郷里の保存箱、家内の実家の保存箱から出てきたのが鼈甲?で作られた花笄です。嫁入りのときに花嫁が髪に飾るもので、今では貸衣装の一部としてありますが、昔は自分の家で用意したようで、それなりの家には必ず一台(花簪のそろいの一組を台というらしい)あったようです。
残念ながら当方の二台ともにばらばらな状態なので、錦町の鼈甲の修理をしている工房に窺いました。なんとかもとの形にならないかというお願いのためです。市川海老蔵さんから小林真央さんとの結婚式に使うために修理の依頼に来たということです。市川海老蔵さんもやはり古くから家にあったようで、実際に結婚式で使ったらしいです。
当方の下記の作品は鼈甲とはいえず、戦前・戦後の頃、天然の鼈甲の入手が難しい時期に馬の爪?を主体に作られたもののようです。いわゆる「まがいもの」でしょうが、三越本店からの購入で当時は原材料の鼈甲の輸入難でしかたがなかったようです。細工物は細工物で、虫喰にあっているとのこと。
すべて天然の鼈甲で作られた花笄は数点しか現在は存在しないらしく、現在作ると500万かかるとか・・ 今回の修理も部品一個つくるのにも天然なら数万円かかるとのこと。天延の鼈甲でなくて安心・・・
下記の写真は完品の状態の参考作品です。
もう一台は樹脂に鼈甲を混ぜて型で作ったものらしいです。こちらは樹脂ゆえ虫に食われないらしい。ともかく戦前戦後にはまったく原材料がなく、四苦八苦しながら鼈甲という伝統を守ったらしい。
櫛は残念ながら無くしたらしいですが、ほかは二台ともにパーツは揃っているとのことで原型に戻せるとのこと たとえ「まがいもの」でも家に伝わるものはきちんと後世には遺したいものです。修理代は二台で3万円とのこと、良心的なお値段ですね。修理期間は一ヶ月かかるとのことです。
鼈甲のことについていろいろと教えた頂いて非常におもしろかったです。鼈甲細工などはもちろん未知の分野ですが常に好奇心は持ち続けたいですね。
笄(こうがい)・花笄についてはインターネット上の下記の記事を参考にして下さい。
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笄(こうがい):女性の髪飾りの一種で、棒状をなしているのが特色である。最上級品はべっこうでつくられ、象牙(ぞうげ)、金銀の蒔絵(まきえ)のなかには螺鈿(らでん)を施したものもある。
まがい物のべっこうは馬爪(うまのつめ)でつくられ、色はべっこうに比べると色が淡い。最近は、合成樹脂に薄いべっこうを張り合わせたものもある。だいたいその形は細長い棒状で、両端を角切りにしたり、楕円(だえん)形にしたり、なかには花笄といって差し込み式になって、両端に手の込んだ牡丹(ぼたん)などの花を細工したものもある。また大きな耳かきを細工したものもある。
花笄は、婚礼の際に花嫁が文金高島田に挿すもので、松竹梅や鶴亀(つるかめ)をあしらった寿(ことぶき)模様が多いのは、髪飾りとして一段と華やかにするためである。また日常生活では、若い人たちは笄の一方だけに花鳥の飾りをつけるのを普通とした。
元来、笄は、当初は女性よりも男性の用いるもので、髪かきとして用いられた。つまり冠帽をかぶっていた時代には頭髪が蒸れ、また戦乱が日夜打ち続くようになってからは絶えず冑(かぶと)をかぶっていたため、髪をかく必要があり使われ始めたことによる。頭をかくために、柔らかく曲げられる金属が用いられた。女性が用いるようになったのは、江戸時代になって下げ髪を始末するためであり、笄を利用した髪形の笄髷(まげ)の発生につながる。
江戸時代初期の材料は、鯨(くじら)や鶴の脛骨(けいこつ)が用いられ、べっこうが用いられたのは元禄(げんろく)時代(1688~1704)、蒔絵は8代将軍徳川吉宗(よしむね)の享保(きょうほう)の改革(1716~45)以後である。
笄の華やかな発達は、遊里と関係が深く、仏像の光背のように挿すようになったのは寛政(かんせい)の改革(1787~93)以後で、錦絵(にしきえ)の世界からこれを知ることができる。そして、民間でも2本挿すのが普通となったばかりでなく、上方(かみがた)では笄ざしというものを紙でつくり、これを、髪を結うときに髷の下に結び付けて、この中に通すようになった。明治になって、日本髪よりも手早く簡単に結える束髪(そくはつ)が流行してから、しだいにその影が薄くなったが、それでもその命脈は、第二次世界大戦までは年配者の間にわずかに残っていた。
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「それでもその命脈は、第二次世界大戦までは年配者の間にわずかに残っていた。」ということです。
