さて本日は「貧乏神」と称される画家の作品です。
高久靄崖の作品は当方にとっては二作品目のはずですが、一作品目は資金調達のため売却したように記憶していますが、当方の売却リストにはないのでまだどこかにあるかも・・。
何回かに分けて所蔵していた作品を処分していますので時々、処分していたか、処分していないのか混乱することがあります。いずれにしても骨董品というものは売ろうと思うと滅茶苦茶に安いものです。本作品のようなグレードの中堅どころの画家の作品は、真贋などという前に本物であっても二束三文のものです。
青緑山水図 高久靄崖筆 大窪詩仏賛
絹本水墨着色軸装 大窪詩仏賛 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:横2010*縦570 画サイズ:横1280*縦430
高久靄崖はプライドが高く、金儲けのために絵を描くことはしなかったために極貧の生活のようだったので貧乏神と称する人もいるようです。
春の風景かな。
家に飾っておいたら家内からのメールで「舟の乗っている人の頭が無いよ。」だと・・・。
全体の雰囲気はいい作品なのですが、どこかぱっとしない
贋作ではなさそうですが、この辺が幕末・明治の南画家の限界か・・・
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高久靄崖:寛政8年(1796年)~天保14年4月8日(1843年5月7日)。下野那須郡杉渡戸(現 栃木県那須塩原市黒磯)に生まれる。名は徴、字は子遠、通称秋輔。号は靄、石窟、如樵、石窠学、梅斎、疎林外史。靄は、馬方や煙草職人をする傍ら、郷里の画家 平出雪耕や小泉斐(あや)について書画を学ぶ。
青年期より下野鹿沼(栃木県鹿沼市)に移り、池大雅や清の伊孚九に私淑し、文人画を独学した。鹿沼の文化人に支援を受け、文政6年(1823年)27歳のとき江戸に出る。
江戸では画家として評判が高かったが、気位が高く、儲けのために画くことがなかったので生活は貧窮した。見かねた知人の田能村竹田のはからいで谷文晁の画塾写山楼の門下となり、文晁が弟子の靄の絵を売り出したという。弟子思いの文晁らしい行動だが、それほど画の力量があったという証左でもある。
同門の渡辺崋山が蛮社の獄で投獄されたとき、椿椿山らとともに救出に尽力したという。30代になると北陸や東北、関西など各地を盛んに旅し、古書画の調査や模写を行っている。特に仙台は三度訪ねている。この調査を元に『過眼録』を著した。
天保8年(1837年)42歳のとき、それまで鹿沼に拠点をもって行き来を繰り返したが、江戸に永住を決意する。天保14年(1843年)4月8日、江戸両国薬研堀のアトリエ晩成山房で永眠。享年48。谷中(台東区谷中4)の天龍院に靄の墓がある。
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賛の解読は未了・・・
「姑□仙人□玉 沙丹光□笑洞中 □□□一択東風□□作江 □第一□ 詩佛老人書 押印」ん~~。
大窪詩仏は享年74歳、その頃高久靄崖は享年42歳で、高久靄崖が亡くなる頃に江戸に定住を決めています。詩仏老人と賛にありことから大窪詩仏の最晩年の賛か?
