込んでいることを一枚の小袖を舞台に寝かすこと(出し小袖)で表現している。 六条御息所は賀茂の祭の際、光源氏の正妻である葵の上一行から受けた侮辱に耐え切れず、生霊(前ジテ)となって葵上を苦しめて
いるのである。



薬石効なく、ついに修験者である横川の小聖が呼ばれ祈祷が始まると、生霊は怒り、鬼の姿(後ジテ)で現われるが、最後は般若の姿のまま、法力によって浄化される場面で終わる。



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能では面を被った舞ですが、そこは博多人形ですから作品を美人像に仕上げています。



基本的に補修のメインは衣装部分。



汚れに非常に弱い博多人形ですから、通常はガラスケースで保管するのがいいのでしょうがそれでも色は退色してきますので、カバーを付けて飾るのがよいのでしょう。



あまり長時間の飾りっぱなしはよくないのでしょうが、博多人形はケースに仕舞いこむにもスペースをとるのが難点です。



ちなみに下記の写真が補修前の全体です。退色具合が解りにくいですが、特に白い衣装に手垢などの汚れは目立つので醜いものでした。



補修の是非のポイントは人形では顔です。下記の写真は補修前です。



補修には髪、眉毛、睫毛などが直されています。



補修前の方が雰囲気が良いとされる方がおられるかもしれませんね。このあたりは難しい判断になるということも今回痛感しました。化粧の濃い女性は魅力が薄れるということか・・??



さてもう一点は川崎虎雄の先の作品です。こちらは顔は補修していません。

博多人形「利休像」 川崎虎雄作
幅185*奥行130*高さ200



博多人形の名工である川崎虎雄の作品ですが、この「利休像」は数多く製作しているようです。



こちらは腕が破損していたりしたので、迷わず補修に踏み切りました。



割れなどの補修跡はすっかりきれいになり、どこが補修されたか解りません。このあたりが補修跡がすぐわかる陶磁器と違いますね。



ケースなどない状態での入手でしたので、そのまま飾っていたのが災いして破損してしまいました。



補修するかしないかは所有者の作品への思い入れ次第ですが、今回の補修に要した費用はこの2作品でおよそ6万円なり。補修期間は数か月要しました。



高いと思うか、安いと思うかは所蔵者次第・・。ただ物を持つということはそういうこと。メンテなどの責任をとるのも蒐集する者の役目と考えています。



この人形も顔が鑑賞のポイントでしょう。



作品を眺めていると男の顔は年を経てよくならねばならぬものと考えてしまいますね。



女性の化粧と年を経た男の顔、人形は奥が深そう・・。

先日赤坂の通りを喫茶しながら見ていたら、骨董店のショーケースを眺めている人よりもフィギュアのお店のショーケースを眺めていく人のほうが断然に多いのにびっくりしました。世の流れはフィギュアにか・・??? フィギュアにはフィギュアについての知見と謂れ、歴史が生まれつつあるのかもしれません。

最近の男の隠れ家の飾り物

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ここ二週間ほど週末は母の七七忌などもあり帰郷のために家を留守にしていたので、先週の週末はお客さんも訪れることもあり小生は家のお掃除・・。掃除は雑巾がけ、最近は便利な掃除道具がありますが、掃除の基本は雑巾がけまでです。ダイソンの掃除機でごみを除去した後は雑巾がけ・・。忙しそうな小生を見て閑気な息子は義父と家内で畑に芋ほりに出かけました。



しばらくすると「パパ! これな~に?」と畑で見つけた蛹を持ってきました。少し動く蛹を平気で手に取るようになったようです。「これは蛾だね。」と言ってインターネットで検索して教えてあげました。蛹といえどもこれは害虫ということで駆除。



さて男の暮れ家たるもの家の飾りは一級品を・・・??。帰郷に際しては七七忌が明けたので飾りの模様替え。

玄関には福田豊四郎の「鶏」の作品。



亡くなった家内と現在の家内はともに酉年ゆえ・・。



男たるもの、無味無臭がいい? 男の隠れ家たるもの、飾りは最小限でいい。



家は不要なものは置かないし、飾り過ぎもまた禁物。欲というものを抑え込むのが賢者の印などとブツブツ言いながら飾り物。



山形の鋳物師が作ったガラスの衝突防止用の鋳物。



35年前に山形市役所を新築した際に見本で作られた作品。工事完了後に捨てられていたごみ箱から捨てるならと記念にと頂いた作品。原型は釜を持つ輪を通すところの鋳型などで用途は市役所の透明な大型ガラスへの衝突防止に貼り付けるもの。男は価値あるものを拾うもの・・??? 今ではいい記念になっています。小生が木材に張り付けておきました。



同じく見本で作られた風除室のドアの引手、山と川??、これらは現在はトイレの飾り物。



廊下には鯰。



友人が旅館を廃業する際に売りに出された作品を引き取った作品です。



福田豊四郎の最晩年の作。



和室の廊下には寺崎廣業。



竹に太湖石を描いた縁起物。二階のトイレが凍害で破損し、家中が大洪水になり一階が水浸しになっても無事だった作品。



郷里には郷里の作品。



ちょっと華やかな伊東深水のスケッチ。自宅を新築した頃に入手した作品です。



画帳からの作品で真贋は解りませんが、美人画でないので廉価で2作品入手したうちのひとつです。



粋な作品が男の隠れ家には必要?



諏訪蘇山の青磁の作品は古くから家にあった作品。



諏訪蘇山の何代目かの作らしい。初代から三代までの作で印章の形で何代目の作品かが解ります。



詳細は本ブログに投稿されていますので参考にしてください。

 

寿老人は子供の頃から家にありましたが、当時は怖かった作品。現在も息子が怖がって一人でトイレに行けないらしい。



長寿の願いのある作品。こちらは母の実家にあった七福神です。



面白い作品・・、ABS(秋田放送)からの記念品。二種類の内ひとつを玄関に置いてみました。



は~、どうも一級品とは言えないようで・・・・、家の飾りたるもの、生きた証であるもの、思い出のある作品が多い。留守にしていることが多いので男の隠れ家にはたいした作品は飾っていませんが・・。


明治甲申 中野山水図 蓑虫山人筆 その18

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当方での男の隠れ家での蒐集品の整理には各々のて置き場所が決まっています。掛け軸は長さ別に整理されています。長さ別に小、中。、大、特大、そして特別作品の4か所の収納場所が決まっています。これによってほぼ100%どこに収納されていたのか分かります。ただ各々の男の隠れ家にそれぞれあるのでどこの家かが分ららくなる・・・

たとえば一番短い「小」の掛け軸は下記の棚になります。むろん贋作・駄作ははじかれて処分されています。



さて、蓑虫山人の作品は当方の郷里周辺で入手できることが多いようです。当方の郷里近辺に長らく滞在していたことが主な原因でしょうが、郷里の付近で手放す人が多いというのは過疎化も原因のひとつではないかと危惧しています。もともと蓑虫山人の作品は地元の素封家が所蔵していたものですが・・。

明治甲申 中野山水図 蓑虫山人筆 その18
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横1027*縦1790 画サイズ:横896*縦1125




2018年5月青森の骨董店より入手した作品です。

蓑虫山人は1877年(明治10年 42歳)~1896年(明治29年 61歳)までの長きにわたり東北を遍歴しており、「1884年(明治17年 甲申 49歳)に枝川(現田舎館村)の工藤家に滞在し、その年の秋、大鰐の加賀助旅館滞留、中野(現黒石市)中野神社に遊ぶ。」という記録がありますので、その頃に近い頃ではと当方では推定しています。

そのためこの作品は仮題として「明治甲申(明治17年)山水図」と題しています。根拠は作品の出たところからによります。



弘前周辺にいた頃の蓑虫山人は大きな作品を数多く描いていたようです。壮年期を迎え一番創作が進んだ頃なのかもしれません。ただそれでもこれほどの大幅は稀にしか見つかりません。



弘前は津軽富士を冠した平野、そこから少し南下すると中野の付近の低山岳地帯があり、温泉豊かなで風光明媚なところです。



蓑虫山人は紅葉を愉しみながら、また縄文期の遺跡も近くに多々あり、のんびりと愉しみながら過ごしたことでしょう。



落款と印章は上記の通りです。蓑虫山人にも贋作はありますのでご注意ください。

手放される方が多くなるのは当方の蒐集作品数は増えるのですが、ちょっと寂しい限りです。

*いつも思うのですが、インターネットで検索しても参考となる落款や印章のデータが単発程度にしか見つかりません。ひと時代前は「贋作の資料となる可能性がある」として印章のサイズを変えたりした文献資料のみでしたが、現在は日本書画の贋作を製作する人は稀でしょうから、きちんとした資料を公開する御仁がいて欲しいと思います。インターネットオークションの贋作防止にも役立つと思うのですが・・。そういう観点から本ブログが少しでも役立てる点があれば幸いだと思っています。

