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紅旗閃爍 小堀宗明筆 その2

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少子高齢化はボデイーブローのように日本の経済状況に効いてきています。外国人労働者、女性の活用、生産性向上、AIなどのロボット化・自動化などが取り上げられていますが、短期的には効果が上がる見通しが立っていません。

少子高齢化によってまずは労働力不足がすぐそこまできています。一番の問題は後継者不足・・・。景気の良い状況では持ちこたえているものの景気が悪くなると中小企業や中小の工場などが撤退する恐れがあります。少子化に何ら有効な政策を打ち出さなかったつけが日本経済に大きなダメージを与える可能性が高い。

象徴的なのがドライバー不足でしょう。都会に若者が集中している状況で、さらに経済的な理由からも自動車免許取得の必要性が希薄となり、大型の免許取得者が少なくなってきています。低賃金、過重労働も障害となっているようです。デリバリの重要性が高くなっている分、ドライバー不足は深刻なようです。さ~、どうなる日本、さ~どうする日本人。

さて遠州流の師範を持っている家内がインターネットオークションで茶掛を入手しました。小堀宗明氏の作品は「源遠流長」に続いてこれで2作品目でとなります。

紅旗閃爍 小堀宗明筆 その2
水墨軸装 茶掛 誂箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦

書いてるのは「紅旗閃爍(こうきせんじゃく)」という難解な言葉です。

*手前は織部志野の獅子香炉です。

 

「紅旗閃爍(こうきせんじゃく)」という言葉の意味は難解で当方でも正確にはつかめていませんが、おおよそ下記のことのようです。

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紅旗閃爍:本則は、雲門大師の紅旗閃爍の宗風の一則で、「一見何でもない(こうきせんじゃく)ように見えながら、脚実地にこれを手に入れるとなると、容易ならざるものがある」という難透の則。。

直訳:「紅旗閃爍(こうきせんしゃく)」・・まるで、青山の頂に紅い旗が翻っているけれど、敵陣見定めがたい・・といわれている。紅旗→赤旗 閃爍→ひらめき輝くこと。

*雲門宗(うんもんしゅう):中国で成立した禅宗の一派である。禅宗五家(臨済、潙仰、雲門、曹洞、法眼)の一つ。唐末から五代の雲門文偃を宗祖とする。宋代には、臨済宗とともにもっとも隆盛を極めた。

雲門の宗門は途絶えて、今日では雲門宗や宗祖・文偃を知る人は必ずしも多くはないが、現在でも身近なところにその影響は残る。茶掛け(掛軸)や揮毫にも好んで書かれる「日日是好日」の禅語。禅僧が法要や葬儀に際して「法語」などを述べる時に大きな声を出す「一字関」などである。

日本の禅宗に大きな影響を与えた『碧巌録』などに文偃の言動が多く収録されている。その言葉は、日日是好日の他に、花薬欄、金毛獅子、乾屎橛などが良く知られている。宗風そのものが「紅旗閃爍(こうきせんじゃく)」(見えそうでいて容易にうかがいしがたい)と評されております。

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、「一見何でもないように見えながら、手に入れるとなると容易ならざるものがある。」ということは世にたくさんありますが、解ったような解らにような言葉です。

禅宗の一派であった雲門宗を理解した上での理解が必要なようですが、今では途絶えた雲門宗から有名な「日日是好日」という言葉も出典されているとは驚きです。「日日是好日」の言葉に関しては、最近亡くなった樹木希林さんが出演した映画でもご存知の方が多いと思います。

遠州流第11世の小堀宗明は以前にも記述したことがありますが、下記に記述しておきます。

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11世小堀宗明:正徳 晴義 号・宗明 其心庵 一貫子 昭和37年6月21日没(享年75才)
明治21年(1888)、父宗有31歳の時、東京で誕生。東京美術学校に入学し、彫刻・塑像を習得し、日本画も狩野探令に師事した。22歳で、父の死と共に家督を継ぐ。広徳寺福富以清和尚より、「其心」の庵号として贈られ、自らも一貫子と号した。

益田鈍はじめ大正茶人たちとの交流も厚く、三井泰山、団伊能、近藤滋弥等、東京における茶道界の重鎮を門弟とし、泰和会を創始し、石黒況翁の後援をえて、遠州茶道の一般普及に力を入れた。



また父宗有の時にまったく行わなかった、出張教授を行い、各大名城下町に受け継いでいた流門の師弟を訪ね、流儀発展に大いに貢
献した。戦後における東京茶道界・東茶会・好日会・止水会等の組織に参加、東京・鎌倉における茶道界向上に大いに活躍した。

遠州以来の好みの窯の復興にも努力し、茶道美術の指導にも力を入れた。自らも、絵画・書・茶杓などの多くの作品を遺しているが、特に茶碗や香合などの造形美術に優れた技能を示している。75歳で東京にて没する。

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印章は「宗明」ではなく、本名の「正徳」が押印されていますので、まだ若い頃の書ではないかと推察しています。



なかなか味のある字を書く方ですね。



表具にはそれなりにいい生地が使われていますが、箱もなく裸の状態での入手です。

「一見何でもないように見えながら、これを手に入れるとなると容易ならざるものがある。」とはすべての教えに通じるものがあります。それに比して人生はあまりにも短い。日々精進すべし!

現状の人手不足も容易ならざるもののひとつ。前述のように少子高齢化対策・・・・、働き方改革による待遇改善、ロボット化、外国人の採用など諸策ありますが、どれもいまひとつ、短期的にはあくまでも少なくなってきている人材を確保したものが勝ち組になるのが明らかなような思いがあります。国の問題がこれからは個人の問題(切実な問題)に顕在化する時期にきています。さ~どうする・・・。


瀧見(観瀑)観世音像図 天野方壷筆 その5

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今日は50年以上前に亡くなった父の命日ですので仏様の作品の紹介です。天野方壷はかの富岡鉄斎から「師匠」と崇められた画家であり、その技量には侮れないひとかどならぬものがあります。

瀧見(観瀑)観世音像図 天野方壷筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 極箱
全体サイズ:縦2130*横680 画サイズ:縦1450*横410

 

賛から明治20年の作と推定されます。明治27年(1894)歿、享年67才ですから、1887年60歳の作となります。



本ブログでは他に明治26年(1893年)、69歳の作の同図の作品を所蔵しています。



掛け軸を黴臭いと毛嫌いする方がいますが、たしかに保存方法が悪いと本作品のようにシミが発生することになります。



ただそれを許容して余りある魅力のある作品に本作品はなっています。



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瀧見観音:三十三観音の一で、岩山に座して静かに瀧を見る姿である。大方の図像は、断崖の岩上に 寄りかかるように坐り、向かって左側、観音の右手方に瀧を配し、瀑布をじっと見つめる尊容であるが、作日によっては左右が逆になっている作品もあります。

俗塵のおよばない深山幽谷の岩上に静かに安座する姿で、『観音経』に「たとい害する心を興して大なる火の坑に推き落とされんも、火の観音の力を念ずれば火の坑は変じて池とならん」とあります。悪意に満ちた火焔が瀧の飛瀑の力によって鎮火し清浄な心にさせてくる観音様です。

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天野方壷の名はそれほど知られていませんが、出身地の愛媛県では続木君樵と並んで伊予画壇の双壁といわれていました。天野方壷の経歴については、その実家に伝わる明治17年に書かれた自筆の履歴書により知ることができます。



文政7年(1824)8月16日、伊予松山藩の三津浜(松山市三津)に生まれた方壷は、13歳で京都に出て、文人画家の中林竹洞や、書家としても有名な儒者の貫名海屋に学んだのち、関西から山陽山陰を経て九州四国まで数年にわたり西日本各地を歴遊し、勝景、奇景を写生したり古画書を模写したりして修行を続けました。



21歳のとき一旦は京都に戻り、日根対山に師事しましたが間もなく京都を発って関東へ旅行、江戸に至り、渡辺華山高弟の椿椿山に学んだあと、蝦夷地にまで行って海岸の勝景を写生しています。さらに、長崎で木下逸雲に学び、明治維新後、明治3年47歳の時には中国上海に渡航し、胡公寿にも師事しました。

  

各地の有福な書画の愛好の庇護をうけつつ、休みなく全国を旅し画道修行を続けた彼は、明治8年52歳になってようやく京都に居を構え定住しました。画号としては方壷のほか、盈甫、三津漁者,銭幹、真々,石樵、銭岳、雲眠、白雲外史など多数あり、時々に自分の心境に合った号を付け、楽しんでいたものと思われます。この間35歳の時、那須山の温泉で洪水に見舞われ、溺死しかかったが九死に一生を得ています。しかし、この時携えていた粉本、真景などをことごとく失いました。また、49歳の時東京に寓居中火災に会い、粉本をことごとく焼失しました。



