最近の社会人は先輩に対する敬意というものが希薄なようです。退職すると上から目線で話をする後輩が多いことに戸惑うことが多い。足を組んだまま話をしたり、OBが再就職した会社をさげすんだような話し方をしたり・・・。我々先輩たちも怒らくなったのも悪い。ま~、こちらの人徳、実力が足りないと思って頭を下げて我慢するしかないのが情けないが、「急ゲド水ハ流レジ月ハ」の心境。息子の茶が心のなぐさめ
愚痴はさておいて本日はまとめて購入した作品のひとつ・・、トイレに取り付けた自宅の山林にあった欅の根の棚に飾っております。
スリップウエア、塩釉など欧米の陶芸の技法が盛んに日本でも行なわれいますが、そのようなことは日常使う器の基本としてしておくべきことでしょう。
本日はその技法を日本にもたらしたバーナードリーチと浜田庄司の関わりを記述してみました。
氏素性の解らぬ作品 黄釉線彫壷 伝バーナード・リーチ作 その3
口径*最大胴幅195*高台径*高さ248
1920年、セント・アイヴズに西洋初の日本式登り窯として浜田庄司とバーナードリーチで作り、1922年には「リーチ・ポタリー」(Leach Pottery)という名の窯を開いています。彼らはセント・アイヴスで西洋と東洋の美や哲学を融合させた陶磁器を作り、朝鮮や日本、中国の日用陶器に注目したほかスリップウェアや塩釉といったイギリスやドイツの忘れられつつあった伝統的な日用陶器にも着目してその技法をマスターしました。
リーチ・ポタリーは、リーチの死後、リーチの3度目の夫人ジャネット・リーチにより引き継がれましたが、彼女が亡くなると、売却され解体の危機にさらされました。
*ジャネットリーチの作品は以前に本ブログで紹介しています。
2005年、陶芸の歴史上、重要な意味を持つこの工房を救おうと、「リーチポタリー再建運動委員会」が発足。英国政府より認可を受けた公的慈善団体として募金活動が始まり、2006年にはポタリーの敷地および登り窯が買い戻されました。
日本側でも、柳宗悦や濱田庄司がかつて館長をつとめた日本民藝館が中心となって、募金活動がスタート。資金はリーチ・ポタリーの再建および日英文化交流奨学基金の運営のために充てられました。
こうして保存・拡張工事を経て、晴れて2008年、新リーチ・ポタリーが完成。3月6日の竣工式ではバーナード・リーチの孫、ジョン・リーチさんと、濱田庄司の孫、濱田友緒さんによるテープカットが行われました。
このような歴史的なことを知っているのと知らないのでは作品に対する思いがまったく異なるものになります。本作品の真贋はさておいて・・・
参考
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塩釉:焚口から食塩を投入し、窯内に食塩蒸気を発生させ、その作用で素地面にガラス状被覆面を作る。最高温時に食塩を窯の上部の穴から投入すると,食塩のナトリウムと陶土のケイ酸が融合し,ガラス化したケイ酸ナトリウムを陶器上に生じる。塩釉の発祥は15世紀のドイツと伝えられています。もともと薪が不足しニシンを漬けていた樽を燃料にして窯と焚いたことが起源とも言われています。
塩釉薬は濱田庄司が、英国で学んできた技法であるが、濱田庄司の塩釉は薄い釉薬の状態である事が特徴です。現在、塩釉を使う作家が多くなってきて厚がけをする作家なども出てきました。塩釉薬は厚がけをすると、貫入が大きく入ってしまうが、薄がけの場合は貫入が入りづらく使用するのにも最適です。浜田は還暦を過ぎたころから塩釉を本格的に製作するようになりました。
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この世には知らないことがたくさんあるものです。
ところで佐野乾山とバーナードリーチとの関連をご存知の方は多いと思います。そのことについては後日また・・。
この作品は「生命の樹」という有名なバーナードリーチの作品も文様をさらに抽象化した作品ではないかと思われます。検証は後学としますが、題名は「生命の樹」という可能性があります。
補足説明
バーナードリーチの「生命の樹」という題名の湯呑を描いた岸田劉生の静物画があります。
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バーナードリーチと岸田劉生
1912年に岸田劉生がリーチの作陶の絵付けの手伝いをしたことで親交を深めました。劉生にとってリーチは「素描するという事の芸術的境地」「デコラティブという事の本当の意味」、そして「東洋的審美」を知るきっかけを与えてくれた重要な友人であり、リーチもまた劉生を高く評価していました。劉生はリーチの陶芸作品をモチーフにたびたび静物画を描いています。
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バーナードリーチを調べると日本の美術に大きく関わっていたことを知ることになります。
