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氏素性の解らぬ作品 信楽壷 その2以降

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当方が予備知識を準備している信楽焼の作品の紹介です。二度や三度、下手物を入手したからと落ち込んでいては蒐集するものの心意気として失格であり、むろん当方のチャレンジ精神は旺盛です。

氏素性の解らぬ作品 信楽壷 その2 桃山期~江戸期
誂箱入
胴径295*底径*高さ350



古信楽はやはり釉薬と胎土の変化・・。



胎土が薄くなるとまずは江戸期。自然釉が薄いと火力不足でこれも江戸期。黒ずんだ肌合いはまず江戸期で評価は数が多いためかあんり下がるようです。



口作りは時代のよって変遷していますので、一概には判断材料にはなりえませんが立ち上がりに勢いのある作品がよいようです。

*「蹲る」や「煎餅壺」のような小さめの作品は首に縄がつけられるように実用性のあるものが必須とのこと。

首周りの文様はあったほうが評価は高い。



底は下駄底。



口縁が室町中期までは上に向かって広がった形が一般的、垂直に立ち上がった形はそれ以降であり、江戸期が一般的のようです。よってこの作品は時代があっても室町後期以降、江戸期と考えるのが妥当。

首の周りに火の勢いが解るのがいいですね。



自然釉薬の流れが景色としていい出来です。





江戸期になると大量生産となり、胴の部分が薄くなり、全体のくすんだ感じとなるそうですが、本作品は厚みも十分あり、自然釉の流れも景色として面白く、江戸期としても面白い作品かと思います。



いろいろ考察していますが、現時点で本作品は桃山期~江戸期と幅広く時代を推定しています。



あくまでも信楽の作品はその景色・・・。



壷は飾り方ひとつで面白くなるが、数が多いと嫌味になる。主張しない程度がよい・・。



さて以下の二作品は下手物と判断しています。

氏素性の解らぬ作品 信楽壷 江戸期(大量生産品)
誂箱入
口径124*胴径290*底径*高さ385



信楽の壺は江戸期になると大量生産に入ったのでしょう。江戸期の作品は胎土が薄く作られ手に持った感じが軽くなります。江戸期だろうと一目見たときには思ってのですが、重さは十分ありますね。



江戸期の信楽の壺で景色に面白みの少ない作品は値が付かないそうです。まずは信楽は景色でいくらの世界のようです。



口の立ち上がりは垂直で玉縁状です。江戸期の作品の特徴のようです。



江戸期の作品は薪がもったいなかったのかよく解りませんが、灰被りで釉薬が存分に流れ落ちるような作品が少ないようです。肌の色もくすんだような色合い多いとか・・・。



信楽の魅力には自然釉薬の流れがなくても胎土そのものの魅力で魅せる作品もありますが、そこまではこの作品もたどり着いていないと言えます。



ま~、玄関の傘立てのひとつか? 壷は景色がつまらいと使い道に困るもの・・・。ただ贋作という作品ではなさそうですし、ほぼ完品なので屋根裏の隅っこに置いておくしかない。



本作品は江戸期、やはりくすんだ感じは面白みに欠ける。江戸期の大量生産品かな、底はべた底。



さて下手物の二つ目の作品への考察です。

氏素性の解らぬ作品 桧垣文信楽壷 贋作
杉箱入 
胴径245~240*底径*高さ270

古信楽といったらまず「桧垣文」ですので、桧垣文についての学習も兼ねています。桧垣文の有無で古信楽の評価はかなり違うようですが、桧垣文の古信楽の壺はそうそう簡単には入手できません。



写真の作品は口を破損してさもありそうに作られた贋作でしょう。桧垣文については下記の記事によります。

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檜垣文:作品の肩回りには二本の平行線の中に「×」印が刻まれています。こうした模様を檜垣文(ひがきもん)といいます。

通常は肩に近いところに入りますが、少し古いもので は壷の腰からやや下のあたりに檜垣文が入る場合があります。真作は不揃いですがヘラ目に勢いがあります。檜垣文は室町時代の作に多くみられます。その後は次第になくなっていった文様です。ただ現代作品にはよく見られる装飾で、信楽の1つの特徴的な文様といえるでしょう。

檜(ひのき)で作った垣根の形にちなんでこう呼ばれます。なお、檜は香りもよく高級木材として知られます。また檜を神聖視する習慣もありますし、垣根は居住空間を外敵から守るものです。よって檜垣文は当時の人々の神聖なお守りであり、無病息災や魔除け、安全・豊作祈願の思いが込められていたのかもしれませんし、檜垣文は陰陽 道などによる魔よけの×印とも考えられています。

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*真作の桧垣文は不揃いで力強く、通常は鮮明だそうです。均一、均等であったり不鮮明なものは怪しい・・。



全体にべたべたした不潔感は贋作の兆候のようです。なんでこんなに黒い? 焼成時になにか塗り付けてあるのかもしれません。



桧垣文そのものはまあまあの出来。



底はべた底、この作品に古箱を誂えていかにも古そうに見せている作品、贋作との判断です。箱以外は処分ですね。

さて口直しです。

古信楽の壺で本ブログに投稿された代表的な作例として当方で所蔵している作品に下記の作品があります。この作品は真作と確信しています。このすっきりとした形がその根拠となりますが、真作が必ずしもすっきりとした形状ではない所が難しい・・。

古信楽壷 その1 室町時代後期~江戸初期
杉箱入
口径107*胴径230*底径133*高さ295

端正な形をしていますが、流れ落ちる自然釉がこれほど見事な完品の作品は例が少なく貴重な作品です。

*復習:口縁が立ってきて、玉縁状の作行は早くとも室町後期以降だそうです。それより前の作は口縁はラッパ上のたっていて玉縁状にはまだなり切れていないとのこと。



時代のある作品ではありませんが、下記の作品は北大路魯山人による「信楽の桧垣紋壺」です。むろん北大路魯山人による真作です。

信楽灰被桧垣紋壺 北大路魯山人作
火土火土美房より購入品
高さ300*胴径235*口径135*底径135

鑑定箱書きはありませんが、念のために思文閣を通して銀座の黒田陶々庵で鑑定されています。「ロ」があると黒田陶々庵から説明があったいうのですが・・ 古信楽よりも魯山人や浜田庄司の作品らのほうが当方には真贋の鑑定は楽勝です。



少しずつ古信楽焼の真髄に近づくべく努力する日々です まだまだ道のりは遠い・・・、というよりまだ本格的な一歩を踏み出していない 踏み出せない理由のひとつが壺は場所をとることと気に入らなくなった作品の処分に困るというこど。壺はいい作品が一個か二個で十分のようです。

群鶴之図 不動立山筆

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画集で一度観てからいつかは入手したいと考えていた画家、不動立山の作品を入手しましたので、本日紹介いたします。

群鶴之図 不動立山筆
絹本着色軸装 軸先樹脂 共箱二重箱
全体サイズ:縦2080*横570 画サイズ:縦1210*横420



箱裏には「岬氏清属 昭和九稔夏作之」とあります。昭和9年(1934年)、48歳の頃作。吉祥図であり某岬氏から所望されて描いた作品と想像されます。




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不動立山:本名定一。明治19年(1886年)4月18日兵庫県三原郡の農家の次男として生れた。同34年上洛し、京都市立美術工芸学校に入学し、38年に卒業した。40年に1年志願兵として合格、陸軍歩兵軍曹となった。また41年から翌42年にかけて神戸市小学校訓導として教鞭をとった。

京都市立絵画専門学校の開校により、ここに学び明治45年第2回の卒業生となった。また大正10年には西山翠嶂に師事し、青甲社の創立に参画している。作品は、最初第6回文展に「冬の夜更」「春雨の夕」が初入選し、ついで第11回に「献燈」(六曲一双)を出品した。



帝展には多くの作品を発表し、次のような作品がみられる。3回「古陵」、第4回「朝雨のあと」、第5回「貴船路の秋」、第7回「遠雷」、第8回「みのる秋」、第9回「観音堂」、第11回「夕立」、第12回「余燼」、第13回「夏時雨」、第14回「放牧」、第15回「曾根沼」等で、新文展では第2回展に「劫火」、3回に「春月」があり、いずれも無鑑査出品である。