ほとんど日本全国に足跡を残してますが、京都に定住したのちは、四季の草花を栽培しこれを売って生計を営み、売花翁と号していたほか、京都府画学校(現在 京都市立芸術大学)に出仕を命じられたり、内国絵画共進会に出品したりしながらもやはり歴遊を続け、明治28年旅先の岐阜で逝去しました。享年72歳でした。墓は京都市上賀茂の霊源寺にあります。



方壷と交際のあった文人画の巨匠、富岡鉄斎は、私的な筆録(メモ帳)の中で方壷のことを [画匠]と記していて、かなり高く評価していたことが窺えます。



鉄斎といえば[萬巻の書を読み万里の路を行く]を座右の銘として、全国を旅行しましたが、この[万里を行く]ことに関しては方壷は
鉄斎を凌駕しているかもしれません。



愛媛県美術館には彼の作品が42点所蔵されているそうです。平成16年は方壷生誕180年に当たり。これに因んで当美術館分館の萬翠荘において7月17日から8月29日の間展覧会が開催され作品20点が展示されました。また、平成15年の10月3日から12月25日まで福島県の桑折町種徳美術館において天野方壷展が開催され、作品13点が公開されました。



本ブログでは他に明治26年(1893年)、69歳の作の同図の作品を所蔵しています。

瀧見観世音像図 天野方壷筆 その1
絹本墨淡彩軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦1540*横540 画サイズ:縦1100*横410

 

賛には「明治癸巳(みずのとみ)一月十一日謹書於天香書屋南窓下 方壷天吉 押印(「天埜□印、白文朱方印」)」とあり、明治26年(1893年)の作と推察されますので、「その1」は「その5」より6年後の制作の作品です。



著名な画家の作品を蒐集するのもいいのですが、名が埋もれかけた画家の作品の蒐集も愉しいと感じさせてくれる画家のひとりですね。

大日本魚類画集 NO56 ベラ図 大野麥風画 

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本ブログでは凝りだした作品群に夢中のあまり、その作品群にばかり一定期間、投稿する作品に集中する傾向のあるようです。郷里出身以外のものでは「天龍道人」、「長井一禾」、「蓑虫山人」、「渡辺省亭」、「釧雲泉」らの作品がそうですが、不思議なことに投稿が一段落した以降はいい作品にお目にかかれなくなっています。

保存箱をまだ手配していないので展示室に飾っている源内焼には下記のものがあります。このように印刻があり、無傷で型の抜けの良い大きめの作品はなかなかお目にかかれなくなりました。



さて現在蒐集中の「大日本魚類画集」の版画ですが、本日も「大日本魚類画集」からの作品の紹介です。

大日本魚類画集 NO56 ベラ図 大野麥風画 
紙本淡彩額装 版画 1937年11月第4回
画サイズ:縦370*横275























なんども投稿している「大日本魚類画集」の作品ですので、説明はすべて省略させていただきました。

港 伊勢正義画 その11

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我が郷里の洋画家、伊勢正義の作品を久方ぶりに紹介します。伊勢正義の作品も「その11」となりました。伊勢正義についての紹介は他のブログの記事も参考にしてください

港 伊勢正義画 その11
油彩額装 左下サイン
画サイズP10号:横530*縦409 全体サイズ:横743*縦618



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伊勢正義:1907-1985 昭和時代の洋画家。明治40年2月28日生まれ。藤島武二に師事。光風会展や帝展,第二部会展で受賞。昭和11年猪熊弦一郎,小磯良平らと新制作派協会(現新制作協会)を結成。戦後も同協会で活躍。昭和60年11月18日死去。78歳。秋田県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。作品に「バルコン」「キャバレー」など。

新制作協会会員の洋画家伊勢正義は、11月18日腎不全のため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。明治40(1907)年2月28日秋田県鹿角郡(大館市白沢)に生まれる。転勤の多かった父に伴い、各地を転々としたが、少年時代を小坂町で過ごした。当時の小坂町は鉱山の最盛期で、秋田県で北辺の土地でありながら、中央から直接文化が流れ込み、近代的・都会的な雰囲気が満ち溢れていた。演劇などの文化活動も盛んに行われ、芸術方面の関心が高い町だったと思われる。伊勢正義を同じ、日本画家の福田豊四郎(1904年~1970年)も同郷である。
 
昭和6年東京美術学校西洋画科卒業。藤島武二に師事。同8年20回光風会展に「女性」他3点を出品しK夫人賞を受け、翌九年光風会会員となり、同年の15回帝展に「カルトン」が初入選する。同10年22回光風会展に「無花果のある静物」他2点を出品、最初の光風特賞を受賞した。同10年松田改組に伴う第二部会展に「集ひ」を出品し、特選、文化賞を受けたが、翌年同志と官展を離れ、同年猪熊弦一郎、佐藤敬らと新制作派協会を結成、第1回展に「バルコン」「キャバレー」を出品した。同12年日動画廊で初の個展を開催。その後新制作協会の主要メンバーとして同協会展に制作発表を行い、近年はアラブ、アフリカの生活を題材にした作品で知られていた。また、日本貝類学会会員、国際教育振興会理事でもあった。

戦前の混乱期、また画壇の紛糾していた時代に製作活動を続けていた画家です。改めて見直すべき洋画家のひとりと言えるでしょう。

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我が郷里の近くには福田豊四郎もおり、戦後の日本を代表する日本画家と洋画家が同郷というのは非常の幸運なことです。こうして蒐集することで同郷の眼を通して作品を愉しむことができるからです。



左下のサインから「1969年(昭和44年)、62歳の時の作品。」と推定されます。



広く見るとさらに平福父子、寺崎廣業らの日本画家がいます。郷里の画家の作品の蒐集は愉しいものですよ。

氏素性の解らぬ作品 伝スコタイ魚文鉄絵鉢

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昨日は豆まき・・・。



家の手伝いも進んでやるようになってきました。「ん? ゴマすり??」



さて明末の呉須赤絵、古染付や初期伊万里・古伊万里のような洒脱な絵のある作品は安南以南の作品にもあるようですが、本日はその代表格の「スコタイ魚文鉄絵鉢」の作品の紹介です。

氏素性の解らぬ作品 伝スコタイ魚文鉄絵鉢
誂箱入 
口径260*高台径*高さ74



本作品は発掘品ということですが詳細は不明です。



金城次郎の作品が「笑う魚」ならこちらは「怒った魚」・・・。



大量に生産されたスコタイの作品のようです。



タイの陶磁器の歴史は、13世紀のスコータイ王朝の成立期で分けられます。スコータイ王朝以前はクメール陶器の影響を受けた黒釉陶を生産しています。以降は王都のスコータイ窯と副都のシーサッチャナーライ窯で盛んに生産されています。



現代でも模倣品が多く生産されその判別は当方のような素人が及ぶ域ではないようです。よって本作品についても「本作品は発掘品ということですが詳細は不明です。」という記述にならざる得ません。



安南焼、スンコロク、スコタイ・・、東南アジアの焼き物も魑魅魍魎たるものがありますね。



同じような図柄で発掘品という触れ込みの作品では下記の作品をブログで紹介しています。

伝スコタイ魚文鉄絵高台付陶片
合箱入 
口径175*高台径80*高さ35

当方は東南アジアの焼き物は蒐集のちょっとした寄り道みたいなもの。



好きな方には申し訳ありませんが、正直なところ茶味に乏しく本格的に取り組むには興味が薄い分野です。ただ寄り道したくなる魅力がありますね。



絵に面白味がある以外にやはりその魅力は時代経過があるという点なのでしょう。



訪れたお家の玄関や居間にちょっと飾ってあるだけで「おっと?」と思うものがあります。



それは李朝でも同じなのででしょうが、その「おっと」思わせる違い解るようになる審美眼が観る側に必要ですね。当方にはその審美眼はまだ不足で素性が知りたくなって作品の裏側が観たくなる

壺屋焼 三彩唐草文面取瓶 小橋川仁王作

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家内が本ブログに投稿されている作品で「青い山が連なって描かれている作品が観たい。」と言い出して、「なんの作品かな?」と思い、急遽「この作品?」といって展示して見せたのが下記の不動立山の下記の作品です。



中国の近代画家の大家である張大千やアメリカで人気のある福田古道人らがこのような色彩で描いていますが、現代南画の作風はこのような描き方が人気があるのかもしれませんね。

さて本日紹介するのは手前に置かれた大きめの徳利です。

壺屋焼 三彩唐草文面取瓶 小橋川仁王作
合箱
口径*最大胴径155*高台径57*高さ280



沖縄とえいば泡盛・・、酒器にいい作品が多いのも沖縄の焼き物の特徴です。唐草文は金城次郎もまた魚文の以前にはよく描いていた文様です。



なによりも大きめの作品を好むのも当方の蒐集の傾向のようです。



皿も然り、壺も然り、民芸作品は大きいことが魅力となるようです。「大きいことはいいことだ~」と言うと年が判られてしまいますね。



沖縄以外で大きな徳利のいい作品は備前の舟徳利以外はあまりないように思います。本土の徳利や李朝の徳利はお預け徳利のような小振りな作品が味わいですから・・・。



茶室の花入れも小さめのものが重宝していることもその兆候??



