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Channel: 夜噺骨董談義
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恵比寿大黒天面・吉祥額 加納鉄哉作

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年始には郷里の神社、帰京後の神社などたくさんお参りしました。



年始なのでめでたい作品を飾ることにしました。大黒様に恵比寿様の丸額の作品ですが、加納鉄哉のことを知っている人は少ないかと思います。

大黒さまと恵比寿さまは共に七福神の一人で、大黒さまは豊作の神様、恵比寿さまは漁の神様、二人あわせて招福、商売繁盛の商い神として古くから民間信仰の対象となり親しまれています。

初詣だけではなく日頃から神々を信仰することをおろそかにしてはいけません。人間の能力を超えた何かが人生には大きな力をもって支配することが多くあり、それらがどう自分に働いてくるかは祈るしかほかないということを謙虚に受け取るということを日頃から覚悟しておくためにも・・。神々へはお願いではなく感謝・・。

恵比寿大黒天面・吉祥額 加納鉄哉作
恵比寿面:高さ175*幅132*厚さ65 大黒面:高さ140*幅128*厚み68
額:口径470~415*厚さ22 共板市川鉄琅鑑定箱



額には「甲子の日□あ□□□□ 恵比寿□ め 好□水野先生 鉄哉 花押」と記され、「甲子の日」のは「甲子」とは干支の年ではなく、「甲子の日に大黒天をまつる」という意味でしょう。



大正13年が「甲子」の干支であることにも関連がある可能性はあります。その根拠は箱書に「晩年の作」とあり、加納鉄哉が大正14年に亡くなってるいることからですが・・。大黒天と一緒に恵比寿様が製作された作品と推察されます。



箱書の表面には「恵比寿大黒天面 七福神付属文様 丸額」と記され、裏面には「是吾師鉄哉先生晩年作也 依而証是要 昭和甲子春日 □□最勝精舎□ 鉄琅識押印 花押」とあり、 昭和59年孫弟子(鉄哉の弟子渡辺脱哉の弟子)である市川鉄琅が箱書しています。ほぼ60年後の箱書ということになります。



加納銕哉は、1921年(大正10)に奈良の高畑にアトリエである「最勝精舎」を建てて、本拠地としました。この工房兼住居は2度の移転を止むなくし、市川銕琅によって受け継がれましたが、銕琅の死後はその保存は断念せざるを得なかったようです。

加納鉄哉と奈良で親交のあった志賀直哉曰く「職人気質の名工」と称え、気風闊達、野の人でもあったようです。天長節(天皇誕生日)には、必ず赤飯を作り祝うことを忘れなかった銕哉でしたが、一方悪戯半分に自他を問わず贋作を作るという茶目っ気もありました。そのうち、“贋銕哉”も出現するはめになることになり、弟子の銕琅を悩ませるくらいでした。



自分でも贋作を作り、さらには他人による贋作も多くあり、ことことも知名度を低くしている理由にひとつでしょう。高村光雲も弟子の作品を自らの作と箱書きしたように、この頃の工房ではよくあったことのようです。このことが知名度を低くしてる要因のひとつでしょう。

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加納鉄哉:彫刻家・画家。岐阜生。名は光太郎。父鶴峰に南画と彫刻を学び、出家して仏画の研究を修める。還俗して鉄哉と号し、鉄筆画という独自の技法で画と彫刻を業とする。和漢の古美術を研究し、奈良に住して正倉院や法隆寺の宝物の模造など古典技法の修熟に努め、その技法は木彫・銅像・乾漆と多岐にわたった。大正14年(1925)歿、81才。

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箱書してる市川鉄琅は加納鉄哉の弟子、もしくは孫弟子です。

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市川鉄琅:彫刻家。東京生。本名は虎蔵。師・加納鉄哉が復活させた鉄筆彫刻の最後の継承者。金属茶道具に鉄筆の自由な筆致で花鳥風月を描き、絵画と彫刻を結ぶ技法と評価される。昭和62年(1987)歿、85才。

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ところで恵比寿様と大黒様の飾り方は向かって左側が「恵比寿様」、右側が「大黒様」というのが一般的なようです。



一説によりますと、大黒様が「兄」、恵比寿様は「弟」といわれます。又、大黒様を大地の神様「父」とするとあり、さらには恵比寿様は海の神様「母」とも云われます。



さらに恵比寿様は七福神の中で唯一の日本人というのはご存知でしょうか? 七福神のことについては日本人は意外と知らないことの多いようで、そもそも七福神をそらんじて言える人はあまりいないようです。スマートフォンをいじる時間があったら、日本の基礎知識を学んだほうがいいように思うには私だけでしょうか?

