お祝い会のあとで、浦和の図書館へ・・。駅前になんとナマハゲがいました。
幸紀はナマハゲを怖がらないようです、日頃から小生のナマハゲぶりで慣れているらしい
骨董蒐集はひとつのロマンです。掘り出し物、貴重品、あり得ない物などを探してはそれが望みを果たした時の喜びはまたひとしおです。まずはめったにそういうことにはならないものですし、なったように勘違いしているひとがほとんどで、そういう私もその一人です。
ここのところそういう作品が続いていますが、ブログの閲覧数と訪問数が低下傾向
でももともと整理が目的ですので、ブログの閲覧数や訪問者数を気にいていると、面白くかこうとか、真贋ばかり気になって記事がすすみません。
珍しい絵金(弘瀬金蔵)の狩野派次代の御用絵師だった頃の作品と推察されます。
友竹齋→弘瀬 金蔵→絵金→狩野派という連想のない人は買わないし、見落とす作品です。もしくはこちらの早とちり・・。
でも出来がいいものですね。
当時、狩野探幽の贋作製作の疑いにて嫌疑をかけられ、その刑に狩野派時代の作品をほとんど焼却されているため、真作なら貴重な作品と言えます。「友竹齋」の号はいつ頃に用いられていたかは不明です。狩野派の時代のも用いられ、50歳すぎた絵金時代にも用いられていましたようですが・・。
絵金と言えばおどろおどろしい舞台絵で有名ですが、150年余り無事に保存されてきた絵が、2010年12月熊本市美術館に貸し出ししていたところ、無知な燻蒸作業(絵金屏風絵変色問題)により著しく変色してしまいとりかえしのつかないことになってしまったことでも知られます。
秋景宮島之図 絵金(友竹齋)筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横726*縦1353 画サイズ:横594*縦417
非常に珍しい絵金(弘瀬金蔵)の狩野派時代の御用絵師だったことをうかがわせる作品です。
狩野探幽の贋作製作の疑いにて嫌疑をかけられ、その刑に狩野派時代の作品をほとんど焼却されているため、真作なら狩野派の特徴をうかがわせる貴重な作品と言えます。
「友竹齋」の号はいつ頃に用いられていたかは不明です。狩野派の時代にも用いられ、50歳すぎた絵金時代にも用いられていたようですが、詳細は不明です。
絵金と言えばおどろおどろしい舞台絵で有名ですが、150年余り無事に保存されてきた絵が、2010年12月熊本市美術館に貸し出ししていたところ、無知な燻蒸作業(絵金屏風絵変色問題)により著しく変色してしまいとりかえしのつかないことになってしまったことでも知られます。
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弘瀬 金蔵:(ひろせ きんぞう)文化9年10月1日(1812年11月4日)〜 明治9年(1876年)3月8日)。江戸時代末期から明治にかけての浮世絵師。本名は生前10回以上にわたり改名しているが一般には弘瀬金蔵の名で知られており、高知県下を中心に絵金(えきん)の愛称で親しまれている。
文化9年、高知城下に髪結い職人の子として生まれる。幼少の折から絵の才能で城下の評判となり、16歳で江戸に行き土佐江戸藩邸御用絵師・前村洞和に師事する。また幕府御用絵師・狩野洞益に師事したともいわれる。通常ならば10年はかかるとされる修行期間を足かけ3年で修了し、林 洞意(はやし とうい)の名を得て高知に帰郷、20歳にして土佐藩家老・桐間家の御用絵師となる。築地本願寺の輪番室には、「友竹齋」と落款のある狩野派と思われる金屏風の大きな絵があります。「友竹齋」は墓にも刻銘されています。
狩野探幽の贋作を描いた嫌疑を掛けられたことで職を解かれ高知城下所払いの処分となり、狩野派からは破門を言い渡される。その際、御用絵師として手がけた水墨画の多くが焼却された。洞意が実際に贋作を描いたかどうか真相は明らかではないが、習作として模写したものが古物商の手に渡り、町人の身分から若くして御用絵師に取り立てられた洞意に対する周囲の嫉妬により濡れ衣を着せられたのではないかと洞意を擁護する意見も存在する。
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これはよくあること・・、妬みからの嫌がらせは悪質で女々しいもの・・、サラリーマンにはよくあること。上司から謂れのないひどい成績をつけられたりという経験は私にもあります そういうことのないように成績のチェックは今も私の重要な仕事です。
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絵金蔵(高知県香南市)高知城下を離れて町医者から弘瀬姓を買い取った後の足取りには不明な点が多いが、慶応年間より叔母を頼って赤岡町(現・香南市)に定住し「町絵師・金蔵」を名乗り、地元の農民や漁民に頼まれるがままに芝居絵や台提灯絵、絵馬、凧絵などを数多く描き「絵金」の愛称で親しまれた。
この時期の猥雑、土俗的で血みどろの芝居絵は特に人気が高く、現在も赤岡では毎年7月に各家が屏風絵を開陳する「土佐赤岡絵金祭り」が開かれている。
大政奉還の後は生まれ故郷の高知に戻るが、1873年に中風を患い右手の自由が利かなくなったため左手で絵を描き続けた。1876年3月8日死去。享年65。
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「宮島」というのは秋田県男鹿市にもある島ですよ。
成績のチェックは重要な仕事ですが、常に公平に見られる人、幹部の候補を育てあがられる人が最終チェックをしていなくてはなりません。各分野を統率する人・・、なかなか成績を見せようとしない・・、己の権限ゆえ・・、ただここが会社の行く末の肝どころ
