昨日は名古屋へ挨拶回り、帰りに時間の許す限り元同僚らと一献、帰宅したら息子は熟睡していました。今朝は小生のパソコンの脇で「抱っこ」・・、ここ数日帰宅が遅いので甘えているようです。
先日、祖父母が畑で採ってきた夏蜜柑を会社で配りました。ピーナッツ、芋、えんどう豆などに続いて、自宅では消費しきれないものは会社の同僚でお好きな方に配っています。
本日はずいぶん前に入手した浜田庄司の定番のお皿です。定番にはそれなりの創意工夫があります。
浜田庄司は赤粉を低温で焼くなど改良を重ね、「柿釉」に生み出します。さらに柿釉に別の材料を加え、多彩な色を生み出しました。その材料のひとつが裏山のクヌギの木ですが、燃やして出来た灰を水に沈ませアクを抜き、浜田庄司の作ったレシピに基づいて柿釉に混ぜると、全く別の釉薬が生まれます。陶工はおのれの独自の釉薬を持つものです。
柿釉抜繪皿 浜田庄司作 その43(整理番号)
共箱 花押サイン入
直径272*高さ50*高台径178
本作品は蠟で描いたものに釉薬を掛けて焼成し、蠟が溶けて釉薬が掛からなかった部分が絵になるのですが、これはポピュラーは技法です。ロウケツ染めの手法を取り入れた蝋抜などと称される技法です。
蠟が固まるまでの間の瞬時に描きますので、慣れた筆遣いが必要です。
東京高等工業学校(現・東京工業大学)の窯業科に入学し、そこで友になった河井寛次郎は卒業して現在の京都市陶磁器試験場に入所しましたが、浜田庄司はその後の二年間を板谷波山に学び、黒田清輝が設立した白馬研究所に通ってデッサンを修練しています。
美術と陶器の授業を受け持っていたのが板谷波山で、尊敬していた波山のところへ行き、「日曜の度にお手伝いに上がっても良いでしょうか? 学校以外に教えていただきたいのです」と濱田はお願いしたたそうです。
波山宅の棚に益子焼の山水絵の土瓶があり、興味をもった濱田は大正9年はじめて益子を訪ねました。益子は東京に近く、いつでも行きたいときに行けるし、そのときに「ここは住むのに理想的なところだ」と考えたようです。
このころどこの家庭にもみられたこの土瓶、生涯、益子の土瓶に山水を描きつづけた「皆川マス女」は有名な絵付師でした。絵に使われた筆は茶の犬の襟髪にある固い毛を鋏で切って、無駄毛をとったものを糸で巻いて縛り、細竹の柄になる先を四つに割って開いて、毛を押さえて糸で巻いて自分で作ったそうです。一日に千個も描くから筆の線に力があり、少なからず絵付けには「皆川マス女」の影響を受けているのでしょう。沖縄の絵付もむろん影響を受けています。
ただ喜寿記念に刊行した『濱田庄司七十七碗譜』の茶碗作りの一文の冒頭で、濱田庄司(1894~1978)はこのように回顧しています。「師匠はない方がいい。ぼくも師匠はない。自分のやりたいことがやれる。それが個性だ。河井寛次郎、バーナード・リーチらと友達になって今の自分になった。師匠に三年ついて習えば、師匠から脱皮するには六年はかかる」と・・。
大正9年、京都の市立陶磁器試験場に久々に寛次郎を訪ね、そのときには河井は相変わらず金ボタンの学生服をきて釉の濃度の測定をしていたそうです。「一緒にやろう!」と、河井にいわれて試験場に就職することを決意したとのこと。このとき、濱田22歳。
寛次郎と素地・釉薬・絵具・窯・焼成法などの研究に従事するなど恵まれ、釉薬の研究に励んで合成呉須の研究をはじめ、青磁、辰砂、天目など約一万種の釉薬の調合を試みています。
轆轤は付属伝習所轆轤科の生徒であった近藤悠三(当時・雄三)に手もみから手ほどきを受け、このころ五条坂付近には諏訪蘇山や宇野仁松という青磁や辰砂の名手がおり、奈良県大和安堵村に富本憲吉を訪ねたりして多くの先輩陶芸家と交友がありました。
バーナードリーチとのイギリスでのスリップウエアの製作を経て、大正13年、濱田は益子に入りましたが、田舎の益子ではよそ者扱いされて部屋も貸してもらえず、旅館暮らしで「共産党員ではないか、スパイではないか」と怖れられ、警察や役場の人たちに監視された日が6年間続くことになります。
そのためもあって、浜田は沖縄で製作を行ないました。濱田にとって沖縄壺屋での陶工の仕事振りには学ぶことが多く、仕事場の前に拡がる砂糖黍畑、その見渡す限りの光景に興味を覚えて、ある模様を生みすこととなります。子供の頃から魯山人同様、画家を夢見ていた浜田庄司のトレードマークとなった「糖黍文」である本作品の文様です。
