「現代は文人画の受難の時代です。というより文人画の存続の危機と言えるでしょう。」と解説にもあるように、文人画が打ち捨てられています。当方でまだ整理ができていない作品がまだあります。
原因を整理すると
1.掛け軸そのものが飾る場所がない・・・居住空間のマンション化
2.掛け軸より額装の絵画が主流
3.詩書画というものを理解できる素養がなくなっている。教育環境の変化
4.経済的にまったく余裕がなくなり、直接鑑賞するための購入費用がない
といったところでしょうか?
蒐集する人も真贋や金銭的な価値ばかりを議論するだけでなく、もっと文人画(南画)の良さを世に知らしめる活動を重点的に行なうべきでしょうね。よき作品を蒐集して保存していくのにも小生だけの力では限度があります。
ブログでも展示会でもいいからもっと知らしめる機会を増やす必要があります。相続税増税によって作品を公開する人が益々少ないことも支障となっています。今では南画の掛け軸は二束三文なのに・・。
さて昨夜は豪雨でしたが、虹を見ることもできました。本作品の瀑布図を見ていると虹が見えそう・・。
那智瀑布図 斎藤畸庵筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2070*横730 画サイズ:縦1450*横580
賛は「遊印 南行熊□山千里 絶人迹忽聴殷□ 懸瀑洒青壁日照 □奴垂風吹水電 □大□□餘□長 □吐樹隙□□□ 千寿□源□万歳 造□壮哉功此山 何代□探□二十年 我今得□適日夕下小□回顧心猶憎 畸庵題 押印」と記されています。後日に紹介する予定の作品の「雲巒烟樹図」と同じ出所からの入手であり、同時期の1875年(明治8年)斎藤畸庵が70頃の作ではないかと推察されますが、製作時期の詳細は不明です。
訂正(2015年9月10日 13:00 家内からの指摘によります)
南行熊野山
千里絶人迹
忽聴殷雷聲
懸瀑洒青壁
日照処如垂
風吹如雷□
大□□餘流
長霧吐樹隙
□□□千尋
□源不万□
造物壮哉功
此山何代□
探哥二十年
我今得所適
日夕下山去
四□心猶□
那智滝かな?
斎藤畸庵の二作品目の投稿です。
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斎藤畸庵 :(1805-1883)文化2年に温泉街として有名な兵庫県城崎町の旅館「伊勢屋」に生まれ名を淳、字を仲醇、幼名を小太郎(後に文之助)といい、別号を息軒老人と称しました。文政3年、16歳の時に画家を志して京都に上り、南画界の重鎮 中林竹洞の門下に入り画法を学びます。嘉永6年、49歳の時に竹洞の下を離れ、播州~阿波~讃岐~長崎と諸国遊歴の旅に出て、晩年は東京の神田駿河台に住まいしました。そして明治16年4月1日、2日の両日 長野県富士見町の「三光寺」での書画会に出席の後、甲府に赴き4月15日 甲府の旅館「佐渡幸」にて79歳で亡くなりました。
畸庵の描く山水画は神経質な細い線と点描表現、緻密な細かい筆致で描かれているのが特徴で一部の愛好家に大変人気があり、素晴らしい作品が多いのですが、畸庵自身は名誉や利益には一切興味がなく、世の中の流れには乗らず一貫して風流人として自身の人生を楽しんだので、確かな技量があるにも関わらず、南画家としては地味な存在でした。しかし、近年その作品は高く評価され隠れた大家の一人として挙げられています。
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このような出来のよい瀧の作品は稀有だと思います。
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補足説明(インターネット上の記事より)
晩年の竹洞の元で画、詩文を学び、嘉永6年、師・竹洞の死とともに遊歴の旅に出ます。時に畸庵、49歳。竹洞の盟友山本梅逸もその時、郷里の名古屋に戻っているので、いかに竹洞の人徳が高かったかがわかります。
遊歴の旅は、郷里から四国、九州長崎へ、長崎来舶清人、各地の文人たちと交わったといいます。後、東京に居を移し神田駿河台に住まいしました。明治16年、旅泊先の甲州にて亡くなりました。享年79歳。
