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額の作品の整理 薔薇 萩谷巌画 

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元旦には初詣。忌明けは50日を過ぎたらあとは本人の気持ち次第というの小生の考え。息子と家内を連れだって初詣に出かけました。ただ基本的には鳥居をくくらずの初詣としましたが・・。



小生と家内と息子は揃って着物を着て出かけました。



これから元旦は着物を着てすごそうかと思っています。



小生は家内から高級な大島紬や結城紬は汚すからと許可が下りずウール・・・



息子は七五三で仕立て直した小生のおさがり。二重重ねや真綿入りなど仕立て直す前には北国仕様となっていました。



初詣後に袴参り、もとい墓参り。



さて男の隠れ家にある洋画の作品に「バラの荻谷」と称された萩谷巌の作品がありましたので本日紹介します。

薔薇 萩谷巌画 
油彩額装 左下サイン
画サイズF4号:横*縦 全体サイズ:横*縦



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萩谷巌:サロン・ドートンヌ会員の洋画家萩谷巌は、1979年12月24日心筋硬ソクのため東京豊島区の敬愛病院で死去。享年88歳。



1891(明治24)年12月17日、福岡県朝倉郡に生まれ、1908年福岡県立小倉師範学校に入学したが、画家を志望して家出し翌年上京、長尾一平の磯谷商店に書生として住み込み、白馬会葵橋洋画研究所の夜学部に通って石膏デッサンから始める。11年磯谷をやめ新派の喜多村緑郎一座に、翌年大阪で川上貞奴一座に加わり背景画の仕事に携わる。

19年第7回光風会展に「筑後川」、翌年の第8回展に「梅林」が入選する。22年渡仏しパリでアカデミー・コラロッシュのシャルル・ゲランの教室に通い、この頃からキスリング、ドランらと親交を始める。24年サロン・ドートンヌに「モンマルトル風景」が入選、以後同展やアンデパンダン展、サロン・ナショナル・デ・ボザール展などに出品し、26年サロン・ドートンヌ会員に推挙される。27年帰国し帰朝洋画展(日本橋三越)を開き、翌年から33年まで再渡仏する。帰国後、団体展に所属せずもっぱら個展で制作発表を行う。戦後も三回渡仏し、帰国後滞欧作展を開く。

バラの絵が得意で“バラの荻谷”といわれた。79年、米寿の回顧展が東京、福岡で開催され、『荻谷巌画集』(日動出版)が刊行された。

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萩谷巌の詳細の来歴は下記のとおりです。興味深いのは戦後まもない1945年以降の4年の間に我が郷里にて居住し、各地で個展を催していることです。これを機会にして祖父か父が購入した作品と推察されます。

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サロン・ドートンヌ会員の洋画家萩谷巌は、12月24日心筋硬ソクのため東京豊島区の敬愛病院で死去した。享年88。

1891(明治24)年12月17日、福岡県朝倉郡に生まれ、1908年福岡県立小倉師範学校に入学したが、画家を志望して家出し翌年上京、長尾一平の磯谷商店に書生として住み込み、白馬会葵橋洋画研究所の夜学部に通って石膏デッサンから始める。11年磯谷をやめ新派の喜多村緑郎一座に、翌年大阪で川上貞奴一座に加わり背景画の仕事に携わる。

19年第7回光風会展に「筑後川」、翌年の第8回展に「梅林」が入選する。22年渡仏しパリでアカデミー・コラロッシュのシャルル・ゲランの教室に通い、この頃からキスリング、ドランらと親交を始める。24年サロン・ドートンヌに「モンマルトル風景」が入選、以後同展やアンデパンダン展、サロン・ナショナル・デ・ボザール展などに出品し、26年サロン・ドートンヌ会員に推挙される。27年帰国し帰朝洋画展(日本橋三越)を開き、翌年から33年まで再渡仏する。

帰国後、団体展に所属せずもっぱら個展で制作発表を行う。戦後も三回渡仏し、帰国後滞欧作展を開く。バラの絵が得意で“バラの荻谷”といわれた。79年、米寿社会の回顧展が東京、福岡で開催され、『荻谷巌画集』(日動出版)が刊行された。

略年譜
1891 12月17日、福岡県朝倉郡に生まれる。芳吉、アキ長男。父祖代々、秋月藩候に茶道をもって仕えた家柄であった。

1898 荷原尋常小学校に入学。
幼少の頃から絵を描くことが好きで、小学生時代、習字や算術の時間に絵を描いてよく教師に叱られた。

1902 荷原尋常小学校卒業。
金川高等小学校に入学。
高等小学校の頃、家にあった田能村直入、木下逸雲などの軸ものを模写している。

1906 金川高等小学校を卒業。
福岡市の予備校、予修館に入学する。
画家になりたくて、父に懇願したが許されず、やむなく師範学校に進学することにした。

1908福岡県立小倉師範学校に入学。
画家になることをどうしても許してもらえなかったので、夏休みを機に家出して、静岡の大叔父萩谷澄人のもとに身を寄せる。静岡に滞在中、静岡出身の額縁製造の草分け磯谷商店の店主長尾健吉の子息一平(当時実家で療養していた)と知り合い、同家に出入りする画家のことや住み込み店員として働きながら世に出た画家の話などを聞き、磯谷商店へのとりなしを長尾一平に頼み込み、ひそかに機をうかがった。静岡の大叔父は、画家志望には理解を示したが、油絵をやりたい本人に日本画の竹内栖鳳に弟子入りすることをすすめたりして、意見が合わなかった。

1909 1月、大叔父に無断で上京し、東京市芝区新桜田町19、磯谷商店に住み込みの書生として雇われる。かねて前記の長尾一平と打合わせて決行したことであった。磯谷での仕事は、店の掃除、額縁の配達、集金などで、時に、竹之台陳列館でひらかれる展覧会の搬出入や陳列の手伝いもやらされた。夜は、白馬会葵橋洋画研究所(赤坂区溜池町3番地にあった)の夜学部に通うことが許され、石膏デッサンから絵の勉強を始める。黒田清輝は滅多に姿を見せず、和田三造が主任で時折教えた。同じ時期に研究所に来ていた岸田劉生とは同年だったこともあって直ぐに親しくなり、銀座2丁目の劉生の家(精錡水本舗)に遊びに行ったりした。
11月、市川左団治による自由劇場第1回試演(有楽座)の折り、岡田三郎助の下で背景制作の手伝いをする。

1910 秋、白馬会会員を中心とする展覧会に日比谷公園のつつじを描いた水彩画が入選する。

1911 この年三月に開場した帝国劇場には、パリのオペラ座を模した天井画と壁画が描かれているが、これは和田英作が主任となり、東京美術学校出身の藤田嗣治、近藤浩一路らを助手にして制作したものである。制作中、磯谷からの指示で手伝いに行き、絵具を練ったり、高い所へ運んだり、たまに空の部分を塗らせて貰ったりした。
この頃、磯谷商店をやめ、新派の喜多村緑郎一座に加わり、背景主任として各地の巡業について回る。

1912 後藤良介一座に加わって朝鮮の釜山にわたったが、明治天皇崩御(7月30日)に際し、一座は解散し、しばらく釜山で同地の名士の肖像画を描いて糊口をしのぐ。
帰国後、大阪で川上貞奴一座のために背景を描く仕事をする。

1913 大叔父萩谷季雄が校長をしていた大阪府北河内郡南郷小学校で個展をひらき、生駒山で描いた四号の作品四十余点を出陳する。同村出身の代議士西村氏の斡旋による。この時、近藤浩一路が大阪から駆けつけ、似顔絵の席画をして応援してくれた。

1914 大正4年にかけて岡山市の親戚中島次郎吉の世話になり、主に県内の名士の肖像画を描いて生活する。後に、井原市西江原町の医師大山恒宅に寄寓する。

1917 この頃、福岡に帰る。

1919 三月、光風会第7回展に『筑後川』が入選する。

1920 五月、光風会第8回展に『梅林』が入選する。

1921 三月、大原孫三郎収集の現代フランス名画展(岡山県、倉敷小学校)を見に行き、シャルル・ゲランの赤いスカーフの少女像(「手鼓を持つイタリアの少女」)の暖かい色彩のハーモニーに魅了される。フランスに留学する時にはゲランに師事しようと決めていたと言う。
福岡で、松永安佐衛門、弁護士日下部政徳、玄洋社々町進藤喜平太、和田三造の四人が発起人となり、渡欧後援会が組織される。

1922 この頃、門司市に移り、三井銀行支店長役宅にて作画に専念する。
三井物産支店長島田勝之助、巴組社長中野金次郎、日本製粉支店長八尋俊介、三井銀行支店長大島弥太郎、アサヒセメント支店長宮川総一郎らによって第二次の渡欧後援会が設けられ、留学費を調える。
十一月、門司港から日本郵船箱崎丸に乗船し、渡仏の途に就く。
パリではカンパーニュ・プルミエール街九番地にアトリエを借りて住む。

1923 アカデミー・コラロッシュのシャルル・ゲランの教室にはいる。ゲラン門下に、早く1920年に渡仏した小山敬三があり、通訳の労をとってくれた。ゲランの教室には一年半通い、その後も絵を見て貰って、絵のつくり方ということについて厳しく教えを受けた。
キスリングとはアトリエが近かったこともあってよく往き来し、またドランとも親しく交わった。

