昨日の日経新聞の文化欄に掲載の「ドラッカー・コレクション珠玉の水墨画」展という記事に谷文晁の「月夜白梅図」の写真が載っています。ドラッガーとはかの経営学のピーター・F・ドラッガーのことです。日本美術を蒐集したことでも有名なのですよ。
その記事のあるドラッガーの弁「日本は、概念よりむしろ知覚の分野に創造的な才能がある。」と・・。「知覚力によって、日本は政治、産業、文化などあらゆる面における海外のエッセンスを把握し、日本化してきたのである。」、「日本美術を恋する者が受けるもっとも大きな贈り物は、感覚の絶えざる訓練であり、想像力の不断の喚起と深化であり、『筆墨の歌』の尽きない喜びである。」と続く。さて、この言葉を我々は理解できるであろうか?
ということで本日の作品は谷文晁としました。
古画を見極めるときに決してあてにしてはいけないのが鑑定書というものらしいです。なぜかというと偽物を本物とみせたいとう欲が働くと必ずそういう手はずになるものだからということらしいです。たとえ鑑定が本物でも、金銭によって贋作を真作と書かせたものもあるわけです。
鑑定者も鑑定に段階をつけたようです。「真作相違なきもの」から「真作疑いなきもの」、「真作と思われるもの」、さらには「作品を観ました」のみ・・・、鑑定者も逃げ場をつくっているようです。
本日の作品は谷文晁の作品ですが、そもそも谷文晃の作品には素人が手を出してはいけない画家と言われています。円山応挙しかり、長沢芦雪しかり・・・。明治期に豊かであった家々にはこれらの画家の作と称される作品がたくさんあったようです。お金を出しても欲しいから、贋作を作って提供する、需要と供給のバランス・・・??
ただ本作品の鑑定が気になって購入したのは本作品の鑑定者がある作品と同じ鑑定者であり、その作品がたしかなものであった思われるという理由によります。
墨瀧図 伝谷文晃筆 その2
紙本水墨軸装 軸先象牙 山下青城・平尾竹霞鑑定箱入
全体サイズ:縦1820*横460 画サイズ:縦970*横295
落款は俗に言う「烏文晃」というものらしいです。
「烏文晃」については詳しくは知りませんが資料には下記のように記載されています。
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作風:
寛政文晁 寛政年間(1789年~1801年 27歳-~8歳)の作品。特に評価が高い。
烏文晁(落款が烏の足跡に似ていることから。蝶々文晁ともいう) 文化中期 ~天保期(1811年 ~1840年)の作品。濫作期ともいわれるが優品も多い。
資料による落款と本作品の落款の比較は下記のとおりです。
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「谷文晃」は贋作が多く、当方の力の及ぶところではなく入手は避けていますし、江戸後期の浮世絵美人画ほどではありませんが、脂っこいような作品自体も小生の好みではありませんが、「烏文晁」期の本作品のような作品は嫌いではありません。
本作品で気になったのは鑑定書ですが、鑑定そのものをあてにしているわけではありません。なかなか出来の良い・・・と思って購入したことも事実です。
鑑定している「山下青城」なる書体は探している「私の探し物 渡辺崋山」の作品と同じ鑑定の書体・・。
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山下青城:1884年(明治17)静岡県浜名郡笠井町(現・浜松市笠井町)に生まれる。本名は桂、号は青城、起雲、楽山堂、芙蓉庵。南画家・山下青の長男。
父青に南画を学んだのち、1910年(明治43)田崎草雲門下の小室翠雲に師事する。1912年(大正1)帝国絵画協会会員となる。日本美術協会会員。東海絵画会、また帝展に入選。青から渡辺崋山・椿椿山の画系を引く崋椿系の画風を受け継ぎ、花鳥画を得意として繊細な表現に優れた。1962年(昭和37)没す。
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また鑑定でよく見かける下記の人物も鑑定している?らしい。
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平尾竹霞:安政3年5月11日 篠山藩の藩窯 王地山焼の陶工だった竹郭の子として生まれ、名を経真、字を明卿、別号を妙々居士、半雲子と称した。初め篠山藩の儒学者だった渡辺弗措に就いて学びましたが、16歳の時に画家になることを決意し、単身京都に出て四条派の大家だった塩川文麟のもとへ弟子入りし絵を学びます。
ところが明治10年修業半ばで文麟が亡くなってしまい、その後南画の大家田能村直入に入門し、直入に随行して各地を歴遊し絵の勉強を重ね、明治30年の「日本南画協会」の結成の時には幹事として参加するなど京都の南画界でも重鎮となります。
また竹霞は篠山出身の陸軍大将本郷房太郎とも親交が深く、ある日竹霞は写生の為に幾度となく訪れていた保津川に土地の船頭たちが喉を潤すと言う湧き水があるのを知り、この清水を持ち帰って硯水に使ったところ数年経っても濁らなかったそうで、この話を房太郎にしたところそれが房太郎を通じて久邇宮邦彦の耳に入り この清水は「保寿泉」と命名されることとなりました。そしてこの三文字を石碑に刻み土方久光の詩碑と共に保津川に建立されたそうです。竹霞は昭和14年7月27日84歳で亡くなりました。
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「鑑定があてにならなにのは鑑定そのものが贋作の可能性があることと、お金次第でいくらでも鑑定書を著したということによります。」という趣旨を冒頭で述べましたが、いくら言っても「鑑定があるから」と言って贋作を本物と信じ込む輩が多いらしい
本作品の真贋はともかく、数多くの作品をその鑑定も含めて見ていると鑑定そのものも含めて真贋が解るようになるそうです
「日本美術を恋する者が受けるもっとも大きな贈り物は、感覚の絶えざる訓練であり、想像力の不断の喚起と深化であり、『筆墨の歌』の尽きない喜びである。」ということのひとつ・・・??
