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青磁毘沙門天像 初代?宮永東山作

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最近はちと飲み会続き・・・、元同僚らとの飲み会が続き、昨夜は郷里の友人と久しぶりに一献。ちと飲みすぎたかな。さて今日は早朝より福島方面へ・・。

本日の作品は宮永東山という人の作品です。初代、二代、三代までおられるようで、どちらかは当方では断定できませんが、初代ということで購入した経緯があります。記事は初代に関しての記述とします。

製作者や時代考証において、中国の陶磁器ほど真贋合い交じり合い魑魅魍魎ではないのでしょうが日本の陶磁器も世襲があるなど魑魅魍魎とした面倒くさい混濁の世界です。

青磁毘沙門天像 初代?宮永東山作
共箱入
幅119*奥行990*高さ271



毘沙門天は平安時代は財福の神、そして疫病を祓う神、無病息災の神。平安時代末期には恵比寿・大黒にならぶ人気で室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊となり、江戸時代以降は特に「勝負事に利益あり」として崇められたという神様です。魑魅魍魎たる世界には神様が必要です。



お~、なんと息子と小生にはぴったりの神様ではないか・・・、ということで衝動買い。



初代宮永東山は荒岡倉天心の助手、役人を経て、浅井忠に出会ったことが人生の契機となり,芸術の道を志すようになります。その頃に京都の陶工錦光山宗兵衛と知り会い、錦光山の娘と結婚して陶芸を志すようになります。



三越の番頭であった日比翁介、さらには荒川豊蔵、魯山人と知り合い、のちに「青磁の宮永」「東山の青磁」とも称されるほど,青磁の作品を多く創出しました。



宮永東山窯は、明治42年に開窯し、昭和40年代まで活動してきた京都を代表する工房で、初代宮永東山は西洋美術概念の受容による京都の陶芸を近代化に導いた人物といえるでしょう。




毘沙門天についての概略は下記のとおりです。



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毘沙門天(びしゃもんてん、梵名: ヴァイシュラヴァナ、梵: वैश्रवण , VaiśravaṇaまたはvaizravaNa):仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。また四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっており、様々な呼び方がある。種子はベイ(vai)。

日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。鞍馬は北陸若狭と山陰丹波を京都と結ぶ交通の要衝でもあり古くから市が栄え、自然と鞍馬寺の毘沙門天の本来の神格である財福の神という面が強まり、また9世紀頃からは正月の追儺において、疫病を祓う役どころがかつての方相氏から毘沙門天と竜天のコンビに変わっていったことから無病息災の神という一面が加わる。

 

平安時代末期にはエビスの本地仏ともされ、日本では毘沙門天は甲冑をつけた姿が主流となるがこの姿はエビス神の古い形態でもあり、このことは市場で祀られたことと関係がある。こうして福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒にならぶ人気を誇るようになる。室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる。

日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。また、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。例えば密教の両界曼荼羅では甲冑に身を固めて右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれる。ただし、東大寺戒壇堂の四天王像では右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像されている。

毘沙門という表記は、ヴァイシュラヴァナを中国で音写したものであるが「よく聞く所の者」という意味にも解釈できるため、多聞天(たもんてん)とも訳された。帝釈天の配下として、仏の住む世界を支える須弥山の北方、水精埵の天敬城に住み、或いは古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち北倶盧洲(ほっくるしゅう)を守護するとされる。また、夜叉や羅刹といった鬼神を配下とする。また、密教においては十二天の一尊で北方を守護するとされる。

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ということは北向きに飾るといいのかな?? 大黒様、寿老人、布袋様の偶像はすでに自宅にあるので残りは恵比寿様、弁財天、福禄寿・・。絵の作品はすでにあるのですが・・。このように揃えたくなるの蒐集の欲・・・。

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初代宮永東山: 1868年( 明治元年)~1941年( 昭和16年12月15日)。石川県大聖寺生まれ。本名剛太郎。東京独逸全修学校卒業。その後,横浜のウィンクレル商会に入社。1895年東京美術学校講師として,欧米諸国の美術施設の調査を行う。1897年,パリ万国博覧会臨時事務局に勤務し,1899年,1900年パリ万国博覧会のため渡仏。その際,7代錦光山宗兵衛と知り合い,帰国後,1901年(明治34)から,京都の錦光山宗兵衛の工房で美術顧問として働く。1903年,「遊陶園」の設立に参加。1909年に独立し,京都粟田口(あわたぐち),のち伏見深草に開窯,青磁を得意とした。「東山」の号は,幸田露伴によってつけられた。子に宮永友雄(2代東山),孫に理吉(3代)。享年74歳。