さて本日はまたまた源内焼の作品です。
源内焼 その69 緑釉文字(南岳衝山)文角皿 その2
合箱入
縦250*横248*底(縦160*横160)*高さ42
中央の文様は「五嶽真形図」のひとつで中国の信仰上の五霊山の内、「南岳衝山」を表す記号です。この御符を持てば他人から傷害を加えられず、また火災を免れるという吉祥紋様です。(「さぬきの源内焼」平賀源内先生遺品館企画展掲載:作品NO78「三彩文字文手付角鉢」より)。
本作品と同様の紋様の作品はいくつか存在し、「平賀源内のまなざし 源内焼」(五島美術館出版)の作品NO84、85「褐釉文字文脚付角鉢、三彩文字文脚付角鉢」の二作品も本作品と同じ型から製作された作品です。釉薬が違うがボストン美術館のモース・コレクションにも存在するそうです。
本ブログで以前に投稿した下記の作品Nも同じ型からの作品ですが、大きさ、釉薬の色合いが違います。
源内焼 その42 三彩文字文角皿
合箱入
縦228*横230*底(縦146*横142)*高さ35
本作品は残念ながら補修跡があり、釉薬がいまひとつ一律に綺麗には発色していませんが、型の抜けはいい状態で実に堂々とした作品です。
底は足の部分がおそらく焼成時にとれたのでしょう。鉢の成型が皿になってしまっていますね。
それでもきちんと古い木箱に納めらて、補修もされ、後世に伝えようとした意図が伝ってくる作品です。同じ型でも大きさの違うものを比較するのも一興かと思います。源内焼の面白いところですね。
美術館所蔵より圧倒的に個人所蔵の多い源内焼です。詳細について不明な点がまだまだ多く、楽しみな点も多々あとうかと思います。また各個人がきちんと保存しておかないとただでさえ数の少ない源内焼がますます少なくなっていきます。軟陶ですので地震対策も含めて非常に保存には気を使います。鼈甲?の笄も同じ・・・花笄は修理されてきたらまた投稿します。
私は骨董好きですが、基本的に「巷の骨董好き」とはちょっと違うと思っています。代々のものを受け継いでいくという姿勢が基本にありますので、美術的な価値・希少価値だけで作品を見ないという点だと思っています。わりと広い分野に渉って投稿している点もその基本姿勢によります。決して投機的な目的ではありませんし、マニアックでもありません。
・・・・・・・?? 充分マニアックらしい 本ブログを読んだ家内は「充分マニアックよ!」と・・。
残念ながら当方の二台ともにばらばらな状態なので、錦町の鼈甲の修理をしている工房に窺いました。なんとかもとの形にならないかというお願いのためです。市川海老蔵さんから小林真央さんとの結婚式に使うために修理の依頼に来たということです。市川海老蔵さんもやはり古くから家にあったようで、実際に結婚式で使ったらしいです。
当方の下記の作品は鼈甲とはいえず、戦前・戦後の頃、天然の鼈甲の入手が難しい時期に馬の爪?を主体に作られたもののようです。いわゆる「まがいもの」でしょうが、三越本店からの購入で当時は原材料の鼈甲の輸入難でしかたがなかったようです。細工物は細工物で、虫喰にあっているとのこと。
すべて天然の鼈甲で作られた花笄は数点しか現在は存在しないらしく、現在作ると500万かかるとか・・ 今回の修理も部品一個つくるのにも天然なら数万円かかるとのこと。天延の鼈甲でなくて安心・・・
下記の写真は完品の状態の参考作品です。
もう一台は樹脂に鼈甲を混ぜて型で作ったものらしいです。こちらは樹脂ゆえ虫に食われないらしい。ともかく戦前戦後にはまったく原材料がなく、四苦八苦しながら鼈甲という伝統を守ったらしい。
櫛は残念ながら無くしたらしいですが、ほかは二台ともにパーツは揃っているとのことで原型に戻せるとのこと たとえ「まがいもの」でも家に伝わるものはきちんと後世には遺したいものです。修理代は二台で3万円とのこと、良心的なお値段ですね。修理期間は一ヶ月かかるとのことです。
鼈甲のことについていろいろと教えた頂いて非常におもしろかったです。鼈甲細工などはもちろん未知の分野ですが常に好奇心は持ち続けたいですね。
笄(こうがい)・花笄についてはインターネット上の下記の記事を参考にして下さい。
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笄(こうがい):女性の髪飾りの一種で、棒状をなしているのが特色である。最上級品はべっこうでつくられ、象牙(ぞうげ)、金銀の蒔絵(まきえ)のなかには螺鈿(らでん)を施したものもある。
