渡辺省亭についてはすでに9作品目の投稿となりますので、説明は重複する点が多いと思います。
春秋水禽図双幅 渡辺省亭筆 その9
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1820*横640 画サイズ:縦1170*横500
渡辺省亭は柴田是真に私淑し、花鳥画に新機軸を開いていきますが、最初は菊池容斎を師としています。もともと省亭は是真に弟子入りしようとしたのですが、「菊池容斎の方がいいだろう」という是真の紹介で、容斎に入門することになったという説があります、なぜ柴田是真は菊池容斎のほうがいいだろうと判断したのでしょうか? 残念ながら詳細は不明です。
容斎のもとで計6年間学んだ後、22歳で画家として自立、同年には父と同門で莫逆の友であった渡辺光枝(良助)が没したため、渡辺家の養嗣子となり、吉川家を離れ渡辺姓を継ぐことになります。
なるほど姓が変わっていますね。小生にも経験がありますが、姓が変わると結構たいへんです。夫婦別姓に私は賛成ですが、この点も政策は時代遅れのようです。女性活用とは口先ばかりで実態がよく解っていないのが政治家のようです。保育所問題然り・・。
明治8年(1875年)美術工芸品輸出業者の松尾儀助に才能を見出され、輸出用陶器などを扱っていた日本最初の貿易会社である起立工商会社に就職します。
濤川惣助が手掛ける七宝工芸図案を描き、この仕事を通じて西洋人受けする洒脱なセンスが磨かれていきます。この「西洋人受けする洒脱なセンス」が最終的に渡辺省亭の絵の枠を決めてしまったように思います。本作品もその一例のように思われますね。
明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会で金髹図案で花紋賞牌(三等賞)を受賞。更に翌年のパリ万国博覧会で芸図案が銅牌を獲得。これを機にパリに派遣されることになります。これは日本画家としては初めての洋行留学でした。
パリ滞在期間は2年強から3年間と正確には不明ですが、この時期省亭は印象派周辺のサークルに参加しています。省亭がエドガー・ドガに鳥の絵をあげたという逸話があります。留学した渡辺省亭は留学というより、日本画の紹介役となってしまったように思います。
省亭が万博に出品した絵を、エドゥアール・マネの弟子のイタリア人画家が描法の研究のため購入したと伝わっていたり、他にも印象派のパトロンで出版業者だったシャルパンティエが、1879年4月に創刊した『ラ・ヴィ・モデルヌ』という挿絵入り美術雑誌には、美術協力者の中に山本芳翠と共に省亭も記載されています。
省亭は彼らとの交流の中で、和洋を合わせた色彩が豊かで、新鮮、洒脱な作風を切り開いたと見られます。ただし、日本的な危うさ、ひ弱さが絵の中に混在している点は否定できません。
明治17年(1885年)からはフェノロサらが主催した鑑画会に参加、明治19年(1887年)の第二回鑑画会大会に出品した「月夜の杉」で二等褒状。これらの作品は所在不明で、図様すら分っていません。
しかし、明治26年(1893年)のシカゴ万博博覧会に出品した代表作「雪中群鶏図」を最後に、殆どの展覧会へ出品しなくなります。その理由として、博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもったためと説明されています。ただし、明治37年のセントルイス万国博覧会には出品し、金牌を受賞したとする資料もあります。
殆どの展覧会へ出品しなくなった点は思い上がりという一面があったかもしれません。
省亭の本分はあくまで肉筆主体の日本画家でしたが、他方で木版画、口絵、挿絵にもその才能を示し、その分野で評判が高かったようです。
師・容斎とは対照的に弟子を取らず(水野年方が1,2年入門しただけという)、親友と呼べる画家は平福穂庵(平福百穂の父)と菅原白龍くらいで、一匹狼の立場を貫いています。これは容斎が、他人の悪口ばかり言いあう画家と交際するよりも一芸に秀でた者と交われ、との教えを守ったためとする説もありますが、単に省亭の性向によるものにも見えます。
言いたいことは歯に衣着せずに言え、大正2年(1913年)第7回文展に出品された竹内栖鳳、横山大観、川合玉堂らの作品を、技法・技術面から画家の不勉強と指摘しています。
このような性格を柴田是真は見抜いていたようにも思われます。よって基本的なことの指導の厳しい菊池容斎に入門させたようにも推察されますが・・。
本作品への評価はふたつに分かれそうです。どうも絵が堅い・・、版画のような感じすると評価される方と好きだという方と・・。小生の感想は「洋間には合う絵ですが、どこか日本の居間にあそぐわない絵」・・。
海外受けする作品に没頭していて、本来日本が目指すべき新境地は開けなかった点では大観や栖鳳には劣るのでしょう。
ただ渡辺省亭の双幅の作品は珍しいので貴重な作品には相違ないですね。
作品の作品の保存状態も良くようです。洋間に掛け軸を飾るスペースがあったら、ぴったりの作品でしょう。
