ブログの訪問者数・・、どうもアクセスしてくれた人の数(延べではないらしい)らしいのですが、今までは多くとも一日の訪問者数は250人であったのが、多いときで450人になってきました。どうしたのでしょう??
本来、本ブログは専門的な分野の投稿ですが、同じ趣味とする方が多いということでしょうか?
ヤフーのブログの件数は全部で196万件あるらしいですが、そのうちの2000番以内に入ってきました。骨董に興味のある方でもかなりマイナーな分野のブログですが、読まれる方が多くなるのは嬉しいことです。
家内のブログは1か月以上投稿していないのにコンスタントに150人以上の方がアクセスしている・・
週末は実家にて静養中?の家内を表敬訪問、ついでにリニューアル完了の確認
こんないい天気の時も仕事かいな
おまけに次の案件の下見・・・
さて、本日は10作品目となりました藤井達吉の作品です。
少し赤みがかった和紙に描かれた水墨画ですが、藤井達吉の真骨頂という作品です。
藤井達吉の作品は弟子の「栗木伎茶夫」らの鑑定箱が多いのですが、名古屋の徳川美術館の館長であった「熊澤五六」の鑑定箱は珍しいと思います。
疎林図 藤井達吉筆
紙本水墨軸装軸先陶器 熊澤五六鑑定箱
全体サイズ:縦1260*横370 画サイズ:縦445*横335
ところで題名の「疎林」の定義をご存知でしょうか?
「疎林(そりん):樹木の枝・葉の密度が薄い森林のことを指す。通常の森林であれば連続して影が作られるが、疎林では太陽光が木々の間から、地面まで差し込んでくる。
疎林が成立するのは、植物の生育条件としてよくない点がある場合であることが多い。たとえば土壌の栄養分が乏しく、乾燥、酷寒、強風などの厳しい気候、あるいは樹木を傷める動物や昆虫などにさらされている場合である。」とあります。
今回の題名は「立ち木がまばらな様」と簡単に解釈していいでしょうが、日本の山林が「疎林」ばかりになっては困りますね。
藤井達吉:1881−1964明治-昭和時代の工芸家。明治14年6月6日生まれ。名古屋で七宝店につとめたのち美術工芸の道をこころざし,新感覚の染織,紙工芸などを発表する。工芸革新運動にもくわわり,昭和2年帝展工芸部誕生の推進力となる。小原工芸和紙や瀬戸の陶芸も指導した。昭和39年8月27日死去。83歳。愛知県出身。
熊澤五六:名古屋の徳川美術館の館長。京都帝大の経済学の河上肇教授(第二貧乏物語で有名な学者)に学び、その後美学美術史に転進した。父は医師で画家の熊澤古蓬です。
藤井達吉について
***********************************
藤井達吉は明治14(1881)年、愛知県碧海郡棚尾村に生まれました。現在の碧南市棚尾地区です。幼い頃から手先が器用で、“針吉”“凧吉”とも呼ばれていたそうです。明治25(1892)年に棚尾小学校を卒業すると、木綿問屋の尾白商会に奉公に出ました。この会社では朝鮮半島で砂金を金塊へ鋳造する仕事などもしました。帰国後美術学校への進学希望を父親に伝えますが許されず、名古屋の服部七宝店に入社します。ここでは米国でも有数の美術館であるボストン美術館で東西の美術作品を目にする機会を得ました。セントルイス万博で仕事をするために明治37(1904)年に渡米したからです。米国でみた美術作品に触発されたのか、日本に帰った藤井は服部七宝店を退職し、上京します。ここから美術工芸家としてのキャリアが始まりました。明治38(1905)年のことでした。