昭和17年戦時下疎開のため淡路島に転居し、戦後昭和48年までこの地に滞留していたが昭和48年9月には京都の自宅に戻っている。作品は京都的肌目細かな画風の中に、近代的感覚を導入させたものだが、新文展出品作「劫火」などには、意慾的で逞しいものがみられた。

昭和50年(1975年)8月14日京都市の自宅で老衰のため死去した。享年89歳。

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鶴をこれほどの数多く一度に数多く描いた作品はありそうで意外に少ない。



吉祥画ゆえ一般的すぎて画の評価云々するような作品と思えない方も多いかもしれませんが、趣豊かな作風は不動立山の真骨頂でしょう。



なんでも鑑定団には下記の作品が出品されています。意外にいい作品を遺しており、また評価が高い画家の一人です。

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参考作品
なんでも鑑定団出品作
2015年7月7日
評価金額:100万



*立山は淡路島出身で、帝展・文展に出展、穏やかで抒情的な作品を残しているが、十分な評価を受けていない。依頼品は大正13年、帝国美術展出品・入選作。堂々として木が覆いかぶさるような表現の立派な作品。牛が歩んでいるが、京都のゆったりとした空気感を醸し出している。残念なのが絵具の剥がれが出てきていること。

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たしかに現在ではあまり知られていない画家ですが、当方ではいつか機会があったら出来の良い作品を入手したいと考えていた画家の一人です。



正月などの床の間の飾りのはうってつけの作品でしょう。

布袋図 その2 寺崎廣業筆 その69

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先日、学芸員の方と日通の美術運搬専門の方で拙宅に訪問され、10月から富士世界遺産センターに展示されていた当方の所蔵作品が無事に返されてきました。次は狩野了承、素川の二人の展覧会を再来年に企画しており、当方の所蔵作品を観て行きました。2点の内示され、もしかしたらもう少し展示されるかもしれません。



脇に展示されていた中林竹渓の小点の作品にも注目されていました、さすがにプロの着眼はいい筋をしていますし、知識も豊富ですぐに描かれている内容を理解されるのはさすがですね。通常の蒐集家では勉強不足が多く、当方の話題にはついてこれないものです。



ところで現在制作年代を中心に寺崎廣業の作品の整理を進めています。寺崎廣業の制作年代を絞り込みのは落款の書体が解りやすいようです。本日はその寺崎廣業の作品の紹介です。

布袋図 その2 寺崎廣業筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 鳥谷幡山大正8年鑑定箱
全体サイズ:縦2250*横615 画サイズ:縦1200*横410

 

1919年(大正8年)2月、54歳にて寺崎廣業が没しており、その年の秋に鳥谷幡山が鑑定していることになります。寺崎廣業の鑑定についてはその多くが鳥谷幡山ですが、その先駆けとなる箱書きといえるでしょう。

  

印章には号である「騰龍軒」が押印され、印章・落款から真作と判断できます。なお制作されたのは落款から明治末から大正の初め頃と推察されます。

*この「騰龍軒」という印章にも贋作の印章があるので要注意のようです。



明治43年の暮れ、中将湯本舗津村順天堂(現ツムラ)の創業者として知られる元貴族議員津村重舎の依頼によって寺崎廣業が描いた六曲屏風二双のうちの一双に「竹梅図」があり、夫人と眺めていた津村氏が、竹と梅だけでは寂しいので、なにか小鳥でも描いて欲しいと寺崎廣業に所望すると、廣業は「それは竹内栖鳳先生にお願いするのがいい。」と答えたという。

その後十年ほどで寺崎廣業が亡くなり、津村氏が積年の願いを果たすべく、寺崎廣業逝去後14年を経た昭和7年に、津村氏が竹内栖鳳に依頼したそうです。この絵をみた竹内栖鳳は「明るい気持ちの良い作品ですね。」と頷き、快諾したという。昭和7年4月18日午後、津村邸を訪れた竹内栖鳳は、4時間ばかりの後に鶺鴒一羽と雀三羽を描き添えて、四羽で4時間という時間を費やして完成したという。



筆の走りが一角ならぬ力量を示していますね。



寺崎廣業の「布袋図」は本作品で本ブログに紹介した作品で二作品となります。

布袋様は日本では室町時代後期に成立した七福神に組み入れられ、七福神の一柱として信仰されています。真言三宝宗大本山清荒神清澄寺では三宝荒神の眷属とされ、肥満体の布袋は広い度量や円満な人格、また富貴繁栄をつかさどるものと考えられいます。所持品である袋は「堪忍袋」とも見なされるようになったそうです。

氏素性の解らぬ作品 古瀬戸? 灰釉印花文瓶子 

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瀬戸では鎌倉時代前期より灰釉の施された作品が多く作られましたが、本作品がその時代の作品か否かはさておき、古瀬戸の参考資料として古瀬戸の知識の吸収の糧にしたいと思い、本作品を投稿いたします。

氏素性の解らぬ作品 古瀬戸? 灰釉印花文瓶子 
誂箱
口径35*胴径170*高台径85*高さ255



瓶子は四耳壷はとともに古瀬戸を代表する器種の一つですが、このような口の形が完品で遺っている作品は珍しいかもしれません。



中国の梅瓶にも見られるような特徴のある口部、胴上部には亀甲文様のような印刻(スタンプ)し、胴中央にはワラビ手文に菊の印刻を組み合わせ、最下部には上部と同じ印刻が施されている作品です。



鎌倉期の作品はこれほど印刻が多くなく、釉薬もこれほど濃くはないように思われますが・・。もっと枯れた感じがしそう・・。



釉薬には雰囲気がでた趣があり、贋作というのはよくできています。正直なところちょっと判断に迷っています。



底は下記の写真のようになっています。



家内曰く「また変なものが置いてあるわね!」だと・・・。骨董は常に変な下手物から勉強が始まる・・・??



変なもの? 一輪挿しにすると風情がありそうです。



古云々と名乗るから面倒になる、だが骨董とはそういうもののようです。

田家早梅図 平福穂庵筆 その21

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骨董の見極めの中には鑑定者の知識も必要です。ただあまりに鑑定書に拘るとよくないというのもよく言われていることですが・・。

田家早梅図 平福穂庵筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先竹 昭和18年12月鑑定書在中 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦351*横270

 

在中の鑑定書は「不濁」とありますので、美術鑑定家として著名な「清水登」氏の鑑定となります。平福穂庵の鑑定は子息で画家の平福穂庵が一般的ですが、ほかに寺崎廣業の門下の画家で青森出身の鳥谷幡山、またたまに画家の田中柏陰の鑑定があります。当方では「清水登」の鑑定書は平福穂庵では初めてです。



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清水澄:美術鑑定家として知られるが、号不濁1894(明治27)年1月5日長野県上田市に生まれ、早稲田大学政経学部を中退した。大正時代、報知新聞記者をつとめ、1931年同社を退社し、美術倶楽部出版部、鑑定部社長に就任した。書画、刀剣等の鑑定を専らにし、また名鑑、書画家番附、辞典、印譜等の多くを出版した。
没年月日:1980年2月3日 享年86歳。
*昭和18年(1943年)清水登が49歳の時の鑑定となりますが、当時は戦時中。

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南画などの作品にはよく竹の軸先が用いられます。



落款の書体の特徴から明治20年頃のいわゆる第4期に分類される晩年の作かと推察しています。印章は「穂庵」「平順」かと思われますが未確認です。幾つかの作品には印章不詳という押印が文献資料にもありますが、この作品との印章の関連は現時点では後学にしたいと思います。

きちんとした作品にはきちんとした表具が一般的にはなされているものです。

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平福穂庵については20作品ほど揃ってきたので、そろそろ年代順などに整理したいと思っています。



郷里の画家、平福父子ですが、贋作に侵食され、真を見極めるのが難しくなっていますが、我が郷里の代表的な画家であり、いくつかの作品は我が家にも古くから遺されているので、使命と思って保管・整理に努めたいと考えています。



*平福穂庵についての資料をあらたに入手しました。この資料をもとに平福穂庵の作品を見直す必要があることが解りました。平福穂庵の明治前後の作品について判断に迷っていた作品があり、それらは真作と思われる根拠のあることが数点の作品にて判明しました。処分の一歩手前で男の隠れ家に放置されている作品を見直すことが必要なようです。



