木村武山は脳内出血で倒れ、病で右手の自由が利かなくなったため左手で絵筆を執り、「左武山」の異名で呼ばれました。小早川清は小児麻痺による後遺症により、左手一本で絵を描きました。身体的な障害を乗り越えて一流の画家となり、もしくは名画を遺したことには敬意を表します。これらの画家の作品は幾つか本ブログにも投稿されています。
本日は同じく左手で描いた画家「吉嗣拝山」の二作品目の投稿です。地震で右手をうしない左手だけで絵を描いたので「左手拝山」と称された画家です。無くした骨を筆にして使ったというのはよく知られています。
蜀機道図 吉嗣拝山筆 その2
絹本水墨淡彩軸装 軸先唐木 共箱
全体サイズ:縦2090*横560 画サイズ:縦1425*横420
「山従人面起 雲傍馬頭生 甲寅暑日倣沈石田筆意彷彿詩意 拝山 押印(「獨臂翁」の白文朱方印、「拝山」の朱文白方印)と賛が記されており、吉嗣拝山が69歳(1914年 大正3年 夏)の最晩年の作と推察されます。
箱書には「□□□拝山畫蜀機道」と題され、「甲寅秋日観於古□書□」とあります。箱書もまた描いた同年によるものと推察されます。拝山は翌1915年1月11日に亡くなっていますので、その前年の秋の箱書きで、非常に希少な作品と言えます。
題名の「蜀機道」は下記の説明の道のことで与謝蕪村の作品で著名ですね。この与謝蕪村の現在サントリー美術館で開催中の『若冲と蕪村』展に出品されており、昨日の日経新聞のも掲載されていました。
90年間行方が解らなかったらしいですが、「蜀桟道図」は蕪村の書簡の記載から1778年の作とされています。1922年刊行の「蕪村画集」(審美書院)に図版が掲載されて以降、所在不明になり、「幻の大作」と呼ばれていました。
2011年に東京の画商から美術館に連絡があり、シンガポールの会社が所蔵していることが判明。辻惟雄(のぶお)館長らが鑑定し、晩年に使った「謝寅(しゃいん)」の署名もあることなどから蕪村の真筆と判断したそうです。
多くの画家が描いている題材です。本ブログでも何点か投稿しております。(現在は非公開)本作品は与謝蕪村らの描いた「蜀機道」とはまったく趣の違う作品となっております。
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蜀道の険(しょくどうのけん):戦国時代、秦の恵王が蜀王を騙して敷かせた道。蜀道とは漢中から成都への桟道の事を指す。李白が「蜀道の難は、青天に上るよりも難し」と歌ったほどの難所であった。中でも、垂直に切り立った岩肌に取り付く蜀の桟道は、現在は観光名所として知られる。
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賛にある「倣沈石田筆意」は中国の明代中期の文人にして画家である「沈周」の画法に模したという意味でしょう。
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沈周(しん しゅう):宣徳2年11月21日 (1427年) - 正徳4年8月2日 (1509年))は、中国の明代中期の文人にして画家である。文人画の一派である呉派を興し「南宋文人画中興の祖」とされた。また蘇州文壇の元老として中国文学史上に名をとどめ、書家としても活躍した。詩書画三絶の芸術家として後世になっても評価が高い。家訓を守り生涯にわたって仕官することなく明朝に抗隠した。長洲県相城里(現在の江蘇省蘇州)の出身。字を啓南、号を石田・石田翁・白石翁とした。享年83。
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本当にプロの絵描きが描いた作品・・?? と思うような作品です。
どこかマンガチック・・・・、
この作品を描いた亡くなる前年に語った、画家としての拝山の人生訓をご紹介しましょう。
「畫家は猶藝者の如きものだ。餘り知られても困る、餘り知られぬでも困る。畫家としての一番楽しい時代は、何うしても漫遊中で、氣が向けば書き、向かねば書かぬといふのでないと、責め立てられて書くやうでは、なかなか堪ったものではない。(中略)何でも満身に力が篭った時でないと、眞ん物は出來ぬもので私の經験から見ても、窮餘の畫には、総じてよいものが出來るようである。(中略)繪にしても何にしても、具さに人生の辛酸を嘗めて來た後でないと、實際の味は出て來ないもので、容易にまたその味に食ひ入ることも出來ぬものである。」
まさに亡くなる一年前に描いたと思われる本作品・・、「実際の味」とはこのような作品のことをいうのか・・。
