先週末には近くの公園にどんと焼に行ってきました。家族が風邪をひかぬように・・。
首都圏を中心に新年のあいさつ回りがほぼ終わりました。本日は夕刻より横浜へ・・。どうも最近のまわりの事業展開はここ数年の繰り返しの展開になっているように思います。経営トップ、拠点幹部が交代しても根本が変わっていないよう・・。大型案件に集中し利の少ない、もしくは利が確保できない同一顧客に戦力が集中しており、また長期案件ゆえにある時期に単価高騰に遭遇して大慌てする危惧があります。
完全に大型案件に酔っていますね。人員がかかりすぎて期間が少なく利が少ないものには関わらないほうがいい。もっと目先を変えたほうがいいのに戦略の切り替えができないようです。これは危ない・・。同じ失敗は繰り返さないは入社以来の私の信念・・、弊社はただしたたかに、ただただしたたかに・・・。
さて本日も氏素性の解らぬ作品で、氏素性の勉強です。
氏素性の解らぬ作品 ガレナ釉蛸文大皿 伝バーナード・リーチ作
口径485*高台径*高さ114
リーチの大きな業績は1920年、濱田庄司とともに祖国イギリスに赴き、イギリスの伝統的な陶器「スリップウェア」を復興させたことです。“蛸図大皿”(1925年頃)もその頃の作品で、動物、植物、幾何学文などを生き生きと描いた魅力的な皿、鉢を数多く制作しています。
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バーナード・リーチ:(1887-1979):香港に生まれ、まもなく母を亡くしたリーチは、日本在住の祖父に引き取られ、京都や彦根で幼少時を過ごしています。帰英後、美術学校に学んだリーチは、日本への憧れを募らせ、1909(明治42)年に再来日。白樺派の同人や岸田劉生などに銅版画を教えていましたが、そこで「白樺」最年少の同人であった柳宗悦と親交を深めることになります。その後招かれた茶会で楽焼に接して激しい興味を抱き、6世尾形乾山に入門、楽焼についで本焼の技法を修得し、本格的な陶工として立つに至りました。富本憲吉がリーチに触発されて、同じく陶芸に転じたのはよく知られていることです。
柳を通して濱田庄司とも知り合ったリーチは、1920(大正9)年、浜田庄司と共に帰英、英国のセント・アイヴスに登窯を築いて作陶を行ないます。以後ここを本拠としつつ国際的な活躍をつづけ、次第に高い評価を得ていきます。92年の生涯のうち、長短あわせて11回来日、各地で制作や講演を行い、柳・濱田・河井寛次郎らの民藝運動に寄与。東西文化の融合を陶芸を通して具現しました。著作には数多くの陶工にバイブルと称される A Potter's Book(1955)や、柳宗悦の民藝についての東洋的考察をまとめた The Unknown Craftsman(1972)などがあります。
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基本的には日本でいうところの民藝の陶工ですが、人気の高いことから高値で売買されることになりました。
技法としては発色が濃いもののスリップウェアの技法で製作されているようです。スリップウェアの技法についてはご存知の方も多いでしょうが、ここで復習してみましょう。
スリップと証するには泥漿(でいしょう、水と粘土を適度な濃度に混ぜたもの)状の化粧土のことです。これで装飾する方法で、近年でも陶芸家によって作品が作られています。
まずスリップを準備し、生乾きの鉢や皿の全面に地色となるスリップを掛けます。この上にスポイトなどから細く垂らしたり、筆で描いたり、更にこれを櫛状の道具で引っかいたりして文様を描きます。このあと場合によっては型に押し当てて成型し、窯に入れて焼きます。完成後、スリップをたらした部分は盛り上がって素地とは違う色の文様が浮かび上がることになります。
スリップは、陶の上に色を一層または数層に重ねて絵を描く手法としても使われます。このうち、スポイトから垂らす手法は日本の作陶における「筒描き」と同じ手法であり、スリップを垂らしては流す事を繰り返して矢羽根文様を作ることもできます。
リーチと浜田庄司は1920年にイギリスに渡り、セント・アイブスの彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけるとともに現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田が日本に持ち帰っています。柳宗悦や河井寛次郎もこれを目にし、彼らの作陶や民芸運動に強い影響を与えることになりました。
後年、丹波の柴田雅章によってイギリスのスリップウェア技法が明らかにされ、芸術新潮(2004年)の紙面において技法公開がなされました。
本物なら珍しい作品でしょうが、当方は出来が良いのでそれなりの値段で購入したものです。かえって印などがないほうが面白い作品ですね。
本作品のオリジナルは下記の作品です。
ガレナ釉蛸文大皿
1925年、セント・アイヴス、東京国立近代美術館蔵
代表的な作例はとても著名な作品です。スリップは白い粘土や鉱石の調合で作られ、「ガレナ」は硫化鉛のことらしい。
同一な紋様の作品がかなり複数存在するようですが・・・。
惜しげなく飾り、なにかあってもたいした問題にならぬ作品を持つことは普段の展示に必要です。真贋を問題にしないということも蒐集には必要というこです。ただあまりにも出来の悪い作品は所蔵している人の器量が疑われますね
古きよきものは復活に努めるをよしとしますが、悪しきものに手を出して失敗は繰り返さないことです。過去のことに大いに学び、よりよきものにしなくてはいけませんが、目先のことで栄達を望み人を育てぬものは未来はない。なにも陶磁器だけの話ではない