漆器の酒注

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今年の夏の帰省の目的は初盆の義母の墓参り・・、この後に在京の母が具合が悪くなり亡くなることになりました。



墓参り終了後は集まった義妹らと座敷で食事。



その後は大鰐温泉へ・・。津軽三味線を堪能しました。

学生時代に高橋竹山に夢中になり、ステレオをボリュームいっぱいにならして聴いていても、不思議と近所から苦情が来なかったことを思い出しました。さぞ近隣はうるさかっただろうなと今になって反省しています。

吉祥寺にて下宿の友達らとジャズ喫茶に入り浸り、キースジャレットのピアノソロに感動し、ジョンコルトレン、ビルエバンス、マイルスデイビスに夢中になったあの頃・・。登山とジャズレコード購入目的でバイトし、かたや学業も精一杯頑張ったあの頃・・。その頃に津軽三味線の高橋竹山を知り心に沁みいる軽三味線の音の響きに酔いしれました・・・、やはり根っこは東北の田舎者。



そんな思い出に浸ってからの温泉から近くの大鰐山頂までドライブしましたが霧で全く視界がきかず、帰路はものすごい豪雨。男の隠れ家に帰宅してやれやれとひと段落してから、骨董類の箱を引っ張り出すと下記の作品が出てきました。



見事な杉箱に収まった酒注の漆器です。このような杉箱ですら現在では貴重です。



黒漆器の酒注が対で、朱漆器の酒注がひとつ・・。そして亀の蒔絵の酒盃。



各々文様が違い、完品なのがいいですね。



この手の作品はどの家にもあり、多くは下手で傷のあるものが多いのですが、やはり骨董は品格のあるものがいい。



おそらく朱は酒杯との揃であったもので、黒漆器の対は対で各々あったものと思われます。今回の整理で一緒に杉箱に収めておきました。

小生の趣味は苦労を重ねて学生時代と大きく変わりましたが、性根は変わらず田舎者。

整理された揃いの陶磁器

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今年の夏の帰省で男の隠れ家にある揃いの器の陶磁器の一部を最終整理しました。これらの揃いの器は「幕末から明治期」と「昭和初め頃」の2回ほど揃えで誂えてた作品群と思われます。

染付地紋山水画 小蓋物
肥前国 元彩作 30人揃
共箱入 
幅*奥行*高さ(未測定)

こんな器で酒の肴が出てきたら酒の美味しいかも・・。



松竹梅印判手盃臺 20人揃
合箱入 
幅*奥行*高さ(未測定)



盃を置く台ですが、これは蓋置に使えそう・・??

錦手富士二鶴花文 輪花七寸皿 10人揃
合箱入 
口径*高台径*高さ



以前は骨董市に溢れるようにあった錦皿、上手手がだんだん姿を見なくなり、そのうちどこにもなくなる・・??

染付草文五寸皿 20人揃
合箱入 
口径162*高台径86*高さ33



この技法の作品は洒落ています。



捻八角草花文錦手古伊万里鉢 24人揃
合箱入 
幅80*奥行75*高台径38*高さ40



染付唐草画 酒器揃 平戸嘉祥作
共箱入 
徳利:口径24*胴径60*底高台径45*高さ120
盃臺皿:口径84*高台径43*高さ20
盃:口径55*高台径22*高さ28
幅80*奥行75*高台径38*高さ40



染付の作行がいいですね。大切にしたい作品です。



染錦垣菊画のし型小皿 30人揃
一二代酒井田柿右衛門作
合箱入 
幅130*奥行96*高台径55*高さ27



工房作品でしょう。



戦後はこのような揃いの器がたくさん出回ったようです。



染付口紅唐草画八角小丼 10客揃
合箱入 
幅112*奥行112*高台径58*高さ56



現代作にはない粋がうかがえます。



染錦柿画蓋皿 30客揃
一二代酒井田柿右衛門作
共箱入 10客揃*3箱 
本体:口径170*高台径105*高さ56
蓋:口径150*高台径56*高さ42

言い方が悪いかもしれませんが、大量生産で荒稼ぎしたようです。工房作品と作家作品を区別し近代の作家作品は法外に高くなっています。商売上手な柿右衛門窯ですね。工房作品の柿右衛門の作品は今は値が付かないほど評価を下げています。それでも一二代の頃はまだ手はいい方でしょうし、本作品は上手手の作品と言えます。



あまりの量の多さに一度これらを人を頼んで運んだ戴いたことがありますが、「料亭でもやるの?」と尋ねられたことがあります



染錦唐花画台付蒸碗 30人揃
肥前国 幸右東人作
共箱入 10客*3箱 
本体:口径123*高台径50*高さ73
台皿:口径123*高台径60*高さ24
蓋:口径102*高さ30



これらの作品は自宅で法事や祝事を行っていた時代の産物ですね。



単品ではそれほど価値のある作品ではありませんが、膳に揃いで並べると壮観です。これらの作品は所持したり、保管するのがたいへんなので多くは離れ離れに売られて処分されていることが多いでしょうね。



これらを整理し隣家の新たな男の隠れ家に収納・・。これらの器はさらに漆器、膳類らと揃いになっての器、一人で膨大な数?を整理するにはかなりの労力が要ります。本日紹介した作品は以前にも幾つか紹介した揃いの器の一部です。

ふ~、もうひと頑張りというところで母が突然亡くなり、今はそちらの方で骨董類の片づけは一休みですね。

昇龍図 中村左洲筆 その5

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先日パナソニックの100周年にて東京フォーラウムで催された会に出席してきました。パナソニックやアリババのCEOらとの討論会を聴かせて下だいたのですが、仕事に役立ついいヒントを聴くことができました。いろんな企業の経営者の話を聴くことはこちらの啓蒙になると改めて感じ入りました。日本の中だけではもはやビジネスの仕組みは通用しないことが多いが、日本の良さを前面に出すことも必要だと感じました。

この話をすると際限なくなるので本題に入ります。

本日は中村左洲の作品の「その5」の紹介です。中村左洲は江戸時代後期以降に全国的に流行した四条派の画家であり、左洲の作品も温雅な写実表現を基調としています。

伊勢では、左洲といえば鯛の専門画家のようにいわれることがあります。それは鯛を描いた作品に優品が多かったことによるのでしょうが、左洲が漁師でもあったこと、 魚類は円山四条派の重要な写生対象であったこと、鯛の絵は吉祥画として多くの需要があったことなどが起因しているのでしょう。確かに、鯛を描いた作品には終生伊勢の海に親しみ、伊勢志摩の自然と一体化したかのような彼の特質を見ることができます。

一方、内宮や外宮、山岳風景を主題とした情趣こまやかな風景作品には画家中村左洲の技量がより強く現れているように思われます。伊勢神宮が近くにあり、皇族や宮司からの依頼や招待が多く、作品を献上することもあったようです。

本日の作品は中村左洲としては初めて漁業には関係のない画題の作品の紹介となります。

*本日の作品は辰の年として干支の作品として描いた作品の紹介です。これも吉祥の画題です。

昇龍図 中村左洲筆 その5
紙本水墨軸装 軸先骨 誂箱 
全体サイズ:縦1030*横510 画サイズ:縦350*横480



落款には「昭和三戊辰試筆 左洲 押印」とあり。昭和3年(1928年)55歳頃の作と推定されます。辰年の正月の書初めの作品と推測されますね。



9月の3連休に訪れた修善寺の宝物殿にあった川端龍子の天井画の作品も同年の作でしたので、「縁があるものだな~」と見入ってきました。下記の作品がその作品の写真です。



むろん干支の作品ですからこの年には多くの画家が描いたのでしょう。



「大鯛」(昭和10年作)に押印されている印章と同一印であることが確認できました。



中村左洲の作品では鯛ではない作品にもいい出来の作品がありますが、出来の良いは非常に数が少ないと思います。

「鯛」の作品については一匹や二匹では面白みのある作品が少ないと思います。中村左洲の蒐集対象とする作品は書き込みの多い、出来の良い作品に絞っていきたいと思っています。付け加えるなら漁に関わる作品に優品が多いようです。

なお中村左洲の同じような図柄では下記の作品があります。

「龍画」(個人所蔵)