晩年は浪花の商人、中村伊三郎が拝山のために建てた六甲山の別荘で悠々自適の日々を過ごすこともありましたが、大正4年(1915)1月11日、病のため70歳で生涯を閉じていますので、何の病かは知りませんが、その前年の夏の作、秋の箱書きですので箱書きのある最後の作品かもしれません。
本日は同じく左手で描いた画家「吉嗣拝山」の二作品目の投稿です。地震で右手をうしない左手だけで絵を描いたので「左手拝山」と称された画家です。無くした骨を筆にして使ったというのはよく知られています。
蜀機道図 吉嗣拝山筆 その2
絹本水墨淡彩軸装 軸先唐木 共箱
全体サイズ:縦2090*横560 画サイズ:縦1425*横420
「山従人面起 雲傍馬頭生 甲寅暑日倣沈石田筆意彷彿詩意 拝山 押印(「獨臂翁」の白文朱方印、「拝山」の朱文白方印)と賛が記されており、吉嗣拝山が69歳(1914年 大正3年 夏)の最晩年の作と推察されます。
箱書には「□□□拝山畫蜀機道」と題され、「甲寅秋日観於古□書□」とあります。箱書もまた描いた同年によるものと推察されます。拝山は翌1915年1月11日に亡くなっていますので、その前年の秋の箱書きで、非常に希少な作品と言えます。
題名の「蜀機道」は下記の説明の道のことで与謝蕪村の作品で著名ですね。この与謝蕪村の現在サントリー美術館で開催中の『若冲と蕪村』展に出品されており、昨日の日経新聞のも掲載されていました。
90年間行方が解らなかったらしいですが、「蜀桟道図」は蕪村の書簡の記載から1778年の作とされています。1922年刊行の「蕪村画集」(審美書院)に図版が掲載されて以降、所在不明になり、「幻の大作」と呼ばれていました。
2011年に東京の画商から美術館に連絡があり、シンガポールの会社が所蔵していることが判明。辻惟雄(のぶお)館長らが鑑定し、晩年に使った「謝寅(しゃいん)」の署名もあることなどから蕪村の真筆と判断したそうです。
多くの画家が描いている題材です。本ブログでも何点か投稿しております。(現在は非公開)本作品は与謝蕪村らの描いた「蜀機道」とはまったく趣の違う作品となっております。
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蜀道の険(しょくどうのけん):戦国時代、秦の恵王が蜀王を騙して敷かせた道。蜀道とは漢中から成都への桟道の事を指す。李白が「蜀道の難は、青天に上るよりも難し」と歌ったほどの難所であった。中でも、垂直に切り立った岩肌に取り付く蜀の桟道は、現在は観光名所として知られる。
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賛にある「倣沈石田筆意」は中国の明代中期の文人にして画家である「沈周」の画法に模したという意味でしょう。
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沈周(しん しゅう):宣徳2年11月21日 (1427年) - 正徳4年8月2日 (1509年))は、中国の明代中期の文人にして画家である。文人画の一派である呉派を興し「南宋文人画中興の祖」とされた。また蘇州文壇の元老として中国文学史上に名をとどめ、書家としても活躍した。詩書画三絶の芸術家として後世になっても評価が高い。家訓を守り生涯にわたって仕官することなく明朝に抗隠した。長洲県相城里(現在の江蘇省蘇州)の出身。字を啓南、号を石田・石田翁・白石翁とした。享年83。
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本当にプロの絵描きが描いた作品・・?? と思うような作品です。
どこかマンガチック・・・・、
この作品を描いた亡くなる前年に語った、画家としての拝山の人生訓をご紹介しましょう。
「畫家は猶藝者の如きものだ。餘り知られても困る、餘り知られぬでも困る。畫家としての一番楽しい時代は、何うしても漫遊中で、氣が向けば書き、向かねば書かぬといふのでないと、責め立てられて書くやうでは、なかなか堪ったものではない。(中略)何でも満身に力が篭った時でないと、眞ん物は出來ぬもので私の經験から見ても、窮餘の畫には、総じてよいものが出來るようである。(中略)繪にしても何にしても、具さに人生の辛酸を嘗めて來た後でないと、實際の味は出て來ないもので、容易にまたその味に食ひ入ることも出來ぬものである。」
まさに亡くなる一年前に描いたと思われる本作品・・、「実際の味」とはこのような作品のことをいうのか・・。
晩年は浪花の商人、中村伊三郎が拝山のために建てた六甲山の別荘で悠々自適の日々を過ごすこともありましたが、大正4年(1915)1月11日、病のため70歳で生涯を閉じていますので、何の病かは知りませんが、その前年の夏の作、秋の箱書きですので箱書きのある最後の作品かもしれません。