首都圏を中心に新年のあいさつ回りがほぼ終わりました。本日は夕刻より横浜へ・・。どうも最近のまわりの事業展開はここ数年の繰り返しの展開になっているように思います。経営トップ、拠点幹部が交代しても根本が変わっていないよう・・。大型案件に集中し利の少ない、もしくは利が確保できない同一顧客に戦力が集中しており、また長期案件ゆえにある時期に単価高騰に遭遇して大慌てする危惧があります。
完全に大型案件に酔っていますね。人員がかかりすぎて期間が少なく利が少ないものには関わらないほうがいい。もっと目先を変えたほうがいいのに戦略の切り替えができないようです。これは危ない・・。同じ失敗は繰り返さないは入社以来の私の信念・・、弊社はただしたたかに、ただただしたたかに・・・。
さて本日も氏素性の解らぬ作品で、氏素性の勉強です。
氏素性の解らぬ作品 ガレナ釉蛸文大皿 伝バーナード・リーチ作
口径485*高台径*高さ114
リーチの大きな業績は1920年、濱田庄司とともに祖国イギリスに赴き、イギリスの伝統的な陶器「スリップウェア」を復興させたことです。“蛸図大皿”(1925年頃)もその頃の作品で、動物、植物、幾何学文などを生き生きと描いた魅力的な皿、鉢を数多く制作しています。
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バーナード・リーチ:(1887-1979):香港に生まれ、まもなく母を亡くしたリーチは、日本在住の祖父に引き取られ、京都や彦根で幼少時を過ごしています。帰英後、美術学校に学んだリーチは、日本への憧れを募らせ、1909(明治42)年に再来日。白樺派の同人や岸田劉生などに銅版画を教えていましたが、そこで「白樺」最年少の同人であった柳宗悦と親交を深めることになります。その後招かれた茶会で楽焼に接して激しい興味を抱き、6世尾形乾山に入門、楽焼についで本焼の技法を修得し、本格的な陶工として立つに至りました。富本憲吉がリーチに触発されて、同じく陶芸に転じたのはよく知られていることです。
柳を通して濱田庄司とも知り合ったリーチは、1920(大正9)年、浜田庄司と共に帰英、英国のセント・アイヴスに登窯を築いて作陶を行ないます。以後ここを本拠としつつ国際的な活躍をつづけ、次第に高い評価を得ていきます。92年の生涯のうち、長短あわせて11回来日、各地で制作や講演を行い、柳・濱田・河井寛次郎らの民藝運動に寄与。東西文化の融合を陶芸を通して具現しました。著作には数多くの陶工にバイブルと称される A Potter's Book(1955)や、柳宗悦の民藝についての東洋的考察をまとめた The Unknown Craftsman(1972)などがあります。
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基本的には日本でいうところの民藝の陶工ですが、人気の高いことから高値で売買されることになりました。
技法としては発色が濃いもののスリップウェアの技法で製作されているようです。スリップウェアの技法についてはご存知の方も多いでしょうが、ここで復習してみましょう。
スリップと証するには泥漿(でいしょう、水と粘土を適度な濃度に混ぜたもの)状の化粧土のことです。これで装飾する方法で、近年でも陶芸家によって作品が作られています。
まずスリップを準備し、生乾きの鉢や皿の全面に地色となるスリップを掛けます。この上にスポイトなどから細く垂らしたり、筆で描いたり、更にこれを櫛状の道具で引っかいたりして文様を描きます。このあと場合によっては型に押し当てて成型し、窯に入れて焼きます。完成後、スリップをたらした部分は盛り上がって素地とは違う色の文様が浮かび上がることになります。
スリップは、陶の上に色を一層または数層に重ねて絵を描く手法としても使われます。このうち、スポイトから垂らす手法は日本の作陶における「筒描き」と同じ手法であり、スリップを垂らしては流す事を繰り返して矢羽根文様を作ることもできます。
リーチと浜田庄司は1920年にイギリスに渡り、セント・アイブスの彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけるとともに現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田が日本に持ち帰っています。柳宗悦や河井寛次郎もこれを目にし、彼らの作陶や民芸運動に強い影響を与えることになりました。
後年、丹波の柴田雅章によってイギリスのスリップウェア技法が明らかにされ、芸術新潮(2004年)の紙面において技法公開がなされました。
本物なら珍しい作品でしょうが、当方は出来が良いのでそれなりの値段で購入したものです。かえって印などがないほうが面白い作品ですね。
本作品のオリジナルは下記の作品です。
ガレナ釉蛸文大皿
1925年、セント・アイヴス、東京国立近代美術館蔵
代表的な作例はとても著名な作品です。スリップは白い粘土や鉱石の調合で作られ、「ガレナ」は硫化鉛のことらしい。
同一な紋様の作品がかなり複数存在するようですが・・・。
惜しげなく飾り、なにかあってもたいした問題にならぬ作品を持つことは普段の展示に必要です。真贋を問題にしないということも蒐集には必要というこです。ただあまりにも出来の悪い作品は所蔵している人の器量が疑われますね
古きよきものは復活に努めるをよしとしますが、悪しきものに手を出して失敗は繰り返さないことです。過去のことに大いに学び、よりよきものにしなくてはいけませんが、目先のことで栄達を望み人を育てぬものは未来はない。なにも陶磁器だけの話ではない