リーチがあるとき、「二尺の大皿に釉の流しかけをするのをみたい」と言ってきたので、浜田庄司は柄杓に半分ほど釉をすくって、皿の向こうから真っ直ぐな線を引くために、縁から一尺ほどところから流しはじめ、作為を持たずに手許まで一気呵成に柄杓を引いた。横に流すのは難しいので、皿を九十度回転させ、もう一度おなじように釉を掛け流した。このような大皿に流し掛けで装飾し施釉するのに実際は十五秒とかからない。
「早すぎるのではないか。いつも満足のいく出来栄えか。装飾に十五秒しかかからないのにどうして高価なのか」と人に言われたので、浜田庄司は「皿を作るには六十年と十五秒もかかっているのです」と答えた。リーチも「うまく答えた」と手を打って喜んだという逸話は有名な話です。
益子周辺で産出される赤粉(芦沼石)は含有鉄岩で、益子独特の柿釉となり、土灰を加えると黒釉などの鉄釉となります。この独特の柿釉薬と独特の焼成が浜田庄司の作品の味わいです。
浜田庄司は作家と呼ばれること好まず、自らは工人と称して作品には銘を入れていません。河井寛次郎には銘を刻した作品はありますが、浜田庄司には皆無です。それゆえ浜田庄司の作品に共箱は不可欠な条件になります。ご子息の浜田晋作の箱でもかまいませんが、価値はある程度下がることになります。共箱がないとほとんど価値がないものとされ、それゆえ共箱の偽物がかなりの数出回っており、その数は真作を上回っているかもしれません。
本作品のように花押まである作品は珍しいものです。本作品のような定番の抜絵の作品に花押があるのはよほど巧くできたという思いからかもしれません。
浜田庄司は昭和43(1968年)年5月に故郷の川崎市ではじめて作品展を開催しましたが、事前に作品展の準備のため集めた作品を濱田が見て、「これは私の作ったものではない」というものが何点かあり、しかも、集められた自分の作品にA・B・Cのランクをつけたそうです。
「Aは必ず展示してください。BはAで作品が埋まらなかったら出して、Cは出さないでください」と・・・。
浜田庄司の作品には贋作はむろんのこと、でき不出来が多く存在することを念頭に置いておく必要があります。
でき不出来の判断は? それは感性です。仕事も趣味も最後は感性が磨かれているかどうかの差です。
本日は採用面接、人を見る感性はどうも苦手・・。
先日、祖父母が畑で採ってきた夏蜜柑を会社で配りました。ピーナッツ、芋、えんどう豆などに続いて、自宅では消費しきれないものは会社の同僚でお好きな方に配っています。
本日はずいぶん前に入手した浜田庄司の定番のお皿です。定番にはそれなりの創意工夫があります。
浜田庄司は赤粉を低温で焼くなど改良を重ね、「柿釉」に生み出します。さらに柿釉に別の材料を加え、多彩な色を生み出しました。その材料のひとつが裏山のクヌギの木ですが、燃やして出来た灰を水に沈ませアクを抜き、浜田庄司の作ったレシピに基づいて柿釉に混ぜると、全く別の釉薬が生まれます。陶工はおのれの独自の釉薬を持つものです。
柿釉抜繪皿 浜田庄司作 その43(整理番号)
共箱 花押サイン入
直径272*高さ50*高台径178
本作品は蠟で描いたものに釉薬を掛けて焼成し、蠟が溶けて釉薬が掛からなかった部分が絵になるのですが、これはポピュラーは技法です。ロウケツ染めの手法を取り入れた蝋抜などと称される技法です。
蠟が固まるまでの間の瞬時に描きますので、慣れた筆遣いが必要です。
東京高等工業学校(現・東京工業大学)の窯業科に入学し、そこで友になった河井寛次郎は卒業して現在の京都市陶磁器試験場に入所しましたが、浜田庄司はその後の二年間を板谷波山に学び、黒田清輝が設立した白馬研究所に通ってデッサンを修練しています。
美術と陶器の授業を受け持っていたのが板谷波山で、尊敬していた波山のところへ行き、「日曜の度にお手伝いに上がっても良いでしょうか? 学校以外に教えていただきたいのです」と濱田はお願いしたたそうです。
波山宅の棚に益子焼の山水絵の土瓶があり、興味をもった濱田は大正9年はじめて益子を訪ねました。益子は東京に近く、いつでも行きたいときに行けるし、そのときに「ここは住むのに理想的なところだ」と考えたようです。
このころどこの家庭にもみられたこの土瓶、生涯、益子の土瓶に山水を描きつづけた「皆川マス女」は有名な絵付師でした。絵に使われた筆は茶の犬の襟髪にある固い毛を鋏で切って、無駄毛をとったものを糸で巻いて縛り、細竹の柄になる先を四つに割って開いて、毛を押さえて糸で巻いて自分で作ったそうです。一日に千個も描くから筆の線に力があり、少なからず絵付けには「皆川マス女」の影響を受けているのでしょう。沖縄の絵付もむろん影響を受けています。