1924 サロン・ドートンヌに『モンマルトル風景』が入選する。

1925 初夏の頃、大阪毎日新聞門司支局において、サロン・ドートンヌ入選を記念する個展が開催され、後援会の人たちも面目が立った。
この年、アンデパンダン展に『静物』が入選、サロン・ナショナル・デ・ボザール展にも入選する。

1926 3月、第31回アンデパンダン展に『魚のある静物』ほか一点が入選する。
5月、サロン・ナショナル・デ・ボザールに風景2点が入選する。
9月、日本橋、三越呉服店において個展をひらき、『モンマルトル風景』『リュ・ベロニー』『セーヌ河畔』『魚のある静物』『パンテオンを望む』『田舎娘』など滞欧作約50点を発表する。
10月、サロン・ドートンヌに『静物』『風景』が入選する。
10月21日、サロン・ドートンヌ会員に推挙される。この年、ロンドン日本人クラブで個展をひらき、出品作40点を売約する。

1927 8月、帰国する。
9月、日本橋、三越呉服店において萩谷巌帰朝洋画展が開催される。滞欧作69点、帰国後の作品2点を出陳。
11月、大阪朝日新聞社楼上において滞欧作を主とする個展をひらく。

1928 この年、日本工業倶楽部で個展を開く。
7月、シベリア経由で再度渡仏、リュ・クルヴールのアトリエに落ち着く。

1929 ベルギーのブリュッセルにおいて、パリ在住の日本人画家の展覧会が開催されるに当り、柳亮と共に代表者として現地に赴く。同展覧会に出品した薔薇の絵がベルギー王室に買い上げられた。

1930 パリで開催された日本人画家展に出品、『南仏風景』がフランス政府に買い上げられる。

1933 サロン・ドートンヌ審査員となる。
ロンドンの日本人クラブで個展をひらく。

1934 4月、帰国する。

1936 11月、福岡、岩田屋において個展をひらく。

1938 6月、神戸、大丸百貨店において個展をひらく。

1939 5月、日本橋、三越において近作個展をひらき、『松間の富士』『静かなる朝』『呉須鉢と支那壺』『東京風景』などに数点の滞欧作を加えた40余点を発表する。
9月、大阪、三越において個展をひらく。

1940 3月、日本橋、三越において、萩谷巌、林倭衛、木下孝則洋画展が開催される。この年、麹町2番丁に転居し、別に麹町1番丁にアトリエを構える。

1942 3月、数寄屋橋、日動画廊において個展をひらく。

1945 5月25日、アトリエと住居が同時に戦災に会い総てのものを失った。

8月、秋田県大曲町に疎開し、以後4カ年余をここに過ごす。この間、秋田市、大館、能代、船川等で個展をひらく。

1950 この年、豊島区千早町1の45に転居する。

1952 8月、渡仏する。
アメリカのコロンビア美術館で個展をひらき、出品作『花のいろいろ』が同館に買い上げられる。

1953 3月から5月にかけて、北アフリカ写生旅行に赴く。
6月、パリのテデスコ画廊で個展をひらき、アルジェ、モロッコでの制作のほか静物などをまじえた21点を発表する。
10月、帰国する。
12月、日動画廊において滞欧作展をひらく。

1954 6月、丸の内、日本工業倶楽部において個展をひらく。

1955 8月、大阪、梅田画廊において滞欧作品展をひらき、滞欧作品18点、帰国後の作品15点を発表する。出品作品次の通り。
『アルゼリー港』『小市場』『コンコールドの広場』『ブルバール・ド・モンパルナス』『アルゼリー風景』『フェーズの寺(モロッコ)』『セーヌ河岸』『街の角(モンマルトル)』『ラ・フネートル(アルゼリー)』『カズバ(アルゼリー)』『モロッコの村落』『パリーの古い街』『チューレリー公園』『モンマルトル風景』『廃屋(アルゼリー』『ポンヌフ(パリー)』『スタチセの花等』(以上滞欧作)『白桃』『ばら(李朝の壺』『豊果』『菊の花』『果物』『ばら(カットグラス)』『あざみ(青磁)』『黄ばら(ペルシャ壺)』『カトレア』『ばら(李朝の壺)』『カーネーション』『ばら(フランスの壺)』『ばら(宗の壺)』『壺と皿』『黄菊白菊』(以上帰国後の作品)

1956 1月、日動画廊においてて「静物」油絵展をひらき、『アネモネ』『黄ばら』『菊の花』『黄菊白菊』など花と壺を主とした静物ばかり十九点を発表する。
12月、日動画廊において油絵展をひらく。

1957 3月、造形ギャラリーにおいて個展をひらき、近作の小品20点を発表する。

1665 6月、アラスカの日本商社アラスカ・パルプの依嘱を受け、太平洋岸のシトカやヘインズの町を訪れて風物を写す。
帰途、カナダに立ち寄り、ケベック、モントリオールなどで画襄を肥やした後、パリを経て12月に帰国する。
1966 6月、日動サロンにおいて近作展をひらき、前年にわたる旅行の収穫(アラスカの部12点、カナダの部10点、パリの部11点、花の部6点)を発表する。

1967 11月、名古屋日動画廊において個展をひらく。

1968 2月、福岡玉屋において近作展をひらき、さきのアラスカ、カナダ、ヨーロッパの旅の収穫に花卉などをまじえた約50点を発表する。
10月、大阪、カワスミ画廊において新作展をひらき、花を主題にした作品に『関門風景』などの風景画を加えた約20数点を発表する。

1969 10月、京都、祇園画廊において個展をひらき、『壺に花』などの新作20数点を発表する。

1970 7月、大和新潟店において海外風景展をひらき、『広告塔のある風景』など新作油絵20点を発表する。
8月、日動サロンにおいて個展をひらき、薔薇を主にした花ばかりの新作32点を発表する。
9月、名古屋日動画廊において個展をひらく。

1971 4月18日、パリへ出発する。戦後3度目、通産5度目である。パリのまんなかのサンルイ島に宿をとり、制作三昧の日を過ごす。80歳を迎えて、やはりパリに行ってみようという気持ちになった。80歳を超えてなお多くの優作を遺した富岡鉄斎にあやかりたい心境も覚えた。

1972 9月、帰国する。
1年5ヶ月に及ぶパリ滞在中80点の作品を制作した。10月、大和新潟店において滞欧作品展をひらく。

1973 3月、銀座、ギンキョウ画廊において巴里風景展をひらき、『朝のポンマリー』『早朝のセーヌ河畔』『朝のコンコルド』『4区の古い家屋』『巴里の朝(サンポール持院)』『秋のサンポール寺院』『マロニエの咲く頃』『モンマルトル公園』など約40点を発表する。

1974 6月、福岡玉屋において個展-花と巴里風景-をひらき、巴里風景17点、花25点を発表する。

1975 この年、秋月郷土美術館(秋月郷土館に併設、10月開館)のために『秋月風景』を制作する。

1976 1月、日動サロンにおいて近作小品展をひらき、『洋らん有田焼』『李朝ばら』『ばらとミモザ』『ノートルダム(サン・ルイ島より)』『街角のレストラン』『ポン・サンミシェル』など静物とパリ風景ほか富士を描いた作品をふくむ40点を発表する。
3月、名古屋日動画廊において個展をひらく。
5月、大阪、カワスミ画廊において花と風景の個展を開く。

1979 米寿記念回顧展(東京・福岡)が開催される。
11月、『萩谷巌画集』(日動出版)が刊行される。
(本年譜は、『萩谷巌画集』(’79年、日動出版)所載の「萩谷巌略年譜」を転載したものである。)

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戦後の間もない頃に当方の郷里で開催された個展。地方が力のあった時代が懐かしいですね。



おそらく祖父が購入した70年ほど前の作品を母が大切に保存してきたものですが、改めて資料を添えて保管にしておくことになります。

着物も骨董品も時空を超えて次世代の伝えていくのが先人の役目というもの。むろんその意義まで含めて・・・、この基本的な義務を果たさぬ者に未来はない

リメイク 額の作品の整理 杜若 中村岳陵筆 その1

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男の隠れ家に巻きストーブがついたようです。



久方ぶりに小生も火おこしから・・。



たしかに寒い北国には薪ストーブが良く似合う。

本日紹介する本作品は2011年7月に実は本ブログに投稿されている作品です。男の隠れ家に展示されていたりしましたが、タトウや説明書きの資料も未整理の作品でしたので、そのよう
な作品整理のために持ち帰った作品のひとつです。

リメイク 杜若 中村岳稜筆 その1
紙本水墨 色紙 額装タトウ入



本ブログは初めてもう10年近くなりますが、最初の頃は写真撮影もままならず、資料不足や知識の稚拙さもあって資料を整理しなてはいけない作品が多数あります。



当然当方は素人ゆえ、資料の整理ではあとからあとから解ってくることが多いのでいイタチごっこのようなものです。



それはそれで愉しむ余裕が必要ですね。

*本作品の落款と印章は上記のようになっています。



男の隠れ家にある作品はまだまだ資料や保管状態が未完のものが多く、資料を添えて後世に遺すにはまだ時間がかかるようです。ただブログに投稿するほどの作品は少くなってきたので、今後投稿するほどの原稿になるかどうかは解りません。

