昨夕に秋田から帰宅しました。骨董に関する情報もほんの少し入手・・。先週の「なんでも鑑定団」に出品された福田豊四郎の作品。果して本当の贋作であろうか?
由利高原で描かれたという作品、再度検証してみる必要があるかもしれません。
秋田の画家には著名な画家が多く、福田豊四郎、倉田松涛、伊勢正義、平福百穂、平福穂庵、佐竹曙山など枚挙にいとまがありませんが、贋作も非常に多いのも特徴です。地元秋田に贋作作者が多かったようですので、地元から出た作品のほうが贋作ということが多いかもしれません。
本日は寺崎廣業の贋作です。寺崎廣業の贋作は二作品目?の投稿となろうかと思います。資料を手元に置かず選びますので、ちょっとした間違いはよくあります
富士図 その2 寺崎廣業筆
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1700*横360 画サイズ:縦800*横260
印章は「騰龍軒」を用いていますが、この印章について資料と違う印章があり、確認を要しますが、本作品は贋作と断定すべきものでしょう。巧妙の作られた贋作のひとつです。
寺崎廣業は富士を題材とした作品を数多く残しています。「富士」を題材とした作品で所蔵してるのが他に4作品(真作)ありますが、それでも贋作をつかまされるとは我ながら自己嫌悪に陥ります。
寺崎廣業の作品はその落款の「業」の書体から二本広業、三本広業と区別されていますが、大体四回ほど書体を変えているとのこと。二本広業が明治35年頃から42年頃までの7年ぐらい、以後は三本広業らしいです。三本の方は、頼山陽の書体の影響だともいわれているとのことです。
ネットオークションでは寺崎廣業の贋作は非常に多く、また通常の骨董店でも多くありますので要注意です。
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寺崎廣業:1866年〜1919年。日本画家。秋田生まれ。幼名忠太郎。秋田藩家老で七百石取りの家に生まれた。しかし父が維新後、資産を蕩尽し、氷の行商まで経験している。小室秀俊、平福穂庵に学び、のちに上京。絵画叢誌(そうし)に古画の縮図や口絵を描き、山田敬中、邨田丹陵らと研究会をもちながら苦学。波瀾に富んだ修業生活を送りながらも、血筋のせいか豪快な性格は失なわず、ついに明治画壇のトップに立っている。1897年(明治30)東京美術学校助教授となるが、翌年の美術学校騒動で岡倉天心らとともに辞職し、日本美術院の創設に参加。1901年(明治34)には、美術院正員のまま美術学校に復職し、教授となった。07年の第1回文展から第7回展まで審査員を務め、17年(大正6)帝室技芸員となった。代表作は『秋苑(しゅうえん)』『大仏開眼』『高山清秋』など。門下に野田九浦、中村岳陵、町田曲江らがある。広業が晩年に建てた小石川関口町の邸宅は千坪もあり、「欄干のついた数十畳の画室兼客間で、相撲取や芸人に取り巻かれ、庭前には篝火をたき、日本橋の美妓を大勢並べて豪奢な酒宴を張るという生活ぶり」(村松梢風『本朝画人伝』)だったらしい。大正8(1919)年、のどの癌が原因にて53歳で世を去った。
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インターネットより
「大正六年五月、私は叔父奈良磐松の随行で、東京小石川区関口町に新築された寺崎広業の邸宅を訪れた一千坪余りの宅地に、門をはいると石組みあり、竹林ありという風で、巨匠の住み家にふさわしい雰囲気だった。招待の日時が打合せてあったので、先客として、代議士井口延次郎と大関栃木山とが、すでに座にあった。その傍らに、主人広業が坐っていた。初めて見る巨匠であるが、周囲の大男に対比したせいか、広業は、いかにも、小さく見えた。実際余り大きくない人だったが、眼光はだれよりもするどかった。やがて配膳されて、老妓がお酌に出た。その老妓の帯の模様は、広業のかいたものらしく、側胴あたりに広業の落款がはっきり見られた。盃のやり取りのうちに、これを関取へとか、これは関取りからなどと、私には、ちょっと奇異にさえ感じられる宴席風景だった。 ご馳走がすんだ後、私が、おそるおそる画帖を出したところ、直ぐ筆と硯を取りよせ「ただの時は、富士さ」と富士をかいてくれた。その態度は、いかにもて恬淡で磊落だった。私と少し関係ある、もと広業と同格の武士だった松野老人にかいてくれたのも富士だった。以来富士の絵を見ると、これもただかなアと思ったくらいである。 その二年後に、広業が、亡くなったのだから、一層、忘れがたい思出である。
二本広業だの、三本広業だのと世間からいわれているが、大体四回ほど書体を変えている。二本広業が三十五年頃から四十二年頃までの七カ年ぐらい、以後は三本広業である。三本の方は、前に述べた扁額の頼山陽の書体の影響だともいわれている。」 (奈良 環之助著)
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淘汰して所蔵作品のレベルを上げなくてはいけませんが、半分くらいが処分か? 今回は返品できました
返品のできる取引相手を選ばなくてはいけませんね。たとえ半額でも 福田豊四郎のこのたびの作品は如何?
