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影青刻花碗(鉢) 宋時代 その4

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さて久方ぶりに「影青」と称する器を入手したので投稿します。今回の作品を含めて同様の作品は3作品となりました。他の作品はすでに投稿されていますが、「影青」と称する作品は近代になって模倣された作品も多いので時代の判断は難しいですね。



上記写真の奥の右側が本日紹介する作品となります。

影青刻花碗(鉢) 宋時代 その4
高台内文字在 合箱入
口径189*高さ67*高台径55

影青は見込み一面に刻花があるのは贋作が多く、さらに薄造りで透けて見えるほどの作品も大量に模作されているので極端な薄造りのものもよくない作品があります。現在は焼成方法も技術が進んでいますので、技巧だけに眼を奪われると判断を誤るかもしれません。



箆か櫛でささっと雲とも水の流れとも花ともつかない僅かな文様を勢いよく描いているものがよさそうです。



北宋とは当然言えませんが、南宋くらいあると上等・・。



「北宋時代の青白磁は窯道具の台に乗せて、鞘に入れてひとつずつ焼成するため、高台の裏に窯道具の鉄色の跡がある。」というのが北宋時代の作品の特徴とされますが、模倣品もそれくらいの模倣はしているようですので北宋時代の作とは判断するのは慎重を期したほうがよいでしょう。



南宋と北宋との判別のポイントは「なんでも鑑定団」の説明にあったように「南宋の時代になると大量生産をした。時代がわかるのは、横から見ると形がはんなりとふっくらしている。また、高台がわりと大きく、すべすべしているところ。」という点らしい。南宋時代には大量に生産されたようで現在では発掘品も含めると数多くあり決して貴重品とは言えない作品群になったようです。



きっと発掘品が出回る前は貴重品だったのでしょう。今は数万円程度の取引価格のように推察しています。



透けて見えるほど薄造りで、文様は口縁まで一面にあって、さらに高台内に焼け後のある作品はまず近代の模倣品と当方では判断しています。

*本作品の高台内にはなんらかの文字が記されていますが、このような文字がある作品はときおり見かけます。いったいいつなんのために記されたのかは不明です。



本作品の高台内のように時代を感じさせるものがいいと思いますが・・・。高台脇の釉薬の気泡が不揃いの作品がいいというのも根拠はありませんね。あくまでも時代のあるなしの感覚が重要だと思っています。



前述のようになんでも鑑定団に南宋時代の影青の作品が出品されていましたので参考にしてください。

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参考資料
なんでも鑑定団より
2017年10月17日放送



鑑定団による評:評価金額40万円。

13世紀、中国南宋時代の後期に江西省景徳鎮窯で焼成された青白磁。これより古い12世紀前半までの北宋時代の影青が市場にでれば最低でも500万円、高ければ2000万円。ただ、それは数が少ない。

南宋の時代になると大量生産をした。時代がわかるのは、横から見ると形がはんなりとふっくらしている。また、高台がわりと大きく、すべすべしているところ。北宋時代の青白磁は窯道具の台に乗せて、鞘に入れてひとつずつ焼成するため、高台の裏に窯道具の鉄色の跡がある。中を見ると、箆か櫛でささっと雲とも水の流れともつかない文様を描いている。勢いが出て、実に良い文様。薄作なので割れてしまうため、依頼品のような状態の良い青白磁が出るのは極めて少ない。

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本ブログでも影青らしき作品をいくつか以前に投稿してます。当方で紹介されている作品は時代があっても南宋時代の作品とするのが無難でしょう。

影青刻花碗(宋時代?) その1
口径182*高さ67





影青刻花輪花皿
合箱入
口径150*高台径450*高さ45





影青刻花碗 その2
合箱入
口径176*高台径59*高さ69





青白磁(影青)刻花文輪花碗 発掘品?
化粧箱入
口径160*高台径49*高さ40





貴重な作品である北宋時代の作品を除き北宋時代の影青が高価な作品だというのは昔話のようですが、魅力的な器であることには相違ありません。菓子や料理のおかずを盛り付けたら愉しいでしょうね。


白磁岩上観音像 十三代酒井田柿右衛門作

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知人が幾つかの作品を手放す際に思文閣に仲介したことがあります。その作品の中に酒井田柿右衛門の下記の作品がありました。

寒山拾得 十二代酒井田柿右衛門作
白磁一部金彩共箱 高さ327*幅*190*奥行き140



有名な「寒山拾得」を題材にした作品です。型で作られた作品でその後もいくつか作品を観たことがあります。



一二代酒井田柿右衛門の本人の作品ようで箱書きもきちんとしていました。

 

一二代酒井田柿右衛門の作品で共箱で底には柿右衛門のサインが記されている作品です。思文閣に引き取られましたが、わりと当時はいいお値段で引き取られたと記憶しています。一二代と一三代にてこのような型を基本とした塑像の作品が数多く作られたようです。数は解りませんが本人作とされていたようでお値段は結構高い作品群のようです。

 

その後機会がある度にこのような塑像の作品の入手を試みたのですが、お値段が高く今まで入手することができませんでした。この度思い切って購入したのが本作品です。昨年は不幸が続いたのでやはり観音様ということで・・・。

白磁岩上観音像 十三代酒井田柿右衛門作
共箱 
高さ390*幅220*奥行き130



展示室に飾ってしばし鑑賞しています。



このような円窓がよく似合います。



大きさがかなりありますのでところどころに焼成時の空気抜きの穴があります。



白磁の発色がきれいです。一点の隙も無い作品に仕上がっています。



「岩上観音」と題されています。



「岩上観音」とは・・・?? 字そのままに岩上跌坐の観音像・・・??、 雪舟筆(西本願寺所蔵)など多くの画家によって描かれています。



底は下記の写真のようになっていてサインはありません。



観音の表情はいいですね。



この作品の生命線は顔意外に指・・・。



足の指もまた・・・。



仏様は下から観るのが鑑賞の基本。



四方・八方から眺めて隙の無い作品です。



さて本体には通常あるべき「柿右衛門」のサインがありませんが共箱はあります。果たして・・・?



仏様や神々の作品にはサインを入れないこともありますが、12代の柿右衛門の作の観音像にはサインが記されているものがあります。



他の13代の作品の箱書きなどと比較するとよさそうなのですが手元に資料がありません。



なにはともあれ「いい作品」だと当方では考えています。



ただ型に入れた塑像の作品はいろんな種類があり、むろん観音像もありますが、ただこの作品のように凝った作りの作品は見たことがありません。

魚籃観音図 野田九浦筆 その5

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本日は先週からの続編で「観音様」の作品の紹介となります。

魚籃観音図 野田九浦筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦*横  画サイズ:縦1090*横420

 

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魚濫観音とは波を泳ぐ鯉の背に乗っていたり、魚の入った籠を持っていたりする姿に作られる観音菩薩で、魚売りの美女に身をやつしたという中国の伝説に起源があるといわれている。岬や港町で、大漁を願って祀られていることが多いようです。

三十三観音像の一つ。邪悪な鬼や毒蛇に遭遇しても、この観音を念じればたちまち無害になるといわれています。特に安産を始め女性特有の煩悩を除去するとともに、航海の安全と大漁をもたらす観音である。魚濫観音と馬郎婦観音とは同体とされています。

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描いた野田九甫の作品は他にもいくつかの作品を本ブログにて紹介していますので、野田九甫の経歴の説明はそちらを参考にしてください。



野田九甫は本ブログで数多く紹介している我が郷里の画家の寺崎廣業の門下生で寺崎廣業の鑑定も行っています。その関係で当方でも野田九甫の作品をいくつか蒐集することになりましたし、また祖父の代に野田九甫の作品が所蔵していたことにも蒐集の起因となっています。



テレビでノーベル賞受賞の大村智さんが初めて買った絵が野田九浦の「芭蕉」だと、その作品の掛軸を紹介されていたことは本ブログでも紹介しました。

 

「魚濫観音図」を描いた作品は幾つか本ブログで紹介されていますが、そのひとつに下記の作品があります。

魚濫観音図 山田敬中筆 その2
絹本着色軸装軸先木 合箱入
全体サイズ:縦1975*横529 画サイズ:縦1080*横395



神様や仏様を描いた作品には落款を記せず印章のみの作品は多々あり、「魚濫観音図 山田敬中筆 その2」についても印章のみの作品となっています。特に安産を始め女性特有の煩悩を除去するという観音様であり、この作品を入手して後に還暦を過ぎて初めての子宝を授かりました。



三十三観音像の一つ。邪悪な鬼や毒蛇に遭遇しても、この観音を念じればたちまち無害になるそうですから、この御仏も大切にしなくてはいけません。



展示室は下記のようにして飾りました。

舟乗人物文瀬戸絵大皿 江戸期

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週末は息子と自転車の練習ですが、まだ補助輪をつけたままです。庭ではスピードを出してはしゃぎいでいますが、「補助輪をとろうか?」というと「まだ・・・」というレベルです。まだ外に出すには危ないと思っていたら、いつのまにか家内と宅急便を出すために遠出したようです。