 

陶芸家としての経歴は,非常に特殊である。明治維新の廃藩置県にともない加賀の大聖寺藩士だった父に連れられて金沢から上京し、東京で東京独逸全修学校入学,卒業後改めて東京仏語学校で語学とフランスの文化の歴史を学んだ。卒業後は岡倉天心の助手として,欧米の美術施設の調査にあたっている。その才をみとめられ農商務省に奉職した後,1899年に,フランスのパリで開催された1900年パリ万国博覧会の事務局に勤務することになり,かねてからの念願のパリに渡り欧州のあたらしい文化の吸収に勤めた。そこで文部省から西洋画研究のため留学を命ぜられパリに滞在していた浅井忠に出会ったことが人生の契機となり,芸術の道を志すようになった。当時欧州では新しい美術様式(アール・ヌーヴォー)が興り繁栄を極めていた。
浅井忠の進めもあり,パリ万国博覧会視察のため滞欧していた京都の陶工錦光山宗兵衛から帰国後,京都にきて陶磁器に手を染めないかとの誘いを受け焼き物の世界に入った。パリではそのほか,三越の番頭であった日比翁介とも出会う。京都で陶芸を始めてからも日比翁介と交友関係にあり,自身の作品を持ち込み,そこで販売することもあったという。三越が呉服以外の商品を扱ったのは,それが初めてであったというエピソードが残っています。帰国後,錦光山の招きに応じ京都に移住し,錦光山の娘と結婚して,陶芸の道をあゆみ始めます。錦光山を名乗らなかったのは,後に妻とは死別し,その弟が錦光山の家を継いだという経緯によります。以来,3代続いて東山と号して陶芸を生業としています。工場長が荒川豊蔵で魯山人が豊蔵の知人という関係のため魯山人が青磁の器を東山窯で焼いていたそうです。
パリから帰って錦光山に入って創作した初期の作品はアールヌーヴォー様式を用いた多く、伝統の焼き物の街京都に新しい風をという並々ならぬ心意気が感じられるます。後年から「青磁の宮永」「東山の青磁」とも称されるほど,青磁の作品が多く創出されました。宮永東山窯は、明治42年に開窯し、昭和40年代まで活動してきた京都を代表する工房です。京都の「錦光山」において粟田焼の意匠改良の重役を担い、西洋美術概念の受容による京都の陶芸を近代化に導いた人物といえる。

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二代 宮永東山 :1907年(明治40)~1995年(平成6)。京焼名工・初代東山に師事、昭和16年二代東山を襲名。色絵・染付など多様な技法・釉薬を用い、茶器・花器・など磁器作品を制作。京都伝統工芸家協会委員。

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荒川豊蔵:昭和期を代表する美濃焼の陶芸家で、「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立しました。生まれは岐阜県土岐郡(現在の多治見市)、加藤与左衛門景一の直系で、彼は美濃焼の陶工の血筋を受け継いでいます。地元の学校を卒業後、神戸の陶磁器貿易商や多治見の陶磁器貿易商で働き、25歳の時に、ある特殊な絵具による手描きの上絵磁器コーヒー茶碗のプロデュースをしました。絵付けは日本画家の近藤紫雲に依頼し、出来上がったコーヒー茶碗を京都の錦光山宗兵衛へ持ち込むと高価で買い上げられたことから、独立して上絵磁器制作の事業もおこしています。残念ながら後にこの事業は失敗してしまいますが、錦光山宗兵衛の顧問をしていた宮永東山と縁があったため、28歳の時に京都の宮永東山に師事し、東山窯の工場長を任されました。宮永東山の元では一流の焼き物を見る機会も増え、後に東山窯を訪れた北大路魯山人と親交を深め、北大路魯山人の手伝いで鎌倉へ移り、鎌倉の星岡窯で作陶に関わります。星岡窯には荒川豊蔵の専用の轆轤がありましたが本格的な作陶は行わず、1930年に名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と、志野筍絵茶碗を見せてもらったのがきっかけで古志野へと興味を抱き始めます。この頃、古志野は瀬戸で焼かれたというのが通説となっていましたが、現在の可児市久々利大萱の古窯跡を調査した荒川豊蔵は志野が美濃で焼かれたことを明らかにしました。志野の発見から数年後39歳の時星岡窯を辞め、自身が志野を発見した大萱に登り窯を築窯し、本格的な作陶活動を始めます。

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骨董整理に飲み会の疲れもあってかクタクタ・・、結局初代か二代か判別つかず・、基本的にどちらでもいい・・、息子と一休み・・。



神のご加護のあらんことを・・。






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