今週は大学病院に三カ月に一度の検査・・、異常なしとのこと。次回からは四カ月に一度の検査となりました。血液検査でだいたいのことが解るので、一病息災というのが検査のたびに実感できます。ただ、検査のたびにドキドキしますね。亡くなった家内の時には何度も付き添いましたが、悪い検査結果にはなんとも筆舌に尽くしがたいものがあります。
人はいまある幸福に気がつかず、もっともっとと欲張ったり、私は不幸だと思いこんだりするものですが、今を愉しみ、今を精一杯生きてこそ価値のあるものだと思います。
人は悲しいかな、いつかは死ぬものです。少しでも世のため人のためと人の記憶や、死後に遺すモノが欲しいものです。はて私は何を遺せるのだろうか?
さて本日は、本ブログで何度か投稿された三田青磁の角皿です。
太湖石蘭紋三田青磁角皿
合箱
縦190*横188*高台径97□*高さ48
青磁の発色といい、紋様の気品の高さといい、三田青磁の逸品中の逸品です。龍泉窯の青磁をわが国で再現しようと試みたのが三田焼で、18世紀中ごろに現在の三田市で焼かれたのに始まるといわれます。
色絵などもあり京都の名工・欽古堂亀祐の指導により、型物を中心に優れた作品が量産され、龍泉窯にも負けないくらいの美しい青磁を焼くことに成功し「三田青磁」として名高く、日本を代表する青磁として全国的にも知られています。
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三田焼:兵庫県三田市三田の青磁。寛政(1789-1801)初年、三田の豪商神田惣兵衛は陶工内田忠兵衛(志手原窯小西金兵衛の弟子)の青磁焼成の悲願にほだされ巨額の資金を投じて陶業を助けることになり、天狗ヶ鼻に窯を築いました。これが三田焼の起こりであります。
惣兵衛は青磁研究のために忠兵衛を有田に遣わし、有田から陶工太一郎・定次郎を招いました。1801年(享和元)忠兵衛は香下村砥石谷において青磁の原石を発見し、文化(1804-18)初年には青磁の試焼に成功しました。
1810年(文化七)惣兵衛は京都の奥田頴川に指導を受け、その弟子の欽古堂亀祐を迎え、いよいよ青磁の製作は本格的になりました。文化・文政年間(1804-30)は三田青磁の最盛期でありました。しかし1827年(文政一〇)頃には亀祐が京都に帰り、1829年(同一二)に惣兵衛が没するに及んで、以来三田窯は次第に衰順に傾いました。天保年間(1830-44)には向井喜太夫がこれを譲り受け、安政{1854-六〇}頃には田中利右衛門がこれを継いだが業績振わず、明治に三田陶器会社が設立され、1889年(明治二二)にはその出資者の一大芝虎山がこれに専念しました。虎山の没後、有志が相寄って一窯焼いたのを最後に昭和8年に三田窯の煙はまったく絶えました。
青磁の上がりは天竜寺手調で、亀祐来窯以後細工物にも秀作が生まれた。種類には、香炉・茶器・花器・皿・鉢・文具、大物・動物置物などがあります。また呉須手写しも焼いています。
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箱書にある「平野やきもの博物館 館長植松隆蔵」についての詳細は残念ながら不明です。私のようなコレクターであったのかもしれません。私に遺せるものは・・。
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補足説明
三田焼の特徴である型物は京焼の陶工欽古堂亀祐(1765−1873)によってもたらされた技術によるところが大きい。「欽古作之 文化三玄夏」(1806)などの土型が伝わっている。欽古堂亀祐は京の名工奥田頴川の弟子であり、頴川門下として他に青木木米(1768−1833)、仁阿弥道八(1783−1855)、永楽保全(1795−1854)などが知られている。亀祐は道八、木米とともに頴川門下の三羽ガラスといわれ、互いにその腕を競っていた。
*仁阿弥道八については後日作品掲載予定。
寛政12年(1800)に神田惣兵衛は頴川のもとを訪れ、三田青磁焼成のため、しかるべき陶工を紹介してほしいと依頼したところ、選ばれたのが亀祐であった。一説によると木米の青磁焼成技術があまりにも「唐物写し」として名高く、木米の指導により三田青磁が唐物との区別がつかなくなることを憂えた頴川の判断によるともいわれる。そして翌寛政13年に今度は紀州藩から陶工派遣の依頼が頴川のもとに持ち込まれたときは木米が派遣されている。頴川にすれば木米の技量が三田青磁をつくりあげることで、木米の技術も固定化し、また技術力の増した三田青磁が中国産のものと紛れて流通した場合の責任を恐れたのかもしれぬ。当時粟田口で京の名工として名をはせていた頴川のもとにも三田青磁の評判は轟いていたにちがいない。
