本日からしばし背景はトナカイ犬ならぬバグ犬になりました。小生の初代パグの愛犬「ダイゴロウ」よりはかわいくないな〜
本日の画家の谷文一は、文人画家谷文晁(ぶんちょう)の娘婿です。円山派をとりいれた独自の画風をしめしましたが、文化15年3月8日文晁に先だって死去。32歳で世を去った谷文晁の後継者として将来を嘱望された画家です。
本日の画題は、本ブログでおなじみの「鐘馗」様です。ちと季節はずれですね。こんなサンタクロースがきたら、尻込みしそうです。
「鐘馗」様については、詳細は当方のブログなどを参考にしてください。「鐘馗」様の謂れくらいは知っていないといけませんよ。
鐘馗図 谷文一筆
絹本水墨着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1980*横580 画サイズ:縦1290*横410
谷文一は遺されている作品も少なく、あまり見かけることがないように思われます。
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谷 文一(たに ぶんいち):天明6年(1786年)〜 文化15年3月18日(1818年4月23日)。江戸時代後期の日本の画家です。谷文晁の後継者として将来を嘱望されたが三十代で亡くなっています。今後の活躍が期待されていましたので、誠に残念です。
賛には「文化□季五月端午文一作 押印」とありますが、文化?年のことでしょうか?
号は痴斎、名を文一郎、通称は権太郎と称しました。町医師・利光寛造(号:澹斎)の次男として江戸薬研堀に生まれ、3歳のころより画を好み、文晁に師事するうちに才能を見いだされました。
文晁の長女・宣子の夫として谷家の養嗣子となりました。花鳥画、山水画、人物画などに優れたな才能を示しました。
円山応挙の門弟渡辺南岳が江戸に移ってくると文晁の指示で入門し円山派の画法も修学しました。
享和3年(1803年)、定信の命を受けて文晁を中心に、岡本茲奘・星野文良・蒲生羅漢とともに「石山寺縁起絵巻」の模本製作および欠落した巻の補作を行いました。
享年32。浅草清島町源空寺に葬られる。妻の宣子はその後薙髪して亡夫を弔っています。
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谷文晁は器用貧乏のようなところがありますが、文晁よりも絵はうまいかもしれません。
本作品もその技量の確かさがうかがいしれる作品と思います。
谷 文二について・・・・・
ところで、谷文晁の後継者の後継者としてはもう一人、谷 文二(たに ぶんじ、文化9年(1812年) - 嘉永3年5月15日(1850年6月24日))がいます。こちらも谷文晁の後継者として将来を嘱望されましたが、同じく若くして歿しています。
号は萍所、名を義宣、通称は文二郎と称しました。谷文晁の長男で、後妻 阿佐子との間に生まれています。
画は文晁に指導を受け、才能は義兄 文一に劣ったものの文晁の秘蔵っ子として寵愛を受けました。そのためか、我が侭に育ち直情的な性質だったようです。
遊女と役者を極端に嫌い、得意客であっても棍棒を投げて追い返したほどだったと伝えられます。 享年39。浅草清島町源空寺に葬られる。子に文中(文晁の孫)がいます。
養子をとってからの実子・・、そして早死に・・、後継者はうまく育たなかったようです。
世襲の難しいところですね。
本日の画家の谷文一は、文人画家谷文晁(ぶんちょう)の娘婿です。円山派をとりいれた独自の画風をしめしましたが、文化15年3月8日文晁に先だって死去。32歳で世を去った谷文晁の後継者として将来を嘱望された画家です。
本日の画題は、本ブログでおなじみの「鐘馗」様です。ちと季節はずれですね。こんなサンタクロースがきたら、尻込みしそうです。
「鐘馗」様については、詳細は当方のブログなどを参考にしてください。「鐘馗」様の謂れくらいは知っていないといけませんよ。
鐘馗図 谷文一筆
絹本水墨着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1980*横580 画サイズ:縦1290*横410
谷文一は遺されている作品も少なく、あまり見かけることがないように思われます。
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谷 文一(たに ぶんいち):天明6年(1786年)〜 文化15年3月18日(1818年4月23日)。江戸時代後期の日本の画家です。谷文晁の後継者として将来を嘱望されたが三十代で亡くなっています。今後の活躍が期待されていましたので、誠に残念です。
賛には「文化□季五月端午文一作 押印」とありますが、文化?年のことでしょうか?
号は痴斎、名を文一郎、通称は権太郎と称しました。町医師・利光寛造(号:澹斎)の次男として江戸薬研堀に生まれ、3歳のころより画を好み、文晁に師事するうちに才能を見いだされました。
文晁の長女・宣子の夫として谷家の養嗣子となりました。花鳥画、山水画、人物画などに優れたな才能を示しました。
円山応挙の門弟渡辺南岳が江戸に移ってくると文晁の指示で入門し円山派の画法も修学しました。
享和3年(1803年)、定信の命を受けて文晁を中心に、岡本茲奘・星野文良・蒲生羅漢とともに「石山寺縁起絵巻」の模本製作および欠落した巻の補作を行いました。
享年32。浅草清島町源空寺に葬られる。妻の宣子はその後薙髪して亡夫を弔っています。
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谷文晁は器用貧乏のようなところがありますが、文晁よりも絵はうまいかもしれません。
本作品もその技量の確かさがうかがいしれる作品と思います。
谷 文二について・・・・・
ところで、谷文晁の後継者の後継者としてはもう一人、谷 文二(たに ぶんじ、文化9年(1812年) - 嘉永3年5月15日(1850年6月24日))がいます。こちらも谷文晁の後継者として将来を嘱望されましたが、同じく若くして歿しています。
号は萍所、名を義宣、通称は文二郎と称しました。谷文晁の長男で、後妻 阿佐子との間に生まれています。
画は文晁に指導を受け、才能は義兄 文一に劣ったものの文晁の秘蔵っ子として寵愛を受けました。そのためか、我が侭に育ち直情的な性質だったようです。
遊女と役者を極端に嫌い、得意客であっても棍棒を投げて追い返したほどだったと伝えられます。 享年39。浅草清島町源空寺に葬られる。子に文中(文晁の孫)がいます。
養子をとってからの実子・・、そして早死に・・、後継者はうまく育たなかったようです。
世襲の難しいところですね。