底の掻き銘から小橋川仁王作(=小橋川永昌=二代目仁王)と推定していますが、明確な判断は後学とさせてください。



茶碗や水注のような小さめの作品以外では「仁王」の銘のある作品は本ブログでは下記の作品らが紹介されています。

壺屋焼 吉祥紋壺 小橋川永昌(仁王)作?
合箱
口径90*胴径135*高台径82*高さ158



壺屋焼 掻落唐草文角水指 小橋川永昌(仁王)作
合箱
全体サイズ:幅185*奥行175*底120~115*(口径110~115)*高さ220



赤絵文様壷 壷屋焼 仁王銘
口径105*胴径160*高台径95*高さ160



ちなみに古くから茶碗では下記の作品を紹介しています。



小橋川仁王といえば壺屋三人男として「なんでも鑑定団」にて紹介されましたね。そこで古くからある嘉瓶 (ゆしびん)の形の作品で本ブログで紹介された作品を金城次郎、新垣栄三郎らの作品と並べてみました。



左が新垣栄三郎、右が伝金城次郎作(銘はありません)。右から二番目は古くからある釉薬の嘉瓶 (ゆしびん)です。



嘉瓶 (ゆしびん)については本ブログにて詳しく説明されていますので詳細の説明は省略しますが、概略は下記のとおりです。

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嘉瓶 (ゆしびん):首里・那覇の上流階級の間で、祝事のある家に祝儀用に泡盛をつめて贈る瓶。嘉瓶と呼ばれるゆえんで、口は太く長く、胴部は瓢(ひさご)形で抱えやすいようにくびれ、家紋をつけたのもある。祝事が終って、贈り主に返される。

嘉瓶の「ユシ」は、沖縄の言葉でおめでたいことを意味する「カリユシ」に通じるといわれる。嘉瓶がひょうたんの様な形をしているのは、くびれている事で小脇に抱えやすい為だといわれている。壺屋焼が多く19世紀のものが多いのですが、最近でも生産され古酒などの器に使われています。

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贈られた嘉瓶は中の泡盛を他の容器に移したあと、持ち主に返される。そのため、なかには肩のあたりに家紋が入っている嘉瓶もあるようです。本作品はその嘉瓶から泡盛を移し替える時に使うのでしょうか? 

いずれにしても味わいのある民芸作品のひとつです。



このような生活雑器に箱を誂えて保管するのはなんとなくいいのかな?と思う時もありますが、保管上は気に入って選んだ作品は保管上は箱を誂えるべきなのででしょう。

すすきみみづく 色紙 川合玉堂筆

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この作品を観て川合玉堂の作品と解る人はちょっと骨董をかじった程度、この作品を観て何を描いたか解る人は骨董を趣味としている人・・・。この違いは大きい。

すすきみみづく 色紙 川合玉堂筆
紙本水墨淡彩額装 タトウ入
全体サイズ:縦485*横455 画サイズ:縦272*横242



家内はこの絵を見て「誰の絵?」と尋ねてきました。「川合玉堂さ」と小生が答えると家内は歌を即座に読んで、何を描いているか解ったようです。絵には題名などの資料はなく「梟画賛」とされていましたが・・・。



賛は「家つとの みみつく見れば むさし野の□尾花をひきし むかしのものの 愚庵 押印」とあります。

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家つと:〈包む〉という語は〈苞(つと)〉と語源を同じくするが,〈苞〉とはわらなどを束ねてその両端を縛り,中間部で物をくるむもの(藁苞(わらづと))であり,後には贈物や土産品の意味(家苞(いえづと))にも使われるようになった。また心理的方面においては〈包む〉は〈慎しむ〉に通じて〈隠す〉〈秘める〉〈はばかる〉といった意味合いを含み,ことに儀礼的局面におけるさまざまな〈包み〉の技法の心理的背景となってきた。…

【土産】より:旅先や外出先でその土地の産物を求めて帰り,家族や餞別(せんべつ)をくれた者などに配る品,また人を訪問する際に持参するいわゆる手みやげをもいう。古くはつと(苞)と称し,〈家づと〉〈都のつと〉などと用いた。つとは納豆を包んだりするわらづとなどにその名をとどめているように,元は持ち運びに便利な包物のことを指した

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家内からの説明を聞いて納得・・、我が家は夫婦二人で力を合わせてようやく骨董を趣味とするレベルに達した程度。

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すすきみみずく:東京都豊島区の郷土玩具で、ススキの穂を束ねて作られたみみずくの人形。 鬼子母神のお告げによって作られるようになったとされており、雑司が谷鬼子母神の参詣みやげとして販売されている。昔むかし、貧しさゆえに病気の母親の薬を買えなかった娘が鬼子母神に祈ったところ、夢の中に鬼子母神が現れて、「ススキの穂でみみずくを作り、それを売って薬代にしなさい」と告げた。娘がその通りにしたところ、みみずくは飛ぶように売れ、そのおかげで薬を買うことが出来たという。



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今ではこの玩具を作っている人はいるのだろうか?



川合玉堂は俳画には号として「偶庵」を用いていますが、その理由は下記のように「第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称した。」ことによります。



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川合玉堂:1873年(明治6年)、愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町)に、筆墨紙商の長男として生まれる。12歳頃より絵に親しみ、京都にてはじめ望月玉泉門下、後に幸野楳嶺門下で円山・四条派を学ぶ。

師・玉泉の"玉"と、外祖父・竹堂の"堂"をとって「玉堂」と名を改め、「玉堂」と号するのは1890年(明治23年)、17歳のとき。この際「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」は第3回内国勧業博覧会に入選している。1896年(明治29年)、23歳のとき上京し橋本雅邦に師事する。岡倉天心、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院(1898年)には当初より参加。

1900年(明治33年)頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年(明治40年)には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、また1915年(大正4年)からは東京美術学校日本画科教授となり、日本画壇の中心的存在の一人となる。1931年(昭和6年)にフランス政府からレジオンドヌール勲章、1933年(昭和8年)にはドイツ政府から赤十字第一等名誉章を贈られ、1940年(昭和15年)には文化勲章を受章した。

第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称した。第二次世界大戦後にも、同地の自然を愛する玉堂はそのまま定住、同地で1957年(昭和32年)没した。日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意とした。玉堂には長野草風、池田輝方、池田蕉園、松本姿水、山内多門ら多くの門人がいた。

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俳画や詩歌の賛のある作品で当方にて縁があった作品には下記の作品があります。賛は清水比庵によるもので、母の実家で所蔵していた作品です。川合修二鑑題箱で登録NOの割り印がありました。

参考作品解説
秋の□ 川合玉堂画 清水比庵賛
和紙水墨賛画軸装 折補修有 川合修二鑑題箱 登録NO有 
画サイズ:縦318*横428



玉堂の画に清水比庵の賛が書かれている作品、この二人の組み合わせの合作はよくみけます。

賛は「ねながらに 月はみえね(禰奈可良爾 月者三衣禰) ど つきのまへに 鳴聲(登 つ支の末へ爾 鳴聲) みちたる 虫のきこゆる(みち多留 虫のきこ遊類)」のようです。



秋の夜の風物といえば月と虫の声。それを画には描かないで、田舎屋に月がかかって虫の声がしているという画と字の連携で秋色濃厚な1枚・・・・という作品でしょう。

前述の作品にしろ、この作品にしろ骨董の鑑賞には知識が要るようですね。

菜の花下雲雀図 平福穂庵筆 慶應3年(1867年)頃

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現在、平福穂庵の作品を制作年代順に整理しています。新たな発見は今まで贋作と当方でも考えていた作品に意外に真作が多いという点です。こういう判断は数多く蒐集し、資料を広く拾い上げた結果だと自画自賛していますが、あくまでも平福父子の作品は贋作が多いの注意はしています。特に平福百穂の作品は要注意ですね。