毎日降る雪で軒下のスロープは高さを増し、そして撒いた水で良く滑るようになりました。



近所の女の子も滑って遊ぶようになりました。

額の作品の整理 父の作品

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家内が墨汁は?と言い出したので、何事かと思ったら書初めを始めてました。



「お父さんは?」と息子が言うので久方ぶりに書初めに付き合いました。



本日の作品紹介は父が描いた作品です。男の隠れ家には母が保管していた父が描いた作品があります。父は若い頃から福田豊四郎氏と交友があり、絵の手ほどきを受けていたようです。



当方で額を誂えて作品もありますが、数はそれほど多くはありません。



本作品はサインなどはありませんが、母によると父の作品だとのことです。



母がまとめて倉庫の置いてありましたが、小生が額を誂えたり、ガラスでカバーしたり、タトウに収めたりしました。小生が中学校に進級したばかりの頃に父が亡くなったので、父の絵を描いていた記憶はあまりありませんが、父の作品は大切にしたいと思っています。



手元に遺っている作品は数点しかありません。母によると父は他人に所望されるとすぐに差し上げてしまうところがあったとのことです。



この作品は小生のお気に入りの作品です。どこの風景でしょうか? 父は北海道の大学に学んだことがあるので北海道の風景かもしれません。



完成しているかどうか????



こちらもタトウに入れてきちんと身づくろい?をしておきました。整理そたあとのことは息子に託するだけ・・・。



このような作品は金銭的な価値より小生にとっては重要な価値があるもの・・。

明末(清朝初期)呉須赤絵 花鳥紋菓子鉢 その4

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郷里では秋田犬の散歩に出会うことがままあります。本日は駅前で「タロウ君」に出会いました。まるで熊のような大きさですが、秋田犬の毛の長いタイプの種類だとか・・・。



さて本日の作品は、茶人が好んで用いた明末呉須赤絵の作品ですが、「呉須赤絵」と称される作品は時代による差、そして日本や安南などで倣作された作品群などを区別してきちんと分類しなくてはいけないように思います。

*日本で作られた作品は雑味が少なく、きれいなものが多いという特徴があり、また安南の作品は貫入の多い釉薬に特徴などで一見してわかるものが多いようです。

*明末の作品は虫喰が多く雑味に溢れていますが、清朝に入ると虫喰が少なく綺麗な作品が多く雑味が少なくなります。きれいなほうが却って評価が下がるものと当方では判断しています。

明末(清朝初期)呉須赤絵 花鳥紋菓子鉢 その4
窯傷補修跡 合箱
口径238*高台径86*高さ92



呉須赤絵の作品の代表格は大盤。要は大きな皿ですね。次が香合などの小物、続いて本日紹介する鉢類ですが、意外に少ないのが碗類のようです。

*輸入された「呉須赤絵」の作品は日本からの注文品が主流ですので、明末赤絵は茶碗などには向いていないと判断されたか、煎茶が主流だったためかと当方では推察しています。



呉須赤絵の約束事は虫喰に砂高台ですが、前述のように明末を過ぎてからの清朝初期の作品には虫喰がなかったり、砂高台は鉢類などには盤ほどたくさん砂が付かない作品も見受けられます。



日本で作られた呉須赤絵の作品はその点を忠実に写している作品は意外に少なく、綺麗な作品が多いようです。この理由は大量生産のよる雑さより徐々に綺麗さの評価が高くなったのかもしれません。奥田潁川などはその点、明末の作品の基本的なところを忠実に再現しています。土なども中国から輸入したものを使用していたそうです。



当方では本作品は清朝初期の作品と判断しています。



根拠は明末ほど雑味の魅力はないという点です。ただ絵付けは洒脱な点です。この作品の見どころは絵付け、これは鳩・・・・???



明末呉須赤絵の鉢類は明時代では大きさは高さが10センチを超えますが、この作品は高さが10センチを超えません。碗類が出回る清朝初期の頃の作品ではないかと推測しています。

日本の永楽のような京焼、犬山焼の優れた模倣作品でもここまで洒脱ではありません。



轆轤の跡が残っているのも清朝初期の特徴か? 日本で作られた赤絵の作品も轆轤の跡があるものが多いので、本作品は日本の作かとも思ましたが、中国で作られたものに相違ないようです。



釉薬の剥がれが出そうで出ない、高台廻りがきれいになっている点からも明末ではないと判断されます。なお呉須赤絵は時代が下がるほど評価が下がります。



箱にはこの点の判断をすべて避けて「呉須赤絵鉢」とあります。ただ「唐物」と表記していますが、当方の推察と同等の判断をしたのでしょう。



呉須赤絵の作品は見込みも赤絵の作品が多いですが、稀に青釉で描かれた絵付けの作品もあります。この作品のような青絵の作品のほうが少なく、この点がこの作品を入手した大きな理由です。



繰り返しのなりますが、鉢や碗類に限らず呉須赤絵の魅力は絵付けです。



時代云々を優先して記事にしましたが、時代もさることながら絵付けに魅力があるかないかが呉須赤絵の最大の評価のポイントだと思います。



今まで本ブログに投稿された鉢、碗類の絵付けを幾つか掲載してみました。



当時の粋人は時代時代でいろんなものに美を見出して、日本のものとしている点は感心します。



なお前述のように呉須赤絵の作品はすべて日本からの注文品であり、現在の中国には呉須赤絵の作品は存在していません。

*高台内の文字は日本からの注文先なのでしょう。雑味を珍重したことから多少の窯割れのある作品も出荷しています。



菓子鉢から始まり、香合、碗、そして水指・・。



茶人はその時代時代で美とは何ぞやを追求した粋な人々のことであり、決して茶事そのものに優れた人のことではありません。



呉須赤絵の作品は赤絵の出来の面白いもの、虫喰いや砂付き高台のあるものがが一番評価が高く、時代の下がったきれいなものや青色の作品は後塵を拝しているようです。



青色の絵付けの面白い羅漢などを描いた作品も好きですが、器の出来がやはり評価に影響しているのかもしれません。

*一言で明末呉須赤絵といってもかなりの種類があり、今少し当方も学習しないいと明確な判断基準が当方の知識ではまとまっていません。

福田豊四郎 色紙 「里の秋」&「野菜」 その90 & その91

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昨年末は天候も不順で帰郷できた人も少なく、同級生も4人の集まりとなり、男の隠れ家の食事も4人だけと寂しくなりました。それでも息子は郷里が気に入り、「もっと居たい。」とか「また来る。」と郷里が相変わらず気に入っているようです。食事の支度や片付けも言われないのに相変わらず手伝っています。手伝う袴姿はまるでお運びをする「からくり人形」のようです。



さて「インターネットオークションからの骨董品の入手」にはうしろめたさを感じる人や贋作と決め込む方が多いようですが、決してそのようなことはありません。骨董店からの入手でも贋作の比率はそれほ変わりはしませんし、数が多い分だけ掘り出し物も多いのがインターネットオークションです。鑑識眼の高い方ほどインターネットオークションでいい作品を仕入れる人が多いと思います。落札する人が多いので数多く捌けるのもインターネットオークションです。業者でインターネットオークションを毛嫌いする人は時代に乗り遅れるでしょう。

本日はインタネットオークションと専門店から入手することの多い福田豊四郎の作品の紹介です。お値段はほぼ専門店と同じくくらいの価格で二作品を同時に入手しました。

里の秋 色紙 福田豊四郎筆 その90
紙本着色色紙 タトウ入
画サイズ:縦270*横240



「里の秋」の童謡を思わず歌ってしまうような福田豊四郎の世界です。



『里の秋』の作詞は斎藤信夫、作曲は海沼実だそうです。

1 静かな静かな 里の秋
お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実煮てます いろりばた

2 明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ父さんの あの笑顔
栗の実食べては 思い出す

3 さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ父さんよ 御無事でと
今夜も母さんと 祈ります

1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送されたのがヒットの始まりだそうです。

1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、
2番では出征中の父親を夜空の下で思う様子、
3番では父親の無事な復員(ここでの椰子の島、船という言葉から父親は南方軍麾下の部隊にいることが窺える)を願う母子の思いを表現しているのだそうです。



実はヒットする前には1番、2番に続く3番、さらに実は4番があり、下記のような歌詞でした。


きれいなきれいな椰子の島
しっかり護って下さいと
ああ父さんのご武運を
今夜も一人で祈ります


大きく大きくなったなら
兵隊さんだよ うれしいな
ねえ母さんよ僕だって
必ずお国を護ります

最初は『星月夜』というタイトルで、太平洋戦争開戦に湧く昭和16年、作詞の斎藤自身も高揚した勢いで書き上げ、実は、歌詞も4番まであったのだそうです。斎藤信夫は、元々は小学校の教師をしていました。その頃から、数多くの作詞をしていたようですが、当時はまだ日本の軍国主義に従って生徒らにも『神州不滅』と教えていたそうです。『神州不滅』とは、読んで字の如く、”神州(神の国)は不滅である”という意味で、昭和から太平洋戦争終結まで軍部のスローガンとしても使われていたのだとか。それを小学校の生徒らにも教えていたということですね。

軍国主義はなにからなにまで愛国心を高揚することに利用する怖さがありますね。



ちなみにこの絵を描いたのは昭和10年頃ですから、「里の秋」の歌が後ですね。

さて次の作品は「野菜」・・、そのままの仮題ですが・・。

野菜 色紙 福田豊四郎筆 その91
紙本着色色紙 タトウ入
画サイズ:縦270*横240



「茄子」、「胡瓜」、「稲」、「さやえんどう」・・・・・、「秋の収穫」という題かな?