明治の終わりから大正時代にかけての藤井は、吾楽会、フュウザン会、装飾美術家協会、日本美術家協会、无型などの前衛的なグループに参加して当時の気鋭の画家・彫刻家・工芸家と親しく交わりました。制作でも古い型にとらわれない斬新な作品を生みました。木を彫り込み、螺鈿や七宝、鉛を用いた《草木図屏風》やアップリケや刺繍を施した《大島風物図屏風》などはこの時代の藤井の代表作といえるでしょう(両者とも個人蔵)。藤井の全業績の中でも大正時代を中心とした時期に制作された作品は強い魅力を発しています。
当時の藤井は家庭婦人向けの工芸の手引書を執筆し、雑誌『工芸時代』の創刊に協力するなど幅広い活動をしていました。更に官展に工芸部門を加えるための運動を友人たちと行いました。この運動は大正12年の帝国美術院への美術工芸部門設置という形で実を結びました。しかし昭和に入った頃から軸足は次第に中央から離れていきます。藤井は独学でした。また大きな展覧会に作品を出品することもほとんどなく、画商に作品を売り込みもしませんでした。その分記録が少なく、活発な活動に反して日本近代美術史で取り上げられる機会が減っていったのです。最近では藤井の業績が見直されるようになってきました。平成3(1991)年に愛知県美術館で開催された「藤井達吉の芸術−生活空間に美を求めて」展以来、近代日本工芸が揺籃期にあった頃、即ち中央で活躍していた時の藤井の先駆的作品が評価されるようになったからです。
藤井は転居を繰り返したため住まいこそしばしば変わりましたが、後半生は郷里での後進指導に重きを置いていました。瀬戸の陶芸や小原の和紙工芸の現在の発展の基礎は藤井が築いたと言って良いでしょう。瀬戸や小原(現豊田市)には栗木伎茶夫氏、山内一生氏、加納俊治氏など、直接藤井の教えを受けた方々の幾人かがご健在です。
藤井は昭和25(1950)年から31(1956)年まで碧南市の道場山に住んでいました。市内で藤井に接した方々も、西山町の岡島良平氏を最長老として、何人もいらっしゃいます。故郷での藤井の生活を支えたのは碧南市民をはじめとする藤井を敬愛する方々でした。
「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた」というようなエピソードをきくこともあります。後半生の藤井の作品は文人画的性格が強まりました。平安時代の継紙を現代に蘇らせ、独自の工夫で《継色紙風蓋物》(1947年;愛知県美術館所蔵)などの制作を多く行いました。そして昭和39(1964)年、岡崎で亡くなりました。83歳でした。
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この表具はいかにも藤井達吉らしいあつらえです。
おそらく藤井達吉自身のデザインか、それに倣ったものでしょう。
本来、本ブログは専門的な分野の投稿ですが、同じ趣味とする方が多いということでしょうか?
ヤフーのブログの件数は全部で196万件あるらしいですが、そのうちの2000番以内に入ってきました。骨董に興味のある方でもかなりマイナーな分野のブログですが、読まれる方が多くなるのは嬉しいことです。
家内のブログは1か月以上投稿していないのにコンスタントに150人以上の方がアクセスしている・・
週末は実家にて静養中?の家内を表敬訪問、ついでにリニューアル完了の確認
こんないい天気の時も仕事かいな
おまけに次の案件の下見・・・
さて、本日は10作品目となりました藤井達吉の作品です。
少し赤みがかった和紙に描かれた水墨画ですが、藤井達吉の真骨頂という作品です。
藤井達吉の作品は弟子の「栗木伎茶夫」らの鑑定箱が多いのですが、名古屋の徳川美術館の館長であった「熊澤五六」の鑑定箱は珍しいと思います。
疎林図 藤井達吉筆
紙本水墨軸装軸先陶器 熊澤五六鑑定箱
全体サイズ:縦1260*横370 画サイズ:縦445*横335
ところで題名の「疎林」の定義をご存知でしょうか?