本作品は3000円でインターネットオークションで落札した作品です。出来の良い作品ですが、作品の良し悪し、鑑定者が解らなかったのが落札金額が廉価であった原因もあるでしょうが、やはり印章が通常の印章と違うのが根本原因かと思います。印章の資料にこだわると時として真作を見落とします。あくまで作品の出来で判断するのが真贋のポイントであることにはいつも変わりありません。


蟹 福田豊四郎筆 その90

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今週は都内、横浜の挨拶巡り。そして本日は午後から日帰りで大阪へ・・。忘年会も幾つか重なり、年末の慌ただしさが実感されるこの頃です。

さて本日紹介する作品ですが、福田豊四郎が「蟹」を描いた作品は珍しいと思います。落款からは昭和30年以降の作品と推察されます。

蟹 福田豊四郎筆 その90
紙本水墨淡彩 台紙貼 タトウ入
画サイズ:縦260*横235



色紙の作品かと思い購入したのですが、色紙の大きさの作品を額装の台紙に張り付けてある作品です。



縁起物の蟹
蟹は古来、霊性をもった縁起の良い生物と考えられていました。



縁起の良い生き物と言われている理由を上げると次のようになるようです。

1.水陸両棲である
水陸両棲で水と陸を行き来しているという特徴から言われています。水は古来より霊性、陸は現実を示し、これら両方の視点を持つことが出来ると考えられています。

2.脱皮をして成長する
また、カニの特性として脱皮を繰り返し成長します。これが成長(昇進・昇格)を暗示しているのも縁起が良いといわれるひとつの要因です。

3.子(卵)を抱いて育てる

4.金運を招く
蟹が陸に出てきたときに泡吹きをしますが、これもお金が沸くイメージで金運が上がるとされます。

5.試験合格の象徴
中国の古い官僚登用試験「科挙」制度では、 合格者は「一甲」「二甲」「三甲」に分けられました。 この事からカニの甲羅が連想されて「試験に縁起のよい試験合格の象徴」とされています。

6.姿、動作
ハサミを上下に振る姿はツキを招いているように見えるとも言われ、縁起のよい動物と認知されています。

7.見た目
豪華で気持ちも華やぎ、茹でて赤くなることからめでたい色で、お正月にはぴったりの食材のひとつとされる。

基本は水陸両棲、その形、子を抱いて育てる習性、そして脱皮をして成長する事から、霊的な力を持つと考えられていたようです。

さらには下記のようなお寺さんまであります。

「蟹の恩返し」
さらに蟹は足腰の痛みにご利益があると言われています。蟹満寺は白鳳時代末期(680年前後)に創建された由緒あるお寺ですが、平安時代以降は、今昔物語集に出てくる「蟹の恩返し」縁起で有名になった寺です。

少女が蛇の難から蟹の群れによって助けられたという話で、蟹満寺では蟹は「魔性のモノを駆逐して鎮魂蘇生させる厄除け」としてまつられています。健康面、特に足腰が気になる方が参拝される寺です。

落款から昭和40年頃の最晩年の作と推察されます。



額は当初から誂えたものでしょう。水の文様のマットに仕立てられています。



このような作品は色紙のタトウには保存できないので額用のタトウに黄袋、説明書と題名を記したシールにて処理しておきます。

暁山雲 不動立山筆 その2

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注視していた不動立山の作品ですが、「その2」の作品の紹介です。

暁山雲 不動立山筆 その2
絹本着色軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦1930*横450 画サイズ:縦*横

 

箱には「大正癸亥(みずのとい、きがい:1923年 大正12年)初秋 立山題 押印」とありますから、不動立山が37歳の作となります。西山翠嶂に師事し、青甲社の創立に参画した直後の頃と推察されます。

  

暁の山々をこのような色彩で表現するというのは独特の色彩感覚をもった画家なのでしょう。



中国風の色彩でありながら、作品は日本画となっています。やはり京都をベースとした作風だからでしょうね。



参考作品として下記の作品があります。

参考作品 なんでも鑑定団出品作
2015年7月7日 評価金額:100万



評:立山は淡路島出身で、帝展・文展に出展、穏やかで抒情的な作品を残しているが、十分な評価を受けていない。依頼品は大正13年、帝国美術展出品・入選作。堂々として木が覆いかぶさるような表現の立派な作品。牛が歩んでいるが、京都のゆったりとした空気感を醸し出している。残念なのが絵具の剥がれが出てきていること。

参考作品
夕立
昭和5 絹本着色・額 233.5×174.8
第11回帝展(1930) 京都国立近代美術館蔵



不動立山の作品は今後も入手に向けて注視していきたいと思います。

額の作品の整理 薔薇 森省一郎画

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男の隠れ家には洋画の作品が幾つか遺っています。ぞんざいに納戸に放置されていましたので、東京に持ち帰りタトウや黄袋を誂えて保管することにしました。

本日紹介するのは当方では珍しい洋画の抽象画ですが、当方の所蔵は絵画は日本画ばかりではありません。

バラ 森省一郎画
油彩額装 左下サイン 
画サイズ:横240*333



裏のサインから1962年作の作品であるが解ります。森省一郎が数々の賞を受賞し始める頃の作です。



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森省一郎:鹿児島生まれ、
1961年 29回独立美術協会展で独立賞を受賞、
1962年 30回展 独立賞、須田賞、30周年賞を受賞、
1963年 サンパウロビェンナーレ展出品、

作品「家」(1963年、屋根裏部屋の美術館蔵)


 
1965年 パリ青年ビエンナーレ 最優秀賞を受賞

作品「Conscience」(1965年、7回現代日本美術展出品作、東京国立近代美術館蔵)



1966年 第1回ジャパン・アート・フェスティバル出品、
1984-95年 フランスのアトリエで(遺伝子シリーズ)の創作。高島屋他個展、文化庁買い上げ、

滞仏22年、現代展招待、(画集 遺伝子は踊る)森省一郎著、
*東京国立近代美術館、京都近代美術館、神奈川県立近代美術館、彫刻の森美術館、京セラ美術館、バーゼル美術館、シカゴ美術館、サンパウロ現代美術館他収蔵、

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祖父が購入したのか、父が購入したのかは定かではありませんが、小生がまだ小学校の頃に入手した作品のようです。保管方法がきちんとされたらまた男の隠れ家にて保管することになります。

十和田湖 月下子ノ口 舘岡栗山筆 その10

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休日には小生は屋根裏部屋の片づけ。山となった段ボールを処分・・。



広くなった屋根裏部屋をどう改装しようかとまた夢が広がります。展示室? 骨董用の倉庫? 外壁をぶち抜いて眺めの良い展望室? さらに風呂を作ったりして・・・・



さて大量のゴミを処分して家内は玄関お掃除・・。週末は肝心な居住空間以外の家の上下で正月準備の大掃除となりました。



さて我が郷里や近隣出身の画家は十和田湖を描いている画家が多くいます。本ブログでも取り上げている画家だけで、福田豊四郎、小林喜代吉、伊藤弥太、鳥谷幡山らがいます。本日は舘岡栗山の作品の紹介です。

和田湖 月下子ノ口 舘岡栗山筆 その10
紙本着色軸装 軸先練 合箱
全体サイズ:横454*縦2010 画サイズ:横331*縦1358

 

先日紹介した「千畳敷海岸」と同時に購入した作品です。



郷里の骨董店のご主人の説明では奥入瀬の流れ出る「子ノ口」付近を描いた作品ではないかとのことでした。



秋田県側から十和田湖に行くのには休屋から入って湖岸を散策し、子ノ口に到着して奥入瀬渓流を下って愉しむのが一般的です。今では日帰りが可能ですが、当時は子ノ口や湖岸、奥入瀬で一泊しなくてはいけなかったのかもしれません。

 

十和田湖で月夜の景色を愉しむということは当方ではありませんでした。自転車で行っても日帰りできるからです。





地元ではデートコースにもってこいですが、さすがに一泊する人は少ないですね。ましてはこの絵が描かれた当時は・・。月夜の十和田湖・・・、ロマンチックかもしれません。橋にて風情を楽しんでいるのはアベック・・???



