帰省した家の庭は屋根の雪などで雪が一杯でした。
ちょうどよいスロープになったおり、ちょっとしたスキー場・・。
こちらは除雪でクタクタ・・・。「よそ見してないで早くミルク飲め!!」
本日は先日投稿しました池田焦園の夫の作品です。結婚の約束をしながら、他の女と行方をくらまし、その後に池田輝方と焦園は結婚しています。二人はいったいどういう思いだったのでしょうか?その後は幸せに暮らしたようですが、二人とも残念ながら早世しています。必死で輝方は焦園の看病したそうです。男女の関係は他人には推し量れないところがあります。
世間一般常識では理解できないところに男女の機微があります。人生は何があるか解りません。他人の人生評価などは一面からでは計り知れないものがあり、本人の信念による自らの評価がきっと一番正しいのでしょう。とくに人を愛するということは他人になんと評価されようが自分で信じる道を行くが良い。
谷崎潤一郎の「細雪」にまつわる夫婦間の手紙がNHKで昨夜紹介されていましたが、あのような恋愛をできるのには信念がいる。将来が心配だとかで恋愛に消極的な独身の皆さん、恋をしなさい、人を愛しなさい。将来の心配なんかくそ食らえだ
人はひとりでは生きていけないことを肝に銘じなさい。少なくとも二人のほうが寂しくないし、人生が100倍愉しい。
さて本日はラブレターを読む女性???
文読む女之図(仮題) 池田輝方筆
絹本着色軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:横473*縦2033 画サイズ:横411*縦1114
作品は真贋云々は一切未確認ですが、池田焦園の夫の作ということへの興味から購入した作品です。上村松園もまた妻のある鈴木松年の子供(上村松皇)を宿しますが、女流画家の人生もまた興味深いものです。
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池田輝方:明治16年(1883年)1月4日~大正10年(1921年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。
明治16年(1883年)1月4日、東京市京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。明治28年(1895年)に水野年方に内弟子として入門。明治32年(1899年年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。
明治35年(1902年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌明治36年(1903年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。他方、鏑木清方らによって明治34年(1901年)に結成された烏合会にも、結成直後から参加、明治36年(1903年)の同会の第6回展に「暮靄」と、同門の榊原蕉園(のちの池田蕉園)をモデルとした「墨染」を、第8回展には「奥勤め」を出品した。
この年に師・清方の立会いの下、榊原蕉園と婚約するも、自身は直後に別の女性と失踪、さまざまな曲折ののち、蕉園とは明治44年(1911年)に結婚した。この事件の顛末は田口掬汀によって連載記事「絵具皿」として万朝報に掲載され話題となる。この間明治40年(1907年)には川合玉堂に師事しており、風俗画に特色を示している。また、同年、浮世絵に惹かれて来日していたフランス人の浮世絵師ポール・ジャクレーに日本画を教えている。
大正元年(1912年)の第6回文部省美術展覧会(文展)では「都の人」が褒状、大正3年(1914年)の第8回展では「両国」で3等賞、大正4年(1915年)の第9回展では「木挽町の今昔」で2等賞を受賞し、大正5年(1916年)の第10回展では「夕立」(山種美術館蔵)で妻の蕉園とともに特賞を得た。翌大正6年(1917年)には徳田秋声の『誘惑』、小杉天外の『七色珊瑚』の挿絵を蕉園と共作。
大正8年(1919年)の第1回帝国美術院展(帝展)では江戸時代の絵師・英一蝶の流刑を画題とした「絵師多賀朝湖流さる」(島根県立石見美術館蔵)が推薦出品とされ、浮世絵の精神、造形美を受け継ぐ画家としての評価を確立した。同年石井林響(1884-1932)、山内多門(1878-1932)と如水会を結成。大正10年(1921年)5月6日没。墓所は台東区谷中の谷中霊園。没後の大正13年(1924年)、浮世絵と同じ技法による新版画「新浮世絵美人合 一月 かるた」が版行された。
輝方は水野年門下で後に川合玉堂に学んだ人物画の名手であるが、惜しむらしくは39歳、その力倆の熟し輝きつつある途中の、いわば「未完の美」で生涯を閉じてしまった。しかし、天性の才能がもたらせる彼の作品の秀逸さは、五歳年長の同門鏑木清方より一年先(大正5年)に「夕立ち」一対で文部省美術展覧会特選になったことで知られる。
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女性のうなじに色気を感じるのは男性の特権??
