「猿公」はエテ公(猿公)と読みます。「猿」が「忌み言葉」であることからあてがわれた読み方『えて(得る)』と、対象となる人物に親しみを込めたり、卑しめるときに使われる俗語『公』から成るもので、猿を擬人化した言い回しだそうです。
エテ公の『公』が親しみを込めて使う場合と卑しみを込めて使う場合があるように、エテ公も使われる状況によって込められる意味合いは変わってくるようです。現代では相手を侮辱する言葉という悪いイメージが強いですが、もともとは親しみを込めた言葉であったそうです。
「忌み言葉」とはいわゆる禁句のことで、受験生に対しての「落ちる」「すべる」がそれにあたる。猿(サル)の場合は「去る」に通じるため、商家を中心に朝の忌み言葉とされています。
「さる」という言葉から「悪いことが去る」ということから「猿」は魔除けとしてあがめられることもあります。
狙仙の跡継ぎではあったが、狙仙の画風とは異なり、完全に円山派の画風によった画家です。その作風を伝えるのにはふさわしい作品かと思います。
瀧ニ猿公図 森徹山筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 添状付二重箱
全体サイズ:縦1960*横510 画サイズ:縦110*横345
「瀧」と「猿」の組み合わせはどういう意図なのでしょうかね?
五猿は「御縁」にも通じる縁起題材としてありますが・・。五匹の猿「五猿」は「御縁」に通じることから、縁事にツキがある題材としてもてはやされています。結納や婚礼の祝いなどに掛け軸が掛けられますが・・??
瀧といえば「養老の瀧」・・美濃の国に伝えられる孝行息子の逸話にまつわる話です。
「親の看病をしながら仕事に精を出す孝行息子に目を留めた神様が、不老の酒を与えて楽をさせてあげようと滝の水を酒に変えた。その水を汲んだ孝行息子が驚いて老父に飲ませたところ、不治の病が治り十歳も若返ったという。その噂を聞きつけた元正天皇がその息子の孝行振りを高く評価し、美濃守(領主)に抜擢。今までと変わらぬ誠実さで治めた国は豊かになり、父親とともに末永く幸せに暮らしたという「養老の滝」の逸話」。実直こそが出世栄達の本道といわれる題材ですが・・・???
親子猿に瀧・・・????
森徹山:生年: 安永4 (1775)〜没年: 天保12.5.6 (1841.6.24)。 江戸後期の四条派の画家。大坂の人。大坂生。名は守真、字は子玄・子真、徹山は号。森狙仙の兄周峰の子、森狙仙の兄の周峯の子で,狙仙の養子となった。
父及び円山応挙に学び、応挙門下十哲の一人。狙仙の勧めで、晩年の円山応挙について画を学んだ。応挙十哲のひとり。
狸などを飼って、その写生に励み、動物画家として名をなした。また好んで獅子、虎などを描いた。狙仙の跡継ぎではあったが、狙仙の画風とは異なり、完全に円山派の画風によった。大坂に住んで京都と行き来し、円山派を大坂にひろめた。また江戸へ下り、京風の画を江戸に伝えた。
のち大坂に帰り、熊本藩主細川氏の藩臣となる。謹直、子ぼんのうで、子供の着物の模様の下絵を自ら描いたりしたという。門人の森一鳳,森寛斎は義子。67歳で没し、京都の帰命院に葬られた。代表作に「双牛図屏風」(東京国立博物館蔵),「千羽鶴図屏風」(プライス・コレクション)などがある。
補足説明
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大坂船町(現在の大阪市大正区)で、森周峰の子として生まれる。寛政2年(1790年)徹山16歳時の『浪華郷友録』では、森周峰、森狙仙の次に徹山の名も記載されており、既に狙仙の養子となり、名の知られた絵師だったことがわかる。
狙仙の勧めで、晩年の円山応挙について画を学び、寛政7年(1795年)の大乗寺障壁画制作では、わずか21歳で小画面ながら『山雀図』を描いている。徹山の妻はゑんといって京都の仏師・田中弘教利常の娘だったが、ゑんの姉・幸は応挙のあとを継いだ円山応瑞の妻であり、徹山と応瑞は義兄弟といえる。
大坂に住み、しばしば木村蒹葭堂宅を訪ねている。また、大坂と京都と行き来し、円山派を大坂にひろめた。67歳で病没。墓は京都の帰命院と、大阪の西福寺にある。
画風は実父・周峰から学んだ狩野派と、養父・狙仙ゆずりの動物写生に円山派の写実を加味し、情緒性に富むのが特色である。
特に動物画を得意とし、狙仙のように猿だけでなく、あまり描かれない動物も巧みに描いている。応挙と応瑞の指導も受け、天保3年(1832)から9年間、京都御所の御用絵師を勤めるほど、有名になりました。本当に周峰と狙仙を合わせたような画風で、禁裏(きんり=皇居)のふすま絵や屏風等も描いています。
徹山には二子がいたが、共に妻の実家・田中家の養子となり、仏師となったため森派を継がなかった。弟子に婿養子となった森一鳳、養子となった森寛斎、他に森雄山、和田呉山など。
森祖(狙)仙から森徹山、森一鳳へと続く森派は、繊細な毛描きによる動物画を得意とし、近世大坂画壇における写生画派の代表として、重要な位置を占めていた。徹山は森派を継承した写生的で抒情性に富んだ作風といえる。
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エテ公の『公』が親しみを込めて使う場合と卑しみを込めて使う場合があるように、エテ公も使われる状況によって込められる意味合いは変わってくるようです。現代では相手を侮辱する言葉という悪いイメージが強いですが、もともとは親しみを込めた言葉であったそうです。
「忌み言葉」とはいわゆる禁句のことで、受験生に対しての「落ちる」「すべる」がそれにあたる。猿(サル)の場合は「去る」に通じるため、商家を中心に朝の忌み言葉とされています。
「さる」という言葉から「悪いことが去る」ということから「猿」は魔除けとしてあがめられることもあります。
狙仙の跡継ぎではあったが、狙仙の画風とは異なり、完全に円山派の画風によった画家です。その作風を伝えるのにはふさわしい作品かと思います。
瀧ニ猿公図 森徹山筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 添状付二重箱
全体サイズ:縦1960*横510 画サイズ:縦110*横345
「瀧」と「猿」の組み合わせはどういう意図なのでしょうかね?