横断歩道は手を上げて渡るものと教えていたら自転車でも挙げている・・・ 

さて小生は本日は人間ドックへ・・・。先月に胃カメラと大腸カメラを同時に受診したばかりなのであまり気乗りしませんが・・。

本日の作品紹介はひさかたぶりに「瀬戸絵皿」の作品です。

瀬戸の絵皿は非常にごつくて使いやすく?・・、ただ重い! 家内が絵柄が面白いと料理の皿に喜んで使ってくれています。絵柄が面白い作品は人気が高く意外に入手に手こずる作品群ですが、それほど効果ではありません。

舟乗人物文瀬戸絵大皿 江戸期
合箱
口径375*高台径*高さ65



瀬戸の煮〆皿は江戸末期から瀬戸で大量に作られた雑器中の雑器です。



絵付けされた絵瀬戸皿の特徴は呉須や鉄釉で絵付けされていて、皿の縁取りが広く取ってあること、高台が厚めに低めに作ってある事などです。煮〆を盛るのに良い感じなので、煮〆皿とも呼ぶようです。



大量に作られたが故に、そこに描かれた絵や文字は、手慣れた筆裁きによる無意識の美を表しています。器に描かれた絵や文字の中では初期伊万里、桃山唐津と並んで第一級のものとも評されます。瀬戸の煮〆皿として、石皿、馬の目皿、そして絵皿があり、その代表的な作品が本作品のような絵皿です。



総称して石皿とも呼ばれますが、石皿の名前の由来はいくつかあるようです。「韓国の石器を思わせる所から、石皿」、「釉薬に長石を使うから、石皿」というような感じらしいです。はっきりした由来は分からないようです。



本作品は何ともユーモラスで人物や太湖石、草花が生き生きと描かれています。省略の中に絵付けの技を見ます。なんともよい味わいを醸し出しています。高台内まで釉薬が掛けられた作品は少なく、大きさも稀にみる大きさで注文されて作った作品と推察されます。

これらの皿は石皿、馬の目皿、絵皿、行灯皿などそれぞれの特徴を持った呼称は多々ありますが、数が多い作品群です。ただ近年は古伊万里らと同様に評価は低いものとなっていますので、意外に廉価にて蒐集できます。今一度見直されてもよい作品群でしょう。

本ブログにて10作品ほどのこの作品群に属する作品を取り上げましたが、その中から同系統の作品をいくつか改めて紹介します。



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瀬戸焼:愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称。 日本六古窯の一つ。

東日本で広く流通し、瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞化した。 鎌倉時代の陶工『加藤景正』が中国の南宋へ渡り技術を学び、その後美濃で開窯したのが 瀬戸焼の始まりという説がある。中国から伝わる陶磁器を模倣したものが多く、美しい 釉薬に印花文などを施したものが焼成されている。 室町時代には日用雑器が多く作られるようになり、 桃山時代から江戸時代には茶の湯の隆盛と共に茶陶の生産が多く、 瀬戸黒・黄瀬戸・志野・織部などが焼成された。 江戸時代1800年初頭には有田焼から染付磁器の製法が伝わり 磁器の製造が始まり、磁器の生産が主流となる。

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絵瀬戸:瀬戸系の陶窯でつくられた絵のある陶器の一種。絵はすべて釉下で、主に鉄絵で中には胆磐(たんぱん)をあしらったものもあります。文様は簡素放胆で花井類が最も多く、李朝陶器の影響を多分に受けています。古窯を発掘した結果によると文禄・慶長(1592-1615)の頃に始まったものらしいです。そしてその頃のものに最も佳品が多いようです。器は皿・鉢・茶碗などで中でも皿類が多いようです。絵瀬戸と絵唐津とは時代も作風もほとんど同じで、原料に差異があるだけであります。

*胆磐:昔から黄瀬戸、灰釉などのワンポイント模様として重宝されています。この胆磐を水で濃く溶き、釉掛けした釉薬の上にワンポイント模様として塗ります。濃い部分は焦げた感じになり、薄い部分は濃緑になります。濃い部分は流れ気味になります。

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江戸時代後半の瀬戸窯は、現在の瀬戸市の中央に位置する瀬戸村を中心に登窯が増加するなど最盛期を迎えます。その製品は瀬戸村を例にすると、茶碗・湯呑・皿などの食膳具をはじめ、植木鉢・火鉢といった住用具、甕や半胴といった貯蔵具など、日常生活におけるやきもの需要の急速なたかまりを背景に、様々な釉薬・技法を施した新たな製品が数多く生み出されるなど、産業的なエネルギーは蓄えられ、19世紀の磁器生産開始へと続く時代でした。

こうした産地の盛り上がりがあった時代に、石皿・馬の目皿・行燈皿などの絵皿は生み出されました。そこに描かれたものは、吉祥を表わす鶴や松、絵柄の組合せで意味を成す判じ絵、園芸ブームを背景とした朝顔などの花木であり、まさに当時の江戸を中心として発展した庶民文化を表わしているといえます。さらに、絵付の軽妙でのびのびとした自由な筆運びは庶民の「粋」の精神、遊び心をより刺激したことでしょう。子供の絵のような作意のない描き方は、限りなく素朴の世界へと引き込まれる、味わい深い古民芸品といえます。

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改めて本作品を観てみましょう。



貫入が釉薬にありますが、安っぽくなくていいですね。近代作の粉引などの貫入はなかなかこのような貫入にはなっていません。



何を描いたかよく解らないは絵の描き方は中国の古染付などの影響によるものと推測されますね。



ともかく自由奔放・・・。



ひとつひとつが簡略化された図柄で実に洒脱だと思いますが如何でしょうか? 料理の盛り付けが楽しくなると思いませんか?

瀬戸の絵皿の文様と息子が自転車に乗ってうれしそうな笑顔とに似たところがあります。骨董は愛嬌が大切・・・。

大日本魚類画集 NO58 飛魚図 大野麥風画

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「大日本魚類画集」の版画を少しずつ蒐集していますが、その過程でいくつかの肉筆画を入手していることは本ブログで記述していますが、本日はその肉筆画と図集の版画の双方についての紹介となります。

鮒図 大野麥風筆 
紙本水墨淡彩 色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240





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大野麥風:洋画家。東京生。名は要蔵。白馬会・太平洋画会に学ぶ。兵庫県に住した。昭和51年(1976)歿、87才。有名なのは『大日本魚類画集』(昭和12年から19年まで6期に分け発行 500部限定)で、全72セットといわれていますが詳細は不明です。

『大日本魚類画集』は昭和十年代に部数限定&解説つきで毎月一枚ずつ販売された。当初は水族館で魚を観察していたが、やがて海の中で泳ぐ魚を求め潜水艇に乗り込み、間近で観察し始めた。

鱗の模様などを細やかに描写するとともに、生息環境をも正確に描き出した。海水魚だけではなくドジョウやメダカといった川魚も、色鮮やかに生き生きと描写した。

2010年に姫路市立美術館でそのすべてが公開されたのが初めてで、2013年に東京ステーションギャラリーで公開された。驚くことは「原色木版二百度手摺(てす)り」と、この木版画集のうたい文句があるように、200回も重ねて摺って1枚が完成するという手法だ。一般的な浮世絵なら10回ほどだからいかに特異であったかがわかる。それは彫師や摺(すり)師ら優秀な職人がいたからこそ可能となった。

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鮒図 田口黄葵筆 
紙本淡彩 色紙 タトウ
色紙サイズ:縦270*横240





田口黄葵:師・荒木寛畝 荒木十畝。 明治19年東京生まれ。日本画家旧文帝展系。文帝四 院三 読画会幹事



大日本魚類画集 NO58 飛魚図 大野麥風画
紙本淡彩額装 版画 1938年1月第6回
画サイズ:縦395*横278





鮮やかな海の青に躍動感のある波の表現、銀彩が施された飛魚の表現・・・。





実に印象的な版画の表現です。





大野麥風の作品は版画となって見違えるように鮮やかな作品となっています。









当然彫師と摺師の技量によるのでしょうが、このシリーズは見事な出来栄えです。もっと評価されてよいシリーズでしょう。おおよそ単品で一作品が5万円から7万円前後で売られています。

 

