教育者・歌人としていられる九条武子が上村松園に絵を習っていたという事実を知っている方は意外に少ないと思います。九条武子はNHKのドラマで改めて有名になった「柳原白蓮」らとともに大正三美人と称せられ、才色兼備で知られる女性です。
真贋よりもそのあたりを知りたくて本作品の投稿となります。絵を習う期間も短く、遺された作品も少ないと思われますので、当方に縁のあるはずもなく基本的に「伝」しての投稿ですので読まれる方は事前にご了解願います。
美人図 伝九条武子筆
絹本着色絹装軸 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1674*横510 画サイズ:縦1086*横400
九条武子は柳原白蓮(大正天皇生母・柳原愛子の姪)、江木欣々とともに大正三美人と称された美人で上村松園から短期間ながら絵を習っています。上村松園から絵を習っている写真が実際にあるようです(下記の左写真)。大騒ぎするほどの美人ではないように思いますが、話題性はあったのでしょう。
上村松園の「月蝕の宵」1916 年(大正5年)という作品のモデルにもなっています。山川秀峰も、九條武子夫人を描いています。雑誌「婦人倶楽部」の連載小説「九條武子の生涯」の挿絵を担当した後、帝展に出品され特選となった「大谷武子姫」1930年(昭和5年)という作品があります。それらの作品は下記の作品のようです。
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九条 武子(くじょう たけこ):1887年(明治20年)10月20日 ~1928年(昭和3年)2月7日)。教育者・歌人、後年には社会運動活動家としても活躍した。絵を習うために上村松園に弟子入りしたのは1916(大正5年)頃で、1920(大正9年)頃までです。東京に出てからは関東大震災復興などに奔走していますので、画業に従事した期間は短かった。九条武子は、松契という画号を使用した。
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九条武子は画には「松契」という号を用いており、本作品の落款には「武子」と記されている点については後学とします。他の歌などの作品の落款の参考は下記の中央と右の写真によります。
落款以外には本作品を九条武子の作品と推察する根拠はまったくありませんし、当方に資料もありませんので、あくまで前述のように「伝」ですのでご了解願います。
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補足
西本願寺第21代法主・明如(大谷光尊)の次女(母・藤子は光尊の側室で紀州藩士族の子女)として京都で生まれる。義姉・大谷籌子裏方(大谷光瑞夫人)を助けて仏教婦人会を創設し、1911年(明治44年)、籌子が30歳の若さで早世の際は本部長に就任、同会運営の重責を果たした。
仏教主義に基づく京都女子専門学校(現・京都女子学園、京都女子大学)を設立、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で自身も被災するが一命を取りとめ、全壊した築地本願寺の再建、震災による負傷者・孤児の救援活動(「あそか病院」などの設立)などさまざまな事業を推進した。
佐佐木信綱に師事し和歌にも長け歌人としても、『金鈴』『薫染』などの歌集がある。愛唱されている仏教讃歌の「聖夜」は、1927年(昭和2年)7月に出版された随筆『無憂華』の中に収められている。「聖夜」の作曲は、中山晋平で、歌詞は七五調で構成され、夜空に輝く美しい数多の星のようにおわする仏たちに護られて生きていることの歓喜と安らぎが表現されている。
1928年(昭和3年)2月7日、震災復興事業での奔走の無理がたたり敗血症発症、42歳の若さで念仏のうちに往生した。宗門では、武子の命日を如月忌(きさらぎき)と呼んでいる。
武子は才色兼備としてもてはやされ、柳原白蓮(大正天皇生母・柳原愛子の姪)、江木欣々とともに大正三美人と称された。私生活では1909年(明治42年)、公爵家出身で正金銀行勤務・男爵九条良致(くじょう・よしむね)に嫁いだ。
武子は結婚後、良致の勤務先兼留学先(ケンブリッジ大学)・ロンドンに随行したが、渡英1年半で武子が帰国・良致はそのまま英国滞在という別居状態が十数年続いた。これには美貌・教養・家柄(大谷家は伯爵家)の誉れ高き武子に、良致がなじめなかったからではないか等、夫婦不和の憶測もあったが、武子は離婚どころか浮いた言動一つとらず、良致の帰国をひたすら待ちつづけた。1920年(大正9年)年末に良致が帰国し、夫婦同居が実現、武子・良致の間に子はなかったものの、関東大震災などを経て、武子自身の死までよき夫婦関係であったと伝えられている。実際には武子には幼なじみで秘められた恋人がいたが、表に出す事はなく、死ぬまで聖女としての姿を通した。