昇龍の図柄は縁起の良い作品ですね。ただこの作品はやはり他の漁に関わる他の作品と比べると中村左洲の出来の良い作品には分類できないと感じるのは私だけではないと思います。。

千畳敷海岸 舘岡栗山筆 その9

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本ブログは当方のための作品整理目的のブログとしていますが、本人にとって非常に役に立っています。基本的に最低大きめのアイパッドがないと不自由な画面構成になっていますが、手元に本人がアイパッドを持っていなくてもどこでも検索して資料が見られます。むろん骨董店や骨董市などどこでも作品の資料が検索できるのが便利です。

2000作品を超える数のデータがこのブログに詰まっています。むろんもっと詳しいデータはパソコン内にある訳ですが、持ち運びが無くても検索で何処でも見られるし、自分の蒐集品ですから後日真贋がはっきりしたという最新の情報として扱えるのは便利でですよ。蒐集している方はどうぞ本ブログのようなデータ整理をお勧めします。

さて本日は我が郷里の出身で郷里を描き続けた画家「舘岡栗山」の作品の紹介です。本ブログにて幾度か作品を紹介していますが、今年の盆の旧家にて帰郷に際して、郷里の骨董店で2作品を入手しました。そのうちのまず一点目の紹介となります。

千畳敷海岸 舘岡栗山筆 その9
紙本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦



舘岡栗山は母の実家のある秋田県五城目町の出身であり、母の実家を訪れた際には母の実家にて舘岡栗山の多くの作品を観ることができました。また亡くなった家内の実家にも一作品だけありましたので当方では蒐集開始の段階の頃から馴染みのある画家と言えます。

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舘岡栗山:秋田県馬川村高崎(後の秋田県五城目町高崎)の生まれ。本名は豊治。小学校を卒業後、1911年に秋田師範学校講習科に進学したものの肋膜炎のため1年で中退、以後独学で絵を描き続け、五城目町の落合病院で事務員として就職してからも折りをみては季節の風物をスケッチしていた。

1919年、22歳のときに家出同然に上京し、絵の修行をしようとしたものの、病を得て半年ほどで帰郷。健康を回復して25歳のときに改めて上京、アルバイトをして生活費を稼ぎながら絵の修行に励んだ。その頃、画号を長春から栗山に改めた。郷里の五城目町のシンボル的な里山である森山が、栗のような形にも見えたのが号の由来。栗山は郷里秋田への思い入れが強く、のちには秋田の風物が主要な題材となった。1925年1月からは48回にわたって秋田の県内紙秋田魁新報に「秋田百景」を連載している。

1926年、日本画の世界でさらに研鑽を積むため京都に移り住んだ。1928年、日本美術院の近藤浩一路に師事し、1933年、36歳で「台温泉」という作品で院展に初入選を果たした。1936年に近藤浩一路は日本美術院を脱退するが、栗山は師と行動を共にせず、美術院研究会員となって院展に出品を続け、入選を繰り返した。

翌年の研究会展作品『雨後』が大観賞を獲得、それを契機に安田靫彦に師事、昭和14年には院友に推された。院展には初入選以来連続入選30回を数え、1968年には特待・無鑑査となった。

1945年4月に48歳で京都から郷里五城目町に疎開、翌年には隣町である一日市町(後の八郎潟町)に移り住む。ここにアトリエを構え、秋田の風景や行事、伝承芸能などを好んで描いた。地方色豊かなマニエリスム風の微細な描写が作風。
俳句や短歌にも親しみ、若いころには同郷の俳人北嶋南五や草皆五沼などとも親交があった。大正期には俳誌『山彦』を主宰している。五城目町の雀館公園には栗山の句碑がある。短歌では同郷の歌人中村徳也とともに学び、夫人とともに短歌会「歌瀬歌会」をつくっている。

1951年には地域新聞「湖畔時報」を創刊し社主になった。日本画研究グループ「新樹社」を1958年に設立、秋田の代表的展覧会である「県展」の審査員も務めた。1962年に秋田県文化功労者、1970年に勲五等双光旭日章を受章。著書に『銀婚』、『栗山画談』がある。

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母の実家では叔父と舘岡栗山と親交があったようで、屏風に作品を張り合わた作品もありました。ただ叔父が亡くなってからほとんどの作品を手放しています。



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これは、日本画家館岡栗山(りつざん)10歳ころの話です。

「豊治、おらさ、べらぼうかいてけれ。」「うん。」
豊治は紙をひろげ、絵筆をにぎりました。きょうは、なん枚もたこ絵を仕上げましたが、たこ絵ではいいかせぎにはなりません。そう思っていたところへ、「絵馬かいてける豊治という人、あだだすか。」といって、男が近づいて来ました。うなずいた豊治へ、男はとなり村からやって来たといいます。「なんとか、すぐかいてもらいたいす。板は持って来たす。」「どんな馬こ、かけばえすか。」客の注文通りに、豊治はこれまでたくさんの絵馬を描いています。男もうわさを聞いて、たのみに来たのでしょう。絵馬はかい馬のために神様に納めるものですから、お礼がもらえるのです。たこ絵をかくより、ずっといいかせぎになります。えのぐも筆も買いたいと思っていたので、豊治は、一生けん命にかきました。小さいときから絵のうまかった栗山は、友だちのたこ絵だけでなく、村の人びとからたのまれて絵馬を描いたりして、かせいでいたといいます。そのころから、栗山は絵かきになりたいと思っていました。絵をかくことが、本当に好きだったのです。

おじいさんが村長をつとめるほどの家がらでしたが、栗山が生まれたころは、豊かなくらしぶりとはいえない状態になっていました。小学校を出て、明治44年に秋田師範学校講習科に入学し、15歳で五城目小学校の代用教員になりました。このまま学校につとめていたら、栗山は「絵の上手な先生」などといわれて一生をおわったかも知れません。しかし、「おれには、学校の先生はむかない。自由に好きな絵をかきたい。」といって、1年ばかりで先生をやめてしまったのです。それから、師匠にもつかず、ひとりで絵の勉強にはげみました。けれども、独学では上達するのは困難です。

「東京さ、行かせてけれ。おれ、なんとしても絵かきになりたいす。」
「気でもくるったのか。絵かきになるなんて夢みたいなことばかりいって……。家を継いで、田さ出てまじめに働け。」両親は、栗山のねがいを少しも聞こうとしません。

 そんな家への不満から、町の落合病院の事務員になりました。ひまがあると画帳をふところから出して、季節の草花や花に寄って来る虫のようすを、ていねいにスケッチしている栗山を、落合医師はじっと見ていました。あるとき、落合さんがいいました。
「館岡くん、絵かきになりたいのかね。それとも趣味で絵をかいているのかね。」
「先生、わたしは絵が好きで、絵かきになりたいと思っています。」
「そう思っているのだったら、ちゃんと師匠について勉強しないといけないよ。」
 栗山は落合さんのことばに、うなだれてしまいました。わかっていることですが、これまでどうにもならなかったからです。
「君は見こみがある。努力したら、画家になれるだろう。応援をしてあげるよ。」

落合さんのことばは、目の前に明るい道が開けてくるように、栗山の胸にひびいて来ました。栗山が家出でもするみたいにして、絵の修行のために東京に出ていったのは、大正8年(1919)22歳のときです。弟子入りして絵の勉強するには、20歳ではおそいといわれていますが、栗山はかたい決心で上京したのです。どんなにかたい決心も、病気にはかてません。半年ばかりで、帰らなければなりませんでした。でも、それにくじけず、郷里で健康を取りもどすと、栗山は25歳になっていましたが、ふたたび上京しました。父は、決意のかたい栗山にあきらめて、止めようとはしませんでしたが、「金は一文も送ってやれないからな。」といいました。

栗山は、下絵かきなどのアルバイトをして生活費をかせぎ、勉強にはげみました。そのころ、長春という号を栗山と改めています。高崎から見える森山が、クリのような形だったからだど、号の由来について話しています。きびしい修行、苦しい生活の中で、心にはいつも生まれ故郷があったのでしょう。一人前の画家になってふる里に錦(にしき)をかざる自分の姿を想像し、自らをはげますために、故郷の森山を表す栗山という号を決めたのかも知れません。のちに、栗山はふる里秋田を描く日本画家になります。大正15年(1926)、絵の勉強を深めるために、栗山は京都に移りました。洋画の勉強なら東京ですが、日本画の修行は京都の方がいいと思ったからです。京都での生活は、それまでよりずっと苦しくなりました。食うや食わずの日さえありました。