「疎林(そりん):樹木の枝・葉の密度が薄い森林のことを指す。通常の森林であれば連続して影が作られるが、疎林では太陽光が木々の間から、地面まで差し込んでくる。
疎林が成立するのは、植物の生育条件としてよくない点がある場合であることが多い。たとえば土壌の栄養分が乏しく、乾燥、酷寒、強風などの厳しい気候、あるいは樹木を傷める動物や昆虫などにさらされている場合である。」とあります。
今回の題名は「立ち木がまばらな様」と簡単に解釈していいでしょうが、日本の山林が「疎林」ばかりになっては困りますね。
藤井達吉:1881−1964明治-昭和時代の工芸家。明治14年6月6日生まれ。名古屋で七宝店につとめたのち美術工芸の道をこころざし,新感覚の染織,紙工芸などを発表する。工芸革新運動にもくわわり,昭和2年帝展工芸部誕生の推進力となる。小原工芸和紙や瀬戸の陶芸も指導した。昭和39年8月27日死去。83歳。愛知県出身。
熊澤五六:名古屋の徳川美術館の館長。京都帝大の経済学の河上肇教授(第二貧乏物語で有名な学者)に学び、その後美学美術史に転進した。父は医師で画家の熊澤古蓬です。
藤井達吉について
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藤井達吉は明治14(1881)年、愛知県碧海郡棚尾村に生まれました。現在の碧南市棚尾地区です。幼い頃から手先が器用で、“針吉”“凧吉”とも呼ばれていたそうです。明治25(1892)年に棚尾小学校を卒業すると、木綿問屋の尾白商会に奉公に出ました。この会社では朝鮮半島で砂金を金塊へ鋳造する仕事などもしました。帰国後美術学校への進学希望を父親に伝えますが許されず、名古屋の服部七宝店に入社します。ここでは米国でも有数の美術館であるボストン美術館で東西の美術作品を目にする機会を得ました。セントルイス万博で仕事をするために明治37(1904)年に渡米したからです。米国でみた美術作品に触発されたのか、日本に帰った藤井は服部七宝店を退職し、上京します。ここから美術工芸家としてのキャリアが始まりました。明治38(1905)年のことでした。
明治の終わりから大正時代にかけての藤井は、吾楽会、フュウザン会、装飾美術家協会、日本美術家協会、无型などの前衛的なグループに参加して当時の気鋭の画家・彫刻家・工芸家と親しく交わりました。制作でも古い型にとらわれない斬新な作品を生みました。木を彫り込み、螺鈿や七宝、鉛を用いた《草木図屏風》やアップリケや刺繍を施した《大島風物図屏風》などはこの時代の藤井の代表作といえるでしょう(両者とも個人蔵)。藤井の全業績の中でも大正時代を中心とした時期に制作された作品は強い魅力を発しています。
当時の藤井は家庭婦人向けの工芸の手引書を執筆し、雑誌『工芸時代』の創刊に協力するなど幅広い活動をしていました。更に官展に工芸部門を加えるための運動を友人たちと行いました。この運動は大正12年の帝国美術院への美術工芸部門設置という形で実を結びました。しかし昭和に入った頃から軸足は次第に中央から離れていきます。藤井は独学でした。また大きな展覧会に作品を出品することもほとんどなく、画商に作品を売り込みもしませんでした。その分記録が少なく、活発な活動に反して日本近代美術史で取り上げられる機会が減っていったのです。最近では藤井の業績が見直されるようになってきました。平成3(1991)年に愛知県美術館で開催された「藤井達吉の芸術−生活空間に美を求めて」展以来、近代日本工芸が揺籃期にあった頃、即ち中央で活躍していた時の藤井の先駆的作品が評価されるようになったからです。
藤井は転居を繰り返したため住まいこそしばしば変わりましたが、後半生は郷里での後進指導に重きを置いていました。瀬戸の陶芸や小原の和紙工芸の現在の発展の基礎は藤井が築いたと言って良いでしょう。瀬戸や小原(現豊田市)には栗木伎茶夫氏、山内一生氏、加納俊治氏など、直接藤井の教えを受けた方々の幾人かがご健在です。
藤井は昭和25(1950)年から31(1956)年まで碧南市の道場山に住んでいました。市内で藤井に接した方々も、西山町の岡島良平氏を最長老として、何人もいらっしゃいます。故郷での藤井の生活を支えたのは碧南市民をはじめとする藤井を敬愛する方々でした。
「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた」というようなエピソードをきくこともあります。後半生の藤井の作品は文人画的性格が強まりました。平安時代の継紙を現代に蘇らせ、独自の工夫で《継色紙風蓋物》(1947年;愛知県美術館所蔵)などの制作を多く行いました。そして昭和39(1964)年、岡崎で亡くなりました。83歳でした。
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この表具はいかにも藤井達吉らしいあつらえです。
おそらく藤井達吉自身のデザインか、それに倣ったものでしょう。