ふたつの絵を並べると不思議とまたあの歌詞を口ずさむ。

静かな静かな 里の秋
お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実煮てます いろりばた



これが福田豊四郎の作品がノスタルジックと言われる主因でしょう。故郷の風景を心に描けない人には解らない。たとえ元が復員を願う歌や戦争賛歌の歌でも我々戦後育ちには「故郷」の歌のひとつなのです。ただその反省すべき歴史を忘れてはいけないと思います。



両作品の落款と印章は下記のとおりです。どちらも昭和初期(昭和10年)の頃の作でしょう。

 

近々、福田豊四郎の作品を整理して制作年代の特定ができるようにしようと思っています。



額に入れた飾るとたとえ色紙の作品でも見え映えのするものです。



今回はちょっとした予備にとっておいた額ですが、似たような揃いの額に入れてみました。



最初の写真のような安っぽい額はよくないですね。



もっといい額に入れても良かったのですが、どうも時間がなく手近にある額で間に合わせてしまいました。

何気ない色紙の作品でも調べるといろんなことが解ってきます。骨董というのは作られた時代の背景をよく調べることが重要です。評価や真贋なのはその次でしょう。自由な時間のない小生はもっと時間が欲しい・・・・。

*当方の源内焼、天龍道人などはインターネットオークションで入手した作品です。流通数の少ない作品群はインターネットオークションの利用が効果が大きいようです。ただし今では駄作が多く、インターネットオークションでの入手すら難しくなっています。

源内焼 その116 三彩鳳凰文皿 

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年末年始のテレビ番組はあまりにもつまらないので、面白そうなものだけ予約録画しておきましたが、その中でNHKの香川照之出演の「カマキリ先生」という番組を面白く拝見しました。香川照之氏は昆虫が大好きで、収録中に一時間もの間、「クワガタ」の話を続けたそうです。むろんテレビではすべてカットされたようですが、大人の趣味とはそのようなものだと思います。

一時間、持論を語れるものがありますか? 仕事の自慢話やゴルフの経験談ではむろん論外です。仕事以外のもので自分で勉強し真理に基づいた持論を展開できる趣味を本当の趣味というのでしょう。

さて本日は作品が「その116」となった源内焼の作品の紹介です。小生は果たして源内焼について一時間語れるかどうか? ちょっと自信がないですね。

源内焼 その116 三彩鳳凰文皿 
誂箱 
最大口径242*底径*高さ50



源内焼の作品の図柄には鳳凰の作品が多種ありますが、この作品の図柄は稀有な作品のようです。図集を探しても見当たりません。



作品そのものは江戸期の作品に相違ありません。



このような丁寧な作りの作品は多少の歪みがあっても完品であり評価は高くなります。



中央部の鳳凰の彫、口縁の唐草文様の彫の出来が評価を左右します。



源内焼は胎土が弱く、また表面が傷つきやすいので、保管状態が評価に大きく影響します。擦れや欠けの醜いものは入手しなほうがいいでしょう。



源内焼には「舜民」や「民山」という刻印はよく見られますが、本作品の裏面にある「民山」?のこの字体の刻銘は稀有で、こちらも図集には記載がありません。おそらく注文で作られたもので揃いで丁寧に制作された作品のひとつでしょう。このような刻銘のある作品は評価が高くなります。

*「源内」とか「鳩渓」という銘は本来の江戸期の源内焼にはなく、明治以降の再興源内焼の作品で評価は格段に下がります。



源内焼の中皿程度の大きさには「鳳凰文」の作品は多く、本ブログにて投稿された下記の作品らは図集にも掲載されています。

源内焼 その55 三彩陽刻桐二鳳凰図皿
合箱
口径255*高台径167*高さ50



ただ本日投稿された作品は図集には掲載されたおらず、非常に珍しい作品のようです。

源内焼 その56 三彩陽刻桐鳳凰図皿
合箱
口径255*高台径165*高さ50



裏側に「民」なその刻印のある作品は特別注文の作品が多く、本日の作品もその可能性が高いと推察されます。

源内焼 その83 三彩桐鳳凰文五稜皿 
合箱入 
口径173*底径122*高さ28



これほど多くの鳳凰の文様が源内焼に用いられたことは単なる吉祥文様というだけではなさそうです。

源内焼 その98 三彩桐鳳凰文(輪花)皿 その2 
合箱入 
口径254*高台径*高さ43



これらが揃ってくるのも蒐集の楽しみでもあります。

*源内焼のいい作品が市場の出なくなりました 当方も蒐集として残っているのは地図皿のみかもしれません。

茄子 中村岳稜筆 & うり坊

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米吉しから届いた今年の干支の人形の紹介です。



今回はガラスケースに収められています。



ビールを片手にラグビーをする猪・・・。



お尻がかわいい・・。



今年もまた傑作!



角度によって表情が変わるのも面白いですね。



手作り感があってとてもよい作品だと思います。



一体年末に何体作るのでしょうか?



しばらくは茶室の特等席に鎮座。



一個一個が手作り、同僚の作です



さて母曰く、私が幼少の頃に祖父が上京した際にお土産に大塚工藝社の複製された色紙を大量?に買ってきたことがあったそうです。お土産に配ったそうですが、その作品のいくつかが別家である当方にもあり、そのひとつに中村岳陵の「茄子」を描いた作品がありました。



今は男の隠れ家にどこかに収納されているのですが、現在でも大塚工藝社から同じ作品が販売されており、それが上記の作品です。よく見ると印刷ということは一目瞭然なのですが、当時としては画期的な技術だったようです。

その印刷作品とほぼ同図の肉筆の作品を入手しましたので投稿します。

茄子 中村岳稜筆
紙本水墨 色紙 額装タトウ入



川合玉堂の作品でも紹介したようにこのような作品には原画が存在します。何点か同じ構図の作品を描くこともあったようです、まったく同図でない場合もあるようです。



色紙の作品といえども中村岳陵の真骨頂の作品と言えます。



これは肉筆に相違ありません。解りやすい見極め方のひとつに色紙の縁に墨や絵の具がのっているか否かがあります。



これは工芸品の原画というより誰かに差し上げた作品のようです。



きちんとした額に収められています。市販品でこのような色紙額はなかなかありません。



タトウに黄袋が付いています。



印章と落款は下記のとおりです。白文朱方印「▢▢荘」のようです。この印章はいくつかあるようです。右は他の真作の印章です。

 

最終的な真贋は後学としますが、おそらく真作でしょう。

自分の過去のものをひとつずつ清算していくような局面が骨董蒐集にはあるようで、因縁を感じる作品に出会うことがあるものですね。

この度の年末年始の休暇で帰省した際に、「大塚工藝社」の作品を探してきました。上記の中村岳稜の「茄子」と徳岡神泉の「蜜柑」の作品がありました。

中村岳稜の「茄子」(大塚工藝社製)





 

工藝印刷でも色紙の縁には色がついている場合があります。全体が滑ったように滑らかな点で工藝作品と判断するのが一番でしょう。

徳岡神泉の「蜜柑」(大塚工藝製)





 


裏には「大塚工藝社」の印があるので、工芸品とすぐに解るのですが、この印を何らかの方法で消去している作品がインターネットオークションで肉筆として出回っていますので、印刷か否かを疑ってよく見ることが必要です。

中国には水孔版画というもっと精巧な工芸作品がたくさん出回っていますが、肉筆を思っている方が数多くいます。これは素人には見極めができないものですので、当方のような素人は中国絵画には手を出さないことが原則だと思っています。

群鮎之図 小泉檀山筆 その3

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昨年は当方で不幸が相次ぎ仏壇に向かう機会が多くなりました。男の隠れ家のもありますが、帰京したこちらの仏壇に遺影の写真が増えたきました。そこで観音像に厨子を備えました。



縁あってこの厨子を入手しましたが、その背面にはこの厨子を誂えた理由が書かれています。



高岡市の火災に後に誂えたもののようです。高岡市に土蔵造りの町家が造られたのは、市街地の約6割を焼き尽くした明治33年(1900)6月27日の高岡の大火に起因しています。



その災害に際して明治天皇の御勅命に感動して子々孫々まで伝えるために作られた厨子のようです。日本人にはいつの世も天皇というのは心強い心棒のように存在しているものなのでしょう。いかなる場合も軍事国策に利用されることはもはやしてはいけないことでしょう。



さて鮎を描いたら小泉檀山、鯉を描いたら因幡画壇の土方稲嶺、黒田稲皐ら、虎を描いたら岸派の佐伯岸駒らと江戸時代にはちょっと亜流?な画家に眼を向けると面白いものです。