東京ステーションギャラリーで開催された「大野麥風展」に際して出版された図集の表紙に取り上げられている作品がこの作品です。





大日本魚類画集のNO58(図集の整理NO) に掲載されていますが、大野麥風版画の代表作と言っていいのでしょう。





さていつになったら全シリーズ72種類が揃うことやら・・・。



これまでに集めたのは6作品のみ・・・、全部を展示室に飾ってみました。



横の作品と縦の作品が3種類ずつです。



各々いろんな額に入れて飾るのも楽しいものです。



上の写真は色違いの同じ額です。



違う額でもマットの柄は統一していこうかと思っています。



72種類中まだ6作品。揃いで出版されたのが500部。それ以外にバラで売られたようですが・・。



本日はまるで水族館にきたようなブログとなりました。

坂 松永耳庵筆 その2

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本日は家内が購入した作品の紹介です。近代小田原三茶人と称された「益田孝(鈍翁)、野崎廣太(幻庵)、松永安左エ門(耳庵)」の一人の作品です。

坂(仮題) 松永耳庵筆 その2
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1032*横472 画サイズ:縦193*横448



茶道に興味のある方は一度は訪れているであろう松永耳庵の「柳瀬荘」が著名です。

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山荘「柳瀬荘」:埼玉県柳瀬村(現所沢市)に山荘「柳瀬荘」を営んで、益田鈍翁(ますだどんのう、1848~1938)や、原三渓(はらさんけい、1868~ 1939)といった我が国の近代茶の湯の主導者たちと広く交流をもち、古美術品の蒐集においても強く影響を受けました。当時の数寄者たちは、蒐集した美術品を茶席へ惜しみなく用いて取り合わせを楽しむ茶の湯を展開し、耳庵氏もまた、古くからの概念にとらわれない、自由で豪快な茶の湯スタイルを受け継いでいきました。



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1964年に生存者叙勲制度が復活した際、同年4月29日付の最初の叙勲で松永は勲一等瑞宝章に内定しいたのですが、首相の池田勇人から直々に打診された松永は「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と激高し、受章を拒否しました。

困った池田は松永に可愛がられていた永野重雄に説得を頼み、小田原の松永邸に尋ねた永野は、松永に対して「あなたが叙勲を受けないと、生存者叙勲制度の発足が遅れて、勲章をもらいたくてたまらない人たちに、迷惑がかかる。それに、あなたはどうせ老い先が短い。死ねばいやでも勲章を贈られる。それなら生きているうちにもらった方が人助けにもなりますよ」と迫ったそうです。

松永は不本意ながら叙勲を受けることは了承したものの、勲章授与式を欠席しました。その後松永は「栄典の類は反吐が出るほど嫌いだ」として、死後を含め全ての栄典を受け取らないことを公言します。このため、松永が逝去し際にその訃報を受けた当時の佐藤栄作内閣が政府による叙位叙勲を即日決定したものの、遺族は松永の遺志を尊重し一切の栄誉・栄典について辞退したそうです。

電力王、電力の鬼と称された人物ですが、ある意味では世俗から離れたところに身を置いた人物と言えるのでしょう。



「八十七 ヤット来た道 辿りけり あとハ下り坂 鼻うたで行く 耳庵 八十七」と賛のある掛物。ちなみに97歳で亡くなっています。



「人間は一生働き通すべきもの」という安左エ門の考えは祖父の生活態度から教えられているそうです。先人というのは大切であり、将来を担う人にひとかどならぬ影響を及ぼすものです。



さらに学生時代には福澤諭吉の朝の散歩にお供をするようになり、諭吉の謦咳(けいがい)に接すると共に、福澤桃介の知遇を得た。卒業まであと一年という1898年(明治31年)、学問に興味が湧かなくなったことを福澤諭吉に告白すると、「卒業など大した意義はない。そんな気持ちなら社会に出て働くがよかろう。」と勧められて退慶應を退学したそうです。福澤の記念帳に「わが人生は闘争なり」と記しています。



骨董蒐集する者にとっても松永耳庵の「松永コレクション」は忘れてはならない存在です。

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松永コレクション:東京国立博物館蔵の「松永コレクション」は、第二次世界大戦前に氏が蒐集し、昭和22年(1947)に氏のご意志によってご寄贈した作品。蒐集家としての名を一躍有名にするきっかけとなった「文琳茶入 銘 宇治(ぶんりんちゃいれ めい うじ)」をはじめ、先達・鈍翁に競り勝って手に入れた「大井戸茶碗 有楽井戸(おおいどちゃわん うらくいど)」など

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「大井戸茶碗 有楽井戸」
東京国立博物館蔵 重要美術品 
高さ:9.3cm口径:15.2cm高台径:5.6cm



世俗を脱した偉人、今はいるのだろうか? 

戊寅山水図 福田古道人筆 その2

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ワイシャツのボタンがとれたので家内にボタン付けを頼んでおいたら、裁縫に興味にある5歳の息子がボタン付けをやりだしたようです。クマさんの人形にボタンを付けたり、ネクタイを作ったりする延長上のようですが、最近とみにモノづくりが盛んなようです。チョコレートを作ったり、セロテープをふんだんに使って色紙でおもちゃを作ったり・・・。



さて本日紹介する作品は海外で人気の福田古道人の作品です。以前に書の作品を本ブログで紹介した福田古道人の作品ですが、今回は山水画の紹介です。

戊寅山水図 福田古道人筆 その2
紙本水墨軸装 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦2030*横400 画サイズ:縦1350*横250

 

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福田古道人:漢詩人・俳人・南画家。慶応元年(1865)、新宮藩与力、中村家の次男に生まれ、同藩士の福田家を継ぐ。和歌山県生。名は世耕、漢詩に静処、南画及び和歌に古道人と号した。福田古道人は和歌山県の熊野古道にちなんでつけた名前。俳号は把栗。

少年の頃、京都に上り、鈴木百年について絵を学ぶ。まもなく東京に出て、漢詩の塾を開いた。漢詩人として早くから名を成すが、正岡子規との交遊がはじまり、終生の知己とした。のち子規門に入って俳句をはじめ、特異な風格を示した。京都に住んだ。

*山形県寒河江市の古澤酒造株式会社での福田古道人の展覧会から



昭和10年5月頃、山形県に長く逗留して多くの絵や書を書き残している。山形県寒河江市近隣には、たくさん絵や書を残されているらしい。静処は、漢詩を最も得意とし、書・画・俳句・和歌の、いずれにも優れていた。渡瀬凌雲も漢詩を学んだ一人である。紀州のみならず、全国的に高く評価されている文人である。近代南画家の大家と言える。

*萬葉庵 コレクションより



アメリカで人気が高い。独特の色使いで、常識とは少し異なるが、それが非常に人気がある。昭和19年(1944)歿、80才。

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賛には「戊寅」とあり、昭和13年(1935年)、70歳の作と推定されます。昭和10年5月頃から山形県に長く逗留して多くの絵や書を書き残しており、山形県寒河江市近隣にはたくさん絵や書を残されているらしいのですが、その当時の作品かもしれませんね。



賛の漢詩部分は現時点で全く解読できいません

「遊印 雲中□□□ 道上□□前 □□□人□ □中□太□ 氏□耕□□ □臥子□非 
    雲□□□是 □□垸□□ □□□□□ □□□□□ □□□□□ 作□泰人 
    戊寅□□月□古道人 押印」



最近まで忘れ去られていて近年日本画で人気のある画家には楠瓊州、福田古道人らがいます。ともに近代における南画画家ですが、南画の人気の衰退と共に評価が低かった時代を過ごした不遇の画家といえるのでしょう。

「楠瓊州」の作品については本ブログでも下記の作品を紹介しています。



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楠瓊州:日本画家。広島県生。名は善二郎。田中柏陰の門下。京都に出て、服部五老・江上瓊山に師事し南画を学ぶ。富岡鉄斎・浦上玉堂を研鑽し、晩年梅原龍三郎や中川一政らの影響も受け、油彩や水彩、南画の融合を試みた。また詩書・篆刻・和歌も能くした。昭和31年(1956)歿、64才。

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とくに福田古道人はアメリカで人気が高く、本作品では見られませんが常識とは少し異なる独特の色使いが評価されているようです。



本作品は色遣いは通常ですが、それでもデフォルメされて描かた山水には独特の雰囲気があります。



本作品に押印されている印章や落款は下記のとおりです。



非常に愉しい作品です。海外で人気があるそうですが、日本で再評価されてよい画家ですね。

独創性のある作品が海外では評価されますが、息子にはその可能性があるや否や? 親ばかですが将来が楽しみです。

葡図画賛 天龍道人筆 その37 91歳

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天龍道人の作品が40作品近くになってきましたが、天龍道人の作品は屏風や襖から剥がしたような作品が多く、未表装の「まくり」の状態での入手が結構あります。そのため入手費用のほかに表具費用が負担となることが多々あります。

本日紹介する作品も未表装の状態の作品です。

葡図画賛 天龍道人筆 その37 91歳
紙本水墨軸装 軸先 誂箱
全体サイズ:縦*横(未表装入手) 画サイズ:縦1296*横285



本紙を傷めないように画鋲で壁に貼り付けての作品撮影となります。

 