由利高原で描かれたという作品、再度検証してみる必要があるかもしれません。
秋田の画家には著名な画家が多く、福田豊四郎、倉田松涛、伊勢正義、平福百穂、平福穂庵、佐竹曙山など枚挙にいとまがありませんが、贋作も非常に多いのも特徴です。地元秋田に贋作作者が多かったようですので、地元から出た作品のほうが贋作ということが多いかもしれません。
本日は寺崎廣業の贋作です。寺崎廣業の贋作は二作品目?の投稿となろうかと思います。資料を手元に置かず選びますので、ちょっとした間違いはよくあります
富士図 その2 寺崎廣業筆
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1700*横360 画サイズ:縦800*横260
印章は「騰龍軒」を用いていますが、この印章について資料と違う印章があり、確認を要しますが、本作品は贋作と断定すべきものでしょう。巧妙の作られた贋作のひとつです。
寺崎廣業は富士を題材とした作品を数多く残しています。「富士」を題材とした作品で所蔵してるのが他に4作品(真作)ありますが、それでも贋作をつかまされるとは我ながら自己嫌悪に陥ります。
寺崎廣業の作品はその落款の「業」の書体から二本広業、三本広業と区別されていますが、大体四回ほど書体を変えているとのこと。二本広業が明治35年頃から42年頃までの7年ぐらい、以後は三本広業らしいです。三本の方は、頼山陽の書体の影響だともいわれているとのことです。
ネットオークションでは寺崎廣業の贋作は非常に多く、また通常の骨董店でも多くありますので要注意です。
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寺崎廣業:1866年〜1919年。日本画家。秋田生まれ。幼名忠太郎。秋田藩家老で七百石取りの家に生まれた。しかし父が維新後、資産を蕩尽し、氷の行商まで経験している。小室秀俊、平福穂庵に学び、のちに上京。絵画叢誌(そうし)に古画の縮図や口絵を描き、山田敬中、邨田丹陵らと研究会をもちながら苦学。波瀾に富んだ修業生活を送りながらも、血筋のせいか豪快な性格は失なわず、ついに明治画壇のトップに立っている。1897年(明治30)東京美術学校助教授となるが、翌年の美術学校騒動で岡倉天心らとともに辞職し、日本美術院の創設に参加。1901年(明治34)には、美術院正員のまま美術学校に復職し、教授となった。07年の第1回文展から第7回展まで審査員を務め、17年(大正6)帝室技芸員となった。代表作は『秋苑(しゅうえん)』『大仏開眼』『高山清秋』など。門下に野田九浦、中村岳陵、町田曲江らがある。広業が晩年に建てた小石川関口町の邸宅は千坪もあり、「欄干のついた数十畳の画室兼客間で、相撲取や芸人に取り巻かれ、庭前には篝火をたき、日本橋の美妓を大勢並べて豪奢な酒宴を張るという生活ぶり」(村松梢風『本朝画人伝』)だったらしい。大正8(1919)年、のどの癌が原因にて53歳で世を去った。
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インターネットより
「大正六年五月、私は叔父奈良磐松の随行で、東京小石川区関口町に新築された寺崎広業の邸宅を訪れた一千坪余りの宅地に、門をはいると石組みあり、竹林ありという風で、巨匠の住み家にふさわしい雰囲気だった。招待の日時が打合せてあったので、先客として、代議士井口延次郎と大関栃木山とが、すでに座にあった。その傍らに、主人広業が坐っていた。初めて見る巨匠であるが、周囲の大男に対比したせいか、広業は、いかにも、小さく見えた。実際余り大きくない人だったが、眼光はだれよりもするどかった。やがて配膳されて、老妓がお酌に出た。その老妓の帯の模様は、広業のかいたものらしく、側胴あたりに広業の落款がはっきり見られた。盃のやり取りのうちに、これを関取へとか、これは関取りからなどと、私には、ちょっと奇異にさえ感じられる宴席風景だった。 ご馳走がすんだ後、私が、おそるおそる画帖を出したところ、直ぐ筆と硯を取りよせ「ただの時は、富士さ」と富士をかいてくれた。その態度は、いかにもて恬淡で磊落だった。私と少し関係ある、もと広業と同格の武士だった松野老人にかいてくれたのも富士だった。以来富士の絵を見ると、これもただかなアと思ったくらいである。 その二年後に、広業が、亡くなったのだから、一層、忘れがたい思出である。
二本広業だの、三本広業だのと世間からいわれているが、大体四回ほど書体を変えている。二本広業が三十五年頃から四十二年頃までの七カ年ぐらい、以後は三本広業である。三本の方は、前に述べた扁額の頼山陽の書体の影響だともいわれている。」 (奈良 環之助著)
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淘汰して所蔵作品のレベルを上げなくてはいけませんが、半分くらいが処分か? 今回は返品できました
返品のできる取引相手を選ばなくてはいけませんね。たとえ半額でも 福田豊四郎のこのたびの作品は如何?