彼の作品には、清浄な空気が漂っており、アブストラクトに近いような細かい描写は、師・竹洞の繊細さをより心の世界に閉じ込めた感があります。世の中が、開かれていく時代に一人、名利と離れ江戸の文人の世界に遊んだ文人と言えます。現在は知る人も少ない画家ですが、彼自身も著名になることに繋がることを別に求めていなかったような気がします。殺伐とした現代になって高く評価されている理由が充分に理解できる画家です。
江戸の半ばから維新にかけてようやく庶民にまで詩書画が、拡がり有名無名の文人たちが日本の山海市井を遊歴する土壌ができた矢先に文明開化になりました。絵画史の中で、変わりゆく社会に対する孤独感の中、南画を描き続けた画家の一群を「遅れてきた文人」ともいえます。文人画は端的にいえば詩心を絵画化したものであると言えるでしょう。
文人画家の最高の褒め言葉として「詩書画三絶」という言葉があります。まず詩があり書がありその上の画であり、そのいずれもが諸人を絶しているほど素晴らしい、という意味です。鑑賞者の側から考えると、明治期には、まだ詩を書き、詩を読む市井の人々がいました。それが、詩は、読めるが、書けなくなり、そして美の愛好家たちは、読むことも書くことも覚束ない現代にいたっております。芸術は、それを理解する大多数の人々がいてこその芸術であり、「遅れてきた文人」たちは、理解者少なき芸術家です。現代は文人画の受難の時代です。というより文人画の存続の危機と言えるでしょう。
奄美大島に死んだ孤独の画家・田中一村もまた「遅れてきた文人」の一人であるといえます。一村の若描きの画は、まさに文人画そのものであります。中央に集中する文化に、嫌気がさした一村は、彼なりの文人画を最後に描いたのかもしれません。そして、「遅れてきた文人」とは、何かを考える上で、この斎藤畸庵の画は、ある示唆を与えています。現代人が失った文人の心意気を取り戻すことが大切です。出世ばかり考えている壮年者やフィギュアやAKT48などの中身にないものに夢中になっている若人は覚醒してほしいものです。
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近代画壇における横山大観、上村松園らの著名画家の作品を楽しむのはむろんいいことですが、南画の味わいというものを愉しんだ幕末から明治期の志の高き先達の人々の趣向を忘れてはいけません。
立派な軸先ですね。ただし斎藤畸庵の作品においても出来不出来の落差がかなりあるので、購入に際しては充分な吟味が必要です。
原因を整理すると
1.掛け軸そのものが飾る場所がない・・・居住空間のマンション化
2.掛け軸より額装の絵画が主流
3.詩書画というものを理解できる素養がなくなっている。教育環境の変化
4.経済的にまったく余裕がなくなり、直接鑑賞するための購入費用がない
といったところでしょうか?
蒐集する人も真贋や金銭的な価値ばかりを議論するだけでなく、もっと文人画(南画)の良さを世に知らしめる活動を重点的に行なうべきでしょうね。よき作品を蒐集して保存していくのにも小生だけの力では限度があります。
ブログでも展示会でもいいからもっと知らしめる機会を増やす必要があります。相続税増税によって作品を公開する人が益々少ないことも支障となっています。今では南画の掛け軸は二束三文なのに・・。
さて昨夜は豪雨でしたが、虹を見ることもできました。本作品の瀑布図を見ていると虹が見えそう・・。
那智瀑布図 斎藤畸庵筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2070*横730 画サイズ:縦1450*横580
賛は「遊印 南行熊□山千里 絶人迹忽聴殷□ 懸瀑洒青壁日照 □奴垂風吹水電 □大□□餘□長 □吐樹隙□□□ 千寿□源□万歳 造□壮哉功此山 何代□探□二十年 我今得□適日夕下小□回顧心猶憎 畸庵題 押印」と記されています。後日に紹介する予定の作品の「雲巒烟樹図」と同じ出所からの入手であり、同時期の1875年(明治8年)斎藤畸庵が70頃の作ではないかと推察されますが、製作時期の詳細は不明です。
訂正(2015年9月10日 13:00 家内からの指摘によります)
南行熊野山
千里絶人迹
忽聴殷雷聲
懸瀑洒青壁
日照処如垂
風吹如雷□
大□□餘流
長霧吐樹隙
□□□千尋
□源不万□
造物壮哉功
此山何代□
探哥二十年
我今得所適
日夕下山去
四□心猶□
那智滝かな?