高久靄崖はその6年後に48歳で亡くなっています。
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大窪詩仏:(おおくぼしぶつ)明和4年(1767年)~天保8年2月11日(1837年3月17日))。江戸時代後期の漢詩人である。書画も能くした。
常陸国久慈郡袋田村(現 茨城県久慈郡大子町)に生まれる。名は行(こう)、字は天民(てんみん)、通称を柳太郎、のちに行光、号は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく),痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)、玉地樵者、艇棲主、含雪、縁雨亭主、柳庵、婁庵、詩聖堂(しせいどう)、江山書屋(こうざんしょや)、既醉亭(きすいてい)、痩梅庵(そうばいあん)とも号した。号の詩仏は唐詩人 杜甫が「詩名仏」と称されたことによるものか、あるいは清の袁枚の号に因むと言われる。
印章の読みは不明です。
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大窪詩仏の補足説明
我が郷里の秋田に関係するらしく、秋田藩に出仕しています。秋田藩(あきたはん)は久保田藩(くぼたはん)とも呼ばれています。久保田城を居城とし、藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封されました。水戸から美人を連れて行ったので秋田には美人が多く、水戸には美人が少ないといわれたのはこのことによる?? 石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。
また本ブログでなんども投稿されている釧雲泉とは信越に一緒に旅行しています。
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詩仏が10歳の頃、隣家が火事となり大騒動になっていても、それに気付かず読書しつづけたという逸話が残っている。 父の大窪宗春光近は桜岡家の婿養子となったが離縁になり、詩仏を引き取って実家のある常陸国多賀郡大久保村に戻った。このため詩仏も大窪姓に復する。代々大窪家は医を生業としており、宗春は田舎で身を沈めることを潔しとしなかったため、数年後単身で江戸にて小児科医を開業する。江戸では名医として評判となり大いに繁盛した。詩仏は15歳頃、江戸日本橋新銀町で開業する父の元に身を置き、医術を学び、剃髪し宗盧と号した。
21歳頃より山本北山の門人 山中天水の塾 晴霞亭に通い儒学を学び、市河寛斎の江湖詩社にも参加して清新性霊派の新風の中、詩作を始める。24歳のとき父が亡くなるが、医業を継がず詩人として身を立てる決意をする。同年、師の天水が33歳の若さで早世し、中野素堂の紹介で山本北山の奚疑塾に入門する。
25歳の時、市河寛斎が富山藩に仕官した後、江湖詩社に活気がなくなってくると、先輩の柏木如亭と向島に二痩社を開いた。詩仏の別号 痩梅、如亭が痩竹と号したことに因んだ命名である。この二痩社には百人を超える門人が集った。その後、自らの詩集や啓蒙書などを活発に刊行する。また各地を遊歴し、文雅を好む地方の豪商などに寄食しながら詩を教え、書画の揮毫などで潤筆料を稼いだ。その足跡は東海道、京都、伊勢、信州、上州に及ぶ。
文化3年3月、39歳の時丙寅の火災と呼ばれる江戸の大火に罹災。家を焼失した詩仏は復興費用の捻出のため画家の釧雲泉と信越地方に遊歴し、秋に帰ると神田お玉ヶ池に家を新築、詩聖堂(現 東京都千代田区岩本町2丁目付近)と称した。しだいに訪問客が増え、それにともなってこの詩聖堂に度重なる増築を加え、豪奢な構えとなっていく。文化7年正月、『詩聖堂詩集初編』を出版し、江戸詩壇の中で確固たる地位を築く。この頃、頼山陽などと交流する。
文化13年(1816年)、書画番付騒動が起こり、これに巻き込まれる。これは当時の江戸の学者や文人達を相撲の番付に見立てて格付けした「都下名流品題」という一枚刷を巡り、あちこちで格付けの不当が言い立てられ始めたことによる。東の関脇に詩仏が格付けされており、親友の菊池五山とともにこの戯れ事の黒幕と目されてしまった。大田錦城らと大きく悶着したが、後援者である増山雪斎の調停でなんとか治まった。真相ははっきりしないが詩仏の関与は濃厚と見られる。この後、詩仏は信越へ遊歴し、ほとぼりを冷ましている。
地方に遊歴してもしだいに振るわなくなったことに焦りを感じたためか、詩仏は文政8年(1825年)、59歳にして秋田藩に出仕する。ほとんど拘束を受けない条件で江戸の藩校 日知館の教授として俸禄を給されたので生活そのものは変らなかった。文政12年(1829年)は63歳になる詩仏にとって運の悪い年だった。3月の江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂を全焼し、秋田藩邸に仮住まいを余儀なくされた。下谷練塀小路に小宅を構えることは出来たが、二度と詩聖堂を復興することは出来なかった。ついでこの冬、二人の幼女を残して妻が先立つ。
晩年の詩仏は江戸詩壇の泰斗として敬われ、交友も活発であったがかつての華やかさは次第に失われていった。また肉体的にも衰えが目立ち、65歳 秋田に旅した帰路には脚気が悪化し養子の謙介に迎えに来てもらわねばならなかった。 天保8年2月(1837年)、自宅で没する。享年71。浅草松葉町の光感寺に葬られる。後に藤沢市本町に改葬された。