本日はそのような整理の中で真作と判断した作品の紹介です。この作品を平福穂庵の真作と認める方は小生を除くとあまりいないかもしれませんね。それほど平福穂庵には贋作が多いという風評が多いからでもあります。

菜の花下雲雀図 平福穂庵筆 慶應3年(1867年)頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横737*縦2230 画サイズ:横595*縦1310
*分類第1期:文池から穂庵へ (安政5年~慶応3年)

 

本作品で注目されるのは白文朱方印の「文池」の大きめの印章が押印されている点です。落款の字の癖も前半は「庵」のハネが極端になっているのも特徴です。



平福穂庵は初期の頃の1860年代まで落款と印章共々「文池」と併用していたと思われます。初期の頃の作品は非常の数が少なく、資料的な価値は高くなります。

当方でも初号の「文池」の落款の下記の作品を本ブログで紹介しています。

業平東下之図 平福穂庵筆 慶応2年(1865年)
紙本淡彩軸装 軸先陶器 誂え合箱二重箱
全体サイズ:横*縦 作品サイズ:横538*縦843
*分類第1期:文池から穂庵へ (安政5年~慶応3年)

 

平福穂庵の号が「穂庵」に落ち着くのは明治2年頃からです。それまでは「文池」、「穂葊」(穂庵号の「庵」の字画が「葊」になっている)を併用しています。その制作年代の特定にはこれらがひとつの根拠になります。本作品は明治直前の幕末頃の作と推定されます。



「文池」の印で確認されているのは白文「文池之印」、朱文円印「文池」、主文楕円印「文池」、朱文「文」と白文「池」がありあますが、本作品の白文「文池」は確認されていないので資料的には初出の作品となります。



平福穂庵は初期の頃は四条派の影響の色濃い花鳥画を初期の頃に数多く描いています。



人のよっては贋作と分類する人がいるかもしれませんが、当方の判断では初期の貴重な作品と判断しました。



贋作を真作と思っている人は売買しない限り微笑ましいのですが、逆に真作を贋作として扱うことは百倍罪深いものです。このことを認識している人は決して他人の所蔵作品に贋作とは言わないようです。

格のある骨董店で所蔵品をよく見てもらう方がいますが意外に贋作とは言わないものです。親しい方には正直な感想を言いますが、一見さんには通常は「結構な作品ですね。」と言われます。私もそうですが、買取でないかぎり正直なところは口に出さないのが流儀のようです。

秋田富貴に蛙 市川米庵・大窪詩仏他合作

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一応作品整理のためのブログの投稿ですが、額の作品と陶磁器の作品はほぼ整理が完了し、残る掛け軸も目途がついてきました。あとは資料をまとめあげる段階であり、よほど予定外の作品の入手がない限りブログの訪問者が100万を達成した頃が目安になってきました。紆余曲折しながら、少ない知識でおおよぞ10年かかり、我ながらこつこつとよくまとめたものと思います。またガラクタばかりの作品、稚拙な文章にお付き合いいただいた読者にも感謝いたします。

さて当方では「ド~ン」とした作品がお気に入り、最近の展示はバーナードリーチの蛸図の皿。



皿もでかい方がいい。真贋は二の次ではないのですが、迫力のある作品が蒐集対象です。ただ飾る際に特大の皿立ての入手にも苦労しますし、保存用の箱も費用がかり、さらに何といっても置き場所が苦労しますので他の人にはあまりお勧めできませんね。

下記の作品は古武雄の大皿。



本日の作品紹介ですが、我が郷里でよく目にする馬鹿でかい蕗・・、この作品を買わずして何を買う? と気負いこんで入手した作品です。

秋田富貴に蛙 市川米庵・大窪詩仏他合作
紙本漆絵軸装 大窪詩仏賛 軸先加工木 誂箱 
全体サイズ:横1950*縦700 画サイズ:横1230*縦570



蕗は描いたものではなく拓本でしょうね。



そこに市川米庵と大窪詩佛が賛を沿え、「義寛」(詳細は不明)が蛙の絵を描いたもののようです。 



市河米庵の経歴は下記のとおりです。

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市河米庵:(いちかわ べいあん)安永8年9月16日(1779年10月25日)~安政5年7月18日(1858年8月26日))。江戸時代後期の日本の書家、漢詩人。 名は三亥、字は孔陽、号は米庵のほかに楽斎・百筆斎・亦顛道人・小山林堂・金洞山人・金羽山人・西野子など。通称は小左衛門。漢詩人の市河寛斎の長子。安永8年(1779年)、己亥九月亥の日(9月16日)の亥の刻に江戸日本橋桶町に生まれたので三亥と名付けられた。

父や林述斎・柴野栗山に師事し、書は長崎に遊学し清国の胡兆新に学ぶ。その後、宋代の書家 米芾や顔真卿らの書を敬慕し、その筆法を研鑽する。米庵という号は米芾に因んでいる。

隷書・楷書を得意とし、寛政11年(1799年)、20歳の時に書塾 小山林堂を開いた。その後、和泉橋藤堂侯西門前に大きな屋敷を構え、門人は延べ5千人に達したという。尾張藩徳川氏、筑前福岡藩黒田氏、津藩藤堂氏、徳山藩毛利氏、鯖江藩間部氏などの大名にも指南を行った。 書の流派である江戸唐様派の大家。同じく江戸で門戸を張った巻菱湖(1777年 - 1843年)、京都の貫名海屋(1778年 - 1863年)とともに幕末の三筆に数えられる。文化8年(1811年)に富山藩に仕えたが、文政4年(1821年)に家禄300石をもって加賀藩前田家に仕え、江戸と金沢を往復し指導に当たった。 余技に篆刻を嗜み、印譜『爽軒試銕』がある。文房清玩に凝り唐晋の書画の蒐蔵と研究で知られる。また煎茶を嗜み、松井釣古の主人であった加賀屋清兵衛に楓川亭と命名している。『米庵墨談』など多数の著述がある。

継子に恵まれずはじめ稲毛屋山の子恭斎(きょうさい、1796年 - 1833年)を養子に迎えるが夭折してしまい、次いで遂庵(いちかわ すいあん、1804年 - 1884年)を迎えた。しかし、米庵が60歳のときに長子、万庵(いちかわ まんあん、1838年 - 1907年)を授かる。1858年歿、享年80。西日暮里本行寺に墓がある。 石碑の文字も多くを手がけ、現在全国に50基以上の石碑が確認されている。

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蕗の茎の部分に市河米庵の賛がありますが、解読できていません。



大窪詩仏の来歴は下記のとおりです。釧雲泉と旅したことは本ブログで紹介しれています。秋田藩と縁があったことで本作品が出来あったかもしれませんね。

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大窪詩仏:(おおくぼしぶつ)明和4年(1767年)~天保8年2月11日(1837年3月17日))。江戸時代後期の漢詩人である。書画も能くした。常陸国久慈郡袋田村(現 茨城県久慈郡大子町)に生まれる。 名は行(こう)、字は天民(てんみん)、通称を柳太郎、のちに行光、号は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく)、痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)、玉地樵者、艇棲主、含雪、縁雨亭主、柳庵、婁庵、詩聖堂(しせいどう)、江山書屋(こうざんしょや)、既醉亭(きすいてい)、痩梅庵(そうばいあん)とも号した。号の詩仏は唐詩人 杜甫が「詩名仏」と称されたことによるものか、あるいは清の袁枚の号に因むと言われる。

少年期:詩仏が10歳の頃、隣家が火事となり大騒動になっていても、それに気付かず読書しつづけたという逸話が残っている。父の大窪宗春光近は桜岡家の婿養子となったが離縁になり、詩仏を引き取って実家のある常陸国多賀郡大久保村に戻った。このため詩仏も大窪姓に復する。代々大窪家は医を生業としており、宗春は田舎で身を沈めることを潔しとしなかったため、数年後単身で江戸にて小児科医を開業する。江戸では名医として評判となり大いに繁盛した。

修業時代:詩仏は15歳頃、江戸日本橋新銀町で開業する父の元に身を置き、医術を学び、剃髪し宗盧と号した。21歳頃より山本北山の門人 山中天水の塾 晴霞亭に通い儒学を学び、市河寛斎の江湖詩社にも参加して清新性霊派の新風の中、詩作を始める。24歳のとき父が亡くなるが、医業を継がず詩人として身を立てる決意をする。同年、師の天水が33歳で死去し、中野素堂の紹介で山本北山の奚疑塾に入門する。