天龍道人の未表装の作品はようやく最近になって表具にとりかかっています。



この作品と同年齢の落款のある佐賀県立博物館の所蔵されている「葡萄図」には「鵞湖折脚仙九十一歳天龍道人王瑾」の署名があります。最晩年の91歳の作品と判明している作品です。

この佐賀県立博物館の所蔵作品の賛文を読み下すと「かつて葡萄を描くもの、果を描き、花を描かず。われはこれ新様を写し、千載一家をなす。」と記されています。賛文をふまえて、この作品の葡萄をみると、点描風に描かれているのは果実ではなく、花であり、花が咲いた状態の葡萄を描いた珍しい作品といえます。葡萄を描く場合、実をつけた状態で描かれるのが一般的ですが、天龍道人は花の状態を描いており、そのことを賛で、これまでにない新しい葡萄画を描き「一家をなす」、と自負しているのです。晩年自ら三国一家(三国一:日本・唐土・天竺の中で第一であること。世界中で一番であること)と呼称していました。

本作品にも「三国一家」の遊印が押印されています。この印章は本ブログで紹介した他の作品でも確認できますが、他に白文朱長方印もあります。

  

以前はネットオークションでたやすく入手できた天龍道人の作品ですが、最近は品薄状態のようです。屏風などからの剥がした作品が多々入手できましたが、今では出品数も減少しました。



それほど有名な画家ではありませんが、忘れ去られた画家として再評価されるべき画家の一人でしょう。



本作品もきちんと表具して永らく保存しておきたい作品のひとつでしょう。



賛入りの作品は貴重な作品です。



写真では解りにくいのですが実にみずみずしくていい出来です。



この作品を91歳の時に描いたとはとても思えませんね。



賛の読みは相変わらず解りにくい・・・



明らかに一度表具し直している作品です。



初冬の田圃 福田豊四郎筆 その94 昭和30年(1955年)頃

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先週末は息子と近所の消防署でいろんな経験をしてきました。



実際に消防車に乗ったり、消防服を着たり・・・。



避難訓練も実施し、息子はロープ渡りは慣れたもの・・・??? 何事も経験ですね。




本日の作品は郷里の骨董店で売りに出されていた作品ですが、最近インターネットオークションに出品されており、当方で落札した作品です。

初冬の田圃 福田豊四郎筆 その94 昭和30年(1955年)頃 
P8号 紙本着色額装
全体サイズ:縦570*横620 画サイズ:縦360*430



年末に帰省した折、郷里の骨董店にこの作品について尋ねたところ、たしかに扱った作品で近郷の方が買われたそうだです。



何らかの事情で手放すこととなり、東京からインタネットオークションに出品されることになったようです。なにしろ作品をひと目見たら忘れないことです。



共シールなどない作品なので題名の「初冬の田圃」は仮題となります。落札額は8万円ほどでしたが、ちょっと高かったように思います。おそらく骨董店の売り出し価格に近い金額でしょう。



仕入れ価格はおそらく5万円程度。今はそのような金額でしょう。福田豊四郎の作品もだいぶ安くなりました。



落款と印章から晩年に近い昭和30年頃に描いた作品と推察されます。なにごとも経験から損得を判断できるようになりますね。むろん損得とは金額だけではなく作品の出来の良し悪しも含めてのことです。

大洲浅絳訪友山水図 釧雲泉筆 寛政元年(1789年)頃

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息子は遊ぶときに真剣な眼になりますが、この眼は嫌いではありません。



一緒に仕事をする人を見るなら、このような真剣な眼付になる人間を信用することにしています。



さて現時点での釧雲泉の作品を整理してみました。

骨董の三原則「自分のお金で買うこと」、「蒐集を休んで勉強すること」、「売ってみて第三者的価値を知ること」のうちの2番目の「蒐集を休んで勉強すること」の釧雲泉の第2段階でしたが、これが結構労力に要る作業で今まで集めた資料と見比べても1週間以上かかりました。

好みで?分類すると大雑把に下記のようになりました。

所蔵作品 寛政年間 真作 7作品
       享和年間 真作 4作品
       文化年間 真作12作品 以上真作23作品(1,2点はまだ確証がありません。)
真贋不詳            4作品
贋作               4作品

釧雲泉に詳しい「すぎぴい」さんの本ブログへのコメントが非常の的を得ていて参考になりました。他に「Shozo]さんのコメントがありましたが印章が複数あったという点を見落としているようで早計なコメントして参考にしました。

平福穂庵に始まり、大橋翆石らを整理してみると今まで気が付かなかった点が多々あって面白くて夜中まで夢中になりました。現代はパソコンを駆駆使して資料の整理ができますが、さすがにインターネトではまったくの資料不足です。インターネット以外の少ない資料の中から読み取る執念みたいなものが必要となりました。ふ~・・・。

さて久方ぶりに釧雲泉の作品の紹介です。真贋はまだ判断がつきかねている作品となりますが、おそらく真作だろうと推察しています。分類上は「真贋不詳」です。

大州浅絳訪友山水図 釧雲泉筆 寛政元年年(1789年)頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2180*横740 画サイズ:縦1300*横580



「大洲岱就 押印」と落款にあり、愛媛県の大洲地方に滞在していたと考えられる。釧雲泉の来歴から察すると寛政年間初めの頃、釧雲泉30歳頃の若い頃の作と思われます。

 

「大洲岱就 押印」と落款にあり、愛媛県の大洲地方に滞在して描いたと考えられます。釧雲泉の来歴から察すると寛政年間初めの頃の四国に在していた頃の作と思われます。「岱就」の落款の書体から推察すると寛政4年(1792年)の作とも判断されますが、当方の所蔵作品の中で最も製作時期の早い作品のようです。



掛軸の印は、「岱就 仲孚」で一般的な「釧就 仲孚」とは異なります。この印と同一ではありませんが、同様のものは下記の作品にも押印されています。

雲泉寫意 浅絳山水図 釧雲泉筆 寛政8年(1796年)頃
水墨淡彩紙本軸装 軸先骨細工 合箱
全体サイズ:縦1990*横417 画サイズ:縦1370*横28

 

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釧雲泉:この頃の来歴

雲泉の30歳以前の経歴はその墓碑銘にわずかに伝わるのみである。これによると宝暦9年(1759年)に島原藩藩士の子として肥前島原野田名(長崎県千々石町)付近に生まれ、幼少より絵を好み、いつも神社の大きな石(雲泉の手習い石)に泥を塗って竹箆で絵を描いては衣服を汚して帰ったという。10歳の頃、雲仙一乗院の小僧となるが、ここでも暇さえあれば絵を描いていたという。その後、理由は明らかでなく期間も不明であるが、父に同行し長崎に遊学し、清国人について学問と南画の画法を学び華音にも通じた。このときの師は明らかではない。以来、董源や倪雲林・王麓台に私淑するようになる。また来舶した清人画家 張秋谷にも影響された。



父が没すると、一人万里の旅に向い山陽道から紀伊、淡路、四国の諸国を巡り歩いた。この間に讃岐で長町竹石と知りあい交友を深めた。その後、江戸に下向し居を構える。



寛政3年3月(1791年)、32歳のとき十時梅厓の紹介で伊勢長島に流謫中の木村蒹葭堂を訪ねている。その後、また江戸に戻ると、予てより親交のあった備中庭瀬藩江戸家老海野蠖斎の計らいで、蠖斎の実兄で同藩家老森岡延璋(松蔭)に紹介され、備中(黄微 黄備)に赴き森岡邸に身を寄せる。同年、脱藩前の浦上玉堂や淵上旭江、梶原藍渠、後藤漆谷、長町竹石らと松林寺で賀宴を催して交流した。その後、約3年間は倉敷を中心に旺盛な創作活動を行う。備中長尾の小野泉蔵とも交流をもった。寛政4年(1792年)頃から、備州と京都、大坂をたびたび往来し、儒学者の頼山陽、菅茶山、皆川淇園、画家の浦上春琴、浜田杏堂らと交流。同年6月には再び蒹葭堂を訪ねている。寛政8年以降は主に備前東部を拠点としたとみられる。寛政10年(1798年)、蒹葭堂を訪ねる。



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正直なところ現在釧雲泉の作品は整理途中で中現在断した状態です。資料がまだまだ足りません。



いろんな角度から作品を分析するにはもう少し時間がかかるようです。確信の得られた作品が思いのほかあったのはよかったと思っています。



ともかくこの時期の著名な南画家の作品は難しいですが、「真剣な眼付き」で臨み「開眼」してみたいもの、かなりの情報と知識と胆力が要りますね。

古染付 竹に蝶と楼閣文図皿

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修理を依頼していた下記の作品、色が褪せてきたための御利益が少なくなってはたいへんと修理を依頼した次第です。

恵比寿大黒天面・吉祥額 加納鉄哉作
恵比寿面:高さ175*幅132*厚さ65 大黒面:高さ140*幅128*厚み68
額:口径470~415*厚さ22 共板市川鉄琅鑑定箱