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三田青磁か否かの検証
三田青磁は複雑で、豊かな造形や色調に魅力があって、型物成形の製品が多く、全体の出土量の3分の1を土型が占めているそうです。土型を用いた成形は、ロクロでは作り出せない複雑かつ巧妙な形のものを一つの型から数多く生産出来る。緑青色をした美しい釉調の青磁は、中国明代の天竜寺手青磁に似ていると、人々から讃えられた。三田青磁の魅力はその色の深さもさることながら、土型成型による多様性にあると考えられている。
判別の仕方
1.釉肌:単一な色目になってない事が重要です。濃い部分や、薄い部分が微妙に入り混じって、見た目に不安定感が漂います。近代の作品は焼成技術が高いので、焼成が難しい青磁とは言え、ほぼ均質に焼けてしまいます。古い物は、逆に不均質に焼けます。高麗青磁などのような例です。濃いとこ、薄いとこ、釉溜まりに釉切れ、磁肌だけで、微妙な変化が見受けられます。この“不均質さ”にこそ、品物の奥行きが生まれます。青磁に限らず、この奥行きが味を醸成していることがいい作品の条件です。
2.釉薬の色目:青ではなく緑っポイ色。これが三田青磁の典型的な色目です。ルーペで見ますと、大小の泡が絡み合うように混
在しています。この釉薬の中の気泡が、緑色に深みを与えます。
3.浮き模様:瀬戸製の三田青磁写し(時代はある)や、今出来の三田青磁はこの浮き模様がクッキリ見えませんが、三田青磁は模様が複雑で細かいにも関わらず、ハッキリ見えます。技術の高さは伺えます。
4.土味:写し物の三田青磁は、均一な色、ベタとした朱色っポイ土ですが、三田焼は朱色と白っポイ部分が交互に出ており、カリッカリに焼けてます。
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普段使いに手頃な大きさです。三田青磁のいいところはなんといっても武骨なほどの頑丈さですね。人も同じく無骨なほど頑丈なのが一番かもしれませんね。
*三田青磁の場合、時代的な古さより、三田青磁であるか否かが重要です。
人はいまある幸福に気がつかず、もっともっとと欲張ったり、私は不幸だと思いこんだりするものですが、今を愉しみ、今を精一杯生きてこそ価値のあるものだと思います。
人は悲しいかな、いつかは死ぬものです。少しでも世のため人のためと人の記憶や、死後に遺すモノが欲しいものです。はて私は何を遺せるのだろうか?
さて本日は、本ブログで何度か投稿された三田青磁の角皿です。
太湖石蘭紋三田青磁角皿
合箱
縦190*横188*高台径97□*高さ48
青磁の発色といい、紋様の気品の高さといい、三田青磁の逸品中の逸品です。龍泉窯の青磁をわが国で再現しようと試みたのが三田焼で、18世紀中ごろに現在の三田市で焼かれたのに始まるといわれます。
色絵などもあり京都の名工・欽古堂亀祐の指導により、型物を中心に優れた作品が量産され、龍泉窯にも負けないくらいの美しい青磁を焼くことに成功し「三田青磁」として名高く、日本を代表する青磁として全国的にも知られています。
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三田焼:兵庫県三田市三田の青磁。寛政(1789-1801)初年、三田の豪商神田惣兵衛は陶工内田忠兵衛(志手原窯小西金兵衛の弟子)の青磁焼成の悲願にほだされ巨額の資金を投じて陶業を助けることになり、天狗ヶ鼻に窯を築いました。これが三田焼の起こりであります。
惣兵衛は青磁研究のために忠兵衛を有田に遣わし、有田から陶工太一郎・定次郎を招いました。1801年(享和元)忠兵衛は香下村砥石谷において青磁の原石を発見し、文化(1804-18)初年には青磁の試焼に成功しました。
1810年(文化七)惣兵衛は京都の奥田頴川に指導を受け、その弟子の欽古堂亀祐を迎え、いよいよ青磁の製作は本格的になりました。文化・文政年間(1804-30)は三田青磁の最盛期でありました。しかし1827年(文政一〇)頃には亀祐が京都に帰り、1829年(同一二)に惣兵衛が没するに及んで、以来三田窯は次第に衰順に傾いました。天保年間(1830-44)には向井喜太夫がこれを譲り受け、安政{1854-六〇}頃には田中利右衛門がこれを継いだが業績振わず、明治に三田陶器会社が設立され、1889年(明治二二)にはその出資者の一大芝虎山がこれに専念しました。虎山の没後、有志が相寄って一窯焼いたのを最後に昭和8年に三田窯の煙はまったく絶えました。