夜に舟を浮かべる御仁は今はいない?? 十和田湖が一番きれいなのは冬という人もいますが、月夜の十和田湖も一度訪れてみたいものです。

やはり4階に相当する我が家の屋根裏は展望室か・・・。

氏素性の解らぬ作品 鉄絵志野香合

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いつの時代の作品かはよく解りませんが、志野焼の香合の勉強対象にはもってこいの作品と思い購入しました。

氏素性の解らぬ作品 鉄絵志野香合
合箱 底:吸江斎花押
最大径69*内部口径45~48*高さ34



焼き物を趣味とする方や蒐集を目的とする方は茶陶は避けて通れません。



茶道の心得のまったくない方に陶磁器を論じる資格はまずないでしょう。



茶道の心得がないのは陶磁器の真贋を論じる以前の問題です。



さて、そんな茶陶の中に香合というものがあります。客の前で取り扱うことはめったにありませんが、床によく置いてあるものです。この香合の分類たるや茶入に匹敵するくらい種類があります。茶入に比してみても、その材質が多々あることも種類が多い要因でしょう。



垂涎の香合のひとつには堆朱がありますが、陶磁器は産地、形など種類がともかく多い。織部、染付、交趾・・・。茶陶ですので例にもれず香合にも番付まであります。



さて本作品がいつの時代か、花押は本物か? 



結論は後学として、まずは資料集めから始まります。



まずは花押の勉強です。この花押は真贋共々よく見かけるものです。



表千家十世である「吸江斎」の花押ということのようです。

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吸江斎:文政1年(1818)~万延1年(1860)。幕末の茶人。表千家十世。久田家七世宗也(表千家八世宗左の弟)の子。名は達蔵・宗佐、別号に安祥軒・祥翁・宗旦。8才で久田家より養子に入り、表千家に迎えられて十世を継ぎ住山楊甫の後見を受け、幼くして家元を継いだ。10才で紀州徳川家に出仕し茶堂として仕えた。時の藩主、紀州徳川家10代の治宝は茶の湯に熱心で、治宝は了々斎から一時預けられていた台子真点前の皆伝などを吸江斎に授けている。これによって表千家茶道の道統が守られ。のち天保10年(1839)には利休二百五十回忌を営み、さらには如心齋百年忌・宗旦二百年忌等を営む。また祖堂(利休堂)の改築などもおこなった。好みの道具には溜二重棚・手付桐煙草盆等があった。万延元年(1860)歿、43才。

花押の資料



花押の例

 

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残念ながら箱には箱書きがありません。箱書きがあっても花押などは真似しやすいのでもともと真贋の根拠にはなりませんね。



箱の蓋の受ける部分は一応、堅木を使っているようですのでいい箱の部類に入るでしょう。皮の紐は最近誂えたものかもしれません。



ところで志野焼の香合といったら・・・、そう「桃山期の志野焼の香合というと一文字香合」ですね。

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志野一文字香合

MOA美術館蔵 桃山時代(16世紀) 総高2.4㎝ 径6.3㎝ 



作品説明より

桃山時代、天正年間(1573~92)から文禄・慶長年間(1592~1615)にかけて、現在の岐阜県土岐、可児(かに)の二郡に散在する美濃の窯では、志野、黄瀬戸、織部などの、優れた香合が焼かれた。

なかでも志野の一文字といわれる香合は、作行きが優れていることで声価が高いものである。この平らな円形の器は、室町時代以来、中国から輸入された堆朱や青貝などの香合に見られ、そうした唐物漆器の香合を倣ったものと思われる。印籠蓋形式にした香合で、身・蓋の合わせ口を除くほぼ全面に長石釉がかかっている。蓋表に蝶のような文様を、鉄絵具で絵付けした優雅な作行きで、側面から高台にかけての釉肌には志野独特の火色が鮮やかに現れている。高台はきわめて低く、比較的大きく丸い。浅く削り込まれた高台内に、置き台の跡が輪形に残っている。志野の一文字の香合の中でも、見どころが多い優れた香合である。

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この「志野一文字香合」が最近のなんでも鑑定団に出品されてことでも知っている人は多いと思います。

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なんでも鑑定団出品作

2018年9月18日 評価金額500万円



作品説明より

切った形なので一文字型の香合と呼ばれている。室町時代に伝わった根来塗の香合や唐物の堆朱の香合の形をそのまま倣ったもの。

ろくろで挽いてあり、端整な造形。鉄絵で草花文が描いてある。葉から小さく白い花がのぞいているのを万年青と見立て「志野万年青の香合」と呼んだのだろう。長石釉がとろっと掛かり気泡がいくつかあって紅が浮かんでいて、いかにも桃山という感じがする。蓋
を開けると合口のところだけ露胎になっていて、志野のもぐさ土が見えている。それが適当に汚れて古さを物語っている。高台を見ると馬蹄形の窯の置き跡がある。当時の美濃の窯に共通する特徴。陶磁学者の小山冨士夫の箱書きがある。天下の名器。

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ともかく正解のない・・、もとい正解はあるのですが、正解が見えにくい骨董の世界はともかく学ぶことの多い世界です。

おにぎりより小さな作品、このような作品も奥が深い・・。さて香合は茶事でどのように使うかは読者の方はむろんご存知ですよね。



この作品は不揃いな形をしていますが、手に馴染むようにというか、使い易いように作られています。

ちなみに本ブログにてアクセスの多い香合の作品には下記の2作品があります。

はじき織部香合 伝江戸期
合箱
幅45~50*高さ45



染付香合 五良太甫呉祥瑞造銘
幅44*奥行44*高さ27 箱入



香合ひとつをとってみても、幾つか入手してみて初めて気に入ったものが手に入るもののようです。

秋渓早雪図 山元春挙筆 その7

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山元春挙の作品を入手するなら山野や山渓を描いた大画面の作品を選ぶべきでしょう。花鳥画などの通常サイズの作品もかなり流通していますが、それらの作品は山渓を描いた大画面の作品に比べると見劣するのは否めません。

本日は大画面というには少し小さめですが、保津川の秋の景色を描いた作品の紹介です。

秋渓早雪図 山元春挙筆 その7
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 二重箱共箱
全体サイズ:横628*縦2290 画サイズ:横425*縦1345

 

この作品の落款は下記のとおりです。

  

落款にある「蘆花浅水荘」についての説明は下記のとおりです。

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蘆花浅水荘:蘆花浅水荘(ろかせんすいそう)は、大正10年(1921年)日本画家山元春挙の別邸として琵琶湖の畔(滋賀県大津市中庄)に建てられた近代和風建築である。所有者は宗教法人記恩寺。平成6年(1994年)に国の重要文化財に指定された。

蘆花浅水荘は、琵琶湖の西岸に位置する。山元春挙がこの土地を購入したのは1914年(大正3年)で、1921年に本屋が上棟された。敷地はかつて琵琶湖に直接面しており、敷地東端には舟着場が残っているが、その後、湖岸が埋め立てられ、湖岸道路が開通して、往時の景観は失われている。敷地の西寄りに本屋と離れが建ち、敷地東側は築山と流水を伴う庭園で、持仏堂、茶室などが建てられている。本屋は1階が居室、2階はアトリエと応接室になっている。

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本作品と同じ落款を用いている作品は下記の作本です。亡くなって年に描かれ、春挙最後の大作といえる作品で足立美術館蔵「奥山の春図」です。昭和8年(1933年)の作で淡交会展出品です。ウィキペディアに山元春挙の代表作として掲載されている作品です。

本作品と見比べてみました。「動」と「静」、「夏」と「晩秋」。

 

おそらく保津川の渓谷を描いた作品でしょう。



晩秋の紅葉に早めの雪が降ってきた風景を描いています。



紅葉に新雪・・・。



山元春挙の晩年の佳作と言える思います。



このような絵画があることを日本人として感謝しています。



残念ながら小生は保津川を訪れたことはありませんが、「紅葉に新雪」の景色では登山をしていた頃に味わった涸沢の景色が忘れられません。



さて紅葉と新雪・・、今年は如何だったのでしょうか?



