奥原晴湖の作品は、先日の大宮の安楽寺の「明治慶應一五〇年記念」の展覧会にも絵画が二作品出品されていました。「木戸孝允や山口容堂などの画会に出席、勝海舟が画室を訪ねたり、政界の名士たちとも親交を続け、宮中では皇后の前で揮毫もしています。」という画家であったので、明治期の立役者らとともに展示されたのでしょう。この展示会は本願寺でも開催されたもののようです。
「西の鉄斎、東の晴湖」とまで評価された奥原晴湖は女性です。明治時代に活躍した女流南画家です。近年になって再評価されている画家の一人のようです。二作品目の投稿となります。
生涯独身を貫き、性格は男勝りであったそうです。人柄さながらの大胆で筆致の力強い絵を描きます。自ら漢詩を作り、詩画が一体となった世界を描きます。
白雲松風之青緑山水図 奥原晴湖筆
絹本着色軸装 軸先木製 渡辺青嵐鑑定箱
全体サイズ:縦2040*横725 画サイズ:縦1300*横505
1905年(明治38年)の作品で奥原晴湖が68歳の頃の代表的な作品です。1913年に弟子の女流画家である渡辺青嵐が鑑定しています。
賛には「半壑(谷)松風一 灘流水白雲 度噸而不散 山勢楼升而未止」とあり、賛の末尾に「明治三十八年秋九月上浣晴湖併題於繍水草堂」とあります。
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「繍水草堂」は大正2年(1913)に晴湖は没し、画室「繍水草堂」であるは主を失います。そこで、晴湖のおいにあたる池田多喜雄氏によって昭和4年、誕生地である池田家の屋敷地内に移されました。平成20年、故奥原ミチ子氏の遺志により、奥原晴湖画室の寄附申し入れがあり、古河歴史博物館南側に移築いたしました。昭和4年に古河へ移築されたのは、熊谷にあった画室の一部ですが、移築工事にあたっては、すべてではありませんが、熊谷にあった当初のかたちをなるべく再現され、庭石の一部に、古河城の礎石が再利用されています。
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巻止には「先妣青古白雲松風之図 癸丑仲秋 晴嵐鍳題 押印」とあります。
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奥原晴湖(おくはらせいこ):(1837―1913)明治の女流南画家。本名は節子。下総古河藩家老職池田氏に生まれる。初め同藩の枚田水石に学び、のち明清諸家を研究し、とくに鄭板橋と費晴湖に私淑した。1865年(慶応1)奥原氏の養女となり、江戸に出て下谷摩利支天に住し、勤皇の志士や諸名流と交わりながら画名を高める。一時は門人300人を数えるほどに流行したが、南画衰退の時流に伴って91年(明治24)中央画壇を去り、熊谷在川上(埼玉県)に隠棲(いんせい)した。粗放な筆致による墨画山水は明治の南画の特色をよく表している。当時としては異例の断髪にするなど、風采および性格ともに男性的で、逸話の多い女性であった。
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渡辺晴嵐:明治・大正期 安政2(1855)年7月30日〜大正7(1918)年7月29日 明治・大正期の日本女流画家で師は奥原晴湖。
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補足
「奥原晴湖」:岡倉天心が師事した、幕末から明治にかけての女流絵師。南画(文人画)家ですが、閨秀画家という肩書からはちょっと想像できない画家で、男子に”散髪脱刀令”が出た時、すぐさま自分も日本髪を断髪したそうです。晴湖は幕末に古河藩士の娘として生まれます。藩内で、漢学と絵を学び、29歳で江戸に出ます。当時、古河藩では女性が一人で江戸に入ることは許されなかったため、別藩の伯父の養女となって出ていったそうです。上野に住み画塾を設て、多くの文人たち(男性がほとんど)と交流しています。奥原晴湖の絵は、ずいぶん人気が高かったようで、江戸では300人もの門弟がいたそうです。
木戸孝允や山口容堂などの画会に出席、勝海舟が画室を訪ねたり、政界の名士たちとも親交を続け、宮中では皇后の前で揮毫もしています。明治の中期、フェノロサの「文人画批判」が契機になり、”南画”の人気が衰退していきます。維新は絵の世界でも変革期でした。西洋画の影響を受け、日本画の世界にも激動の波が押し寄せます。そんな中で、晴湖は、江戸を離れ熊谷に隠棲、77歳で亡くなるまで、喧騒からへだたった場所で自分の絵を描き続けます。
透明感のある彩色と隅々までの細かい筆致、のびやかな人物描写が特徴の密画で、雄大な自然を描いています。澄み切った光と空気を感じさせてくる作品です。文人の理想境を描いたもの。山中の松や渓流の流れが自在な筆でゆらぎながらのびやかに描かれています。