詩仏は穏やかで物事に頓着しない性格で少しも驕ることがなかった。また人付き合いがよく、酒を好んだこともあり、多くの文人墨客と交流し、当時の詩壇のアイドル的な人気を獲得した。市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで江戸の四詩家と称せられ、また、画家の清水天民、儒者の並河天民、詩人の大窪天民(別号)で三天民と評される。
蜀山人は「詩は詩仏、書は米庵に狂歌俺、芸者小万に料理八百善」、「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって激賞した。師の山本北山は、「詩仏は清新性霊の新詩風の中で育ち、古文辞格調派の毒に染まっていない」として大いに期待しエールを送っている。
詩仏の詩は范成大、楊万里、陸游など南宋三大家の影響が強いといわれる。詩はいたずらに難解であるべきでなく平淡であることを貴しとし、清新であり機知に富んでいながら尚、わかりやすい詩をめざした。
このように写実的な詩風を好んだため、特に詠物詩を得意とした。孫過庭に影響され草書を能くした。また画については蘇軾に私淑し、墨竹図をもっとも得意とした。墨竹の四葉が対生する様は「詩仏の蜻蛉葉」と称され尊ばれ、多くの人から書画の揮毫を求められ、潤筆料を稼いだ。
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冒頭の一作品目の資料が検索により見つかりました。
山水画 高久靄崖筆
紙本水墨軸装 合箱入 軸先木製
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横485*縦403
「痛みがひどいため、表具を改装している。箱、栞を作成した。落款、印章、出来から真作と判断される。本作品は仙台の骨董市で掘り出したもの。仙台市内の額縁屋さんを通して表具したもので、箱は利府の家具屋さんに特注で依頼した。箱書きは仙台近郊の石森氏という書家に依頼して書いて頂いた。」とメモ書きがありますので仙台に勤務してた頃の作品です。
仙台には頻繁に来ていたようですので、当時の作品かもしれません。
箱書を書の得意な方にお願いしたり、作品説明の栞を作ったりと蒐集し始めた頃のほうが今より作品を大事に扱っていたようです。
「初心忘れるべからず」か・・・・。
高久靄崖の作品は当方にとっては二作品目のはずですが、一作品目は資金調達のため売却したように記憶していますが、当方の売却リストにはないのでまだどこかにあるかも・・。
何回かに分けて所蔵していた作品を処分していますので時々、処分していたか、処分していないのか混乱することがあります。いずれにしても骨董品というものは売ろうと思うと滅茶苦茶に安いものです。本作品のようなグレードの中堅どころの画家の作品は、真贋などという前に本物であっても二束三文のものです。
青緑山水図 高久靄崖筆 大窪詩仏賛
絹本水墨着色軸装 大窪詩仏賛 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:横2010*縦570 画サイズ:横1280*縦430
高久靄崖はプライドが高く、金儲けのために絵を描くことはしなかったために極貧の生活のようだったので貧乏神と称する人もいるようです。
春の風景かな。
家に飾っておいたら家内からのメールで「舟の乗っている人の頭が無いよ。」だと・・・。
全体の雰囲気はいい作品なのですが、どこかぱっとしない
贋作ではなさそうですが、この辺が幕末・明治の南画家の限界か・・・
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高久靄崖:寛政8年(1796年)~天保14年4月8日(1843年5月7日)。下野那須郡杉渡戸(現 栃木県那須塩原市黒磯)に生まれる。名は徴、字は子遠、通称秋輔。号は靄、石窟、如樵、石窠学、梅斎、疎林外史。靄は、馬方や煙草職人をする傍ら、郷里の画家 平出雪耕や小泉斐(あや)について書画を学ぶ。
青年期より下野鹿沼(栃木県鹿沼市)に移り、池大雅や清の伊孚九に私淑し、文人画を独学した。鹿沼の文化人に支援を受け、文政6年(1823年)27歳のとき江戸に出る。
江戸では画家として評判が高かったが、気位が高く、儲けのために画くことがなかったので生活は貧窮した。見かねた知人の田能村竹田のはからいで谷文晁の画塾写山楼の門下となり、文晁が弟子の靄の絵を売り出したという。弟子思いの文晁らしい行動だが、それほど画の力量があったという証左でもある。
同門の渡辺崋山が蛮社の獄で投獄されたとき、椿椿山らとともに救出に尽力したという。30代になると北陸や東北、関西など各地を盛んに旅し、古書画の調査や模写を行っている。特に仙台は三度訪ねている。この調査を元に『過眼録』を著した。
天保8年(1837年)42歳のとき、それまで鹿沼に拠点をもって行き来を繰り返したが、江戸に永住を決意する。天保14年(1843年)4月8日、江戸両国薬研堀のアトリエ晩成山房で永眠。享年48。谷中(台東区谷中4)の天龍院に靄の墓がある。
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賛の解読は未了・・・
「姑□仙人□玉 沙丹光□笑洞中 □□□一択東風□□作江 □第一□ 詩佛老人書 押印」ん~~。
大窪詩仏は享年74歳、その頃高久靄崖は享年42歳で、高久靄崖が亡くなる頃に江戸に定住を決めています。詩仏老人と賛にありことから大窪詩仏の最晩年の賛か?