活動期:25歳の時、市河寛斎が富山藩に仕官した後、江湖詩社に活気がなくなってくると、先輩の柏木如亭と向島に二痩社を開いた。詩仏の別号 痩梅、如亭が痩竹と号したことに因んだ命名である。この二痩社には百人を超える門人が集った。その後、自らの詩集や啓蒙書などを活発に刊行する。また各地を遊歴し、文雅を好む地方の豪商などに寄食しながら詩を教え、書画の揮毫などで潤筆料を稼いだ。その足跡は東海道、京都、伊勢、信州、上州に及ぶ。

絶頂期:文化3年(1806年)3月、39歳の時丙寅の火災と呼ばれる江戸の大火に罹災。家を焼失した詩仏は復興費用の捻出のため画家の釧雲泉と信越地方に遊歴し、秋に帰ると神田お玉ヶ池に家を新築、詩聖堂(現 東京都千代田区岩本町2丁目付近)と称した。しだいに訪問客が増え、それにともなってこの詩聖堂に度重なる増築を加え、豪奢な構えとなっていく。文化7年正月、『詩聖堂詩集初編』を出版し、江戸詩壇の中で確固たる地位を築く。この頃、頼山陽などと交流する。

珍事:文化13年(1816年)、書画番付騒動が起こり、これに巻き込まれる。これは当時の江戸の学者や文人達を相撲の番付に見立てて格付けした「都下名流品題」という一枚刷を巡り、あちこちで格付けの不当が言い立てられ始めたことによる。東の関脇に詩仏が格付けされており、親友の菊池五山とともにこの戯れ事の黒幕と目されてしまった。大田錦城らと大きく悶着したが、後援者である増山雪斎の調停でなんとか治まった。真相ははっきりしないが詩仏の関与は濃厚と見られる。この後、詩仏は信越へ遊歴し、ほとぼりを冷ましている。

仕官:地方に遊歴してもしだいに振るわなくなったことに焦りを感じたためか、詩仏は文政8年(1825年)、59歳にして秋田藩に出仕する。ほとんど拘束を受けない条件で江戸の藩校 日知館の教授として俸禄を給されたので生活そのものは変らなかった。

不運:文政12年(1829年)は63歳になる詩仏にとって運の悪い年だった。3月の江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂を全焼し、秋田藩邸に仮住まいを余儀なくされた。下谷練塀小路に小宅を構えることは出来たが、二度と詩聖堂を復興することは出来なかった。ついでこの冬、二人の幼女を残して妻が先立つ。

晩年:晩年の詩仏は江戸詩壇の泰斗として敬われ、交友も活発であったがかつての華やかさは次第に失われていった。肉体的にも衰えが目立ち、65歳で秋田に旅した帰路には脚気が悪化し養子の謙介に迎えに来てもらわねばならなかった。

天保8年2月(1837年)、自宅で没する。享年71。浅草松葉町の光感寺に葬られる。後に藤沢市本町に改葬された。

人物像:詩仏は穏やかで物事に頓着しない性格で少しも驕ることがなかった。また人付き合いがよく、酒を好んだこともあり、多くの文人墨客と交流し、当時の詩壇のアイドル的な人気を獲得した。

業績・評価:市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで江戸の四詩家と称せられ、また、画家の清水天民、儒者の並河天民、詩人の大窪天民(別号)で三天民と評される。蜀山人は「詩は詩仏、書は米庵に狂歌俺、芸者小万に料理八百善」、「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって激賞した。

師の山本北山は、「詩仏は清新性霊の新詩風の中で育ち、古文辞格調派の毒に染まっていない」として大いに期待しエールを送っている。詩仏の詩は范成大、楊万里、陸游など南宋三大家の影響が強いといわれる。詩はいたずらに難解であるべきでなく平淡であることを貴しとし、清新であり機知に富んでいながら尚、わかりやすい詩をめざした。このように写実的な詩風を好んだため、特に詠物詩を得意とした。

書画:七行絶句三行草書「残雪不消猶待伴」
孫過庭に影響され草書を能くした。また画については蘇軾に私淑し、墨竹図をもっとも得意とした。墨竹の四葉が対生する様は「詩仏の蜻蛉葉」と称され尊ばれ、多くの人から書画の揮毫を求められ、潤筆料を稼いだ。


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蛙描いた画家は全く不明です。



能書きは別として実にユーモラスな作品です。



このような合作は駄作が多いのですが、本作品は実に見ごたえのある作品だと思います。



箱もなく打ち捨られたかのごとく売られていた作品ですが、我が展示室で蘇った作品のひとつではないでしょうか? さて保存箱の段取りをしましょう。ともかく大きな作品は費用がかかります。

鯉 その2 寺崎廣業筆 二本廣業時代 明治30年代(1895年)頃 その70

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寺崎廣業の作品が「その70」となってきおり、ようやく呑み込みの悪い当方でも真贋の判断や制作時期が朧げに見えるようになってきました。贋作の多い寺崎廣業の作品もそれ相応に判断力がついてきました。年内には整理した資料もまとまりそうです。

鯉 その2 寺崎廣業筆 二本廣業時代 明治30年代(1895年)頃 その70
絹本水墨軸装 軸先加工象牙 共箱 
全体サイズ:横440*縦1830 画サイズ:横320*縦950



「鯉」の作品は下記のように同図の作品も蒐集され、描き方の特徴も呑み込めてきました。



落款は二本廣業であり、印章は「宗山」の朱文白方印。落款から明治30年代の作と推定されます。

*明治25年寺崎廣業は邨田丹陵の娘「菅子」と結婚。向島三囲神社の前に住したそうです。これを機に義父の邨田直景の弟で漢学者の関口隆正より「宗山」の号を与えられます。よって「宗山」の印章、号のある作品は明治25年以降の作と推定されます。なおこの印章は大正時代を通して小点の作品にもよく押印されています。

なお箱書は三本廣業であり、明治末期から大正初期にかけてのものでしょう。「その1」に比して小振りの作品ですが、絹本に描かれており、共箱で表具もよい。箱の印はよく箱書に押印される朱文白達磨?印。

  

軸先もきちんとしています。多作ゆえに評価が下がるにつれて、乱雑に扱われることの多くなる寺崎廣業の作品ですが、著名になる前の「二本廣業」時代には優品が多く大切に保管されている作品もあります。



当方の所蔵作品で本ブログに紹介された作品に同図の作品があります。本作品とほぼ同時期に描かれたと思われますが。こちらは大幅となっています。

鯉 その1 寺崎廣業筆 二本廣業時代 明治25年(1892年)頃
紙本水墨軸装 軸先鹿本骨 合箱入 
全体サイズ:横700*縦2140 画サイズ:横550*縦1320



「廣業席立上写」と落款に記されていることから、依頼されて即興的に描かれた作品と思われ、同図の作品が幾つか見受けられます。

表具は波紋様の布が用いられ、再表具されています。印章は「寺崎廣業」の朱方印は押印されています。落款から明治25年頃の作品であると推察されます。鯉の表現が味わい深く、かなりの技量をうかがえる作品です。

繰り返しになりますが「二本廣業」時代の寺崎廣業の作品は優品が多く、著名なった明治40年代から大正期にかけての作品は駄作が多いのも寺崎廣業の作行の特徴と言えます。



同じ構図の作品・・、大きさや制作年代が違うので比較して愉しめるものです。

五月の節句 真野暁亭筆 その2

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季節外れの作品の投稿ですがご容赦願います。

五月の節句 真野暁亭筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2080*横560 画サイズ:縦1250*横410

 

幼少時から絵を好み、明治17年(1884年)3月、10歳で父に連れられ暁斎に入門しています。暁斎に入門して暫く後、暁亭は暁斎の内弟子となり、河鍋家に寝泊りしていたといわれます。



『河鍋暁斎絵日記』の明治17年8月14日の絵に、河鍋暁翠らとともに枕を並べている様子も描かれています。



明治22年4月、暁亭15歳の時に師暁斎が亡くなった後も、河鍋暁雲・暁翠・土屋暁春ら先輩が内国勧業博覧会や日本美術展覧会で活躍するのとは対照的に、絵画修行に励んでいます。

明治26年(1893年)には京阪方面へ旅行し、西方寺(茨木市)や九品寺、月照寺などに参拝、スケッチを残している。暁亭は終業熱心で、鹿嶋清兵衛は「暁亭は勉強家なり」と評している。