上高地から涸沢や槍澤に今年も行けない小生は、以前に紹介した下記の作品と並べて展示室に飾って愉しみました。



保津川清流之図 山元春挙筆
絹装軸絹本着色 二重箱共箱入
全体サイズ:横513*縦2140 画サイズ:横360*縦1203



夏と秋・・・・・。



さらには下記の作品との比較も面白いかと思います。

深山春雪之図 山元春挙筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先 二重箱共箱入
全体サイズ:横730*縦2030 画サイズ:横*縦



こちらは本作品と比較すると晩秋の初春。いずれも保津川を題材にした作品でしょう。



山元春挙の山水画は床の間に映える作品が多いですね。年齢と共に遠くなった山岳の景色を掛け軸で愉しでいると、掛け軸の有難みを改めて感じます。

鳥追い女 伝庭山耕園筆

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本日紹介する作品は本ブログでは初登場となる「庭山耕園」の作品ですが、実のところ庭山耕園の作品か否かは確証がありません。また題名も共箱ではないので当方で仮題として付けている画題であることをご承知ください。

鳥追い女 庭山耕園筆 
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1910*横530 画サイズ:縦1080*横400

 

仮画題となる「鳥追い女」については以前に舘岡栗山の同題の作品で説明されています。なお阿波踊りの女性の衣装阿波踊りの女性の扮装はこの鳥追い女の風俗に倣ったものだそうです。



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鳥追い:正月の祝い芸として各戸を回って鳥追い唄を歌う門付芸人のことも指す。

新年に門口で、扇で手をたたきながら祝言を述べ、米銭の施しを得たもの。江戸初期、京都悲田院の与次郎が始めたという。江戸中期以降、新年に女太夫たちが、新しい着物に日和下駄・編み笠姿で三味線などを弾きながら、鳥追い歌を歌って家々を回ったもの。

近世には三味線の伴奏で門付しながら踊る者が現れ、これも鳥追いという。正月元日から中旬まで、粋な編笠に縞の着物、水色脚絆に日和下駄の2人連れの女が、艶歌を三味線の伴奏で門付をした。中旬以後は菅笠にかえ、女太夫と称したともいう。

京坂では早く絶え、江戸では明治初年まであった。阿波踊りの女性の衣装阿波踊りの女性の扮装はこの鳥追い女の風俗がもとになっている。



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庭山耕園:(にわやま こうえん)明治2年1月14日(1869年2月24日)~昭和17年(1942年)7月15日)。明治から昭和にかけて活動した四条派の日本画家。本名は、慶蔵。瀟洒淡麗な花鳥画を得意とし、大阪で活躍。生涯「船場の絵描き」として、床の間に映え、大阪の中心地・船場に相応しい生活に彩りを与える絵を描き続けた。



補足

兵庫県姫路市で、父恒三郎と母カツの次男として生まれる。庭山家は、雅楽頭酒井家が姫路藩主として転封されてから代々藩に出入りし、恒三郎の代には大阪蔵屋敷に勤めていたという。しかし、廃藩置県で職を失うと、一家をあげて大阪北船場に移住する。以後、何度か引っ越すものの生涯船場を離れることはなかった。小学校卒業後、働くため奉公に出ようとするが、病弱だったため仕事につけずにいた。そこで13歳頃、近所に住み大阪で活躍した四条派上田耕冲に弟子入りする。明治21-22年(1888年-89年)頃、船場の素封家・樋口三郎兵衛の後援を受け、大阪画学校を作り、その助教となる。

*上田耕沖の作品は本ブログにて下記の作品が紹介されています。



明治23年(1890年)第3回内国勧業博覧会に《人物図》を出品、この時の記録からこれ以前から耕園の画名を用いていたのがわかる。

*「耕園」の画名は早い時期から用いていたのだそうですが、「耕」に一字から上田耕沖からの号かと推測され、明治15年頃~明治20年頃からかと思われます。

この頃のみ、耕園は展覧会に積極的に出品しており、明治26年(1893年)日本青年絵画協会第2回青年絵画共進会で三等受賞(出品作不明)。明治28年(1895年)第4回内国勧業博覧会に《舞楽図》と《鷹襲猿図》を出品、前者が褒状。翌年の日本絵画協会第1回全国絵画博覧会に《秋景山水図》を出品。明治36年(1903年)《舞楽図》と《狐に鴨図》を出品、前者で褒状を受ける。

これらの活躍により、画家として社会的認知を得たと推測される。しかし、耕園の画風は展覧会向きではなく、以後地元の大阪美術展覧会以外に出品しなくなる。

明治43年(1910年)耕冲が亡くなると、一時更なる研鑽のため鈴木松年塾に通い、松年が天龍寺金堂に天井龍を描く際には、その手伝いをしたという。ただし、耕園の作品には松年風のものはなく、回顧録でも松年入門に一言も触れていない。これは、大阪の画家が中央画壇に進出する足がかりとして、京都の大家に入門する場合があり、耕園も同様だったと考えられる。

*鈴木松年は本ブログにて幾つかの作品が紹介されています。

この頃から、大阪の実業家や素封家をパトロンとし、経済的に安定する。更に、本名の慶蔵の「慶」の音にちなんで画塾桂花社を起こし、プロになりたい書生の他に、趣味として絵を描く旦那衆やその夫人や良家の子女に絵を教えた。そのうち絵を専門とする玄人の集まりを桂庭社と称した。画塾はいつも賑わっていたが、日本画壇から離れた耕園の塾では帝展に入選できないので、基本を習ったら出奔する弟子もいたという。



大正12年(1923年)大阪市美術協会が設立されると、中川和堂、矢野橋村、水野竹圃、菅楯彦らと創立委員に任命されるなど、大阪画壇の長老として活躍した。生涯を通じて茶道を趣味にしていたが、晩年は特に親しみ、表千家の茶会に参加、お茶道具としての掛物を多く描いた。表千家流第12代惺斎、第13代即中斎との合作も多い。現在でも大阪のお茶の世界では、耕園の絵は待合掛けとして今も使われ評価されている。昭和17年(1942年)7月に没。享年74。阿倍野葬儀場の葬儀には1000人を超える会葬者が集まった。

作品は花鳥画や年中行事に関するものが多い。題材は朝顔、萩、雀、鴛鴦などが散見される。特に松村景文を尊敬し、瀟洒な感覚や構図の取り方が共通する。鑑定もしていたらしく、当時大阪で円山応挙の絵の鑑定は耕園に頼め、と言われていたという。

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本作品の落款と印章は下記のとおりです。作行から早い時期の作品かと思い、年期の解る明治25年の落款(右)と比較してみました。落款の書体が気になりますので、後学の判断としておきます。

 

画力もまだ拙いものですし、同一人物、つまり庭山耕園の作品とは断定できませんね。最初に出会う画家はこういうところから調べ始めることになります。本日は「鳥追い女」のい復習ということで・・。



徳島の阿波踊り歌の出だしにあるように「踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損々」。



蒐集の出だしは「集める阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら集めにゃ損々」・・・、真贋ばかりにこだわって自腹で購入しないのも阿呆で、変な作品を掴むのも阿呆、同じ阿呆(興味のある者)なら買わなくては損々、お金はあの世には持っていけませんから・・。



表具の状態は上記の写真のようになっています。

和漢諸名家筆蹟縮図 寺崎廣業筆 第二巻

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本日は寺崎廣業の「和漢諸名家筆蹟縮図」の第一巻(2018年9月21日 投稿)に続いて第二巻の紹介です。

寺崎廣業の展示会を開催するにあたって、本作品の展示があるのと無いのでは寺崎廣業の画業に対する観点が大きく違うものになるでしょう。

和漢諸名家筆蹟縮図 寺崎廣業筆 第二巻
水墨淡彩巻物三巻 鳥谷幡山昭和29年鑑定箱入二重箱 
高さ283*長さ畳4畳分/巻

昭和29年に鳥谷幡山により編集され、箱書きされた作品と推察されます。



すべてを広げるとともかく長い・・。これだけ広い作品を広げるにはそれだけのスペースが必要ですが、当方の展示室には可能です。



第一巻とはまた趣向の違った作品の掲載となっています。



冒頭と巻末には編集した鳥谷蕃山の記述があります。

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鳥谷幡山(とや-ばんざん):明治9年1月18日(1876年)~昭和41(1966)年2月20日。青森県七戸出身。明治-昭和時代の日本画家。名は又蔵、別号に宗山。

明治28年に上京し、日本画家寺崎広業の内弟子となる。同門の野田九浦らと画技を磨き合い、30年には日本絵画協会主催の第3回絵画共進会に「南海観音」を出して二等褒状を獲得。同年東京美術学校日本画科に編入学して橋本雅邦に学ぶが、31年の東京美術学校事件における同校長岡倉天心の辞職に共感し、同校を中退した。その後、一時絵画から遠ざかるが、間もなく復帰し、師の広業が主宰する天籟画塾の塾頭に就任。37年には同門下生による美術研精会の創立に参加し、主任幹事として会を運営するが、文展が開設した40年頃に師との折り合いが悪くなり、中央画壇から去った。

