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Channel: 夜噺骨董談義
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古九谷青手波ニ雲龍

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陶磁器ファンなら誰でも一度は入手したい作品群のひとつに古九谷があります。せめても再興九谷というのが願いでしょうが、市場に出回る作品は少なく高価で、しかも真作は非常に少ないようです。

古九谷の代表とされる青手九谷などは、現存する半陶半磁を呈する骨董としての青手九谷のその多くが明治期のものと推察され、また明治前期に輸出された九谷が逆輸入されているものも多いようです。真作があったしてお値段も高嶺の花・・。

本ブログではそのような高値の花・・、もとい高嶺の花の作品には縁のないものばかりですが、ちょっと欲張ってその作品群について調べてみました。

古九谷青手波ニ雲龍
合箱
口径245*高台径90*高さ57



青手九谷は緑釉を多く用いて赤を使用しないことからこう呼ばれているようです。緑・黄・紫の三彩古九谷、緑・黄の二彩古九谷があるようです。



素地も良質の磁石を使用したものと鉄分の多いやや質の悪い素地のものの 二手があるとのこと。古九谷は交趾古九谷・ペルシャ手九谷ともいわれているようです。 また白抜きが珍重されるようですが、これは良質の磁石のものかな。



本作品は緑・黄色・紫の三彩古九谷で、鉄分の多いやや質の悪い素地のものに分類されます。高台には目跡がなく、高台内は「福」の字があったかどうか釉薬の焼けで判読不能となっています。無論、「福」の字がないものも古九谷にはあります。



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古九谷:大聖寺藩領の九谷村(現在の石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として、始められるが、約50年後(18世紀初頭頃)突然廃窯となる。窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる、2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っている。「古九谷」と呼ばれる磁器は、青、緑、黄などの濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、様式から祥瑞手(しょんずいで)、五彩手、青手などに分類されている。祥瑞手は、赤の輪郭線を用い、赤、黄、緑などの明るい色調で文様を描いたもの。五彩手は黒の輪郭線を用い、青、黄、緑、紫などの濃色で文様を描いたものである。青手は、色使いは五彩手と似るが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶした様式のものである。

これら「古九谷」と呼ばれる初期色絵作品群の産地については、戦前から1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という説が主張されはじめた。有田の山辺田窯(やんべたがま)、楠木谷窯などの窯跡から古九谷と図柄の一致する染付や色絵の陶片が出土していること、石川県山中町の九谷古窯の出土陶片は古九谷とは作調の違うものであったことなどから、「古九谷は有田の初期色絵作品である」との説が有力となった。

東京都文京区本郷の大聖寺藩上屋敷跡(現・東京大学医学部附属病院敷地)からは大量の古九谷風の色絵磁器片が出土した。1987年以降、これらの磁器片の胎土を蛍光X線分析、放射化分析によって科学的に調査した結果、肥前産の磁器と九谷産の磁器が抽出された。その結果、伝世品の五彩手古九谷や青手古九谷と同様の磁器片は肥前産であると判断され、一方、分析結果から九谷産とみなされる磁器片は伝世の古九谷とは胎土、釉調、成形などの異なるものであると判断された。以上のような窯跡の発掘調査や出土品の化学分析などの結果から、従来古九谷と位置づけられてきた一群の初期色絵磁器は、その大部分が1640 - 1650年代の肥前産と考えられている。しかし、1998年、九谷古窯にほど近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、「複数の産地で同一様式の磁器がつくられていた」可能性を探るべきだとの意見もある。

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青手九谷:(あおでくたに、あおてくたに)とは、石川県(加賀藩や大聖寺藩)で作られてきた九谷焼のうち、見込み(表面の模様)に青色を多く使った磁器のことである。青九谷ともいう。

青色といっても実際は緑色を呈しているし、磁器といっても一般に“半陶半磁”と呼ばれるように陶器のように見える。見込みには動植物・山水・幾何模様・名画などが描かれ、器の表裏を埋めつくす塗埋手(ぬりうめで)で盛り上げて作られ、華麗豪華である。高台(こうだい、底の脚)の中に、「角福」と呼ばれる二重四角の中に福の吉祥字のある銘を持つものが多い。

青手九谷は、加賀藩の支藩大聖寺藩九谷村で慶安年間(1650年頃)から作陶された古九谷と呼ばれるものの中にもみられ伝世されている。青手古九谷などと呼ばれている。青手古九谷は、赤色を全く使わないのが特徴であり、紫・黄・緑・紺青のうち三彩または二彩を使用し、作品全面を塗埋める技法が使われている。古九谷時代を通して作られた。

慶安年間とは関ヶ原の戦いから戦後50年にあたり、武士に代わって台頭した町人文化が自由闊達の風に花開いた時期である。また海外の文化・技術を積極的に取り入れた安土桃山時代の絢爛華麗な記憶が鎖国の中でもまだ残っていた時代でもある。 青手九谷はこうした時代背景をもとに作られ、写実精密緻密であるより大胆奔放華麗の作風であるといえる。空を飛び舞う兎あり、デフォルメの大樹あり、黄素地に鮮やかな竹松あり、四彩(緑、紺青、黄、紫)で色取られた百合ありと まさに大胆不敵とも見える意匠である。