 昭和3年(1928)有名な近藤浩一路先生の画塾に入ることができました。栗山は、30歳になってはじめてりっぱな師匠についたのです。師に恵まれた栗山は、その血の出るような努力のかいもあって、8年に「日本美術院」展(略して「院展」という)に初入選しました。その作品「台温泉」は、ひなびた山峡の湯治場の風景で、秋田に帰り時間をかけてていねいなスケッチを重ねた上で、一枚の絵にまとめあげたものです。36歳になってはじめての入選でした。決して早い画壇への登場ではありません。日本画家の場合は、院展に入選して絵かきの仲間とみとめられ、作品にも値段がつくようになりますが、絵が売れるわけではありません。栗山の苦しい生活はまだまだつづきます。1回入選しただけでは、どうということはありません。連続入選すると、実力のある画家とされるのです。休むひまなく、栗山は新しい画題を決めて、次に出品する絵に取組みました。

*下記の作品は亡くなった家内の実家にあった作品です。リンゴ台風の際に吹き飛ばされた屋根を修理する際に天井裏から出てきた作品にひとつで、痛んでいた表具を当方で改装しました。



夢中で絵をかく毎日を送っている栗山に、大へんな難問がつきつきけられました。師匠の近藤先生が日本美術院をはなれるというのです。そうなれば、弟子もいっしょにはなれるのが普通です。でも、栗山は院展の画家として、ようやく第一歩をふみ出したばかりです。「苦しんで苦しんで考えたのですが、わたしは先生と行動を共にはできません。美術院に残ります。」最初の志をつらぬいて、栗山は最後まで院展に出品しつづけました。

*下記の作品は当方で骨董店で買い求めた作品です。



師匠を失った栗山は、血の出るような努力によって院展に連続入選をはたし、仲間たちをおどろかせました。そして昭和11年(1936)に、美術院研究会員となり、次の年の研究会展では「雨後」が横山大観賞となりました。それを機会に、安田靱彦の教えを受けるようになりました。さらに、14年には院友となっています。栗山は、実力のある画家となったのです。



初入選以来、連続入選30回、43年(1968)には特待・無鑑査になりました。戦争がおわる少し前の20年4月に、48歳の栗山は京都から五城目町に帰りました。よく年秋には、一日市町(今の八郎潟町)に移りました。郷里に住んだ栗山は、秋田の風景と行事と伝承芸能を、描きつづけます。わき目もふらず、秋田を日本画の筆で追いつづけ、たくさんのすばらしい作品を生み出しました。院展特待・無鑑査となったのも、連続入選だけでなく、郷里に住んで栗山でなければ出来ない絵の境地を見つけたからだともいえます。栗山は、いつも五城目市をスケッチしていましたが、市の人びとを描いた作品がたくさんあります。番楽・盆踊り・なまはげ・竿灯などの行事や芸能、森山・八郎潟・十和田湖などの風景が、栗山の絵の中で特に目を引く作品です。

*下記の作品は大作で八郎潟の生活風景を描いた作品です。舘岡栗山の傑作のひとつでしょう。民俗資料としても舘岡栗山の作品は価値があります。



栗山句碑(雀館公園) 絵のほかに力を入れたのは俳句でした。若い時に北嶋南五に教えられて俳句をはじめ、馬場目の俳人草皆五沼と句作にはげんだこともあり、俳句にそえる俳画にも筆をふるいました。雀館公園の高崎が見える広場に、栗山の句碑があります。短歌も若いころに五城目の歌人中村徳也と学んだことがあり、短歌会をつくっています。秋田県内の展覧会の審査員をつとめたり、県内の日本画家の会をつくって勉強しあったり、湖東部のニュースを集めて新聞を発行したり、栗山の活躍は絵筆だけではないひろがりを持っていました。

昭和53年10月16日、81歳で亡くなりましたが、病床にあっても、「思いっきり大きい、踊りの絵をかきたい。何百人の群衆が踊っている、大きな大きな屏風絵をかいてみたい。」といい、心は絵のことでいっぱいでした。

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舘岡栗山の作品には即興で描いた作品も多く出来不出来の多くあると評される舘岡栗山の作品ですが、現在では書き込みの少ない作品は1000円でも売れない作品があります。舘岡栗山を知ららい方がほとんどの首都圏も売ろうとするとそうなりまし、地元でも知っている人が少なくなり、年々評価は下がっているものと危惧しています。

当方で所有する作品を掲載しましたが、ただ他にもいい作品があります。多作ゆえ出来の悪いものも多いので、それで舘岡栗山を評価しないよう願いたいものです。



人知れずいい作品を遺している画家の作品を選別しながら蒐集するのが健康的な蒐集の仕方だと思っています。

一流の画家の作品は一流のお値段、むろん当方のようにチャレンジすることは否定しませんが、当たりはずれがあるのでめげないで勉強する姿勢を持ち続けることができるかどうか・・・。精神衛生上、資金の上でもタフさが必要ですから、意外に人にあまり知られていない画家の優品を蒐集するのが健康にはいいと思います。

酔李白図 蓑虫山人筆 その20

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息子が熱・・、どうも風邪らしい。ここ1週間ほど怪しかったのだが、とうとう熱を出して幼稚園もお休み。添い寝していた家内も私もどうもおかしい・・。作品の整理、ブログの原稿作成もせず休養・・。

本日紹介する作品は、郷里の画家も描いている李白が酔っている姿を蓑虫山人が描いた作品です。

酔李白図 蓑虫山人筆 その20
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合誂箱 
全体サイズ:横465*縦1500 画サイズ:横417*縦680



「明治丙戌春山水図 蓑虫山人筆 その19」と同時にインターネットオークションに出品されていた3点の作品のひとつ。3点の内2点を落札しています。



同時期の作品と推察されますので明治19年頃の作品と思われます。やはり郷里の近くに滞在していた頃の作と思われます。 



蓑虫山人の作品の魅力は紀行文のスケッチのような思いで描いていたので、少ない筆致で洒脱な表現をしている点でしょう。



山水画も妙ですが、人物や動物の表現がコミカルで面白いものです。漫画のようでもありますね。



蓑虫山人の作品の多くは実際のものを描いたものですが、このような史実の人物を描くのは珍しいと思います。



これほどまでの省筆の作品はなかなか描けないものです。



漫画と重ね合わせて現代でもっと評価されるべき画家の一人です。



落款と印章の検証では本作品(左)と「鯉図 その4 蓑虫山人筆 その17」(右)と同一印章押印され、この鯉の作品もまた郷里の骨董店からの入手であり、同時期の作品と推察されます。

 

下記の作品は同一の画題の作品ですが、郷里の画家が描いた作品です。下記は平福穂庵の傑作と言ってよいでしょう。

李白之図 平福穂庵筆
絹本水墨着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横650*縦2080 画サイズ:横500*縦1220

 

詳細は本ブログを参考にしていただきたいのですが、当時は李白を描くことが流行っていたのでしょうか?

下記は寺崎廣業の小点ながら佳作のひとつでしょう。通り一遍の山水画の多い寺崎廣業ですので、このような佳作は希少です。

桃下唐人図→酔李白図 寺崎廣業筆
絖本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱入 
全体サイズ:横290*縦1180 画サイズ:横170*縦225

 

いずれの画家も酒好きというのが共通しているようです。

風邪には酒を飲んで寝るのが一番かな・・。



天龍青磁 双耳花入

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政治の世界、もとい青磁の世界に立ち入ることは生半可なことではないようです。小生は外からちらりとのぞき見する程度ですので、あまり深く考えないで本ブログをお読みください。

さてよく聞く「天龍青磁」に属すると思われる作品の紹介です。家内に「天龍青磁を知っている?」ときたら「知らない1」だと・・・。「砧青磁」は知っているらしいが、「七官青磁は?」と聞いたら「聞いたことがる。」だと・・。世間一般は青磁に関する知識はその程度らしい。

天龍青磁 双耳花入
口縁金繕補修・底水割れ補修有 合箱
口径110*最大胴幅110*高さ240*底径

 

天龍青磁とは中国龍泉窯で元から明時代にかけて作られた青磁で、釉色がやや沈んだ暗緑色の青磁のことです。



その名は、京都の天竜寺にこの手の青磁の香炉があったからとも言われています。



実際のところ明から清朝への青磁の見極めは難しいと思います。産地は龍泉窯から景徳鎮へ移り、陶工も移動していますのでその見極めは煩雑のように思います。



日本に舶載された中国の青磁は、ほぼ時代順に砧青磁(南宋~元)、天竜寺青磁(元~明初)、七官青磁(それ以)の3種に区別されますが、砧青磁は青磁の一級品で数が少なく、むろん入手は極めて困難です。