以後は、専ら十和田湖の美を描き、その紹介に努めた。作品は他に「十和田湖大観」などがある。昭和41年(1966)歿、90才。画家としてまた寺崎廣業や平福百穂らの鑑定士としても活躍した。

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すべての作品を投稿することはできかねますので幾つかの作品をピックアップしてみました。



寺崎廣業は16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を歩き始めました。しかし収入が安定せず鹿角に至った時に戸村郡長の配慮で登記所雇書記になった。



生活はようやく安定したが絵への心は少しも弱まらず、広業には2人の異父弟佐藤信郎と信庸とがいたが、東京小石川で薬屋を営んでいた信庸のすすめで上京します。1888年(明治21年)春23歳のことです。



上京すると平福穂庵、ついで菅原白龍の門をたたきましたが、広業は4か月でまた放浪の旅に出ましたが、その旅では穂庵のくれた三つの印形を懐中にしていたそうです。



足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に寄寓し美人画で名を挙げました。1年半で帰郷し穂庵の世話で東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵の仕事をすることになります。ここで諸派名画を模写し広業の総合的画法の基礎を築いたといわれています。

*この時の作品の遺っているものを本巻物にまとめたものと推察されます。



ただし1892年(明治25年)に結婚し向島に居を構えたが、この直後に火災に遭って一時長屋暮らしをしたこともありますが、この火災で諸派名画を模写した作品はずべて消失したと思われています。

上記の時期について秋田県立美術館の紹介記事には「明治22年平福穂庵の紹介により入社した東陽堂では古画などの縮図に取り組み、各流派の特徴を学び取りながら腕を上げた。」とあります。



この鍛錬が実を結び、1898年(明治31年)東京美術学校助教授に迎えられることになります。放浪の画家とも努力の画家と言われる由縁がこの時代までの彼の遍歴によります。



ただしその翌年、校長の岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の広業は美校を去ることになります。天心と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本門下の横山大観・下村観山らと広業もこれに参加した。1900年(明治33年)には秋田・大曲・横手に地方院展を開催、故郷に錦を飾ることになります。



この頃に「護良親王」(昭和24年5月26日寺崎廣業名作展出品(主催:秋田魁新報社) 昭和16年晩春幡山道人鑑定)を入手したものと推察しています。ちなみに本巻物と「護良親王」を同時に小生が入手しました。



翌1901年(明治34年)年、美術学校教授に復し天籟散人と号し、また天籟画塾を設け、野田九浦、正宗得三郎、中村岳陵、牧野昌広ら300人ほどの門下を育成することとなります。

1904年(明治37年)には日露戦争の従軍画家となり、その経験を生かして木版画による戦争絵、美人画、花鳥画を多く描いており、また軍神橘大隊長と知り合いますが、健康を害して3か月で帰国しています。

*従軍時代に描かれた作品もまた本ブログに投稿されています。



1907年(明治40年)には第1回文展が開催されて日本画の審査員となり、自ら大作「大仏開眼」を出品しています。1912年(大正元年)の文展には「瀟湘八景」を出して同名の大観の作品とならび評判作となったことは有名です。



1913年(大正2年)には美術学校の日本画主任となり、1917年(大正6年)6月11日には帝室技芸員を命ぜられ、芸術家として斯界の最上段に立つようになった時に不運にも咽頭ガンになります。廣業は1919年(大正8年)2月、54歳を一期に世を去りましたが、当時は横山大観に匹敵する評価を受けた画家でした。



明治末から大正期にかけて著名になるほど頼まれて描くことも多く、それゆえ多作となり、また人気ゆえに贋作も多くなり、現在では評価が低く、「忘れ去られた画家」になってしまいました。



本巻物によって同時、寺崎廣業がどのような作品を模写して修練したかが解り、また本巻物から当時どのような作品が遺っているかが解る貴重な資料でもあります。



もともと母の実家で叔父が所蔵していた作品ですが、市場に出回った際に購入した方の好意により当方の所蔵となった作品です。



納まるべきところにまた納まったというのが実感です。残りの第三巻の紹介も近日中に投稿する予定です。




秋景山水図 倉田松涛筆 その28

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秋景山水図 倉田松涛筆 その28
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:横687*縦2045 画サイズ:横464*縦1280



これもまた倉田松涛の佳作と言える作品でしょう。

 

「大正元年歳次壬子晩秋 □於雲□龍岩□□□ 百三談画房山人 松濤 押印」とあり、1912年(大正元年)倉田松濤が45歳頃の作。

 

倉田松涛は画面によく犬を描いています。犬が好きだったのかもしれませんが、手元も資料にはそのような記載はありません。



湖?を配して紅葉を楽しみ物思いの耽る・・・・、極上の時間ですね。



なお倉田松怒にも贋作があるので注意してください。



富岳図 狩野素川筆 その3

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今週は帰省の準備で忙しいので週末にクリスマスと息子の誕生会を例年ごとくまとめて執り行いました。



料理は家内が・・・。



例年のごとくプレゼントは図鑑。



さて本日はマイナーな画家の狩野素川の作品の紹介です。

狩野素川は狩野派にありながら浮世絵美人画にも学んだ、洒脱で機知に富んだ独特の画風で狩野素川の作品は「素川風」と評されて現在はマイナーでも当時は著名な画家の一人でした。

富岳図 狩野素川筆 その3
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:横350*縦1677 画サイズ:横318*縦905



1800年(寛政12年)数え36歳で若隠居し、花街での遊蕩を好んだとされています。吉原の老妓の門弟も多かったという。粉本に依らない軽妙洒脱な画風で人気を博し、当時の狩野派内で最も有力だった狩野栄信のライバルと言われていました。

 

天地が虫に食われており、天地交換の補修をすべきか否か迷っています。時代感を優先するのもひとつの考え方ですから・・。

落款と印章は下記のとおりです、落款、印章、作風から真作と判断しています。



素川は50代で章信と改めましたが、それまでは号は大玄齋、素川(そせん)であり、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったということから、本作品は「章信」と署名する前の、50歳までの作品であると推察されます。



狩野派では一風変わった絵師というイメージが強い画家ですが、それは作品以外に私生活も性格も変わっていたせいもあるのでしょう。



居宅に高楼を建てる趣味人で、『画道伝授口訣』という著作もあります。狩野素川はいつも手ぬぐいを頭に被り脱がなかったという逸話が残っていますが、これは田沼候に招かれる際の出来事が元になっているという逸話があります。「自分は寒がりなので頭巾を外せないが、それでも良ければ参上する。」と答えたのが認められ、諸人がこれを真似たという逸話です。



なお先日、当方の所蔵作品が展示された下記の展覧会にも狩野素川の作品が展示されていました。



来年には富士山世界遺産センターでは当方の所蔵作品が紹介された狩野了承と今回の狩野素川の二人の展覧会を催す予定らしいです。



見えづらい写真ですが、本作品と掲載されている作品に押印されている印章は同一印章です。

 

再来年の展覧会には予定では本ブログで紹介されている下記の作品が展示を依頼されています。

瀟相八景図 狩野素川筆 
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:横940*縦1520 画サイズ:横750*横505



今から再来年が愉しみです。

私のお気に入り 鯉 福田豊四郎筆 その8

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整理の完了した作品は私の手元から離れていきます。



今回の離れていく作品にもありますが、私のお気に入りの作品が一番多いのは福田豊四郎の作品だと思います。

郷里出身の画家ということもあるのですが、祖父や祖母、父や母と交流があり、小さい頃から床の間や玄関に飾られていることが多かったのがその主因でしょう。懲りずに今でもせっせと蒐集に励んでいます。

鯉 福田豊四郎筆 その8
絹本着色軸装共箱二重箱軸先象牙 
全体サイズ:横725*縦1600 画サイズ:横564*縦486



私が幼少の頃と同じように息子の吉祥として本作品は飾られています。端午の節句から飾られているので、そろそろ架け替えの時期ですが・・。

 

