京都狩野派の中興の祖である狩野永岳の作品をぜひ欲しいと思っていましたが、佳き作品がなかなか入手できませんでしたが、今回入手することができました。
「菅公(菅原道真)」と題されて売られてた作品で、学問の神様ということもあり、息子の誕生記念に購入したのですが、どうも他の人物の肖像の可能性もあります。「伝井伊直弼」と仮題にしました。
伝井伊直弼之図 狩野永岳筆
絹本着色軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦1940*横483 画サイズ:縦1045*横347
落款には「金門畫史 狩野縫殿助永岳洗手謹写」とあり、「永岳」の朱文白釣鐘印と「□□□」の白文朱方印が押印されています。
「金門畫史」とあることから、57歳(1847年)以降の作品と推察されます。こういうことは掛け軸を購入するときには知識として必要です。
井伊家の菩堤寺である清凉寺に伝わる「井伊直弼」の肖像画は永岳が画いたとされ、本作品は同じく「井伊直弼」を描いた作品可能性があります。そうであれば、安政7年(1860年)に井伊直弼が暗殺されており、その前後の作品ではないかとも推察されますが、描かれている人物が少し老けているのが気にかかります
数多くの肖像画を狩野永岳が描いており、本作品を井伊直弼像とするか否かは後学とします。「九条尚忠」を描いた作品である可能性もありますが、誰の肖像か、はたまた菅原道真像か今のところ判断できかねています。
どなたか詳しい方がおられれば、ご指導をお願いします。
数多くの掛け軸から真作を探し出すひとつの方法に表具の感触というものがあります。良き家に伝わった表具は巻いた状態で触ってみてすぐにある程度はわかります。
この表具は「この梅は梅鉢紋様というのよ。少なくとも表具は菅原道真を意識しているわね。井伊家の家紋は井桁か橘よ。」と朝食を食べながらの小生は家内から薫陶を受けてしまいました・・・
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狩野永岳:(かのう えいがく)寛政2年(1790年)〜 慶応3年1月2日(1867年2月6日))。江戸時代後期に京都を中心に活躍した画家。京狩野家9代。低迷する京狩野家を再興した。永岳(永嶽)は諱。初名は泰助、字を公嶺。山梁、晩翠、脱庵などと号した。代々の通称、縫殿助(ぬいのすけ)を名乗った。父は京狩野の絵師・影山洞玉(後の狩野永章)、弟は狩野永泰で、その子が冷泉為恭。早くに才能を見いだされ京狩野8代・狩野永俊の養子となり、文化13年(1816年)永俊が没すると27歳で家督を継いだ。
初代・狩野山楽の末裔であることを誇りとし、箱書きや落款に「山楽九世孫」としたためている。山楽や二代・山雪の画を熱心に学び、桃山風の画風を基本とした。その上で、当時京都で人気を博していた四条派の画風を積極的にとり入れている。この他にも江戸中期に来日した沈南蘋の流れを汲む長崎派や、谷文晁によって広まった北宗画や文人画、宗達・光琳の装飾的な琳派、甥にあたる冷泉為恭から復古大和絵を直接学んだ。京狩野家は代々九条家と関係が深く、永岳33歳の時、画を好む九条尚忠の家来となった。嘉永6年(1853年)、尚忠が左大臣の公務で江戸に下ったとき、これに同行し富士山を実見し「富士百幅」を描いている。
永岳の代になって京狩野は紀州徳川家と彦根井伊家の御用絵師も務めるようになった。井伊家の菩堤寺である清凉寺に伝わる井伊直弼の肖像画は永岳が画いたとされる。57歳にして禁裏(朝廷)御絵師御次席となってから落款に「金門画史」・「金門画院第一史」と記すこともあった。66歳のとき禁裏の安政度造営が行われ多くの障壁画の制作にあたっている。臨済宗妙心寺には永岳の作品が多く残り、とりわけ隣華院客殿障壁画は永岳の代表作といえる。同じく臨済宗大徳寺にも頂相など多数の作品が残されている。東本願寺にも大障壁画を手掛けたがのちに焼失した。本願寺を通じて地方の別院にも永岳の作品が多数見られる。
この他にも永岳は多くパトロンをもち、京都はいうに及ばず長浜や飛騨高山にも足を伸ばし、富商や富農の求めに応じて絵を画いた。禁裏の御用絵師とはいえ、永岳が家督を継いだ頃の京狩野派は、土佐派や鶴沢派の後塵を拝し不遇な立場にあった。なおかつ江戸後期には伝統的な画派は勢力を弱め、特色を持った新興の画派が台頭していた。永岳は生き残りを掛け京狩野の伝統を革新させ、特色を打ち出すことに成功する。長寿であったことも幸いして京都画壇では重鎮として扱われた。京焼の永楽保全なども永岳に画を習ったという。享年78。
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井伊直弼:(いい-なおすけ) 1815−1860 幕末の大名。文化12年10月29日生まれ。井伊直中(なおなか)の14男。兄直亮(なおあき)のあと,嘉永(かえい)3年近江(おうみ)(滋賀県)彦根藩主井伊家15代となる。安政5年大老。13代将軍徳川家定の継嗣問題や,開国か攘夷(じょうい)かで前水戸藩主徳川斉昭らと対立。日米修好通商条約を勅許をえずに調印,将軍継嗣を和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))にきめた。一橋慶喜を推して反対する斉昭ら一橋派や尊攘派を弾圧(安政の大獄)したため,桜田門外で安政7年3月3日水戸・薩摩の浪士らに暗殺された(桜田門外の変)。享年46歳。号は宗観(そうかん)。著作に「茶湯一会集」など。