ただ喜寿記念に刊行した『濱田庄司七十七碗譜』の茶碗作りの一文の冒頭で、濱田庄司(1894~1978)はこのように回顧しています。「師匠はない方がいい。ぼくも師匠はない。自分のやりたいことがやれる。それが個性だ。河井寛次郎、バーナード・リーチらと友達になって今の自分になった。師匠に三年ついて習えば、師匠から脱皮するには六年はかかる」と・・。
大正9年、京都の市立陶磁器試験場に久々に寛次郎を訪ね、そのときには河井は相変わらず金ボタンの学生服をきて釉の濃度の測定をしていたそうです。「一緒にやろう!」と、河井にいわれて試験場に就職することを決意したとのこと。このとき、濱田22歳。
寛次郎と素地・釉薬・絵具・窯・焼成法などの研究に従事するなど恵まれ、釉薬の研究に励んで合成呉須の研究をはじめ、青磁、辰砂、天目など約一万種の釉薬の調合を試みています。
轆轤は付属伝習所轆轤科の生徒であった近藤悠三(当時・雄三)に手もみから手ほどきを受け、このころ五条坂付近には諏訪蘇山や宇野仁松という青磁や辰砂の名手がおり、奈良県大和安堵村に富本憲吉を訪ねたりして多くの先輩陶芸家と交友がありました。
バーナードリーチとのイギリスでのスリップウエアの製作を経て、大正13年、濱田は益子に入りましたが、田舎の益子ではよそ者扱いされて部屋も貸してもらえず、旅館暮らしで「共産党員ではないか、スパイではないか」と怖れられ、警察や役場の人たちに監視された日が6年間続くことになります。
そのためもあって、浜田は沖縄で製作を行ないました。濱田にとって沖縄壺屋での陶工の仕事振りには学ぶことが多く、仕事場の前に拡がる砂糖黍畑、その見渡す限りの光景に興味を覚えて、ある模様を生みすこととなります。子供の頃から魯山人同様、画家を夢見ていた浜田庄司のトレードマークとなった「糖黍文」である本作品の文様です。
リーチがあるとき、「二尺の大皿に釉の流しかけをするのをみたい」と言ってきたので、浜田庄司は柄杓に半分ほど釉をすくって、皿の向こうから真っ直ぐな線を引くために、縁から一尺ほどところから流しはじめ、作為を持たずに手許まで一気呵成に柄杓を引いた。横に流すのは難しいので、皿を九十度回転させ、もう一度おなじように釉を掛け流した。このような大皿に流し掛けで装飾し施釉するのに実際は十五秒とかからない。
「早すぎるのではないか。いつも満足のいく出来栄えか。装飾に十五秒しかかからないのにどうして高価なのか」と人に言われたので、浜田庄司は「皿を作るには六十年と十五秒もかかっているのです」と答えた。リーチも「うまく答えた」と手を打って喜んだという逸話は有名な話です。
益子周辺で産出される赤粉(芦沼石)は含有鉄岩で、益子独特の柿釉となり、土灰を加えると黒釉などの鉄釉となります。この独特の柿釉薬と独特の焼成が浜田庄司の作品の味わいです。
浜田庄司は作家と呼ばれること好まず、自らは工人と称して作品には銘を入れていません。河井寛次郎には銘を刻した作品はありますが、浜田庄司には皆無です。それゆえ浜田庄司の作品に共箱は不可欠な条件になります。ご子息の浜田晋作の箱でもかまいませんが、価値はある程度下がることになります。共箱がないとほとんど価値がないものとされ、それゆえ共箱の偽物がかなりの数出回っており、その数は真作を上回っているかもしれません。
本作品のように花押まである作品は珍しいものです。本作品のような定番の抜絵の作品に花押があるのはよほど巧くできたという思いからかもしれません。
浜田庄司は昭和43(1968年)年5月に故郷の川崎市ではじめて作品展を開催しましたが、事前に作品展の準備のため集めた作品を濱田が見て、「これは私の作ったものではない」というものが何点かあり、しかも、集められた自分の作品にA・B・Cのランクをつけたそうです。
「Aは必ず展示してください。BはAで作品が埋まらなかったら出して、Cは出さないでください」と・・・。
浜田庄司の作品には贋作はむろんのこと、でき不出来が多く存在することを念頭に置いておく必要があります。
でき不出来の判断は? それは感性です。仕事も趣味も最後は感性が磨かれているかどうかの差です。
本日は採用面接、人を見る感性はどうも苦手・・。