鎧飾之図 狩野永暉筆
絹本着色軸装 軸先蒔絵 共箱
全体サイズ:縦2070*横660 画サイズ:縦1200*横510
5月の節句に飾る作品として依頼して描かれた作品と推察されます。戦場で身を守ってくれる甲冑(鎧や兜)は、武家にとって、特に男子にとって、とても大事なものでした。端午の節句では、鎧兜は子どもに災いがふりかからず、無事に逞しく成長するようにとの願いを込めて飾られています。
ただし節句に飾る鎧や兜は戦いの時の鎧や兜とは異なり実践的な甲冑武具ではありません。甲冑 鎧 兜は儀式や式典の正装であり晴れ着です。五月人形や鎧・兜を飾るという風習は、五月の節句になると外には旗幟や吹流しを立て座敷には鎧や兜、武具を飾っていた武家社会の風習が基になっています。
梅雨になる前にそれぞれの手入れを行うためのもので鎌倉・室町時代にすでに行われていました。また身の安全を祈願して神社にお参りする際に鎧や兜を奉納するというしきたりがあり、その武家社会の風習が庶民の間に広がり、江戸時代の庶民達が、武家社会の風習をまねて家の前に棚を作り、鎧・兜(作り物)や槍、幟などを飾った事がはじまりです。
この時に、神様が降りてくる目印になるようにと兜の頂の部分に、勇ましい人形の細工物を乗せたのです。その後、兜から人形が独立して飾られるようになりました。
本作品は家紋に「土佐柏」の定紋があることから土佐山之内の有能果敢な武将山之内一豊公を讃えたデザインの鎧飾りを描いた作品です。
箱書他:昭和四十八年五月吉祥 為田中氏 十二世狩野永睴 八十翁」とありります。
領収書が収められており、その内容には「記 弐拾萬円也 右正 受領いたしました 五月二日 狩野永睴 大阪市住吉区黒江中一丁目六二番地 狩野永睴 昭和四十八年(1973年)五月二日 田中三郎 買上日」とあります。
昭和48年の20万円というのはちょっとした金額ですね。
また作品中の落款には「金門画史 十二世狩野永睴 行年八十歳 押印」京とあり、京狩野の第九代の狩野永岳が禁裏(朝廷)御絵師御次席となってから落款に「金門画史」・「金門画院第一史」と記すこともあったのでそれに習っており、京狩野派の末裔一派と関連があると思われます。
狩野の12代に狩野永暉なる画家が知られており、その画家と推察されますが第十二代とは記載されていません。1893年頃の生まれとすると、第12代とされる「狩野永証」(1909年~1983年)との関連は不詳ですが、幕末から明治期にかけて京狩野派が衰退する中で、何代というのが混濁していったようです。
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京狩野派:安土桃山時代末から明治期まで京都で活躍した画家の流派。豊臣氏滅亡後、狩野派のほとんどが江戸に下ったことに対して、京都に留まったため、京狩野と呼ばれるようになった。初代狩野山楽、2代狩野山雪を輩出。また3代狩野永納は日本初の画伝書『本朝画史』を著した。4代永敬は、近江日野の高田敬輔を指導。この高田敬輔の門下から、曽我蕭白や月岡雪鼎、島崎雲圃という近年評価の高い画家が輩出した。流派はしだいに低迷したが幕末9代狩野永岳の代に一時的に復興する。しかしそれも長く続かず明治を迎えると急激に衰退した。
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京狩野派の系譜は一般的には下記のようになっています。
当主一覧 (13代の記載はない )
初代 狩野山楽=2代 狩野山雪=3代 狩野永納=4代 狩野永敬=5代 狩野永伯=6代 狩野永良=7代 狩野永常=8代 狩野永俊
=9代 狩野永岳=10代 狩野永祥=11代 狩野永譲=12代 狩野永証
