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陰刻雲龍紋花入 沖縄壷屋焼

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沖縄の陶磁器は出来不出来が大きく、近代になっては見るべき作品はほとんど無いと思われます。小橋川仁王、金城次郎、新垣栄三郎の後を継ぐ陶芸家がいないことが大きな原因でしょう。

陰刻雲龍紋花入 沖縄壷屋焼
合箱
口径70*胴径110*底径*高さ305



本作品は底には「琉球」との刻銘があり、本作品は幕末から明治期の作品と推察されます。



沖縄では江戸期には幕府の庇護のもとで古琉球の焼き物は栄えました。明治期になりその庇護がなくなり、衰退の一途をたどり、再興の機運が高まるも戦争により絶滅の危機となりました。民藝運動の高まりで復興するのですが、衰退時期の作品は極端に少なくなり、とくに本作品のような佳品は貴重なもののようです。



沖縄の焼き物は数は少ないのですが、本ブログでも幾つか投稿されています。

ちょっと沖縄の焼き物を整理してみましょう。

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沖縄の壷屋焼の焼成による大分類
壺屋焼は大きく分けて、「荒焼」と呼ばれる南蛮焼の系統を汲むものと、「上焼」と呼ばれる大陸渡来系の絵付があります。

1.上焼(沖縄方言でジョウヤチ)・・本作品

17世紀以降、朝鮮陶工らによって始められた絵付陶器で、陶土に白土をかぶせて化粧し、それから色彩鮮やかな絵付や彫刻紋様を施し、釉薬を掛けて焼成した作品です。用途は抱瓶(携帯用の酒器)やカラカラ(沖縄独特の注ぎ口のついた酒器)、茶碗、皿、鉢などの日用品。荒焼に対して装飾性は強いが、上流階級だけでなく庶民向けでもあったため、民芸運動家らは驚き絶賛したといいます。




2.荒焼(沖縄方言でアラヤチ)
14世紀~16世紀頃、ベトナム方面から伝わった焼き物。釉薬を掛けずに、1000度の温度で焼き締める。鉄分を含んだ陶土の風合いをそのまま生かしたもので、見た目は荒い作品です。当初は水や酒を貯蔵する甕が中心でしたが、近年は日用食器も多く焼かれています。また魔除けで知られるシーサーもこの荒焼に分類されます。

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本ブログでは下記の作品が「荒焼」に分類されそうです。

琉球南蛮焼花生 荒磯徳利(鬼の腕)   
合箱
口径44*最大胴径80*底径60*高さ258

似たような作品として下記の作品もあげられると思います。

南蛮焼締花入 江戸期杉古箱
口径90~75*胴径120*高さ285

さらには下記の作品もその可能性があります。

南蛮手焼締四耳花入 江戸前期 
合箱
口径55*胴径130*底径75*高さ275

さらに時代による分類では下記のようになるようです。

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時代による分類
1.古琉球:琉球の焼き物の歴史は、縄文時代の土器の出土例などが知られているが、より本格化するのは高麗瓦が出現する12、3世紀以降である。浦添城などから、「癸酉年高麗瓦匠造」の銘のある高麗瓦が出土しているが、この「癸酉(みずのととり)」は1153年か1273年かのいずれかを指すという説が有力である(他にも説がある)。ただし、この高麗瓦が沖縄で焼かれたのか朝鮮半島で焼かれたのかはまだ明らかでない。近年では浦添ようどれの発掘現場から、高麗系瓦の窯跡らしきものが発見されたとの報道がなされた。時期は14世紀後半から15世紀前半と見られ、これが事実なら当時から琉球では独自に高麗系瓦を造られていたことになる。16世紀には、中国からの帰化人で、琉球最初の瓦工ともいわれる渡嘉敷三良( ? - 1604年、阮氏照喜納家の祖)の活躍が知られている。また、『球陽』には、尚永王時代(在位1573年 - 1589年)の万暦年間(すなわち、1573年から1589年の間)に、唐名・汪永沢、小橋川親雲上孝韶(汪氏宇良家元祖)が初代瓦奉行に任命され、「陶瓦並ニ焼瓷等ノ項ヲ総管ス」という記述がある。焼瓷(やきがめ)とは今日の荒焼(あらやき、方言でアラヤチ)による甕(かめ)のことと考えられ、当時首里王府によって屋根瓦並びに荒焼が生産・管理されていたようである。荒焼の起源は不明な点も多いが、別名「南蛮焼」「琉球南蛮焼」と呼ばれるように、一般には14世紀後半以降、中国との進貢貿易が始まり次第に東南アジア方面との交易も活発になる中で、進貢貿易の見返り品を求めて、南方より酒甕や壺、碗類が琉球に大量にもたらされるようになり、そのとき同時に荒焼のもととなる製法も伝来したのではないかと考えられている。また、12世紀以降、中国の焼き物や徳之島のカムイ焼が輸入されるようになり、それらがグスク跡等から発掘され、沖縄で広く使われていたことが明らかになっている。ただしカムイ焼の窯跡のようなものは見つかっていない。