依頼先から色を直すための型紙が届きました。



どのような色遣いにしたらいいのかという確認のためのようです。



このような慎重さが古いものを扱うプロには必要ですが、話を聞くと修理する職人は副業のようです。十分な稼ぎにはならないのかもしれません。



さらには人材不足で美術学校の生徒に依頼することも多いようです。

深刻なり日本文化の維持・・・。

さて本日は本ブログにていくつか紹介してきた古染付の作品の紹介です。

古染付 竹に蝶と楼閣文図皿
合箱
口径146*高台径*高さ28



今ではネットオークションで数千円で入手できる作品群です。



味わい深さでは現代ものは足元にも及びませんが、きれいなものの好きな現代人には不人気かもしれません。



虫喰いに砂の付いた高台・・・。



昔の茶人が好んだものが受け入れられない時代なのかもしれません。



洒脱と評された絵柄も・・・、骨董蒐集には悩ましい時代です。

唐美人図 岡本大更筆 その3

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玄関先の植え込みに咲き始めた福寿草の花が満開となりました。



季節はもうすぐ春、三月になり息子に催促されて先週末には慌てて雛祭りの段取りに入りました。



まず掛けて飾った掛け軸は鈴木松年にお雛様です。

鈴木松年の初号は百僊(ひゃくせん、百仙とも)で、32歳頃に松年に改めていますので若い時に描いた珍しい作品です。

鈴木派の祖・鈴木百年の長男で上村松園の最初の師としても知られています。上村松篁の父は鈴木松年ともされていますが、未婚であった松園は多くを語らなかったようです。上村松篁の息子も同じく日本画家の上村淳之です。 鈴木松年は父のおとなしい画風とは対照的な、豪放な作風と狷介な性格で「曾我蕭白の再来」と評され、「今蕭白」とあだ名されていました



鈴木松年の作本は本ブログでいくつか紹介されていますので、そちらを参考にしてください。

本日紹介する作品は神童とうたわれた岡本大更の美人画の作品です。

唐美人図 岡本大更筆 その3
絹本着色軸装 軸先陶器 合杉箱 
全体サイズ:縦2125*横542 画サイズ:縦1217*横411

 

岡本大更の美人画の作風は境地をきりひらいた「近代的な浮世絵」と激賞されたそうです。



岡本大更は兵庫県社町(現加東市)で、服部寿七と母やすの4男として生まれ、幼少より絵を好み、紺屋を営んでいた三木利兵衛(号南石)から画を習いました。



明治33年(1900年)前後に竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積んでいます。大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。以降、文展や帝展といった官展で活躍したそうです。



印章は朱文白方印「直道」という本名の印で珍しいものです。

 

画集『日本画家 岡本 大更―その画業と更生・更園』という画集があるそうなので、機会があったら購入しようと思っています。

リメイク 氏素性の解らぬ作品 白磁双龍耳瓶 伝唐時代? 

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先週末はひな祭りの段取り・・。掛け軸の次は小さなお人形。



客用トイレの前に飾りました。市川鉄琅の作ですが、市川鉄琅の作品は本作品を始めいくつか紹介していますので、市川鉄琅についてはそちらの
記事を参考にしてください。



市川鉄琅の作品は好みもあるでしょうが、平櫛田中の作品に比して手頃なお値段というのが魅力です。



本ブログで紹介した「福の神」や「聖観音像」などはその佳作と言えると思います。



本日紹介する作品は氏素性の解らぬ作品です。

いつ頃購入した作品か忘れてしまいましたが男の隠れ家の書院つくりの棚にしばらく飾ってあった作品です。写真撮影を碌にしていなかったので帰京の際に宅急便で送り、展示室で写真撮影したのでこのたび投稿いたします。

氏素性の解らぬ作品 白磁双龍耳瓶 伝唐時代?
誂箱
口径70*胴径200*底径105*高さ370



同封されたいた購入時の当方の記録には「唐時代として売られており、根拠を問うたところ『唐時代というのは、形からと土が枯れているとことから発掘品と判断いたしました。』」との説明書がありました。・・・本当かな?



首が長く、肩から双龍耳が上に伸び、ボタンのようなものが取り付けてある作品です。少なくてもこの器形は中央アジアのフォルムに影響を受けたもので、初唐の頃に流行したスタイルのようです。



薄い灰釉薬が透明感と暖かみを感じさせる趣があります。胎土は割と厚い、あくまでも割と・・。本品は取手部分が補修されており、当方で再度、金繕いで補修しておきました。



唐時代の保証はむろんありませんが、最近の近代作ではなく時代にはもしかしたら信憑性があるかもしれません。



近代作と見分ける点は「形がすっきりしている点」で近代作は「ずんぐりとした模作が多い」とのこと。また土が白い点で、近年の作は「黒っぽい土」を使用していると言われています。この点から近代作との大まかな区別はできるらしい。



口の左右を龍が噛む形の龍耳壷は六朝時代の末から唐時代にかけて流行した器形 。ギリシャの「アンフォラ」と呼ぶ器形に似た双耳壷で耳の形が龍で中国的になっています。



卵形の胴体は底部に向かって引き締まり、下を少し余して上質白色の胎土の上に透明な釉をかけているのが特徴です。



二匹の龍が両側から口縁を噛んだものが肩部と口縁につながって取手となっていますが、脆いので決して今では持ってはいけません。



胴中央部にパルメット文の貼花があるのが珍しく上手品と言われています。



北方の白磁窯で焼かれたものと推測されている唐代の陶器は「南青北白」といわれ、北の白磁と南の青磁に代表される(宝相華文は唐代に流行した一種の理想花)ものです。



唐時代の陶磁器には西アジ アの影響が強いものが多く見られるますね。

下記の二つの作品は唐三彩の「龍耳瓶」の作品です。

三彩貼花龍耳瓶 唐時代・8世紀                          三彩双龍耳瓶  唐時代・8世紀 
 重要文化財 東京国立博物館蔵                                九州国立博物館蔵

 

白磁では下記の作例があります。

白磁龍耳瓶
愛知県陶磁美術館蔵



展示室にてしばし愉しみました。



骨董蒐集は常に整理と勉強と反省とそしてなにより愉しむことが肝要です。逆に言うと「集めるだけ集める、整理しない、勉強しない、真贋にこだわる。」ことはあまりよくないようです。

リメイク 印度の踊り子 福田豊四郎筆 その38 昭和36年(1956年)頃

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さていよいよ先週末の休日の雛祭りの段取りは雛段人形の据え付けです。消防署の見学会を終えたら息子が「忘れないうちにひな人形を飾ろう!」と言い出しました。女の子のお祭りなのになにやら熱心なのは組み立てが面白いからのようです。



物置から箱を引っ張り出してきてはいざ組み立て開始・・・。



説明書も見たり、おもちゃの刀で遊んだり・・。おもちゃの刀のうちはいいかな? 真剣のある場所は当然教えていません。



ようやく完成!



その後は節句のお寿司、雛あられ、桜餅ということになり、皆さま忙しい休日となりました。解体して片付けるのはいつになるやら・・。

ということで? 本日の作品は以前に紹介した作品です。知人から頂いた作品で男の隠れ家に収納していましたが、保管場所の湿気が高いようなので帰京に際して持ち帰ってきました。

印度の踊り子 福田豊四郎筆 昭和36年(1956年)頃
絹本着色額装 共板嵌め込み 昭和36年頃の作 
M12号 全体サイズ:横809*縦618 画サイズ:横583*縦393



床に額の作品を飾るのはなんら支障はありません。



ただしあくまでも飾る高さは目線をポイントにします。あまり低かったり、高かったりするのはよくありません。



ボンベイで描かれた作品のようで副題は「旅の改装」となっており昭和36年の旅の時のスケッチをもとに描いた作品です。



エキゾチックな雰囲気は福田豊四郎の作品の中では異色の作品です。



共板は額に嵌め込まれており、印章と落款は下記のとおりです。

  

裏表を二つに切り取って額に嵌め込まれている細工は非常に珍しいですね。

 

おそらく軸装の作品を額装に改装したのでしょう。



軸箱の箱書きを保存するためにこのような細工をしますが、費用が嵩むのでここまでの細工は普通はしません。



一般に福田豊四郎の作品は額装にしている作品は重い! 特定の額屋さんに頼んでいたのではないかと思われますが確かなことは解りません。



現代では軸装を額装に改装する人が多いようですが、共板をきちんと保管してるかどうか不安ですね。



ところでこの旅行時のスケッチを元に描いた作品は、当方の所蔵に中国で描いた作品が他にもあると考えられますが、少なくとも下記の2点が本ブログにて紹介しています。

下記の作品は初めて購入した福田豊四郎の作品です。もう30年も前ですが、当時60万円だったと記憶しています。今では20万円するでしょうか?