幸紀はナマハゲを怖がらないようです、日頃から小生のナマハゲぶりで慣れているらしい
骨董蒐集はひとつのロマンです。掘り出し物、貴重品、あり得ない物などを探してはそれが望みを果たした時の喜びはまたひとしおです。まずはめったにそういうことにはならないものですし、なったように勘違いしているひとがほとんどで、そういう私もその一人です。
ここのところそういう作品が続いていますが、ブログの閲覧数と訪問数が低下傾向
でももともと整理が目的ですので、ブログの閲覧数や訪問者数を気にいていると、面白くかこうとか、真贋ばかり気になって記事がすすみません。
珍しい絵金(弘瀬金蔵)の狩野派次代の御用絵師だった頃の作品と推察されます。
友竹齋→弘瀬 金蔵→絵金→狩野派という連想のない人は買わないし、見落とす作品です。もしくはこちらの早とちり・・。
でも出来がいいものですね。
当時、狩野探幽の贋作製作の疑いにて嫌疑をかけられ、その刑に狩野派時代の作品をほとんど焼却されているため、真作なら貴重な作品と言えます。「友竹齋」の号はいつ頃に用いられていたかは不明です。狩野派の時代のも用いられ、50歳すぎた絵金時代にも用いられていましたようですが・・。
絵金と言えばおどろおどろしい舞台絵で有名ですが、150年余り無事に保存されてきた絵が、2010年12月熊本市美術館に貸し出ししていたところ、無知な燻蒸作業(絵金屏風絵変色問題)により著しく変色してしまいとりかえしのつかないことになってしまったことでも知られます。
秋景宮島之図 絵金(友竹齋)筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横726*縦1353 画サイズ:横594*縦417
非常に珍しい絵金(弘瀬金蔵)の狩野派時代の御用絵師だったことをうかがわせる作品です。
狩野探幽の贋作製作の疑いにて嫌疑をかけられ、その刑に狩野派時代の作品をほとんど焼却されているため、真作なら狩野派の特徴をうかがわせる貴重な作品と言えます。
「友竹齋」の号はいつ頃に用いられていたかは不明です。狩野派の時代にも用いられ、50歳すぎた絵金時代にも用いられていたようですが、詳細は不明です。
絵金と言えばおどろおどろしい舞台絵で有名ですが、150年余り無事に保存されてきた絵が、2010年12月熊本市美術館に貸し出ししていたところ、無知な燻蒸作業(絵金屏風絵変色問題)により著しく変色してしまいとりかえしのつかないことになってしまったことでも知られます。
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弘瀬 金蔵:(ひろせ きんぞう)文化9年10月1日(1812年11月4日)〜 明治9年(1876年)3月8日)。江戸時代末期から明治にかけての浮世絵師。本名は生前10回以上にわたり改名しているが一般には弘瀬金蔵の名で知られており、高知県下を中心に絵金(えきん)の愛称で親しまれている。
文化9年、高知城下に髪結い職人の子として生まれる。幼少の折から絵の才能で城下の評判となり、16歳で江戸に行き土佐江戸藩邸御用絵師・前村洞和に師事する。また幕府御用絵師・狩野洞益に師事したともいわれる。通常ならば10年はかかるとされる修行期間を足かけ3年で修了し、林 洞意(はやし とうい)の名を得て高知に帰郷、20歳にして土佐藩家老・桐間家の御用絵師となる。築地本願寺の輪番室には、「友竹齋」と落款のある狩野派と思われる金屏風の大きな絵があります。「友竹齋」は墓にも刻銘されています。
狩野探幽の贋作を描いた嫌疑を掛けられたことで職を解かれ高知城下所払いの処分となり、狩野派からは破門を言い渡される。その際、御用絵師として手がけた水墨画の多くが焼却された。洞意が実際に贋作を描いたかどうか真相は明らかではないが、習作として模写したものが古物商の手に渡り、町人の身分から若くして御用絵師に取り立てられた洞意に対する周囲の嫉妬により濡れ衣を着せられたのではないかと洞意を擁護する意見も存在する。
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これはよくあること・・、妬みからの嫌がらせは悪質で女々しいもの・・、サラリーマンにはよくあること。上司から謂れのないひどい成績をつけられたりという経験は私にもあります そういうことのないように成績のチェックは今も私の重要な仕事です。
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絵金蔵(高知県香南市)高知城下を離れて町医者から弘瀬姓を買い取った後の足取りには不明な点が多いが、慶応年間より叔母を頼って赤岡町(現・香南市)に定住し「町絵師・金蔵」を名乗り、地元の農民や漁民に頼まれるがままに芝居絵や台提灯絵、絵馬、凧絵などを数多く描き「絵金」の愛称で親しまれた。
この時期の猥雑、土俗的で血みどろの芝居絵は特に人気が高く、現在も赤岡では毎年7月に各家が屏風絵を開陳する「土佐赤岡絵金祭り」が開かれている。
大政奉還の後は生まれ故郷の高知に戻るが、1873年に中風を患い右手の自由が利かなくなったため左手で絵を描き続けた。1876年3月8日死去。享年65。
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「宮島」というのは秋田県男鹿市にもある島ですよ。
成績のチェックは重要な仕事ですが、常に公平に見られる人、幹部の候補を育てあがられる人が最終チェックをしていなくてはなりません。各分野を統率する人・・、なかなか成績を見せようとしない・・、己の権限ゆえ・・、ただここが会社の行く末の肝どころ