近藤悠三の作品は二作品目です。一作品目は正体不明の下記の作品で引き続きお茶の稽古に使われているらしい。
波斯水指 近藤悠三作
口径145*高さ190
今回は山水の染付の作品です。一応、近藤悠三氏は人間国宝らしい・・。
そういえば最近の「なんでも鑑定団」にも出品されていたような・・。
染付の石榴や山水の作品はよく見かける作品のひとつですね。
山染付飾皿 近藤悠三作
共箱
幅210□*底150□*高さ30
近藤悠三は1956年以降は染付の制作に専念し、つけたてとぼかしを基調とした筆遣いによって濃淡を表し、ザクロや梅などをモチーフとして絵画的な表現に特徴があります。
発色に優れ雄渾かつ品格がある作品を制作しました。
さらに1960年以降、呉須染付に併用して赤絵や金彩の技法を用いるようになり、さらに独特の作風を確立しています。
近藤悠三の染付の特徴は、コバルトを精製していないことのようです。そのため不純物である鉄やマンガンを含んでおり、窯から出すとそれらが滲んで青黒くなったり赤黒くなったりします。その濃淡が景色として趣を持たせ、作品が味わい深いものとなっているようです。
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近藤悠三(1902―85) :陶芸家。本名雄三。京都生まれ。京都市立陶磁器試験場の付属伝習所でろくろを学ぶ。
1921年(大正10)から3年間、奈良県安堵(あんど)村(現安堵町)において富本憲吉の助手となり、彼の作陶方針が決まった。
京都に戻ると清水(きよみず)に居を構え、28年(昭和3)に帝展に入選してから作家としての地歩を固めた。
彼の本領はあくまで磁器に発揮されており、染付を本領とし、柘榴(ざくろ)、葡萄(ぶどう)、梅、松、山水、詩文などに題材を求め、大胆豪放な画境を開いた。
赤絵や金彩も円熟の境を示し、濃麗な大装飾画面を展開した。
58年(昭和33)から京都市立美術大学で教え、同大学学長、京都芸術大学学長などを歴任。77年には「染付」の重要無形文化財保持者に認定された。
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波斯水指 近藤悠三作
口径145*高さ190
今回は山水の染付の作品です。一応、近藤悠三氏は人間国宝らしい・・。
そういえば最近の「なんでも鑑定団」にも出品されていたような・・。
染付の石榴や山水の作品はよく見かける作品のひとつですね。
山染付飾皿 近藤悠三作
共箱
幅210□*底150□*高さ30
近藤悠三は1956年以降は染付の制作に専念し、つけたてとぼかしを基調とした筆遣いによって濃淡を表し、ザクロや梅などをモチーフとして絵画的な表現に特徴があります。
発色に優れ雄渾かつ品格がある作品を制作しました。
さらに1960年以降、呉須染付に併用して赤絵や金彩の技法を用いるようになり、さらに独特の作風を確立しています。
近藤悠三の染付の特徴は、コバルトを精製していないことのようです。そのため不純物である鉄やマンガンを含んでおり、窯から出すとそれらが滲んで青黒くなったり赤黒くなったりします。その濃淡が景色として趣を持たせ、作品が味わい深いものとなっているようです。
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近藤悠三(1902―85) :陶芸家。本名雄三。京都生まれ。京都市立陶磁器試験場の付属伝習所でろくろを学ぶ。
1921年(大正10)から3年間、奈良県安堵(あんど)村(現安堵町)において富本憲吉の助手となり、彼の作陶方針が決まった。
京都に戻ると清水(きよみず)に居を構え、28年(昭和3)に帝展に入選してから作家としての地歩を固めた。
彼の本領はあくまで磁器に発揮されており、染付を本領とし、柘榴(ざくろ)、葡萄(ぶどう)、梅、松、山水、詩文などに題材を求め、大胆豪放な画境を開いた。
赤絵や金彩も円熟の境を示し、濃麗な大装飾画面を展開した。
58年(昭和33)から京都市立美術大学で教え、同大学学長、京都芸術大学学長などを歴任。77年には「染付」の重要無形文化財保持者に認定された。
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