作品に添付されている系譜は下記のようになっており、11代が狩野永信となっています。
しかし、この狩野永信を調べると
狩野永信 : 画家。字は交遊。山陽と号した。京都の人、狩野派の画師で四条派風の筆意を巧みにした京狩野派9代狩野永岳の義子である。「狩野永信画名高し」と伝えられていますが生没年未詳。因みに父の永岳は慶應三年に七十八歳で没しています。
この狩野永信の子ということが推察できますが、詳細は不明です。狩野派は奥が深い・・。
狩野永暉の記載
①狩野永暉:幕末から大正期までを生きたが、生没年は不詳。その渕源と言われる永徳に学んだ山楽が祖の京狩野家十二世。本図には、右下方に落款(署名)「狩野永暉」と朱文方印「永暉」とがある。ま
②狩野永暉: (明治=1868~1912年頃?) 甲子大黒図. 狩野永暉。伝不詳――号(?)に永の一文字が含まれていることからすれば、京狩野家の流れにかかわる画家か。 本図には、右下方に落款――狩野永暉と白文方印――狩野氏とがある。
③狩野永暉: 1907年(明治40年)蓬莱山飛鶴図≫ 一幅いわゆる吉祥の画題。明治40年といえば、江戸幕府が瓦解し狩野派も失職するなど氷河期を迎えた筈。永暉は、狩野山楽につながる京狩野13代目。
④狩野永暉(山本永暉):(慶応元・1865~昭和27・1952)は大坂出身、旧姓沖田、名増次郎、準。慶応元年(1865)9月8日、沖田太郎兵衛・イトの二男として、大阪府西区新町南通1丁目に生まれました。本名は山本増次郎で、永暉・準・悟雪洞・大機等などと号しました。幼少より絵を好み、明治10年四条派の西山完瑛に絵を学びました。明治15年、東京の山本重僖と養子縁組をし、山本姓を名乗ります。狩野探美門から、後に橋本雅邦を師友として研鑽。明治22年皇居豊明殿の格天井画の制作に加わったといい、明治35年頃から北陸路や中国・四国地方を中心に各地を遊歴しました。永暉は、明治30年頃から昭和初年頃にかけて、大津や宝塚・広島のほか、福井県の武生・大野・勝山・三国、石川県の小松・金沢、富山県では新湊や伏木・城端を訪れて彩管をふるっていますが、氷見へも幾度か足を運んで氷見の風物を中心に作品を残しています。大正2年、氷見の灘浦海岸から雨晴(現 高岡市太田雨晴)を訪れて「有磯勝地撰寫」を写生し、これを元に氷見の景勝地を選んで「有磯八景」として作品に仕上げています。昭和27年2月12日、逝去。享年87歳。
⑤狩野永暉 :1907年(明治40年) 一幅いわゆる吉祥の画題。明治40年といえば、江戸幕府が瓦解し狩野派も失職するなど氷河期を迎えた筈。永暉は、狩野山楽につながる京狩野13代目。
⑥阿部永暉:秋田県由利本荘出身の永暉は、文化4年(1807)葛法の阿部和右衛門家に生れました。幼少の頃から絵が好きで、青年になると家を弟にまかせて江戸に上り、絵師狩野隆則の門人となって10数年の修行をします。帰郷後は姉の嫁ぎ先である宮下村の阿部与五左衛門家に住んで絵を描きました。晩年には生家にもどり、明治2年(1869)63歳で亡くなりました。
⑦京狩野派十三代狩野永暉:師とした人物の記載から「大阪大谷女子短期大学時代では河合達海先生に、また昭和43年京狩野派13代狩野永暉先生にも指導を受け、栄川の号を受けました
①から⑤は同一人物の可能性があります。本作品は①~⑥ではなく⑦の記載の画人に該当すると思われます。
いずれ、系譜からは断定できない画家のようです。
息子の初節句飾りも用意しました。武者人形もいただきました。
こちらは徳川家康、この鎧を着用して後は負け知らずらしい。
昔は座敷に本物の鎧が飾ってあり、とても不気味だったのを覚えています。
鯉上りも一緒・・。
武者人形は愛らしい。
本人は自転車で犬とお散歩・・。
鯉幟にご機嫌・・。
無事の成長を祈るばかり・・。
