先週末は久方ぶりに植木屋さんが来て松の手入れをしていました。二階の窓からのぞいてみると、否、のぞかれた? ヘルメットと安全ベルトはないのかよ~
前から気にしていた車庫裏に放置されている石灯籠・・・。植木屋さんに手伝ってもらい復元を検討することにしていました。
一組は健全な状態で遺っていますが、他の二組は地震で倒壊し、元に戻すと危ないということで二組がそのまま放置されていました。
格段、石燈籠に興味があるわけではありませんが、このまま朽ちさせるには忍びないと前から考えていました。少しでも倒壊を防ぐには接着をするといいようです。
一組はもとあった位置にとりあえず運んでもらいました。小生だけでは「色男、金と力はない」のでなんともならなくて困っていましたが・・。
しかし力自慢が四人揃っても一番上の石が上がらないとのこと。後日、三脚でやっとこを組んでチェーンブロックであげるとのこと。
もう一組については植木屋さんが「これは練ですよ。」といって組み立ててくれません。「練」とは一般にコンクリートや樹脂で練って作った偽造品を指しますが、小生は「いや、これは練ではない。」と主張し、再度、皆で実物を検証したところ石できちんと作られた作と断定。
その日には組み立てられず、月曜日に組み立ててみることにしました。火曜日の朝に小生が見てみることに相成りました。
火曜日に朝にちょっと見てみると、「うむ、なかなかいいじゃない」と独り言。ただし設置する場所は未定。
元に位置に設置した燈籠も最上段まで組み立てられたようです。やはり古いものはいいですね。
最近つくられたものは味がない。古いものの味を理解する人が少なくなりましたね。
まだ茶室は完成度が70%くらいですが、その完成していないひとつが庭からのアプローチです。さてこの燈籠がその一部につかえるかどうか・・。
さらに庭から家内が探してきたこの石・・。母屋の手洗いに使っていたらしい。これを蹲に使えないだろうか?
蹲はかがんで手を洗うものですが、それでは不便ですからなにか工夫が必要ですね。水道は引かないほうが自然でしょうというのは家内と意見が一致しました。一応計画では水道がひけるようにはしてありますが・・。ま~、アプローチは家内の意見を尊重しましょう。
ふと見上げると楓に種が付いてきていました。子供の頃、よく飛ばして遊んだものです。今でも遊び心は変わらないままのようです。大人になっての遊びはお金と時間と労力と、そして知恵を浪費するものらしい。
楓の種を息子に飛ばしてみせたら大喜びでした。飽きたら遊びが終わるのは子供も大人も同じこと、損得はまったく考えないのも同じこと。損得はまったく考えないというのが肝要なようです 人生は短い、遊べよ、遊べ。
ところで息子は祖母と庭にある草花に水をやるのが日課のようです。岩松は生長が遅いので気がかりなようです。
さて、本日は寺崎廣業の晩年作という席画程度の美人画です。
寺崎廣業は活躍当時は横山大観と並び称せられた画家ですが、近年では大衆画家と言われえる由縁はその多作ゆえでしょう。
横山大観は描いた作品をすべてリストにしてあったそうですが、寺崎廣業は求めに応じてすぐに描く席画のような作品が多いことが現在人気を落としている理由のひとつでもあるようです。当時に人気ゆえ贋作の存在が多いことも人気のないこと理由のひとつのようです。
本日の作品はそのような席画ですが、美人画で著名になった寺崎廣業には美人画の席画は意外に少ないようです。
元禄美人図 寺崎廣業筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 鳥谷播山鑑定箱入
全体サイズ:縦2220*横450 画サイズ:縦1260*横430
押印されている印章は本ブログで紹介した「黄初平」らの作品と同一印章です。「三本廣業」の作であり、鳥谷播山の鑑定には「昭和庚辰(かのえたつ、こうしん)新春」とあり、1940年(昭和15年)鳥谷播山が65歳の鑑定です。
箱の表には寺崎廣業が晩年の作と記されています。門下生であった鳥谷播山がそのように記するのであろうから間違いはないのでしょう。ただし晩年といっても54歳で亡くなっています。
本ブログに寺崎廣業の美人画を数点投稿していますが、なかなかこれぞという作品は入手できません。やはり美人との縁は小生には難しい。
いずれにしても人気が出始めた頃には、多くの美人画を描いた寺崎廣業ですが、後期にはほとんど美人画を描いていないので、このような晩年の美人画は資料として貴重かもしれません。
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寺崎廣業:慶応2年生まれ、大正8年没、享年54歳。秋田藩の家老の家に生まれる。幼名は忠太郎、字は徳郷。初め秀齋、後に宗山、騰竜軒・天籟散人等と号した。初め郷土の小室秀俊に狩野派を学び、のちに上京して刻苦精励、諸派を摂取して晩年には、倪雲林、王蒙に私淑し、新南画の開拓に努めた。東京美術学校教授、文展開設以来審査員、帝室技芸員に任ぜられ東都画壇の重鎮となり、交友広くその生活は頗る華やかであった。
鳥谷幡山(とや-ばんざん):(1876-1966)青森県出身。明治-昭和時代の日本画家。明治9年1月18日生まれ。名は又蔵、別号に宗山。寺崎広業の下で野田九浦と学び、また橋本雅邦の指導を受ける。広業門下の青年画家を中心に美術研精会を結成し、主任幹事として活躍。東美校中退。明治35年美術研精会の創立にくわわり、のち独立絵画会主幹をつとめる。十和田湖をこのんでかいた。作品に「十和田湖大観」など。昭和41年(1966)歿、90才。
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人間の晩年は、草に始まり、土を愛し、石で終わるというジンクスがあるとか。植木(盆栽?)→陶磁器(壷?)→庭石(燈籠?)・・・ やはり、少しは美人に興味を持っていたほうが年をとらないかしれません。