円山応挙、伊藤若冲、長澤芦雪らの主流となった作品も面白いですが、それはそれで一流すぎて蒐集対象としては高嶺(高値)の花です。むろん亜流とはいう表現は正しくありませんが、亜流とはいってもそれ相応の価格で取引されている画家の作品ですが・・。

本日はそのなかで小泉檀山の作品を紹介します。

群鮎之図 小泉檀山筆 その3
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1910*横476 画サイズ:縦1070*横362



小泉斐の典型的な構図の作品ですね。

 

小泉斐(あやる)の作品の特徴には下記のものが挙げらます。

・鮎が一匹だけ跳ねている
・上ひれが大きく一匹だけ描かれる
・色彩が直接書き込まれ、ひれに色が二重に書き込まれる

ただしすべての作品がそうであるとは限りませんので、あくまでも原則論として考えたほうがよいようです。



小泉檀山(斐)の作品といえばやはり鮎図ですが、制作依頼も大変多かったと考えらます。「老人」という落款から晩年の作と推察され、若い頃はもっと葦の葉などきれいに描かれているのですが、本作品はいわば雑な点もありますが、晩年の作としては丁寧な描き方のほうで、雑とはいってもこれはこれで味になっている



評価の基準としてはよく鮎一匹が20万円とも言われています。



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小泉檀山:小泉 斐(こいずみ あやる)とも称される。明和7年3月(1770年)~ 嘉永7年7月5日(1854年7月29日)。

江戸時代後期の画家。殊に鮎と猫は真に迫るといわれた。本姓は木村。幼名を勝、諱は光定、字を桑甫・子章とし、檀山・青鸞・檀森斎・非文道人などと号した。下野国の人。下野国芳賀郡益子(現在の栃木県芳賀郡益子町)に生まれる。父は鹿島神社神官の木村一正、母は片岡氏。幼少より絵を好み、11歳で高田敬輔の門人島崎雲圃に入門。唐美人図・鮎図などを習う。師との関係から近江に頻繁に出向き、日野祭の山車の見送幕の製作などをしている。

30歳頃、那須郡両郷村(現在の栃木県那須郡黒羽町)温泉神社の小泉光秀の養子となり同社の神官を継いだ。立原翠軒に就いて経学や詩文を修め、その子立原杏所に画を教えた。また和歌、音楽を嗜んだともいう。享和元年(1801年)に、甲斐守に任ぜられ従五位に叙される。

50歳の時に黒羽藩主大関増業より城北の鎮国社宮司職を与えられ、その後は旺盛に画の創作を行った。画は唐の王維を敬慕した。各地から門弟が雲集し30年もの間、画技を伝えたという。「小泉檀山門人録」には100名もの人名が記され島崎玉淵・宇佐美太奇などが育つ。高久靄厓も画技を受けたひとりという。

鮎図に猫が飛びついたというエピソードが伝わる。斐は立原翠軒の従者として寛政7年(1795年)に藤田幽谷などと吉原口から富士登山に成功している。このときを元に製作した「富嶽写真」は富岡鉄斎が富士図製作に携わるとき大いに参考にした。

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鮎の作品は著名だったこともあり、贋作も多いと聞いていますが、本作品は真作と判断してよろしいかと思います。



小泉檀山(斐)の「鮎」の作品は本ブログで三作品目の紹介となりますが、ようやく真に近づいてきたように思います。



印章と落款は下記のとおりです。

  

真に近づいてきたと言ってもまだまだこれからですね。



今までの作品を展示してみました。



常に過去の蒐集作品を見直さないと現状からのレベルアップにはつながりません。ただむろん過去の作品のほうが蒐集として正しいものもあったりします。



著名ゆえに贋作も多く、本日の作品以外の2作品は多少疑問な点もあります。さらなる検証が必要となる画家ですが、ようやく三作品目の確証できる作品を入手できました。

人は失敗を繰り返すものですが、失敗を乗り越えて未来に歩き出さなくてはいけません。骨董も災害や戦災も同じなのでしょう。そのためには失敗を忘れない、繰り返さない記録、記憶というものが必要ですね。

柿釉蓋物 バーナード・リーチ作

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まがい物の多い、要は贋作が多いバーナードリーチの作品ですが、ようやく正しいものを入手できたように思います。

柿釉蓋物 バーナード・リーチ作
デビット・リーチ1987年鑑定書 合箱
口径133*高台径*高さ130



民芸作家の浜田庄司、河井寛次郎の作品は非常に難しい判断力を要しますが、バーナードリーチも同様のようです。



特にバーナードリーチはその箱書も簡便すぎて、いかにも箱書だけでは信頼性が希薄となる作品群です。



一般的に浜田庄司にしても金城次郎、河井寛次郎にしても、民芸作家の陶芸作品はその作りと釉薬が決め手のようです。



箱書きや印章も判断材料となりますが、あくまでも参考程度にとどめておくべきでしょう。



作品に刻銘などのある作品もあります。当方で紹介している他のバーナード・リーチの作品と同様の印が作品中に押印されいますが、これも真贋を判断するのは難しいと思います。

 

子息の鑑定書・・、これも判断は難しい。

 

この栞のほうが信頼性があるように思います。栞によって入手を決断・・。



メインはこの作品の釉薬と作りを判断ポイントとしました。鉄分の多い柿釉はよくバーナードリーチや浜田庄司が使う釉薬ですね。



茶室の床に置いてみました。やはり存在感があります。



合わせ箱となります。真作でも共箱でない作品はあります。保管に関しては最近は良く解るように作品の写真を大きめにしています。



実に存在感のある民芸作品の代表作のような風格があると判断しました。さて何に使おうか

漁家早梅図 平福穂庵筆 明治16年(1883年)頃 その22

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今年の家内との茶道のお稽古仲間の初釜は小生は欠席・・。正月の疲れと作品整理に追われているのがその理由。息子は家内と出かけて行って楽しあったようです。



茶碗は当方の「朝日」(ブログ参照 本日の写真には写っていません)というお茶碗を使っていただけたとのこと、嬉しい限りですね。



さて当方の蒐集はひと休みして勉強・整理の時期に入っています。まず最初に本格的に着手したのが平福穂庵の作品です。ようやく描かれた時期などが特定できる資料が揃ってきました。整理してみると贋作だと思っていた作品が意外に真作である可能性が高いのには正直驚いています。

本日はその平福穂庵の作品の紹介です。

漁家早梅図 平福穂庵筆 明治16年(1883年)頃 その22
紙本水墨淡彩軸装 軸先水晶 合箱
全体サイズ:縦2075*横663 画サイズ:縦1280*横510
*分類第3期:画壇へのデビュー(明治11年~17年)

 

北海道のアイヌを取材した新たなモチーフの作品の画中に、署名の先に「羽陰」と記された作品が多くあります。穂庵の北海道への渡航歴は明治5年から始まり、明治14年から頻繁となり、明治16年まで続きますが、その間の作品にはこの落款を記した作品が多くあります。

また落款の「庵」の最終画のハネは年代別では第2期に近く、第1画目と第2画目の離れは第3期以降の特徴でもあります。決定的なの北海道で描かれた作品を中心に「羽陰」と記されている点でしょう。よって本作品は北海道にアイヌを取材していた時期に描かれた作品の中でも晩期に属する時期に描かれた作品と推定されます。

印章は朱文白方印の「穂庵」。

 

たっぷりと水分を含んだ筆で描かれた技法は円熟の味わいがあります。



一時期南画を習得していたその時期の作風をより高めた感があります。



このような墨の使い方は長澤芦雪を彷彿とさせますね。



剽軽に描かれた人物と簡略化された風景の描き方は平福穂庵が行き着いた墨絵の世界です。平福穂庵はこの時期には代表的な作品をいくつも描いています。若くして亡くなっているので晩年とは言えない年齢の作品ですが、晩期の代表作にも相当する作例でしょう。



このような作品がまだ見捨てられたようにインターネットオークションに出品さていることがあるのは驚きです。

*蒐集する側、売買する側はインターネットオークションを軽くみてはいけません。贋作と掘り出し物が同居している場です。インターネットオークションに臨まない者は良い蒐集はできない時代です。



アリババとパナソニックの社長の対談をお聴きした時に感じたのですが、日本ほど既得権者や先入観で新しいものに取り組まない国はないように思いました。己の周りだけの価値観や稚拙なマスコミに影響されやすい日本はグローバルに動いている中国などに太刀打ちできなくなっているのかもしれません。



中国は買い物をインターネットなどのモバイルで購入するのが多いそうです。それゆえメーカーと購入者の間にはデリバリーとモバイル業者しかいなくてもよい時代になっていく。さらにはモバイルで客の好みや売れ筋が読めるらしい。日本のように代理店、小売業者、さらにはクレジット業者は不要のようです。日本ではかえって規制の存在が邪魔になっているらしい。



中国人旅行者が日本で何を購入しているかすぐに解るらしい。その中から中国で売っていないものを即座に中国で売ることも狙いらしい。日本商品が中国で一番人気があるのに、日本にはそのデータがないのが競争の営業戦略上問題化しつつあるのかもしれない。