この時期の作品は上記で取り上げた作品群が重複するようです。

2.近世琉球:1609年、琉球は薩摩島津藩の支配下に入る。1616年、尚寧王は世子尚豊を通して、朝鮮陶工、一六(いちろく、? - 1638年。唐名・張献功、仲地麗伸。張氏崎間家元祖)、一官(いっかん)、三官(さんかん)の3名を薩摩より招聘して、湧田(現・那覇市泉崎付近)で陶器を作らせた。これが湧田焼の始まりである。また読谷村喜名でも、今日「喜名焼」と呼ばれる古窯があり、1670年頃、荒焼を主体とした陶器が盛んに生産されていた。康煕9年(1670年)の銘の入った喜名焼の厨子甕が発掘されている。喜名焼では水甕、酒甕といった大型のものから油壺までいろいろな陶器が作られていた。一説には南蛮焼はここから始まったという。他に知花窯(現・沖縄市知花)や宝口窯(現・那覇市首里)といった古窯も知られている。1670年には、平田典通を清に派遣して赤絵を学ばせるなど、現在の中国方面からの技術導入も行われた。1682年、尚貞王の時代に、湧田窯、知花窯、宝口窯の三カ所の窯を牧志村の南(現・壺屋)に統合して、新しい窯場が誕生した。これが現在の壺屋(つぼや、琉球方言でチブヤ)焼の草創である。その後、壺屋焼は琉球随一の窯場となり、その製品は国内消費や交易に利用された。また、琉球使節の「江戸上り」の際、将軍や幕府首脳への献上品である泡盛を入れる容器としても用いられた。江戸時代に大名の江戸屋敷が密集していた汐留遺跡の発掘の際に、伊達氏の屋敷跡と推定される地区から壺屋焼の徳利が出土している。また、幕末の風俗を記した『守貞謾稿』にも江戸や京都・大坂で荒焼徳利に入った泡盛が市中で売られていたことが記されており、それを裏付けるように各地の近世遺跡で壺屋焼が出土している。ただし、研究者の間でも「壺屋焼」の存在自体が知られておらず、「備前焼」「南蛮焼」として博物館などに展示されている例があるとの指摘(小田静雄)もある。

本ブログでは下記の作品がこの時期の作品かと思われます。

呉須絵線条文花入 古琉球壺屋焼合箱
口径20*胴径75*高さ135*高台径約55

下記のような作品がインターネット上にありましたが、製作年代は不詳です。
琉球焼 搔落人物文 双耳壺



本作品と同じような印が高台内にあります。



3.明治以降:明治から大正に掛けて壺屋焼は低迷期を迎える。琉球王府の廃止を含む幕藩体制の解消で流通の制限が無くなり、有田などから安価な焼き物が大量に流入してきた。再生の転機は、大正の終わり頃から柳宗悦によって起こされた民芸運動に陶工達が触発されてからである。柳は、沖縄での作陶経験のある濱田庄司らとともに1938年初めて沖縄を訪問し、1940年までに4回来島した。金城次郎や新垣栄三郎ら陶工に直接指導や助言を行い、また壺屋焼を東京や京阪神などで広く紹介したため、生産も上向きになった。今日、壺屋焼があるのはこの民芸運動家らによるところが大きい。彼らは日本国内で生産される日用雑器の「用の美」と呼ばれる実用性と芸術性に光を照らした。そして壺屋焼を、本土にない鮮やかな彩色が目を惹き、庶民の日用品でこれほどまでに装飾性を兼ね揃えたものは珍しいと評価している。壺屋やちむん通りにある南窯太平洋戦争(沖縄戦)で沖縄本島全土が焦土と化す中、壺屋地区は比較的軽微な被害で済んだ。しかし、一帯の都市化の進行とともに薪窯の使用が規制されると、伝統的な技法を失った当地では再度、存続の危機を迎えた。そのため、今日では薪窯を認可した読谷を始め、壺屋地区以外にも窯元が分散することとなり、およそ100ほどの窯元が県内に見られる。

この時期の作品は浜田庄司、河井寛次郎、小橋川仁王、金城次郎、新垣栄三郎など特定の個人による作品が多い。本ブログでも僅かながらその作品が投稿されているので参考になれば幸いです。

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沖縄の焼き物は本ブログでは本流とするところではありませんので、専門の書物を参考にしていただければと思います。いずれにしても中国を含む東南アジア、朝鮮半島、そして日本の影響を受け続けた沖縄の焼き物ですが、茶味のある作品は探すと結構たくさんありそうです。そう「茶味のある作品」が当ブログの追い求めるところの陶磁器蒐集の目的のように思います。



龍の釘彫りは実におおらかでいい。この絵付けは作品は下記の作品に通じます。

伝古九谷青手波ニ雲龍合箱
口径245*高台径90*高さ57

釘に荒々しさは胎土を突き抜けそうなほどの勢いがあります。



釉薬と土の味が渾然一体となり、雲龍と雰囲気をより一層醸し出しています。



波の表現も並じゃない・・・。



ずっしりとした重い作品です。



さて、このような作品が骨董市で陳列されていたら、読書の皆さんは買われますか? 

お値段は5万前後、値切って3万円ちょい・・。お値段はそれなりにしますが、現代の沖縄焼よりはお安いかも・・・。

当方は琉球焼については詳しくないので、高いか安いかはよく解りませんが、飾っておきたくなる作品だと思います。










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