スフィンクス 福田豊四郎筆
P10号 紙本着色額装 共シール 415*515



こちらはインターネットオークションでの購入したものです。10万円程度で落札できたと思います。

タシュケントの市場 福田豊四郎筆 その75
紙本彩色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
M12号 全体サイズ:縦1495*横763 画サイズ:縦444*横590



福田豊四郎の作品は手頃な値段となり入手しやすくなりましたが、投資としてはNGですね。趣味とはそんなもの・・・

唐美人図 寺崎廣業筆 明治25年(1892年)頃

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あれからもう8年・・・、なんども被災地を訪れたりといろいろありましたが月日の経つのは早いものであり、ともかく本日は時間になったら黙祷です。

さて本日の作品は寺崎廣業の作品の紹介ですが、印章のみの作品ですが、この作品を寺崎廣業の真作と断定したのはあくまでも当方の経験値と資料からによるものです。

唐美人図 寺崎廣業筆 明治25年(1892年)頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:縦1270*横420 画サイズ:縦260*横330
第2期 宗山期

 

落款はなく印章のみの作品です。印章は「廣業」の白文長方印で明治25年頃に押印されている作品が図録などにあります。寺崎廣業の初期とされるこの頃の作品は非常に珍しい作品です。



寺崎廣業は1888年(明治21年)春23歳に上京すると平福穂庵、ついで菅原白龍の門をたたいています。広業は4か月でまた放浪の旅に出ますが、穂庵のくれた三つの印形を懐中にしていたそうです。足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に寄寓し美人画で名を挙げました。



1年半で帰郷し穂庵の世話で東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵の仕事をしました。ここで諸派名画を模写し広業の総合的画法の基礎を築いたといわれています。



この当時から寺崎廣業は美人画を数多く手がけていますが、その中には唐美人図を描いた作品が多数あり、この作品は明治25年頃に挿絵の下書きとして描かれてのではないかと推察されます。



席画にようなで保存箱はないものの表具はきちんとしています。



当方の蒐集作品では「秀齋時代」、さらには「粉本の巻物」がこの作品より以前の作品となります。本作品の印章は「菜花に猫」(明治20年代)」秋田千秋博物館蔵、「墨堤之雪(明治26年)」秋田県立近代美術館蔵の作品などにごく僅かの初期の作品に押印された作品が遺るだけえです。

  

*明治25年邨田丹陵の娘「菅子」と結婚。向島三囲神社の前に住。これを機に義父の邨田直景の弟で漢学者の関口隆正より「宗山」の号を与えられる。よって「宗山」の印章、号のある作品は明治25年以降の作と推定されますが、当方の分類では明治20年代までの寺崎廣業を制作年代では第2分類とし「宗山期」としています。


現時点での当方の寺崎廣業についての所蔵作品は下記のような分類数になっています。

第1期:秀齋時代(~明治20年)
第2期:宗山時代(明治20年代)
第3期:二本廣業時代(~明治40年)
第4期:明治時代(~明治45年)
第5期:大正時代

以上76点の作品数となっていますが、パソコン上にデータ化しておくことと並行して当方ではアナログ化してファイリングしておきます。

なお美術館に行ったり、図録を観てもほんの少ししか役に立つことは判りません。

蒐集の第1段階の「自腹で買う事」が骨董の始まりで、所蔵もしないでの勉強はありえないということです。ただ買い方もケチな買い方はまずいけません。極力生活費を削減して苦労していいものを、いいお値段で買わないと骨董蒐集のスタートラインにたてません。スタートラインに立てる人ですら極く僅かの人しかいませんね。インターネットオークションで一万、二万の入札でから始める人はまず失格でしょう。ある程蒐集したら、データを整理したり、蒐集した作品のレベルを見直しましょう・・。



許由 平福穂庵筆 明治5年(1872年)頃 年代別整理NO30

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休日には息子の自転車の練習に付き合いました。小生の埃をかぶっていた自転車を自転車屋さんに持っていき、車輪の空気を入れ直し、サドルも変えました。息子はもうおそらく補助輪を外しても乗れると思われますが、まだ早いと・・・。ちょっと家の外にもと墓掃除にも付き合わせました。



我が家の15歳を過ぎた柴犬の愛犬は小生が餌を変えたら飛び跳ねて遊ぶほど元気になりました。



外に出たついでに休日は車洗いと靴磨き・・・。それを見た家内や祖母らが自分たちの靴まで小生のところに運んできます。おかげで二時間ほど靴磨きに時間を要しました。



さて郷里の画家の平福穂庵の作品は制作年代別にだいたいの整理が終了し、一通りの判断がつくようになりました。整理してみて感じたのは真贋の判断は最終的にはこのような整理を経て身に付くようです。ただ単に蒐集だけを続けていたり、博物館・美術館や図集を観てだけでは決して身に付くものではないようです。

本日はその平福穂庵の作品でも制作年代の特定が難しい作品を紹介します。

許由 平福穂庵筆 明治5年(1872年)頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1020*横410 画サイズ:縦170*横240
*北海道渡航時代:画壇へのデビュー(明治5年~16年)



掛け軸として飾りやすい小点の作品です。 



この作品の題名は「仙人図」とされていましたが、これは「許由(きょゆう)」を描いた作品とすぐに解ります。これくらいの知識がないと骨董を趣味とする者としては恥です

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許由(きょゆう):中国古代の三皇五帝時代の人と伝わる、伝説の隠者である。伝説によれば、許由は陽城槐里の人でその人格の廉潔さは世に名高く、当時の堯帝がその噂を聞き彼に帝位を譲ろうと申し出るが、それを聞いた許由は潁水のほとりにおもむき「汚らわしいことを聞いた」と、その流れで自分の耳をすすぎ、箕山に隠れてしまったという。

堯から帝位を譲る申し出を受けた一人であり、高士として知られる巣父(そうほ)は、まさに牛にその川の水を飲ませようとしていたが、許由が耳をすすぐのを見て「牛に汚れた水を飲ませるわけにはいかぬ」と立ち去ったという。

その光景は昔から書画の題材としてよく好まれた。東京国立博物館所蔵の伝狩野永徳作「許由巣父図」などが有名である。

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上記の逸話は地位に眼がくらんで無欲の境地をなくすことを恥とした生き方の教えとされます。現代においては地位や名誉などよりこの世に大切なものがあるという教えでしょうが、本当に大切なものを持っている人は少ないかもしれないし、気が付かないのかもしれませんね。

有名な東京国立博物館所蔵の伝狩野永徳作「許由巣父図」の作品は下記のものです。

東京国立博物館所蔵の伝狩野永徳作「許由巣父図」
紙本墨画 伝狩野永徳筆
縦124.4 横52.4 安土桃山時代 16世紀 重文



多くの画家がこの光景を書画の題材として描いていますね。



若い時は栄華を夢見るものですが、人生における価値観は時を経るに従い高尚なものへと昇華されていくものでなくてはいけません。



ところで本作品に押印されている「穂庵」の印章は正確には同一印章と確認できる資料はまだありません。当方の所蔵では「田楽 平福穂庵筆 明治17年(1884年)頃」の印章に近いものですが、時代が違うようです。

「庵」の第一画と第2画が付いているのは時代が早く、「田楽 平福穂庵筆 明治17年(1884年)頃」の落款のように離れているのは晩年期に近くなります。また「庵」の最終の跳ねが90度以上の跳ねあがるのも第1期から第2期にかけての特徴で、第3期からは90度ほどになり、跳ね上がりも極端ではなくなる傾向にあります。よって本作品は初期の頃と推定されます。



当方の判断では明治初期にかけての穂庵の分類第2期~第3期:北海道への渡航時(北海道への渡航歴では「明治5年から始まり、明治14年から頻繁となり、明治16年まで続く)にかけての作品と推定しました。

平福穂庵の作品は大きく下記の時期に描いた時期が分類されています。

*分類第1期:文池から穂庵へ (安政5年~慶応3年)
*分類第2期:職業画家をめざして(明治1年~10年)
*分類第2期~第3期:北海道への渡航時(北海道への渡航歴では「明治5年から始まり、明治14年から頻繁となり、明治16年まで続く)
*分類第3期:画壇へのデビュー(明治11年~17年)
*分類第4期:さらなる飛躍の時(明治18年~23年)
さらに期の作品に特徴があります。