高機能の電化製品より、安くてかつ機能面でも最低限しか必要ないという購入側の要望に応える電化製品が売れる時代に、日本は高機能の4K,8Kを売ろうとするのは的はずれなのかもしれません。インターネット時代なのにお金を持っているのは高齢者ばかりの日本は立ち遅れているのでしょう。さてモバイルで、インターネットで買い物をしていますか? 日本人はデータでプライベートを裸にされるのが嫌いなようですが・・・。

商流を見直さない、三方良しの仁義を重んじる日本はそのうち世界から取り残されるかもしれません。目筋の良い者だけが生き残る骨董の世界も同じなのかもしれません。

神使 その2 渡辺省亭筆 その23

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年末年始に男の隠れ家にて収納場所を改めてみてみると、蒐集当初の未整理の作品が多々あります。



少ない資金から少しずつ蒐集した福田豊四郎の色紙の額。



あちこち転勤していた頃に蒐集した作品ですが、玉石混交ではあれ、よく集めたもの・・・、我ながら感心。



さて本日は渡辺省亭の同図の作品で大きさの違う作品を入手しましたので紹介します。

神使 その2 渡辺省亭筆 その23
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1900*横515 画サイズ:縦1025*横400

 

この作品は以前にも説明しましたが、鳩と鹿という神の使いとされた二つの動物を描いた作品です。



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石清水八幡宮と鳩:八幡神は、皇室の祖先である誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とし、誉田別命が国内を平定するときに、水先案内人となったのが鳩であったとされ、以来、鳩は八幡神の使いであるとされるようになった。(春日大社・鹿島神宮・厳島神社)

春日神社と鹿:武甕槌命(藤原氏守護神)が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。

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同図の作品で他の作品は以前に本ブログで紹介した作品です。

神使 渡辺省亭筆 その16
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1910*横495 画サイズ:縦1300*横375

この二つを比べてみました。



右が「その16」で左が小さめの今回紹介する作品「その23」となります。



ここからは最初が「その16」次が「その23」となります。

鹿の部分

 



鹿の部分の拡大になります。





鳩の部分です。





鳩の部分の拡大になります。





木の表現部分です。



「その23」には月の表現があるように思われ、「月下の神使」という仮題にしました。



表具の部分です。





落款と印章の比較となります。

 

同図の作品で大きさの違う作品は珍しいと思われますが、贋作を疑うことも視野に入れても、渡辺省亭についてはあり得ることかと現時点では推察しています。

渡辺省亭の作品については描いた時期の推定を後日資料をきちんと整理してみたいと思っています。

観音 澤田政廣作

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先週の3連休の日曜日には近所でどんと焼。息子と義父と男3人で出かけてきました。東京都内でありながら当方の近所では古来から催し物が結構あります。おもちゃも近所や親戚同士で使いまわすなど田舎の風習に似たものがありますのでほっとしますね。今回のどんと焼も近所から竹の竿を届けてくれたりと近隣との親交が少なくなった都会の生活とは一味違います。



さて本日は澤田政廣作の小さな観音様の作品の紹介です。昨日は家内の関連の法事、またなにやら昨年は不幸が続いたので好みの観音の像を見ると食指が動きます。

何かの出版記念に鋳造された作品で、ある程度の数が作られた作品でしょう。

観音 澤田政廣作
出版記念品 共箱
高さ105*幅75*奥行30



共箱がある小さな仏像です。数多く作られたものかどうかは不明です。



とてもかわいらしいので展示室に飾って愉しんでいます。



何の出版記念だったのでしょう?





大日本魚類画集 NO59 メバル図 大野麥風画

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三作品の紹介となる大日本魚類画集からの版画の作品の紹介となりますが、大野麦風の作品は肉筆も並行して蒐集しています。本来「大日本魚類画集」を形成する72種類の版画が蒐集対象ですが、つい食指を動かし、蒐集の幅が広がってしましがちです。

鮒図 大野麥風筆 
紙本水墨淡彩 色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240



前回紹介した下記の作品の肉筆版?

大日本魚類画集 NO60 フナ図 大野麥風画 
紙本淡彩額装 版画 1938年3月第8回
画サイズ:縦370*横275



一つの分野だけ集中的に蒐集するよくないというのが小生の考えです。



そこで同じ題材の作品も入手することに相成りました。これは明らかな蛇足・・。

鮒図 田口黄葵筆 
紙本淡彩 色紙 タトウ
色紙サイズ:縦270*横240



田口黄葵:師・荒木寛畝 荒木十畝。 明治19年東京生まれ。日本画家旧文帝展系。文帝四 院三 読画会幹事



あまり聞いたことのない画家ですね。



さて72種類もあるという版画のまだ3作品目。先は遠い・・・・。

大日本魚類画集 NO59 メバル図 大野麥風画
紙本淡彩額装 版画 1938年2月第7回
画サイズ:縦370*横275



驚異的な版画の作品ですね。



鮮やかな魚体の色を木版で表現するために版木を数多く使用し何十にも色を重ねて摺るという「原色木版二百度手摺り」といわれる方法で製作されており、麦風のみならず彫師、摺師の熱意と努力も凝縮されているそうです。



「大日本魚類画集」は大野麦風が原画を担当し、1937年に西宮書院から出版されています。



会員制度で頒布されたこの500部限定の木版画集は、1944年まで各回12点、6期に分けて断続的に刊行され、1944年まで合計72点を発行したそうです。



揃ってきた作品を展示室に展示しみました。



東京ステーションギャラリーで72点の全作品が展示されたのは圧巻でしたね。



その際に発刊された図集です。



その中の説明文の当時のまま・・。



まだまだ先は遠いのですが、無理せず愉しみながら蒐集していきたいと思っています。。



おかげさまで全く知らない魚の名前を覚えられそうです。

江南春 中林竹渓筆 その8

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江南春 中林竹渓筆 その8
紙本水墨淡彩(浅絳山水) 軸先木製 杉古箱
全体サイズ:縦1410*横500 画サイズ:縦110*横280



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中林竹渓:文化13年(1816年)中林竹洞の長男として生まれ、幼年から父に絵を学ぶ。竹渓が生まれた時、竹洞は数え41歳で、遅い男児誕生に竹洞は喜び、しばしば自作に竹渓の名を記し、父子の合作も残る。日本の南画の元となった文人画・南宗画とは、実情はともかく理念的には、中国の文人生活を理想とするもので、世襲とは本来馴染まない。竹洞自身も若い頃から画論を出版し、晩年には世俗を離れ隠棲生活を送るなど、日本において最も文人らしい態度をとった画家である。しかし、その竹洞すら世襲を望み、自家を流派として存続させたい願った事が端的に表れている。

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竹渓はしばしば奇行でも知られる。これは、明治に活躍した名古屋出身の南画家・兼松蘆門が著した『竹洞と梅逸』(明治42年(1909年)刊)による。その竹渓伝の元になったのは、竹渓の異母妹・中林清淑(中林竹洞の三女)の回想と推測される。

清淑は年の離れた竹渓に複雑な感情を抱いていたらしく、『竹洞と梅逸』には竹洞の遺産を竹渓が分けてくれなかったという愚痴が長々と載り、清淑が撰した竹渓の墓碑には「人となり剛厲狷介、世と合わず、人徒にその絵の巧みなるを見、その志しのなお高遠なるを知らず」と、故人を称えるべき墓碑に「巧みなだけで志が表現されていない」と断言する。

こうした清淑の竹渓像が、清淑びいきの蘆門によって増幅され、これが諸書に引用されて広まっていった。こうした評は幾らかは竹渓自身が招いたものかも知れないが、竹渓の作品を見ると、生き物の夫婦や親子を描き込む作品がかなりあり、自賛や高名な文化人による着賛も殆ど無く、俳画風の略画や他の画家との合作も見られない等、心優しく生真面目な画人を想像させる。

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下記の記述にもあるように「竹渓晩年の山水画は、明治・大正期に煎茶席の掛軸としてよく好まれた。」そうですが、このような浅絳山水の南画は当時の主流であったようです。

名古屋出身の画家では中林竹洞、竹渓父子と山本梅逸が著名ですが、ともに仕官したり、世襲を望んだことから、「本来の南画家のとるべき姿である世俗からの離脱」という観点から、この時期の南画家には限界があったという評価を受けている代表的な画家でもあります。ただ中林父子は晩年には世俗を離れ隠棲生活を送るなど、日本において最も文人らしい態度をとった画家でもあります。



確かに与謝蕪村や浦上玉堂、池大雅に比するとその作品は見劣りするかもしれませんが、中林父子、山本梅逸ら三人は現在では高い評価を受かるべき画家であろうかと思います。

落款においては当方の他の所蔵作品「NO6竹林渓流図」、「NO4水墨山水図」に近い落款で40歳代の安政年間以降の作と推定されます。



*中林竹洞の作品は多作であったのか数多くの作品が見受けられますが、その分だけ贋作も多くあります。その点では中林竹渓の作品は意外に数が少なく、贋作も中林竹洞ほどではないようです。

