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Channel: 夜噺骨董談義
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三社託 春日百鹿・八幡百鳩・二見浦朝日図 三幅対 池田孤邨筆 その1 

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もはや痛んで廃棄寸前の骨董との出会いは、まるで打ちのめされてもはや生きていく気力のなくなった時の自分を見ているようで放っておけない気になります。それらを拾い上げていくいくと真贋相含めてこのようなブログの作品に数になるようです

本日は江戸琳派の画家、池田孤邨の紹介です。表具の状態がかなり痛んでおり、掛け軸を吊るす紐もなく、表具の両脇もぼろぼろです。

池田孤邨は酒井抱一の高弟の一人でいくつかの優れた作品が知られていますが、同じ抱一門下で5歳年長の鈴木其一が多くの弟子を擁し、其一派ともいうべき一派を成してその足跡を残したのに対し、孤邨についてはわずかな手掛かりしか知られず、その全容を見渡す研究は少ないとのことです。

また其一に比べ作品数が少なく、作品ごとに大きく作風が異なること、その生涯に関してもほとんど未詳であることなどの理由でこの画家を捉え難くしてきたと思われます。改めて再評価を要する画家の一人でしょう。

三社託 春日百鹿・八幡百鳩・二見浦朝日図 
三幅対 池田孤邨筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1900*横545 画サイズ:縦1040*横360



箱書には「三社託 右 春日 百鹿 中 二見浦 朝日 左 八幡百鳩」(右・中・左は逆であり本人の筆ではない可能性がある)」と題され、「孤邨藤原三信併題 押印」とあります。

画中には左幅に「孤邨三信写 押印(「朱文方印 「藤原□信」)、中央幅に「孤邨藤原三信謹写於舊松軒 押印(「朱文方印 「藤原□信」 「□□」) 右幅に「孤邨三信 押印(「朱文方印 「藤原□信」)とあります。瀟洒淡麗な作風は、近年評価が高まり展覧会でみる機会が増えてきています。

 

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三社託:三社とは伊勢神宮(アマテラスオオミカミ),春日神社(春日大明神),石清水八幡宮(八幡大菩薩)の託宣を三幅に描いたもの。正直,清浄,慈悲が表現されている。

石清水八幡宮と鳩
八幡神は、皇室の祖先である誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とし、誉田別命が国内を平定するときに、水先案内人となったのが鳩であったとされ、以来、鳩は八幡神の使いであるとされるようになったこと。



鳩は八幡神を道案内したという記述は、日本書紀などに見られるという。八幡神と鳩とのかかわりについては、今までほとんど表に出てこなかったこともあり、あえて神社として説明するようなことも無かったとのことであった。宇佐八幡宮から全国各地に八幡神を勧請して帰る途中、鳩が道案内をしたという言い伝えも奈良県など、地方の八幡宮のHPに見ることができる。



春日神社と鹿
武甕槌命(藤原氏守護神)が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。

左幅の「春日百鹿」の紹介は後日とします。

伊勢神宮と二見浦
伊勢神宮のお参りは二見浦からがルールのようです。

二見浦の旭日?の作品については一部を除き後日の紹介とさせていただきます。

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池田孤邨の作品の紹介は本ブログでは初めての投稿ですので、インターネット掲載の記事を紹介します。

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池田孤邨(村):(いけだ こそん、 享和元年(1801年)~慶応2年2月13日(1866年3月29日))。江戸時代後期の江戸琳派の絵師。酒井抱一の弟子で、兄弟子の鈴木其一と並ぶ高弟である。



越後国水原(現在の胎内市)出身。名は三信(みつのぶ)、三辰、字は周二、通称・周三郎。号は自然庵、蓮菴、冬樹街士(天保後期)、煉心窟(安政から文久頃)、画戦軒、天狗堂、旧(舊)松軒、久松軒など。



水原に住む池田藤蔵の子として生まれる。10代後半には江戸へ出て、酒井抱一に師事したと見られる。水原は天領で、越後有数の米処として、干拓や新田開発が積極的に行われた。その結果、廻船業などで富を成す素封家も多く、江戸や京阪の文人墨客が水原を訪れ、逗留することも珍しくなかった。父藤蔵は水原でこうした素封家と交流があり、弧邨が若くに江戸に出るのも、水原に来訪した文化人が関与したする説がある。また、抱一の弟子で、後に孤邨の弟子となる野沢堤雨の父・九皐庵九甲の紹介とする説もある。孤邨は後々まで水原との関係を保ち続ける。



安政6年(1859年)刊の『書画會粹 二編』では「画名天下に高し、然れども名を得る事を好まず、戸を閉め独り楽しむ」とあり、その人物を伝えている。書画の鑑定に優れ、茶道を好み和歌に通じた教養人で、蓮を好み「蓮菴」と号した。

琳派の後継者を自認し、最晩年の元治2年『光琳新撰百図』上下(弟子の野沢堤雨跋、ボストン美術館など蔵)、慶応元年(1865年)『抱一上人真蹟鏡』上下を出版した。これらは絵手本として使用された他、ジャポニズムの機運にのって西洋に渡り、装飾美術の隆盛に寄与した。1882年にイギリス初のインダストリアルデザイナーとして活躍したクリストファー・ドレッサーが出版した『日本 その建築、美術と美術工芸』では、早くも『光琳新撰百図』が引用されている。

一方、文中に「大和魂」「皇国」といった語句が散見し、孤邨が勤王思想を持っていたことが窺える。墓は江戸川区西瑞江の大雲寺。



孤邨は其一ほど多作ではなく、作品の質も振り幅が大きい。しかし、代表作「檜図屏風」(バークコレクション)には、近代日本画を先取りする新鮮な表現がみられる。弟子に中村岳陵に最初の絵の手ほどきをした野沢堤雨、木村江村、鷲孤山、胝狐仙、胝狐松、八木沢松嶺、西崑山、高橋孤道、福島孤龍など。

早稲田大学図書館初代館長などを務めた市島謙吉は、数多くの印章をコレクションしており、その中には同郷の孤邨の印章も37顆含まれ、現在は早稲田大学會津八一記念博物館に所蔵されている。

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さ~、幸い絵の状態は良好なのですが、この痛んだ掛け軸をどうするか・・。この作品は日の目を見ることができるのか? 痛んだものを大切にするとご利益がありそうなのだが・・  

「情けは人の為ならず」なんてね。

*「情けは人のためではなく、いずれは巡って自分に返ってくるのであるから、誰にでも親切にしておいた方が良い」というのが本来の意味。「情けをかけることは、結局はその人のためにならない(のですべきではない)」という意味だと思っている者が多いらしい。











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