この作品は福田豊四郎氏が子供の誕生祝いに父と母のために描いてくれた作品だそうです。



為書きの作品ですが、かなりの力作だと思います。



背景には銀彩を施し、豪華な仕上がりになっています。



鯉の表情もいいですね。



小生は小さい頃に本家の池にこっそり釣り糸を垂れ、大きな鯉を釣りあげて大目玉を食らったことがあります。



田舎育ちの遊び仲間では鯉は釣りの成果としては憧れでしたが、さすがに庭の池の鯉を釣りあげると、その音の大きさに家人が飛んできました。



その時に釣りあげた鯉を思い出しますね。



ちょっとデフォルメされた作品ですが、描いたのは昭和25年頃だと推定しています。



表具は本家で依頼して表具させたものでしょう。



福田豊四郎氏に祖父が依頼して描いたものかもしれません。いい表具です。



箱書きは下記のとおりです。むろん共箱です。

 

作品中の落款と印章は下記のとおりです。二重箱に収められています。

 

母が大切に保管していたのでしょう。作品の状態は全く難点がありません。会社が経営難になって、他の作品は手放してもこの作品だけは母は手放しませんでした。

本日は息子の5歳の誕生日です。



毎年図鑑ではと、今年は小生から仮面ライダーのベルトを誕生日にプレゼントしました。

塩谷高貞妻 伝渡辺省亭筆 その22

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年末にはお世話になった人の配る落花生の袋詰めです。収穫から天日干し、殻剥き、選別、炒るという工程を経て、大いなる手間をかけての仕上がりです。意外に評判がよく「美味しい」とのこと。息子も手伝っており、飽きることなくず~と袋詰め、「手が小さいから一番早いね!」と自慢げです。



さて本日は「その22」となった渡辺省亭の作品の紹介です。

渡辺省亭が師事した菊池容斎の代表作品が「塩谷高貞妻出浴之図」(福富太郎コレクション)です。その弟子・渡辺省亭の「塩谷高貞妻浴後図」、「塩谷高貞」の2図が「刺青とヌードの美術史」(宮下規久朗著 NHKブックス)に2008年刊白黒図版で取り上げられています。この作品はその「塩谷高貞妻浴後図」か「塩谷高貞妻」の作品の可能性があるかもしれませんが、「塩谷高貞妻浴後図」か「塩谷高貞妻」と題された作品が幾つか存在している可能性もあります。

そのような作品へのロマンはさておき、本日の主題はその歴史的な背景です。

塩谷高貞妻 渡辺省亭筆 その22
絹本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦2070*横640 画サイズ:縦1200*横492

 

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塩冶高貞(えんや たかさだ、旧字体:鹽冶 髙貞):生年不詳~1341年(興国2年/暦応4年)。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。出雲守護として、後醍醐天皇の挙兵に呼応し、鎌倉幕府との戦いに貢献する。建武の新政ののちは、足利尊氏に味方し、南朝方制圧に力を奮ったが、1341年3月に京都を出奔すると謀反として北朝に追討され、同年翌月出雲国で自害した。

このストーリーは以下のとおりです。塩冶高貞のライバルの高師直は、塩冶高貞の妻「顔世御前」が美人と聞き及び、浴後の姿を盗み見し横恋慕し、徒然草を著して高名であった吉田兼好に恋文を書かして、塩治高貞の妻に送ったが拒絶されたという。

出雲国と隠岐国の守護であった塩治高貞はこの直後、京都を出奔し出雲に向かうが謀反の疑いをかけられ、討滅されてしまったが、この塩谷高貞の滅亡は高師直の陰謀によるものだという。

これは太平記にあるエピソードですが、塩谷高貞が突然謀反に問われ滅亡したのはまぎれもない史実であり、晩年の吉田兼好が高師直と交流があったのも史実だそうです。このエピソードは江戸時代に起こった忠臣蔵事件の演劇が、塩治事件の人名を置き換えて上演された為に有名となった。

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*高貞は天皇に従って先導役を努めたその功績によって高貞は出雲守護となり後醍醐天皇より側室を降下されます。それがこれが絶世の美女と謳われた顔世御前(かおよ)です。




**高師直が顔世御前に恋焦がれ浴後の姿を盗み見したのは、実はすっぴんの顔を見たら諦めるだろうという従者らの配慮であったという説があります。、



***京都市立博物館に所蔵される伝尊氏像と言われる髻を切った騎馬武者像は教科書では尊氏像とされていますが、実際は高師直と言われています。一方神護寺に所蔵されている、伝源頼朝像と伝平重盛像こそが実は頼朝像が足利直義、重盛像が足利尊氏と言われており真実のほどは定かではありませんが、今は定説となってきています。この説が本当だと直義は相当の美男子で、尊氏は優しげで猛将とはかけ離れた顔立ちだったと思われます。



****塩治高貞が京都を出奔したのは高師直の讒言により殺されるのは逃れるために出雲に向かったいう説もあり、顔世御前と別々に向かい、先に顔世御前が追手に追われ自害しています。



幼い子らも犠牲となったようです。げに恐ろしきは女癖の悪い執着心強い男・・。美人に執着したら碌でもないことになるということもありますが・・・。



女への執着心は早いうちに絶つことです。生涯に一人の女性を愛すればことは済む。



本作品の落款と印章は下記のとおりです。



渡辺亭の作品は意外に共箱は珍しく、本作品は相変わらず合箱です。



下記の作品は明治22年の「国民之友」の山田美妙の歴史小説「蝴蝶」に渡辺省亭による挿絵が描かれた作品が掲載されています。

平家に仕える美少女の蝴蝶が、壇ノ浦の戦いで海に落ちて這い上がったときに若武者に出会うという場面を描いた作品です。裸体の少女は衣を手に持ち、局部は隠されていて、とくに目立つところもない構図ですが、山田美妙が本文で、「美術の神髄とも言うべき曲線でうまく組立てられた裸躰の美人」と書いたため、これが挑発的であると受け止められ、「読売新聞」の投書に「美術の乱用」だという批判が載り、いわゆる「裸蝴蝶論争」をひきおこしたそうです。これを「裸蝴蝶論争」といいます。

よってこの時代には「渡辺省亭=ヌードの画家」と認識された人も多かったようです。



渡辺省亭は師である菊池容斎の代表作品の「塩谷高貞妻出浴之図」と同じ画題の作品を描いています。下記の写真はともに福富声r九ションですが、左が菊池容斎の代表作品の「塩谷高貞妻出浴之図」、右が渡辺省貞の「塩谷高貞妻」の作品です。

 

上記の右の作品と本作は同じほぼ同じ構図です。

 

他にも同題の作品が見受けられます。下記の作品は印章のみです。こちらも真贋はよく解りませんが70万円で売られています。

 

渡辺省亭も贋作が多く、注意すべき画家のひとりには相違ないようですね。



本作品は前述のように福富コレクションの「塩谷高貞妻」の作品と賛のない同図ですが、模作ではないと判断しています。根拠のひとつは線描がきれいなことです。

 

渡辺省亭の作品は贋作も多く、その見極めは当方ではまだまだ自身がありませんが・・・。



渡辺省亭の作品はまったく同じ構図の作品がいくつか存在します。しかも大きさが違うものでも・・・、このあたりがまた真贋の判断を難しくしている点です。



後ろの描かれている女性の描き方もうまい。



小道具の描き方には違いがありますね。



真作と判断したのはこの線描と上品さは真似できるものではないとの根拠からです。これは感性しかありませんね。

朝寒 酒井三良筆 その8

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蒐集を始めて間もない頃に、叔父のところでよく骨董を教えてもらいました。年末年始、五月の連休、盆休みには一日中骨董談義をしたものです。時には母も居たり、亡くなった家内も同席していました。訪問すると床の間の掛け軸がいつも架け替えられていて楽しみでした。

ある時に酒井三良の掛け軸が掛けられていたのですが、当方はまだ酒井三良を知らずに叔父から「この画家を知っているかい?」と尋ねられて、「いえ、知りません。」と答えたらとても落胆していたのを覚えています。こちらも勉強不足で赤面するばかりでしたが、それ故か、酒井三良の作品には蒐集の触手が動きます。これもひとつのトラウマかもしれませんね。



朝寒 酒井三良筆 その8
古紙水墨淡彩軸装 軸先木製 共箱 
全体サイズ:横553*縦12208 画サイズ:横362*縦287

展示室廊下に北村西望の作品を手前に展示してみました。



叔父のところには酒井三良の作品が10近くはあったと思います。席画程度の作品からかなりいい出来の作品までありました。



それらの作品を見せて頂きましたが、ただ観ただけでは呑み込めないものです。時間をかけてじっくりと写真を撮影し、時ある毎に新たな作品と見比べてようやく見極めを飲み込めるものです。