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中林竹渓の落款と制作時期

20代の竹渓は繊細な楷書で「竹谿」と署名し、竹洞の山水画様式を忠実に習っており、60代に入り枯淡・高潔な山水画様式を完成させていた父の画風をそのまま継承しようとした様子が窺える。反面、大作が殆ど無い竹洞と違い、竹渓には若年から晩年に至るまでしばしば屏風絵の大作を描いており、父との資質の違いを見ることができる。

30歳の時、長崎に旅行。同じ頃、父の親友・山本梅逸に師事したと推測される。落款は楷書で「竹溪」稀に行書で「竹渓」と記し、花鳥画や人物画にも作域を広げ、父や梅逸らのモチーフを手本にしつつも、それらを単に写すのではなく的確に構成し直して独自性を打ち出そうとしている。

嘉永6年(1853年)に父竹洞が亡くなると、落款に30代のものに加えて、楷書で「竹渓」と記す変化が起こる。絵も南画以外の円山・四条派、南蘋派、土佐派に学び、実物写生も積極的に行ったと見られる。一方で壮年期には江戸末期の復古思潮からか、加藤清正や楠木正成などの武将を勇壮謹厳に描いた作品が多く残っている。

40代後半あたりからの落款は、肥痩が強く癖が強い「竹渓」となり、特に元治元年(1864年)以降は「竹渓有節」と記す作品があり、最晩年には「有節」と号していたと考えられる。この頃は文人画風の山水画や中国人物画が再び多く書かれる一方、引き続き大和絵人物や季節の草花、動物なども書かれた。竹渓晩年の山水画は、明治・大正期に煎茶席の掛軸としてよく好まれ、またそれ以上に身近な草花や動物、風景などを描く景物画は、手頃な床掛けとして広く愛好された。

明治も間近に迫った慶応3年(1867年)4月死去。享年52。

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古い掛け軸で杉箱に収められている作品には良い作品が多いという「言い伝え」があります。



掛け軸を箱に保存する「風習」は意外に新しく、江戸期後半くらいでしょうか? それなりに裕福な方以外は掛け軸はまとめて箱に収められるのが普通だったようです。一点ずつ杉箱に収める方は裕福な方か、その作品がよほど貴重でないとそこまではしなかったようです。



江戸時代から明治期は杉箱が主流で昭和以降には保存箱が桐箱が主流になったようです。よって杉の古箱収められている作品はそれなりの作品が多いと言われています。

母の遺品 信楽肩衝茶入 上田直方作 

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休日は法事以外は用事もなく息子が繰り返し「科捜研の女」を一生懸命観ているに付き合わされてさすがにうたた寝・・・。そういう息子を家内は庭に連れ出して木登りを教えたようです。



そういえば小生も子供の頃、塀の上の歩きや木登りをしたことを思い出しました。息子は慎重な性格のわりに高さを怖がらないようです。

さて男の隠れ家の水屋をのぞいたら、下記の茶入が出てきました。

信楽肩衝茶入 上田直方作
仕覆:蜀紅錦 蓋:象牙
胴径50*口径30*高さ93 共箱



母によると母が友人から頂戴した作品。おそらく保護紙の字は母が書いたもの。



五代目上田直方の作品のようです。

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五代目上田直方(1928-2016)は高橋春斎とならび信楽二大巨匠と称される。上田家は、幕末~明治期に活躍した谷井直方に始まり、その後を継承した二代上田直方より代々茶陶を中心に作品造りを行ってきた。



五代目上田直方は四代上田直方の長男として滋賀県に生まれた。 1946(昭和21)年に京都国立陶磁器試験所伝習科を卒業後、 父に師事して茶陶制作に専念。



1958(昭和33)年、滋賀県美術展覧会で特選を受賞。1976年に五代目を襲名した。日本工芸会の正会員。1991年 滋賀県指定無形文化財に認定されます。2000年 文化庁より、地域文化功労者表彰を受けます。



五代目となる直方は、若い頃より茶道の修業を重ね、茶人としての顔も持ちます。豊かな感性から生み出された茶陶は、趣とあたたかみを兼ね備え、現代の信楽茶陶を代表するものです。

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糸切底には「直方」の印があります。

*上田直方の作品では「信楽肩衝茶入」が滋賀県立博物館に所蔵されています。



生前に中田英寿との対談したこともあるようです。



母が大切にしていた茶入。小生もいくつか母に茶入をあげたのですが、この茶入が一番のお気に入りだったようです。



昨年の夏に母が亡くなり、今となっては大切な母の遺品となりました。母から小生へ、そして息子へ・・・。



袱紗の生地については下記の書付が同封されていました。



茶道、骨董を心得る者は古裂の知識も必要なようです。

文殊図 寺崎廣業筆 明治36年(1903年)頃

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数多く蒐集してきた郷里の画家の寺崎廣業の作品ですが、そろそろ寺崎廣業の作品は資料のための蒐集を終えて、佳作のみに絞っての蒐集のレベルになってきました。本日紹介する作品は寺崎廣業が修練を経て最盛期を迎えた明治36年頃の作品の紹介です。

大正期以降のの落款が「三本廣業」となる作品を好む方と明治40年頃までの「二本廣業」の時代を好む方と寺崎廣業の作品を好む趣は二分されると思います。

明治期の「二本廣業」の作品は粉本の傾向が強くどちらかというと古画的な趣向を残す作品が多々あります。この当時の作品のほうが多作な時代より好ましいという方も多いようです。美人画などもこの当時のほうが多く描いていますね。

本日はそのような作品の紹介となります。

文殊図 寺崎廣業筆 明治36年(1903年)頃
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:縦1260*横450 画サイズ:縦840*横270



落款から作品を描いたのは明治30年代、箱書は大正3年頃と推定されます。落款の字体から時代を推定できるようになるのも今までの蒐集の積み重ねからです。特に明治期の「二本廣業」時代の字体の変化は大きく、数年で字体が変わっているためたいたいの描かれた時期が推定できます。



箱には寺崎廣業の遺作展覧展に出品とありますが、「文殊図」を描いた作品は少なく、実際に展示されたものと推察されます。



今までのブログでも述べたように多作な寺崎廣業ゆえ駄作も多く、人気の高さから模倣作品も数多くありますので入手には細心の注意を払う必要があります。とくに明治末から大正期にかけての山水画は席画として数多く描かれており、評価は低くならざる得ませんし、絵筆の使い方や落款に勢いのないものは贋作と判断したほうがよさそうです。



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文殊菩薩:智慧を司る、菩薩の一尊です。『文殊師利般涅槃経』によると、舎衛国の多羅聚落の梵徳というバラモンの家に生まれたとされる。また一説に釈迦十大弟子とも親しく仏典結集にも関わったとされる。『維摩経』には、維摩居士に問答でかなう者がいなかった時、居士の病床を釈迦の代理として見舞った文殊菩薩のみが対等に問答を交えたと記され、智慧の菩薩としての性格を際立たせている。この教説に基づき、維摩居士と相対した場面を表した造形も行われている。

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文殊菩薩は智慧を司る菩薩とのこと、大切にしたほうがいいですね。



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文殊菩薩像の造形はほぼ一定している。獅子の背の蓮華座に結跏趺坐し、右手に智慧を象徴する利剣(宝剣)、左手に経典を乗せた青蓮華を持つ。密教では清浄な精神を表す童子形となり、髻を結う。

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きちんとした収納箱からも大切に保管されていたことがうかがわれます。



本ブログで紹介している寺崎廣業が修行時代に描いた粉本の縮図の「和漢諸名家筆蹟縮図」の第一巻に文殊が描かれた作品があります。



蒐集するに従い一連の作品群が関連して整理されてくるのも骨董蒐集の面白さでもあります。

磁州窯 白磁鉄絵褐彩人物・兎文壺

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BS NHKテレビの「江戸あばんぎゃるど」という番組を観られた方は多いと思います。今週の水曜日で第2週目でしたが、外国人からの観点から日本美術を説明しています。当方にとってはほとんどベーシックな作品の基本的なことですが、解りやすく説明しています。基本的なことを知らない日本人は多いと思いますので、NHKオンデマンドで配信中らしいので観てない方は観たほうがいいでしょう。外国人の過大評価とも思える日本美術への心酔ぶりがまた面白いものです。

番組の意図はガラス越しの日本美術展示へのアンチテーゼ?もあります。日本の美術館のガラス越しの作品鑑賞には辟易としている小生は大賛成! (しかもルール、マナー好きの日本人はガラスにちょっと触っただけで係員が飛んでくる ) 

ただ取り上げている作品が、あまりにも著名な作品過ぎてつまらないのが難点でしょうね。

さて本日はちょっと珍しい器形の磁州窯の作品を入手したので紹介します。

磁州窯 白磁鉄絵褐彩人物・兎文壺
13世紀~14世紀 誂箱
口径178*胴幅270*高さ270



磁州窯は河北省磁県で活動した宋、元時代の窯で、灰白色の半磁質素地に白土を化粧掛けして上から鉄絵を施した作品、施した厚手の黒釉を掻き落とす作品などを残しています。



磁州窯のこの手の作品は朝鮮に伝わると粉引、刷毛目などの粉青沙器に発展しました。



江戸時代の瀬戸鉄絵行燈皿なども磁州窯が起源のようです。この手の作品は民芸味が真骨頂だと思います。



気取ったところもなく、酒器として限定されることもなく普段使いに使える気軽さが魅力です。 壺の内側は褐釉で全面に施されています。



人物がひょうきんにのびやかに描かれています。



ウサギの描きも実にのびやかですね。



絵筆のスピード感ある勢いが本作品の魅力となっています。



この器形は何に使ったのでしょうか?