斎藤畸庵の二作品目の投稿です。
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斎藤畸庵 :(1805-1883)文化2年に温泉街として有名な兵庫県城崎町の旅館「伊勢屋」に生まれ名を淳、字を仲醇、幼名を小太郎(後に文之助)といい、別号を息軒老人と称しました。文政3年、16歳の時に画家を志して京都に上り、南画界の重鎮 中林竹洞の門下に入り画法を学びます。嘉永6年、49歳の時に竹洞の下を離れ、播州~阿波~讃岐~長崎と諸国遊歴の旅に出て、晩年は東京の神田駿河台に住まいしました。そして明治16年4月1日、2日の両日 長野県富士見町の「三光寺」での書画会に出席の後、甲府に赴き4月15日 甲府の旅館「佐渡幸」にて79歳で亡くなりました。
畸庵の描く山水画は神経質な細い線と点描表現、緻密な細かい筆致で描かれているのが特徴で一部の愛好家に大変人気があり、素晴らしい作品が多いのですが、畸庵自身は名誉や利益には一切興味がなく、世の中の流れには乗らず一貫して風流人として自身の人生を楽しんだので、確かな技量があるにも関わらず、南画家としては地味な存在でした。しかし、近年その作品は高く評価され隠れた大家の一人として挙げられています。
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このような出来のよい瀧の作品は稀有だと思います。
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補足説明(インターネット上の記事より)
晩年の竹洞の元で画、詩文を学び、嘉永6年、師・竹洞の死とともに遊歴の旅に出ます。時に畸庵、49歳。竹洞の盟友山本梅逸もその時、郷里の名古屋に戻っているので、いかに竹洞の人徳が高かったかがわかります。
遊歴の旅は、郷里から四国、九州長崎へ、長崎来舶清人、各地の文人たちと交わったといいます。後、東京に居を移し神田駿河台に住まいしました。明治16年、旅泊先の甲州にて亡くなりました。享年79歳。
彼の作品には、清浄な空気が漂っており、アブストラクトに近いような細かい描写は、師・竹洞の繊細さをより心の世界に閉じ込めた感があります。世の中が、開かれていく時代に一人、名利と離れ江戸の文人の世界に遊んだ文人と言えます。現在は知る人も少ない画家ですが、彼自身も著名になることに繋がることを別に求めていなかったような気がします。殺伐とした現代になって高く評価されている理由が充分に理解できる画家です。
江戸の半ばから維新にかけてようやく庶民にまで詩書画が、拡がり有名無名の文人たちが日本の山海市井を遊歴する土壌ができた矢先に文明開化になりました。絵画史の中で、変わりゆく社会に対する孤独感の中、南画を描き続けた画家の一群を「遅れてきた文人」ともいえます。文人画は端的にいえば詩心を絵画化したものであると言えるでしょう。
文人画家の最高の褒め言葉として「詩書画三絶」という言葉があります。まず詩があり書がありその上の画であり、そのいずれもが諸人を絶しているほど素晴らしい、という意味です。鑑賞者の側から考えると、明治期には、まだ詩を書き、詩を読む市井の人々がいました。それが、詩は、読めるが、書けなくなり、そして美の愛好家たちは、読むことも書くことも覚束ない現代にいたっております。芸術は、それを理解する大多数の人々がいてこその芸術であり、「遅れてきた文人」たちは、理解者少なき芸術家です。現代は文人画の受難の時代です。というより文人画の存続の危機と言えるでしょう。
奄美大島に死んだ孤独の画家・田中一村もまた「遅れてきた文人」の一人であるといえます。一村の若描きの画は、まさに文人画そのものであります。中央に集中する文化に、嫌気がさした一村は、彼なりの文人画を最後に描いたのかもしれません。そして、「遅れてきた文人」とは、何かを考える上で、この斎藤畸庵の画は、ある示唆を与えています。現代人が失った文人の心意気を取り戻すことが大切です。出世ばかり考えている壮年者やフィギュアやAKT48などの中身にないものに夢中になっている若人は覚醒してほしいものです。
***************************************
近代画壇における横山大観、上村松園らの著名画家の作品を楽しむのはむろんいいことですが、南画の味わいというものを愉しんだ幕末から明治期の志の高き先達の人々の趣向を忘れてはいけません。
立派な軸先ですね。ただし斎藤畸庵の作品においても出来不出来の落差がかなりあるので、購入に際しては充分な吟味が必要です。