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「菅公(菅原道真)」と題されて売られてた作品で、学問の神様ということもあり、息子の誕生記念に購入したのですが、どうも他の人物の肖像の可能性もあります。「伝井伊直弼」と仮題にしました。
伝井伊直弼之図 狩野永岳筆
絹本着色軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦1940*横483 画サイズ:縦1045*横347
落款には「金門畫史 狩野縫殿助永岳洗手謹写」とあり、「永岳」の朱文白釣鐘印と「□□□」の白文朱方印が押印されています。
「金門畫史」とあることから、57歳(1847年)以降の作品と推察されます。こういうことは掛け軸を購入するときには知識として必要です。
井伊家の菩堤寺である清凉寺に伝わる「井伊直弼」の肖像画は永岳が画いたとされ、本作品は同じく「井伊直弼」を描いた作品可能性があります。そうであれば、安政7年(1860年)に井伊直弼が暗殺されており、その前後の作品ではないかとも推察されますが、描かれている人物が少し老けているのが気にかかります
数多くの肖像画を狩野永岳が描いており、本作品を井伊直弼像とするか否かは後学とします。「九条尚忠」を描いた作品である可能性もありますが、誰の肖像か、はたまた菅原道真像か今のところ判断できかねています。
どなたか詳しい方がおられれば、ご指導をお願いします。
数多くの掛け軸から真作を探し出すひとつの方法に表具の感触というものがあります。良き家に伝わった表具は巻いた状態で触ってみてすぐにある程度はわかります。
この表具は「この梅は梅鉢紋様というのよ。少なくとも表具は菅原道真を意識しているわね。井伊家の家紋は井桁か橘よ。」と朝食を食べながらの小生は家内から薫陶を受けてしまいました・・・
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狩野永岳:(かのう えいがく)寛政2年(1790年)〜 慶応3年1月2日(1867年2月6日))。江戸時代後期に京都を中心に活躍した画家。京狩野家9代。低迷する京狩野家を再興した。永岳(永嶽)は諱。初名は泰助、字を公嶺。山梁、晩翠、脱庵などと号した。代々の通称、縫殿助(ぬいのすけ)を名乗った。父は京狩野の絵師・影山洞玉(後の狩野永章)、弟は狩野永泰で、その子が冷泉為恭。早くに才能を見いだされ京狩野8代・狩野永俊の養子となり、文化13年(1816年)永俊が没すると27歳で家督を継いだ。
初代・狩野山楽の末裔であることを誇りとし、箱書きや落款に「山楽九世孫」としたためている。山楽や二代・山雪の画を熱心に学び、桃山風の画風を基本とした。その上で、当時京都で人気を博していた四条派の画風を積極的にとり入れている。この他にも江戸中期に来日した沈南蘋の流れを汲む長崎派や、谷文晁によって広まった北宗画や文人画、宗達・光琳の装飾的な琳派、甥にあたる冷泉為恭から復古大和絵を直接学んだ。京狩野家は代々九条家と関係が深く、永岳33歳の時、画を好む九条尚忠の家来となった。嘉永6年(1853年)、尚忠が左大臣の公務で江戸に下ったとき、これに同行し富士山を実見し「富士百幅」を描いている。
永岳の代になって京狩野は紀州徳川家と彦根井伊家の御用絵師も務めるようになった。井伊家の菩堤寺である清凉寺に伝わる井伊直弼の肖像画は永岳が画いたとされる。57歳にして禁裏(朝廷)御絵師御次席となってから落款に「金門画史」・「金門画院第一史」と記すこともあった。66歳のとき禁裏の安政度造営が行われ多くの障壁画の制作にあたっている。臨済宗妙心寺には永岳の作品が多く残り、とりわけ隣華院客殿障壁画は永岳の代表作といえる。同じく臨済宗大徳寺にも頂相など多数の作品が残されている。東本願寺にも大障壁画を手掛けたがのちに焼失した。本願寺を通じて地方の別院にも永岳の作品が多数見られる。
この他にも永岳は多くパトロンをもち、京都はいうに及ばず長浜や飛騨高山にも足を伸ばし、富商や富農の求めに応じて絵を画いた。禁裏の御用絵師とはいえ、永岳が家督を継いだ頃の京狩野派は、土佐派や鶴沢派の後塵を拝し不遇な立場にあった。なおかつ江戸後期には伝統的な画派は勢力を弱め、特色を持った新興の画派が台頭していた。永岳は生き残りを掛け京狩野の伝統を革新させ、特色を打ち出すことに成功する。長寿であったことも幸いして京都画壇では重鎮として扱われた。京焼の永楽保全なども永岳に画を習ったという。享年78。
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井伊直弼:(いい-なおすけ) 1815−1860 幕末の大名。文化12年10月29日生まれ。井伊直中(なおなか)の14男。兄直亮(なおあき)のあと,嘉永(かえい)3年近江(おうみ)(滋賀県)彦根藩主井伊家15代となる。安政5年大老。13代将軍徳川家定の継嗣問題や,開国か攘夷(じょうい)かで前水戸藩主徳川斉昭らと対立。日米修好通商条約を勅許をえずに調印,将軍継嗣を和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))にきめた。一橋慶喜を推して反対する斉昭ら一橋派や尊攘派を弾圧(安政の大獄)したため,桜田門外で安政7年3月3日水戸・薩摩の浪士らに暗殺された(桜田門外の変)。享年46歳。号は宗観(そうかん)。著作に「茶湯一会集」など。
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