明治27年(1894年)の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「虎図」を出品し三等褒状を受賞する。
明治34年(1901年)11月の絵画研究会に「塔図」を出品、三等賞銅印を得ている。
明治35年(1902年)4月には「布袋図」を出品し、褒状一等を受賞した。
明治34年の美術展覧会に、自らの出品ではなかったが藤井祐敬という人が出品した暁亭の「謡曲百萬図」が二等銀賞を受賞している。また、日月会、大東絵画協会、巽画会会員になっている。
明治40年(1907年)、東京勧業博覧会に「愛児」を出品、三等賞牌受賞。

文展開設では正派同志会(旧派)結成に評議員として参加した。この後の約20年間は何故か美術展覧会の出品を控えているが、昭和3年(1928年)から昭和8年(1933年)にかけて計5回の美術展覧会にも5点の屏風ものと1点の軸装と思われる作品を出品、そのうち2回入賞を果たしている。

昭和4年(1929年)の第81回美術展覧会の時、「杉」6曲1双屏風が三等賞銅牌を、昭和6年(1931年)の第87回美術展覧会の時、「猿」6曲1双が同じく三等賞を受賞している。暁亭は昭和6年に日本美術協会の会員となっていた。



暁亭は20歳の時に京阪へ旅行した他、30歳以降晩年まで、北は青森から西は京都、大正時代には朝鮮、中国にも旅行している。特に東北地方は縁が深い。

明治38年(1905年)岩手県盛岡で催された四条派の絵師藤島静邨の画会に特別参加し、当地に長逗留したため、盛岡には多くの作品が残っているという。

青森県五所川原市の太宰治記念館 「斜陽館」には来歴不明の「四季図襖絵」8面が所蔵され、福島県河沼郡柳津町の円蔵寺山門にある二枚の龍図天井画も暁亭の筆である。

東北地方にはまだ多くの作品が眠っていると見られる。

  

暁亭も暁斎同様に無類の酒好きであったとみられ、昭和8年に栃木県日光市の金谷旅館に泊まりこみ、輪王寺の襖絵を描いていたが、体調を崩してしまい、翌昭和9年に東京へ戻り、8月11日に食道癌で没した。享年61。なお、暁亭も絵日記をつけていたといわれる。



本作品はスケッチ力にも優れた、なんとも微笑ましい作品だと思いませんか?

秋海棠 福田豊四郎筆 その91

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本日は当方の蒐集対象の福田豊四郎の作品の紹介です。

秋海棠 福田豊四郎筆 その91
紙本着色額装
全体サイズ:縦555*横630 画サイズ:縦370*445



展示室に川合玉堂の作品と展示して愉しんでいます。



ところで秋海棠の花言葉は、自然を愛す、恋の悩み、片思い、未熟。「片思い」はハート形の葉の片方が大きくなるところからといわれるそうです。



当然季語は秋で「秋海棠 西瓜の色に 咲きにけり」(松尾芭蕉)の俳句が著名です。秋に庭に咲き、彩を添えてくれる馴染みのある花です。



福田豊四郎が「秋海棠」を描いた作品は非常に珍しく、当方では本作品しか知りません。



落款と印章から昭和40年頃の晩年の作と推定されます。

 

蒐集する者は作品を大切に保管するのも大いなる役割です。額の作品は黄袋とタトウに入れて保管し、陶磁器も箱に、掛け軸も保存箱をきちんとしておくことが大切で、それができないのは蒐集者として失格でしょう。

獅子図 大橋翠石筆

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週末の三連休は天気も良くないし寒い日が二日あったので近場のプラネタリウムへ出かけました。



家内と息子は三回目で小生は初めてです。というかおそらくプラネタリウム自体が初めて・・・。



打ち上げ衛星が展示されていました。「のぞみ」に「はやぶさ」・・、まるで新幹線のような名前ですね。



「はやぶさ」はずいぶんと話題になりました。



息子は三階目ですので、これが「はやぶさ2」だよと説明してくれます。



三人で来たのがとても楽しそうです。



親子ともども星座のお勉強です。



さて本日の作品は本ブログでおなじみの大橋翆石の作品の紹介です。

大橋翠石の作品の良さは「虎」の作品ばかりではありません。関西の経済人は大橋翠石の「虎」の作品を所蔵していることがひとつのステイタスであったそうですが、それでは関東人は「獅子」の作品を所蔵しようではありませんか

おっとこちらの写真は動物の音楽隊・・。



獅子図 大橋翠石筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先陶器 合箱 
全体サイズ:横560*縦1330 画サイズ:横425*縦370



この作品を観て即座に真作と判断できるのも経験からです。



大橋翠石の作品と言えば「虎」ですが、「獅子」の作品もひけをとるものではなく非常に評価の高い画題のひとつです。



描き方は「虎」の作品と共通しています。



最晩年の作ですね。



専門的には落款からは下記の制作時期と断定されます。

C.晩年期:1940年(昭和15年)-1945年(昭和20年)66歳~81歳

この時期の作品の特徴は下記のとおりです。このような制作時期や真贋のとらえ方は経験と知識によって生み出されます。

糸落款翠石: 翠石が細く書いてある。3期 1940年(昭和15年)-1945年(昭和20年)
画風   :地肌に赤、金で毛書きがされ、毛書きの量も控えめになる。背景は晩年期より簡素化し、構図も前を向く虎の顔や全身に比べて尾や後身が抑えて書いてある。

文献との比較は下記のとおりです。

  

残念ながら共箱ではなく、鑑定もありません。 

  

しばし展示室にて鑑賞・・・。



そういえば下記の作品の改装が出来上がりました。

親子虎図 大橋翠石筆 明治40年(1907年)
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横500*縦1300



左が改装前、右が改装後です。



専門的には「分類B.中間期:1910年(明治43年)~1922年(大正11年)46歳~58歳 第1期」に分類されます。

作風は「分類A.青年期から初期 :1910年(明治43年)夏まで」に近いですが、落款が「中間期:1910年(明治43年)~1922年(大正11年)46歳~58歳」の作品です。巻止には明治40年作と書かれています。明治43年まで「点翆石」という定説なのですが・・・・?? これは後学としましょう。



「贋作を真作とするのは他人への売買が関わらない限り「御愛嬌」、真作を贋作とするのは罪悪と心得よ。」という金言がありますから、真作の可能性のある作品は大切に遺しておきます。他のいくつかの贋作と明らかに判断できた作品は処分しました。

ともかく骨董の世界は宇宙のように広い・・。

梅 伝小堀権十郎筆

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本作品は家内が購入した作品です。

梅 伝小堀権十郎筆
紙本水墨軸装 軸先塗 古筆了鑑定箱入
全体サイズ:縦*横 本紙サイズ:縦*横



さてこのお軸を掛けて、息子と家内で雪見茶と洒落こんだ時の写真です。飾ってある作品はすべて本ブログにて紹介してある作品です。

床にはバーナード・リーチの置物、には京焼・・。



茶碗には自作の茶碗も・・・。



菓子皿には「スコタイ」の皿・・。



家内のお手前でお薄を頂きました。



むろん息子はお菓子が目当てですが、お茶も大好きなようです。



小堀権十郎は言わずと知れた江戸前期の茶人。徳川幕府の旗本で名は政尹、号は篷雪。小堀遠州の三男(長男が夭折したため次男とも言われる)。

はじめ母方の姓浅井氏を名乗るが、のち小堀氏となる。父の後を承け、千石を領した。茶道・書道を父に学び、また画・狂歌にも秀でた。元禄7年(1694)歿、70才。

 

「梅がえに なきてうつろふ 鶯の はなしろたへに あわ雪そふる」かな??