*本作品の底は窯割れでしょうか傷の補修跡があります。水漏れがあったとすると発掘品の可能性が高くなります。



七官青磁は最晩期の明代中期から後期に焼かれたもので、淡い青緑色を帯びた透明性の強い青磁釉がかかり、青磁としては粗製に属し、格調に乏しい作品群です。訳の分からない青磁を「七官青磁かな?」と判断していると害はありません。



龍泉窯では明時代からは大型の作品が作られ、胎土が不足し作品が粗雑となり、陶磁器の主流は景徳鎮への移行し、陶工もまた景徳鎮への移り住んだようです。その移行期が天龍青磁のようです。



その後の青磁が一括して七官青磁と称されますが。粗雑とはいえ江戸時代に茶人が用いた花生、香炉、香合などが伝存しています。なお七官の名称の由来は、これをもたらした中国人の名前、あるいは位階とする諸説がありますが、定説は不詳ということのようです。



本作品は七官青磁ほど野暮ったくなく、とはいえ胎土と釉薬から一級品とは言えず、天龍青磁に分類してみました。窯割れなどがありますが、本来は破棄されたものかもしれません。前述のように発掘品を補修して花入れに用いたものと推定しています。「媚びた」作品とは言えず、味わいのある作品と判断しています。

他の所蔵作品より「七官青磁」 

七官青磁花入
口径76*胴径150*底高台径87*高さ347



当方では「大砲の弾」と称している作品です。本ブログに投稿していますが、ずいぶん前に二束三文で入手した作品です。今ではそれなりのお値段らしい・・。

下記の作品も本ブログで紹介されている作品です。鎹で繕われているところが見どころにもなっています。

天龍青磁源氏香紋三足鉢 明時代
古箱入
口径215*胴径235*高さ70



下記の作品は言わずと知れた静嘉堂文庫美術館蔵の利休所持青「磁鯱耳花入(千利休所持「砧花入」です。

青磁鯱耳花入(砧花入)
龍泉窯 南宋時代 13世紀
寸法高26.3cm 胴径11.6cm



砧青磁は一級品ですが、天龍青磁として本作品も見劣りするものではありません。ともかく物の本質は製作年代、真贋ではなくものの良し悪しそのものということを忘れないようにしたいものです。政治、もとい青磁は正道そのもの、物の良し悪しを決めるのは真贋ではない。



青磁のいい作品はなかなかないものです。



手前味噌ですが、このような青磁作品を見つけるのは非常に困難です。



七官青磁は別として、砧、天龍青磁はすきったして品の良いフォルムの作品がいいでしょう。

訳の分からぬ作品 不動明王ノ水虎図 川端龍子筆 その5

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本日は日帰りで名古屋に出張です。いよいよ年の瀬の全国行脚の始まりです・・・。

こさて本日のこの作品、面白いので入手しましたが、真贋となると怪しい・・? 川端紀美子極となるとさらに怪しい・・・??? ともかくなにもかもが怪しい・・・・??????

不動明王ノ水虎図 伝川端龍子筆 その5
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 共箱 川端紀美子極
全体サイズ:縦1630*横430  画サイズ:縦770*横300

 

水虎=河童?と不動明王・・・、インターネット上で検索すると下記の写真が出てています。



河童寺なるもののあるらしい・・。



聞きなれない「水虎」はインターネット上の記事には下記のように記載されています。

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水虎(すいこ):日本の妖怪。川や海などの水辺に住み、人を水中に引きずり込む。河童の一種とされる場合もある。中国の伝承に由来するものともいわれる。

日本には本来、中国の水虎に相当する妖怪はいないが、中国の水虎が日本に伝えられた際、日本の著名な水の妖怪である河童と混同され、日本独自の水虎像が作り上げられている。 日本では水虎は河童によく似た妖怪、もしくは河童の一種とされ、河童同様に川、湖、海などの水辺に住んでいるとされる。

体は河童よりも大柄かつ獰猛で、人の命を奪う点から、河童よりずっと恐ろしい存在とされる。 長崎県では年に一度、人間を水中に引き込んで生き血を吸い、霊魂を食べて死体にして返すという。

青森県では子供ばかりを襲い、水遊びをしている子供を水中に引き込み、命を奪うという。

琵琶湖付近や九州の筑後川付近では、水虎が夜更けに悪戯で人家の戸を叩いたり、人に憑くこともあるという。

水虎が人間を襲う理由は、水虎が龍宮の眷属であり、自分の名誉を上げるためとされる。また水虎は48匹の河童の親分であり、河童が人間に悪事を働くのも自分の地位を水虎に上げてもらうためとされる。

撃退する方法として、水虎に血を吸われた人間の遺体を葬らずに、畑の中に草庵(草で作った簡易な小屋)を作り、その中に遺体を板に乗せて置いておくという方法がある。このようにすると、この人間の血を吸った水虎は草庵の周囲をぐるぐる回り始め、遺体が腐敗するに従い、水虎の肉体も腐敗するとされる。

水虎は身を隠す術を使うため、姿を見せずに声が聞こえるのみだが、水虎の体が腐りきって死に至ると、ようやく姿を現すのだという。 また、水虎を避ける方法として、家に鎌を立てかけておく、麻殻や大角豆を家の外に撒くなどの方法もある。 地方によって水虎は河童の別名のような感覚で用いられており、水虎を捕獲したという記録が、河童状の絵とともに残されている事例もある。

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要は人に危害を加える妖怪・・。



それと不動明王がどう結びつくのかは不明です。



にしても川端龍子らしい面白い作品ですね。

箱書きと鑑定書付は下記のとおりです。

*川端紀美子は川端龍子の三女のことです。

  

印章と落款は下記のとおりで落款、印章から昭和30年以降、晩年の作と推定しています。

*なお川端龍子の印章はよくまねしたものがあります。また「工芸印」を「真印」として間違って?扱っている方もいますので注意が必要です。

 

展示室の廊下に飾ると息子がまた怖がって廊下を通らなくなるかもしれません。



それはそれで趣味に没頭する小生が息子に邪魔されず効用があるというもの・・。河童の恩恵か??? 

氏素性の解らぬ作品 書 「藿」 天龍道人?筆 (その38) 

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一時期は天龍道人の作品を入手するのはまったく問題無かったのですが、今は品薄?で非常に入手が困難となっています。葡萄図、鷹図が代表的な作例ですが、鷹図や着色された作品を見かけることがまったくなくなりました。なぜでしょう?

そんな品薄にしびれをきらして購入した作品の紹介です。どうも葡萄図で有名な天龍道人ではないような気がします。

書「藿」 天龍道人筆 
紙本水墨軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1220*横600 画サイズ:縦*横



葵藿の志(きかくのこころざし):ひまわりの花や豆の葉が日に向かって回るように、徳の高い人を慕い、心を寄せること。
▷葵=ひまわり。藿=豆の葉。
出典:我葵藿志、松柏眼前横〔洪淹-詩〕類葵藿陽に傾く。

茶掛けに良いと思って入手しましたが、天龍道人の作品か否かは検証中です。



茶掛けとしての表具もまあまあでしょう。勤王の志でもあったと伝えられている天龍道人。そういう観点からも興味深い書だと思ってのですが・・・。

「天下傾状葵藿心 □峰天龍道人 押印」・・、現在の判読はここまで。

なお手前に置いてあるのは桃山期の織部獅子香炉(真作)です。



押印類は下記のとおりです。天龍道人としては類例のない天龍道人の押印類ですが、天龍道人の姓の「王」の字が読み取れます。なお天龍道人という呼称は70歳頃からです。

  

天龍道人か別人か? 書としてそれなりに良さそうですので、茶掛けしては普段使いには使えるでしょう。

さて「道人の名を不朽にしたのは、勤王の志ではなく葡萄(ぶどう)と鷹の絵事による。」・・・という評が天龍道人にはありますね。

*骨董の世界は割り切ると個人では所有者の判断に真贋は委ねられており、誰の作であろうと気に入っている者には価値がある。でも誰の書だろう・・・??

