本日は以前に投稿した「東坡三養」と同年に描かれた富岡鉄斎の作品です。先週は富岡鉄斎の晩年期の作品を再度調べてみました。ふたつの作品を展示室に並べて掛けてみましたが、展示室のようなスペースがあると並べて比較するというのが楽にできてよくなりました。
今回の整理で同時期の作品で共箱の富岡鉄斎の作品が四作品あることが判明しました。今回はその二作を中心に紹介します。
右幅が「東坡三養」(箱書きの題は「壬戌の秋」)、左幅が本日紹介する「幽居百道図」です。両方ともに大正11年、富岡鉄斎が87歳のときに描いた作品と思われます。富岡鉄斎は83歳以降の作品から最晩年までが最も輝かしい画業を遺しており、特に88、89歳に描いた作品が最も価値が高いと言われています。
80歳以前の作品にもむろんいいものもたくさんありますが、蒐集対象としては数が少ないし、すでに納まるべきところに納まっているので、80歳以降の多作な作品を蒐集対象とするのが得策のようです。小生にとっては80歳以前はとくに真贋の判断はやたら難しいのも事実です。
両作品ともに蘇東坡の句や詩を賛にしています。鉄斎は、蘇東坡と同じ12月19日生まれであるのを誇りとして「東坡同日生」の印を造って用いたり、東坡遺愛と伝える「蝉硯」や、東坡が作らせたという「東坡法墨」も所持する傾倒ぶりでした。また「聚蘇書寮」という室号をつけて、東坡の著作や関連文献を熱心に蒐集し、中国では失われた「東坡先生年譜」の筆写本を秘蔵していたそうです。
蘇東坡、すなわち蘇軾(1036~1101)は、北宋を代表する文人にして官僚ですが、筆禍事件で死罪の危機に瀕したかと思えば、天子側近に取り立てられ、はては政争に巻き込まれて流罪となっています。そういう波瀾に富んだ生涯を蘇東坡は余裕たっぷりに愉しみ、「春夜詩」や「赤壁賦」をはじめ不朽の名作を残しました。
鉄斎は、生涯にわたり東坡像を数多く描いていて、本作品を描いた大正11年には『百東坡図』なる画集も刊行しています。両作品がそのような時期の製作でどのような位置づけかは小生が知る由もありませんが、時を経て、時間を隔てて、小生に縁のあった両作品です。
「東坡三養」(箱書きの題は「壬戌の秋」)の作品は以前に紹介しておりますが、本日は「幽居百道図」とあわせての説明になります。
幽居百道図 富岡鉄斎筆
紙本淡彩軸装 軸先 共箱二重箱
全体サイズ:横455*縦2140 画サイズ:横330*縦1340
賛は「安心是薬更無方」(安心は是れ薬、更に方無し)と記され、この口語訳は「安心こそ薬。その他に治療法はない 。」という意味であり、蘇軾(1037~1101 / 北宋の文人 政治家・詩人・書家 唐宋八大家の一人)の句です。
「東坡三養 富岡鉄斎筆」(紙本淡彩絹装軸共箱 画サイズ:横327*縦1340)の他の所蔵作品と同じく鉄斎が87歳、大正11年の作で両作品の印章が一致しますので、ほぼ同時期に描かれた作品と推察されます。
サイズもほぼ同じく、下にあった畳の継ぎ目?のような跡も同じような箇所にあり、まったく同時に描いたかもしれません。
東坡(蘇東坡)については富岡鉄斎とのかかわりは深く、そのことにも若干なんでも鑑定団でも触れていました。東坡にちなんで作品に描いたものは、みな力をこめて描かれています。
年を感じさせぬ墨痕の力強さ、自由濶達な筆づかい、そして若い頃学んだことを充分に咀嚼したと思われる隅の濃淡の巧みさなど、その作風には何ものにもとらわれない、スケールの大きさが感じられます。
「万巻の書を読み、万里の路を行き、胸中より塵濁を脱去し」という文人精神そのままに、しばしば旅を繰り返し、数万冊といわれる蔵書を読破して身につけた深い教養と高潔な精神性に裏打ちされていたからでしょう。
明治に入ってフェノロサや岡倉天心の南画排撃にあって、凋落の一途をたどった日本の南画で一人孤高の位置を保ったのも頷けます。
富岡鉄斎は贋作が多い画家ですので、その真贋の極めは難を極めていますが、作品に触れていくとだんだんに解ってくるらしいのですが・・。富岡鉄斎の作品が10作品のうち9本は偽物という確率であると言われています。
下記の写真は二作品の箱書です。
左:「東坡三養」は裏に題と落款と印章が書かれています。
中央と右:「幽居百道図」は表に題、裏に落款と印章でもともと別の箱から箱書きだけ入れ込んだものです。
最初に富岡鉄斎の作品にふれると作品自体がどこがいいのかよく解らないというのが素直な感想だろうと思います。
富岡鉄斎の作品は贋作自体が真作を臨写していることが真贋の見極めを余計に難しくしています。どうも真作にふれることができた人物が贋作製作に絡んでいたらしいとか・・。贋作が非常によく描けているという点、箱書きもよく真似ているという点・・。
