年末から年始にかけて例年のごとく郷里に帰省してきましたが、例年になく積雪が少ない状況でした。それでもクリスマスのころから積雪が増えて、帰省した頃には息子が愉しめるほどの雪がありました。
我が郷里では2年目のお正月の息子です。
着物を着て初詣・・。
座敷わらし・・・???
とにもかくにも田舎は自然が一杯です。都会のようにゴルフ場が自然とは誰も考えない!
本日は三幅対の痛んだ掛け軸。捨てるかどうするかの分かれ目のような作品です。かなり痛んだ状態で軸先はなくなっており、保存箱などもなく、掛けることもままならに作品です。しかも誰の作品??という状態でインターネットオークションに出品されていました。
出品者は「金江作」としての出品です。この「金江」なる画家は愛媛県出身の三好藍石のこどでしょう。「金江」は三好藍石の号のひとつですが、知らないと解らないし、ま~知っている人は稀有でしょう。オークションとしては意外と高値となり1万7500円也で落札。三好藍石の作と知っている人が複数いたようです。通常の市の競では数千円でしょう。
三幅対ですが、「春、夏、冬」とあり、「秋」を描いた作品があった可能性がありますが確証はありません。三幅のままかもしれません。
春夏冬山水図 三幅対 三好藍石筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1885*横535 画サイズ:縦1270*横415
賛には「柳市枕隠 藍石居士写於小画禅堂 押印」、「層密雲樹 倣宋□岳藍石居士 押印」、「寒渓雪暮 丁未(ひのとひつじ、ていび)□□写於小画禅堂 □□□藍石居士 押印」とあります。明治40年(1907年)、三好藍石が69歳頃の作品と推察されます。印章は「信□小貞」の白文朱方印、「金江」の朱文白方印の累印が押印されています。
藍石の三幅対の作品は見たことがないので購入・・。
愛媛出身の正岡子規は、同郷の洋画家下村為山に、「南画にあらずんば絵にあらず」といい、南画礼賛論で為山と激しい論争を展開しています。その論争は結局子規の負けとなり、彼もやがて洋画礼賛論者となりますが、幕末・明治の南画全盛期には、絵心あるものはだれもが南画を習い、子規のいう「南画にあらずんば絵にあらず」の風潮は、単に愛媛県下だけでなく、全国津々浦々に普及していた時代思潮でした。
一体、なぜ南画がそれほど普及し、一般に親しまれてきたのでしょうか?
中国における北宗・院体、日本の狩野・大和絵が常に支配階層の専有であるに対し、南画はあくまで在野の絵、その清新自由なアマチュア精神、庶民感覚の大衆性によるといえます。明治維新を成し遂げた憂国の志士たち、また新政の要路にたった官僚たちは、みな漢詩・漢文により育てられた悲憤懐慨の士であり、いわば体制への反逆者です。したがって、伝統絵画の優美華麗さより、彼等の感懐を端的に表す豪放洒脱な南画を歓迎したのも至極当然だったのでしょう。そうした新政府官僚たちの支援も得て爆発的な盛況を呈したのが、南画隆盛の要因と推察されます。
ところが、明治も中ごろになると、文明開化の波に乗り、西欧リアリズムの洗礼を受けた新日本画の台頭や洋画の進出が目立ち、これまで時流に乗ってきた南画も、次第に画壇の表舞台から姿を消します。従来の床の間芸術をそのままに公開の会場に持ち込んだ南画は、新時代の覚醒に乏しく、近代絵画としての脆弱さも目立ち、旧派といわれ次第に主流の座から追い落とされました。南画・文人画は、元来素人の絵です。その大衆性が基盤となり大発展をとげることとなったことが、やがて裏目に出て、いわゆる「つぐねいも山水」の汚名とともに凋落の一途をたどることとなりました。
愛媛県では脈々と南画の人気が続きましたが、世の流れには逆らえず、今では三好藍石を知る人は愛媛県でも少ないでしょう。
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三好藍石:天保九年(1838)徳島県池田町に生まれ、川之江の素封家三好家に迎えられ養子となる。名は信、字は小貞、通称を旦三といい、藍石は号であり、金江・螺翁・河江翁ともいう。
三好家は、代々酒造業を営む近郷きっての素封家であり、彼も詩文・書画を好む学識高い文化人であった。当家は文人墨客の出入りが絶えず、当地における文化交流の一大サロンの役を果たしていた。近くに住む続木君樵もその常連であり、彼の画業に大きい影響を及ぼすこととなる。そうした環境で悠々と文人気どりの彼は、明治初年の激動期、郷党に推され県会議員となり政界に乗り出す。さらに時代の要請で産業開発にも関心を示し、製陶・海運・養豚にまで手を出す。だが、元来は無欲恬淡の文人ゆえ、政治や実業が性に合わずすべてが失敗に終わって、さしもの名家も破産という破局を迎えることとなる。
