季節も移り、端午の節句も近づき、そろそろ展示作品も思いつくままでなく、展示替えしようかと思っています。
さて本日投稿の画家は田中一村です。田中一村は現在の人気画家の一人ですが、米邨時代の彼の画風を理解し、評価している人は少ないでしょう。奄美大島時代の田中一村の作品は個性的で新たな挑戦として見事な作品ですが、それ以前の彼の作品を知る人は多くはないようです。。
ただ本作品のような南画風の作品は「なんでも鑑定団」にも出品されご存知の方も多いかと思います。
乙丑初夏 伝田中一村(米邨)筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:横450*縦1970 画サイズ:横340*縦1360
賛に「乙丑(きのとうし、いっちゅう)初夏」と記されており、大正14年(1925年)、田中一村が16歳頃の作と推察されます。
あきらかに近代中国絵画の巨匠と称される呉昌碩の影響を受けた画風です。
田中一村と呉昌碩の関係はよく知られていますので、本ブログで詳細の説明は割愛しますが、田中一村は呉昌碩から大きな影響受けています。その後の奄美大島での作品の源流はそこにあるといっても過言ではないでしょう。
奄美大島で描かれた作品の多くは美術館に所蔵されており、入手は困難であり、またその人気からとても高価な作品群です。「米邨」時代の画についても多くが消失しており、このような状態の良い作品は稀なようです。むろん贋作も多いので本作品はあくまでも参考作品ですので、「伝」としております。
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田中一村:(たなか いっそん)1908年7月22日 ~ 1977年9月11日)は、日本画家である。奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた。本名は田中孝。
補足
1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。
1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。その後、1953年・1954年に第9回・第10回日展、1957年・1958年に第42回・第43回院展に出品するが落選、中央画壇への絶望を深める。
1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。墓所は満福寺。
没後に南日本新聞やNHKの『日曜美術館』の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある。
「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。生誕100年にあたる2008年には、奈良県高市郡明日香村の奈良県立万葉文化館[1](館長・中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催された。毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。
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呉昌碩の作品と並べてみました。
両者ともども入手困難な画家の作品ですので、あくまでも「伝」ですが、なんとなく一村への呉昌碩の影響を納得できます。
さらに斉白石の作品とも並べてみました。
こういう遊びも趣味には許される楽しみ方であろうと思っています。
さて本日投稿の画家は田中一村です。田中一村は現在の人気画家の一人ですが、米邨時代の彼の画風を理解し、評価している人は少ないでしょう。奄美大島時代の田中一村の作品は個性的で新たな挑戦として見事な作品ですが、それ以前の彼の作品を知る人は多くはないようです。。
ただ本作品のような南画風の作品は「なんでも鑑定団」にも出品されご存知の方も多いかと思います。
乙丑初夏 伝田中一村(米邨)筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:横450*縦1970 画サイズ:横340*縦1360
賛に「乙丑(きのとうし、いっちゅう)初夏」と記されており、大正14年(1925年)、田中一村が16歳頃の作と推察されます。
あきらかに近代中国絵画の巨匠と称される呉昌碩の影響を受けた画風です。
田中一村と呉昌碩の関係はよく知られていますので、本ブログで詳細の説明は割愛しますが、田中一村は呉昌碩から大きな影響受けています。その後の奄美大島での作品の源流はそこにあるといっても過言ではないでしょう。
奄美大島で描かれた作品の多くは美術館に所蔵されており、入手は困難であり、またその人気からとても高価な作品群です。「米邨」時代の画についても多くが消失しており、このような状態の良い作品は稀なようです。むろん贋作も多いので本作品はあくまでも参考作品ですので、「伝」としております。
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田中一村:(たなか いっそん)1908年7月22日 ~ 1977年9月11日)は、日本画家である。奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた。本名は田中孝。
補足
1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。
1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。その後、1953年・1954年に第9回・第10回日展、1957年・1958年に第42回・第43回院展に出品するが落選、中央画壇への絶望を深める。
1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。墓所は満福寺。
没後に南日本新聞やNHKの『日曜美術館』の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある。
「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。生誕100年にあたる2008年には、奈良県高市郡明日香村の奈良県立万葉文化館[1](館長・中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催された。毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。
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呉昌碩の作品と並べてみました。
両者ともども入手困難な画家の作品ですので、あくまでも「伝」ですが、なんとなく一村への呉昌碩の影響を納得できます。
さらに斉白石の作品とも並べてみました。
こういう遊びも趣味には許される楽しみ方であろうと思っています。