月と小魚 福田豊四郎筆 その88

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福田豊四郎の作品がそろそろ百作品になろうとしています。まだまだ不十分ですが製作年代毎、画題毎にだいたいの作品は揃ってきたので、これからは優品の絞っての蒐集の段階に入ろうと思っています。

本日紹介する作品は福田豊四郎の作品としては大きな作品(F25号)で、福田豊四郎の戦前の頃の代表作といってよい作品だと思います。

月と小魚 福田豊四郎筆 その88
絹本着色額装 黄袋タトウ入
全体サイズ:横1085*縦895 画サイズ:横830*縦640 F25号



インターネットオークションで3万円ほどでの入手です。落款から真作と判断されますが、印章は見慣れない印章です。ただ戦前は多種の印章を用いており、これによって贋作と判断するのは早計です。

*この記事の下原稿を作成後に、郷里の馴染みの骨董店(福田豊四郎を専門に取り扱うお店)でこの作品の話をしたら、「25号の大きさの作品は展覧会の出品作の可能性がある、」と言い出し調べてくれました。その時の下記の画集(昭和16年発刊)をすぐに取り出しました。



その中に掲載されているまさにその作品が本作品でした。



昭和11年5月の描かれた作品のようです。この画集から題名が「月と小魚」と判明し、題名から作品上部の丸いのは月を表したものだと判明しました。



この作品と同じ画題で描いた作品は本ブログで投稿されています。「福田豊四郎 その53」として投稿された「水藻の花」です。落款からほぼ同年代の作品と推察されますが、印章から察すると昭和13年頃の作か?

水藻の花 福田豊四郎筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱入
全体サイズ:横663*縦1418 画サイズ:横513*縦405



こちらの作品は箱書きがありが、箱書きは戦後になってからのものです。このような制作年代の判断は知識は経験を積むと自然に身に付くものですが、これも福田豊四郎の所蔵作品が大小含めて100点に届くようになってきた経緯によるものです。

「水藻の花(右)」と「月と小魚左)」の落款の比較は下記のとおりです。ちょっと違いがあるように見えますが、その他の作品の落款にはもっと近似したものがあります。もちろんともに真作です。

 

なお以前に「なんでも鑑定団」に「馬」を描いた福田豊四郎の屏風の作品が郷里のコレクターから出品され、贋作と判断されましたがこ「の作品は真作ではないか。」という見解が郷里にはあります。



*現在は矢立峠にあるリフォームされた日景温泉の旅館に展示されているかもしれません。

小生としてはこの作品は戦後の抽象的に描く晩年の作なので、「なんでも鑑定団」の判断にも一理あるようにも思えますが、作品そのものを観ていないので判断がつきません。



共シールもない、印章も珍しい作品、これを出来と落款から真作と判断して入手。(後日の入手の画集と照らし合わせると印章も落款と画集と一致しています。)

いくら安いとはいえ(おそらく高くても購入したでしょう。)このような判断ができるのは日頃から積極的に入手に前向きな結果だと思います。知識が先行して、贋作を恐れて尻込みするとこのような購入はあり得ないことです。そのような蒐集家が一般的になりつつありますが・・・。



大きさもあり見ごたえのする作品です。福田豊四郎の作品は戦後の抽象的な作品が好きな方と戦前のノスタルジック色の強い絵が好きな方とに二分されるようですが、この作品は戦前のノスタルジックな画風の強い時期の作品に属するものです。



有名な「富士の裾野の柿田川にあるミシマバイカモ」を描いた作品かもしれません。そのような記録は見当たらないのですが、この当時から富士をよく描いていたのでその可能性は高いと思います。



清い清流に故郷を思い馳せたのではないのでしょうか? 飾って観ていると子供の頃に郷里の清流で遊んでいたのを思い出します。



偶然にも先月は柿田川を見に行ってきましたので、これも何かの縁なのでしょう。

*郷里の骨董店のご主人はこの作品が3万円?とびっくりしており、「いい買い物しましたね。」と掲載されている画集をくれると言い出し、さらに「そのような得な買い物をなさったたのなら、こちらの福田豊四郎の作品を安くしておきますからお買いなさい。」という状況になり、ひと作品を買う羽目になりました。その作品は16万円なり・・、本作品の買い物が安くついたか高くついたか・・??、骨董の蒐集は魑魅魍魎

購入した作品の紹介はまたいずれ・・。兎を描いた作品です。


少将軍 岡本大更筆 その2

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さてそろそろ息子の七五三です。小生が七五三で着ていた着物を男の隠れ家の箪笥から家内が見つけ出してきて、仕立て直しをして出来上がったようです。もうかれこれ半世紀以上前の着物・・、これも骨董に近くなってきた??



小生が着ていた着物は北国仕様・・、綿入りの厚手。そこで着物屋さんと打ち合わせして着物を羽織に仕立て直したようです。裏面は能の翁の文様。吉祥文様で長寿祈願、そして福の神かな?



最近入手した平野富山の「翁舞」の作品・・、これも何かの縁でしょう。下記の作品紹介は近日中に紹介します。



さて掛け軸というのはかなりの割で吉祥の作品を描くものです。息子の成長に合わせて当方も幾つかの幾つかの作品を新たに蒐集することになりましたが、本日紹介する作品はそのような吉祥の意図のある作品です。

少将軍 岡本大更筆
絹本着色軸装 軸先木製 共箱 
全体サイズ:縦2097*横481 画サイズ:縦1218*横356



少将軍というのは単に兜をかぶった幼少の男の子を指しているようです。端午の節句の祝いに飾った作品ではないでしょうか?

 

展示室には左に武雄焼の三島手の大皿、右手の古備前の壺を飾りました。



端午の節句につきものの弓と矢・・・。



顔の部分にいたずら書き? 消そうとしてたが消えない? これもまた掛け軸の歴史のようなものでしょう。



作品中の落款と印章は下記のとおりです。

 

共箱の箱書きと落款、印章は下記のとおりです。このような作品は依頼されて描くことが多いのですが、そのような為書きは記されていませんね。

 

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岡本大更(おかもとたいこう):明治12年(1879) 三重県名張郡滝之原に生れる。幼少より絵を好んだが、家が貧しく師に就けず、大阪に出て独学で画法を学んで花鳥画で文展に入選した。その後は人物画にも画風を広げて、画塾「更彩画塾」を開き、後進を指導 育成し、また大阪市美術協会の評議員などを務め大阪画壇で活躍した。戦時中の昭和19年には後妻の郷里である香川県豊島に疎開したが、翌年の昭和20年終戦後の12月に豊島で没した。昭和20年(1945)没。 享年 66才。



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岡本大更は画集が出版されおり、更園、更生らも掲載されているようです。

*岡本更生については下記の作品の箱書をしている岡本大更の長男であり、土田麦僊に師事した画家です。

 

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岡本更園(おかもとこうえん):日本画家。明治28年(1895)兵庫県生。本名は延子。姓は岡本の他に星野・大江。最初は義兄・岡本大更の更彩画塾で学び、後に鏑木清方や西山翠嶂に師事する。新聞・雑誌の挿絵も担当した。大阪女流画壇の中心人物として美人画を得意とした。島成園や生田花朝女らと親交があった。歿年未詳。
大正14年(1925年)1月に木谷千種、星野更園、三露千鈴らを会員、日本画家北野恒富、菊池契月らを顧問とする「向日会」を結成。




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最近の展示室の様子です。



休日に展示室の飾りつけをしていると息子がやってきて「寂しい~」だと・・。



最近の週末は出かけることが多かったこと、先週はそこで趣味の方にウエイトを置き過ぎたようで、子供の相手がなおざりになったようです。

さて本日は胃と腸のカメラによる検診です。二年に一回はカメラで検診するようにしていますが、いつもながら下剤との闘いで気の重い検査です。

納涼美人図 中村大三郎筆 その2

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父が描いた風景画の作品ですが、暗い感じのする作品なので明るい額のマットに交換しようと思い、男の隠れ家から持ち帰っています。



闘病して亡くなった父ですが、亡くなる前は福田豊四郎氏と連絡をとりながら絵筆をとって愉しんでいたようです。ただ病気のせいか、暗い感じする絵がいくつかあり、少しは明るくして飾ってあげようかと思っています。

本日は久方ぶりに?美人画の作品の紹介です。

納涼美人図 中村大三郎筆 その2
絹本着色軸装 軸先木製 合箱二重箱
全体サイズ:縦12400*横500 画サイズ;縦347*横393

 

「納涼美人図」というのは当方での題した仮題です。当方の書斎にある小さな床の間に飾っています。



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中村大三郎:明治31年生まれ、昭和22年没。享年55歳。京都生まれ。染色関係に従事する家の長男として生まれる。京都市立絵画専門学校卒。

西山翠嶂に師事し、師の女婿となる。

在学中の大正7年文展発入選、のちに帝展で特選二回。福田平八郎、堂本印象らとともに京都画壇の若手三羽烏と呼ばれていた。昭和11年母校京都市立絵画専門学校で教授を務めた。大三郎様式ともいわれた美人画で人気を博した。能楽に造詣が深く、能楽を題材にした荘厳で静寂な美を表現した作品にも取り組んでいる。