彼が、いわゆる文人画家から脱却、専門画人としての道を選ぶのはそのころのようである。先祖から受け継いだ栄誉・資財の一切を失い、人の世のはかなさ、みにくさをつぶさに味わい、彼は60歳を過ぎ一流浪の画人として大阪へ出て行く。その大阪行きをすすめ、奔走したのは当時宇摩郡長を勤める門人の手島石泉ら多くの門弟たちだという。以後、彼は在阪20年、各地の画人と交流、研鑽を深め、多くの名作を残し、当地南画界の雄として、彼の生涯で最も充実した画人生活を送る。
大阪南画壇で盛名をはせた彼は、80歳を過ぎ、郷党や門人に迎えられ郷里川之江に帰り、*城山山麓の小画禅堂(清風明月草堂)に落ちつき、画禅三昧の老境を過ごし、大正12年(1923)10月20日、86歳で没す。
筆法はあくまで南画の伝統描法にのっとり、一筆一筆を誠実に、また巧みな雲姻による緊密な構成で生々しい現実感をもりながら超現実の神仙境を描出する。その卓抜の画技は、長年にわたる彼の厳しい求道・修練の賜物であり、いつまでも郷土人士の心をとらえて離さない。藍石の影響を受けた同郷の画人に大西黙堂・安藤正楽がおり、また東の藍石、西の青石と称された八幡浜の野田青石がいる。
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本ブログで紹介しました天野方壷は同郷の出身です。
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天野方壷と続木君樵は明治初頭における愛媛画壇の双璧といわれていますが、君樵は、帰朝後郷里に落ちつき、作画を楽しみながら画塾を開き後進を指導、そこに育った三好藍石ら多くの門弟たちは、やがて以後の愛媛画壇を風靡するに至る。
一方、方壷は、郷土を離れ全国各地を歴遊、中央画壇で華々しい活躍をするが、一人の門弟ももたず、専らおのが画業に専念する。その間、どれほど郷里に滞在し、どれだけの影響力を持ち得たのか。その点資料が乏しく推測の域を出ないが、彼は、専ら作品により郷土人士の心をとらえ、その作風で愛媛画壇を風扉したのではなかろうか。
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*城山(しろやま):愛媛県松山市内中心部にある国の史跡に指定されている山である。正式には、「勝山」(かつやま)であるが、山頂に松山城天守があることから、一般的には「城山」と呼ばれている。
三好藍石の代表作
*「寒霞渓秋景之図」:コロンブス記念博覧会出品(54歳作)
*「祖谷山蔓橋真景」:(55歳作)
*「老松亀鶴之図」:大正天皇御大典記念に献納
*「一品当朝之図」:天覧の作
引越しでかなりの不要な軸や陶磁器類が収納する場所がなく、山積みされてきました。売買するのも面倒なので廃棄処分ですが、その中の作品のひとつです。
我が郷里では2年目のお正月の息子です。
着物を着て初詣・・。
座敷わらし・・・???
とにもかくにも田舎は自然が一杯です。都会のようにゴルフ場が自然とは誰も考えない!
本日は三幅対の痛んだ掛け軸。捨てるかどうするかの分かれ目のような作品です。かなり痛んだ状態で軸先はなくなっており、保存箱などもなく、掛けることもままならに作品です。しかも誰の作品??という状態でインターネットオークションに出品されていました。
出品者は「金江作」としての出品です。この「金江」なる画家は愛媛県出身の三好藍石のこどでしょう。「金江」は三好藍石の号のひとつですが、知らないと解らないし、ま~知っている人は稀有でしょう。オークションとしては意外と高値となり1万7500円也で落札。三好藍石の作と知っている人が複数いたようです。通常の市の競では数千円でしょう。
三幅対ですが、「春、夏、冬」とあり、「秋」を描いた作品があった可能性がありますが確証はありません。三幅のままかもしれません。
春夏冬山水図 三幅対 三好藍石筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1885*横535 画サイズ:縦1270*横415
賛には「柳市枕隠 藍石居士写於小画禅堂 押印」、「層密雲樹 倣宋□岳藍石居士 押印」、「寒渓雪暮 丁未(ひのとひつじ、ていび)□□写於小画禅堂 □□□藍石居士 押印」とあります。明治40年(1907年)、三好藍石が69歳頃の作品と推察されます。印章は「信□小貞」の白文朱方印、「金江」の朱文白方印の累印が押印されています。
藍石の三幅対の作品は見たことがないので購入・・。
愛媛出身の正岡子規は、同郷の洋画家下村為山に、「南画にあらずんば絵にあらず」といい、南画礼賛論で為山と激しい論争を展開しています。その論争は結局子規の負けとなり、彼もやがて洋画礼賛論者となりますが、幕末・明治の南画全盛期には、絵心あるものはだれもが南画を習い、子規のいう「南画にあらずんば絵にあらず」の風潮は、単に愛媛県下だけでなく、全国津々浦々に普及していた時代思潮でした。
一体、なぜ南画がそれほど普及し、一般に親しまれてきたのでしょうか?