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絵の出来は非常にいいと思います。
真贋よりもそのあたりを知りたくて本作品の投稿となります。絵を習う期間も短く、遺された作品も少ないと思われますので、当方に縁のあるはずもなく基本的に「伝」しての投稿ですので読まれる方は事前にご了解願います。
美人図 伝九条武子筆
絹本着色絹装軸 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1674*横510 画サイズ:縦1086*横400
九条武子は柳原白蓮(大正天皇生母・柳原愛子の姪)、江木欣々とともに大正三美人と称された美人で上村松園から短期間ながら絵を習っています。上村松園から絵を習っている写真が実際にあるようです(下記の左写真)。大騒ぎするほどの美人ではないように思いますが、話題性はあったのでしょう。
上村松園の「月蝕の宵」1916 年(大正5年)という作品のモデルにもなっています。山川秀峰も、九條武子夫人を描いています。雑誌「婦人倶楽部」の連載小説「九條武子の生涯」の挿絵を担当した後、帝展に出品され特選となった「大谷武子姫」1930年(昭和5年)という作品があります。それらの作品は下記の作品のようです。
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九条 武子(くじょう たけこ):1887年(明治20年)10月20日 ~1928年(昭和3年)2月7日)。教育者・歌人、後年には社会運動活動家としても活躍した。絵を習うために上村松園に弟子入りしたのは1916(大正5年)頃で、1920(大正9年)頃までです。東京に出てからは関東大震災復興などに奔走していますので、画業に従事した期間は短かった。九条武子は、松契という画号を使用した。
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九条武子は画には「松契」という号を用いており、本作品の落款には「武子」と記されている点については後学とします。他の歌などの作品の落款の参考は下記の中央と右の写真によります。
落款以外には本作品を九条武子の作品と推察する根拠はまったくありませんし、当方に資料もありませんので、あくまで前述のように「伝」ですのでご了解願います。
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補足
西本願寺第21代法主・明如(大谷光尊)の次女(母・藤子は光尊の側室で紀州藩士族の子女)として京都で生まれる。義姉・大谷籌子裏方(大谷光瑞夫人)を助けて仏教婦人会を創設し、1911年(明治44年)、籌子が30歳の若さで早世の際は本部長に就任、同会運営の重責を果たした。
仏教主義に基づく京都女子専門学校(現・京都女子学園、京都女子大学)を設立、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で自身も被災するが一命を取りとめ、全壊した築地本願寺の再建、震災による負傷者・孤児の救援活動(「あそか病院」などの設立)などさまざまな事業を推進した。
佐佐木信綱に師事し和歌にも長け歌人としても、『金鈴』『薫染』などの歌集がある。愛唱されている仏教讃歌の「聖夜」は、1927年(昭和2年)7月に出版された随筆『無憂華』の中に収められている。「聖夜」の作曲は、中山晋平で、歌詞は七五調で構成され、夜空に輝く美しい数多の星のようにおわする仏たちに護られて生きていることの歓喜と安らぎが表現されている。
1928年(昭和3年)2月7日、震災復興事業での奔走の無理がたたり敗血症発症、42歳の若さで念仏のうちに往生した。宗門では、武子の命日を如月忌(きさらぎき)と呼んでいる。
武子は才色兼備としてもてはやされ、柳原白蓮(大正天皇生母・柳原愛子の姪)、江木欣々とともに大正三美人と称された。私生活では1909年(明治42年)、公爵家出身で正金銀行勤務・男爵九条良致(くじょう・よしむね)に嫁いだ。
武子は結婚後、良致の勤務先兼留学先(ケンブリッジ大学)・ロンドンに随行したが、渡英1年半で武子が帰国・良致はそのまま英国滞在という別居状態が十数年続いた。これには美貌・教養・家柄(大谷家は伯爵家)の誉れ高き武子に、良致がなじめなかったからではないか等、夫婦不和の憶測もあったが、武子は離婚どころか浮いた言動一つとらず、良致の帰国をひたすら待ちつづけた。1920年(大正9年)年末に良致が帰国し、夫婦同居が実現、武子・良致の間に子はなかったものの、関東大震災などを経て、武子自身の死までよき夫婦関係であったと伝えられている。実際には武子には幼なじみで秘められた恋人がいたが、表に出す事はなく、死ぬまで聖女としての姿を通した。
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絵の出来は非常にいいと思います。