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インターネット上の富岡鉄斎の真贋についての記事の紹介
「真贋は大切なものだが、それほどまでに拘らなければならないものなのか。真贋は学者(専門家)にとっては確かに大切なものだが、僕のような素人にとってはそれほど拘るべきものでは無い様にも思える。絵画を見て楽しみ、それぞれのレベルに応じ、自分自身が納得いければ十分ではないだろうか。
贋作には真作ほど真に迫る迫力がないということだが、必ずしもそういうわけではない。著名画家の作品でも、技量的に不味いものも間々あるようだ。富岡鉄斎の作品でも贋作のほうが上手だと言う専門家も多数いるようだ。何が芸術で何が駄作かは永遠の謎かもしれない。以前鉄斎美術館で真贋の作品展が開催されたことがある。おなじ題材の真贋二作品を並べて展示された。解説では真よりも贋の方が上手だという例もあったように記憶している。
真贋の世界なんてワイン(酒)の世界に合い通じるものがあるようだ。伝統を誇り埃を被ったボルドーの世界、ワインのブラインドコンテストで、カリフォルニアワイン(アメリカ)になすすべも無くこっぴっどく打ちのめされたボルドーの主張はコンストラクチョンの有無だった。このコンストラクチョンを証明すべく10年後、20年後に再挑戦を賭けて再び行われた同じコンテストでも、返り討ちどころか完璧なまでに打ちのめされた。
美術界(芸術界)も不思議な世界だ。また、ある意味では政治の世界にも似通っているようだ。誰が何か言おうとしても真実(まこと)その正誤は立証できるものではない。それ故非科学の分野かもしれない。でも結果論的に、どんな猫でも鼠を捕らえればイイ猫なのかもしれない。政治界も結果論的で結果を伴わなければどうしようもない。又ある意味では医学界とも相通じるようだ。ボスがたとえ黒いものでも白といえば、以後白いものとなる。美術界のボスが白といえば、これは白なのだ。黒といえば黒なのだ。白黒相反する二つの事象が一つに制約される。ことの正非はまた別ものなのだ。X線、超音波診断装置、スプリング8など、科学的検査を持ってしても、これは手段であって美術品の真贋を立証さるべきものではない。どんな手具立て手段を持ってしてもそれが真実だという100%の証明は不可能なのだ。
世の中そんなに甘くは無い。騙し騙されて流れ行く(鴨長明)のが世の常である。永遠の不条理、断続的連続が何時の世の中でも行われている。楽しければそれでよい。楽しめたらなほ良い。それ以上の感激はない。人間単純な方が万事幸せなのだ。」
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同感・・・ 本日の作品について「ん? 両作品ともに真贋?」・・、野暮な質問は止めたほうがいいいかと・・、小生にも本作品群の真贋は皆目見当がつきませんから・・。
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蘇東坡について補足
蜀(四川省)眉州眉山(眉山市)の出身。嘉祐2年(1057年)22歳のときに弟・蘇轍とともに進士となる。このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾、蘇轍、曽鞏の3名のみ合格した。
合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入る。しかし次代の神宗の時代になると、唐末五代の混乱後の国政の立て直しの必要性が切実になってきた。その改革の旗手が王安石であり、改革のために「新法」と呼ばれる様々な施策が練られた。具体的には『周礼』に説かれる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく天子の公民とする斉民思想に基づき、均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策や、科挙改革や学校制度整備などの教育政策が行われた。蘇軾は、欧陽脩・司馬光らとともにこれに反対したため、2度にわたり流罪を被り辺鄙な土地へ名ばかりの官名を与えられて追放された。