大和遠州流(やまとえんしゅうりゅう)は小堀遠州の三男(長男が夭折したため次男とも言われる)小堀政伊に始まる小堀権十郎家に伝わった茶道の流派である。



小堀権十郎家は1000石の旗本で、大和遠州流は小堀本家が継承している遠州流と同様、武家茶道の一派に属する。その茶風は、千利休・古田織部が確立した「わび・さび」の気風に加え、茶室の構造・露地の態様・茶道具の取り合わせや掛け軸の選択等、茶事に関わる全てに小堀遠州の美意識を反映させた「綺麗さび」を特徴としている。



後に、家元は当代で最も実力を認められた高弟に継承されていった。



明治末期に栃木県佐野市の蓼沼家本家の食客となっていたことのある17代家元の加藤一照が、当時から弟子であり明治43年に北海道留萌市に移住していた蓼沼紫英へ、昭和7年に18代家元を継承したことから、北海道に本部をおくこととなった。



当方は茶掛には全くの門外漢・。

 

真贋のほどはよくわかりませんが、雰囲気はあります。

 

ただ雰囲気では真贋は語れないのが骨董の難しさ・・・。

リメイク 真贋考 虎之図 平福穂庵筆 

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*本原稿は2018年8月2日に投稿されましたが、資料調査により修正点が多々あり、修正して「リメイク」として再投稿します。

この作品はもともとは母方の縁者が所蔵していた作品でしたが、近日、知り合いからの紹介で縁あって譲り受けた作品です。真作なら平福穂庵の大幅で初期の作品と言えますが、以前に投稿した際には「贋作」の可能性が高いという趣旨で記述していましたが、この度は真作の可能性のほうが高いという判断になりました。

*印部分が今回の訂正した部分です。

贋作考→*真贋考 虎之図 平福穂庵筆 
紙本水墨軸装 軸先 合箱
全体サイズ:横1140*縦1840 画サイズ:横1000*縦920



落款には「明治乙亥二月 穂庵□順 押印」とあります。1875年(明治8年)。平福穂庵が31歳の作となります。

*専門的には「平福穂庵の第2期」に分類される作品です。

当方の所蔵する作品では下記の「双鶴図」(真作)の作品が近い時期の作品であり、この作品の画中の賛には「甲戌春三月」から1874年(明治7年)、落款からは穂庵の初期の頃、30歳頃の作と推定となります。

双鶴図 平福穂庵筆 その16(真作整理NO)
紙本水墨軸装 軸先鹿角 合箱 庄司氏旧蔵
全体サイズ:縦2063*横615 画サイズ:縦1078*横451

両作品の落款を比較してみましょう。左が本作品(「虎之図)、右が「双鶴図」(真作)であり、一年の製作時期の違いがありますが、見紛うことなきがごとく、ほぼ同一人のよるものと推察されます。

 

問題は印章です。印章は朱文白長方印「穂庵」で、上記作品「双鶴図」に押印されている印(真印)とは違います。

そこで印章の確認は当方の他の真作の所蔵作品である「瀑布図」、「雪中鴛鴦図」(慶応3年 1867年 明治元年前年)に同一印章が押印されていますので、そちらと比較してみました。

 

この印章との比較において、本日紹介している「虎之図」と微妙に違います。このことにより、売買では真作とは断定されない可能性があります。「雪中鴛鴦図」から8年後の作ですので、印が多少変わっている可能性は否定できませんが厳密な判断が必要です。

これ以上制作年代が近いと判断される年号入りの平福穂庵の資料が手元にないので判断資料はありませんが、印章が微妙に違うという現象は明治以前の印章にはよくあることです。一概にここで贋作とは断定できないものがあります。

*この推定は正しいものと判断しました。概して印章が一致しないと贋作という判断をする方が多いのですが、それは大きな間違いだと思っています。



初期の頃の平福穂庵は、16歳で京都に遊学し、故郷にあてた手紙に「予は自然を師として独往(どくおう)の決心」と書き記したように、特定の師につかずに古画の模写や風景写生に励んで画技の研鑽を積みました。この頃から穂庵の雅号を用いています。



帰郷後も、幕末から明治にかけての大きな社会的変革の中にあって画業に励み、対象に迫る眼や実物写生による迫真性にさらに磨きをかけ、形式にとらわれた作品が多いこの時期に、自由奔放で才気あふれる自在な筆勢をみせています。この時期(初期の頃)の作品を高く評価する人も多いようですが、真作ならまさしく本作品はこの頃の佳作と言えます。

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平福穂庵:弘化元年生まれ、明治23年没(1844年~1890年)。秋田県角館出身。名は芸、俗称順蔵。当初は文池と号し、後に穂庵と改めた。画を武村文海に学び、筆力敏捷にして、ついに一格の妙趣をなし、動物画に長ず。百穂はその子。「乳虎図」(河原家蔵)は代表作。17歳で京都に上り修業、元治元年に帰る。明治23年秋田勧業博覧会で「乞食図」が一等。明治19年に東京に出て、各種展覧会に出品、大活躍する。系統は四条派で、門下に寺崎廣業ほか10人以上に及ぶ。

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平福穂庵の虎の作品というと有名な「乳虎図」がありますが、この作品は明治23(1890)年の第三回内国勧業博覧会で妙技二等賞を受賞しており、平福穂庵の最晩年における代表作です。



この作品は、日比谷公園で展示されていた虎を一週間通い詰めて描いた入念な写生図をもとに、明治22(1889)年に病気のため帰郷した角館で構想を練り、制作されたものです。

「乳虎図」は円山四条派の流れをくむ写生体で、模索の末に打ち立てた独自の画風の円熟をみることができます。精緻な筆遣いで描かれた表情や金泥(きんでい)を施した毛並みの柔らかい質感など、細部まで余すことなく描き込まれた「乳虎図」は、鋭い観察と磨かれた画技に支えられ、平福穂庵の精神性までもが表現された、格調高い作品となっています。平福穂庵の晩年の最高傑作でしょう。

*「乳虎図」は二作品存在し、どちらの作品が出品されたかは現在は不明だそうです。

本日の作品が真作なら、この代表作より14年前に描かかれた虎を画題とした作品となり、資料的にも価値のある作品となります。



本作品は興味深い作品であることには相違ありませんし、出来から当時の家人らは真作と判断したのでしょう、母の実家では杉の材木業を営んでいたことから分厚い杉板材を使用した立派な箱が誂えられています。

*明治以前の上等な杉箱に収められた作品には良品がありという言い伝えが骨董にはあります



印章の違い、絵の出来では虎の左足のあいまいな表現などから、真作とは完全には断定できないと判断されますが、この作品は小生の先祖に関わる歴史のひとつですので、大切に保管しておくことにしました。

*この作品は真作と判断されます。

(先人である家人の弁護のため:母の実家の家人は目利きでしたので真作と断定できないと理解していた可能性があります。母の実家で所蔵していたほとんどの作品を小生に見せてくれていましたが、この作品については見せてくれていませんでしたので・・・。)



当方のような骨董をビジネスとしていない素人に迂闊な判断は禁物です。他の作品らと良く見比べて慎重に判断しています。

素人が「贋作を真作ととらえるのはそれほど罪ではありません。」が、「真作を贋作と断定するのは大きな罪」です。本作品は微妙な作品であり、現段階では「真作とは断定できない、」という表現にとどまります。

*正直なところ現段階では真作の可能性が高いと小生は判断しています。



資料から推察すると元々本作品を母の実家の縁者が所蔵する前に所蔵していた家が解りました。

その家と同郷の家(共に地元では著名な名家)で所蔵していた刀剣を手前に飾りました。骨董には地元での先祖の歴史があります。そしてそれは小生に関わる歴史のひとつであることも事実です。

*この作品を真作と判断した根拠

1.平福穂庵の作で明治7年の作は第2期に分類され、その作品のほとんどが大作となっている点
2.この当時の落款は「穂」の「心」の部分が極端に跳ね上がっている点(この時期以降はその特徴がなくなっていく。)
3.さらに「穂」の冠部分の特徴が明治8年頃の書体であり、その後は書き方に違いが出る。

*以上より本作品は多少の印章の違いが後期の作とはあるものの真作に相違ないという結論に達しています。真作を贋作と断定するのは大きな罪」を冒さなくて済みましたし、我が家の先人の目利きを立証したような?気がします。


両国橋 大林千萬樹筆 その3

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先日のバレンタイン。息子はチョコレート作りに励んだようです。



さて近代画壇の美人画には上村松園、鏑木清方,伊東深水らにほかに数多くの見るべき画家がいます。本日は大家ではありませんが、同じ時代に画家のひとりである大林千萬樹の「作品 その3」の紹介となります。

両国橋 大林千萬樹筆 その3
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1990*横410 画サイズ:縦1280*横270

 

本作品の題は「両国橋」と題されております。両国橋の歴史は下記のとおりです。鉄橋では風情がないので、明治30年より前の両国橋をイメージしての作か?

両国橋の歴史は下記のとおりですが、災害が結構関連している橋ですね。

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両国橋:創架年は1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)2説ある。千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。

流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は数十名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する。

結果、1904年(明治37年)に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わる。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残る。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。

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「1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落」・・、いつの世も同じような事故が起きているのですね。



暗くなってからの使いでしょうか? 独特の雰囲気で女性を描いた大林千萬樹の作品です。



本作品の落款と印章、箱書は下記のとおりです。

  

女性を描いた作品はそれなりの趣向で表具されています。



掛け軸は絵の鑑賞において、縦長であったり横長であったりの自由な画面構成、その表具と一体となった趣向など楽しめる点が多いのに、どうして日本人は愉しまなくなったのでしょうね。されには風鎮や床の間など日本の美意識を具現化したものがどんどん失われていく・・。



さて昭和3年の50円という伝票がありますが、だいたい現在の15万円相当でしょうか?