五猿は「御縁」にも通じる縁起題材としてありますが・・。五匹の猿「五猿」は「御縁」に通じることから、縁事にツキがある題材としてもてはやされています。結納や婚礼の祝いなどに掛け軸が掛けられますが・・??
瀧といえば「養老の瀧」・・美濃の国に伝えられる孝行息子の逸話にまつわる話です。
「親の看病をしながら仕事に精を出す孝行息子に目を留めた神様が、不老の酒を与えて楽をさせてあげようと滝の水を酒に変えた。その水を汲んだ孝行息子が驚いて老父に飲ませたところ、不治の病が治り十歳も若返ったという。その噂を聞きつけた元正天皇がその息子の孝行振りを高く評価し、美濃守(領主)に抜擢。今までと変わらぬ誠実さで治めた国は豊かになり、父親とともに末永く幸せに暮らしたという「養老の滝」の逸話」。実直こそが出世栄達の本道といわれる題材ですが・・・???
親子猿に瀧・・・????
森徹山:生年: 安永4 (1775)〜没年: 天保12.5.6 (1841.6.24)。 江戸後期の四条派の画家。大坂の人。大坂生。名は守真、字は子玄・子真、徹山は号。森狙仙の兄周峰の子、森狙仙の兄の周峯の子で,狙仙の養子となった。
父及び円山応挙に学び、応挙門下十哲の一人。狙仙の勧めで、晩年の円山応挙について画を学んだ。応挙十哲のひとり。
狸などを飼って、その写生に励み、動物画家として名をなした。また好んで獅子、虎などを描いた。狙仙の跡継ぎではあったが、狙仙の画風とは異なり、完全に円山派の画風によった。大坂に住んで京都と行き来し、円山派を大坂にひろめた。また江戸へ下り、京風の画を江戸に伝えた。
のち大坂に帰り、熊本藩主細川氏の藩臣となる。謹直、子ぼんのうで、子供の着物の模様の下絵を自ら描いたりしたという。門人の森一鳳,森寛斎は義子。67歳で没し、京都の帰命院に葬られた。代表作に「双牛図屏風」(東京国立博物館蔵),「千羽鶴図屏風」(プライス・コレクション)などがある。
補足説明
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大坂船町(現在の大阪市大正区)で、森周峰の子として生まれる。寛政2年(1790年)徹山16歳時の『浪華郷友録』では、森周峰、森狙仙の次に徹山の名も記載されており、既に狙仙の養子となり、名の知られた絵師だったことがわかる。
狙仙の勧めで、晩年の円山応挙について画を学び、寛政7年(1795年)の大乗寺障壁画制作では、わずか21歳で小画面ながら『山雀図』を描いている。徹山の妻はゑんといって京都の仏師・田中弘教利常の娘だったが、ゑんの姉・幸は応挙のあとを継いだ円山応瑞の妻であり、徹山と応瑞は義兄弟といえる。
大坂に住み、しばしば木村蒹葭堂宅を訪ねている。また、大坂と京都と行き来し、円山派を大坂にひろめた。67歳で病没。墓は京都の帰命院と、大阪の西福寺にある。
画風は実父・周峰から学んだ狩野派と、養父・狙仙ゆずりの動物写生に円山派の写実を加味し、情緒性に富むのが特色である。
特に動物画を得意とし、狙仙のように猿だけでなく、あまり描かれない動物も巧みに描いている。応挙と応瑞の指導も受け、天保3年(1832)から9年間、京都御所の御用絵師を勤めるほど、有名になりました。本当に周峰と狙仙を合わせたような画風で、禁裏(きんり=皇居)のふすま絵や屏風等も描いています。
徹山には二子がいたが、共に妻の実家・田中家の養子となり、仏師となったため森派を継がなかった。弟子に婿養子となった森一鳳、養子となった森寛斎、他に森雄山、和田呉山など。
森祖(狙)仙から森徹山、森一鳳へと続く森派は、繊細な毛描きによる動物画を得意とし、近世大坂画壇における写生画派の代表として、重要な位置を占めていた。徹山は森派を継承した写生的で抒情性に富んだ作風といえる。
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