最初の追放は元豊2年(1079年)蘇軾44歳で湖州の知事時代である。国政誹謗の罪を着せられて逮捕され、厳しい取り調べを受け、彼自身も一旦死を覚悟したが、神宗の特別の取り計らいで黄州(湖北省黄州区)へ左遷となった。左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。黄州での生活は足かけ5年にも及び、経済的にも自ら鋤を執って荒地を開墾するほどの苦難の生活だったが、このため彼の文学は一段と大きく成長した。流罪という挫折経験を、感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、たくましく乗り越えようと努めた。
平生の深い沈思の結果が、彼に現実を超越した聡明な人生哲学をもたらした。この黄州時代の最大の傑作が『赤壁賦』である。赤壁は、三国時代の有名な古戦場であり、西暦208年、呉と蜀の連合軍が、圧倒的な数を誇る魏の水軍を破ったことで知られる。ただし合戦のあった赤壁は、黄州から長江を遡った南岸の嘉魚県の西にあり、蘇軾が読んだ赤壁は実際の古戦場ではない。史跡を蘇軾が取り違えたのではなく、古くからそこを合戦の場だとする民間伝承があったと思われる。
元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位して旧法党が復権すると、蘇軾も名誉が回復され、50歳で中央の官界に復帰し、翰林学士などを経て、礼部尚書(文部大臣)まで昇進した。新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争したことから旧法派の内部でも孤立する。
更に紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され、恵州(現在の広東省)に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された。66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位するにおよび、新旧両党の融和が図られると、ようやく許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去した。しかし、この苛酷な運命にあっても、彼の楽天性は強靭さを失わず、中国文学史に屹立する天性のユーモリストであった。
左遷:44歳~50歳の5年 黄州(湖北省黄州区)
59歳~66歳(没年)の7年 恵州(現在の広東省)62歳 海南島にまで追放
許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去.
*中華料理のポピュラーな品目である「東坡肉」(トンポーロー、ブタの角煮)は、彼が黄州へ左遷させられた際に豚肉料理について詠じた詩からつけられたという。
*蘇軾の死後、蔡京が握ると旧法党の弾圧が再び行われて遺族は困窮に悩まされていたが、かつて蘇軾の部下であった高俅(物語『水滸伝』では最大の悪役とされている)は蘇軾から受けた恩義に報いるために秘かに遺族を支援していたという。
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真贋以外で骨董から学ぶことは多いものです。真贋を趣味とする者にとってある程度のレベルになると真贋は二次的な要素でしかないように思います。
さて手元にある同年代に描かれたと思われる作品の箱書きを並べてみました。ちなみに箱書はある程度の参考資料です。手練れによる贋作は箱書がかなり本物に近いものです。
箱の表書きは
左から「幽居百道図」(本作品) 「漁隠快楽図」 「如?事山寿図」の順です。
箱の裏は
「壬戌之秋(東坡三養)」 「幽居百道図」 「漁隠快楽図」 「如?事山寿図」の順です。
それでは「蘇軾」に関した本日の二作品を両脇にして他の二作品を中央に置いてみました。鉄斎の孫の富岡益太郎による鑑定は箱だけではかえって贋作と判断したほうが正解です。箱とともに写真付きの鑑定書がなくてはいけません。このような基本的なことを知っていないとひどい目にあうようです
作品の展示は「幽居百道図」 「漁隠快楽図」「壬戌之秋(東坡三養)」 の順です。
一日で絹本の作品を70作品も描いた記録があります。70歳代で3000点の作品があるとか・・、どこから真作が出てきてもおかしくないようですが・・。
まずはともかく絵のごとく楽しみあれ。
次に展示は「幽居百道図」 「如?事山寿図」 「壬戌之秋(東坡三養)」 の順です。
水墨画より着色画の評価が高いようですが・・。
墨がともかく「みずみずしい」作品がよいようです。
少なくても楽しめる作品には相違ないでしょう。
先週は富岡鉄斎の四作品を展示室に掛けてじっくり楽しみました。たしかに80歳後半の作品はごまかしようがない力強さがあります。その以前の作品に贋作が多いようです。この四作品以外は今後の課題としておきます。