高久靄崖はその6年後に48歳で亡くなっています。
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大窪詩仏:(おおくぼしぶつ)明和4年(1767年)~天保8年2月11日(1837年3月17日))。江戸時代後期の漢詩人である。書画も能くした。
常陸国久慈郡袋田村(現 茨城県久慈郡大子町)に生まれる。名は行(こう)、字は天民(てんみん)、通称を柳太郎、のちに行光、号は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく),痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)、玉地樵者、艇棲主、含雪、縁雨亭主、柳庵、婁庵、詩聖堂(しせいどう)、江山書屋(こうざんしょや)、既醉亭(きすいてい)、痩梅庵(そうばいあん)とも号した。号の詩仏は唐詩人 杜甫が「詩名仏」と称されたことによるものか、あるいは清の袁枚の号に因むと言われる。
印章の読みは不明です。
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大窪詩仏の補足説明
我が郷里の秋田に関係するらしく、秋田藩に出仕しています。秋田藩(あきたはん)は久保田藩(くぼたはん)とも呼ばれています。久保田城を居城とし、藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封されました。水戸から美人を連れて行ったので秋田には美人が多く、水戸には美人が少ないといわれたのはこのことによる?? 石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。
また本ブログでなんども投稿されている釧雲泉とは信越に一緒に旅行しています。
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詩仏が10歳の頃、隣家が火事となり大騒動になっていても、それに気付かず読書しつづけたという逸話が残っている。 父の大窪宗春光近は桜岡家の婿養子となったが離縁になり、詩仏を引き取って実家のある常陸国多賀郡大久保村に戻った。このため詩仏も大窪姓に復する。代々大窪家は医を生業としており、宗春は田舎で身を沈めることを潔しとしなかったため、数年後単身で江戸にて小児科医を開業する。江戸では名医として評判となり大いに繁盛した。詩仏は15歳頃、江戸日本橋新銀町で開業する父の元に身を置き、医術を学び、剃髪し宗盧と号した。
21歳頃より山本北山の門人 山中天水の塾 晴霞亭に通い儒学を学び、市河寛斎の江湖詩社にも参加して清新性霊派の新風の中、詩作を始める。24歳のとき父が亡くなるが、医業を継がず詩人として身を立てる決意をする。同年、師の天水が33歳の若さで早世し、中野素堂の紹介で山本北山の奚疑塾に入門する。
25歳の時、市河寛斎が富山藩に仕官した後、江湖詩社に活気がなくなってくると、先輩の柏木如亭と向島に二痩社を開いた。詩仏の別号 痩梅、如亭が痩竹と号したことに因んだ命名である。この二痩社には百人を超える門人が集った。その後、自らの詩集や啓蒙書などを活発に刊行する。また各地を遊歴し、文雅を好む地方の豪商などに寄食しながら詩を教え、書画の揮毫などで潤筆料を稼いだ。その足跡は東海道、京都、伊勢、信州、上州に及ぶ。
文化3年3月、39歳の時丙寅の火災と呼ばれる江戸の大火に罹災。家を焼失した詩仏は復興費用の捻出のため画家の釧雲泉と信越地方に遊歴し、秋に帰ると神田お玉ヶ池に家を新築、詩聖堂(現 東京都千代田区岩本町2丁目付近)と称した。しだいに訪問客が増え、それにともなってこの詩聖堂に度重なる増築を加え、豪奢な構えとなっていく。文化7年正月、『詩聖堂詩集初編』を出版し、江戸詩壇の中で確固たる地位を築く。この頃、頼山陽などと交流する。