昭和3年は大林千萬樹が43歳頃の時と推定されます。このことから関東大震災(1923年 大正12年)以降に奈良か京都へ移住した当時に描かれた作と思われます。両国の橋近辺の風景もだいぶ変わってのでしょうね。

花魁図 寺崎廣業筆 二本廣業 明治40年(1907年)頃

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前回中村岳陵の色紙の作品を紹介しましたが、「工芸品」のほうを郷里から持ち帰って比較してみました。



左が大塚工藝社による複製品で、右が真作の肉筆画です。



大塚工藝社の複製品は「印章」が「工芸」と明記され(解りにくいものもある)、裏側には大塚工藝社のシールがあります。シールは剥がされていることがるので要注意です。

 

かたや真作は下記の写真のおりです。



ほぼ同じ構図です。大塚工藝社の作品に下絵とみて差し支えないのでしょう。



大塚工藝社の複製品は祖父が上京した際にお土産として買ってきた作品です。当時は工藝作品を売りに出していた初めの頃で目新しかったようです。



これらの経緯を資料にまとめて工芸品共々保管することにしました。



さて本日紹介する作品は寺崎廣業の席画の作品の紹介です。もはや当方ではかなりの所蔵作品数となった寺崎廣業の作品であり、今後は佳作に絞って寺崎廣業の作品を蒐集すると述べながら、このような席画程度の作品を蒐集するのは方針が違うと思われる方もいるでしょうが、本作品は間違いなく寺崎廣業の佳作と言っていいでしょう。

花魁図 寺崎廣業筆 二本廣業 明治40年(1907年)頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先 合箱 
全体サイズ:縦1791*横343 画サイズ:縦1323*横319



落款から作品を描いたのは明治40年頃の作と推察されます。一気呵成に描き上げたこの作品は寺崎廣業の明治30年頃からの新進気鋭に満ち溢れた技量を発揮した佳作といってよい。



この頃の寺崎廣業は挿絵を中心とした美人画が人気の頃であり、手練を積んだ成果が一気に花開いた時期でもあります。



着物に牡丹の図柄が勢いのよい筆遣いで描かれています。このような寺崎廣業の美人画の席画は珍しいと思います。とうほうでも2作品目の紹介となります。



展示室には花を描いた呉須赤絵の作品と並べています。



このような展示の取り合わせも愉しみのひとつですね。



中央の描かれたのは麒麟の絵・・・。

この絵柄が描かれた呉須赤絵の大皿の作品は当方にもいくつかあり、当方ではこの「麒麟」が描かれた作品が一番好きですね。



上の写真の麒麟の絵は別の作品に描かれているものです。

本日は盛りたくさんの作品の紹介となりました。



不老 小堀宗中筆

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二月の三連休は雪・・。



郷里に比べれば積雪とは言い難いものですが、風情はあります。



展示室からも雪の景色が愉しめます。



さて本日も家内が購入した作品の紹介です。家内は遠州流を習っているので遠州流にちなんだ作品が多いようです。

不老 小堀宗中筆
紙本水墨軸装 軸先塗 合箱入
全体サイズ:縦1168*横577 本紙サイズ:縦300*横560



作品の取り合わせのミスマッチ? 「不老」ということで享年102歳の北村西望の作品との取り合わせです。小堀宗中も江戸後期でありながら、享年82歳です。



北村西望はいわずと知れた長崎の平和祈念像の作者であり、小堀宗中は遠州流の中興の祖と称せられる第8世です。



茶掛けというのは数少ない言葉からいろんなことを学ぶらしい。



不老・・・、ただ単純に年をとらないことか? ちょっと違うのだろうね。あと何年、雪の景色を愉しめるのだろうか? そう思うと雪の降る寒さも愛しくなります。

鯉 その3 福田豊四郎筆 その96 昭和30年(1955年)頃

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先週末は幼稚園で作った作品の発表会でした。その週の初めから「あと何回寝たら行くの?」と楽しみにしていたようです。見てもらうのが楽しくてしょうがないのか、親子三人で幼稚園に行くのが楽しいのか、帰りに食事をして帰るのが楽しいのかわかりませんが・・・。



さて本日の作品紹介ですが、福田豊四郎の鯉を題材にした作品は今回の紹介で三作品目となります。本日は他の二作品も紹介しながらの作品紹介といたしました。

鯉 その3 福田豊四郎筆 その96 昭和30年(1955年)頃
P8号 紙本着色額装 共シール
全体サイズ:縦517*横637 画サイズ:縦332*横445



福田豊四郎の醍醐味は故郷を描いた作例のノスタルジックな趣の作品にありますが、富士や鯉を描いた作品にも独特の品格があり魅力的です。



このような作品を壁に飾ったり、節句に飾ったりしてみるのもリッチでいいものです。



絵をじっくり飾って観るのはいいことです。現代画や抽象画、たとえ印刷やコピーでもいいのです。最初は絵を愉しんで自分の好みを確立することがいいのでしょう。



最初から好みもないのに真贋にばかりこだわったり、たいして面白くもない美人画や浮世絵に迷ったりするより、一番大切なのは自分の美意識、美的感覚を確立することが大切なことだと思います。私の好みは恋、もとい鯉。



*なおちなみに当方の福田豊四郎の作品は記述内容に説明がない限りすべて真作です。



最近インターネットオークションで福田豊四郎の作品と称して程度の低い紛い物(贋作)が出品されていますので、落款や印章は当方のブログの記事を参考にしてそれらの騙されにようにしてください。



福田豊四郎氏が描いた鯉の作品は本日紹介した作品で「その3」となります。他の二作品とは落款などの多少の違いから少し時期のずれての作例もあるようです。

福田豊四郎筆 鯉 その1 昭和25年頃の作



この作品は以前に紹介したように当家の長男の誕生の際してお祝いに描いた頂いた作品です。



表具は祖父が依頼して誂えてものでしょう。今ではこのような表具は数十万を超えるものです。



福田豊四郎筆 鯉 その2 昭和30年頃の作



前の所有者が額を拵えたものです。ともかく作品全体が重い!



作品は表具に、額装に大いに楽しむべきものです。集めただけの骨董蒐集は面白味の半分も味わっていないことになりましょう。



年末年始の蒐集で福田豊四郎の作品は下記の三点が集まりました。



作品数も百点を超えそうです。数だけなら一部の美術館を除き他にない蒐集ですが、やはり量より質の向上を図っていきたいものです。



ただこれらの作品を超える作品の入手・・・、なかなか難しいかもしれません。



我が郷里の画家「福田豊四郎」の作品・・・。

白日 西山英雄筆 その2

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週末に買い物に行こうと車にエンジンをかけようとすると息子が「パパ見て!」と手を引いて連れて見せてくれたのが咲いた福寿草です。



たしかに一輪だけ咲いたのは気が付いていたのですが、三輪になっていたとは・・、春は着実に近づいていますね。

さて本日は蜻蛉を描いた作品の紹介です。

白日 西山英雄筆
紙本着色軸装 軸先練 共箱二重箱
全体サイズ:縦1265*横580 画サイズ:縦335*横435



NHKで放映された「かまきり先生」でとりあげたオニヤンマを描いた作品です。



小生のように郷里の山野で育った人間に一度は夢中になる昆虫採集・・、オニヤンマとアゲハチョウはあこがれの的・・。



大人になったら骨董に変わってだけかもしれません。



描いた画家は「西山英雄」、本ブログでも紹介したことのある画家です。

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西山英雄:明治44年5月7日生まれ。西山翠嶂に師事,青甲社にはいる。昭和9年「港」が帝展特選。33年日展で「裏磐梯(ばんだい)」が文部大臣賞,36年「天壇」が芸術院賞。山岳画家として知られる。55年芸術院会員。平成元年1月21日死去。77歳。京都出身。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)卒。西山翠嶂は叔父にあたる。

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表具などの誂えの良さは思わず見とれてしまします。



掛け軸をかび臭いと評される方がいますが、それは保存状態の良くない掛け軸のこと・・。



いい表具や誂えのしっかりした掛け軸は扱う方が身の引き締まる思いがするものです。ドキドキしながら扱うのは。今も昔も同じかもしれません。

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