いずれにしろ現在は非常に安くなった富岡鉄斎の作品です。今ではあらたに贋作を作ろうという金額ではないことは確かです。
今回の整理で同時期の作品で共箱の富岡鉄斎の作品が四作品あることが判明しました。今回はその二作を中心に紹介します。
右幅が「東坡三養」(箱書きの題は「壬戌の秋」)、左幅が本日紹介する「幽居百道図」です。両方ともに大正11年、富岡鉄斎が87歳のときに描いた作品と思われます。富岡鉄斎は83歳以降の作品から最晩年までが最も輝かしい画業を遺しており、特に88、89歳に描いた作品が最も価値が高いと言われています。
80歳以前の作品にもむろんいいものもたくさんありますが、蒐集対象としては数が少ないし、すでに納まるべきところに納まっているので、80歳以降の多作な作品を蒐集対象とするのが得策のようです。小生にとっては80歳以前はとくに真贋の判断はやたら難しいのも事実です。
両作品ともに蘇東坡の句や詩を賛にしています。鉄斎は、蘇東坡と同じ12月19日生まれであるのを誇りとして「東坡同日生」の印を造って用いたり、東坡遺愛と伝える「蝉硯」や、東坡が作らせたという「東坡法墨」も所持する傾倒ぶりでした。また「聚蘇書寮」という室号をつけて、東坡の著作や関連文献を熱心に蒐集し、中国では失われた「東坡先生年譜」の筆写本を秘蔵していたそうです。
蘇東坡、すなわち蘇軾(1036~1101)は、北宋を代表する文人にして官僚ですが、筆禍事件で死罪の危機に瀕したかと思えば、天子側近に取り立てられ、はては政争に巻き込まれて流罪となっています。そういう波瀾に富んだ生涯を蘇東坡は余裕たっぷりに愉しみ、「春夜詩」や「赤壁賦」をはじめ不朽の名作を残しました。
鉄斎は、生涯にわたり東坡像を数多く描いていて、本作品を描いた大正11年には『百東坡図』なる画集も刊行しています。両作品がそのような時期の製作でどのような位置づけかは小生が知る由もありませんが、時を経て、時間を隔てて、小生に縁のあった両作品です。
「東坡三養」(箱書きの題は「壬戌の秋」)の作品は以前に紹介しておりますが、本日は「幽居百道図」とあわせての説明になります。
幽居百道図 富岡鉄斎筆
紙本淡彩軸装 軸先 共箱二重箱
全体サイズ:横455*縦2140 画サイズ:横330*縦1340
賛は「安心是薬更無方」(安心は是れ薬、更に方無し)と記され、この口語訳は「安心こそ薬。その他に治療法はない 。」という意味であり、蘇軾(1037~1101 / 北宋の文人 政治家・詩人・書家 唐宋八大家の一人)の句です。
「東坡三養 富岡鉄斎筆」(紙本淡彩絹装軸共箱 画サイズ:横327*縦1340)の他の所蔵作品と同じく鉄斎が87歳、大正11年の作で両作品の印章が一致しますので、ほぼ同時期に描かれた作品と推察されます。
サイズもほぼ同じく、下にあった畳の継ぎ目?のような跡も同じような箇所にあり、まったく同時に描いたかもしれません。
東坡(蘇東坡)については富岡鉄斎とのかかわりは深く、そのことにも若干なんでも鑑定団でも触れていました。東坡にちなんで作品に描いたものは、みな力をこめて描かれています。
年を感じさせぬ墨痕の力強さ、自由濶達な筆づかい、そして若い頃学んだことを充分に咀嚼したと思われる隅の濃淡の巧みさなど、その作風には何ものにもとらわれない、スケールの大きさが感じられます。
「万巻の書を読み、万里の路を行き、胸中より塵濁を脱去し」という文人精神そのままに、しばしば旅を繰り返し、数万冊といわれる蔵書を読破して身につけた深い教養と高潔な精神性に裏打ちされていたからでしょう。
明治に入ってフェノロサや岡倉天心の南画排撃にあって、凋落の一途をたどった日本の南画で一人孤高の位置を保ったのも頷けます。
富岡鉄斎は贋作が多い画家ですので、その真贋の極めは難を極めていますが、作品に触れていくとだんだんに解ってくるらしいのですが・・。富岡鉄斎の作品が10作品のうち9本は偽物という確率であると言われています。
下記の写真は二作品の箱書です。
左:「東坡三養」は裏に題と落款と印章が書かれています。
中央と右:「幽居百道図」は表に題、裏に落款と印章でもともと別の箱から箱書きだけ入れ込んだものです。
最初に富岡鉄斎の作品にふれると作品自体がどこがいいのかよく解らないというのが素直な感想だろうと思います。
富岡鉄斎の作品は贋作自体が真作を臨写していることが真贋の見極めを余計に難しくしています。どうも真作にふれることができた人物が贋作製作に絡んでいたらしいとか・・。贋作が非常によく描けているという点、箱書きもよく真似ているという点・・。
