なんでも手伝いたがる息子・・、電動ゲートの開閉も手動で動く?? そういえば小生も子供の頃、門を開けるのが日課であったことを思い出しました。門までの除雪、庭の水撒き、池の掃除やら・・、日課といえども愉しかったのを覚えています。
本日の作品に投稿されている写真はずいぶんと以前に撮影したものです。本作品は以前に蒐集途中で処分した作品の中でまだ残っていた作品ですが、ずいぶんと前に購入したので投稿を忘れていた作品のひとつです。さて作品自体はどこへやら・・・。
枇杷 小松均筆
紙本着色軸装 軸先木製 共箱
全体サイズ:縦1200*横455 画サイズ:縦340*横335
小松均の作品は1995年頃、盛岡の骨董店「古陶庵」で「牛」の水墨画の大きめの軸に出会ったのが最初です。競市の仕入れの中にいい作品があり、ご主人が奥様のお気に入りでしたが12万で譲ってくれるとのことでした。
残念ながら別の作品を購入し、資金が足りずその作品を購入しませんでした。黒一色の異様な感じのする絵に尻込みした感もありましたが、とてもいい作品でしたので今思うと購入しておけばよかった思っています。購入したほうの作品は模写の作品であり、当時はまったくもってみる目がなかったと猛省しております。
その時以来、幾度か小松均の作品を入手しようとしましたが、とても値段が高く入手できませんでした。そうこうしているうちに本作品を小作品の部類なので、手頃な値段で入手できました。
紙に少しシワの痕があり、表具は改装されてます。痛んだ作品を改装したものと推察されます。
小松均は大原に居を定め、自給自足にて生活し、自然と画に真摯に向き合った画家です。着飾ったものなどない貧窮に負けない不屈の精神と逞しい生命力に溢れた画家そのものの姿が作品の中にあるようです。
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小松均:1902年1月19日~1989年8月23日。日本画家。山形県北村山郡大石田町生まれ。川端画学校卒業。土田麦僊に師事。新樹社に参加。主に最上川を題材にした作品が多い。1986年文化功労者。
晩年は京都市左京区大原井出町に居を構え、大原の風景を題材にした作品を多数残した。「大原の画仙人」と称せられた。若くして血のにじむような苦学をしながら絵の道を志し、87歳で亡くなるまで貧窮と闘いながら厳しい絵の修業一筋に過ごしました。
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小松均は京都の内貴清兵衛からの支援を受けていました。いわゆるパトロンですが、内貴清兵衛から指示されていた「写実を尽くして写実を捨てろ、自然を追求して自然を離れろ」という言葉に対して、小松均の作品に見られる「描写表現の曖昧さ?(独特の表現)である写実と非現実、自然と不自然」が答えであったのでしょう。
本作品の詳細の写真は後日、機会がありましたらまた・・。
本日の作品に投稿されている写真はずいぶんと以前に撮影したものです。本作品は以前に蒐集途中で処分した作品の中でまだ残っていた作品ですが、ずいぶんと前に購入したので投稿を忘れていた作品のひとつです。さて作品自体はどこへやら・・・。
枇杷 小松均筆
紙本着色軸装 軸先木製 共箱
全体サイズ:縦1200*横455 画サイズ:縦340*横335
小松均の作品は1995年頃、盛岡の骨董店「古陶庵」で「牛」の水墨画の大きめの軸に出会ったのが最初です。競市の仕入れの中にいい作品があり、ご主人が奥様のお気に入りでしたが12万で譲ってくれるとのことでした。
残念ながら別の作品を購入し、資金が足りずその作品を購入しませんでした。黒一色の異様な感じのする絵に尻込みした感もありましたが、とてもいい作品でしたので今思うと購入しておけばよかった思っています。購入したほうの作品は模写の作品であり、当時はまったくもってみる目がなかったと猛省しております。
その時以来、幾度か小松均の作品を入手しようとしましたが、とても値段が高く入手できませんでした。そうこうしているうちに本作品を小作品の部類なので、手頃な値段で入手できました。
紙に少しシワの痕があり、表具は改装されてます。痛んだ作品を改装したものと推察されます。
小松均は大原に居を定め、自給自足にて生活し、自然と画に真摯に向き合った画家です。着飾ったものなどない貧窮に負けない不屈の精神と逞しい生命力に溢れた画家そのものの姿が作品の中にあるようです。
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小松均:1902年1月19日~1989年8月23日。日本画家。山形県北村山郡大石田町生まれ。川端画学校卒業。土田麦僊に師事。新樹社に参加。主に最上川を題材にした作品が多い。1986年文化功労者。
晩年は京都市左京区大原井出町に居を構え、大原の風景を題材にした作品を多数残した。「大原の画仙人」と称せられた。若くして血のにじむような苦学をしながら絵の道を志し、87歳で亡くなるまで貧窮と闘いながら厳しい絵の修業一筋に過ごしました。
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小松均は京都の内貴清兵衛からの支援を受けていました。いわゆるパトロンですが、内貴清兵衛から指示されていた「写実を尽くして写実を捨てろ、自然を追求して自然を離れろ」という言葉に対して、小松均の作品に見られる「描写表現の曖昧さ?(独特の表現)である写実と非現実、自然と不自然」が答えであったのでしょう。
本作品の詳細の写真は後日、機会がありましたらまた・・。