歴史を知らないと敬意は希薄となるのはなにごとも同じで、敬意を払わないというのは無知と同じことです。。
愚痴はさておいて本日はまとめて購入した作品のひとつ・・、トイレに取り付けた自宅の山林にあった欅の根の棚に飾っております。
スリップウエア、塩釉など欧米の陶芸の技法が盛んに日本でも行なわれいますが、そのようなことは日常使う器の基本としてしておくべきことでしょう。
本日はその技法を日本にもたらしたバーナードリーチと浜田庄司の関わりを記述してみました。
氏素性の解らぬ作品 黄釉線彫壷 伝バーナード・リーチ作 その3
口径*最大胴幅195*高台径*高さ248
1920年、セント・アイヴズに西洋初の日本式登り窯として浜田庄司とバーナードリーチで作り、1922年には「リーチ・ポタリー」(Leach Pottery)という名の窯を開いています。彼らはセント・アイヴスで西洋と東洋の美や哲学を融合させた陶磁器を作り、朝鮮や日本、中国の日用陶器に注目したほかスリップウェアや塩釉といったイギリスやドイツの忘れられつつあった伝統的な日用陶器にも着目してその技法をマスターしました。
リーチ・ポタリーは、リーチの死後、リーチの3度目の夫人ジャネット・リーチにより引き継がれましたが、彼女が亡くなると、売却され解体の危機にさらされました。
*ジャネットリーチの作品は以前に本ブログで紹介しています。
2005年、陶芸の歴史上、重要な意味を持つこの工房を救おうと、「リーチポタリー再建運動委員会」が発足。英国政府より認可を受けた公的慈善団体として募金活動が始まり、2006年にはポタリーの敷地および登り窯が買い戻されました。
日本側でも、柳宗悦や濱田庄司がかつて館長をつとめた日本民藝館が中心となって、募金活動がスタート。資金はリーチ・ポタリーの再建および日英文化交流奨学基金の運営のために充てられました。
こうして保存・拡張工事を経て、晴れて2008年、新リーチ・ポタリーが完成。3月6日の竣工式ではバーナード・リーチの孫、ジョン・リーチさんと、濱田庄司の孫、濱田友緒さんによるテープカットが行われました。
このような歴史的なことを知っているのと知らないのでは作品に対する思いがまったく異なるものになります。本作品の真贋はさておいて・・・
参考
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塩釉:焚口から食塩を投入し、窯内に食塩蒸気を発生させ、その作用で素地面にガラス状被覆面を作る。最高温時に食塩を窯の上部の穴から投入すると,食塩のナトリウムと陶土のケイ酸が融合し,ガラス化したケイ酸ナトリウムを陶器上に生じる。塩釉の発祥は15世紀のドイツと伝えられています。もともと薪が不足しニシンを漬けていた樽を燃料にして窯と焚いたことが起源とも言われています。
塩釉薬は濱田庄司が、英国で学んできた技法であるが、濱田庄司の塩釉は薄い釉薬の状態である事が特徴です。現在、塩釉を使う作家が多くなってきて厚がけをする作家なども出てきました。塩釉薬は厚がけをすると、貫入が大きく入ってしまうが、薄がけの場合は貫入が入りづらく使用するのにも最適です。浜田は還暦を過ぎたころから塩釉を本格的に製作するようになりました。
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この世には知らないことがたくさんあるものです。
ところで佐野乾山とバーナードリーチとの関連をご存知の方は多いと思います。そのことについては後日また・・。
この作品は「生命の樹」という有名なバーナードリーチの作品も文様をさらに抽象化した作品ではないかと思われます。検証は後学としますが、題名は「生命の樹」という可能性があります。
補足説明
バーナードリーチの「生命の樹」という題名の湯呑を描いた岸田劉生の静物画があります。
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バーナードリーチと岸田劉生
1912年に岸田劉生がリーチの作陶の絵付けの手伝いをしたことで親交を深めました。劉生にとってリーチは「素描するという事の芸術的境地」「デコラティブという事の本当の意味」、そして「東洋的審美」を知るきっかけを与えてくれた重要な友人であり、リーチもまた劉生を高く評価していました。劉生はリーチの陶芸作品をモチーフにたびたび静物画を描いています。
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バーナードリーチを調べると日本の美術に大きく関わっていたことを知ることになります。
歴史を知らないと敬意は希薄となるのはなにごとも同じで、敬意を払わないというのは無知と同じことです。。