古九谷は、発掘結果とその考古地磁気測定法による年代測定から50年後には作られないようになり80年後には完全に終わったとされる。ただし、伝世九谷の素地と同じものが古九谷窯からは全く発掘されないことや、前者に多くある目跡(窯の中で器同士の溶着を防ぐスペースサーの跡)が後者には全くないなどから、古九谷は九谷村で作られたものではなく、有田(伊万里)で作られたものとする説(古九谷伊万里説)が出された。これに対し、藩主の命を受けた後藤才次郎が修業した地である有田から素地を移入し、九谷で絵付けのみを行なったという説(素地移入説)が出され、古九谷伊万里説と素地移入説で論争が起こっている。

その後九谷焼は作られなかったが、文化年間(1804年以降)になり、古九谷の再興を目指して加賀藩により新しい窯が築かれ、その後明治期まで次々と新しい窯が作られ、合わせて「再興九谷」と称されている。再興九谷で最初に現れたのが「春日山窯」で、京都より青木木米が招聘され作陶が始まったが、木米の作風は赤や青を基調としたもので、青手古九谷の技法は見られない。その後再興九谷では一番の名声を博した「吉田屋窯」が古九谷窯跡地に作られた。大聖寺の豪商豊田伝右衛門が開窯しその屋号から命名されたものである。この吉田屋窯では日用品が多く量産されたが、古九谷同様高台に角福の入った青手九谷も多く作られた。赤を使わず塗埋手の技法を使うという青手古九谷の技法を用いたものだが、青手古九谷より落ち着いた濃さをもっている。全体として青く見えるため、青九谷と呼ばれ、後世これに倣った絵付けが多く行われるようになった。吉田屋窯はわずか8年で閉じられ、その後番頭であった宮本屋宇右衛門が「宮本窯」を開いたが、精緻な赤絵金襴の意匠が多く青手九谷は見られない。その後も「民山窯」「若杉釜」「小野窯」などが作られたが、嘉永年間(1848年以降)になって大聖寺藩松山村に著名な「松山窯」が藩の贈答用とするために始まり、吉田屋窯の意匠を継いで青手九谷が作られた。

以上のように古九谷、吉田屋窯、松山窯で青手九谷が作陶されたとするが、骨董として取引される青手九谷うち、古九谷では350年を経ているため多くが伝世されているとは考えにくい。吉田屋窯では購入時に日用品であるのに箱書きとしてその名を記したとは思われない。松山窯は官営であったため多くが作られたとは思われず、また全般に後世のように作者名が有ったわけではないため、結局伝世の青手九谷の真贋は決めがたいとされる。市場でこれら窯として取引される伝世品の多くが、次の明治以降のものである可能性が高いと思われる。

明治維新(1868年以降)で成った明治政府は、開国に沿って殖産興業を推進し伝統工芸品の輸出を奨励した。そのため九谷では各国の博覧会に出展し名声を得、多くを輸出した。明治前期には九谷焼の8割が輸出に回され輸出陶磁器の1位を占めるようになり、「ジャパン クタニ」のブランドはいやが上にも高まった。現存する半陶半磁を呈する骨董としての青手九谷の多くがこの時期のものと推量され、また明治前期に輸出された九谷が逆輸入されているものも多い。 青手九谷はその後も徳田八十吉などにより作られ、また現在も工芸品として金沢を中心として売られている。

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青手九谷での特徴のひとつに緑の釉薬部分に気泡群が見られることです。



すべててにではありませんが、そのような作品がときおり見られます。



素地の悪いものの作品群があり、口縁などに鉄釉薬が塗られています。



ともかく豪放さからくる古格があります。



釉薬にあわせた補修の跡が見られます。




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再興期:古九谷の廃窯から、約一世紀後の文化4年(1807年)に加賀藩が京都から青木木米を招き金沢の春日山(現在の金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」という。 同じ頃、能美郡の花坂山(現在の小松市八幡)で、新たな陶石が発見され今日まで主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、文政2年(1819年)に磁器を、翌年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。

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さて、このような小汚いお皿・・・、あなたなら購入しますか?

ただ、古九谷はきれいなものばかりではなく特に代表的な、というかもっとも魅力のある青手古九谷は小汚いものなのです。下手モノと称する部類に入るものです。非常に数は少ないと記しましたが、意外と掘り出し物はあるようです。

ところで古九谷はどこで作られていたのかという基本的な謎が残っていますが、おそらくは伊万里で作ったものに九谷で絵付けをしたという説が有力らしいです。なぜ短期間で製作しなくなったのかというと、九谷の大聖寺藩と鍋島藩に約束事があり、それは九谷では生産しないという約束ながら、九谷で生産したのでは?、最初は絵付けだけ、その後本体そのものも・・。

鍋島藩や幕府へのその発覚を恐れて急遽、廃窯にしたのではないかという説が説得力があるように感じます。秘密の製作ゆえ、あちこちで内緒で作られたものもあり、焼成も未完成、ただ絵付のデザインは一流・・。

芭蕉の北陸来訪が幕府のスパイという説もあります。骨董は想像力の世界・・、だから面白い







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