まがい物のべっこうは馬爪(うまのつめ)でつくられ、色はべっこうに比べると色が淡い。最近は、合成樹脂に薄いべっこうを張り合わせたものもある。だいたいその形は細長い棒状で、両端を角切りにしたり、楕円(だえん)形にしたり、なかには花笄といって差し込み式になって、両端に手の込んだ牡丹(ぼたん)などの花を細工したものもある。また大きな耳かきを細工したものもある。
花笄は、婚礼の際に花嫁が文金高島田に挿すもので、松竹梅や鶴亀(つるかめ)をあしらった寿(ことぶき)模様が多いのは、髪飾りとして一段と華やかにするためである。また日常生活では、若い人たちは笄の一方だけに花鳥の飾りをつけるのを普通とした。
元来、笄は、当初は女性よりも男性の用いるもので、髪かきとして用いられた。つまり冠帽をかぶっていた時代には頭髪が蒸れ、また戦乱が日夜打ち続くようになってからは絶えず冑(かぶと)をかぶっていたため、髪をかく必要があり使われ始めたことによる。頭をかくために、柔らかく曲げられる金属が用いられた。女性が用いるようになったのは、江戸時代になって下げ髪を始末するためであり、笄を利用した髪形の笄髷(まげ)の発生につながる。
江戸時代初期の材料は、鯨(くじら)や鶴の脛骨(けいこつ)が用いられ、べっこうが用いられたのは元禄(げんろく)時代(1688~1704)、蒔絵は8代将軍徳川吉宗(よしむね)の享保(きょうほう)の改革(1716~45)以後である。
笄の華やかな発達は、遊里と関係が深く、仏像の光背のように挿すようになったのは寛政(かんせい)の改革(1787~93)以後で、錦絵(にしきえ)の世界からこれを知ることができる。そして、民間でも2本挿すのが普通となったばかりでなく、上方(かみがた)では笄ざしというものを紙でつくり、これを、髪を結うときに髷の下に結び付けて、この中に通すようになった。明治になって、日本髪よりも手早く簡単に結える束髪(そくはつ)が流行してから、しだいにその影が薄くなったが、それでもその命脈は、第二次世界大戦までは年配者の間にわずかに残っていた。
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「それでもその命脈は、第二次世界大戦までは年配者の間にわずかに残っていた。」ということです。
さて本日はまたまた源内焼の作品です。
源内焼 その69 緑釉文字(南岳衝山)文角皿 その2
合箱入
縦250*横248*底(縦160*横160)*高さ42
中央の文様は「五嶽真形図」のひとつで中国の信仰上の五霊山の内、「南岳衝山」を表す記号です。この御符を持てば他人から傷害を加えられず、また火災を免れるという吉祥紋様です。(「さぬきの源内焼」平賀源内先生遺品館企画展掲載:作品NO78「三彩文字文手付角鉢」より)。
本作品と同様の紋様の作品はいくつか存在し、「平賀源内のまなざし 源内焼」(五島美術館出版)の作品NO84、85「褐釉文字文脚付角鉢、三彩文字文脚付角鉢」の二作品も本作品と同じ型から製作された作品です。釉薬が違うがボストン美術館のモース・コレクションにも存在するそうです。
本ブログで以前に投稿した下記の作品Nも同じ型からの作品ですが、大きさ、釉薬の色合いが違います。
源内焼 その42 三彩文字文角皿
合箱入
縦228*横230*底(縦146*横142)*高さ35
本作品は残念ながら補修跡があり、釉薬がいまひとつ一律に綺麗には発色していませんが、型の抜けはいい状態で実に堂々とした作品です。
底は足の部分がおそらく焼成時にとれたのでしょう。鉢の成型が皿になってしまっていますね。
それでもきちんと古い木箱に納めらて、補修もされ、後世に伝えようとした意図が伝ってくる作品です。同じ型でも大きさの違うものを比較するのも一興かと思います。源内焼の面白いところですね。
美術館所蔵より圧倒的に個人所蔵の多い源内焼です。詳細について不明な点がまだまだ多く、楽しみな点も多々あとうかと思います。また各個人がきちんと保存しておかないとただでさえ数の少ない源内焼がますます少なくなっていきます。軟陶ですので地震対策も含めて非常に保存には気を使います。鼈甲?の笄も同じ・・・花笄は修理されてきたらまた投稿します。
私は骨董好きですが、基本的に「巷の骨董好き」とはちょっと違うと思っています。代々のものを受け継いでいくという姿勢が基本にありますので、美術的な価値・希少価値だけで作品を見ないという点だと思っています。わりと広い分野に渉って投稿している点もその基本姿勢によります。決して投機的な目的ではありませんし、マニアックでもありません。
・・・・・・・?? 充分マニアックらしい 本ブログを読んだ家内は「充分マニアックよ!」と・・。