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中村大三郎の代表作品は下記の作品が思い浮かびます。

《ピアノ》中村大三郎 1926年(大正15年) 京都市美術館所蔵



さても振袖にグランドピアノでは弾きづらいと思うのだが・・・。



本ブログで取り上げている西山翠嶂は義父にあたりますね。



福田平八郎、堂本印象らとともに京都画壇の若手三羽烏と呼ばれていたそうですが、子の二人より知名度は落ちる感がします。



中村大三郎様式と呼ばれた美人画は独特の雰囲気があります。



本作品はそれほど大きな作品ではありませんが、中村大三郎の作品の美人画の特徴をよく表した作品といえるでしょう。



中村大三郎の作品は幾つか入手したり、売却したりしましたが、意外に共箱は少ないように思います。処分した理由は中村大三郎の作風が好みに合うかどうかの問題でした。



美人画にはそれなりの似合った表具が必要です。



落款と印章は下記のとおりです。



さて各人がそうでしょうが、美人画には各々で好みがありますね。中村大三郎の絵には独特の雰囲気があります。この作風が好みかどうかは意見の分かれるところでしょう。

会寧焼(李朝後期?) その2 会寧斑染付壺 

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陶磁器の整理して保管する場所は主に展示室の屋根裏です。



古くからあった布団などを収納していた長持を収納用に補強して陶磁器の保管箱にしています。開けない時は隅の方に置いておきます。



鉄板を加工して長持全体を補強し、下には簀の子の小さなものに車輪を付けて移動しやすくし、さらに蓋はストッパーを付けて開かけた状態を保てるようにしてあります。



軽く押すだけで必要な時に引き出せるようになっています。徐々に長持別に収納する作品を分類していくようにしています。日本の作品、中国の作品、赤絵の作品、民芸作品となどに分けるとどこに何が収納されているか瞬時に判断できて便利です。

まだまだ整理段階ですが、いい作品ばかり遺して整頓しておこうかと思っています。

さて本日の作品はどこにでもありそうな民芸の器。ただ力強さと失透釉による景色の良さに見とれて購入したものです。

会寧焼(李朝後期?) 会寧斑染付壺 
誂箱
口径*胴径150*高台径*高さ118



以前に紹介した「会寧焼 紅斑鉢」はもともと家にあった作品で知り合いからの戴き物。会寧窯については李朝と同じく当方では門外漢なので、最近になって初めって知った作品群です。



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会寧窯:北朝鮮咸鏡北道会寧で産した陶器。 13世紀頃から近代まで,中国陶磁の影響を受けて雑器を焼いてきたが,北朝鮮治下の現況は不明。現存する作品は李朝中期からのものが多い。大振りの壺,鉢,碗,片口などを焼き,あらい胎土で肉が厚く,黄褐色や黒の釉 (うわぐすり) をかける。民窯として名高い。

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要は雑記。筆立てくらいには使えるだろうと思っています。呉須の釉が意図的に掛けられた作品ではなく、火で飛んで移ったように思われます。



要は雑器・・・、ゆえに美しい・・・・???



なんとも失透釉が美しい武骨な作品です。当方は衝動買いですが、興味のある方は調べてみて下さい。



この作品は分類して屋根裏に保管しておくよりも普段のデスクで使っています。



当方では骨董について作品、収納は実用性を重んじますが、いまだにデスク上の作品が会寧窯の作だとは誰も気がつきません。他は伊万里、三田青磁を筆立にしています。

翁舞 平野富山作 その3

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先週の週末は天気も良く、畑で採れた落花生の天日干しが始まりました。



愛犬も昼寝、小生も車の出口を塞がれて家でゴロゴロ・・・。息子は元気に天日干しのお手伝い・・・。



さて本日は平野富山の作品の紹介です。平櫛田中の「大黒天」の作品から当方では興味を抱いた平野富山の作品ですが、この度代表作ともいえる作品が入手できたので紹介します。

翁舞 平野富山作 その3
平野千里識・共箱二重箱・布保護ケース付
本体:幅370*奥行185*高さ450



平野富山の作品で「翁舞」の作品はときおり見かけますが、大きさがこれほどの作品はなかなかありません。また平野富山の彩色はその緻密さが特徴で、彩色文様に乱れのある作品は贋作と考えてよいでしょう。とくに平櫛田中の「大黒天」の多くが平野富山(敬吉)によりますので、平櫛田中の真贋の見極めにも彩色分が大きなポイントになります。

*平櫛田中の大黒天のすべてが平野富山の彩色であるかどうかは当方として調査が必要で、彩色が平野富山ではないもののあるかもしれません。



「翁舞」は充分な大きさのある平野富山の代表作のひとつ。静岡市美術館にも展示されており、またなんでも鑑定団情報局にも代表作として紹介されている作品です。

静岡市美術館において展示された作品は下記の写真の作品です。

 

なんでも鑑定団に出品された作品の説明に用いられた作品は下記の写真の作品です。



「翁舞」の作品は衣装の文様や面に違いある同様の作品がいくつかありますが、前述のように本作品はその中でもとくに出来の良い作品となっています。またこれより小さめの作品もあるようです。



彫像に衣裳を着せたかのように綿密に作られ、紐もまるで本物のようで富山の確かな木彫技術に驚かされます。



緻密で美しい文様に圧倒され、衣裳のたわみに沿って、実に見事につじつまが合っています。衣裳を本物と見間違えてしまうのは、木彫技術の正確さに加え、この素晴らしい彩色に理由があります。



翁舞(おきなまい):日本の伝統芸能の舞。現在の能楽の原典とされる他、民俗芸能として各地に伝えられています。長寿の翁が人々の安寧を祈って舞います。



古くは田楽や猿楽、あるいは人形浄瑠璃、歌舞伎、また民俗芸能などでも演じられる儀式的祝言曲であり、芸能本来の目的の一つに人の延命を願うことがありますが、その表現として翁媼を登場させることがあったものと考えられています。しかし、面を付け舞や語りを演じる芸能は猿楽が最初であり、翁猿楽とか式三番と称されました。



翁猿楽の成立については、『法華五部九巻書』序品第一に、父叟は仏を、翁は文殊を、三番は弥勒をかたどるなどの仏教的解説があり、平安時代後期には成立していたとする説もありますが、『法華五部九巻書』を偽書とする説もある。確実な史料としては、弘安6年(1283年)の「春日若宮の臨時祭礼記」があげられ、舞楽・田楽・細男とともに、児・翁面・三番猿楽・冠者・父允を一組とする翁猿楽が演じられたとされており、このころ翁舞の一つの形式が成立しました。



この翁の芸能が、どのような系譜に根ざしているか不明な部分も多いのですが、『大乗院寺社雑事記』や『興福寺明王院記録』によると、興福寺修二会での鎮守神たる春日大宮の前で演じる猿楽が呪師走りと称され、また延暦寺の修正会でも、鎮守日吉大社で翁舞が演じられるなどの例があり、平安時代中期以降に大寺社の修正会・修二会などに守護神を祀る後戸で演じられた呪師猿楽の芸能として発展したものと推測されています。



呪師の芸と翁舞の内容が「天下安全五穀豊穣」を祈願することでは共通していることから、修二会に奉仕する呪師の芸に始まりのちに猿楽者が呪師に代わって演じるようになったものと考えられています。室町時代の猿楽の座は、この宗教色の濃い翁猿楽を本芸として各地の寺社の祭礼に参勤し楽頭職を得ていたとされ、今日の能楽は、その余興芸とも言えるのでしょう。



また、その古い形態を残す翁舞を民俗芸能として伝える地が数多くあります。奈良県奈良市奈良坂町にある奈良豆比古神社に伝わる翁舞は、三人の翁が登場して舞いますが、舞姿に残る古風は得がたいものがあります。兵庫県神戸市須磨区の車大歳神社の翁舞は室町時代に成立した能の翁(式三番)が、千歳(露払い)・翁・三番叟(揉ノ段、鈴ノ段)という構成であるのに対し、露払い、翁、三番叟、父の尉で構成され、父の尉を省略しない古い形態を伝えています。



兵庫県加東市上鴨川の住吉神社で行われる上鴨川住吉神社神事舞では、能の先行芸である呪師の芸の方固めにつけながる、太刀舞・獅子・田楽舞・扇舞・高足など田楽ゆかりの芸も伝えられ、翁舞はいど・万蔵楽・六ぶん・翁・たからもの・冠者・父の尉の七つの舞から構成されています。初期の翁舞がそのままの形で承け継がれている稀有な例のようです。猿楽能が人気を得、集大成されたものとされています。



