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豊公神影図 幸野楳嶺筆 その2

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**荒木十畝の作品に「贋作」の可能性がるとのコメントがあり、荒木十畝の二作品は悪質な贋作の可能性があると判断し掲載を取止めました。**

楳嶺は画家というよりも教育者として名高く、貢献も大きいと賞され、その指導力は大いに今の経営者は見習うべきところ大です。

豊公神影図 幸野楳嶺筆
絹本水着色 軸先木製塗 共杉古箱 
全体サイズ:縦1810*横420 画サイズ:縦1000*横280



箱書きには「豊公神影」、「明治戌子蒲月題匣於鶯梦軒□ 楳嶺豊 押印」とあり。明治21年(1888年)の作と推察されます

 

織田信長は自らを神として信仰させようとしましたが(異説あり)、秀吉もまた自らを神として祀らせようとしたようです。秀吉は死に際して、方広寺の大仏の鎮守として新たな八幡として自らを祀るよう遺言しましたが、秀吉の死後、八幡として祀られるという希望はかなえられず、「豊国大明神」という神号で祀られ、豊国社も別に神宮寺を置くこととなりました。



幸野楳嶺は弘化元年3月3日(1844年4月20日)、新町四条下ルに於いて金穀貸付業を営み、市内六軒の町奉行の一であった安田四郎兵衛の第四子として生まれています。嘉永5年(1852年)、楳嶺九歳の頃円山派の中島来章の門に入門します。この関係は、師の来章の許しを得て塩川文麟の門に入門する明治4年(1871年)までの約二十年間続きました。



落款には「幸野豊謹冩 押印」とあります。




楳嶺は画家というよりも教育者として名高く、貢献も大きい。菊池芳文、谷口香嶠竹内栖鳳、都路華香という楳嶺四天王と称される4人のほかに、森川曽文、三宅呉暁、加藤英舟、川合玉堂、川北霞峰、上村松園、田南岳璋、五代清水六兵衛、森本東閣 (楳嶺長男)、幸野西湖(楳嶺次男)がいます。



厳しく徹底的に基礎教育をする代わりに、基礎が出来たら自由にさせていたようです。また、常に門弟たちを引き立たせるようにしていたようでもあるそうです。門弟が少し慢心していると絵の批評も痛烈ですが、やや悲観している者があると拙い絵でも褒めてやり、その匙加減が絶妙だったと言われています。部下を育てるにはこうでなくてはいけませんね。厳罰ばかりでは部下は委縮し、コミュニケーションがますます悪くなります。

以外と少ないのが「豊臣秀吉」の肖像画かもしれません。本作品は重厚に描かれ、いい出来だと思います。



表具もそれなりにというところでしょうか。


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