青磁の上がりは天竜寺手調で、亀祐来窯以後細工物にも秀作が生まれた。種類には、香炉・茶器・花器・皿・鉢・文具、大物・動物置物などがあります。また呉須手写しも焼いています。
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箱書にある「平野やきもの博物館 館長植松隆蔵」についての詳細は残念ながら不明です。私のようなコレクターであったのかもしれません。私に遺せるものは・・。
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補足説明
三田焼の特徴である型物は京焼の陶工欽古堂亀祐(1765−1873)によってもたらされた技術によるところが大きい。「欽古作之 文化三玄夏」(1806)などの土型が伝わっている。欽古堂亀祐は京の名工奥田頴川の弟子であり、頴川門下として他に青木木米(1768−1833)、仁阿弥道八(1783−1855)、永楽保全(1795−1854)などが知られている。亀祐は道八、木米とともに頴川門下の三羽ガラスといわれ、互いにその腕を競っていた。
*仁阿弥道八については後日作品掲載予定。
寛政12年(1800)に神田惣兵衛は頴川のもとを訪れ、三田青磁焼成のため、しかるべき陶工を紹介してほしいと依頼したところ、選ばれたのが亀祐であった。一説によると木米の青磁焼成技術があまりにも「唐物写し」として名高く、木米の指導により三田青磁が唐物との区別がつかなくなることを憂えた頴川の判断によるともいわれる。そして翌寛政13年に今度は紀州藩から陶工派遣の依頼が頴川のもとに持ち込まれたときは木米が派遣されている。頴川にすれば木米の技量が三田青磁をつくりあげることで、木米の技術も固定化し、また技術力の増した三田青磁が中国産のものと紛れて流通した場合の責任を恐れたのかもしれぬ。当時粟田口で京の名工として名をはせていた頴川のもとにも三田青磁の評判は轟いていたにちがいない。
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三田青磁か否かの検証
三田青磁は複雑で、豊かな造形や色調に魅力があって、型物成形の製品が多く、全体の出土量の3分の1を土型が占めているそうです。土型を用いた成形は、ロクロでは作り出せない複雑かつ巧妙な形のものを一つの型から数多く生産出来る。緑青色をした美しい釉調の青磁は、中国明代の天竜寺手青磁に似ていると、人々から讃えられた。三田青磁の魅力はその色の深さもさることながら、土型成型による多様性にあると考えられている。
判別の仕方
1.釉肌:単一な色目になってない事が重要です。濃い部分や、薄い部分が微妙に入り混じって、見た目に不安定感が漂います。近代の作品は焼成技術が高いので、焼成が難しい青磁とは言え、ほぼ均質に焼けてしまいます。古い物は、逆に不均質に焼けます。高麗青磁などのような例です。濃いとこ、薄いとこ、釉溜まりに釉切れ、磁肌だけで、微妙な変化が見受けられます。この“不均質さ”にこそ、品物の奥行きが生まれます。青磁に限らず、この奥行きが味を醸成していることがいい作品の条件です。
2.釉薬の色目:青ではなく緑っポイ色。これが三田青磁の典型的な色目です。ルーペで見ますと、大小の泡が絡み合うように混
在しています。この釉薬の中の気泡が、緑色に深みを与えます。
3.浮き模様:瀬戸製の三田青磁写し(時代はある)や、今出来の三田青磁はこの浮き模様がクッキリ見えませんが、三田青磁は模様が複雑で細かいにも関わらず、ハッキリ見えます。技術の高さは伺えます。
4.土味:写し物の三田青磁は、均一な色、ベタとした朱色っポイ土ですが、三田焼は朱色と白っポイ部分が交互に出ており、カリッカリに焼けてます。
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普段使いに手頃な大きさです。三田青磁のいいところはなんといっても武骨なほどの頑丈さですね。人も同じく無骨なほど頑丈なのが一番かもしれませんね。
*三田青磁の場合、時代的な古さより、三田青磁であるか否かが重要です。