文化13年(1816年)、書画番付騒動が起こり、これに巻き込まれる。これは当時の江戸の学者や文人達を相撲の番付に見立てて格付けした「都下名流品題」という一枚刷を巡り、あちこちで格付けの不当が言い立てられ始めたことによる。東の関脇に詩仏が格付けされており、親友の菊池五山とともにこの戯れ事の黒幕と目されてしまった。大田錦城らと大きく悶着したが、後援者である増山雪斎の調停でなんとか治まった。真相ははっきりしないが詩仏の関与は濃厚と見られる。この後、詩仏は信越へ遊歴し、ほとぼりを冷ましている。
地方に遊歴してもしだいに振るわなくなったことに焦りを感じたためか、詩仏は文政8年(1825年)、59歳にして秋田藩に出仕する。ほとんど拘束を受けない条件で江戸の藩校 日知館の教授として俸禄を給されたので生活そのものは変らなかった。文政12年(1829年)は63歳になる詩仏にとって運の悪い年だった。3月の江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂を全焼し、秋田藩邸に仮住まいを余儀なくされた。下谷練塀小路に小宅を構えることは出来たが、二度と詩聖堂を復興することは出来なかった。ついでこの冬、二人の幼女を残して妻が先立つ。
晩年の詩仏は江戸詩壇の泰斗として敬われ、交友も活発であったがかつての華やかさは次第に失われていった。また肉体的にも衰えが目立ち、65歳 秋田に旅した帰路には脚気が悪化し養子の謙介に迎えに来てもらわねばならなかった。 天保8年2月(1837年)、自宅で没する。享年71。浅草松葉町の光感寺に葬られる。後に藤沢市本町に改葬された。
詩仏は穏やかで物事に頓着しない性格で少しも驕ることがなかった。また人付き合いがよく、酒を好んだこともあり、多くの文人墨客と交流し、当時の詩壇のアイドル的な人気を獲得した。市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで江戸の四詩家と称せられ、また、画家の清水天民、儒者の並河天民、詩人の大窪天民(別号)で三天民と評される。
蜀山人は「詩は詩仏、書は米庵に狂歌俺、芸者小万に料理八百善」、「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって激賞した。師の山本北山は、「詩仏は清新性霊の新詩風の中で育ち、古文辞格調派の毒に染まっていない」として大いに期待しエールを送っている。
詩仏の詩は范成大、楊万里、陸游など南宋三大家の影響が強いといわれる。詩はいたずらに難解であるべきでなく平淡であることを貴しとし、清新であり機知に富んでいながら尚、わかりやすい詩をめざした。
このように写実的な詩風を好んだため、特に詠物詩を得意とした。孫過庭に影響され草書を能くした。また画については蘇軾に私淑し、墨竹図をもっとも得意とした。墨竹の四葉が対生する様は「詩仏の蜻蛉葉」と称され尊ばれ、多くの人から書画の揮毫を求められ、潤筆料を稼いだ。
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冒頭の一作品目の資料が検索により見つかりました。
山水画 高久靄崖筆
紙本水墨軸装 合箱入 軸先木製
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横485*縦403
「痛みがひどいため、表具を改装している。箱、栞を作成した。落款、印章、出来から真作と判断される。本作品は仙台の骨董市で掘り出したもの。仙台市内の額縁屋さんを通して表具したもので、箱は利府の家具屋さんに特注で依頼した。箱書きは仙台近郊の石森氏という書家に依頼して書いて頂いた。」とメモ書きがありますので仙台に勤務してた頃の作品です。
仙台には頻繁に来ていたようですので、当時の作品かもしれません。
箱書を書の得意な方にお願いしたり、作品説明の栞を作ったりと蒐集し始めた頃のほうが今より作品を大事に扱っていたようです。
「初心忘れるべからず」か・・・・。