中国における北宗・院体、日本の狩野・大和絵が常に支配階層の専有であるに対し、南画はあくまで在野の絵、その清新自由なアマチュア精神、庶民感覚の大衆性によるといえます。明治維新を成し遂げた憂国の志士たち、また新政の要路にたった官僚たちは、みな漢詩・漢文により育てられた悲憤懐慨の士であり、いわば体制への反逆者です。したがって、伝統絵画の優美華麗さより、彼等の感懐を端的に表す豪放洒脱な南画を歓迎したのも至極当然だったのでしょう。そうした新政府官僚たちの支援も得て爆発的な盛況を呈したのが、南画隆盛の要因と推察されます。
ところが、明治も中ごろになると、文明開化の波に乗り、西欧リアリズムの洗礼を受けた新日本画の台頭や洋画の進出が目立ち、これまで時流に乗ってきた南画も、次第に画壇の表舞台から姿を消します。従来の床の間芸術をそのままに公開の会場に持ち込んだ南画は、新時代の覚醒に乏しく、近代絵画としての脆弱さも目立ち、旧派といわれ次第に主流の座から追い落とされました。南画・文人画は、元来素人の絵です。その大衆性が基盤となり大発展をとげることとなったことが、やがて裏目に出て、いわゆる「つぐねいも山水」の汚名とともに凋落の一途をたどることとなりました。
愛媛県では脈々と南画の人気が続きましたが、世の流れには逆らえず、今では三好藍石を知る人は愛媛県でも少ないでしょう。
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三好藍石:天保九年(1838)徳島県池田町に生まれ、川之江の素封家三好家に迎えられ養子となる。名は信、字は小貞、通称を旦三といい、藍石は号であり、金江・螺翁・河江翁ともいう。
三好家は、代々酒造業を営む近郷きっての素封家であり、彼も詩文・書画を好む学識高い文化人であった。当家は文人墨客の出入りが絶えず、当地における文化交流の一大サロンの役を果たしていた。近くに住む続木君樵もその常連であり、彼の画業に大きい影響を及ぼすこととなる。そうした環境で悠々と文人気どりの彼は、明治初年の激動期、郷党に推され県会議員となり政界に乗り出す。さらに時代の要請で産業開発にも関心を示し、製陶・海運・養豚にまで手を出す。だが、元来は無欲恬淡の文人ゆえ、政治や実業が性に合わずすべてが失敗に終わって、さしもの名家も破産という破局を迎えることとなる。
彼が、いわゆる文人画家から脱却、専門画人としての道を選ぶのはそのころのようである。先祖から受け継いだ栄誉・資財の一切を失い、人の世のはかなさ、みにくさをつぶさに味わい、彼は60歳を過ぎ一流浪の画人として大阪へ出て行く。その大阪行きをすすめ、奔走したのは当時宇摩郡長を勤める門人の手島石泉ら多くの門弟たちだという。以後、彼は在阪20年、各地の画人と交流、研鑽を深め、多くの名作を残し、当地南画界の雄として、彼の生涯で最も充実した画人生活を送る。
大阪南画壇で盛名をはせた彼は、80歳を過ぎ、郷党や門人に迎えられ郷里川之江に帰り、*城山山麓の小画禅堂(清風明月草堂)に落ちつき、画禅三昧の老境を過ごし、大正12年(1923)10月20日、86歳で没す。
筆法はあくまで南画の伝統描法にのっとり、一筆一筆を誠実に、また巧みな雲姻による緊密な構成で生々しい現実感をもりながら超現実の神仙境を描出する。その卓抜の画技は、長年にわたる彼の厳しい求道・修練の賜物であり、いつまでも郷土人士の心をとらえて離さない。藍石の影響を受けた同郷の画人に大西黙堂・安藤正楽がおり、また東の藍石、西の青石と称された八幡浜の野田青石がいる。
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本ブログで紹介しました天野方壷は同郷の出身です。
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天野方壷と続木君樵は明治初頭における愛媛画壇の双璧といわれていますが、君樵は、帰朝後郷里に落ちつき、作画を楽しみながら画塾を開き後進を指導、そこに育った三好藍石ら多くの門弟たちは、やがて以後の愛媛画壇を風靡するに至る。
一方、方壷は、郷土を離れ全国各地を歴遊、中央画壇で華々しい活躍をするが、一人の門弟ももたず、専らおのが画業に専念する。その間、どれほど郷里に滞在し、どれだけの影響力を持ち得たのか。その点資料が乏しく推測の域を出ないが、彼は、専ら作品により郷土人士の心をとらえ、その作風で愛媛画壇を風扉したのではなかろうか。
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*城山(しろやま):愛媛県松山市内中心部にある国の史跡に指定されている山である。正式には、「勝山」(かつやま)であるが、山頂に松山城天守があることから、一般的には「城山」と呼ばれている。
三好藍石の代表作
*「寒霞渓秋景之図」:コロンブス記念博覧会出品(54歳作)
*「祖谷山蔓橋真景」:(55歳作)
*「老松亀鶴之図」:大正天皇御大典記念に献納
*「一品当朝之図」:天覧の作
引越しでかなりの不要な軸や陶磁器類が収納する場所がなく、山積みされてきました。売買するのも面倒なので廃棄処分ですが、その中の作品のひとつです。