絹本着色軸装 軸先蒔絵 共箱
全体サイズ:縦2070*横660 画サイズ:縦1200*横510
5月の節句に飾る作品として依頼して描かれた作品と推察されます。戦場で身を守ってくれる甲冑(鎧や兜)は、武家にとって、特に男子にとって、とても大事なものでした。端午の節句では、鎧兜は子どもに災いがふりかからず、無事に逞しく成長するようにとの願いを込めて飾られています。
ただし節句に飾る鎧や兜は戦いの時の鎧や兜とは異なり実践的な甲冑武具ではありません。甲冑 鎧 兜は儀式や式典の正装であり晴れ着です。五月人形や鎧・兜を飾るという風習は、五月の節句になると外には旗幟や吹流しを立て座敷には鎧や兜、武具を飾っていた武家社会の風習が基になっています。
梅雨になる前にそれぞれの手入れを行うためのもので鎌倉・室町時代にすでに行われていました。また身の安全を祈願して神社にお参りする際に鎧や兜を奉納するというしきたりがあり、その武家社会の風習が庶民の間に広がり、江戸時代の庶民達が、武家社会の風習をまねて家の前に棚を作り、鎧・兜(作り物)や槍、幟などを飾った事がはじまりです。
この時に、神様が降りてくる目印になるようにと兜の頂の部分に、勇ましい人形の細工物を乗せたのです。その後、兜から人形が独立して飾られるようになりました。
本作品は家紋に「土佐柏」の定紋があることから土佐山之内の有能果敢な武将山之内一豊公を讃えたデザインの鎧飾りを描いた作品です。
箱書他:昭和四十八年五月吉祥 為田中氏 十二世狩野永睴 八十翁」とありります。
領収書が収められており、その内容には「記 弐拾萬円也 右正 受領いたしました 五月二日 狩野永睴 大阪市住吉区黒江中一丁目六二番地 狩野永睴 昭和四十八年(1973年)五月二日 田中三郎 買上日」とあります。
昭和48年の20万円というのはちょっとした金額ですね。
また作品中の落款には「金門画史 十二世狩野永睴 行年八十歳 押印」京とあり、京狩野の第九代の狩野永岳が禁裏(朝廷)御絵師御次席となってから落款に「金門画史」・「金門画院第一史」と記すこともあったのでそれに習っており、京狩野派の末裔一派と関連があると思われます。
狩野の12代に狩野永暉なる画家が知られており、その画家と推察されますが第十二代とは記載されていません。1893年頃の生まれとすると、第12代とされる「狩野永証」(1909年~1983年)との関連は不詳ですが、幕末から明治期にかけて京狩野派が衰退する中で、何代というのが混濁していったようです。
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京狩野派:安土桃山時代末から明治期まで京都で活躍した画家の流派。豊臣氏滅亡後、狩野派のほとんどが江戸に下ったことに対して、京都に留まったため、京狩野と呼ばれるようになった。初代狩野山楽、2代狩野山雪を輩出。また3代狩野永納は日本初の画伝書『本朝画史』を著した。4代永敬は、近江日野の高田敬輔を指導。この高田敬輔の門下から、曽我蕭白や月岡雪鼎、島崎雲圃という近年評価の高い画家が輩出した。流派はしだいに低迷したが幕末9代狩野永岳の代に一時的に復興する。しかしそれも長く続かず明治を迎えると急激に衰退した。
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京狩野派の系譜は一般的には下記のようになっています。
当主一覧 (13代の記載はない )
初代 狩野山楽=2代 狩野山雪=3代 狩野永納=4代 狩野永敬=5代 狩野永伯=6代 狩野永良=7代 狩野永常=8代 狩野永俊
=9代 狩野永岳=10代 狩野永祥=11代 狩野永譲=12代 狩野永証