以上の5期の作品の特徴をとらえておくとおおよその描いた時期が判別され、真贋も判断できるようになります。詳細は当方の資料によりますので、マル秘ですね



伝大明年製の五彩の作品との組み合わせで展示してみました。本来はより古い中国民窯の陶磁器との組み合わせがよいのでしょう。

竹林 福田豊四郎筆 その95 昭和25年(1950年)の作

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昨夜はなんでも鑑定団を観ましたが、作品そのものはひと目で真贋と価格が読み取れる作品ばかりでした。ただ鑑定団の評価金額はやはり高すぎますね。田村耕一の作品は本ブログでも紹介し、当方でも数点所蔵していますが、鑑定団に出品された作品は若い時のできのまだよくない作品ですので、10万円程度の作を60万円、伊東深水の晩年の傑作でも150万円するかしないかを250万円・・・・ ひと目で贋作と分かる高橋草坪、池上秀畝らの作品など相変わらずの初心者向けの作品ばかりでしたね。

さて本日紹介する作品は昨年末から年始にかけて入手にかけて入手した福田豊四郎の作品3点のうちのひとつですが、郷里の骨董店から譲って頂いた作品です。前回紹介した作品に続けての紹介です。福田豊四郎の作品は今は格安ですので出来の良い画家の割には買い得感のある作品ばかりです。むろん3作品すべて真作です。

下記の鯉の作品は鯉を描いた3作品目の紹介でしたが、かなりの出来の良さです。

*なお当方所蔵の福田豊四郎の100余りの作品はすべて真作です。寺崎廣業、平福父子も同様です。



竹林 福田豊四郎筆 昭和25年(1950年)の作
P8号 絹本着色額装 共板入タトウ
全体サイズ:縦545*横615 画サイズ:縦355*横425



もともと掛け軸であった作品のようですが、掛け軸の軸箱の共板がタトウ内に納められています。



掛け軸を額装にした場合はこのような誂えはよくすることで、額装に共シールををするのが難しい場合は軸箱の題名と落款、印章の部分を額かタトウに嵌め込む方法です。本ブログでもたびたびこのような作品を紹介しています。



むろんこのような細工はお値段がかかり、額装にするほうが高くなりことがあります。とはいえせっかくの共箱を無駄にしてはいけませんので、額装にする際にはきちんと遺しておくべきでしょう。このような誂えをみると当方は嬉しくなります。



現在は床の間がなくなり、軸装の作品を額装に改装する方も多いのですが、わざわざこのような誂えをする人は最近は少ないかと思います。



額装に改装するだけでおそらく安くとも10万円はかかる可能性があるからです。福田豊四郎の作品はこれだけの誂えをする価値があったということでしょう。

 

よほどお値段の高い作品ならこのような誂えをするでしょうが、数万円の作品にこのような費用はかけられないのが実情かもしれません。

 

当方ではこのような作品を大切にしておきたいし、やはり共箱付の軸装の作品はそのまま軸装にしておくのが無難と思われます。

三行書 山岡鉄舟筆

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年末年始に帰郷しましたが、男の隠れ家の座敷は冬の寒さが身に沁みます。寝正月と決め込むのが無難なのでしょうが、そこは好き者、自然と骨董と向き合うこととなります。



まずは研いだ後に男の隠れ家に戻しておいた刀剣の手入れです。東京の銀座で研がれた刀剣は先祖代々の男の隠れ家に戻され、価値はどうあれ子々孫々まで伝えられるようにしてあります。

欄間には思文閣の方も見ていかれてました日下部鳴鶴の額が飾ってあります。



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日下部鳴鶴:(くさかべ めいかく、天保9年8月18日(1838年10月6日)~大正11年(1922年)1月27日)。

日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。 中林梧竹、巌谷一六と共に明治の三筆と呼ばれる近代書道の確立者の一人である。

中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴であり、それまでの和様から唐様に日本の書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。

芸術家としても教育者としても多大な功績をあげたことを称えて「日本近代書道の父」と評されることもある。 鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は3000人を数えたと言われる。また生涯で1000基の石碑を書いたとも言われ、現在も全国に300基以上の碑が残されている。中でも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれる。

中国書法の研究をすすめ六朝書道を基礎に独自の書風を確立し、また中国に渡航し碑文研究を深めると同時に呉昌碩などの文人と交流し、「東海の書聖」と称されたといわれている。

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欄間額などの書はまだまだ未知数の作品が飾ってあります。



「国家の基本は農に在り」・・、まさしくその通り。



男の隠れ家から引っ張り出してきた少しまともな状態の作品をいかにすべきかと算段してきました。舘岡栗山、近藤浩一朗らの欄間額の作品があります。染み抜きしたり、改装するとほどの作品はもうないようですが・・。



さて正月の床には何を飾ろうかと思案し、最近蔵から出してきた山岡鉄舟の書を飾ることにしました。何を書かれているかは当方ではさっぱり・・・

明治の立役者らの中で書で好きなのは西郷隆盛と山岡鉄舟ですね。それでも大した評価での取引ではなく、せいぜい20万程度・・。過大評価してはいけません。

三行書 山岡鉄舟筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横(未測定 大幅)

 

この作品は当方がまだ30代の頃に義父から見せていただいたのが最初です。のちに痛みがひどいので見かねて改装しました。



ただ改装した直後に義父が掛けようとして誤って落としていまい、掛け軸に折り目が入ってしまっています。申し訳なさそうにしていた今は亡き義父と義母を思い出させてくる懐かしい作品となりました。



山岡鉄舟はあまりにも著名なので詳細は省略します。

  

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山岡 鉄舟(鐵舟、やまおか てっしゅう):幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。 鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(鐵太郎、てつたろう)。諱は高歩(たかゆき)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。



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下記の逸話は幕末三舟と言われた、勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の関りを如実に示すものです。

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当時の徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった。そこで、鉄舟に白羽の矢が立った。

この時、刀がないほど困窮していた鉄舟は、親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。

3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、
一、江戸城を明け渡す。
一、城中の兵を向島に移す。
一、兵器をすべて差し出す。
一、軍艦をすべて引き渡す。
一、将軍慶喜は備前藩にあずける。
というものであった。

このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだ。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。これによって奇跡的な江戸無血開城への道が開かれることとなった。

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今を生きる我々は常に先人の業績があって存在するものです。過去を知らずして今を生きるのは先人らに失礼です。骨董を通して少しでも先人の業績を知り、今をゆたかに生きていきたいものです。明治維新当時の書は市場に腐るほどありますので、厳選して楽しむといいかと思います。

雪景山水図 三好藍石筆 その2 明治34年(1901年)

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今では評価の低い南画ですが、その南画の潮流を受けた画家には佳作を遺している画家も数多くいます。本ブログで取り上げているのが中林竹洞・竹渓父子、釧雲泉、富岡鉄斎、天野方壺、斎藤畸庵、日根対山らですが、その他にも佳作を遺している画家はいます。本日は伊予画壇に足跡を遺している三好藍石の作品を紹介します。



本作品で三好藍石の作品は2作品目ですが、最初に紹介した「春夏冬山水図 三幅対 三好藍石筆 その1」(2016年1月13日 投稿)の作品は表具を改装しなくてはいけない作品ですが、資金上の都合でまだ改装に至っておりません

春夏冬山水図 三幅対 三好藍石筆 その1 明治40年(1907年)
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1885*横535 画サイズ:縦1270*横415



今回の作品の整理のため上記の三幅対を収納している箱から引っ張り出してきました。正直なところ改装するのに資金を投じる価値があるのかどうか迷っていますが、今回の作品を観て改めて三好藍石の画力を見直した次第です。

それでは本日紹介する作品です。

雪景山水図 三好藍石筆 その2 明治34年(1901年)
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1950*横570 画サイズ:縦1178*横427

 

現在の愛媛県を中心として伊予で栄えた南画については下記のとおりです。本ブログでおなじみの天野方壺についても伊予南画を語る上では外せません。

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吉田蔵澤(1722-1802)やその門人たちによって確立されていった伊予南画は、しだいに広がりを見せる。小松藩絵師となった森田南濤(1808-1872)は文晁派の春木南湖に学び、その流れは門人の林涛光(1832-1913)によって引き継がれた。

伊予の朱子学者・近藤篤山に学んだ長尾慶蔵(1834-1872)も南画をよくした。さらに、伊予南画の双璧と謳われた天野方壺(1824-1895)と続木君樵(1835-1883)の出現により、伊予南画は全盛を迎える。



全国的にみると、その後の南画は、幕末から明治初期にかけて衰退していくことになるのだが、伊予の地にあっては、三好藍石(1838-1923)や野田青石(1860-1930)らの活躍は、昭和初期になっても色あせることはなく、現代南画の世界においても、日本南画院の設立に参加した矢野橋村(1890-1965)らへと連綿と続いている。

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賛には「□東駆□ 渭難埋棹雖 何如閉門者 不識風雪寒 辛丑□首人口倣沈石田筆意 藍石好信 押印」とあります。辛丑とありますので明治34年(1901年)63歳頃の作と推定されます。意味は現在はまださっぱり・・・。



下記の経歴によると「60歳を過ぎ一流浪の画人として大阪へ出て行く。以後、彼は在阪20年、各地の画人と交流、研鑽を深め、多くの名作を残し、当地南画界の雄として、彼の生涯で最も充実した画人生活を送る。」という時期の作品となります。

