骨董の本来の楽しみ方は「気に入ったものを購入して愉しむ」ということです。本日の作品はそういう思いに改めてさせてくれた作品です。感じが良いので数千円で購入して、寝ている脇にしばらく掛けていたのですが、「なかなか」というのが正直な感想です。
印章等を調べていませんので真贋は無論不明・・、投稿するには時期尚早のようで、よって「伝」としております。
山水図 青木夙夜筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1290*横625 画サイズ:縦315*横540
師である池大雅を模倣しながらも池大雅のようなおおらかさとは違う画風が漂っている作品です。表具は紙表具の質素な表具ですが、作品自体はよく描けています。
青木夙夜は池大雅の模写の域を出ないという評価もありますが、師である池大雅の画風を踏まえながら、師とは違う「清楚な穏やかさのある佳品」という評がしっくりくる作品です。
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青木夙夜:生年: 生年不詳 ~没年:享和2年10月23日(1802年11月18日)、他の資料では天明頃(1781〜1789)歿とあります。江戸中期の南画家。名は浚(俊)明。通称庄右衛門。字は大初、のち夙夜。士風、(大雅)春塘、八岳(山人)と号した。馬韓の余璋王の末裔といい余姓を名乗った。韓天寿の従兄弟。京都の人。
天寿を介して早くから池大雅に師事。師を敬慕すること篤く,天明4(1784)年玉瀾(大雅の妻)没後,大雅の遺作・遺品の一部を処分して,京都東山双林寺境内に大雅堂を建立。田能村竹田著『山中人饒舌』によれば,以後十数年間、大雅堂2世と称して堂を守り画作にふけった。大雅作品の鑑定に詳しく,また忠実な模写にも努めたが,自らの画風はまじめで穏和である。
寛政12(1800)年,大雅25回忌を主催。晩年は伊勢(三重県)へ移住し,松坂で没した。
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落款には年号の記載のあるものは物議を醸し出すことがあります。本作品の落款には「乙卯夏日写 余夙夜 押印(□□余氏)」とあり、「乙卯」というのは1795年(寛政7年)であると考えられますが、青木夙夜は没年が不詳で1802年、1781~1789年という二つの記載があり定かではないようです。本作品が新作で1795年の作とすると前者の1802年が正しいということになるかもしれませんが、逆に1789年に没していると贋作となります。真贋は不明ゆえに断定できませんが興味深い年号のある作品です。
「寛政12(1800)年大雅25回忌を主催」というのが本当なら1795年作も真実味を帯びてきます。
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補足資料
近世松阪の文芸界でセンター的地位を占めていたのが、町の中心部にある岡寺山継松寺ですが、同寺には、そうした画家たちによる書画類が今も多数伝えられています。青木夙夜もこの継松寺とゆかりの深い画人の一人ですが、 彼の生涯には不明なところが多くあります。
夙夜は京都に生まれたようですが、生年は明らかではありません。従兄弟の関係にあった韓天寿を頼ってしばしば松阪に滞在し、この地で没したようです。また夙夜は、池大雅の跡を継いで2世大雅堂を名乗るなど、松阪だけではなく京都を中心とした18世紀後半の文化に少なからぬ足跡を残しました。
画家としての夙夜は、師である池大雅から大きな影響を受けています。 彼の作品には大雅風のスタイルを示す山水画が 少なくありませんし、 大雅の作品模写をたびたび行っていたことも大雅と彼との深いつながりを示す証左といえるでしょう。夙夜の作品はさほど多くありませんが、現存する作品はいずれも、当時の最先端文化であった中国文化に対する強い関心を示すとともに、清洌で繊細な感覚にあふれています。
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写真では伝わらないかもしれませんが、白描画のような描き方に墨の青味が効いていていい作品だと思いますが、私の思い込みでしょうか?
印章等を調べていませんので真贋は無論不明・・、投稿するには時期尚早のようで、よって「伝」としております。
山水図 青木夙夜筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1290*横625 画サイズ:縦315*横540
師である池大雅を模倣しながらも池大雅のようなおおらかさとは違う画風が漂っている作品です。表具は紙表具の質素な表具ですが、作品自体はよく描けています。
青木夙夜は池大雅の模写の域を出ないという評価もありますが、師である池大雅の画風を踏まえながら、師とは違う「清楚な穏やかさのある佳品」という評がしっくりくる作品です。
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青木夙夜:生年: 生年不詳 ~没年:享和2年10月23日(1802年11月18日)、他の資料では天明頃(1781〜1789)歿とあります。江戸中期の南画家。名は浚(俊)明。通称庄右衛門。字は大初、のち夙夜。士風、(大雅)春塘、八岳(山人)と号した。馬韓の余璋王の末裔といい余姓を名乗った。韓天寿の従兄弟。京都の人。
天寿を介して早くから池大雅に師事。師を敬慕すること篤く,天明4(1784)年玉瀾(大雅の妻)没後,大雅の遺作・遺品の一部を処分して,京都東山双林寺境内に大雅堂を建立。田能村竹田著『山中人饒舌』によれば,以後十数年間、大雅堂2世と称して堂を守り画作にふけった。大雅作品の鑑定に詳しく,また忠実な模写にも努めたが,自らの画風はまじめで穏和である。
寛政12(1800)年,大雅25回忌を主催。晩年は伊勢(三重県)へ移住し,松坂で没した。
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落款には年号の記載のあるものは物議を醸し出すことがあります。本作品の落款には「乙卯夏日写 余夙夜 押印(□□余氏)」とあり、「乙卯」というのは1795年(寛政7年)であると考えられますが、青木夙夜は没年が不詳で1802年、1781~1789年という二つの記載があり定かではないようです。本作品が新作で1795年の作とすると前者の1802年が正しいということになるかもしれませんが、逆に1789年に没していると贋作となります。真贋は不明ゆえに断定できませんが興味深い年号のある作品です。
「寛政12(1800)年大雅25回忌を主催」というのが本当なら1795年作も真実味を帯びてきます。
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補足資料
近世松阪の文芸界でセンター的地位を占めていたのが、町の中心部にある岡寺山継松寺ですが、同寺には、そうした画家たちによる書画類が今も多数伝えられています。青木夙夜もこの継松寺とゆかりの深い画人の一人ですが、 彼の生涯には不明なところが多くあります。
夙夜は京都に生まれたようですが、生年は明らかではありません。従兄弟の関係にあった韓天寿を頼ってしばしば松阪に滞在し、この地で没したようです。また夙夜は、池大雅の跡を継いで2世大雅堂を名乗るなど、松阪だけではなく京都を中心とした18世紀後半の文化に少なからぬ足跡を残しました。
画家としての夙夜は、師である池大雅から大きな影響を受けています。 彼の作品には大雅風のスタイルを示す山水画が 少なくありませんし、 大雅の作品模写をたびたび行っていたことも大雅と彼との深いつながりを示す証左といえるでしょう。夙夜の作品はさほど多くありませんが、現存する作品はいずれも、当時の最先端文化であった中国文化に対する強い関心を示すとともに、清洌で繊細な感覚にあふれています。
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写真では伝わらないかもしれませんが、白描画のような描き方に墨の青味が効いていていい作品だと思いますが、私の思い込みでしょうか?