作品に添付されている系譜は下記のようになっており、11代が狩野永信となっています。
しかし、この狩野永信を調べると
狩野永信 : 画家。字は交遊。山陽と号した。京都の人、狩野派の画師で四条派風の筆意を巧みにした京狩野派9代狩野永岳の義子である。「狩野永信画名高し」と伝えられていますが生没年未詳。因みに父の永岳は慶應三年に七十八歳で没しています。
この狩野永信の子ということが推察できますが、詳細は不明です。狩野派は奥が深い・・。
狩野永暉の記載
①狩野永暉:幕末から大正期までを生きたが、生没年は不詳。その渕源と言われる永徳に学んだ山楽が祖の京狩野家十二世。本図には、右下方に落款(署名)「狩野永暉」と朱文方印「永暉」とがある。ま
②狩野永暉: (明治=1868~1912年頃?) 甲子大黒図. 狩野永暉。伝不詳――号(?)に永の一文字が含まれていることからすれば、京狩野家の流れにかかわる画家か。 本図には、右下方に落款――狩野永暉と白文方印――狩野氏とがある。
③狩野永暉: 1907年(明治40年)蓬莱山飛鶴図≫ 一幅いわゆる吉祥の画題。明治40年といえば、江戸幕府が瓦解し狩野派も失職するなど氷河期を迎えた筈。永暉は、狩野山楽につながる京狩野13代目。
④狩野永暉(山本永暉):(慶応元・1865~昭和27・1952)は大坂出身、旧姓沖田、名増次郎、準。慶応元年(1865)9月8日、沖田太郎兵衛・イトの二男として、大阪府西区新町南通1丁目に生まれました。本名は山本増次郎で、永暉・準・悟雪洞・大機等などと号しました。幼少より絵を好み、明治10年四条派の西山完瑛に絵を学びました。明治15年、東京の山本重僖と養子縁組をし、山本姓を名乗ります。狩野探美門から、後に橋本雅邦を師友として研鑽。明治22年皇居豊明殿の格天井画の制作に加わったといい、明治35年頃から北陸路や中国・四国地方を中心に各地を遊歴しました。永暉は、明治30年頃から昭和初年頃にかけて、大津や宝塚・広島のほか、福井県の武生・大野・勝山・三国、石川県の小松・金沢、富山県では新湊や伏木・城端を訪れて彩管をふるっていますが、氷見へも幾度か足を運んで氷見の風物を中心に作品を残しています。大正2年、氷見の灘浦海岸から雨晴(現 高岡市太田雨晴)を訪れて「有磯勝地撰寫」を写生し、これを元に氷見の景勝地を選んで「有磯八景」として作品に仕上げています。昭和27年2月12日、逝去。享年87歳。
⑤狩野永暉 :1907年(明治40年) 一幅いわゆる吉祥の画題。明治40年といえば、江戸幕府が瓦解し狩野派も失職するなど氷河期を迎えた筈。永暉は、狩野山楽につながる京狩野13代目。
⑥阿部永暉:秋田県由利本荘出身の永暉は、文化4年(1807)葛法の阿部和右衛門家に生れました。幼少の頃から絵が好きで、青年になると家を弟にまかせて江戸に上り、絵師狩野隆則の門人となって10数年の修行をします。帰郷後は姉の嫁ぎ先である宮下村の阿部与五左衛門家に住んで絵を描きました。晩年には生家にもどり、明治2年(1869)63歳で亡くなりました。
⑦京狩野派十三代狩野永暉:師とした人物の記載から「大阪大谷女子短期大学時代では河合達海先生に、また昭和43年京狩野派13代狩野永暉先生にも指導を受け、栄川の号を受けました
①から⑤は同一人物の可能性があります。本作品は①~⑥ではなく⑦の記載の画人に該当すると思われます。
いずれ、系譜からは断定できない画家のようです。
息子の初節句飾りも用意しました。武者人形もいただきました。
こちらは徳川家康、この鎧を着用して後は負け知らずらしい。
昔は座敷に本物の鎧が飾ってあり、とても不気味だったのを覚えています。
鯉上りも一緒・・。
武者人形は愛らしい。
本人は自転車で犬とお散歩・・。
鯉幟にご機嫌・・。
無事の成長を祈るばかり・・。