このような磁州窯の作品は非常に珍しいと思います。ご存知のようなに磁州窯とは華北地方一帯で制作された白化粧を施した民窯(宋~明時代)です。磁州窯の日本出土例は数が少なく、かえって朝鮮半島の高麗古墳に多く出土が見られますが、そのせいか絵高麗と言われる高麗の鉄絵青磁や、李朝初期の刷毛目、粉引にその影響が強く表れて御手本になっていたと推測されます。



しかしながら、日本でも桃山時代から、志野、織部の技法手本となり、江戸時代は尾形乾山、青木木米等、この磁州窯が、やはり手本となっている作品が在る事から鉄絵に関して当時、磁州窯の物が間違いなく日本に将来されていたと思われます。(茶道具等伝世品有り)



このような器形の作品には下記の作品があります。一般的には牡丹の絵文様が多く、出光美術館蔵の「白磁鉄絵褐彩牡丹壺」に関しては、同手と言って良く、こちらは元~明時代の特徴を顕著に表現してると思います。



牡丹が描かれた作品より本日の作品のほうが数段面白味がありますと思うのは贔屓目でしょうね。

本作品と同様に人物などが描かれた作品には「東京国立博物館蔵 白磁鉄絵褐彩人物図壺」があるようですが、現状では当方に写真がなく調査中です。

磁州窯の作品と思われる作品は下記の作品らがブログに紹介されています。気の向くままに愉しそうな作品を蒐集してみました。

磁州窯? 白地鉄絵草・福文水指
宋時代 合箱入
口径110*胴径165*高さ115

水指に使っています。



珍しい筒茶碗の作品です。ま~筆立てのようなものとして作ったのでしょう。

鉄絵草紋筒茶碗 磁州窯 
合箱
口径90*胴径100*高台径69*高さ125

この手の筒茶碗はよくありますが、なんとも茶を点てづらいのが難点・・。



梅瓶の形をした「氏素性の解らぬ作品」は蒐集のかなり初期の段階で入手した作品で、男の隠れ家にて花入れとして高麗梅瓶とともに使っています。

磁州窯白地草紋鉄絵梅瓶
胴幅:165*高さ292



磁州では地震があるのかないのか分かりませんが、いつも地震で倒れないかと心配しています。



現在は保存箱のないので展示室に飾って愉しんでおります。



やはりこの人物の絵が楽しい。



そして兎の絵もまた何とも言えない洒脱さがあります。数多く作って描いた職人のなせるもの、初期伊万里・古伊万里や古染付と同じ美ですね。



古きに学ぶとはこのことか・・。まじめにこつこつとやってきた者の熟練さに敵う者はいない。この基本を忘れた者のなんと多いことか。目先の利や仕事がつらいとすぐに辞めてしまう若者には将来はない。

リメイク 鬼念佛図 和田三造筆 その1

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蒐集を始めた間もない頃に入手した作品を再度撮影して本ブログに再投稿していますが、本日紹介する作品もそのような作品のひとつです。

鬼念佛図 和田三造筆 その1
絖本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横488*縦1290 画サイズ:横397*縦356

なお本ブログで最近紹介し始めた「大日本魚類図集」(大野麥風 [画])の監修は和田三造です。これも何かの縁でしょうか?

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和田三造は明治16年生まれ、昭和42年没、享年85歳。洋画家、兵庫県出身。明治37年に東京美術学校を卒業し、黒田清輝に師事し、東京美術学校教授を経て芸術院会員。傍ら、日本標準色協会を作って色彩学の発達に努力した。代表作は「南風」。
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本作品は大阪府在住で和田三造と交友のあった人が、直接描いてもらった作品だそうです。

*同封された書付によると三本同じ家から出たとのことですが、当方で入手したのはそのうち二本の掛け軸です。

絖本に描かれた筆に勢いのあるいい作品であり、和田三造が日本画にも精通していたことを示すものでしょう。

**絹本と絖本:どちらも絹で作られたものですが、絹本は絹の「生糸」で「平織り」したもので、絖本は絹の「練糸」で「繻子織り」したものです。絹本のほうには光沢がありませんが、絖本のほうには光沢があります。絖本(こうほん)は、より上質で光沢のある絹糸を用いて、より光沢さを持たせる織り方で作られた絹の布地です。昔はかなり高価であったと推察されます。



和田三造の日本画は人気があります。日本画、版画、工芸などに見せたその多才さが、かえって画家としての評価を上げていない点は特筆すべき点でしょう。本作品は確かな筆法による洒脱さがあることを示しています。



落款に記された「41年」というのはおそらく昭和41年と察せられます。亡くなる前年の最晩年の佳作の一つといえましょう。



本作品の画題は大津絵にもある「鬼念仏」ですね。鬼が僧衣をまとっている絵で、慈悲ある姿とは裏腹な偽善者を諷刺したものです。

鬼の住まいは人間の心の内にあるということで、描かれた鬼の角は、佛の教えである三毒(貧欲・瞋恚・愚痴)いわゆる人々の我見、我執であると言えます。人は自分の都合で考え、自分の目でものを見、自分にとって欲しいもの、利用できるもの、自分により良いものと、限りなく角を生やします。大津絵の鬼は、それを折る事を教え、鬼からの救いを示唆しているとも言われています。

大津絵では残忍な心を持った者が、うわべだけ慈悲深い態度をとったり優しい言葉を投げかけたりすることのたとえ。大津絵の画題の一で、鬼が法衣を着て、鉦(かね)と撞木(しゅもく)を持った姿を描く。これを室内に張っておくと、子供の夜泣きがなおるという言い伝えがあったそうです。

絵を観て何が描かれて、その絵は何を意味するか? 絵の鑑賞の基本ですが、最近の人は知ろうとしないし考えもしない・・・



大日本魚類画集 NO57 マハゼ図 大野麥風画 

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本日の大日本魚類画集の作品は「マハゼ」です。額のない状態での入手ですが、基本的には版画は額に入れて保存するものでありませんね。

大日本魚類画集 NO57 マハゼ図 大野麥風画 
紙本淡彩額装 版画 1937年12月第5回
画サイズ:縦273*横398 未額装での入手



版画というと浮世絵。浮世絵版画の顔料は光線に弱く変色するので、作品は厚紙に挟み込み引き出しに仕舞い込むのが基本です。



決して額に入れたまま飾りっぱなしはよくないそうです。



ただ作品に合わせて額を誂えるのは愉しいものですので、額に入れても日の当たらにようにしておきます。



「大日本魚類図図集」に「マハゼ」の部分は下記のとおりです。



戦前に兵庫県西宮市にあった古書店、西宮書院が版元の木版画です。販売当時は「本邦初の魚類生態画」、「原色木版二百度摺」という謳い文句により注目を集め、革新的な木版画であったようです。細部まで極めて入念に摺られており、鱗の一枚一枚までもが鮮明です。
   


鱗の部分にはいわゆる雲母<きら>摺りも併用されている作品もあります。江戸時代から明治・大正まで魚の版画はかなりの種類が出されてはいますが、一番写実的でまた技術的にもトップクラスの魚類木版画と評価されています。。



おおよそ一枚2万円から7万円程度で売られています。



版画では額は飾るものとしてより保存用の道具ですが、このシリーズの作品を少しずつ入手しては額を誂えてマットを選んで額装にして楽しんでいます。



浮世絵版画から脈々と続いている日本の版画技術のすばらしさを伝える作品のひとつです。

*本ブログで紹介している源内焼という焼き物も型は版画の彫師によるものでこちらも版画技術のすばらしさを焼き物を通して伝えている作品群です。

和漢諸名家筆蹟縮図 寺崎廣業筆 第三巻

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第三巻は山水画を主とした作品をまとめたものです。

和漢諸名家筆蹟縮図 寺崎廣業筆 第三巻
水墨淡彩巻物三巻 鳥谷幡山昭和29年鑑定箱入二重箱 
高さ283*長さ畳4畳分/巻



大正期になると寺崎廣業は山水画を主として描くようになります。その画風は南画でもなく、狩野派のような作品でもなく、やはり近代画としてのスタートのひとつでした。



その寺崎廣業のベースとなったのはやはり古画の模写による修練でした。自宅が火災に遭い、古画の粉本がすべて焼失したと言われていますがこれだけの粉本が残っていたのは新発見です。



第3巻の投稿となりますので、詳しい説明は省略させていただきます。





















こちらも時間のない身ですので説明文を詳しく解読している時間はないのですが、師を称え慕う門下の鳥谷幡山によって編集された資料です。



当方で末永く保管しておきたい作品のひとつです。



寺崎廣業は天賦の才能というより努力によって開花した画家であり、繰り返しになりますが本作品は寺崎廣業を調査する上で必須の作品として評価されるでしょう。
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