加納鉄哉は高村光雲と並んで称えられる日本の彫刻家というより、二人とも日本の彫刻職人というべき人でしょう。そもそも高村光雲もまた職人であったことは周知のとおりです。 

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加納鉄哉についての補足

弘化2年(1825)、岐阜本町に生まれる。名は光太郎。家は幕末には奉行所の御用達を務めた名家であった。父・鶴峰から絵画と彫刻を学ぶが、少年時代に家は没落し、母が亡くなる。

14歳の時、長良崇福寺の住職が鉄哉を引き取り、数年間、僧の修行をした。その後、19歳で現在の美濃加茂市にある正眼寺に移る。明治元年に寺を出て還俗し、諸国を漫遊したと言われる。明治7年ごろ東京に出て、しばらくは偽筆贋作で生活していた。ある時、パリ万博やウィーン万博の出品に関わった佐野常民に見出され、自宅に招き入れられる。鉄哉の師は、父・鶴峰に学んだ以外、あまり知られていないが、鉄筆画については、辻万峰(1825生)の影響を受けていると言われる。

鉄哉の名が世に出たのは、明治14年の第2回国内勧業博覧会への出品が入賞したのが最初らしい。古代芸術の調査、模写・模刻を通じてさらに技術を磨き、フェノロサ、岡倉天心らの古寺調査にも同行する。明治22年、東京美術学校が開設された際、教諭を命じられるが、教えるよりも自らの創作活動を目指すためか、わずか2ヶ月で職を辞している。

官職を離れてから、「唯我独尊庵主」を名乗り、制作に没頭している。明治20年代の終わりからは、奈良で模作に励んだり、各界の有力者を顧客とした制作を行っている。落語家、講談師、歌舞伎界などにも交際が広がり、鉄哉作品の意匠は、若い時代から禅を学んだベースの上に築かれていったものと思われる。晩年は、奈良に滞在して制作活動を続け、和歌山や大阪の顧客の為の作品が多い。

鉄哉の人気は高く、大正9年には支援者らによる「鉄哉会」が設立され、その作品を入手するための会則が設けられたりした。大正14年、「売茶翁像」の完成後、病に臥せ、81歳の生涯を終えた。

加納鉄哉については特別な研究機関はなく、「加納鉄哉展~知られざる名工~」(岐阜市歴史博物館図録)や「知られざる名工 加納鉄哉」(西美濃わが街386号)などがまとまった著作(西美濃わが街は現在は廃刊)です。

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加納鉄哉と志賀直哉の関係については下記のとおりです。

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絵画や彫刻、古美術研究と調査・・・等、博学多才で知られる加納鉄哉(てっさい)は、東京美術学校の教論職を2ヶ月で退き、その頃より「唯我独尊庵主」を名乗っている。煙管筒や根付、仙媒等もつくり、晩年は奈良を活動の拠点とした。

作家の志賀直哉は、大正14年、京都から奈良へ居を移している。この年、鉄哉は亡くなっているのだが、志賀は生前の鉄哉の工房を訪ねているようだ。2年後、鉄哉をモデルにした短編小説「蘭齋没後」を発表しているが、鉄哉よりむしろ、息子の加納和弘や弟子の渡辺脱哉(だっさい)らと親交があったようだ。

脱哉とは「人間がぬけているから」という理由で、師匠の加納鉄哉によって付けられた号である。彼のキャラクターと数々のエピソードは、志賀の短篇「奇人脱哉」に見る事ができる。牙彫出身の脱哉は、水牛角の干鮭の差根付を唯一の得意とし、銘は鉄哉が入れていた、とか、それは30円で毎月一つつくれば生活が出来たとか、又、作品の箱書きは、息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅に代筆で書いて貰っていた等、興味深い話ばかりだ。そこには一貫して、志賀の、脱哉へ向けたあたたかな眼差しが感じられる。

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加納鉄哉、渡辺脱哉、市川鉄琅の三人はかなり著名な彫刻職人です。とくに脱哉の「水牛角の干鮭の差根付」は骨董蒐集するひとの垂涎の作品ですが、知らない人が多いのはなげかわいしことです。現代の若い人は紅白歌合戦に出演してるくだらない歌手の名は知っているのに・・・。



参考になんでも鑑定団に出品された加納鉄哉の作品を紹介します。

なんでも鑑定団出品作  
煙管筒六本
評価金額150万

「鉄哉の本当に良い作品が久々に出てきた。煙管筒はかなり作ってはいるが、色のある作品は珍しい。依頼品はおそらく注文品だったと思われる。それぞれの顔の表情が抜群に見事。鉄哉は花柳界や芸人とのつきあいが深かったので、女性の表情を常に観察しており、それが活かされている。ごく僅かな差でちゃんと高低がついており、特に衣紋線の細い線刻がぴしっと決まっている。材も選び抜かれた柘植で、傷や汚れもほとんどない。それぞれの裏を見ると鉄哉のサインが彫られている。さらに落款もあり、これは鉄哉にしか書けない字なので本物に間違いない。」

現代の若者はマスコミで作られた虚像の人物、歌手などはその際たるものですが、それらの虚像に騙されてコンサートなどの商業ベースにはまっていることに気がつくべきでしょう。そのようなものより、もっとものづくりの人となり、技術を深く知るべきでしょう。

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