漢の緑釉の壺というのはまだ壺という美学が成り立っていない時代のものと私は思っています。基本的に壺は青銅器の形の模倣であることにその大きな要因があるように思ってます。ただ本作品は形の良さと釉薬の景色の良さが魅力になっているということで入手しました。
伝漢緑釉銀化壺
合箱
口径*胴径180*底径*高さ145
今では大量に発掘され値段さえつかなくなったという緑釉薬の壺・・、ただ本作品が漢時代までさかのぼるか素人の当方には判断できかねています。
緑釉陶器は中国の戦国時代(紀元前4世紀頃)に生まれ、漢時代に流行しました。日本には7世紀後半、新羅から技術が導入された可能性が強く,平安京から新羅の緑釉壷の破片が出土しています。
酸化銅を呈色剤とする緑釉は青銅器の質感を表現するために施釉されたとする説もありますが、青銅器の本来の色は金色です。むしろ鉛釉という金属釉を掛けることにより、陶器に金属的な質感を求めたと考えられています。
本作品もまた青銅器を写しているようで、金属的な質感がよく出ているように思われます。
銀化そのものはきれいに発色していませんが、形が珍しく端正なので使い道はありそうです。ただ、水漏れがしていたので、補修しておきました。胴部分の青いの傷が中まで貫通していました。ということは今まで花瓶としては使われたことはなかったらしい・・。
伝漢緑釉銀化壺
合箱
口径*胴径180*底径*高さ145
今では大量に発掘され値段さえつかなくなったという緑釉薬の壺・・、ただ本作品が漢時代までさかのぼるか素人の当方には判断できかねています。
緑釉陶器は中国の戦国時代(紀元前4世紀頃)に生まれ、漢時代に流行しました。日本には7世紀後半、新羅から技術が導入された可能性が強く,平安京から新羅の緑釉壷の破片が出土しています。
酸化銅を呈色剤とする緑釉は青銅器の質感を表現するために施釉されたとする説もありますが、青銅器の本来の色は金色です。むしろ鉛釉という金属釉を掛けることにより、陶器に金属的な質感を求めたと考えられています。
本作品もまた青銅器を写しているようで、金属的な質感がよく出ているように思われます。
銀化そのものはきれいに発色していませんが、形が珍しく端正なので使い道はありそうです。ただ、水漏れがしていたので、補修しておきました。胴部分の青いの傷が中まで貫通していました。ということは今まで花瓶としては使われたことはなかったらしい・・。