明治期からの南画の衰退やフェノロサの南画批判受けながらも、それに反発するかのように鷹揚で自由な表現を世に問うた画家です。
「西の鉄斎、東の晴湖」とまで評価された奥原晴湖は女性です。明治時代に活躍した女流南画家です。近年になって再評価されている画家の一人のようです。二作品目の投稿となります。
生涯独身を貫き、性格は男勝りであったそうです。人柄さながらの大胆で筆致の力強い絵を描きます。自ら漢詩を作り、詩画が一体となった世界を描きます。
白雲松風之青緑山水図 奥原晴湖筆
絹本着色軸装 軸先木製 渡辺青嵐鑑定箱
全体サイズ:縦2040*横725 画サイズ:縦1300*横505
1905年(明治38年)の作品で奥原晴湖が68歳の頃の代表的な作品です。1913年に弟子の女流画家である渡辺青嵐が鑑定しています。
賛には「半壑(谷)松風一 灘流水白雲 度噸而不散 山勢楼升而未止」とあり、賛の末尾に「明治三十八年秋九月上浣晴湖併題於繍水草堂」とあります。
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「繍水草堂」は大正2年(1913)に晴湖は没し、画室「繍水草堂」であるは主を失います。そこで、晴湖のおいにあたる池田多喜雄氏によって昭和4年、誕生地である池田家の屋敷地内に移されました。平成20年、故奥原ミチ子氏の遺志により、奥原晴湖画室の寄附申し入れがあり、古河歴史博物館南側に移築いたしました。昭和4年に古河へ移築されたのは、熊谷にあった画室の一部ですが、移築工事にあたっては、すべてではありませんが、熊谷にあった当初のかたちをなるべく再現され、庭石の一部に、古河城の礎石が再利用されています。
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巻止には「先妣青古白雲松風之図 癸丑仲秋 晴嵐鍳題 押印」とあります。
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奥原晴湖(おくはらせいこ):(1837―1913)明治の女流南画家。本名は節子。下総古河藩家老職池田氏に生まれる。初め同藩の枚田水石に学び、のち明清諸家を研究し、とくに鄭板橋と費晴湖に私淑した。1865年(慶応1)奥原氏の養女となり、江戸に出て下谷摩利支天に住し、勤皇の志士や諸名流と交わりながら画名を高める。一時は門人300人を数えるほどに流行したが、南画衰退の時流に伴って91年(明治24)中央画壇を去り、熊谷在川上(埼玉県)に隠棲(いんせい)した。粗放な筆致による墨画山水は明治の南画の特色をよく表している。当時としては異例の断髪にするなど、風采および性格ともに男性的で、逸話の多い女性であった。
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渡辺晴嵐:明治・大正期 安政2(1855)年7月30日〜大正7(1918)年7月29日 明治・大正期の日本女流画家で師は奥原晴湖。
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補足
「奥原晴湖」:岡倉天心が師事した、幕末から明治にかけての女流絵師。南画(文人画)家ですが、閨秀画家という肩書からはちょっと想像できない画家で、男子に”散髪脱刀令”が出た時、すぐさま自分も日本髪を断髪したそうです。晴湖は幕末に古河藩士の娘として生まれます。藩内で、漢学と絵を学び、29歳で江戸に出ます。当時、古河藩では女性が一人で江戸に入ることは許されなかったため、別藩の伯父の養女となって出ていったそうです。上野に住み画塾を設て、多くの文人たち(男性がほとんど)と交流しています。奥原晴湖の絵は、ずいぶん人気が高かったようで、江戸では300人もの門弟がいたそうです。
木戸孝允や山口容堂などの画会に出席、勝海舟が画室を訪ねたり、政界の名士たちとも親交を続け、宮中では皇后の前で揮毫もしています。明治の中期、フェノロサの「文人画批判」が契機になり、”南画”の人気が衰退していきます。維新は絵の世界でも変革期でした。西洋画の影響を受け、日本画の世界にも激動の波が押し寄せます。そんな中で、晴湖は、江戸を離れ熊谷に隠棲、77歳で亡くなるまで、喧騒からへだたった場所で自分の絵を描き続けます。
透明感のある彩色と隅々までの細かい筆致、のびやかな人物描写が特徴の密画で、雄大な自然を描いています。澄み切った光と空気を感じさせてくる作品です。文人の理想境を描いたもの。山中の松や渓流の流れが自在な筆でゆらぎながらのびやかに描かれています。
明治期からの南画の衰退やフェノロサの南画批判受けながらも、それに反発するかのように鷹揚で自由な表現を世に問うた画家です。