松竹梅図茶巾筒 古清水焼
口径48*底径65*高さ75
松竹梅の紋様は三つとも寒さに耐えるところから、歳寒の三友とよび、めでたいものとして慶事に使われます。洒落としてはウナギ屋で長時間待たされることを「待つ(松)だけ(竹)うめ(梅)え」として使われます。
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古清水:制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前の、また、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。 なお、京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。 古清水の名で呼ばれる、緑・紺色の色釉を用いた色絵陶器や、それらに赤・金彩などの色釉で絵付けされた色絵陶器は京都らしい優雅な情感にあふれています。全体に淡い卵色の肌に細かいヒビが入り柔らかい風合いを持っています。
誕生の背景には、安土桃山時代から京の商人が岐阜県東濃地方の美濃焼を購入する為に文化交流が盛んあったことがあります。岐阜県土岐市の陶磁器資料館にも卸問屋の帳簿に記載が有ります。江戸後期になって,清水焼の需要が増えた為に生産が追いつかなかったようです。その理由は瀬戸や美濃の窯数は膨大な数に対して清水はわずかな窯しかなくて生産の対応ができなかったことによります。そのために美濃の素焼きを京の商人が購入して,清水で絵付けのみ清水で対応したようです。古清水焼は美濃焼と良く似ている為に間違えやすいのはこのためです。江戸時代の古清水焼は伝世品の品数が極めて少なく、この作品を古清水焼と混同しやすいようです。
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補足説明
仁清は1656‐57年(明暦2‐3)ごろから本格的な色絵陶器を焼造した。その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水(こきよみず)〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成された。一方,1699年(元禄12)仁清の陶法を伝授され洛西鳴滝の泉山に窯を開いた尾形深省(尾形乾山)は,兄光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し,〈乾山(けんざん)焼〉として広く知られた。
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口径48*底径65*高さ75
松竹梅の紋様は三つとも寒さに耐えるところから、歳寒の三友とよび、めでたいものとして慶事に使われます。洒落としてはウナギ屋で長時間待たされることを「待つ(松)だけ(竹)うめ(梅)え」として使われます。
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古清水:制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前の、また、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。 なお、京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。 古清水の名で呼ばれる、緑・紺色の色釉を用いた色絵陶器や、それらに赤・金彩などの色釉で絵付けされた色絵陶器は京都らしい優雅な情感にあふれています。全体に淡い卵色の肌に細かいヒビが入り柔らかい風合いを持っています。
誕生の背景には、安土桃山時代から京の商人が岐阜県東濃地方の美濃焼を購入する為に文化交流が盛んあったことがあります。岐阜県土岐市の陶磁器資料館にも卸問屋の帳簿に記載が有ります。江戸後期になって,清水焼の需要が増えた為に生産が追いつかなかったようです。その理由は瀬戸や美濃の窯数は膨大な数に対して清水はわずかな窯しかなくて生産の対応ができなかったことによります。そのために美濃の素焼きを京の商人が購入して,清水で絵付けのみ清水で対応したようです。古清水焼は美濃焼と良く似ている為に間違えやすいのはこのためです。江戸時代の古清水焼は伝世品の品数が極めて少なく、この作品を古清水焼と混同しやすいようです。
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補足説明
仁清は1656‐57年(明暦2‐3)ごろから本格的な色絵陶器を焼造した。その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水(こきよみず)〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成された。一方,1699年(元禄12)仁清の陶法を伝授され洛西鳴滝の泉山に窯を開いた尾形深省(尾形乾山)は,兄光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し,〈乾山(けんざん)焼〉として広く知られた。
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