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柳江山水図 山本梅逸筆 その2

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先週末には息子と家内とで母を訪ねてきました。息子は写真を一生懸命に母に説明していました。ボケとツッコミのチン問答・・・・



そして車椅子を押して部屋まで・・。




名古屋の南画を描いた画家というと中林竹洞、竹渓父子、そして山本梅逸が著名です。ただいずれも武士であっって生計が安定していたため、本来の文人が極める境地とは違うものとして評価されている面もあります。

本日は山本梅逸の作品の紹介となります。

柳江山水図 伝山本梅逸筆 その2
絹本水墨軸装 軸先木製細工 二重箱 
全体サイズ:横510*縦1800 画サイズ:横356*縦1037
 


落款は「梅逸亮写 押印」とあり、印章は「親亮之印」と「字明卿」の白文朱方印の累印が押印されています。

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山本梅逸(やまもと ばいいつ、天明3年10月20日(1783年11月14日) - 安政3年1月2日(1856年2月7日))は江戸時代後期の文人画家。名古屋の生まれで、尾張南画の代表的画家。

本名を亮、諱は親亮、字を明卿。卯年生まれに因み、通称を卯年吉(うねきち)。 画号は春園・竹厳・梅佚、のちに梅逸とした。別号に梅華道人・玉禅・天道外史・葵園・友竹艸居・白梅居など。



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名古屋天道町(現在の中区大須)で、彫刻師山本有右衛門の子として生まれる。この父は尾張藩の組同心だったとも、藩士の用人だったとも伝えられるが、記録は残っていない。父は梅逸が13歳のときに没し生活は貧窮したが、母は子どもの教育に心掛け、梅逸に和歌の手解きをしたという。


幼い時から画を好み、地元の絵師山本蘭亭に学ぶ。蘭亭は梅逸の画才を見抜き張月樵に入門させた。その後、尾張画壇のパトロンで古書画の収蔵家として知られた豪商神谷天遊(永楽屋伝右衛門)の庇護を受け、天遊に理論面での指導を受けつつ、同家に所蔵される中国古画の臨模が許された。

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本ブログでお馴染みの中林竹洞・竹渓父子とは縁の深い画家です。中林竹洞は友人で、息子の竹渓は山本梅逸を師とする時期があります。



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天遊の元で、生涯の盟友となる7歳年長の中林竹洞とも出会う。天遊に連れられ万松寺に出向いたとき王冕(元時代)の「墨梅図」を見て深く感銘したことから梅逸の号を授けられたといわれる。同じくこのとき兄弟子の竹洞は李衎(リカン)「竹石図」に感銘したことからその号を与えられたという。

享和2年(1802年)、恩人の天遊が病没すると師友の竹洞と共に京都に赴く。寺院などに伝わる明清の古書画を盛んに臨模し、明末の文人楊文聰の山水画を購入するなど書画の収集にも傾注した。

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新天地を求め上洛した二人だが、京都画壇の壁は厚く画業は停滞し、竹洞の父の危篤の報を聞いて、一旦は名古屋に帰る。天保3年(1832年)に再び京都に出て、以降画家として認められ京都の文人社会に知られるようになる。

書画会の出品も多く次第に京阪で人気の画家となり、年収が200両にもなったという。頼山陽などと交遊し煎茶にも親しみ、その茶は梅逸流と称された。弘化元年(1844年)には、煎茶会席を彩る席飾りの図案集『清娯帖』も描いている。また、名古屋の煎茶普及にも一役買っている。

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当時は人気画家で、依頼されて描いた絵が女性の下着に描いたと噂され評判を悪くしたことがあるそうですが、どうもあまりの人気の僻んで流布されてもののようです。



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日本各地に遊歴し、江戸では大窪詩仏と交流。尾張藩主の邸宅で谷文晁とともに画作を行っている。天保元年(1830年)、名古屋では藩主の命によって朝鮮から来た豹を写生している。その他にも山陽・四国・北陸にも脚を伸ばしている。京都に画家として23年留まったが安政元年(1854年)に尾張藩御用絵師格として取り立てられ、御用人支配の地位を得た。帯刀、拝謁も許され御園町(現在の名古屋市中区)に移り住んだ。享年75。法名は玉禅院天蘂梅逸居士。京都慈眼寺と伊勢山町洞仙寺(現在は千種区平和公園洞仙寺墓地)に葬られる。

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梅逸は山水画・花鳥画を得意とした。その画風は円山四条派の写実性・装飾性に影響を受け、明清の古書画の研究から模倣に陥ることなく独自の繊細で優麗な画風を築き上げ高い評価を得た。反面、描き込み過ぎで、描き殴ったような荒々しい筆致が目立つと評されることもある。

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小生は山本梅逸の作品は花鳥画よりも山水画のほうが好きです。というより山本梅逸の真骨頂は山水画だと思っています。妥協を許さぬ厳しさがその画面に表れていると思います。



山本梅逸もまた南画壇の人気画家ゆえ贋作が多い。ただ非常に書き込みが綿密な作品を描き、本作品でも書き込みが乏しいくらいです。ひとつひとつの線が厳しいという表現がぴったりする画家です。

中林父子と比して非常に真作が入手しづらい画家のようです。



本作品の表具は品の良いものとなっております。


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