その記事のあるドラッガーの弁「日本は、概念よりむしろ知覚の分野に創造的な才能がある。」と・・。「知覚力によって、日本は政治、産業、文化などあらゆる面における海外のエッセンスを把握し、日本化してきたのである。」、「日本美術を恋する者が受けるもっとも大きな贈り物は、感覚の絶えざる訓練であり、想像力の不断の喚起と深化であり、『筆墨の歌』の尽きない喜びである。」と続く。さて、この言葉を我々は理解できるであろうか?
ということで本日の作品は谷文晁としました。
古画を見極めるときに決してあてにしてはいけないのが鑑定書というものらしいです。なぜかというと偽物を本物とみせたいとう欲が働くと必ずそういう手はずになるものだからということらしいです。たとえ鑑定が本物でも、金銭によって贋作を真作と書かせたものもあるわけです。
鑑定者も鑑定に段階をつけたようです。「真作相違なきもの」から「真作疑いなきもの」、「真作と思われるもの」、さらには「作品を観ました」のみ・・・、鑑定者も逃げ場をつくっているようです。
本日の作品は谷文晁の作品ですが、そもそも谷文晃の作品には素人が手を出してはいけない画家と言われています。円山応挙しかり、長沢芦雪しかり・・・。明治期に豊かであった家々にはこれらの画家の作と称される作品がたくさんあったようです。お金を出しても欲しいから、贋作を作って提供する、需要と供給のバランス・・・??
ただ本作品の鑑定が気になって購入したのは本作品の鑑定者がある作品と同じ鑑定者であり、その作品がたしかなものであった思われるという理由によります。
墨瀧図 伝谷文晃筆 その2
紙本水墨軸装 軸先象牙 山下青城・平尾竹霞鑑定箱入
全体サイズ:縦1820*横460 画サイズ:縦970*横295
落款は俗に言う「烏文晃」というものらしいです。
「烏文晃」については詳しくは知りませんが資料には下記のように記載されています。
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作風:
寛政文晁 寛政年間(1789年~1801年 27歳-~8歳)の作品。特に評価が高い。
烏文晁(落款が烏の足跡に似ていることから。蝶々文晁ともいう) 文化中期 ~天保期(1811年 ~1840年)の作品。濫作期ともいわれるが優品も多い。
資料による落款と本作品の落款の比較は下記のとおりです。
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「谷文晃」は贋作が多く、当方の力の及ぶところではなく入手は避けていますし、江戸後期の浮世絵美人画ほどではありませんが、脂っこいような作品自体も小生の好みではありませんが、「烏文晁」期の本作品のような作品は嫌いではありません。
本作品で気になったのは鑑定書ですが、鑑定そのものをあてにしているわけではありません。なかなか出来の良い・・・と思って購入したことも事実です。
鑑定している「山下青城」なる書体は探している「私の探し物 渡辺崋山」の作品と同じ鑑定の書体・・。
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山下青城:1884年(明治17)静岡県浜名郡笠井町(現・浜松市笠井町)に生まれる。本名は桂、号は青城、起雲、楽山堂、芙蓉庵。南画家・山下青の長男。
父青に南画を学んだのち、1910年(明治43)田崎草雲門下の小室翠雲に師事する。1912年(大正1)帝国絵画協会会員となる。日本美術協会会員。東海絵画会、また帝展に入選。青から渡辺崋山・椿椿山の画系を引く崋椿系の画風を受け継ぎ、花鳥画を得意として繊細な表現に優れた。1962年(昭和37)没す。
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また鑑定でよく見かける下記の人物も鑑定している?らしい。
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平尾竹霞:安政3年5月11日 篠山藩の藩窯 王地山焼の陶工だった竹郭の子として生まれ、名を経真、字を明卿、別号を妙々居士、半雲子と称した。初め篠山藩の儒学者だった渡辺弗措に就いて学びましたが、16歳の時に画家になることを決意し、単身京都に出て四条派の大家だった塩川文麟のもとへ弟子入りし絵を学びます。
ところが明治10年修業半ばで文麟が亡くなってしまい、その後南画の大家田能村直入に入門し、直入に随行して各地を歴遊し絵の勉強を重ね、明治30年の「日本南画協会」の結成の時には幹事として参加するなど京都の南画界でも重鎮となります。
また竹霞は篠山出身の陸軍大将本郷房太郎とも親交が深く、ある日竹霞は写生の為に幾度となく訪れていた保津川に土地の船頭たちが喉を潤すと言う湧き水があるのを知り、この清水を持ち帰って硯水に使ったところ数年経っても濁らなかったそうで、この話を房太郎にしたところそれが房太郎を通じて久邇宮邦彦の耳に入り この清水は「保寿泉」と命名されることとなりました。そしてこの三文字を石碑に刻み土方久光の詩碑と共に保津川に建立されたそうです。竹霞は昭和14年7月27日84歳で亡くなりました。
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「鑑定があてにならなにのは鑑定そのものが贋作の可能性があることと、お金次第でいくらでも鑑定書を著したということによります。」という趣旨を冒頭で述べましたが、いくら言っても「鑑定があるから」と言って贋作を本物と信じ込む輩が多いらしい
本作品の真贋はともかく、数多くの作品をその鑑定も含めて見ていると鑑定そのものも含めて真贋が解るようになるそうです
「日本美術を恋する者が受けるもっとも大きな贈り物は、感覚の絶えざる訓練であり、想像力の不断の喚起と深化であり、『筆墨の歌』の尽きない喜びである。」ということのひとつ・・・??