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インターネット上の富岡鉄斎の真贋についての記事の紹介
「真贋は大切なものだが、それほどまでに拘らなければならないものなのか。真贋は学者(専門家)にとっては確かに大切なものだが、僕のような素人にとってはそれほど拘るべきものでは無い様にも思える。絵画を見て楽しみ、それぞれのレベルに応じ、自分自身が納得いければ十分ではないだろうか。
贋作には真作ほど真に迫る迫力がないということだが、必ずしもそういうわけではない。著名画家の作品でも、技量的に不味いものも間々あるようだ。富岡鉄斎の作品でも贋作のほうが上手だと言う専門家も多数いるようだ。何が芸術で何が駄作かは永遠の謎かもしれない。以前鉄斎美術館で真贋の作品展が開催されたことがある。おなじ題材の真贋二作品を並べて展示された。解説では真よりも贋の方が上手だという例もあったように記憶している。
真贋の世界なんてワイン(酒)の世界に合い通じるものがあるようだ。伝統を誇り埃を被ったボルドーの世界、ワインのブラインドコンテストで、カリフォルニアワイン(アメリカ)になすすべも無くこっぴっどく打ちのめされたボルドーの主張はコンストラクチョンの有無だった。このコンストラクチョンを証明すべく10年後、20年後に再挑戦を賭けて再び行われた同じコンテストでも、返り討ちどころか完璧なまでに打ちのめされた。
美術界(芸術界)も不思議な世界だ。また、ある意味では政治の世界にも似通っているようだ。誰が何か言おうとしても真実(まこと)その正誤は立証できるものではない。それ故非科学の分野かもしれない。でも結果論的に、どんな猫でも鼠を捕らえればイイ猫なのかもしれない。政治界も結果論的で結果を伴わなければどうしようもない。又ある意味では医学界とも相通じるようだ。ボスがたとえ黒いものでも白といえば、以後白いものとなる。美術界のボスが白といえば、これは白なのだ。黒といえば黒なのだ。白黒相反する二つの事象が一つに制約される。ことの正非はまた別ものなのだ。X線、超音波診断装置、スプリング8など、科学的検査を持ってしても、これは手段であって美術品の真贋を立証さるべきものではない。どんな手具立て手段を持ってしてもそれが真実だという100%の証明は不可能なのだ。
世の中そんなに甘くは無い。騙し騙されて流れ行く(鴨長明)のが世の常である。永遠の不条理、断続的連続が何時の世の中でも行われている。楽しければそれでよい。楽しめたらなほ良い。それ以上の感激はない。人間単純な方が万事幸せなのだ。」
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同感・・・ 本日の作品について「ん? 両作品ともに真贋?」・・、野暮な質問は止めたほうがいいいかと・・、小生にも本作品群の真贋は皆目見当がつきませんから・・。
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蘇東坡について補足
蜀(四川省)眉州眉山(眉山市)の出身。嘉祐2年(1057年)22歳のときに弟・蘇轍とともに進士となる。このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾、蘇轍、曽鞏の3名のみ合格した。
合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入る。しかし次代の神宗の時代になると、唐末五代の混乱後の国政の立て直しの必要性が切実になってきた。その改革の旗手が王安石であり、改革のために「新法」と呼ばれる様々な施策が練られた。具体的には『周礼』に説かれる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく天子の公民とする斉民思想に基づき、均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策や、科挙改革や学校制度整備などの教育政策が行われた。蘇軾は、欧陽脩・司馬光らとともにこれに反対したため、2度にわたり流罪を被り辺鄙な土地へ名ばかりの官名を与えられて追放された。
最初の追放は元豊2年(1079年)蘇軾44歳で湖州の知事時代である。国政誹謗の罪を着せられて逮捕され、厳しい取り調べを受け、彼自身も一旦死を覚悟したが、神宗の特別の取り計らいで黄州(湖北省黄州区)へ左遷となった。左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。黄州での生活は足かけ5年にも及び、経済的にも自ら鋤を執って荒地を開墾するほどの苦難の生活だったが、このため彼の文学は一段と大きく成長した。流罪という挫折経験を、感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、たくましく乗り越えようと努めた。