とにかく簡単に言うと、長寿を願って舞う伝統芸能でしょう。



吉祥の作品ということで作品の注文も多かったのでしょう。また平野富山は同じモデルの作品を40~50体作ったそうですから、その点からも作品の数が多いと推測されます。ただ、それゆえ祀ることで、ながらく飾っておくと湿気でカビが発生することが多く、完璧なコンディションで残っている作品は少ないとされています。



彫刻家として名高い子息の平野千里の識箱に納まり、さらに共箱もきちんとしている完品の作品は珍しいと思います。

  

  

インターネットオークションで30万ほどにて落札した作品ですが、同時に「童形大黒天福童子」が出品されており、そちらは55万円ほどで落札されました。さすがに両方は入手できませんでした。

平野富山の作品は本ブログで2作品ほどすでに紹介していますので、平野富山についての説明はそちらの作品の記事をご覧ください。また平櫛田中の大黒天の作品における彩色についても説明があります。



本ブログで投稿されている作品には下記の作品があります。

桃太郎の鬼退治 平野富山作 その1
ガラスケース入
ケース:幅590*奥行550*高さ550 本体:幅340*奥行280*高さ255



弁財天 平野富山作 その2
ガラスケース入
ケース:幅400*奥行365*高さ450 本体:幅175*奥行155*高さ230



福聚大黒天尊像 その1&その2 伝平櫛田中作
共箱
その2:高さ165*幅180*奥行
その1:高さ115*幅115*奥行100



市場には大黒天の作品が多く、吉祥の作品として重宝されていますが、あくまでも平野富山の作品の真骨頂はその彩色の美にあり、日本古来の美がそこのあるように思います。



義父の誕生日もあり長寿を願い、そして「天下安全五穀豊穣」=「家内安全一家繁栄」、しばし展示室に飾っておくことにしました。



基本的に当方の骨董蒐集の多くは願い・・・。

さ~て、本日は広島の日帰り出張です。

色紙 自画像 向井潤吉筆

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以前に紹介した下記の作品ですが、額を替えて保存箱も出来上がりました。

庭に腰掛ける婦人 エルネスト・ローラン画
左下サイン Ernest Laurent
画サイズ:縦610*横500 F12号



さて洋画は当方の蒐集対象ではありませんが、本日紹介する画家もまた基本的には洋画家です。

「民家の向井」と称される向井潤吉ですが、油絵の作品は非常に人気が高く、小生の好きな画家のひとりですがまだ作品を入手できていません。このたび色紙に描いた自画像の作品を入手しましたので紹介します。

色紙 自画像 向井潤吉筆
紙本水墨淡彩 色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240



服装から察すると戦争中の従軍中に描いた作品かもしれません。1937年(昭和12年 36歳)~1938年に中国大陸に従軍、1944年(昭和19年 43歳)にはインパール作戦に同行しビルマまで従軍しています。帰国後は軍需生産美術推進隊隊員として、各地の炭坑で制作を続けており、この頃の作品と思われます。戦後は代表的な民家を描いた作品を描きます。

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向井 潤吉(むかい じゅんきち):1901年(明治34年)11月30日~1995年(平成7年)11月14日)は日本の洋画家。戦前から戦後にかけて活躍、40年以上に渡り北海道から鹿児島までを旅し、生涯古い民家の絵を描き続け「民家の向井」と呼ばれた洋画家であった。弟は彫刻家でマネキン制作会社「七彩」初代社長の向井良吉、長男は元TBSディレクターで萩本欽一を育てた事で有名な向井爽也。



生い立ち:京都市下京区仏光寺通に父・才吉と母・津禰の長男として生まれる。父はもともと宮大工の家柄で東本願寺の建築にも関わった。潤吉が物心ついた頃には、家で10人近い職人を雇い輸出向けの刺繍屏風や衝立を製造していた。1914年(大正3年)4月、父と日本画を学ぶことを約して京都市立美術工芸学校予科に入学するが、2年後どうしても油絵が描きたくて父の反対を押し切って中退、「家業を手伝いながら」という条件で関西美術院に入り、4年間学ぶ。1919年(大正8年)、二科会第6回展に初入選。翌年家に無断で上京、半年ほど新聞配達で働きながら川端画学校に通うが、年内には再び京都に戻る。



フランス留学と戦争画:1927年(昭和2年)、当時最も安い経路だったシベリア鉄道を使いフランスへ向かう。滞仏中は、午前中はルーブル美術館で模写、午後は自由制作、夜はアカデミー・ド・ラ・ショーミエールで素描をおこなうのが日課であった。潤吉は後年「私の如き貧乏の画学生には、費用のかからないそして自由に名画に接し得られる美術館での勉強はまことに有り難かった」と述懐している。模写した作品はヴェネツィア派からバロック絵画にかけての作品が目に付く他、コローの作品が多い。その一方で、スーティンやココシュカを想起させる荒々しい筆触の作品も描いており、フォーヴィスムへの接近を色濃く感じさせる。



3年後の1930年(昭和5年)に帰国し、模写の展覧会を開く。同年結婚、また、二科会に渡欧中に制作したフォーヴィスム調の作品11点を出品、樗牛賞を受ける。1933年(昭和8年)、東京都世田谷区弦巻に転居し、以後没年まで居住する。1937年(昭和12年)、個人の資格で中国の天津、北京、大同方面に従軍、1938年(昭和13年)、大日本陸軍従軍画家協会が設立されると、潤吉も会員となり戦争画を描く。1944年(昭和19年)インパール作戦に同作品を記録するため作家・火野葦平と共に従軍、2人は協力して危険をくぐり抜けビルマまで戻っている。帰国後は軍需生産美術推進隊隊員として、各地の炭坑で制作を続けた。



「民家の向井」:戦争末期、爆撃のためしばしば防空壕に逃れる生活をするなか、ふと手にとった図録から民家の美しさに気付き、戦火のなか失われようとする美しいものを絵に残したいという思いを強くしていった。終戦後の1945年(昭和20年)11月、行動美術協会を設立。同年秋、新潟県川口村で取材した作品「雨」(個人蔵)を制作、以後生涯の主題として草屋根の民家を描き続ける。しかし、初期の頃は労働や生活の現場を画面に取り込んだ作風を見せ、いかにも潤吉らしい民家作品としての作風が確立するのは昭和30年代に入ってからのようである。1993年(平成5年)5月、世田谷区に自宅を兼ねたアトリエとその土地、ならびに所蔵の作品を寄贈、同年7月、世田谷美術館の分館として向井潤吉アトリエ館が開館する。1995年(平成7年)、急性肺炎のため自宅で逝去。93歳没。



作風:戦後の高度経済成長により次第に伝統的家屋が失われていくなか、潤吉は全国を巡り古い藁葺き屋根の家屋を描き続けた。種々の資料や潤吉自身の言葉から推定すると描き残した民家は1000軒を超え、油彩による民家作品は2000点にも及ぶとされる。1959年(昭和34年)から1988年(昭和63年)までに描いた1074点の製作記録が残っており、これによると、制作場所は埼玉県が約32%、長野県が約19%、京都府が13%と大きな偏りがあり、近畿以西は旅で訪れてはいても作品は極めて少ない。一年の内の製作時期は、2月から4月が一つのピークで、ついで10月から12月が多く、逆に8月は非常に少ない。この理由として潤吉は「民家を描くためには、繁茂した木や草が邪魔になるからであるとともに、緑という色彩が自ら不得手だと知っているからでもある。」と述べている。

*美術史家・辻惟雄は、今後も評価されるに違いない画家の一人として、潤吉の名を挙げている。

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好きな洋画家に向井潤吉と葛西四雄がいますが、田舎の山村と漁村を主に描きますが、ノスタルジックな景色の作品はいつか入手したいと思っています。人気が高くとても今まで縁がなく、まだひとつも入手できていません。

今回は自画像の作品の紹介でしたがいつかは民家を描いた作品を欲しいと思っています。今回の作品は自画像でしたがたしかな描写力を持つ画家と再認識できる作品だと思います。



額がちょっと寂しかったのでマットを交換しておきました。気に入った作品は黄袋をつけたタトウに収納するのが原則です。布張のタトウまでは欲張る必要はありませんが、絵の取り出しや中身を取り出さなくても作品が解るようにしておかないと作品を探す時にたいへんで取り出しているうちに作品を傷める可能性があります。作品の真贋を論じる方は数多くいるものの、作品の保存をきちんとしている御仁は少ないと思います。

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