前から気にしていた車庫裏に放置されている石灯籠・・・。植木屋さんに手伝ってもらい復元を検討することにしていました。
一組は健全な状態で遺っていますが、他の二組は地震で倒壊し、元に戻すと危ないということで二組がそのまま放置されていました。
格段、石燈籠に興味があるわけではありませんが、このまま朽ちさせるには忍びないと前から考えていました。少しでも倒壊を防ぐには接着をするといいようです。
一組はもとあった位置にとりあえず運んでもらいました。小生だけでは「色男、金と力はない」のでなんともならなくて困っていましたが・・。
しかし力自慢が四人揃っても一番上の石が上がらないとのこと。後日、三脚でやっとこを組んでチェーンブロックであげるとのこと。
もう一組については植木屋さんが「これは練ですよ。」といって組み立ててくれません。「練」とは一般にコンクリートや樹脂で練って作った偽造品を指しますが、小生は「いや、これは練ではない。」と主張し、再度、皆で実物を検証したところ石できちんと作られた作と断定。
その日には組み立てられず、月曜日に組み立ててみることにしました。火曜日の朝に小生が見てみることに相成りました。
火曜日に朝にちょっと見てみると、「うむ、なかなかいいじゃない」と独り言。ただし設置する場所は未定。
元に位置に設置した燈籠も最上段まで組み立てられたようです。やはり古いものはいいですね。
最近つくられたものは味がない。古いものの味を理解する人が少なくなりましたね。
まだ茶室は完成度が70%くらいですが、その完成していないひとつが庭からのアプローチです。さてこの燈籠がその一部につかえるかどうか・・。
さらに庭から家内が探してきたこの石・・。母屋の手洗いに使っていたらしい。これを蹲に使えないだろうか?
蹲はかがんで手を洗うものですが、それでは不便ですからなにか工夫が必要ですね。水道は引かないほうが自然でしょうというのは家内と意見が一致しました。一応計画では水道がひけるようにはしてありますが・・。ま~、アプローチは家内の意見を尊重しましょう。
ふと見上げると楓に種が付いてきていました。子供の頃、よく飛ばして遊んだものです。今でも遊び心は変わらないままのようです。大人になっての遊びはお金と時間と労力と、そして知恵を浪費するものらしい。
楓の種を息子に飛ばしてみせたら大喜びでした。飽きたら遊びが終わるのは子供も大人も同じこと、損得はまったく考えないのも同じこと。損得はまったく考えないというのが肝要なようです 人生は短い、遊べよ、遊べ。
ところで息子は祖母と庭にある草花に水をやるのが日課のようです。岩松は生長が遅いので気がかりなようです。
さて、本日は寺崎廣業の晩年作という席画程度の美人画です。
寺崎廣業は活躍当時は横山大観と並び称せられた画家ですが、近年では大衆画家と言われえる由縁はその多作ゆえでしょう。
横山大観は描いた作品をすべてリストにしてあったそうですが、寺崎廣業は求めに応じてすぐに描く席画のような作品が多いことが現在人気を落としている理由のひとつでもあるようです。当時に人気ゆえ贋作の存在が多いことも人気のないこと理由のひとつのようです。
本日の作品はそのような席画ですが、美人画で著名になった寺崎廣業には美人画の席画は意外に少ないようです。
元禄美人図 寺崎廣業筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 鳥谷播山鑑定箱入
全体サイズ:縦2220*横450 画サイズ:縦1260*横430
押印されている印章は本ブログで紹介した「黄初平」らの作品と同一印章です。「三本廣業」の作であり、鳥谷播山の鑑定には「昭和庚辰(かのえたつ、こうしん)新春」とあり、1940年(昭和15年)鳥谷播山が65歳の鑑定です。
箱の表には寺崎廣業が晩年の作と記されています。門下生であった鳥谷播山がそのように記するのであろうから間違いはないのでしょう。ただし晩年といっても54歳で亡くなっています。
本ブログに寺崎廣業の美人画を数点投稿していますが、なかなかこれぞという作品は入手できません。やはり美人との縁は小生には難しい。
いずれにしても人気が出始めた頃には、多くの美人画を描いた寺崎廣業ですが、後期にはほとんど美人画を描いていないので、このような晩年の美人画は資料として貴重かもしれません。
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寺崎廣業:慶応2年生まれ、大正8年没、享年54歳。秋田藩の家老の家に生まれる。幼名は忠太郎、字は徳郷。初め秀齋、後に宗山、騰竜軒・天籟散人等と号した。初め郷土の小室秀俊に狩野派を学び、のちに上京して刻苦精励、諸派を摂取して晩年には、倪雲林、王蒙に私淑し、新南画の開拓に努めた。東京美術学校教授、文展開設以来審査員、帝室技芸員に任ぜられ東都画壇の重鎮となり、交友広くその生活は頗る華やかであった。
鳥谷幡山(とや-ばんざん):(1876-1966)青森県出身。明治-昭和時代の日本画家。明治9年1月18日生まれ。名は又蔵、別号に宗山。寺崎広業の下で野田九浦と学び、また橋本雅邦の指導を受ける。広業門下の青年画家を中心に美術研精会を結成し、主任幹事として活躍。東美校中退。明治35年美術研精会の創立にくわわり、のち独立絵画会主幹をつとめる。十和田湖をこのんでかいた。作品に「十和田湖大観」など。昭和41年(1966)歿、90才。
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人間の晩年は、草に始まり、土を愛し、石で終わるというジンクスがあるとか。植木(盆栽?)→陶磁器(壷?)→庭石(燈籠?)・・・ やはり、少しは美人に興味を持っていたほうが年をとらないかしれません。