 

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三好藍石:天保九年(1838)徳島県池田町に生まれ、川之江の素封家三好家に迎えられ養子となる。名は信、字は小貞、通称を旦三といい、藍石は号であり、金江・螺翁・河江翁ともいう。三好家は、代々酒造業を営む近郷きっての素封家であり、彼も詩文・書画を好む学識高い文化人であった。



当家は文人墨客の出入りが絶えず、当地における文化交流の一大サロンの役を果たしていた。近くに住む続木君樵もその常連であり、彼の画業に大きい影響を及ぼすこととなる。そうした環境で悠々と文人気どりの彼は、明治初年の激動期、郷党に推され県会議員となり政界に乗り出す。さらに時代の要請で産業開発にも関心を示し、製陶・海運・養豚にまで手を出す。だが、元来は無欲恬淡の文人ゆえ、政治や実業が性に合わずすべてが失敗に終わって、さしもの名家も破産という破局を迎えることとなる。



彼が、いわゆる文人画家から脱却、専門画人としての道を選ぶのはそのころのようである。先祖から受け継いだ栄誉・資財の一切を失い、人の世のはかなさ、みにくさをつぶさに味わい、彼は60歳を過ぎ一流浪の画人として大阪へ出て行く。その大阪行きをすすめ、奔走したのは当時宇摩郡長を勤める門人の手島石泉ら多くの門弟たちだという。以後、彼は在阪20年、各地の画人と交流、研鑽を深め、多くの名作を残し、当地南画界の雄として、彼の生涯で最も充実した画人生活を送る。



大阪南画壇で盛名をはせた彼は、80歳を過ぎ、郷党や門人に迎えられ郷里川之江に帰り、城山山麓の小画禅堂(清風明月草堂)に落ちつき、画禅三昧の老境を過ごし、大正12年(1923)10月20日、86歳で没す。



筆法はあくまで南画の伝統描法にのっとり、一筆一筆を誠実に、また巧みな雲姻による緊密な構成で生々しい現実感をもりながら超現実の神仙境を描出する。その卓抜の画技は、長年にわたる彼の厳しい求道・修練の賜物であり、いつまでも郷土人士の心をとらえて離さない。藍石の影響を受けた同郷の画人に大西黙堂・安藤正楽がおり、また東の藍石、西の青石と称された八幡浜の野田青石がいる。



天野方壷と続木君樵は明治初頭における愛媛画壇の双璧といわれていますが、君樵は、帰朝後郷里に落ちつき、作画を楽しみながら画塾を開き後進を指導、そこに育った三好藍石ら多くの門弟たちは、やがて以後の愛媛画壇を風靡するに至る。一方、方壷は、郷土を離れ全国各地を歴遊、中央画壇で華々しい活躍をするが、一人の門弟ももたず、専らおのが画業に専念する。その間、どれほど郷里に滞在し、どれだけの影響力を持ち得たのか。その点資料が乏しく推測の域を出ないが、彼は、専ら作品により郷土人士の心をとらえ、その作風で愛媛画壇を風扉したのではなかろうか。

三好藍石の代表作
*「寒霞渓秋景之図」:コロンブス記念博覧会出品(54歳作)
*「祖谷山蔓橋真景」:(55歳作)
*「老松亀鶴之図」:大正天皇御大典記念に献納 
*「一品当朝之図」:天覧の作


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雪深い地に友を訪ねるという図柄でしょうか?



「倣沈石田筆意」とある「沈石田」は下記の略歴をもつ中国の画家です。

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沈石田:沈周(しん しゅう)宣徳2年11月21日(1427年12月9日)~正徳4年8月2日(1509年8月17日))。中国の明代中期の文人にして画家である。文人画の一派である呉派を興し「南宋文人画中興の祖」とされた。また蘇州文壇の元老として中国文学史上に名をとどめ、書家としても活躍した。

詩書画三絶の芸術家として後世になっても評価が高い。家訓を守り生涯にわたって仕官することなく明朝に抗隠した。 長洲県相城里(現在の江蘇省蘇州市相城区陽澄湖鎮)の出身。字を啓南、号を石田・石田翁・白石翁とした。享年83。



画は父恒吉、伯父の貞吉に学び、その後父の師でもあった杜瓊に就いた。他に趙同魯や劉珏にも教えを受けている。遥か五代の董源や巨然にまで師法し、元末四大家に私淑した。

後輩にあたる王穉登は『呉郡丹青志』で蘇州を中心に活躍した画人の中で沈周をもっとも高く評価し神品に挙げている。書は北宋の黄庭堅を宗とし、詩は陳寛に就いて学び、白居易・蘇軾・陸游を好んだ。画がなれば、詩を読み、自題したので三絶と評された。弟子には唐寅や祝允明が育ち、特に愛弟子である文徴明が沈周の跡を継ぎ呉派文人画の発展に努めた。

生前から贋作が多く真蹟は滅多にないと王世貞は伝えている(『芸苑巵言』)。また散文についても楊循吉などが高く評価している。詩文集に『石田集』がある。

沈氏は元代からの名家であり、一時没落するも曽祖父の代より家運を盛り上げ、広大な農地などの恒産を所有し富豪となった。祖父の沈澄、父の沈恒吉も学問・芸術を好み優れた人物であったが、ともに家訓に従い仕官していない。一説には沈家は元末明初に江南の大富豪であった沈万三の家系とされる。

沈万三は張士誠の外戚となっていたため、そのライバルであった明の太祖朱元璋に莫大な家産と海外貿易の権益を没収されるという痛手を受けた。また蘇州は明政府により過酷な徴税を強いられ永らく疲弊した。これらのことから、沈家は明政府を信頼せず保身の為に仕官を認めない家訓を伝えてきたと思われる。貿易商だった沈家には西域人の血が混入したようで清の銭謙益や阮元らによると沈周は彫りが深く碧眼だったと記している。



15歳の時、父から家産の収税役を引き継いだが、心の根の優しい沈周は農民をよく気遣ったとされる。27歳の時に地方官吏に推挙されるが八卦の見立てに従い仕官を避け隠逸した。以降、蘇州の農村で文芸に耽り、文房(書斎)である有竹居には文人や好事家が千客万来しその合間に芸術活動を行った。特に呉寛・都穆・文林とは交わりが深かった。書画の依頼が後を絶たずそれを消化することに日夜追われていた。人の頼みを断り切れなかったのである。非常に温厚な性格で人と争うことが全くなく、困った人はすぐに助けていた。贋作に落款を求められても拒絶することなくこれに応じ、また画工として扱われても腹を立てることなく黙ってこれに従ったという晩年はますます文名、画名ともに高まったが、家は蓄えを失いしだいに貧窮した。

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そう沈石田と三好藍石の家系からの身の上は似ているのです。このことを知らずしてこの絵の鑑賞はあり得ませんね。中国の名画には及ばぬもの展示室にて鑑賞するのも楽しからずや・・・。

*状態のよさそうに見える本作品もまた虫食いの穴が開いています。さてこれも補修かな?

酔 加藤晨明筆

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男の隠れ家にあった蒐集当初の頃の作品から下記の作品を撮影しましたので投稿します。



加藤晨明はそれほど知られていない画家かもしれませんが、蒐集当初は資金も少なく、色紙程度の作品でそれほど著名でない画家や福田豊四郎の作品を入手していました。まだ未整理の作品が多々あるようですが、郷里と距離も遠く手が回らない状態です。

酔 加藤晨明筆
紙本着色色紙額装共シールタトウ箱入
画サイズ:縦265*横240



正月は「酔う」がいいと選んだ作品です。



加藤の略歴は下記の通りです。

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加藤晨明:1910年(明治43年)3月11日、愛知県名古屋市に生まれた。本名は清。
1934(昭和9)年中村岳陵の蒼野社に入り院展に出品、
  38年第25回院展で「二少女」が日本美術院賞第三賞を受賞。
1943年名古屋より長野に疎開。戦後は日展に移った師・岳陵に伴い、1 946年第1回展より日展出品を続けた。
1947年第3回日展で「浄韻」が特選・白寿賞受賞。翌年長野より東京に移転。
1950年第 6回日展で「ピアノの前」が白寿賞、
  51年「調音」で第7回展特選・白寿賞、
  52年「榻による」で第8回展白寿賞を受賞。
1958年 会員、
  73年日展評議員となり、
  89年(平成元)年改組第21回日展で「黒いドレス」が文部大臣賞を受賞。
1990年より日展参与。一貫して人物を対象とし、特に女性像において、写実の姿勢に貫かれた描写力を基に、豊かな情感をさりげなく忍ばせた清潔で落ち着きの ある作品を発表した。
1990年銀座松屋で開催。
1995年勲四等瑞宝章受章。
1998年(平成10年)7月7日死去。



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