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池田焦園:(1886年5月13日 ~ 1917年12月1日)明治から大正にかけての女性浮世絵師、日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子)。夫も日本画家の池田輝方日本画家。
水野年方、川合玉堂に師事する。文展等諸種の展覧会に出品し、多くの賞を得た。烏合会会員。大正6年(1917年)没、享年33歳。明治、大正、昭和初期の近代日本画において美人画のジャンルは絶頂期を向かえ、その中でも女流画家の活躍はめざましいものがあったが、「三都三園」とはそんな近代女流美人画家の代表的な3人を称しますが、京都の上村松園、東京の池田焦園、大阪の島成園がその3名で池田焦園があげられています。ただし島・池田とも松園にあやかって園の文字が使われたとのことです。
明治に始まる東京画壇の鏑木清方、池田輝方と池田焦園の夫婦などは浮世絵の美人絵を清新な時代感覚で蘇生させようとした画人達であり、伊東深水などに受けつがれて、これらの人々は近代美人画の主流となっていきます。
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人を愛し結婚したら極力早く子どもを作るべきです。人はいつ死ぬか解らないものです。どちらが死んでも片方は一人ぼっち・・。ちなみに小生の父は小生が小学校の時に亡くなっています
「お~い、早く寝ろ!!」
ちょうどよいスロープになったおり、ちょっとしたスキー場・・。
こちらは除雪でクタクタ・・・。「よそ見してないで早くミルク飲め!!」
本日は先日投稿しました池田焦園の夫の作品です。結婚の約束をしながら、他の女と行方をくらまし、その後に池田輝方と焦園は結婚しています。二人はいったいどういう思いだったのでしょうか?その後は幸せに暮らしたようですが、二人とも残念ながら早世しています。必死で輝方は焦園の看病したそうです。男女の関係は他人には推し量れないところがあります。
世間一般常識では理解できないところに男女の機微があります。人生は何があるか解りません。他人の人生評価などは一面からでは計り知れないものがあり、本人の信念による自らの評価がきっと一番正しいのでしょう。とくに人を愛するということは他人になんと評価されようが自分で信じる道を行くが良い。
谷崎潤一郎の「細雪」にまつわる夫婦間の手紙がNHKで昨夜紹介されていましたが、あのような恋愛をできるのには信念がいる。将来が心配だとかで恋愛に消極的な独身の皆さん、恋をしなさい、人を愛しなさい。将来の心配なんかくそ食らえだ
人はひとりでは生きていけないことを肝に銘じなさい。少なくとも二人のほうが寂しくないし、人生が100倍愉しい。
さて本日はラブレターを読む女性???
文読む女之図(仮題) 池田輝方筆
絹本着色軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:横473*縦2033 画サイズ:横411*縦1114
作品は真贋云々は一切未確認ですが、池田焦園の夫の作ということへの興味から購入した作品です。上村松園もまた妻のある鈴木松年の子供(上村松皇)を宿しますが、女流画家の人生もまた興味深いものです。
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池田輝方:明治16年(1883年)1月4日~大正10年(1921年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。
明治16年(1883年)1月4日、東京市京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。明治28年(1895年)に水野年方に内弟子として入門。明治32年(1899年年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。
明治35年(1902年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌明治36年(1903年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。他方、鏑木清方らによって明治34年(1901年)に結成された烏合会にも、結成直後から参加、明治36年(1903年)の同会の第6回展に「暮靄」と、同門の榊原蕉園(のちの池田蕉園)をモデルとした「墨染」を、第8回展には「奥勤め」を出品した。
この年に師・清方の立会いの下、榊原蕉園と婚約するも、自身は直後に別の女性と失踪、さまざまな曲折ののち、蕉園とは明治44年(1911年)に結婚した。この事件の顛末は田口掬汀によって連載記事「絵具皿」として万朝報に掲載され話題となる。この間明治40年(1907年)には川合玉堂に師事しており、風俗画に特色を示している。また、同年、浮世絵に惹かれて来日していたフランス人の浮世絵師ポール・ジャクレーに日本画を教えている。
大正元年(1912年)の第6回文部省美術展覧会(文展)では「都の人」が褒状、大正3年(1914年)の第8回展では「両国」で3等賞、大正4年(1915年)の第9回展では「木挽町の今昔」で2等賞を受賞し、大正5年(1916年)の第10回展では「夕立」(山種美術館蔵)で妻の蕉園とともに特賞を得た。翌大正6年(1917年)には徳田秋声の『誘惑』、小杉天外の『七色珊瑚』の挿絵を蕉園と共作。
大正8年(1919年)の第1回帝国美術院展(帝展)では江戸時代の絵師・英一蝶の流刑を画題とした「絵師多賀朝湖流さる」(島根県立石見美術館蔵)が推薦出品とされ、浮世絵の精神、造形美を受け継ぐ画家としての評価を確立した。同年石井林響(1884-1932)、山内多門(1878-1932)と如水会を結成。大正10年(1921年)5月6日没。墓所は台東区谷中の谷中霊園。没後の大正13年(1924年)、浮世絵と同じ技法による新版画「新浮世絵美人合 一月 かるた」が版行された。
輝方は水野年門下で後に川合玉堂に学んだ人物画の名手であるが、惜しむらしくは39歳、その力倆の熟し輝きつつある途中の、いわば「未完の美」で生涯を閉じてしまった。しかし、天性の才能がもたらせる彼の作品の秀逸さは、五歳年長の同門鏑木清方より一年先(大正5年)に「夕立ち」一対で文部省美術展覧会特選になったことで知られる。
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女性のうなじに色気を感じるのは男性の特権??
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池田焦園:(1886年5月13日 ~ 1917年12月1日)明治から大正にかけての女性浮世絵師、日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子)。夫も日本画家の池田輝方日本画家。
水野年方、川合玉堂に師事する。文展等諸種の展覧会に出品し、多くの賞を得た。烏合会会員。大正6年(1917年)没、享年33歳。明治、大正、昭和初期の近代日本画において美人画のジャンルは絶頂期を向かえ、その中でも女流画家の活躍はめざましいものがあったが、「三都三園」とはそんな近代女流美人画家の代表的な3人を称しますが、京都の上村松園、東京の池田焦園、大阪の島成園がその3名で池田焦園があげられています。ただし島・池田とも松園にあやかって園の文字が使われたとのことです。
明治に始まる東京画壇の鏑木清方、池田輝方と池田焦園の夫婦などは浮世絵の美人絵を清新な時代感覚で蘇生させようとした画人達であり、伊東深水などに受けつがれて、これらの人々は近代美人画の主流となっていきます。
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人を愛し結婚したら極力早く子どもを作るべきです。人はいつ死ぬか解らないものです。どちらが死んでも片方は一人ぼっち・・。ちなみに小生の父は小生が小学校の時に亡くなっています
「お~い、早く寝ろ!!」