春秋水禽図双幅 渡辺省亭筆 その9
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1820*横640 画サイズ:縦1170*横500
渡辺省亭は柴田是真に私淑し、花鳥画に新機軸を開いていきますが、最初は菊池容斎を師としています。もともと省亭は是真に弟子入りしようとしたのですが、「菊池容斎の方がいいだろう」という是真の紹介で、容斎に入門することになったという説があります、なぜ柴田是真は菊池容斎のほうがいいだろうと判断したのでしょうか? 残念ながら詳細は不明です。
容斎のもとで計6年間学んだ後、22歳で画家として自立、同年には父と同門で莫逆の友であった渡辺光枝(良助)が没したため、渡辺家の養嗣子となり、吉川家を離れ渡辺姓を継ぐことになります。
なるほど姓が変わっていますね。小生にも経験がありますが、姓が変わると結構たいへんです。夫婦別姓に私は賛成ですが、この点も政策は時代遅れのようです。女性活用とは口先ばかりで実態がよく解っていないのが政治家のようです。保育所問題然り・・。
明治8年(1875年)美術工芸品輸出業者の松尾儀助に才能を見出され、輸出用陶器などを扱っていた日本最初の貿易会社である起立工商会社に就職します。
濤川惣助が手掛ける七宝工芸図案を描き、この仕事を通じて西洋人受けする洒脱なセンスが磨かれていきます。この「西洋人受けする洒脱なセンス」が最終的に渡辺省亭の絵の枠を決めてしまったように思います。本作品もその一例のように思われますね。
明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会で金髹図案で花紋賞牌(三等賞)を受賞。更に翌年のパリ万国博覧会で芸図案が銅牌を獲得。これを機にパリに派遣されることになります。これは日本画家としては初めての洋行留学でした。
パリ滞在期間は2年強から3年間と正確には不明ですが、この時期省亭は印象派周辺のサークルに参加しています。省亭がエドガー・ドガに鳥の絵をあげたという逸話があります。留学した渡辺省亭は留学というより、日本画の紹介役となってしまったように思います。
省亭が万博に出品した絵を、エドゥアール・マネの弟子のイタリア人画家が描法の研究のため購入したと伝わっていたり、他にも印象派のパトロンで出版業者だったシャルパンティエが、1879年4月に創刊した『ラ・ヴィ・モデルヌ』という挿絵入り美術雑誌には、美術協力者の中に山本芳翠と共に省亭も記載されています。
省亭は彼らとの交流の中で、和洋を合わせた色彩が豊かで、新鮮、洒脱な作風を切り開いたと見られます。ただし、日本的な危うさ、ひ弱さが絵の中に混在している点は否定できません。
明治17年(1885年)からはフェノロサらが主催した鑑画会に参加、明治19年(1887年)の第二回鑑画会大会に出品した「月夜の杉」で二等褒状。これらの作品は所在不明で、図様すら分っていません。
しかし、明治26年(1893年)のシカゴ万博博覧会に出品した代表作「雪中群鶏図」を最後に、殆どの展覧会へ出品しなくなります。その理由として、博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもったためと説明されています。ただし、明治37年のセントルイス万国博覧会には出品し、金牌を受賞したとする資料もあります。
殆どの展覧会へ出品しなくなった点は思い上がりという一面があったかもしれません。
省亭の本分はあくまで肉筆主体の日本画家でしたが、他方で木版画、口絵、挿絵にもその才能を示し、その分野で評判が高かったようです。
師・容斎とは対照的に弟子を取らず(水野年方が1,2年入門しただけという)、親友と呼べる画家は平福穂庵(平福百穂の父)と菅原白龍くらいで、一匹狼の立場を貫いています。これは容斎が、他人の悪口ばかり言いあう画家と交際するよりも一芸に秀でた者と交われ、との教えを守ったためとする説もありますが、単に省亭の性向によるものにも見えます。
言いたいことは歯に衣着せずに言え、大正2年(1913年)第7回文展に出品された竹内栖鳳、横山大観、川合玉堂らの作品を、技法・技術面から画家の不勉強と指摘しています。
このような性格を柴田是真は見抜いていたようにも思われます。よって基本的なことの指導の厳しい菊池容斎に入門させたようにも推察されますが・・。
本作品への評価はふたつに分かれそうです。どうも絵が堅い・・、版画のような感じすると評価される方と好きだという方と・・。小生の感想は「洋間には合う絵ですが、どこか日本の居間にあそぐわない絵」・・。
海外受けする作品に没頭していて、本来日本が目指すべき新境地は開けなかった点では大観や栖鳳には劣るのでしょう。
ただ渡辺省亭の双幅の作品は珍しいので貴重な作品には相違ないですね。
作品の作品の保存状態も良くようです。洋間に掛け軸を飾るスペースがあったら、ぴったりの作品でしょう。