平生の深い沈思の結果が、彼に現実を超越した聡明な人生哲学をもたらした。この黄州時代の最大の傑作が『赤壁賦』である。赤壁は、三国時代の有名な古戦場であり、西暦208年、呉と蜀の連合軍が、圧倒的な数を誇る魏の水軍を破ったことで知られる。ただし合戦のあった赤壁は、黄州から長江を遡った南岸の嘉魚県の西にあり、蘇軾が読んだ赤壁は実際の古戦場ではない。史跡を蘇軾が取り違えたのではなく、古くからそこを合戦の場だとする民間伝承があったと思われる。
元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位して旧法党が復権すると、蘇軾も名誉が回復され、50歳で中央の官界に復帰し、翰林学士などを経て、礼部尚書(文部大臣)まで昇進した。新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争したことから旧法派の内部でも孤立する。
更に紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され、恵州(現在の広東省)に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された。66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位するにおよび、新旧両党の融和が図られると、ようやく許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去した。しかし、この苛酷な運命にあっても、彼の楽天性は強靭さを失わず、中国文学史に屹立する天性のユーモリストであった。
左遷:44歳~50歳の5年 黄州(湖北省黄州区)
59歳~66歳(没年)の7年 恵州(現在の広東省)62歳 海南島にまで追放
許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去.
*中華料理のポピュラーな品目である「東坡肉」(トンポーロー、ブタの角煮)は、彼が黄州へ左遷させられた際に豚肉料理について詠じた詩からつけられたという。
*蘇軾の死後、蔡京が握ると旧法党の弾圧が再び行われて遺族は困窮に悩まされていたが、かつて蘇軾の部下であった高俅(物語『水滸伝』では最大の悪役とされている)は蘇軾から受けた恩義に報いるために秘かに遺族を支援していたという。
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真贋以外で骨董から学ぶことは多いものです。真贋を趣味とする者にとってある程度のレベルになると真贋は二次的な要素でしかないように思います。
さて手元にある同年代に描かれたと思われる作品の箱書きを並べてみました。ちなみに箱書はある程度の参考資料です。手練れによる贋作は箱書がかなり本物に近いものです。
箱の表書きは
左から「幽居百道図」(本作品) 「漁隠快楽図」 「如?事山寿図」の順です。
箱の裏は
「壬戌之秋(東坡三養)」 「幽居百道図」 「漁隠快楽図」 「如?事山寿図」の順です。
それでは「蘇軾」に関した本日の二作品を両脇にして他の二作品を中央に置いてみました。鉄斎の孫の富岡益太郎による鑑定は箱だけではかえって贋作と判断したほうが正解です。箱とともに写真付きの鑑定書がなくてはいけません。このような基本的なことを知っていないとひどい目にあうようです
作品の展示は「幽居百道図」 「漁隠快楽図」「壬戌之秋(東坡三養)」 の順です。
一日で絹本の作品を70作品も描いた記録があります。70歳代で3000点の作品があるとか・・、どこから真作が出てきてもおかしくないようですが・・。
まずはともかく絵のごとく楽しみあれ。
次に展示は「幽居百道図」 「如?事山寿図」 「壬戌之秋(東坡三養)」 の順です。
水墨画より着色画の評価が高いようですが・・。
墨がともかく「みずみずしい」作品がよいようです。
少なくても楽しめる作品には相違ないでしょう。
先週は富岡鉄斎の四作品を展示室に掛けてじっくり楽しみました。たしかに80歳後半の作品はごまかしようがない力強さがあります。その以前の作品に贋作が多いようです。この四作品以外は今後の課題としておきます。
いずれにしろ現在は非常に安くなった富岡鉄斎の作品です。今ではあらたに贋作を作ろうという金額ではないことは確かです。