骨董とはそういうもので、美術館で観ても呑み込めるものではありません。当方は陶磁器や刀剣、漆器も含めて叔父のところでたくさんのことを学ばされました。



それゆえ多少なりとも見識が身についたと思います。落款と印章、鑑定者の資料を見比べて、ある程度の判断はつくようになりました。

 

この作品の印章は珍しいかもしれません。

*この作品も天地の両脇など虫食いか取り扱い上の不手際で痛んでいます。これは天地交換した方がいいでしょうね。 

 

下記の作品は骨董蒐集始めた頃に購入した作品で本作品と同一印章と思われる印章が押印されていますが、当方で資金帖タウのために売却した作品です。

桜 伝酒井三良筆
紙本着色額装 画サイズ:横330*縦220



共シール等の鑑定の根拠はなく、画帳外しの作品と考えられます。ふさとの桜を描いたのであろうか、力作ではありませんが桜の描写がうまいと思います。

下記の作品は高島屋から45万円で購入した作品ですが。こちらも手放しています。当時は酒井三良の作品は評価が高かったのです。



この作品の箱書き(左)と本日紹介している作品の箱書き(右)を比較してみました。

*贋作で字体をよく真似た作品も見かけられますので似ているだけでは判断しないほうがいいでしょう。

 

勉強不足で知らなかったことを恥じたことは終生の励みに転じるもののようです。

大日本魚類画集 その2 フナ図 大野麥風筆 その4 

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明日からは年末年始休暇で郷里に帰ります。なにやら年末年始は除雪で追われる日々になりそうです。

ブログはしばし休稿となり、1月7日以降の再開となる予定です。

今年一年、拙文のご愛読ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。皆様がよいお年をお迎えになることを心より祈念いたしております。。

先日のクリスマスの夕方に茶室の縁側で洗濯物を取り込んでいたら息子が「お茶!」と・・、息子に催促されて茶席で皆でお茶することになりました。当日の茶室の飾りは下記の通りです。



家内があらかたの茶を点てましたが、最後は小生が胡坐のまま自作の茶碗で点てました。



さて本日の作品紹介は大日本魚類画集の作品の「その2」です。「その1」は「ニジマス」でかなり状態のいい版画でしたが、今回はジャンク品?? 大野麦風の作品で本ブログでは「フナ図」は肉筆の作品も紹介していますので、「ニジマス」やその作品も並行して参照してください。
 
大日本魚類画集 その2 フナ図 大野麥風筆 その4 
紙本淡彩額装 版画
画サイズ:縦*横(未測定)



1937年8月発行の500部限定で各期12点ずつ、計6回で72作品が発行されています。本ブログで紹介した最初の「ニジマス」は最初の1期目の10作品目で1938年5月発刊ですが、本作品と同様にそのときの彫師は「藤川象斎」、摺師は「彌宜田萬年」と本の掲載作品にあります。

 

後日摺師は変更になっていますので、この作品は初期の作品と判断されます。



額には摺師などの部分を隠して収められており、マットの部分の跡が残っています。



版画は基本的に耳の部分も含めて見せて額装にするものですから、このような額装は素人のすることです。



基本的に額装にしないほうがいいという判断もあります。



大日本魚類画集は1937年8月発行の500部限定で会員制にて各期12点づつ、計6回で72作品が発行されています。全作品が揃って市場にでることはまずないということらしいです。

バラ売りもあったらしいのですが、詳細は不詳です。大日本魚類画集については東京ステーションギャラリーで2013年に展覧会を催したのでご存知の方も多いようです。

額のマットを直して展示中です。基本的に版画などは耳の分も表に出して額装するのが基本のようですが、本作品のように耳の部分の記載がなにもなく摺師と彫師が画中にある場合はこのような額装のほうがいいとも思っています。



マットの跡も思いのほか気にならにようになりましたが、前のようにマットを摺師の部分などを隠すとマット跡がついてたりして評価が下がりますので、版画の額装には十分御注意が必要です。



浮世絵もしかりですが、長い間の展示は基本的に絵画には禁物です。



前述のように2013年に東京ステーションギャラリーにて「大野麥風展」が開催され、図録が発刊されています。



その図録には本作品も掲載され、1938年3月第8回の出版であることが解ります。



当時のままの作品についての説明も記述されています。



現在では72作品すべてを入手するのは困難とも言われています。

ちなみに最初に紹介した「ニジマス」の作品もまた図録に掲載されています。



説明は下記のとおりです。



まだ2作品目の入手ですが、少しずつ揃えてみたいと思います。長い道のりに一歩を踏み出した感じです。

私のお気に入り 信楽灰被桧垣紋壺 北大路魯山人作 その1

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昨年から今年にかけての休暇は少し長めに郷里に居ることにしました。昨年は仕事や近親者で身近の大切な人の多くが亡くなり、ゆっくりしたかったためです。心配された大雪もそれほどではありませんでした。



帰郷したその夜には小生は同級会。家内と息子はかまくらづくり・・。



落屑した雪でそり滑り・・・、雪が珍しい人間は元気・・・



小生は除雪から・・、手伝った息子は嫌になった? いえいえかまくらを家内が掘ったので自分がやりたくて泣いたようです。



本日紹介する作品は思文閣におられた知人を通しての黒田陶々庵の鑑定を間接的に受けています。正式なものではありませんので正式な鑑定とは言えませんが「真作」との鑑定を受けておりますが、当方ではそれより以前に真作と判断していた作品です。

直浜田庄司、河井寛次郎、金城次郎、バーナードリーチ、魯山人らの作品は真贋の見極めが非常に難しくなっていますので、当方も慎重を期しています。


信楽灰被桧垣紋壺 北大路魯山人作 その1
共箱
高さ300*胴径235*口径135*底径135



現在でも取引価格が高額な作品ですので、こういう作品は氏素性をきちんとしておく必要のある作品と言えましょう。いずれここまで間接的であり、正式な鑑定を受ける必要があろうかと考えている作品です。



本作品のような「信楽灰被桧垣紋壺」は魯山人の代表作のひとつですが、魯山人独特の作り方で作られています。



古壷に石膏を塗って型採りした鋳込という型作りであり、それゆえ同じ形の作品が複数ある可能性があります。



使われた土は、信楽最良といわれている明るい緋色の黄の瀬土と呼ばれている陶土です。



松の木を燃やした窯の灰に、長石をほんの少し交ぜた釉を掛け焼かれているもので、自然釉ではなく意図的な景色です。



力強く彫られた桧垣文に伝わった伊賀釉と呼んでよい自然釉が玉垂れとなって、雄渾なる景色を生み出しています。



古信楽を愛した魯山人の古信楽壺写し・・。「写し」というより魯山人による「信楽壺」ですね。



思文閣の方からは『「ロ」の刻銘が実はあるのですよ。』と言われています。まだ小生にはそこまで見えていない



箱には当時の資料が遺っています。当初は「火土火土美房」で購入したかどうかは不明ですが、いずれなんらかの関わりがあった作品でしょう。

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火土火土美房:(かどかどびぼう)昭和21年(1946年)に開業した銀座にあった魯山人の直営店。在日欧米人からも好評を博した。



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一応、共箱です。本作品は思い切って購入した作品のひとつです。



ところでこのような信楽の壺の作品は魯山人の代表作品ではありますが、魯山人は幾つも製作しています。



驚くことに魯山人の信楽の壺類は轆轤成型ではなく、前述のように「古信楽の壺から型かをとって」、型で作っています。よって大きさや形はすべて似通っています。肩の部分に「ロ」の字がはっきり解る作品もあります。



なお家内は魯山人の作品の市場価格が高すぎると指摘していますが、基本は実用的な食器がメインですので小生もお値段が高すぎる点は認めます。出生からか偏屈な性格であったという魯山人ですが、ただ稀有な美的感覚の持ち主であったことは万人の認めるところでしょう。そして食器以外のこのような鑑賞用の陶磁器にもその才能は如何なく発揮されています。



小生は茶室でごろごろと転がして楽しみながら、魯山人に思いを馳せています。



小生も少し陶芸をやりましたが、無心で土に向かう時が魯山人にとって至上の愉しみであったのでしょう。陶磁器に向き合った人にしか解らない何かがそこにはある。

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